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園長の日記

ぐんぐん組の保護者会から

2020/01/28

「雪にならなくてよかったですね」と夕方のお迎えの時話しながらも、今晩は大雨になりそうなので、明日29日のバス遠足は、にこにこ組は残念ですが中止して、わい・らんは「しながわ水族館」に変更することにしました。今日は真冬の寒さでしたが明日は15度以上の3月中下旬並みという予想なので、体調の管理が大変です。みなさん、衣服の調整には気をつけてくださいね。

今日の夕方は、おおきくのびるぐんぐん組(1歳児クラス)の保護者会でした。一人お休みで、そのほか6人全員が参加してくださいました。最初に、ぐんぐん組の育ちの姿を、写真を使って担任が説明しました。

そこで紹介された子どもの姿は、私たちにとっては馴染みの姿で、当たり前のように思えますが、実は非常に珍しい、優れた発達の姿なんです。例えば、一番最初に紹介された、ぐんぐんさんがテーブルを囲んで、ままごと遊びをしている写真は、発達心理学の教科書で紹介されている姿とは全く違います。それらの教科書には「おおむね満3歳ぐらいまで、一緒に遊んでいるように見えてもそれぞれ別の平行遊びをやっています」と書いてあるのです。

ところが、今日写真で紹介したように、満0〜1〜2歳の子どもたちが一緒に生活していると、満1歳前後から子ども同士が心を通わせていることが自然で、お互いの意図を察しあっていることがよくあるのです。また満2歳前後になると「一緒に同じイメージを共有して気持ちのやりとりを楽しむ」ことができているのです。これらのぐんぐん組の子どもたちの姿は、通常の発達心理学しか知らない研究者は、びっくりしてしまう内容なのです。

このように色々場面で、その発達が目覚ましい、まさしく「おおきくのびるぐんぐん組」でした。今日は数十枚の写真が紹介されましたが、最後の写真は昨年春のバギーでの散歩から、今は手を繋いで歩いていける姿が映っているものでしたが、このように成長の足跡を振り返ると、とても面白い発見がありましたね。ちなみに2月29日(土)の成長展では、この1年間の成長を展示しますのでお楽しみに。

さて、保護者会では、その後、2歳児クラスへ向けて、どんな移行が進んでいくかという見通しや、用意していただく持ち物、登園時刻や朝食の大切さ、衣服などについてのお願いをさせてもらいました。私からは、移行のイメージと意義を解説したのですが、満3歳ごろまでに大切な育ちの姿について、保育所保育指針が前回まで載せていた「子どもの発達過程(8つの過程)」のイラスト入り解説を使って説明しました。その中でも、今日は「基本的生活習慣の自立」のイメージとポイントをお伝えしました。

私たちはよく、保育内容を、生活と遊びに分けて理解することが多いのですが、遊びにも生活(5分野=食事、睡眠、排泄、衣服着脱、清潔)にも、それぞれに目指したい「自立」の姿があります。その姿になるような援助のポイントをお伝えしましたが、どうでしたでしょうか。詳しくは省略しますが、これらの自立は自信を育むことになることを強調させてもらいました。

この頃の子どもたちは自分というものがはっきりしてきて、できる世界が広がってくるので「自分でやりたい!」という意欲が加速している時期。それだけに、できないことへの見通しはまだできないから、とにかくなんでもやってみたい、となっていきます。そんな「意欲」や「自発性」を大切にしてあげようとするのはいいのですが、そのうちに、子どもたちは「そこまでは無理だよ」「それは今はできないのよ」という「限界」を突破してこようとするので、そこは大人も踏ん張ってもらって、子どもに「賢い」振る舞いを学習していってもらう必要があるのでしたね。

 

 

 

