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園長の日記

モノがたり ワークショップ(2月23日)

2025/01/18

20250117 モノがたりワークショップ

保育園に「演劇」の楽しさを運びにきてくださっている宮野祥子さん(桜美林大学の演劇学の先生)が、2月23日(日)に近所の海老原商店で「モノがたり」というワークショップを開きます。物語ではなく「モノがたり」。どんな内容かというと・・

かたちのある「モノ」、ない「モノ」を、参加者がもちより、そのモノについて「かたり」、一人ひとりの「かたり」を重ね合わせて、「ものがたり」をつくりだし演劇にする、ワークショップ。

・・だそうです。参加者も2月21日(金)まで募集中です(8名まで)

最後には19時ごろから、出来上がった(?)「モノがたり」の発表会を開きます。

保育園でも「エンゲキ」を楽しんでいます。興味ある方はぜひ、どうぞ。

子どもはサーファーでもあるかも!

2025/01/17

子どもはサーファーでもあります。遊んでいる姿を「ノリノリだ」という言葉で表すことがあって、調子に乗って遊んでいる時の気持ちよさは、ちょうどサーフィンを楽しんでいる感じという例えがしっくりくることもあるからです。別に私はサーフィンをやったことがあるわけではないのですが、熱中しているとか没頭しているという姿は、ちょっとサイクルが短くて、「最近の遊びは楽しそうで調子が良い」という感じの長さを表したいのです。

そう考えると、保育の中で、その子へ働きかける「波」は、まるで海岸線に打ち寄せる波のように、実際はひっきりなしにやってきているのですが、子どもは大抵はすでに波のうえに漂っており、あるいはすでに滑走中であったり、いろいろです。うまくいった!というコマ回しやけん玉は、縄跳びが跳べたとか、作りたかったものができたという達成感の一つでしょう。それらの波は、面白そう!いいこと思いついた!のような心情を引き起こして、子どもはどうするか応えていきます。

このとき体調がすぐれなかったり、心が不安定だったりすると、どんな波だろうと関わろうという気持ちになれません。元気そうに見えても、寝不足だったりすると、意欲的になれないということもあります。また家庭や親子関係などで気がかりなことがあると、そちらが気になって波乗りどころではないでしょう。気持ちが乗らないというのは、気が上がらないというのに近いのですが、遊びが面白く展開している時の気持ちよさは、テンションが上がり続けているわけではなくて、程よい調子でのびのびと過ごしている感じです。

その日その日を調子よく過ごしているというのは、野球の打率やゴルフのアベレージのようなもので(こちらもどちらもやりませんが)、子どもたちの遊びを中心とした充実感を示す指標のようなものがあれば、ほどよく打つ寄せる波のある海岸でなければならず、そこに行ったり行かなかったりできる自由も必要です。それでも、好きだからサーフィンはやめられない!そういうことが幸せな過ごし方かもしれません。

子どもたちは「探検家」であり「役者」でもあり・・

2025/01/16

赤ちゃんから年長さんまでの昨日から今日の活動報告を眺めていると、世界への関わり方と意味への気づきが、こんなに多様なんだと、改めて感じます。

そこにあるはずと体験的に理解していて、それがなくなると「どこいった?」と不思議に思える子どもたち。前はあった蕾がなくなっている花壇の変化に気づいています。

体がすっぽり入るような場所をみつけると、格好のいないいないばあ遊びが始まります。あるはずものが見えなくなって、それがまた現れると「ばあ」と、うれしいという気持ちで躍動しているよう。

あるいは、大きな音を立てて走っていく電車を追いかけて、その場から行ってしまって消えていくものには、それを惜しむかのように「ばいばい」と、手を振っています。

そこにじっととどまっているもの、いろんな方向へ動いているもの、見えたり隠れたりしているもの。身の回りの変化にも、「これはこうなる」「あれはああなる」という物事の「からくり」をいろいろと理解していっていて、「それでいいんだ」と確認しながら遊んでいるように見えます。

だから、その例外と出くわすと、あれ?と子どもたちなりに、ちいさな疑問を持ち、それを確かめたくて体が動き出しているよう。そうやってみると、散歩も小さな探検のようなものかもしれません。

