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園長の日記

乳幼児はアクティブラーナーである

2021/03/06

人は一生、何かを感じ、考え、学び続けています。赤ちゃんから大人まで例外はありません。ただし学んでそれを身につけるとき、それがよく身につくためには、それを実際にやってみることが一番です。小学校以降の学習には、国が定めた学習指導要領があって、そこに学ぶ内容が教科と特別活動ごとに系統的に整理されています。文字を読めるようになったり書けるようになったり、九九を言えるようになったり、足し算や引き算ができるようになったり、いろいろな基礎・基本の学習が待っています。

その時、授業で教えてもらったことがよく身につくようにするには、知識だったらその知識を他の人に説明できるまで理解すること、技能だったら使ってみること、どうしてだろうという疑問だったら誰かと一緒に話し合ったり考えをわかり合ったりするといいのです。このような学習の方法を、「対話的で深い学び」と言われているのですが、いわゆるアクティブラーニングのことです。

年長のすいすい組10人は、あと1か月すると、小学校の学習で今いったような学習が始まります。保育園で行ってきた学びと何が違うのかというと、実はこの「対話的で深い学び」こそ、保育園で行っている遊びの中の学びそのものなのです。しかも、それは赤ちゃんからやっているのです。例を挙げてみましょう。

つい先日、すいすいタイムの様子がわらすのブログで紹介されています。みかんの缶詰ができるまでについて、子どもが「どうやって大きさの違いを分けているんだろう」と考えてみたり、きっとこうじゃないか、ああじゃないかと、語り合ったに違いありません。これは小学校でのグループ討議のようなものです。そして「そうか!」とわかったことを、子どもたちは誰かに話したがります。おうちの人に「ねえねえ、あのね、みかんの缶詰ってね」と話してくれたのではないでしょうか。学んだことを言葉で人に教えることは、人類が延々と営んできた最も得意な知識共有の手段でした。

学んだことを人に教えることは、知識の定着度が最も高いと言われています。その次に高いものが「自分でやる」というものです。これも赤ちゃんの頃から、乳幼児の独壇場です。なんでも自分でやりたがります。先生がちょっとでも面白そうなことをやった見せたりすると、僕もやる!と大騒ぎになります。私のすいすいタイムでも「わくわく実験」でもそうです。つい先日も、こんな光景をみました。

玄関先で自分の靴が靴箱から出ないので、お母さんが出してあげると、その子は<自分でやりたかったのに〜>と抗議の声を上げたのです。お母さんは、すぐにその気持ちがわかって「ああ、自分でやりたかったのね、ごめんごめん」と靴を戻してあげていました。子どものことをよくご覧になっているお母さんの、その応答的な対応は、まさしく子どもの自発性を損なわないで見守っていらっしゃいました。子どものことだからと、軽くみてはならないのであって、靴箱から自分の靴を自分で出して自分ではく、と言う意欲と態度は、学校での学習場面に置き換えるなら、自発的学習そのものです。

ヒトの脳は、何万年もの間、なすことを通じて学んできました。これはジョン・デューイが提唱した教育方法に極めて近いものなのです。彼の代表作『民主主義と教育』で「教育は、経験の意味を増加させ、引き続く経験の進路を方向づける能力を高めるような形での、経験の再構成または再組織化なのである」と述べていますが、この箇所は保育士試験に引用されています。

グループ討議、自分でやってみる、人に教える。この3つは学びの定着度が高い3方法だと言われています。私も聞いたり読んだり考えたりしたことを、こうして自分の書き言葉に置き換えるとき、知識の再構成や再文脈化が起きています。

イベルメクチンを承認したらいいのに

2021/03/05

3月7日の解除予定だった首都圏一都三県の緊急事態宣言が、3月21日(日)までの2週間再延期が正式に決定した今日3月5日(金)、3月21日(日)に予定している「卒園式」の実施方法について再検討しました。その結果は週明けにお伝えします。それにしても、2週間延期したところで、今日までに言われている政府の政策では、感染者数がこれ以上、減少するようには思えませんでした。こんなときは、私たちは時々「そもそも」に立ち返ってみることで、冷静な判断力を取り戻すことができるかもしれません。

