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園長の日記

無性に小説が読みたい!

2021/01/25

今日はすいすいの子どもたちが漢字で「夢」という字を書きました(上の写真)。夢は昼に見る夢と夜に見る夢がありますが、子どもはどちらの夢も見ているのではないかと感じます。昼に見る夢というと、大人は希望としての夢を想像するでしょう。キング牧師の「アイ・ハヴ・アドリーム・・」の夢です。

でも、その夢ではなくて、私は子どもは昼間にも夢の中で生きているのだと思っています。それがどんな感じなのかを想像してみるために、大人の私は自分の無意識にまで降りていく必要があります。大人は自分が何を抱え込んでいるかも、忘れていますからね。というよりも、抱え込んでいることを忘れて生きられるのが大人ってことかもしれません。

ちょっと前の映画に「海の上のピアニスト」という名作があって、昼間に夢を見ることをやめない主人公のお話に、涙が止まりませんでした。そうやって、普段は隠れていて意識していないものが、自分の情動の成り行きに委ねておくと、無意識の底から自然と立ち上がってくる意識というものに出会うことができます。嘘だと思うなら、寝る前に色々思い浮かべることをイメージして見てください。子どもは昼間もそうやって生きているんですから。

こんな話は「園長の日記」というよりも、極めて個人的日記になってしまうのですが、それでも、かなり多くのことが仕事と関係のあるモチーフが含まれていることに自分ながら呆れてしまいます。リラックスして意識を解放しておくと、まずは気になっていることの輪郭がはっきりとしてきます。「こんなことが気になっていたのか」ということに気づくことができます。ある社会福祉法人から依頼されている講演会や本の書評、春からの講義のシラバンスづくりをどうするか。その中にケアリングについての自分の仮説があって、それを言葉にしようとしている自分が見えてきます。いただいた論文の感想に書こうと思っているケアリングのイメージが広がってきました。でもそれを言葉にしようとすると、湧き上がってきていたものが止まってしまうので、言葉にするのはやめて、またボーッと瞑想に戻ります。

頭の中であれこれと浮かんでくるイメージはシャボン玉のように消えていってしまうので、そのイメージを残しておきたくて、頭にセットしておけば後で絵巻物のような記録が自動的に残るといいのになあ、といつも思います。今読んでいる小説の成り行きが気になってしまうと、瞑想は中断になってしまいます。改めてまたこの意識状態に戻れるコンディションはいつになることか。そしてこんな風に、シャボン玉が出てきては弾けて消えていくのです。疲れていたら、大抵は寝てしまいますが。実際に昨日24日(日)は寝てしまって、「園長の日記」は日付を跨いでしまいました。次は昨日と今日の瞑想の中に現れてくる私の夢の一部です。

・・千住博が描いた高野山金剛峯寺大主殿の襖絵の完成プロセスにも彼と作品(空海)との間にあるケアリング関係があるんじゃないか。・・・あのアートの営みにこそ、人間の営みの根幹がある・・・そう、その彼方への想像の翼こそ夢にふさわしい・・・それは澁澤龍彦が病床で書いた最後の小説「高丘親王航海記」の天竺とも重なっていく。・・・世阿弥が「融」を創作した時に見出した伊勢物語の第81段。在原業平が翁の面を被って「塩釜にいつか来にけむ 朝凪に釣りする舟はここに寄らなん」と詠んだ心情は、髙樹のぶ子の解釈と同じなんだろうか? ・・・じゃあ山折が書いていた神と翁の関係はどうなのか? ・・・それにしても伊勢物語は誰が書いたんだろう。高丘親王の父親は、業平の祖父にあたる平城帝・・紫式部の光源氏は源融をモデルだけど、ケアリングだらけの日本文学なのに誰も言及しないのはどうしてだろう?・・・

このように書くと、あたかも何か連想している流れがあるかのように見えますが、順番は全くごちゃ混ぜに現れては消え、また現れて、という泡ぶくのようなイメージのシャボン玉です。この通りではなくて、あっちいったり、こっちいったりの出鱈目です。ケアリングのテーマが多いのは、大学の先生からケアリングの論文をいただいてその感想を考えていたからです。それでも不思議なのは、何かを思い出すこと事態がすでにイメージの再現ですから、子どもの模倣と全く同じことを無意識はいつも行っていて、それが脳の中で起きていると思うと摩訶不思議な気がしてきます。

こんな欲求が現れてくるのは、きっと世の中の言葉が病んでいて、取り繕う言葉ばかりが張り付いているからでしょう。正しいことかどうかばかりを競い合う言葉が、抑圧されてしまう弱い意識への優しさに欠けるので、文学を引き寄せたくなるんだと思います。ああ、無性に小説が読みたい!(子どもなら「ああ、早く遊びたい!」です)

 

