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園長の日記

「人新世」時代の保育とは?

2020/12/25

園だより1月号 巻頭言より

 

昨年1月の巻頭言の書き出しで「今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります」と書いて、見事に外れました。その文章のすぐ後に「この一年でさえ、どんな年になるのかわからない」とも述べていますが、その数ヶ月後に「コロナ」でこんな一年になるとは、誰も想像していませんでした。何が起こるかわからない時代にすでになってしまっています。こんなとき、私たちは何を指針にして物事を考えるといいのでしょうか。

経済思想家の斎藤幸平さんは『人新世の「資本論」』(集英社新書)の中で、人間の今の経済活動のままでは地球環境を破壊してしまうと警鐘を鳴らしています。「人新世」というのは、これまで人類は大いなる自然から影響を受けて生きてきましたが、今の時代は人類が地球規模で自然を変えてしまっている時代になっているという意味です。このままではコロナ禍をはじめ気候変動や食糧危機などを招いてしまうので、なんとしても脱経済成長、脱成長コミュニズムへと転換する必要があると提唱しています。

この考え方には、何が成長なのか、何が進歩なのか、あるいは何が善きことなのかを考え直すことも含まれています。その価値転換が先にできないと、今の仕組みを回している大きなモーメントを「ずらす」ことはできないでしょう。例えば「経済の成長なくして財政再建なし」と言われれば、多くの人は「そうだよな」と思ってしまうからです。経済を成り立たせている下部構造(マルクス)の仕組みをどのように転換していくのか、その経済と暮らしを持続可能なように描き直す作業が、どうしても必要なようです。

でも、そんな大きな話と日々の暮らしをつなぐための「物語」が欲しいと思います。発想の転換という意味では、労働と余暇という区分けではなく、働くことが楽しみや喜びとなるような生活への転換、時間で測定される対価から、共感と貢献を実感できる価値社会への転換、そういった働き方や生き方への転換を考えていきたい。仕事がアートになったり、勤労が精神性の開発につながったり。あるいは生産結果の効率追求の競争から、生産プロセスの中に価値を見出せるような活動への転換です。

このことを「保育」という仕事で実践するとどうなるのか?きっと人新世の「保育論」が必要になるでしょう。その具体的な実践を面白いと思えるような一年になるといいのですが、どうでしょうか。

自然に属する子どもにたずねよ!

2020/12/24

人間は頭で考えると間違えることがあるので、人間の「内なる自然」に耳を傾けよう。こんな趣旨のことを聞いたことありませんか? このようなことに耳を傾けた方がいいのは「大人」です。子どもに向かって、このようなことを言いたくなることはあまりありませんよね。頭でっかちで気難しく、頑なに心を通わせにくいのは大人の方が多いですからね。なぜでしょうか。答えは簡単です。子どもは自然に属しているからです。西欧宗教圏なら「子どもは7歳までは神の子ども」という言い方もあります。確かに子どもはまだ「自然」そのものの要素が大きいのです。

子どもといると、その真っ直ぐな心のありように「自然」を感じます。この子どもらしさを変に歪めたくない、と感じます。当園は、この子どもの「自然性」を大切にした保育を実施しているつもりなのですが、当然ながら行事も同じ考えにあります。昨日でお楽しみ上映会の期間は終わりましたが、今日24日の追加上映のときにも、にこにこのHちゃんが「ぐんぐん」の映像を見ながら一緒に体を動かし始め、「にこにこ」の劇を見終わって「もっと見たい」といっていました。その様子を見て、私はやはり自然そのものである子どもが望むものには、そこに自然の摂理が働いていると感じます。

私はよく「子どもが繰り返し求めるものには発達に必要なものが含まれている」という言い方をします。発達は使うことで伸びるからです。何かを身につけるときに練習や訓練をすることを思い浮かべて貰えば分かりやすいでしょう。あるスキルを身につけるには繰り返すことに効果があることは誰も否定しないでしょう。これは言い方を変えれば、スキルはその能力を使うことで上達するといえます。それを自発的にやるのが「遊び」です。遊んでいるとき使っている能力が伸びます。遊びは練習や訓練ではなくても、同じ効果があるのです。