私たちは何かの課題や困難に出会っても、それを乗り越えたり解決できそうだという「できるという見通し」があると安心する傾向にあります。100%やってくるにも関わらず、いつやってくるのかわからず、しかもその後がどうなるのか不明瞭な究極の課題や困難が「死」だとすると、それに至る可能性がある疾病が、人々の不安を掻き立てるのは間違いないところです。

実際のところ、日本人の全ての「死亡原因のトップ3」は、事故などではなく「病気」であって、一位ががん(悪性新生物)28%、2位が心疾患16%、3位が肺炎10%という割合です。それぞれの治療法が進んで、不治の病ではなくなってきました。特に早期に発見できれば治る割合も高くなっています。これらに対する「不安」が軽減してきているとしたら、その最も大きな原因は、やはり「治療」が向上したからではないのでしょうか。他の病気についても、そうだろうと思います。色々な病気に対して人類は「医療の質」を高めることで克服してきました。

「そもそも」医療というのは、3つの要素かると言われています。私が看護師の養成校で「教育学」の講師をしていたとき医療は「予防、診断、治療」からなるとテキストに書かれていました。私たちは病気に対しては、この3つのうち、まず「治療」が進歩することで「治るという見通し」から安心します。それに引き換え、いくら「予防」しても罹患することはあるし、症状が出ても、それがどんな病気なのかという「診断」ができないと、適切な治療に結びつきません。

新型コロナの場合は、ワクチンがない状態で「予防」が三密回避しかなくて対応が難しいし、変異ウイルスを含めて病原体へPCR検査や抗原検査などの「診断」もなかなか進まないし、そして治療薬がないなど「治療」が確立していないこと、この3つとも「見通し」がないから社会不安になっています。医療の3本柱がなく疫学的対応という1本柱で建物を建てようとしているように見えます。

このように「そもそも」で考えると、新型コロナウイルスの医療としての決め手の1つは、やはり治療薬なのでしょう。治療薬がないので、これまで、どうしても予防や診断の話になっててきました。緊急事態宣言で人と人の距離を取ろうという究極の荒っぽい予防策です。治療が難しいので、三密回避だとかワクチン接種だとか予防策の話が多くなり、莫大な費用をかける割に埒が明かない状態です。ついでに言うと、診断方法もこれまで政府ー保健所ー感染研ラインのPCR検査ばかりに偏ってきた気がします。

ところが、ここにきて海外では治療薬「イベルメクチン」が積極的に使われていると言う報道が増えてきました。アメリカでは1日に3万回も処方されています。東京医師会の尾崎治夫会長も厚生省へ早急に特例承認するよう要望しているようです。イベルメクチンは大村智(北里大学特別名誉教授)が北里研のキャンパスで1975年に発見した菌が元になっています。大村さんは、寄生虫感染症に効果がある薬の開発に結びつき(1981年アメリカMSD社と動物用の治療薬を共同開発し、1987年にはヒト用の治療薬をアフリカで無償提供を開始しました)、アフリカなどで35億人もの命を救ってきた実績が評価されて2015年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。今でも毎年3億人が使用しています。この薬が新型コロナにも効くことがわかり、世界中で使われ始めているそうです。

 

子どもと一緒に物語の世界に入り込む

2021/03/04

子どもと一緒にいて幸せを感じるときは、どんなときですか? 何か素敵なものを分かち合っていると実感できる時ではありませんか。例えば「いいなあ、こういうの」と思っていることを「ね、いいよね」と頷き合うような時。あるいは夕食の一家団欒が、共感し合ううれしさで、笑顔や笑いがこぼれ出ているような時。こんな時間は多いに越したことはありません。何をするわけでもなく、「これしなくっちゃ」とか「ああでなきゃだめだ」という意識もスッコーンと抜けていて、脅迫めいた時間から解放されている。そんな「こどもの時間」をたくさん用意してあげたいと思います。