今週も無事に終わり・・

2021/01/23

4月からの進級に向けて、1つ上のクラスに移動して過ごすことが増えてきました。それもあってか、2歳のにこにこの子が「わいわいさんになる」ことを楽しみにしていたり、5歳のすいすいの子が「ひらなが」を書くことにとても興味を持って取り組んでいたりします。18日(月)には布川先生が、ひらがなの一文字ずつを丁寧に綺麗に書くということを子どもに体験してもらっていました。

今週の保育エピソードの中にこんなこともありました。昨日22日の朝、3階の幼児のフロアに顔を出しても、誰も「クライミングゾーン開けて」と言いません。これは初めての経験でした。新聞紙から「の」の字を探していたり、新しいレゴブロックで何か作っていたりして、それぞれの遊びに熱中していました。珍しい、こんな日もあるんだなあ、と思ったものです。朝の運動欲求もだいぶ落ち着いてきたのかもしれません。これも育ちの姿の1つです。

土曜日23日の夜、今週も無事に終わりそうです。無症状でも感染しているかもなどと言われると、微熱がでたり、咳が出たり、喉が痛かったりしても、それもコロナかもしれないと不安になってしまう方もいらっしゃるのではないでしょうか。〜かもしれないという不安は、正しく恐れることを難しくするものですね。明かに症状がある場合はかかりつけの医師に相談してください。症状がない時はやるべきことを続けていくしかありません。気を揉みすぎても良くないので、できるだけコロナのことは忘れて、楽しい時間を過ごしましょう。

マルクスと保育の交差点

2021/01/22

午後のおやつの時間に「園長先生!」と後ろから声をかけられました。調乳室から事務室へ戻ろうとした時です。<ん?誰だっけ?>と、ちょっとびっくりしました。<ここは、ちっち(0歳児)とぐんぐん(1歳児)なんだけどなぁ、こんなにはっきりと、「 エンチョウセンセイ!」と言えるのは、<あ、そうか、お手伝いに誰か来ていたのか>と思いながら振り返ると、そこにいたのは、ぐんぐんのYちゃんではありませんか。「え?今、園長先生って言ったの、Yちゃん?こんなにはっきりと言われたのは初めてだなあ」と応えました。こんな時、子どもの成長を感じます。すごいなあ、と思いました。

そしてこんなことに気付かされます。これが人間の最も基本的な挨拶というものなんだろう。園長先生と声をかけたくなった気持ちがあったから名前をよぶ。それがまっすくぐに伝わってきます。別に声をかけて、何か特別に伝えたかったことがあるわけではなく(あったかもしれませんが)、名前を呼び合うということの中に、通わせたい気持ちがあるのは間違いないのです。この感触をお伝えするのに、わかりやすい話はないかなあと考えると、そう、あれです。好きになったもの同士が、相手と自分の名前の呼び方を共有し合いたいという気持ちになる、あれです。

「なんて呼んでほしい?」「・・・◯○ちゃん」

「わかった。◯◯ちゃん・・・」「・・・・❤️」

いえ、別にこんな話まで持ち出さなくてもいいのですが、気持ちを通わせるということの原型があるという話をしたくなったのです。もっというなら、名前も言葉もいらないかもしれません。目と目だけでも、気持ちを通わせることができます。一緒にいるだけでいい、ということが人間の欲求の根底にはあるでしょう。そういうものの育ちの姿を微笑ましく感じる瞬間というものが、私を呼んだYちゃんの声には感じられた、という話です。この気持ちの流れ合いを家族の中にもちづづけてもらいたい。ちゃんと挨拶ができる、ちゃんと何かができるという以前の、もっと大切な気持ちの息遣いを感じ合うアンテナを育てましょう。

午前中には、Kくんと一緒にいる時間がかなりありました。彼が大好きなYくんと気持ちの行き違いが生じて、辛い気持ちになり、彼の話をずっと聞いてあげていました。彼がいうには「Yくんに、あそこで2回、きらいって言われたの」と涙をこぼします。「それが嫌だったんだね」「うん」。そして同じフレーズを繰り返します。Yくんは「(Kくんが)怒ったのが嫌いだった」のですが、Kくんにとっては「きらい」と言われたこと自体がショックだったようで、ここに気持ちのすれ違いが生まれていました。いわれたKくんには、その違いが届いておらず心が傷つてしまいました。担任にそれを伝えると「ガラスのハートだから」と同情していました。どっちが悪いとか、こうすればよかった、とかいう話でもありません。人間である限り、このような行き違いやすれ違いをなくすことは不可能です。それがないように、繊細な神経を張り巡らして生きていくことも無理です。またもっと図太い神経を持つようにと願うのも違うような気がします。