いつのまにか、鳩とそうでない鳥の違いを言葉で区別していました。その音(オノマトペ)の指し示すものとの対応を第三者に伝えると、さらに「そうだね、鳩ぽっぽだね」という応答が返ってくるものだから、そのやりとりも楽しくなって、これは?これは?と言葉のコレクターぶりに拍車がかかっていきます。大きくなると、そのものの特徴や面白さを言葉で教えてもらえるので、知識欲も旺盛になっていきます。

また喜劇俳優でもありそうです。何かになってみるのも、ときどき大人にやけに「ウケる」ということもしっかり、わかっていそう。一発芸もしっかり習得していくようです。

身近なものと関わり、好きな人や見知らぬ人との関わり、そして自分を他者にみせたら、面白がってくれるという自己表現(自己との関わり)も、それぞれに楽しんでいる子どもたちです。

 

絵本「きんぎょがにげた」を演劇する!

2025/01/15

昨日に引き続き、今日も夕方、演劇のワークショップ。今日は学生と社会人の2人も加わりました。今日使う絵本は、みんなお馴染みの『きんぎょがにげた』です。「演劇する」ってことがどういうことかわかった子どもたちは、今日は何をするか、最初からワクワクしてる感じでした。

学生さんが考えたワークショップは、こんな内容。絵本『きんぎょがにげた』に出てくる室内の場面を、保育園にあるモノで作ってみる。2つのグループに分かれて、一方のグループが作ったシーンが、絵本のどのページの風景か当てると言うゲームでした。かなり盛り上がってました。

 

演劇を体験!それはいつもやってることだった!

2025/01/14

桜美林大学で演劇学を教えている先生がいらっしゃって「劇のワークショップ」をしていきました。具体的には、まず「演劇って何か」を、実際に体を使って体験して理解します。要するに、「見立て遊びや振り遊び」と同じです。以下の台本を見てもらうとよくわかります。

「では、次に演劇で遊びたいと思います。例えば、これ(と言ってペットボトルを出す)なんだろう?そうペットボトルです。(飲む格好して)水を飲めます。でも、こうすると(電話をかけるジェスチャー)そうそう、電話になるよね」

「今度はみんなの体で何かになってみよう。何になれるかなぁ?例えば、私は木です。みんなもやってみて。例えば木になってもいいし、葉っぱになってもいい。(後は、即興で)雨が降ってきた、ポツリポツリ、ザーザーだあ。わぁ風も吹いてきた。すごい風だ、ビュンビュン!」

こういう事は子どもたちは得意です。エンゲキするっていうのは、いつもやってることだ、とわかっていったようです。

その後で、絵本『ここがわたしのねるところ せかいのおやすみなさい』を読んであげて、その感想を共有した後「演劇で寝るところを作ってみよう」と、運動ゾーンにあるいろいろなものを使って、実際に協力し合いながら寝るところを作り上げました。

普段ごっこ遊びをあまりしないような子たちも、とても楽しそうに参加していました。

 

 

保育から「わたしの人生」を思い巡らす時間に

2025/01/14

2人から3人の先生と、半日、あるいは1日じっくりと話し合う時間を設けています。昨年12月から始めて、今日14日で4回目です。これまでに9人との会話が終りました。面談ではありません、テーマのない深め合いの時間です。これだけゆっくりと話合う時間はなかなか取れないので、とても貴重な時間になっています。それぞれの先生たちが、何をどのように感じ、考えているのか、などが今まで以上に分かり合えます。とくに同僚のことを慮る話が多いのが特徴です。

メンバーによって語りあう話はバラバラなのですが、大きなカテゴリーでざっくり区分すると、ちょっと大袈裟ですが「私の人生と保育」につらなるような話があって、同時にまた「改めて、そもそも保育とは」を考えさせられるものが語られて、そして「当園の保育」について、という3つの焦点がありそうです。職員が結婚したり子どもが生まれたり、家族が変わるようなことを、職員も保護者も分かち合う生活が保育園の特徴かもしれません。

今日はその話し合いのなかで、ある先生から「保育を考える事は、子どもと同時に自分の人生を考えることと重なっている」というフレーズが飛び出してきました。こんなことは普段あまり口にはしないけれど、実際はそういうことが起きているのが保育だと思い当たるのです。話はうまく再現できませんが、例えば3つ目の当園の働き方を話し合っていた時は、何かをどう精選するかということになり、そうすると、何を残して何をやめるかという、そもそも保育の何を大切にして、何を省略するかという判断をめぐる話に展開し、そのために、それは「私たちがどう生きることが良いのか」とつながっていくこともあるのです。