今日4日は、久しぶりに3階で絵本を読んであげる時間がありました。取り上げたのは、「たまごやきのたまこさん」と「どろんここぶた」そして「大どろぼうホッツェンプロッツ」の続きです。毛色の違う3種類の絵本は、その面白さの種類が違うのですが、子どもたちは、変な言い方ですが、それぞれの面白さを「しっかり」キャッチできる感性をもっています。これは心に余裕がないと、楽しめないんじゃないかと思います。それぞれの「おかしみ」を、クスクス笑ったり、「え〜っ」と、なんとも言えない感嘆の声をあげたり、それぞれの登場人物の気持ちを共感しているのが、よくわかります。

絵本を楽しむというのは、1人でその世界に入り込むのもいいのですが、こうやって1つの絵本をみんなで集まって読んでもらうというのは、案外、保育園のようなゆったりとした時間の中でしか、味わえない貴重なものかもしれません。小学校には、そんなまったりとした時間はないですし、家庭にはお友達がいません。

しかも、私が好きな絵本を読んでいるので、私がお話の世界の案内役とはいえ、完全にエコ贔屓している世界です。「ほら、いいでしょう」と、個人的な思い入れ100%の読み方です。私の心の動き、感情の起伏、どういう気持ちでいるかということが、子どもたちに伝わっているはずです。

大人が絵本を読んであげるのは、やってあげる保育であり見守る保育じゃない、と勘違いしないで欲しいのです。絵本の世界は、私という環境を通して子どもの体験になっているのです。私が媒体するものが絵本の世界です。子どもが1人で自分で絵本を読んで楽しむこととの違いは、私の心の動が環境となって、それを通じて魅惑の世界へ誘っていることにあります。佐伯胖さんの「ドーナツ理論」とほぼ同じです。私が文化的実践を通して、子どもたちをその世界へ誘う橋渡し役をしているという捉え方です。

 

私は私、私は私たち(「自分らしく」の意味)

2021/03/03

何かの集団の一員であるという所属の欲求を私たちはもっています。同じものに連なっているという生の連続性やルーツを求める傾向をもっています。私は何者なのか?というアイデンティティは、自分が自分であるための証明として、何かの価値や連続するものに同化しようとします。子どもの模倣衝動もこのラインにあるような気がします。

しかし、一方で、私は私であるというときは、私は違う!と言っているのです。私はあなたじゃない。私は私が決める、決定権は私にある。それをどう考えて、どう行動するかは私が選択して決めたい。私にはそういう意思決定の自由がある。このように考えるのも、また私たちの中にあります。

自分らしく自由でいたい。しかし同じ共同体の一員でもありたい。この私は私でありながら、私は私たちでもあるということは、至るところにあります。結婚して、それまでの自分の姓でいたいのか、どちらかの同じ姓にするのかを決めるのは、個人の自由な選択になります。私が私でありながら、私たちでもあるあり方を姓名(氏名)で規定するとことに、いかにアイデンティティーが、その社会制度に縛られているかがわかります。その国の個人と国家の関係です。

同じ発想で、ジェンダーのことを考えてみましょう。自分の脳が生物学的に男性だったり女性だったりLGBTだったりすることは、生物学的な要因もあって、自分の意思、選択意識だけでは解決しません。本人さえ戸惑ってしまうこともあります。人と人との関係の中で、初めて自分のありように気づくこともあります。僕は男だと思っていたけど、違っていたことに後でわかるのです。これらの問題を考えるときに、立ち返るべき視点は「本人にとって」はどうなのか、ということが最優先されるといいのです。

そこで子どもと接するときに気をつけたいのは、ジェンダーの特性を一般化しないということです。普通は〜だとか、〜は◯◯が多い、とか量的に多いことをもって論拠としないということです。一人一人違うんだという、徹底した「自分らしく」の尊重から始めたい。したがって、当法人の保育は年齢別、性別、しょうがいで分けないことにしたのです。