私は切ない思いを感じた彼の気持ちがどのように育っていくのか、どんな歩みを見せてくれるのか、それをそっと待ちたいと思います。上手に折り合いをつけるだとか、挫けずに強くなれだとか、もっと優しく言おうだとか、いろんな「よかれ」を思いつき、言葉にしてしまうものでもあります。それもまた仕方がないことも分かります。しかし、です。この気持ちそのものを、もっとジックリと、しっかりと見つめてあげましょう。すぐに行動を促すのではなくて、その感情と認識の近さとか、鼓動の音とか、涙が溢れる瞬間と言葉の関係とか、そこにとても豊かな心情が息づいていることの素晴らしさを、もっと認めてあげたいものです。保育とマルクスの交差点もここにあるはずなのです。

成長展のお知らせを配布しました

2021/01/21

新型コロナウイルスの感染者数がピークを超えたと報道された今日21日(木)、来月の「成長展」2月15日から10日間開催の案内を配布させてもらいました。このホームページの「お知らせ」(パスワード必要)にも載せました。緊急事態宣言が発出されて今日でちょうど2週間、先週に比べて85%の感染者数に減少しました。減少し始めたとはいえ、このペースでは終息は春になります。1週間かけて15%しか減少しないと、一日の感染者数が500人になるのは3月にずれ込むからです。今日の成長展のお知らせにも書き添えましたが、感染状況によっては開催時期がずれ込むかもしれません。

成長展という行事は、この1年間の子どもの成長を、いろいろな側面からお伝えしようというものです。小学校の行事で例えると、名称は色々ありますが生活発表会とか学習発表会などと呼ばれるものに近いでしょうか。劇や合唱・合奏などもあれば作品展などの場合もあります。当園の場合はお楽しみ会とセットで考えてもらってもいいかもしれません。ただ異なるのは、保育園の場合は子どもの作品を通じて身につけたものを伝えようとしても、乳児など小さい子どもが「作品」と呼べるようなものを想定することは難しいのです。

そこで子どもが作ったものを作品と捉えるのではなく、子どもの育ちそのものが作品になるようにできないか、と考えました。そこで育ちの変化を定点観測することで、その変化が成長になるのではないか、そのために定期的に同じことをやってその変化を見てもらうことにしました。例えば言葉なら、自動車の絵を見て「ブッブー」から「くるま」に変わるかもしれません。表現ならりんごの「ぬりえ」の色や塗り込み具合に変化が見られるかもしれません。これを健康、人間関係、環境、言葉、表現の教育の五領域すべてでご覧いただく予定です。

就学を目前にした年長さんの育ち

2021/01/20

二十四節気でいう大寒の今日1月20日(水)、感心する子どもたちの姿を目撃しました。3階の幼児フロアで朝のお集まりが始まろうとしているときのことです。私が運動遊びを見守った後で、お集まりが始まろうとしていたとき、年長のKくんが年少のSくんに「Sくんはお当番だよ、お集まりが始まるよ」と声をかけていました。すると高い塔がまだ完成していないSくんは「もうちょっと、待って。これをやったら・・・」ともう少し遊びを続けます。それを受けてSくんはKくんの積み木づくりを手伝います。その手伝い方に感心したのです。

それは完成させることを手伝いながらも自分で遊びを区切り方を促すかのように、塔の頂上に乗せる最後の三角の積み木は「これ」と渡してあげていました(上の写真)。まるで私たち保育士がよくやるのですが、最後の美味しいところは自分でやって達成感を感じるように援助するということと同じだったのです。

例えば「衣服の着脱」という自立を育てるとき、靴をはく、ズボンをはく、などまだ全部を自分でできない頃には、できないところは手伝っても、最後は自分で「やった」「やれた」という気持ちになるような援助を心がけます。できた!食べた!やれた!という気持ち(心情)を持って終えることで、また自分でやろう!という意欲につながっていくからです。

年下の子どもの気持ちに共感し、その気持ちを理解しながら、援助していました。特にあれこれと言葉で言うことはありません。これが「見守る保育」の基本です。このように年長さんの年下の子どもへのお手伝いの姿を見ると、家庭も含めてこれまでの異年齢生活の賜物だなあ、としみじみと思いました。子育てにおいて大人も見習ってほしいものです。

お集まりが始まって出席を取るときも感心することがありました。その日の「出欠をとる」のは、数を確認するのが目的ではありません。お休みのお友だちの顔を思い出し、その子のことを思い浮かべ「どうしているのかな」と想像することが「出欠をとる」ことの目的です。

各グループの年長さんが「誰と誰がお休みだから何人です」のような内容を報告するのですが、そのやりとりを見ていると「お楽しみ会」でやった劇遊びのセリフを思い出しました。劇遊びで培った集団の中で役割を持った会話パターンを、このような集まりの中に応用しているかのように見えました。

小学校ではこのような場面が増えます。「他人が喋っている時にはそれを聞くようにする」ということが必要になります。お集まりは年長さんのその様子を年中、年少のお友達も身近にする機会にもなっています。気づきにくい集団の育ちですが、とても大切な大きな成長です。

「心からのお願い」のココロは?

