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園長の日記

ドイツの教訓に学ぼう(新型コロナ対策)

2020/12/29

新型コロナ対策を意識しながらの年末年始。今の日本全体の気分を言い表している言葉を見つけました。雑誌「選択」1月号が今日届きました。その巻頭インタビューで、ドイツ国立アカデミー会員の微生物学・免疫学者であるヘルガ・リュプザメン=シェフが、1日の感染者が3万人を超えてしまったドイツの現状を次のように述べています。

「今回の場合、国民は警告を深刻に受け止めたくなかったのだと思う。それでも国民の70〜75%は、各種規制を守っている。だが、20%ほどは明らかに守っていない。感染が拡大するには、これで十分だ」

そうか。20%が守らない、あるいは守れないだけで、あっという間に一日3万人になってしまうのか。彼女はさらにこう言います。「ドイツの強みは、日本と同様に、感染経路の徹底調査にあった。だが、これが機能するのは数百の水準で、数千や万単位になったら完全にお手上げだ」

日本はもうすぐ、その一日数千になってしまうかもしれません。「お手上げ」というのは、今のドイツのようになるということ、つまり厳格なロックダウンの導入が余儀なくされてしまうということです。首都圏は、その判断が年明けに来てしまうかもしれない、そういう剣ヶ峰の正月を迎えることになってきました。そうならないことを祈るばかりです。

さらに忘れてはならないのは、感染数がどんな規模になっても、大規模検査が重要なのは変わりません。その政策へ踏み込まない日本の新型コロナ対策本部は、民間の検査センターを支援する素振りすら見せず、返って偽陽性を問題視して改めて感染研ラインのCPR検査を受けるように指導する始末です。世界標準の対策から程遠いままでは、本当に心許ない事態です。

年末休みの初日である29日(火)の夕方、朧月夜の師走の中で、このテーマを考えざるをないのでした。みなさん、ぜひ感染対策を徹底して健やかな正月を迎えましょう。

 

保育納め

2020/12/29

2020年、今年最後の保育が終わりました。年末らしく鏡餅を備えたり、正月飾りを作ったり、干支にまつわる絵本を読んだりする時間もありました。

湯島天神の幸先詣で授かった干支の人形も飾りました。

わいらんすいの幼児たちの中には、夕方の終わりの会の歌を歌い出すと、しばらく会えなくなることに寂しさを感じて泣き出す子もいて、担任に抱き寄せられていました。

◆鏡餅づくり

午前中3〜5歳が2階のダイニングに集まって、お餅ができるまでを机の上で体験しました。粳米(うるちまい)と餅米(もちごめ)を見比べてから、それぞれを蒸したものを、ジッパー袋の中に入れ、それを手で叩いたり潰したりして餅にしてみました。潰していくうちに「お餅になってきたあ」という声も。

その上で、栄養士の古川先生が、実際に蒸し上がった餅を目の前で捏ね上げていくデモンストレーションを披露しました。

餅は粘り気が増していき、しっとりした形のいい鏡餅になっていくと、子どもたちからは割れんばかり歓声が上がりました。新型コロナでお餅つきができない代わりにやった「鏡餅が出来上がるまで」の体験でした。

◆正月飾り

千葉の藤崎農園の田圃で刈った稲と、屋上で育てた稲を使って、正月飾りを作りました。

松の代わりに色紙を細く丸め、千両の代わりに松ぼっくりを赤く塗ったもの、そして水引の代わりは手提げ袋の紐を、牛の絵はすいすいのKくんが描いてくれました。神様も「ここは子どもたちのいるところだな」とわかってくれることでしょう。

zer〇の公演「偏向する傾斜」を観て

2020/12/27

(上の写真は「zre〇」のパンフレットより)

人の生活から文化活動を除いてしまったら、それは味気ないものになってしまいます。子どもから遊びを除いたら人間ではなくなってしまうように、大人も文化活動をなくすことは、ある意味で人間性が疎外されてしまうものなのかもしれません。12月27日(日)はダンサーの青木尚哉さんのグループ「ZER〇」が主催する公演を観てきました。青木さんと出会ってからというもの、私のダンスや踊りというものへの見方が大きく変わりました。青木さんたちのダンスを観ることで「身体」と「表現」の関係を考えることが増えました。

 