これまでの話し合いのメモをみると、「子どもの主体性」の話は「大人の主体性」と関係し、子どもの「人権」は大人による子どもの「自己発揮の捉え方」になり、その具体的な話をしていたら「領域表現」のありようになり、また今日は「探究活動」の話になったのですが、それは「ものの素材」そのものの探究と、ゴールイメージある造形とは異なるという話になり、それは保育のあり方や大人の好奇心の持ち方の見直しが必要か?といったことになり・・・といったように、話題はそれぞれのメンバーの今の関心事に引き寄せられていきます。

これらは、似たようなテーマ見えながら、話の輪郭とストーリーはそれぞれの先生によって異なります。語り出されてくる内容について、他の人も付け加わってくるのですが、まるで「保育」を語りながら、きっとそれぞれの生き方を考える時間になっていただろう、そんな時間でした。この対話自体が、保育の土壌にあたるものを耕していることは間違いなく、どの会も「時間が足りなかった。またやりたい。もっと話したい」と言う気持ちが後を引くような時間でもありました。

芝で生まれて神田で育つ

2025/01/13

卒園したり、転園したりした子たちが冬休みにやってきて、昔のように楽しく過ごしていきました。しばらく会っていなかった友達とまた共に過ごすと言う経験はどんな感じなんでしょうね。その頃の気持ちも蘇ってくるのでしょうか。子どもなりの何か新しい感慨があるのでしょうか?ともあれ、園としても、こうやって再び戻ってきてくれることは嬉しいことです。

今日は成人の日です。鈴木理生さんの『千代田区の歴史』(昭和53年発行)を読んでいると、この地が「ふるさと」になる意味について、著者は思索を重ねてきたことがよくわかります。千代田区の特徴は「江戸っ子は、芝で生まれて神田で育つ」のフレーズの中に現れているといいます。千代田区は、たくさんの人たちが訪れて、この地で育ち、その後別の地へ移動していくような場所だというのです。江戸そのものの成り立ちからして、また、戦後15年で600万人も急増した東京。生まれるより、育つ場所、そして、そこから離れていく、そういう人の方が圧倒的に多いと言うのです。

そうかもしれません。その日1日過ごしていった卒園児は、今は東京に区に住んでおらず、別の保育園や小学校に通っています。それでも、千代田区が、この子たちの故郷に違いはありません。成長して大人になった時、保育園のことを思い出してくれるでしょうか。

探究が洗練をうむような経験としての遊び

2025/01/12

藍の体験について書いた「見えている世界の向こう」というのは、決して「あの世」的なことではありません。この世のことですし、現実世界のことです。しかも感覚的なことで、超感覚的な話でもありません。色の違いへの気づきが洗練されていくという意味です。

口紅の色を選んだり、どのスカーフにしようかと品定めするときのような、あるいは指先で触って点字が読めるようになっていくようなことです。あくまでも、感覚がより細かな差異に気づけるようになっていくとういことです。

音の聞き分けにしても、匂いの違いや、味の違いもそうですね。そういう感覚や感性を磨いていくための経験とは、どんなことなんだろう? それが遊びのなかで自然とそうなっていくような遊びのあり方、探究なっていく遊びのあり方といったことです。それを考えるきっかけになるのが、藍染だろう。しかも、そのためには、よくある花や草でたくさん色水遊びをしたり、遊びの中で自然とその色の違いに気づく体験がいろいろあることが有効だろうことは、容易に想像がつきます。探究が洗練をうむような経験としての遊び。違いに気づき面白さや楽しさが起動して、より向こうの世界への侵入が深まっていくような体験です。

見えている世界の向こうに広がっているはずの世界へ

2025/01/11

見えていないものは気付けない。でも気付けば見えてくることもある。そんな感覚を子どもの探究に寄り添っていると感じることが時々生じます。色もその一つです。どうして日本人は、こんなにたくさんの色の違いに親しんできたのだろう?あの伝統色の豊かさ。身の回りの自然や植物や文化物の色を組み合わせた名称がふんだんにあって、そこに美しさを確認していく伝統が確かにあったのでしょう。