しかも「自発的」にやるので、意欲満々です。イヤイヤやるのと違って効果テキメン、そこにも、発達における自由遊びの重要な意味があるのです。劇遊びで育まれる資質や能力は、知識や技能だけではなく、思考力や判断力も働いているし、もっとやりたい、できるようになりたいという意欲などの非認知的能力が含まれています。

子どもは、このようなことを誰に教わるわけでもなく「遊び」を通じて身につけていきます。こんなことは、人為的にできるようなものではありません。やはり自然の摂理が働くものなのです。それを信じることが「子どもを信じる」と言う意味になります。自然に属する子どもにたずねよ!という感性を大人は磨く必要があるのでしょう。

 

自分の姿を見て楽しむ子どもたち

2020/12/23

子どもが自分の姿を眺めたときに、どう感じたり何を思ったりするんだろう。今日23日(水)はそんなことを考えながら、おたのしみ上映会を運営しました。私は「お楽しみ会」というものを1997年度から毎年やってきましたから、今年で23回目になります。これまでの経験からすると、舞台の上に立って何かをやるようなことが恥ずかしかったり、億劫だったり感じている子どもは、もしそれを撮影したものがあったら、きっと見たいと思いません。年齢によっては親に見られたくもないかもしれません。ですから、そのようなことになるような劇遊びの演じ方は決してしません。その子らしく参加したい方法を作るようにします。

今回のおたのしみ上映会をご覧いただいたらお分かりの通り、そのような姿は皆無です。どの子どもも楽しそうにやっています。そして、親子で自分の姿を見ている子どもたちは、自分が出てくると身を乗り出したり、親に教えたり、歌を歌い出したり、一緒に手遊びを始めたりしていました。劇遊びをもう一度見て楽しむことができるた上映会になっていました。

また子どもも自分たちの演じたものを見る機会はこれまでありませんでしたから、「自分たちでやったものが、こんなになっていたんだ!」という体験になります。これもきっと素敵なものです。予行練習のときに、お互いの劇などを鑑賞しあうことはあったのですが、自分たちのものを自分たちで見ることはありませんでした。

コロナ対策でやむなく編み出した方法ですが、このような子どもの姿を見ると、今回の上映方式の良い面を感じます。従来のお楽しみ会は1回きりです。保護者の方も、自分の子どもは舞台の上であり、一緒に見ることはできませんでした。できるとしたらビデオで撮ったものを家で一緒に見ることしかできなかったでしょう。楽しい体験を親子で共有することは幸せなことです。

それが今回の上映方式だと、やりやすかったかもしれません。私も従来の方法だと上演されている劇や合唱などの姿の方に注意を向け続けなければなりませんから、今回のように親御さんがどのように受け止めているかを拝見する機会はあまりありませんでした。そういう意味でも新しい発見があって楽しい時間になりました。

 

劇遊びが育てているもの

2020/12/22

子どもは役者であり演出家です。自分の役を演じながら、お友達にも合図や指示やアドバイスをしています。3歳の「おおきなかぶ」で列をなす時、前の子から離れていると「Hちゃん、つかまって」と声が飛んできます。4歳の「ももたろう」で、座っている犬役に「Kちゃん立って」と伝える子がいました。また桃太郎は猿や雉子にきびだんごをあげて歩き出すと「一周する前に、ここに入れて」と教えていました。5歳の「エルマーのぼうけん」では、トラやサイが台詞をいうときに、「せ〜の」と呼吸を合わせるような仕草でリードする子が出てきます。なんと言うのか、台詞を耳打ちして伝えて「いい?」と確認してから、リズムをとって一緒に喋り始める光景も何度かあります。

このように、劇で決まっていることを、そのようにするために子どもたちは自然と「伝え合う」のです。そうするように先生に言われてやっているのではなく、自然発生的に起きています。こうしてコミュニケーション力が培われていきます。その伝え方はあくまでもフラットに教えているのであって、命令や指図や指導ではありません。お節介な感じがしません。そういうことになっているよ、ということを伝えるだけです。幼稚園教育要領や保育所保育指針は、このように育っていく力を「協同性」と名付けています。この力の育成を解説したところには、やはり事例として「劇遊び」が取り上げられています。