ちっち組の保護者会から

2020/01/27

どこに焦点を当てて話をするといいのかな、と考えながら話をさせてもらいましたが、いかがだったのでしょうか。0歳児クラスの正式名称は、「ちいさなちいさなちっち組」ですが、子どもの数も6人と実際に「ちっちゃなクラス」なので、6家庭のお母さん全員が集まって、有意義な情報交換ができたような気がします。あと2ヶ月のちっち組ですが、ぐんぐんになったらどういう生活が待っているのかをイメージしていただきつつ、そのあとの時間は、事前にいただいていた質問のトピックスに沿ってお話ししました。

トピックスに入る前に、私から5分間のプレゼンテーションをさせてもらいました。配布した資料は29日配布予定の園だより2月号に載せる予定の巻頭言「自信を育て自分をつくり他者と協力できるように」です。

もし私が誰かに「卒園するまでに、子どもが身につけるものの中で、もっと大切なものはなんですか」と聞かれたら、なんと答えると思いますか?それは「自信です」という話をしました。0歳の時から、どのように心の核が育っていくのか、発達のキーワードを使って、その筋道の概要を説明したものです。ちっち組の子どもたちは、これからの1年間のどこかで、必ず満2歳になる日を迎えます。このころの発達のテーマは自律(オートノミー)ですが、その前のテーマである基本的信頼感を確実に通過しているから大丈夫です、という話をしましたよね。

今日は保護者会の最中に、見事に探索活動を繰り広げる子どもたちの姿があったので、それについて解説をしました。例えば、この子たちがすでに身につけている大切な力は、大人になった時にはどうやってそうなったのか覚えていない時期であること。能力が育つには自発的に使わないと発達しないという自発的使用の原理があること。自信には、そのままでいること自体から自信を持てるようになることがいいこと。そんな話をさせてもらいました。

そのあと、取り上げたトピックスは、これから始まるだろうイヤイヤ期についてと、赤ちゃんの夜の過ごし方について。用意させてもらった資料は、この「園長の日記」で4日に渡って綴った「イヤイヤ期」のコピーが一つ。もう一つは、アメリカ人ジャーナリストのパメラ・ドラッカーマンが綴った子育てエッセイ『フランスの子どもは夜泣きをしない』(集英社)の写しです。赤ちゃんが夜、起きることなくぐっすりと眠り続けことができるようになるポイントが、わかりやすくレポートされています。

それぞれの資料の要点をかいつまんでお伝えしました。イヤイヤ期の対応方法は色々あるので、私から2つ提案させてもらいました。赤ちゃんが夜を過ごせるようにするための援助のめあては「2時間単位」で深い眠りから浅い眠りのリズムがあるので、その単位をちゃんと繋いげあげること。泣いたからといってすぐに抱いたりしないこと。「ちょっと待って」ちゃんと観察して、寝ることを繋いげあげること・・などなど。このエッセイはオススメです。

そのあとご家庭からの質問に答えていきました。見守る保育ではどこまで見守るのか、教えたり介入したりする判断はどの辺りか、といった話や、お友達を「ドーン」といって押すのはダメだよ、代わりに「やめて」って言おうね、というと「賢いから理解できてますよ」と言った話。また保育園では食べるのに家庭ではあまり食べないからどうしたらいいか、きょうだいで与えるものが異なっても子どもに悪影響はないか、といった話題について語り合いました。

 

徳勝龍の「気負わない」優勝

2020/01/26

 

こんな勝利を手にしたら、そのあとが大変になるんじゃないかと心配したのですが、インタビューを聞いていたら、さすが33歳。冷静なので大丈夫だろうなと思えます。この気の持ち方に、ちょっと学びたい心の姿勢がありそうです。徳勝龍が優勝した話です。前頭17枚目という幕内最下位の平幕力士が優勝したのは20年ぶりだそうで、連勝を続けていた時から、「気負いはないです。自分が一番番付が下。思い切りいけばいい」といった趣旨のことを語っていました。「自分なんかが優勝していいんでしょうか」と国技館を沸かせた取り組み直後のインタビュー。愛嬌のある性格できっと人気が出るでしょう。中学生の時、生徒会で「勇気・希望・友情」という校訓を考案したらしい。午後10時からのNHKのサンデースポーツに生出演していましたが、これからの取り組みについて聞かれた徳勝龍はこう言いました。