公演のタイトルは「偏向する傾斜」。偏向とは考え方がかたよっていること。またそのような傾向のこと(公演パンフレットより)。新型コロナウイルス対策を徹底した中での舞台公演は、それを実施することも参加することも、状況と見方によっては「偏っている考え」と批判されるかもしれません。公演はそうした社会のありよう事態を舞台の上に再現したかのような内容でした。全てがナナメで出来上がり、ナナメから捉えられ、あたかも世界はナナメであるからこそ生じていると思えるような傾斜ぶり。

青木さんの舞台は、舞踏に限らず音楽、映像、物も活かされます。パソコンの画面が舞台背景に写し出されると、右肩にデジタル時計が時刻を刻み、観客席の一角に備えられた「ピタゴラスイッチ」風の仕掛けから、傾斜した溝をビー玉が転がり音を出し、それが電子音リズムを奏ではじめ、舞台上には斜めに立ちすくむ5人のダンサーが段々とその姿勢を背後に反らしながら、ゆっくりと傾いていきます。そして物語は、そもそも私たちの地球の地軸がやや傾いていることから始まりました。

人との関係が身体を通じて応答しあっていること、斜めに絡み合っている人間たちの愛や孤独や葛藤や衝突や和解も表現されていて、複数の身体の動きから、こんなにもたくさんのイメージを創造することができることに感服しました。例えば、身体と身体の一致とずれが可視化されています。

バレエにしてもアイスダンスにしても、動きが美しいと感じるのは、他者の手や全身の動きに調和した相似形やシンメトリーなものが多いですよね。ところがその点、ZEROのダンスはその一致加減やズレ加減をあえて際立たせます。親子運動遊びでも体験した「マネキンとデザイナー」のように、形を同じように合わせよとしたり、あえて異なるようにしたりする動きが、まるで社会の中で考えに同意したり異なる意見を表明したりする人間関係を表しているかのようでした。

ZEROは「身体の重要性を唱え、学びと創造を続けるダンスグループ」です。その活動目的はユニークです。「誰がも持っている身体をテーマの中心に置くことで、舞踏に限らず音楽、映像、建築、医療、教育など分野を超えて人々の共通言語やつながりが生まれ、それぞれが個人の能力を発揮できる場となること」を目指しています。このことをきちんと理解した上で、舞台を見つめると、その表現にこめられた思考や意図の痕跡が伝わってきて感動したのでした。

年末の大掃除

2020/12/26

◆年末の大掃除

ご家庭での大掃除、どうされていますか。園ではまとまってやる時間が取れないので、みんなで場所を分担して12月に日頃から徐々に綺麗にしてきました。私も玄関周りをピカピカにしたのですが、力をかけないちょっとしたコツがあります。隅に溜まった汚れは定規にタオルを巻いて使います。網戸は掃除機をかけるとき、裏側にダンボールなどを当てて吸うとうまくいきます。何も当てないと空気ばかり吸って埃が取れません。網戸を拭くときは、お風呂で体を洗うネットタオルと普通のタオルで挟むようにすると効果的です。

◆正月飾りづくり

幼児でクリスマスツリーに飾ったビーズ装飾は持って帰ってもらいました。

 

今は秋に稲刈りをした稲を使って、何人かの子どもと一緒に正月飾りを作っています。日本ではずっと昔から、藁(わら、稲や麦の茎の部分)を使って、ひもや敷物や草履などを作ってきました。しめ縄などの正月飾りは神様が戻ってくる場所の「しるし」にするのですが、それも恵への感謝を表す稲が使われます。

◆おたのしみ上映会のパネル

今年のお楽しみ会は、コロナ対策のために小規模な上映会で実施しましたが、その行事パネルを階段の壁に飾りました。今年の行事はコロナ対策に明け暮れましたが、春の親子遠足をのぞき、納涼会、親子運動遊びの会もなんとか実施できました。子どもたちには、コロナなんかよりも「楽しかった1年」であってほしいものです。