言葉の発達から見ると、上手にセリフが言えることよりも、劇をよりよく成立させていくために、普段の会話として伝え合う姿の方に育ちが見えます。見通しを持って気を働かせていることがよく見えます。みんなで作り上げる劇の全体像から、自分や友達の役割や動きや台詞を全うしようとする姿勢。このコラボレーションの力は、創造力とコミュニケーション力と合わせて、これからの時代に欠かせない「3つのC」と呼ばれるコンピテンシー(能力)の要になります。

クラスが1つの劇団だとすると、全ての子がメンバーシップを発揮していることになりますが、そこにはリーダーシップをとる子もいたり、フォロアーシップをはっきする子もいたりします。大人の組織も大なり小なり、似たようなことでうまくいったり躓いたりしています。自己発揮と他者支援の芽生えが、劇遊びの中に色濃く現れているのです。

子どもが好きな児童文学が意味するもの

2020/12/21

ここのところ連日、おたのしみ上映会のことばかり述べていますが、今日21日(月)は、1部2部合わせて6家庭の参観がありました。どのご家庭もご自身のお子さんの姿をとても温かい目でご覧になっていました。

1歳児や2歳児が劇遊びの終わりに差しかかると「もっとやりたい!」「また、やりたい!」という声が聞こえていましたが、今日上映した3歳以上の劇でも、それを楽しんでいる時の気持ちの中には、「もっと」や「また」が躍動していました。これが意欲の表れですが、このように意欲的であるのは、それが「面白い」からに他なりません。その面白さがどこからくるのかというと、1つには児童文学の力にあるのだと思います。芸術的なものと面白さが両立しているからこそ、繰り返し楽しみたい、再現して味わいたいという気持ちを生んでいるのでしょう。

日本の児童文学の変遷を遡っていくと、面白さと芸術性を両立させた代表的な作品群と出あいます。その1つが中川李枝子さんの『いやいやえん』ですが、年長の子二人から今日それを「また読んで」と頼まれました。「また」「もっと」と子どもが唱える時、その繰り返しを求める体験によって、なにが成長しようとしているのだろうと考えます。子どもの繰り返しには必ず意味があり、そして必ず成長の契機や断面をあとで確認できるからです。

児童文学が心の糧であるなら、その契機や断面は心の姿を表していることになります。「いやいやえん」をまた読んで欲しいという子どもたちがいるということは、望んでいる成長の姿、願望がその話の向こう側にあるということです。2歳の「てぶくろ」3歳の「おおきなかぶ」4歳の「ももたろう 」5歳の「エルマーの冒険」という児童文学の向こう側。そこに子どもの心を見出さなければなりませんね。

おたのしみ上映会で見える言葉の育ち

2020/12/20

子どもはある時から母語をしゃべりだす。ことさら大人が「教えている」わけではないのに、日本で生活し、親が日本語を語っていれば母語である日本語を語り出します。しゃべるようになる前に、胎内にいた頃から母親の声を聞いてきた赤ちゃんは、それが意味のある母国語となって獲得されていくまでに1年もかかりません。しゃべらなくても、しっかりと音と言葉を聞き分けて身につけてきたから、ある時から言葉を喋り出すことができるわけです。

そのおしゃべりと、お楽しみ会の中の言葉のしゃべり方は全く違います。遊びや日常会話の中の自由なしゃべりではく、物語の中で使われるセリフですから、限定された言葉だということです。気分に任せて自由に発する言葉ではなく、その場面にあった内容を口にしないといけないので、意識して演じることが必要になります。

その違いは、本編とその前に流れるドキュメント映像と比較するとはっきりします。例えば、にこにこ組の「てぶくろ」のオープニング。そのドキュメント映像の冒頭で「また、オオカミおいで。またオオカミ、お・い・で〜」という言葉が聞こえます。これは遊んでいる時の、ごっこ遊びの中の自然な言葉であり、お店屋さんごっこをしている時の「いらっしゃいませ〜」という言葉と同じです。