2021/01/19

「園長先生、先週のブログを読んであれは私のことでしょうかと、心配されている保護者の方がいらっしゃいますよ」と、先生から話がありました。14日(木)に書いた「園長の心からのお願い」に対するものです。実はそのように担任に相談された方に限らず、15日(金)の朝には「大丈夫ですか?読みましたよ。何かあったんですか」と声をかけてくださった方もいらっしゃいました。他にもあのブログの内容について、<つまり、あのココロは?>と思われた何人かの方と、立ち話をしました。「ごめんなさいね。ちょっと書きすぎました。何のことかわからなくなってしまったかもしれませんね」と申し上げました。改めて説明しておく必要がありそうです。

お願いの趣旨(ココロ)は・・・

「緊急事態宣言が出て、これまで以上に不安が募る保育現場の中で頑張っている保育園、及び保育者を守ってほしい、支えていただきたい」

ということです。

いま在園している保護者の方の誰かを念頭に置いたものではありません。そういう場合は直接、その方とやりとりすればいいだけです。他の皆さんに語りかける必要はありませんから。

しかし、あのタイミング(宣言発出から1週間後)で上記のお願いをしたのは、皆さんと、ある思いを共有しておきたかったからです。それは年明け1月2日のブログで書いた「労り合いの気持ち」です。今後の展開次第では、最悪の場合、保育園から陽性者がでて臨時休園になってもちっともおかしくありません。近隣の区でそういう事態がすでに実際に起きており、突然明日から保育園が閉まります、ということになるかもしれません。

その時、どんなことが起きているかというと、当事者(保護者や職員)が責任を感じてしまい、そのダメージは相当なものになっているのです。緊急事態宣言から発出されて1週間たったときでも、今は「緊急事態なんだ」という意識が世の中に薄く、私は「これはまずい」という危機感に襲われました。そのことは15日(土)のブログに述べた通りです。保育園の職員の意識と周りの方の意識のギャップです。

14日の「お願い」では、子どもの保育が保護者に向けられるサービスに変質していった過程にまで遡って述べたことが分かりにくさの一因になったかもしれません。その過程を書いたのは私の中に「やってあげる丁寧な保育」の落とし穴と「危機の時でさえ、いつも現場丸投げ」の厚生労働省への不信があるからです。保育園を脆弱な構造のままに放置しておいて、児童福祉施設だから何があっても閉めない。そのアンバランスさへの憤懣です。もちろんコロナ対策の不作為への疑惑もそれに拍車をかけているわけですが。

アロペアレンティングが必要になったことと子どもの自立度の現状は、時代と社会構造の変化が原因であって、それをどうにかしてほしいと「お願い」しているのではありません。ただ、このような善意と奇特さに支えられている保育園の現状を理解しておいて欲しかったのです。先生たちの頑張りと不安感を前にして、悔しい気持ちを抑えられなくなったのです。そういう気持ちになるようなきっかけがあったのは事実ですが。ここが誤解されてしまったかもしれません。

月にのぼる者

2021/01/18

今朝、年長組のJ君が事務室にやってきて「園長先生、将棋やろう」というので3回ほど指しました。びっくりしたのは12月に初めたばかりの将棋を、もう立派に指しこなしていたのです。全てコマの動きを覚え、三手先(自分が指す手の後で、相手がきっとこう守るだろう)を考えています。大したものです。子どもの上達は早い。この学習速度は大人はかないません。こうして文化的実践力を身につけていくことは「豊かさ」に他ならないでしょう。将棋に限らず碁でも、チェスでもオセロでも構いません。体操でも英語でもバイオリンでも習字でも算盤でも、その文化的な共有資源につながっていくことは、その人が豊かになっていくことと言えます。

この遊びや保育の話を、昨日の話と繋げてみましょう。

豊かな保育とは何かを考えるヒントが、マルクスのいう「富」の考え方にありました。マルクスは富とは空気や水や公園や図書館やコミュニケーション能力などの例を挙げ、全てはお金にならない社会的な富であるとしました。自然の豊かさもそうでしょう。人間的豊かさも入れていいのでしょう。人が自然界のものを取り入れて、つまり食べたり飲んだり息をしたりして生きているわけですが、その結果がまた自然に戻っていくサイクルがあります。そのやり取りの過程に「お金」は介在しません。しかし市場(マーケット)が成立すると、なんでも「商品」に変わっていき、お金で手に入れることができるようになったのが近現代です。

富と商品は本来、別のものだということです。空気はまだ商品になっていません。水はすでに商品になってしまいました。なんでも商品になってくると、それを「買える」お金をたくさん持っている富豪が「豊かな人」だという錯覚に陥ります。本来の「富」は、お金で買えないものがたくさんあるのですが、それを手に入れようとする時に、お金で買うということで手に入れようとする態度に違和感を感じる原因はここにあります。富と商品の混同が生じているのです。