サンタが園にやってきて・・

2020/12/25

クリスマスの今日25日(金)、朝から子どもたちは「サンタきたよ」とご家庭のプレゼントをとても嬉しそうに話してくれました。保育園にもサンタは来るのか来ないのか? アドベントカレンダーでお手紙を送ってくれていたサンタクロースは、午後のお昼寝明けに遂にやってきました。フィンランドからトナカイに乗ってやってきたのです。昨年も来てくれた同じサンタクロースです。トナカイはフィランド語と日本語ができる小林先生に似た男性で、上手に通訳してくれました。サンタは、コロナ自粛で体重が10キロも痩せてしまったのだと、フィンランド語で語ってくれました。

最初にちっち、ぐんぐんのいる1階に現れたサンタと小林先生に似たトナカイに後退りしながらも、「本物のサンタが来てくれたんだよ、すごいね、サンタは優しくて、プレゼントを持ってきてくれたんだって」と、盛り上げていくうちに、ぐんぐんさんは「大丈夫かな。こわくなんかないのかも」と、だんだん慣れて、プレゼントをもらえたり、最後はタッチしたりしていました。今年は密を避けるために、集合写真などは撮りませんでした。遠くから離れての「サンタ交流」です。

それから少し遅れて、にこにこ、わいらんすいのお友達のいる2階のダイニングへ。クリスマスの今日のおやつはケーキなのですが、それを食べようと集まってきたところへ、トナカイのならす鈴の音が聞こえだし、「あれ。もしかして、サンタがほんとに来るのかな」と期待は最高潮へ。そこへ、小林先生に似たトナカイが、サンタを引き連れて現れて・・2階の会場は興奮の歓喜に包まれていくのでした。

サンタが持ってきてくれたプレゼントは、そのクラスの発達にあった紙芝居や絵本、遊具、運動遊具などです。包みを開けて見ると子どもたちは大喜び。ちょうど欲しかったものなので、子どもたちの中から自然と「サンタさん、ありがとう」という言葉が聞こえてきます。

また全園児に一人ずつ、手作り万華鏡がプレゼントされました。ご家族の団欒の中で楽しんでください。

 

「人新世」時代の保育とは?

2020/12/25

園だより1月号 巻頭言より

 

昨年1月の巻頭言の書き出しで「今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります」と書いて、見事に外れました。その文章のすぐ後に「この一年でさえ、どんな年になるのかわからない」とも述べていますが、その数ヶ月後に「コロナ」でこんな一年になるとは、誰も想像していませんでした。何が起こるかわからない時代にすでになってしまっています。こんなとき、私たちは何を指針にして物事を考えるといいのでしょうか。

経済思想家の斎藤幸平さんは『人新世の「資本論」』(集英社新書)の中で、人間の今の経済活動のままでは地球環境を破壊してしまうと警鐘を鳴らしています。「人新世」というのは、これまで人類は大いなる自然から影響を受けて生きてきましたが、今の時代は人類が地球規模で自然を変えてしまっている時代になっているという意味です。このままではコロナ禍をはじめ気候変動や食糧危機などを招いてしまうので、なんとしても脱経済成長、脱成長コミュニズムへと転換する必要があると提唱しています。

この考え方には、何が成長なのか、何が進歩なのか、あるいは何が善きことなのかを考え直すことも含まれています。その価値転換が先にできないと、今の仕組みを回している大きなモーメントを「ずらす」ことはできないでしょう。例えば「経済の成長なくして財政再建なし」と言われれば、多くの人は「そうだよな」と思ってしまうからです。経済を成り立たせている下部構造(マルクス)の仕組みをどのように転換していくのか、その経済と暮らしを持続可能なように描き直す作業が、どうしても必要なようです。

でも、そんな大きな話と日々の暮らしをつなぐための「物語」が欲しいと思います。発想の転換という意味では、労働と余暇という区分けではなく、働くことが楽しみや喜びとなるような生活への転換、時間で測定される対価から、共感と貢献を実感できる価値社会への転換、そういった働き方や生き方への転換を考えていきたい。仕事がアートになったり、勤労が精神性の開発につながったり。あるいは生産結果の効率追求の競争から、生産プロセスの中に価値を見出せるような活動への転換です。

このことを「保育」という仕事で実践するとどうなるのか?きっと人新世の「保育論」が必要になるでしょう。その具体的な実践を面白いと思えるような一年になるといいのですが、どうでしょうか。

自然に属する子どもにたずねよ!