心動かされる体験について

2021/03/02

見立て遊びは好きなことに限らない?そうか、痛いことや怖かったことも再現するのか、面白い!ーーー今日の1歳児ぐんぐん組のブログのことです。満2歳を過ぎている子たちが、お医者さんと患者さんという役割をもった「お医者さんごっこ」を楽しんでいる様子が報告されています。しかも注射しているところなのです。いまテレビをつけると「ワクチン接種の場面」がよく写されるので、その影響かもしれませんが、多分、自分が予防接種を受けた時の体験だと思います。痛くてきっと泣いたりしたでしょうに、それでもごっこ遊びになるんですね。そういえば、お化け屋敷なんて、怖くて悲鳴をあげたりしたのに、子どもはお化け屋敷ごっこが大好きだといことを思い出せば、そんなに不思議なことではないのかもしれませんね。

歯医者さんも、痛い思いをしたんじゃないかな、と思う方が多いと思いますが、実はうちの園医の山本歯科さんは、子どもたちに人気なのです。6月と10月ごろに年に2回の歯科健診をお願いしていますが、その時の様子を見ていると、もちろん子どもにもよると思いますが、あまり怖がりません。優しい先生なので、その雰囲気が子どもにはわかるようで、嫌がるどころか、むしろ、「あ〜ん」と自分から口を開けて診てもらう姿があります。

見立て遊びに取り入れられる場面は、子どもにとって、きっと印象深いシーンなのでしょう。昨日の0歳児ちっち組のブログでは、柳森神社での「お参り」が取り上げられていました。満1歳の子が、手を合わせてお参りする「ふり遊び」なんて、私も初めて見ました。心動かされる体験、という言い方に私たち保育者は慣れ親しんでいるのですが、深く考えると、何が心を動かしているの不思議です。「ああ、そこか!」と子どもは大人に教えてくれる印象的なシーン。数ある大人の振る舞いの中から、それを切り取ってくるセンサーは、誰に教えられたわけでもない、先天的な認知の枠組みなのでしょう。ここに人間の認知の秘密があるようです。

今日は久しぶりに、ダイニングで子どもたちと一緒に食事をしました。新型コロナウイルスの感染者数が多い時期は、事務室で昼食を摂るようにしていたのですが、3月になって、すいすい組の子たちとの残された時間を大切にしたいという思いが募ってきました。すると、すいすいの子は、昨年秋頃から読んであげてきた絵本の名前や、物語の印象深いシーンを、いくつもいくつも語り出すのです。それには驚きました、と同時にとても嬉しくなりました。このように話し出すことも、印象的なことの再現に違いないわけですが、私の方まで心が熱くなってしまいます。心を通わせるという意味は、大事なことを分かち合うこと、再確認すること、共有することなんだなあ、としみじみ思ったものです。そしてこう思うのです。「よーし、また楽しいお話をいっぱい読んであげるからね」。

成長展は終わっても・・

2021/03/01

2月15日からの成長展が本日3月1日で終了しました。ただパソコンの操作不調で明日2日に追加の特別展上演をします。よろしくお願いします。

終了といえば、大学の保育実習も本日で終わり。最後の反省会を開きましたが「大変だったけど楽しかった」とのこと。実習によって「保育者になりたい」という意欲が高まったようで、なによりでした。3月は将来のことを考えることが増えます。

3月といえば、職員の「異動」の時期でもあります。当園はこの春、職員の異動の予定はありませんが、姉妹園を昨年3月末に退職した保育士が挨拶にきました。省我会で働き始めて8年になると聞いて「もうそんなになるの?」と驚きました。地方で保育士の仕事を続けます。その保育園も同じ「見守る保育」の実施園です。異動によって全国に仲間が散らばり、繋がりが増えていきます。働く職場は異なっても、逆に同じ保育を目指すネットワークは広がります。

繋がりが増えるといえば、SNSの世界も同じ。YAHOOとLINEと経営統合するニュースは、変化する時代を象徴していそうです。情報産業に限らず「アップルカー」のように製造業も水平分業の産業構造へ「抗えないパラダイムチェンジ」が始まっているのでしょう。

抗えない、といえば時代のスピードを感じます。とにかく変化が早い。この加速感は抗えない、という実感を伴います。そんな時代だからこそ、変わらないものや変えてはいけないものに、目を凝らしたくなるのでしょう。保育は後者の領分が大きいからです。この営みはずっと終わらないことでしょう。