ところが劇の中のセリフとなると、話すタイミングも使う言葉も指定されているので、話すのが難しいのです。大人のプロでも劇で語る台詞は事前に覚えておくことが役者にとって重大な仕事になります。それを2歳児クラスの子どもが「お名前は?」と聞かれて「○○ちゃんウサギです」のように答えてしまうのですから、冷静に考えて、驚くべき発達なのです。

明日21日からの「お楽しみ上映会」は2回とも「わいわい・らんらん・すいすい組」の上映になります。その言葉の発達の面からも見てみても楽しいでしょう。台詞を語りやすくしてあげるには、リズムに載せてあげることです。3歳のわいわいは「うんとこしょ、どっこいしょ」のように、節がついているとしゃべりやすい。らんらんの「ももたろう 」は、同じような台詞ですが、節がないので結構難しいのです。

すいすいになると、セリフに自分でリズムを作っている姿も見られます。体を揺すって、そのリズムに合わせて言葉を発するという方法を自分で編み出しています。また台本を読み上げるナレーター 役も登場します。書き言葉を読むこともできるようになっていることも、言葉の発達です。さすが年長さん、という場面でもあります。

行事の背後で確実に育っているもの

2020/12/19

お楽しみ上映会が15日(火)から始まった今週は、16日には乳児健診、17日には12月の誕生会がありました。このように取り上げると園生活が行事を中心に動いているように見えるかもしれませんが、そんなことはありません。大切なのは一人ひとりの子どもにとっての毎日であり、全ての過ごしている時間です。そういう意味では、それぞれの子どもは、自分では意識していなくても発達のテーマを持って生活しています。

その発達の筋道は一人ひとり異なります。2つとして同じものはありません。健康状態も異なれば、一緒に遊んだり過ごしたりする友達の広がりも異なります。興味ある対象も取り組みたい活動も違います。意思疎通の方法や表現方法もその子らしいものになります。

成長が子どもによってどんなに異なっていても、そこに共通の発達の視座を見出すことができます。日本の現在の法規上規定では、教育の五領域、つまり健康や人間関係、環境や言葉や表現です。この発達の視座で一人ずつの育ちをアセスメントしてみると、そこに「千代田せいが保育園」で生活しているならではの育ちの特徴が見出せるはず。それは一体なんだろう?

それについて17日の午後、保育会議を開きて話し合いました。保育は事例で語り合うことになるので、写真や動画を持ち寄り、クラスごとに報告しました。そこで見出されたのは、とても人間らしい育ちの特徴でした。

 

子ども同士の関わり、環境を通して体験したことの再現衝動、その結果としての絵や言葉や劇や音楽で表現された表象、そして最も嬉しいのは自立心や協同性が育っていることがよく分かったことでした。この育ちの成果は、次回の行事、成長展でお伝えすることになりそうです。

物語の楽しさ・劇や童話の世界から

2020/12/18

年長のすいすい組で行っている園長による読み聞かせタイムは、今週2回実施して童話『もりのへなそうる』を読み終えました。このお話は、5歳のお兄さんと3歳の弟の兄弟による「森散策譚」なのですが、そのあどけない冒険心と拙い会話のおかしみに、子どもたちは親近感や共感、時には優越感を感じながら、気弱なりゅうの子どもの「へなそうる」に対して、徐々に強い愛着を形成していきました。「かに」を怖がる優しい「へなそうる」に優しい気持ちを寄せていく、すいすいの子どもたちでした。

来週はいよいよクリスマスの週になります。アドベントカレンダーも後数日になってきて、幼児はクラスの装飾も華やかになってきました。また少しでもクリスマス気分を盛り上げようと、一昨日から、ベランダのある神田川側にクリスマスツリーの形をした電飾を用意し始めましたが、本日ほぼ完成しました。

お楽しみ上映会も4日目になり、運営も慣れてきたところで、私がミスをしでかしてしまいました。上映プログラムを間違えてしまいました。今日は昨日とは異なり、幼児のわいらんすいを最初に上映しなければならなかったのに、昨日と同じ流れでやってしまいました。後半に参観を予定していた方には大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。