「自分らしく、一生懸命取れればいいかなと思います」

徳勝龍の優勝から、子育てで参考にしたことがあるとすると、根気づよさ、気負いのなさ、あたりのような気がします。

その前に「3つの気」について、こんな言葉遊びを、私はよく人に言います。

「元気は出るもの、勇気は出すもの、根気は育てるもの」

どういう意味かというと・・

元気は人に出せと言われてもでないもので、自分で自然と<出るもの>。

勇気は自然とはでないもので、これこそ自分の意思でここぞというとき<出すもの>。

根気は出たり出したりするのではなく、気長に<育てるもの>。

日本語の「気」は精神のことですから、心の動きや働きを「気」で表現します。気にする、気がきく、気が散る、気を配る、気にかける、気を引く、気をもむ、気が長い、短い、気まずい、気に食わない・・・日本語は気持ちを「気の流れ」で表すことに長けていますね。気の持ち方使い方を「気持ち」というわけであり、喜怒哀楽の感情とはちょっと違いますね。状況や人間関係の中での心の動きを表すんですね。

気負わないという戦い方。この力の出し方は、実力以上の「気」を回りから呼び込むのかもしれません。運気というのも実力のうちだとすると、自分らしく、自分の気に従うという生き方、ちょっといいな、と思いました。

 

 

良質な遊びである「鬼ごっこ」

2020/01/25

◆第2回 鬼ごっこ遊びの会

今日は和泉小学校の体育館で午前中、第2回親子運動遊びの会(鬼ごっこ遊びの会)を開きました。じゃんけん鬼、通り抜け鬼、バナナ鬼、まる鬼、田んぼ鬼、宝さがし鬼(スポーツ鬼ごっこ)、だるまさんが転んだ・・・いろんな鬼ごっこを親子で遊びました。鬼ごっこ協会の羽崎貴雄さんも来ていただき、鬼ごっこで体を動かして遊びました。

大人が体を動かすのにもちょうどいいかもしれないです。

たかが鬼ごっこ、されど鬼ごっこ。一見ただの鬼ごっこと思われがちながら、その遊びの素晴らしさを改めて感じることができました。

◆運動のいいところ

運動には運動制御機能、精神状態の改善効果があります。ただ最初にちょっと意外に思われるかもしれない運動の素晴らしさをお話しすると、運動には「知的能力の改善効果」もあることがわかっているのです。まあ、頭もよくなる、勉強にもいいということです。

運動を行うことは、「状況判断から運動実行まで、脳のほとんど全ての領域を使うこと」になっていると、日本学術会議が2011年に「子どもを元気にする運動・スポーツの適正実施のための基本指針」が、そう述べています。

◆鬼ごっこのいいところ

自由遊びの代表格にある「鬼ごっこ」。ルールがある遊びであり、それを状況に応じて変化させることができる遊び。良質な遊びの条件を満たしているのです。学生が遊びについて学ぶとき、必ずでてくる学者が『ホモ・ルーデンス』を著したオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガ。文化そのものが遊びであり、遊びから文化が発展したと主張しました。それと並んで必ず取り上げられるのがフランスの哲学者ロジェ・カイヨワ。鬼ごっこは彼が定義している「遊び」の4条件をもちろん満たしています。それは、模倣、競争、偶然、めまいの要素です。

また、この日記で、将来に必要な力は、自分づくりとしての考える力、言葉や振る舞いを通じたコミュニケーション力、力を合わせて協力して目的を成し遂げる力、いろいろな場面での創造性(4つのC)であることに少し触れてきましたが、この4つのことが「鬼ごっこ」にもあることを今日再確認できました。