 

 

変異種対策は本当に大丈夫か

2021/02/28

明日から早くも3月です。

◆3月7日までで済むかどうか

最近触れていないので、コロナの話をまとめておきます。今日2月28日(日)で緊急事態宣言の先行解除となるのは、大阪、京都、兵庫、岐阜、愛知、福岡の6府県。残る東京、神奈川、埼玉、千葉の4都県の解除が3月7日で済むのかどうか。東京の300人台での下げ止まり状況をどう判断するか、3月4日あたりに結論を出す情勢になってきました。

◆集団免疫獲得の目安は

基本再生産数R(0)は、誰もまだ感染していなくて、感受性をもつ人の平均年齢など色々な条件を仮想的に定めるしかないので、COVID19は「2.5」ぐらいじゃないかということになっています。これが正しいなら、まだ感染していない人口の割合が1/R(0)の数、つまり0.4(4割)ぐらいを超えていないと、再び感染の流行が始まります。なので6割以上が抗体を得ないと集団免疫にならない、という語りがなされています。いずれにしても、ずいぶんかかりそうだ、という見通しです。

◆ブラジル由来の変異は、今のワクチンが効かない?

でも、もっとも気がかりなのは、変異株への対策です。イギリス型、南アフリカ型、ブラジル型などが国内で200人を超えているので(例によって、実際はもっと多い)、政府の尾身会長は「すでに今のものと置き換わるプロセスに入った」と断言していますから、感染力が強いと言われる変異種の感染を防ぐことができるのかどうか。

ワクチン接種は今年中には、私たちにも接種の機会が来るでしょうが、ソーク研究所のパオ博士は「ブラジル由来の変異ウイルスは、どうも現在あるワクチンが効きづらいらしい」と、ある論文を報告しています。

それによると、一旦、人口の7割が感染したブラジルの北部の都市マナウスでは、70%が抗体を持っていたのに、変異株によって年末から1月にかけて再び感染爆発となっているのです。もしかすると、期待が高まるワクチン接種もゲームチェンジャーにならないかもしれないというのです。

日本は懸念されていた水際対策は突破されていることを尾身会長でさえ認めているので、世界標準の積極的検査をせず、遺伝子解析が遅い日本は、この変異株の封じ込めに失敗すると、オリンピック開幕は断念、緊急事態宣言発令に追い込まれる可能性があります。気候や新しいファクターXを期待するしかないと予想するしかないのは、まさしく神頼みのような心境です。そうならないことを願います。杞憂で終わりますように。

カーボンニュートラルと保育

2021/02/27

久しぶりに朝日テレビの「朝まで生テレビ」を録画で観ました。日本のエネルギー政策がテーマでした。政府は2050年までにカーボンニュートラル、二酸化炭素の排出をゼロにすることを宣言していますが、その道程は険しいようです。風力発電や太陽光発電などの再生可能エネルギーの割合を約5割に持っていくために、どこまで原子力発電に頼る必要が出てくるのか、専門家の意見は別れていました。原発を新設しないと無理という見立てと、なんとか他のものでやれるという見解がぶつかっているように見えました。

科学者という専門家の間でも意見が割れているところに、素人の私たち国民がどのように議論に参加したらいいのかというテーマは昔からあって、私は専門が理学部だったので柴谷篤弘さんの「反科学論」などを自主学習会で読み合ったりしていました。今はなき柴谷さんの主張は、これも私の理解と要約ですが「一般市民がわからないから議論に参加できないのではなく、わからないからこそ参加すべきだ。そして、だからこそ、わからない、不安であるという主張は正当な国民の権利だ」というものです。難しいから専門家の判断に任せるという姿勢が危ないというのです。1970年代後半の議論です。

このような社会学的知見に立てば、コロナ問題も政府は専門家会議は、複数のプランが出るぐらいの、意見の異なる複数の議論が主張されるぐらいの議論を公にしながら、政府がその過程を公にしながら議論が深まるようにするべきなのでしょう。政治にメタ科学的政策論が足りないのでしょう。