参観されたご家族からの感想を読ませていただくと、皆さんとの思いが一致していることに喜びを感じます。お便り帳などに感想をお寄せいただけると嬉しいです。ぜひよろしくお願いします。

 

お楽しみ上映会で感じた「ライブ感」

2020/12/17

お楽しみ会上映会3日目の17日(木)、これまでで最も多い観客数となりました。親子で鑑賞してもらっている様子を見ていて、とても大切なことに気づきました。それは、映画館がお楽しみ会場と似た雰囲気になったことです。子どもが映像で流れてくる歌を一緒に歌ったり、劇のセリフを思わず呟いたり、手遊びを一緒にはじめたり、親御さんの隣で、あるいは膝の上で、親子共々、楽しそうに過ごしていました。このようなリアクションが生じることで、映画館が黙って静かに観るという空間ではなく、ライブ会場と同じような空気に少しだけなっていたのです。

今回の「お楽しみ会」は、劇遊びの様子を撮影して上映するという方法を選んだのですが、その検討過程でネット配信も考えました。しかし今回はそこまで踏み切りませんでした。というよりも、一旦はこの方法でどうなるのか、試してみたかったこともありました。そして、今日の回で「ライブ感」のある上映会というもののよさを見出すことができました。

分散型、小規模という制約があるので、人数制限や予約制という条件が伴いますが、規模は小さくても「親子で一緒に観る」ことは、とても大切なことが含まれています。乳幼児は本来なら「テレビを見ない」という理由と重なってきます。一方的に流れるテレビの映像は相互性がありません。見ているこちらからテレビ側へ働きかけることができません。受動的に見るしかありません。そこに発達上の心配なことがあります。

ライブという上演方法は演者と観客の相互作用があるので、お互いが1回限りの、その都度の、相互影響を生みます。子どもはそのような関係の中で育つことが望ましいのです。そこで仮に乳幼児にテレビを見る時は、子ども一人で見せないで、親子で見るようにしましょう、というのが日本小児学会などの見解ですし、シュタイナー教育の見解だったりします。

これと同じように、撮影された映像であっても、親子で見ることで子どものリアクションを親が受け止めたり、一緒に体を揺らしたり、一緒に心を通わせていくことで、子どもの表現がそこに成立し、映像を能動的に受け止め返すことができると言っていいでしょう。最近はミュージシャンのドキュメンタリー映画が流行していますが、観客も一緒に歌ったりできる映画館もあります。

今日の上映会では、感染予防対策を講じながら、お楽しみ会が「リアクション付きミニシアター」になるという、新しい可能性を感じることができたのでした。

お楽しみ会から見える仲間意識の育ち

2020/12/16

劇遊びの中で見えてくる子どもの姿に「愛おしいもの」を感じるのは、そこに「仲間意識の育ち」があるからかもしれません。今日16日(水)、2日目の「お楽しみ会」の上映会を見ていて気づきました。

ちっち組の子が名前を呼ばれる前から、「ぼくも先生とタッチしたい」と手を伸ばしてきたり、隣に座る子どもの手を触れるか、伝えたい気持ちを自分の指先に託して、触れないか微妙な距離を推し量っていたりと、友達と「一緒にいること」や同じものを「分かち合う快さ」といったことへの喜びが伝わってくるのです。

ぐんぐん組の子がなかなか席に座らないということは昨日述べましたが、その理由の1つに、友達が興味を持ったものに誘われて引き寄せられていく姿がいくつかありました。一見、大人からすると困った姿に見えるのですが、実は気分良く過ごしているときに、世界に心を開いていく心のアンテナはこうやって育まれていくものだという気になりました。友達といると楽しいのです。

にこにこ組の子が、手袋を落としていくおじいさんの顔を見上げた後、これから始まる物語への期待が弾けます。ワクワクした笑顔を、隣にいる友達に向けます。愉快さを了解しあっている仲間だからこその心地よさ。2歳児クラスで、このような心の交流が集団の中に生まれていることを、日本の保育研究者は多分知りません。

0歳から2歳までの乳幼児にも集団の育ちがあります。それが伝わってくる生活と劇遊びです。

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