昨日17日のNHK「麒麟がくる」第41回「月にもぼる者」には、この「富は金に変えれない話」の例がたくさん出ていているように見えて興味が尽きませんでした。松永秀明が命の次に大切にしていた茶道具「平蜘蛛」を、光秀から譲られた織田信長が「なんとも厄介な平蜘蛛じゃなあ。いずれ今井宗久にでも申し付け、金に変えさせよう」と言い放つ場面。予想だにしなかった趣旨返しに光秀が驚愕しているのは、平蜘蛛を持つ者は「誇り高く、志を失わず、心美しき者であるべき」という富の話だったのですが、それを商品を扱うかのようにしたからです。

皆さんは空気が商品になったらどうしますか?それは困ると思いませんか。でもすでに土地は商品(不動産)になって久しいですし、水もペットボトルで買う経済にすっかり慣れてしまっています。地球資源がなくなれば、まだ誰のものでもない月も新しい植民地となるのでしょう、21世紀の帝国主義争奪戦がすでに始まっています。戦国時代はまだ、月を手に入れる話は寓話でしたが、今は現実になってしまいました。月も商品になる日が近いのです。昔から言われてきた「月に手を出すな」を言い換えると、「月を商品にするな」だったのですね。月を見て歌を詠んでいる豊かさの方が、本物の「富」ではないでしょうか。

未来の社会を創り出す

2021/01/17

◆2つの自由

先日、NHKの「100分で名著」に斎藤幸平さんが出ていました。マルクスの「資本論」を解説していたので、思わず見入ってしまいました。そして、そうか!と思ったこと。それは、なぜ、どんなに豊かになっても労働が楽にならないのか?なぜ人は働き続けなければならないのか?なぜ労働時間は短くならないのか?その理由を、マルクスはすでに資本主義の中の2つの自由に見出していたそうです。

◆生産手段の喪失

それは「強制労働からの自由」と「生産手段からの自由」です。なるほど、と感心しました。と同時にドキッとしました。生産手段からの自由というのは、それは「生産手段の喪失」ということです。私たちは、生きていくために必要な衣類も、食べ物も、住む場所も、全部手に入れる手段としての「生産」を奪われている社会なのだということです。働いてお金を稼いて購入しないと手に入りません。自給自足の生活はできません。

◆強制労働からの自由

強制労働からの自由というのは、奴隷のような労働からは解放されているということです。私たちはある程度、自分で職業を選択しています。番組でも「労働者は自分の労働力を誰に売るか、あくまで自発的に決めることができます」と説明します。しかし、生きていくためには労働力を売り、賃金を得なければなりません。マルクスは資本論でこう書いています。

「自由な労働者は、自分の必要に駆られて労働する。自由な自己決定、すなわち自由の意識やそれと結びついている責任の感情は、自由な労働者を奴隷よりも遥かに優れた労働者にする」。

仕事を失ったら生きていけないとい恐怖、自発的に選んだという自負、職責を全うしなければいけないという責任感。労働者を過酷な労働に縛りつけるのは2つの自由だったというのです。このカラクリから抜け出せないのは、資本とお金の仕組みからきます。

◆母なるガイアから締め出された私たち

この話を聞きながら、私はこう思います。私たちはそもそも地球で発生した生命の子孫なのですが、その母なるガイア(地球)に生息するために家賃を払わなければならなくなった先祖は、つい最近のことなのです。どこかに住むために、資産家でもない限り、みんな家賃を払うために働いています。そうなってしまっているのは、公的空間だった地球という場を、つまり誰のものでもなかった自然の土地が、近代国家の成立の過程で、誰かの私有地か国家のものとして「囲われていった」からで、私たちのどのかの先祖が、そこから追い出されたのです。私たちは国家権力から土地を奪われた先祖の末裔でしかありません。

そうして、生まれついた時から、それが当たり前だと思い込まされているので、自然の土地が、売買できる誰かの私有財産としての価値に置き換えられていったので、生命の保持のために住むところでさえ、労働を売って得た賃金で購入、ないし借りなければ生活できなくなってしまったのです。これって、本当はおかしな話なんだと理解してから、でも歴史的にそうなってしまった経緯を理解しておくことは重要だと思います。

◆不安定は仕組みである資本主義

そう考えてみれば、資本主義という社会はとても不安定な社会だとわかります。生産手段を奪われ、奴隷よりも自発的にせっせと働く勤勉で優秀な労働者。資本家にとってはこんな都合のいい仕組みはありません。確かにコロナ禍でまさか「マスク」も「アルコール」も手に入らなくなるとは思っていませんでした。地震や火事に備えて私たちは「防災訓練」をしているのに、「感染症対策訓練」はやってきませんでした。保育園でも毎月、腸内検査をしてそれが陰性でないと調乳や調理はできません。検査会社は自由に保育園が選びます。食中毒の予防からです。コロナ感染対策も同様にすればいいだけの話です。もっと現場から知恵をあげて、それにみあった法律の中で対処するべきです。ことを大袈裟にしておきながら肝心な対策をしないように見えてしょうがないです。話を戻しましょう。