その頃、同時にハイゼンベルクの「部分と全体」もそのころ熟読したことを覚えています。手元にその本がないので不正確ですが、趣旨は「科学者はその発見の結果が及ぼす社会的影響まで見通すことができるからこそ専門家である」という、科学者の社会的責任論についての命題でした。これは核エネルギーが原子力爆弾という大量殺戮兵器に利用されたことを悔やんでいたアインシュタインの晩年を思い出します。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルが米ソの水爆競争に危機感を抱き、核兵器廃絶運動を推進するために草起した「ラッセル・アインシュタイン宣言」に結実します。1955年のことです。

それから65年が経ちました。同じ議論が続いています。あまりにも科学技術の進歩が専門的過ぎて、そのリスクをよく理解することが難しい時代です。感染者数をどう受け止めるのか、ワクチン接種はどうするか、有事の備えとは何のことなのかーーー。今から30年度の2050年は、卒園児が35歳。そのころ、福島はどのように復興され、再生可能エネルギーはどこまで普及しているでしょう。

これらのテーマを保育から考えると、こうなります。危ないと自分で気づき回避する力を持とう。そのためには、どのようなことが危ないことなのかをしっかり体験しながら学ぼう。わからないことは当たり前だよ。どうやったらわかるようになるのか、知る方法を一緒に考えよう。そして、「わからないから教えて」という意見がとっても大切なんだよ。

物を買って使うときは、それが何でできているのか調べてみよう。もし綿で出来ていたら、綿ができる期間は使おう。住む家が材木だったら、その木が育つ期間は使おう。その和紙が植物の材料だったら、その植物が育つ期間は使おう。プラスティック製品はできるだけ買わない、使わないようにしよう。使い捨てはできるだけ減らして、永持する道具に変えていこう。食べ物は生き物が幸せに育っている動植物にしよう。・・いろいろな「善いこと」を分かち合って生活の中に取り入れよう。私たちの生活がどこから来て、どこへ向かうのか、大人と一緒に考えていこう。・・・保育に結びつけると、こんなことになるのではないでしょうか。

卒園児にウェルカム!と言える社会に

2021/02/26

(園だより3月号 巻頭言より)

昨年の3月と今年の3月で異なるのは、保育園が開園して初めて卒園児が旅立つことです。昨年度は卒園児がいなかったので、卒園式もありませんでしたが、今年は10人が卒園します。私から一人ずつに保育証書を手渡しします。受け取ったら「大きくなったら○○になりたいです」という夢を語ってもらいます。どんな夢が語られるのか、楽しみです。

私たちはどんな子に育って欲しいかと聞かれたら、「自分らしく意欲的で思いやりのある子どもになってほしい」と願っているのですが、子どもたち本人は「あれがいいなあ、こうなりたいなあ」と具体的な夢や憧れを持ちます。抽象的に「思いやりのある人になりたいです」とは思いません。お医者さんになりたいとか、花屋さんになりたいとか、ピアニストになりたいとか、サッカー選手になりたいとか、具体的に憧れている仕事や職業を思い浮かべるでしょう。そこで「保育園の先生になりたいです」という子がいてほしいなあ、と期待してしまいますが、それは今人気の職業が反映されていたりします。

変化の激しい時代です。卒園する子どもたちが実際に働き始める頃、世の中にその仕事が残っているのかどうかわかりません。反対に5年前に「You Tuberになりたい」が小学生男子2位、女子4位になる時代になるとは想像できませんでした。その調査では保育園や幼稚園の先生は女子で5位になっていました。どんな時代になっても、保育の仕事はなくならないでしょう。生活に必須の仕事を最近はエッセンシャルワークと呼ぶことが増えましたが、私はこんなに大切で有意義な仕事は他にないと心底、思っています。まだまだ世の中の認知や社会的な地位が高くありませんが、子どもたが保育士になりたいと思った時、周りの大人がそれを誇らしく感じ、応援したくなるような魅力的な職業になるといいのに、と思います。