鬼ごっこは日本の文化であり、遊びの王道であり、将来のためにも必要なもの。大事にしたいものです。

◆千代田区でこれから・・

今日は千代田区の保育園担当の方も見学にきてくださり、会が終わった後で、羽崎さんと3人で色々話しあいました。千代田区の保育園、幼稚園はもちろんですが地域の中に幼児期の運動遊びを発展させていく機運を盛り上げようということになりました。子どもたちの平凡な日常生活の中に、自然な形で鬼ごっこが普通に遊ばれている状態。普段の毎日の食事のように。

◆運動の合言葉はこれです

「毎日、合計60分以上、楽しく体を動かすこと」

そして子どもの幸せな人生の土台作りは次の言葉です。

「よく遊び、よく食べ、よく寝る」

このシンプルなことを実践することが、意外と難しい。また来週から「園長の朝の運動遊び」再スタートの予定です。

自分探しとしての学び

2020/01/24

夕方、お母さんがお迎えにきたTHくんが事務室へさよならの挨拶に来ました。彼がやりたいことは事務室の防犯カメラに自分が映ることを知っているので、それが写っているところを見て欲しいという気持ちを伝えに来ます。これが私たちに伝えようとしてくれる、彼なりのお別れの挨拶なのですが、彼には似たような幾つかのルーティーンが他にもあって、それを思い浮かべてみると、共通するものに気づきます。それは自分で最終的に「帰る」という行動になるまでに、彼なりの「気落ちの区切り方」を発見しているように見えることです。

今日は自動ドアのところで私が「さようなら。じゃあ、タッチ」と言って、ギブミーファイブをしてみました。すると彼はパチンと私の手のひらをタッチしてくれました。そして事務室にいるはずの事務長先生にも遠くから「タッチ」を求めるのでした。(その時神宮司さんはいなかったので代わりに私が彼の分まで、代わりにタッチ役をしたのでした)

園から家に帰るという、ただそれだけのことのように思えても、子どもにとっては「家に帰るんだ」という気持ちになるまでに、いろいろな「お終いにできる力」という力が必要なんだな、と思えます。それは、子ども一人ひとり違います。彼は帰るときに、彼の心の襞(ヒダ)を、私の心の襞と、重ね合わせてみることで、それを感じ会うことができたと思えたら、満足して「帰ろう」という気持ちが動き出すように見えます。心と心を十分に通わせてから、よし、帰ろう、となるのです。

言い方を変えると、これは「自分が思うように自分をコントロールする力」です。これは、よく「やりたいことができる力」と縮めていうことができます。自分とはどんな自分なのか、自分の力はどのようなものか、そうしたことを理解し始めようとして、相手との関係の中で自分を見出そうとしている力。その力の出発点が、イヤイヤ期に見出されます。自我の芽生えとよくいうものです。

私はこの一旦心を「重ね合わせてみる」ことで、人は出会ったり別れたりができる生き物なんだと、納得します。出会いや別れの挨拶とは、その気持ちの確認行為です。ただ「あ、何々さんだ」「あ、園長先生だ」という認識が起きることが「出会う」ということではなく(それは機械でも認識できます)、また物理的にそこからいなくなることが「帰る」ことでもありません。間違いなく、そこには「心の通い合い」があるのです。「おはようございます」も「さようなら」も、言えることが問題でななく、その言葉が乗っかっている「心の動きそももの」が大事だということです。

これは見方を変えると、子どもは出会いと別れに際しても、相手との関係の中で自分を探していることになります。きっと彼も「イヤイヤ期」に相当する自分づくりの始まりの時期があって、それを経た今、その続きとしての相手との関わり方の学びが続いているのです。この力は非認知的能力であり、考える力とコミュニケーション力と協力する力と創造性という、昨日お伝えした「4Cの力」の育ちにつながっています。