生産手段を民主的に取りもどす

そうすると、将来の持続可能な社会のためには「生産手段」を民主的に取り戻し管理することが必要となります。政府や大企業だけに、その方針を任せておくわけにはいきません。経済を回すために「価値」を生み出すための経済のあり方を見直する必要が出てきました。本当に生活に必要な「使用価値」だけを生産する働き方に変えないといけません。

使用価値を生む仕事とは、起こりうる危機に備えたものを優先させます。例えばコロナ禍で言えば「新しい生活様式」に必要なものになります。そこにはもちろん医療の充実も含まれます。仕事はエッセンシャルワークを柱にすえます。創造的な仕事になるように分業的な働き方を求めません。生産性の向上による競争をやめるために、環境保護のアジェンダと連動させた大胆な政策を導入します。そして衣食住に必要な生産と暮らしの場をできるだけ接近させることにアイデアを出しましょう。

労働時間の短縮を大胆に進める

ちょうどフィンランドが労働時間を週30時間に短縮しようとしています。日本でもその選択制を導入しようという議論が始まりました。私の考えは、EUが追求しているように、子育てと仕事を両立させるために、週30時間だけ保育園に預けるぐらいがいいでしょう。保育者も週30時間勤務に変えます。都市部の職住分離をテレワークが補いながら、勤務時間を削減します。人流の少ない地方はコロナ禍のリスクも低いので、自動運転革命によって、高齢になって都市回帰を求めなくてもニュータウンに住み続けることが可能になるようにします。

都市と農地が接近し地産地消の割合を増進させる

社会を再生可能で持続可能なエネルギー構造に転換させる必要がありますが、大規模な分配方式ではなくて、自立した地域を多元化させます。ローカルな場所から実践する。政府や大企業を動かそうとしないで、市民が小さなモデルを勝手に作り始めるといいんです。小さくても数が増えること、政党がこうした未来型の政策を取り入れるようになるでしょう、きっと環境問題がそれを後押しするようになると思います。

今は緊急事態の真っ只中であるという危機感

2021/01/15

「患者数、重症患者数の急激に増加が続いています。また、医療機関の患者対応はひっ迫してい ます。1 月 7 日、『緊急事態宣言』が出されました。日中も含めた不要不急の外出を控えてく ださい。 食事中は会話をしないことはもちろんですが、可能な限りマスクを完全にはずさないように しましょう。」

これは千代田区の健康推進課長(医師)のコメントです。千代田区のホームページに、週ごとの感染者数の推移が載っていますが、感染者が急カーブで上昇してきているのがわかります。11月の50人から12月の93人へと約倍増しており、1月は3日から10日までの1週間ですでに72人ですから、おそらくその3倍以上の200人を超えることになるでしょう。

https://www.city.chiyoda.lg.jp/documents/26388/chiyoda-yosekanja0112.pdf

20歳未満も増えているのですが、その内訳が載っていません。乳児や幼児がどのくらい感染しているのかわからないままです。報道ベースでしかないのですが、おそらく「乳幼児はあまり感染しない」という判断から、保育園や幼稚園の職員で陽性が出ても、子どもを「濃厚接触者」と判断せずPCR検査をしていない保健所があるようです。

千代田区では12日(火)に「先週末から複数の区内保育施設において、職員の新型コロナウイルス感染が確認されました。これに伴い、職員の濃厚接触者も複数名発生しております。」という注意喚起の連絡がありました。12月8日に園児1名が陽性になった時は、全ての職員と子どもをPCR検査して陰性でした。その後まだ子どもの陽性は発生していません。

https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kurashi/bosai/coronavirushonbu/honbuho-no19.html

これだけ感染者が急増して保健所と検査会社の業務が逼迫してしまうと、どこまでを「濃厚接触者」と判断していくか、今後、不安な事態が想定されます。症状がある人や高齢者を優先することが容易に想像できるからです。このような形で、検査体制の綻び(限界)から、コロナ感染の予防検査ができなくなっていくのですね。私たちは、それを目の当たりにしています。ウイルスは見えなくても仕組みの破綻は明らかに「見える」ものなのです。それが科学的思考です。

新型コロナウイルスの研究が進み、今ではこのウイルスの元々の性質が「無症状で広く移す」という性質であることが判明しています。流行すると変異の種類が増えて、その中から毒性の高い変異種が出て困ったことを引き起こすわけですが、東大先端研の調査などによると、そうした変種はなぜか「徒花のように消えてしまう」(児玉龍彦)と言います。その拡大を防ぐのも大切なのですが、より大切なのは、ベースになっている大元のウイルスを根絶することだそうです。