身近な花や植物を潰して色水にして楽しむ遊びは、保育園でも「色水遊び」という言い方をよくしますが、自然が生み出している色と光を、子どもの楽しい遊び体験にしているかというと、ちょっと違うのです。

当園では絵の具や色紙などの色から入っている遊びが多くて、絵の具を溶かした「色水」の混ざり合う遊びは、春から夏にかけて、盛んにみられるのですが、そこで生まれる色と、花や草などの自然物が作り出す「色」の世界への気づきは、大きく違う気がします。生活の中で出会っている世界は、もっと未知の開かれていると言えるのかもしれません。具体的な環境としてはモノや空間なのですが。

ちょっと大袈裟な話すぎるかもしれませんが、私たちが感じている世界は、私たちの感覚や感性から届く範囲でしから捉えられておらず、その「見えている」と思っている世界の向こう側には、もっと広くて深くて(なんと形容していいのかわかりませんが)驚嘆する世界が広がっているかもしれません。見えていないから「ない」と思っているに過ぎないのかもしれません。保育ではそれを「センス・オブ・ワンダー」をキーワードとして、語られることが多くあって、いろいろな世界への誘いのキー概念になっている気がします。

美味しさの違いがわかる味覚、嗅覚が発達している動物の話、人間には聞こえない音をきくコウモリやイルカの話、点字が読めるようになる触覚の発達、自身の身体に敏感な固有感覚、そういったことを思い浮かべると、「見る」という多機能に思える視覚の一つに、明るさや色合いの違いを区別する感覚が、洗練されていく体験がきっとあるに違いないと思えます。その違いの宝庫は、身近な自然のなかにあるでしょう。

その誘いは絵本でも図鑑でもたくさんあるし、それを物にして表してきた伝統的な品々にあるはずです。それを子どもの遊びにどうやって取り入れていくか。藍を育てたりする活動と同時に、すぐにでもできることがいろいろありそうです。ポイントは大人側の側への関心でしょう。子どもへの「感染源」としての大人のあり方なんでしょう。子どもが教えてくれることもあるし。それもまた楽しいです。

藍染の「藍」を保育園でも育てます!

2025/01/10

昨日9日(木)の午後、年長組すいすいと年中3名の10人で、藍をいただいてきました。植物の、あの「藍染」の藍です。場所は柳森神社です。

よくいく神社のこんなところに藍が育っているなんて、知りませんでした。育てているのは「神田藍の会」で、その代表の峯岸由美子さんが案内してくださいました。

峯岸さんによる案内は「どこにあるかなあ?どれが藍だとおもう?」というクイズから始まりました。

私もわからず、キョロキョロしていると、ヒントがでます。よくみると下の方が藍色だよ、とか花が咲いているよ、という大サービスで「これだ!」と当たりました。あとで気づいたのですが、ベンチの上にちゃんと札がおいてありました。

ひとりずつ葉っぱをちぎり、「くしゃくしゃ、もみもみ」して白い画用紙に「ずりずりしてごらん、ほらこんなふうに」と促されて、みんあやってみます。緑色が簡単に紙に乗ります。染めるという意味がすこしぼんやりわかってきたかも・・・。

そのあと、ハサミで一本ずつ枝葉を頂戴して、今度はタネを虫眼鏡で観察しました。「これを保育園に持って帰って、しばらく干してから、たくさんタネを集めてください。そして春になったら植えて育ててくださいね」。

しばらく乾燥させると、緑色の葉が茶色くなって、タネを収穫するそうです。植えるとプランターで育ちます。そして増やして葉っぱで染色してみます。

この活動を応援して、またFM放送等でも紹介してくださっている星野晃一郎さんからも、群青色の話などについて、子どもたちにメッセージをいただきました。近所に引っ越して来られたそうなので、何かとお世話になるかもしれません。よろしくお願いします。

最後に「どんな色になると思うかな? これかな?これかな?」と、峯岸さんは持参したスカーフを見せながらクイズです。「答えはいいませんから、どんな色になるのか、楽しみにしてくださいね」。

とても温かい地元の方々と出会えました。卒園された町田さんからの紹介です。江戸文化の面影が随所に残る千代田区神田ですが、また一つ、素敵な「地域の文化財」が見つかりました。

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