2020/12/24

人間は頭で考えると間違えることがあるので、人間の「内なる自然」に耳を傾けよう。こんな趣旨のことを聞いたことありませんか? このようなことに耳を傾けた方がいいのは「大人」です。子どもに向かって、このようなことを言いたくなることはあまりありませんよね。頭でっかちで気難しく、頑なに心を通わせにくいのは大人の方が多いですからね。なぜでしょうか。答えは簡単です。子どもは自然に属しているからです。西欧宗教圏なら「子どもは7歳までは神の子ども」という言い方もあります。確かに子どもはまだ「自然」そのものの要素が大きいのです。

子どもといると、その真っ直ぐな心のありように「自然」を感じます。この子どもらしさを変に歪めたくない、と感じます。当園は、この子どもの「自然性」を大切にした保育を実施しているつもりなのですが、当然ながら行事も同じ考えにあります。昨日でお楽しみ上映会の期間は終わりましたが、今日24日の追加上映のときにも、にこにこのHちゃんが「ぐんぐん」の映像を見ながら一緒に体を動かし始め、「にこにこ」の劇を見終わって「もっと見たい」といっていました。その様子を見て、私はやはり自然そのものである子どもが望むものには、そこに自然の摂理が働いていると感じます。

私はよく「子どもが繰り返し求めるものには発達に必要なものが含まれている」という言い方をします。発達は使うことで伸びるからです。何かを身につけるときに練習や訓練をすることを思い浮かべて貰えば分かりやすいでしょう。あるスキルを身につけるには繰り返すことに効果があることは誰も否定しないでしょう。これは言い方を変えれば、スキルはその能力を使うことで上達するといえます。それを自発的にやるのが「遊び」です。遊んでいるとき使っている能力が伸びます。遊びは練習や訓練ではなくても、同じ効果があるのです。

しかも「自発的」にやるので、意欲満々です。イヤイヤやるのと違って効果テキメン、そこにも、発達における自由遊びの重要な意味があるのです。劇遊びで育まれる資質や能力は、知識や技能だけではなく、思考力や判断力も働いているし、もっとやりたい、できるようになりたいという意欲などの非認知的能力が含まれています。

子どもは、このようなことを誰に教わるわけでもなく「遊び」を通じて身につけていきます。こんなことは、人為的にできるようなものではありません。やはり自然の摂理が働くものなのです。それを信じることが「子どもを信じる」と言う意味になります。自然に属する子どもにたずねよ!という感性を大人は磨く必要があるのでしょう。

 

自分の姿を見て楽しむ子どもたち

2020/12/23

子どもが自分の姿を眺めたときに、どう感じたり何を思ったりするんだろう。今日23日(水)はそんなことを考えながら、おたのしみ上映会を運営しました。私は「お楽しみ会」というものを1997年度から毎年やってきましたから、今年で23回目になります。これまでの経験からすると、舞台の上に立って何かをやるようなことが恥ずかしかったり、億劫だったり感じている子どもは、もしそれを撮影したものがあったら、きっと見たいと思いません。年齢によっては親に見られたくもないかもしれません。ですから、そのようなことになるような劇遊びの演じ方は決してしません。その子らしく参加したい方法を作るようにします。

今回のおたのしみ上映会をご覧いただいたらお分かりの通り、そのような姿は皆無です。どの子どもも楽しそうにやっています。そして、親子で自分の姿を見ている子どもたちは、自分が出てくると身を乗り出したり、親に教えたり、歌を歌い出したり、一緒に手遊びを始めたりしていました。劇遊びをもう一度見て楽しむことができるた上映会になっていました。

また子どもも自分たちの演じたものを見る機会はこれまでありませんでしたから、「自分たちでやったものが、こんなになっていたんだ!」という体験になります。これもきっと素敵なものです。予行練習のときに、お互いの劇などを鑑賞しあうことはあったのですが、自分たちのものを自分たちで見ることはありませんでした。

コロナ対策でやむなく編み出した方法ですが、このような子どもの姿を見ると、今回の上映方式の良い面を感じます。従来のお楽しみ会は1回きりです。保護者の方も、自分の子どもは舞台の上であり、一緒に見ることはできませんでした。できるとしたらビデオで撮ったものを家で一緒に見ることしかできなかったでしょう。楽しい体験を親子で共有することは幸せなことです。