もしそうだとすると、集団の場所、無症状で感染を広げてしまうリスクのある場所、つまり病院や高齢者施設や保育園などは、徹底的に検査をして「知らない間に広がっている見えない感染」を抑え込む体制を作る必要があるという結論になります。今のように症状のある患者しか捕捉できない行政検査の拡大しかしない方針だと、感染の急増期には検査対象を狭めてしまい、無症状の感染拡大を放置してしまう結果になりかねないからです。

ここで、ぜひ覚えておいてほしいデータが明らかになっています。それは社会的検査を実施している民間の検査会社によると、陽性率が1%もあったのです。これはとてつもなく「大きい数字」です。もし東京23区970万人が全員検査をしたとしたら9万7000人が陽性になるからです。どの会社なのか公表されていませんが、その信頼度の高い報道では「保健所から、この数字は勝手に発表しないようにと釘をさされた」と言います。これが実態かもしれないのです。それでも、この民間会社の検査には、乳幼児は含まれていないでしょう。

日本が頑なに社会的検査を進めない理由、社会的検査の精度を問題視するキャンペーンの口車に乗っている感染村研究者たちの顔ぶれを見ていると、保健行政のセクショナリズムだけではなく不都合な真実を隠し通そうとしているのかもしれないとさえ思えてきました。ワクチン接種が始まってしまったら、不顕性感染していたのか接種によるものなのか、わからなくなってしまうでしょう。

そういうことはともかく、保育園や小学校をこのまま休園休校しないで乗り越えるつもりでも、ワクチン接種が行き渡るまではまだ相当時間がかかるでしょうから、その間にケア施設や保育園などを介在して家庭へ逆流していく可能性がないとは言えません。

感染地域はまだらです。地域によって状況が違います。冒頭の写真は、東大先端研究所が、東京都のデータをもとにまとめたもので、「1万人あたりの感染者増加数」(2020年12月3日から2021年1月12日まで)を、色別に表したものです。黒色が40以上、赤色が30以上、だいだい色が20以上、黄色が10以上です。

区内で感染源になっているのは黒色の新宿、渋谷、港です。次に増えているのが、この3区に隣接している赤色の千代田、中央、中野、目黒、品川です。じわじわと周辺に拡大していることがわかります。

この中で保育施設で感染が報告されている件数で多い順に、文京の20件、港区の18件、葛飾区の10件、新宿区の7件。先ほども述べましたが千代田区は子どもの陽性はまだ1件、職員が数件だけです。

これまで通り保育園は保育を継続しますが、千代田区でも数は少なくても保育園での感染が発生しているんだという認識を持っていただき、今が緊急事態の真っ只中であるという危機感を共有したいと願っています。

園長からの心からのお願い

2021/01/14

私の上司である藤森平司統括園長と一緒に働き始めた頃ですから、それは1997年頃のことです。「倉掛さん、保育園は今何でもやってあげすぎて、親が自分の子どもから聞こうとしなくなっているんですよ」と話し始めたことを覚えています。「どういうことですか?」というと、こんな話でした。たとえば遠足に持っていく物に「おしぼりと水筒を持ってきてください」とお願いすると、乾いたハンドタオルと空の水筒を持ってくる保護者がいるというのです。

「いつも何でもやってあげるものだから、先生からタオルも濡らしてもらえると思っているし、水筒にも麦茶を入れてもらえると思っているんですよ」

毎日給食のある保育園は、普段の持ち物として、エプロンやお手拭きタオルを持ってきてもらっていますが、確かに、それは乾いたタオルです。でも遠足の持ち物として弁当と一緒に濡らしていないタオルをリュックに入れることが不自然に思わなくなってしまうのが保育園の保育サービスというものなのか、と半分笑い話のように聞いた思い出があります。これが幼稚園や学校だったらありえないことはすぐにわかるはずです。藤森先生はこうも話を続けました。

「やり過ぎているかも?と思うのは、連絡帳もそうです。毎日どんな風に園で過ごしたのかを書いてあるので、お迎えに来たときに、自分の子どもと話をしようともせず、また子どもも見ないで、すぐさまお便り帳を読み出す親がいるんですよ」

この話は、実は深刻な問題を孕んでいたことが、四半世紀も経った今、はっきりとわかります。保護者は、自分の子どもが自立することよりも、保育園に説明責任を果たすことを強く求めるような時代に変わってしまったのです。自分の子どもを育てる第一次的責任は親にあるのですが、何を誤解しているのか、まるで保育園に養育義務があるかのような雰囲気ができてしまいました。