自分とは何者か。その自分探しを他者との関係の中で始めるのがホモ・サピエンスです。「イヤイヤ期」のところで述べてきたこと、4Cの能力の話をつなぐものが、この「心の重ね合い」という仕草の中にはっきりと見えるのでした。

ちなみに、この自分探しとしての学びが、本来の学びの本流であることを、よくよく肝に銘じておかないと、すぐに「学習」が一流校などに進学する「手段」になるという転倒した、倒錯した学力観になってしまいます。

以下、「学びの認知科学辞典」から引用します。

「学習」とは、知識や技能を身につけるということではなく、基本的に「自分さがし」である。「わたしはどういうもの」「わたしはどうなるの」を知る活動なのだ。人はだれしも、どの年代にあっても「自分とは何者なのか」と問う存在であるといえよう。技能や知識を覚えて正確に速く使うことができるものほど偏差値の高い学校に入れるという実情は「受験は技術だ」とか「数学は暗記だ」ということばを信じ込む素地をつくりだす。これらの言葉に潜む問題点は、「学ぶ」営みを「自分さがし」のプロセスから切り離し、安易に作られた「一流校に合格する自分」へ向けての完全な手段として割り切らせてきたことにある。

どうでしょうか。これが辞典に書かれている認知科学の定説です。一流大学を目指すことを否定しているものではありません。ただ、その過程で自分さがしを棚上げすることは、大きな後悔をすることになるでしょう。学ぶことの面白さ楽しさを遠ざけてしまうからです。

乳幼児の心は、本来的にそのような学びを望んでいます。そこを大切にしてあげたいと思います。

これからの時代に必須な4Cのスキルと・・

2020/01/23

こんなに小さい命の、いち日、ひと月、いち年が愛おしい。今日、誕生会で「ひとつ歳をとったこと」をみんなでお祝いしました。誕生会で子どもたちの表情をよ〜く見ながら、ついこんなことを考えてしまいます。この子たちが将来困らないように、今できることは何だろう。この子たちがすっかり大人になっている2050年ごろの世界は、どうなっているんだろう。

ジャック・アタリ。ユヴァル・ノア・ハラリ。ジャレド・ダイヤモンド。彼らの世界の将来予想を読むと、76億の人が住む地球という世界が今世紀末までもたないかもしれないという危機感が共通です。その代表的な危機は、核兵器、気候変動そして科学革命です。この3つの「アンコントロール=暴走」を食い止めることを人類ができるかどうか。そして科学革命は人工知能=アルゴリズムによって、人間の自由がハッキングされる世界が来るのかどうか。

これまでの1000年に比べて、これからの100年は、誰も正確に予想できない時代になりました。私たちはこれまでの過去とは、全く質も規模も次元が異なる「革命」の真っ只中にいます。予測はできなくても、「不確かなこと」「危機が迫っていること」は確かなことです。

教育を考えると「これまでにない資質・能力が必要なこと」も確かです。20年後の大学受験は、今求められているような知識や技能はでは全くありません。それも明らかでしょう。必要なものは、英語のCで始まる4つの力だと、よく言われています。クリティカル・シンキング、コミュニケーション、コラボレーション、そしてクリエイティビティ。批判的思考、意思疎通力、協働性、創造性です。

「人々が必要としているのは、情報ではなく、情報の意味を理解したり、重要なものとそうでないものを見分けたりする能力、そして何より、大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力だ」(ハラリ『21Lessons』)

しかも、もっと重要なことで、きっと正確に理解されないだろうことは、「自分自身が自分自身であり続けること」です。自由に生きているように見えて、生かされているに過ぎないという現実が、すぐそこにきています。これは自覚の問題なので、今の教育を続けていると、全く手に負えない難問に直面します。厄介なのは、それが課題であることに気づかないで進行してしまうことです。

この現代版の「無知の知」に自覚的であることの難しさを、誰がどのように子どもたちに、あるいは青年たちに伝えることができるのでしょうか。先ほどの4つのCは、この自覚の延長線上に培われるものなので、どのように生きるかという目的がなければ必要性と喜びを感じようのないスキルだからです。