やりたいことができることは幸せなことです。しかしそれが難しい。やりたいことは変化し、それが仕事になるとは限りません。市場経済で買われる市場価値を産まないと職業になりません。しかもその仕事が豊かな働き方になっているかどうかも別問題です。豊かな働き方とは自分で構想して実行できるような仕事です。誰かが全体を計画して、その一部を歯車のように部分的にやらされる仕事は意欲を失います。ひどい時は拷問のようになります。人間は働く意図や目的が社会的な意味を持つことを望み、それにコミットしているとき生きがいを感じるからです。

私たちが今実践している保育は、子どもたちが「現在を最もよく生きる」ことができるように工夫しています。それともう1つ育てているものがあります。それは「望ましい未来をつくり出す力の基礎」です。大人と一緒に望ましい未来をつくるメンバーの仲間入りを果たすことー。それが大人になるということです。年長さんがもうすぐ卒園します。私たち大人は「ようこそ!」と言える社会を用意しましょう。

『保育の起源』の書評を頼まれて

2021/02/25

日本には3つの保育団体があるのですが、その1つに「全国私立保育園連盟」という団体があります。そこが発行している月刊誌「保育通信」から、書評を頼まれました。本は藤森平司著『保育の起源 保育を巡る今日的論考』(世界文化社)です。以下のように書いて渡しました。(そういえば、千代田せいが文庫で藤森先生の本を閲覧・貸し出しができるようにしないといけないですね)

この本の著者は私の師匠です。先生は日本で「見守る保育」と呼ばれるようになった子ども主体の保育を全国に広げた保育者であり、私にとっては生き方の導師であり、保育の探求者です。まず本書の「はじめに」から、以下に少し紹介します。

「・・今日では、見守る保育として広く受け入れられている私の保育論ですが、振り返れば、私自身が人類学や脳科学、発達心理学などのさまざまな学問に触発され、それぞれの分野における優れた研究者と出会い、語り合う中で多くのものを取り込んできました。今、私が保育に関わり始めてから現在までの社会的な背景を振り返ると、『見守る保育』は何も特別なものではなく、世界各国に共通する流れの中で、必然的に構築されてきたことがわかります」

さて、この「見守る保育」は、最近では海外から「mima-approach」略して「mima」と愛称される「藤森メソッド」として世界で普及し始めています。アジアの保育を代表する乳幼児保育法として注目されているのです。その教えは多岐に渡るのですが、最も大切な教えは「保育の探求は、保育実践の中からしか生まれない」ということです。保育の<真と新>は現場にあるのです。「保育は学問ではなく保育道である」ということです。そんな、保育をめぐる考察の一部始終が一冊になったものが本書です。

23章480ページからなる大部ですが、保育の質を本気で探求したい人にとって、この考察を辿ることは、保育理念を汲み出す井戸となることでしょう。あるいは「保育の地平」全体を見渡すことにもなります。その地平は人類の進化、人類学、民俗学、脳科学、住居学、心理学からスポットライトが当たります。さらに通底している「保育の起源」を踏まえて、本書後半は保育理念を巡る議論が展開されます。そのテーマは発達、教育、乳児研究、愛着、自立、見守る保育、その意図性、異年齢保育、チーム保育、室内環境、屋外環境、見守る保育における5M、食育、リーダー論、海外の保育、家庭での育児と、16にのぼります。

また、アフォリズム(警句)のような言葉が興味の扉を開かせてくれます。例えば・・。

「人類の始まりという太古の話が、新しい保育のテーマにつながりました。乳児保育の大切さは、人類の原始にルーツを持っていたのです」(第1章人類の進化)だとか、「愛着について新しい考えを持ちました。愛着とは自己防衛のために自ら築くものであり、決して大人から与えられるものではない」(第10章乳児研究)などという言葉に出合えるのです。

この本は、辞書のようにどこから読んでも(引いても)いいのですが、知らないうちに、保育の質を思考する面白さという渦の中へ引き込まれますからご注意ください。この本の隠れたサブタイトルは「保育理念を構築するための思索ガイドブック」かもしれません。園長なら必携?かもしれませんね。

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