緊急事態宣言が出てから、きっと皆さんの職場や生活の中で、大変な状況に置かれてしまう方がいらっしゃるかもしれません。そこで予想されるリスクを少しでも軽減していくために、このタイミングで大切なことをお話ししておきたいと思います。

コロナの長期化で保育園も疲れているということです。話は保育の脆弱性についてです。実は保育園という組織は見かけと違ってとても弱く、ちょっとした人の言葉でガラガラと崩れてしまうかもしれないほどナイーブなものだということです。そうなってしまったのは歴史があります。

保育サービスという言葉が、市民権を得ていく過程で、児童福祉施設の役割を超えて、延長保育などの長時間保育、一時保育、病後児保育、休日保育などの「預かり保育」事業が増えていきました。確かに就労形態や社会構造が変わったとはいえ、この変化は保育園に勤める良心的な保育者を病に追い込みました。子どもが大好きな保育者が、精神的に参ってしまいました。そんな時代がありました。

一方で、子どもの保育に携わる保育士の数(国が決めている基準)は全く変わっていないのに、保育園に求められる仕事は「子どもの保育」を大幅に超えて、保護者への「子育て支援」という名の業務がものすごく増えていったのです。核家族の子育て環境では親の養育力が低下するのは当たり前ですから、保育園が社会的親として子どもの育ちを支えるパートナーの役割が期待されるようになるのも自然な成り行きでした。皆さんはすでにご存知だと思いますが、私が常々申し上げてきた「アロペアレンティグ」です。

そういう意味で、保育園や先生を信頼して手を携えてこの困難を乗り越えていきたいのですが、先程の歴史の中で、我が子可愛さからか、パートナーであるはずの保育園に対して問い詰めるように説明を求める親が出てきたのです。本人は保育サービスの需要者として正当な権利を行使していると思っているのですが、それは筋違いも甚だしく、保育者のストレスや心理的負担は計り知れず、保育現場から離れていく保育者がどんどん増えていった時代があります。保育者養成に携わる大学や短大、専門学校で学生に「保護者支援」をどう教えるか、大きな問題になったのです。

国の基準についても覚えておいて欲しいことがあります。その基準は最低基準というのですが未だに「サイテー」なままです。たとえば2歳児クラスは一人の先生が6人の子ども保育するという割合です。それが3歳児クラスになると一人の先生で20人をみなければなりません。6対1から20対1になるのです。それはそれだけ子どもが自立しているという前提になっているからです。

その自立というのは、いわゆる身辺自立です。食事、睡眠、排泄、衣服の着脱、清潔の5つです。これが自立していることが3歳児クラス(年少保育)の大前提です。ここに保育者の手が必要な子どもが多いと、3歳児以上の幼児教育はできません。幼稚園が3歳からなのはそのためです。

ですから当園の場合は、わいわい組(3歳児)10人に一人の先生をつけているので国の基準の倍の態勢にしてあります。さらにらんらん4歳、すいすい5歳は合わせて30人に一人というのが国の基準です。30対1なのです。この基準に従えば、らんらんすいすい合わせて20人ですから一人の先生もつけられないのです。つまり本当は幼児30人に対して、0.5人+0.66人=1.2人しかつけられないのです。

実際には各クラス一人ずつの3人によるチーム保育です。つけてもいいのですが「国からの運営費(公定価格)」がその計算でしか来ませんから、地方自治体が加算します。それでもギリギリの運営であるとは変わりません。

この日本の認可保育園の「貧しさ」を理解していただき、保育を支え合っていただきたいのです。あまりにも細かなことまで正確な説明を求めたり、職員が何でも共有理解を図っておくべきだ、などと思わないで頂きたいのです。

ましてや、新型コロナ対策が始まって以降、それまで以上に清掃消毒や換気などの業務も増えています。感染の可能性がある中での保育です。さらに今は緊急事態の中での保育なのです。

どうぞ支え合う姿勢を大切にしていただき、大変な保育環境の中で、不安を抱えながら保育をしている保育者を大切に守っていただけないでしょうか。心からお願いします。

人と人のコミュニケーションは言葉の気楽なやりとりが基本です。胸襟を開いた中での関係が基本です。人間関係には何度でも言葉が行き交い、心が通いあい、感情の交流があるものです。

保育園の先生と保護者の皆さんとの間に、信頼できる関係がなければ、その狭間で子どもは親の顔色を伺い、自分の気持ちを押さえ、親の意向に沿おうとして本音を隠したりします。

しかし保育園ではありのままの姿を見せてくれていることが明瞭です。親は家にいる時の子どもの姿が真実だと思いたいし、その姿しか知りません。でも違うのです。人はその環境によって見せる姿が違うのです。人間とはそういうものなのです。また人と人の間には言葉や気持ちのキャッチボールが成立することで人間になります。この大前提を肯定し合うことが、子どもの保育には不可欠なことなのです。

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