それが今回の上映方式だと、やりやすかったかもしれません。私も従来の方法だと上演されている劇や合唱などの姿の方に注意を向け続けなければなりませんから、今回のように親御さんがどのように受け止めているかを拝見する機会はあまりありませんでした。そういう意味でも新しい発見があって楽しい時間になりました。

 

劇遊びが育てているもの

2020/12/22

子どもは役者であり演出家です。自分の役を演じながら、お友達にも合図や指示やアドバイスをしています。3歳の「おおきなかぶ」で列をなす時、前の子から離れていると「Hちゃん、つかまって」と声が飛んできます。4歳の「ももたろう」で、座っている犬役に「Kちゃん立って」と伝える子がいました。また桃太郎は猿や雉子にきびだんごをあげて歩き出すと「一周する前に、ここに入れて」と教えていました。5歳の「エルマーのぼうけん」では、トラやサイが台詞をいうときに、「せ〜の」と呼吸を合わせるような仕草でリードする子が出てきます。なんと言うのか、台詞を耳打ちして伝えて「いい?」と確認してから、リズムをとって一緒に喋り始める光景も何度かあります。

このように、劇で決まっていることを、そのようにするために子どもたちは自然と「伝え合う」のです。そうするように先生に言われてやっているのではなく、自然発生的に起きています。こうしてコミュニケーション力が培われていきます。その伝え方はあくまでもフラットに教えているのであって、命令や指図や指導ではありません。お節介な感じがしません。そういうことになっているよ、ということを伝えるだけです。幼稚園教育要領や保育所保育指針は、このように育っていく力を「協同性」と名付けています。この力の育成を解説したところには、やはり事例として「劇遊び」が取り上げられています。

言葉の発達から見ると、上手にセリフが言えることよりも、劇をよりよく成立させていくために、普段の会話として伝え合う姿の方に育ちが見えます。見通しを持って気を働かせていることがよく見えます。みんなで作り上げる劇の全体像から、自分や友達の役割や動きや台詞を全うしようとする姿勢。このコラボレーションの力は、創造力とコミュニケーション力と合わせて、これからの時代に欠かせない「3つのC」と呼ばれるコンピテンシー(能力)の要になります。

クラスが1つの劇団だとすると、全ての子がメンバーシップを発揮していることになりますが、そこにはリーダーシップをとる子もいたり、フォロアーシップをはっきする子もいたりします。大人の組織も大なり小なり、似たようなことでうまくいったり躓いたりしています。自己発揮と他者支援の芽生えが、劇遊びの中に色濃く現れているのです。

子どもが好きな児童文学が意味するもの

2020/12/21

ここのところ連日、おたのしみ上映会のことばかり述べていますが、今日21日(月)は、1部2部合わせて6家庭の参観がありました。どのご家庭もご自身のお子さんの姿をとても温かい目でご覧になっていました。

1歳児や2歳児が劇遊びの終わりに差しかかると「もっとやりたい!」「また、やりたい!」という声が聞こえていましたが、今日上映した3歳以上の劇でも、それを楽しんでいる時の気持ちの中には、「もっと」や「また」が躍動していました。これが意欲の表れですが、このように意欲的であるのは、それが「面白い」からに他なりません。その面白さがどこからくるのかというと、1つには児童文学の力にあるのだと思います。芸術的なものと面白さが両立しているからこそ、繰り返し楽しみたい、再現して味わいたいという気持ちを生んでいるのでしょう。

日本の児童文学の変遷を遡っていくと、面白さと芸術性を両立させた代表的な作品群と出あいます。その1つが中川李枝子さんの『いやいやえん』ですが、年長の子二人から今日それを「また読んで」と頼まれました。「また」「もっと」と子どもが唱える時、その繰り返しを求める体験によって、なにが成長しようとしているのだろうと考えます。子どもの繰り返しには必ず意味があり、そして必ず成長の契機や断面をあとで確認できるからです。

児童文学が心の糧であるなら、その契機や断面は心の姿を表していることになります。「いやいやえん」をまた読んで欲しいという子どもたちがいるということは、望んでいる成長の姿、願望がその話の向こう側にあるということです。2歳の「てぶくろ」3歳の「おおきなかぶ」4歳の「ももたろう 」5歳の「エルマーの冒険」という児童文学の向こう側。そこに子どもの心を見出さなければなりませんね。

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