 

つぼみの膨らみ

2020/01/22

今日22日は、午睡が終わる頃から、おやつの時間、そしてその後のくつろぎの時間を、子どもたちとのんびりと過ごしました。不思議な感覚を覚えました。園全体に、ある種の生命力を感じたのです。これは感覚的なことなのでお伝えすることが難しいのですが、色に例えると、もうすぐ花を咲かせるつぼみが膨らんでいるような、淡いピンク色の生命力です。何かが静かに目立たないように成長してきて、それがここにきて、その姿がはっきりと輪郭を持ち始めたかのような子どもたちの育ちなのかもしれません。

例えば、にこにこ(2歳児クラス)の子どもたちがお昼寝から起きようとしている3時前のひととき。担任のU先生が「パプリカ」を綺麗な声で、ゆっくりと歌いながら、子どもたちを夢の世界からの目覚めを誘っています。その歌声がスローなテンポだからでしょうか、バラードを聴いているように心地よく、歌詞の意味がす〜っと心に届いてきます。

♩ 曲がりくねり はしゃいだ道  青葉の森で駆け回る・・・

その声の中で目を覚ましたHちゃんが、ちょうど隣に座っていた私に「数の123」の掲示物や、午前中に遊んだらしいフラフープなどを指差して教えてくれます。ヒトはこうして自分の新しい経験を、なぜか親しい人と共有しようとします。考えてみるととても不思議です。指を差して教えてくれる彼女の、その一つ一つを私は「言葉」にして返します。「いち、にい、さん、って貼ってあるね」「ああ、そうかフラフープを回して遊んだんだね」「あ、い、う、え、お、だね」「消防車だね」といった風に。

そしてちょっと感動したのは、今日は誰がお休みなのかを話しだしたことです。みんなと一緒にいるということが心地よいのでしょう。いない友達のことがしっかりと心に残っているのです。しかも夏に一時保育で来ていたお友達と、その時に臨時でお手伝いに入ってくれた区の先生の名前も覚えていて、「他の保育園に行ったの」と説明してくれます。

子どもは私たちに見えない、たくさんの言葉をうちに秘めています。いろんなことがわかっていて、イメージと意味(概念)がしっかりと結びついて、感じたり考えたりしていることがわかります。子どもたちの中に「理解言語」がどんどん増えて、子どもたちの「世界」が広がっているのです。私たちは、それがよく見えていません。見えていなんだと気づいてあげることは、その子どもの世界を尊重することです。ちょっとその素敵な世界を、もうちょっと教えてもらえるかしら・・そんな気持ちにさせてくれる時間が流れていました。

子どもたちが声や仕草にしてくれる「見える」言葉は、表出言語ですが、子どもたちの内面世界が、表に吹き出してきているようなこんな時期に接しているからだったのでしょう、つぼみが花咲くような生命の動きと重なっている色を感じたのかもしれません。クラスのブログからも、そんな目覚めを感じさせる子どもの成長が記録されています。

美味しそうな香りもしてきました。隣でおやつの配膳が始まったようです。

「さあ、今日のおやつはホクホクしているよ、なんだろうね」

担任のU先生は、こんな語りかけをしながら目覚めていく子どもたちの世界の中にまた一つの扉を開いていきます。

保育環境セミナー開かれる

2020/01/21

昨日の午後から本日21日の丸一日、保育環境研究所ギビングツリー(GT、藤森平司代表)主催の研修会「保育環境セミナー」の講師スタッフとして参加していました。この研修会のことは、この日記で何回かお伝えしてきましたが、北は北海道から南は沖縄まで、全国各地から100人を超える保育士や幼稚園教諭、理事長や園長たち集まる研修会で、みなさん、それはそれは、とても熱心です。なぜなら義務でやらされる研修ではなく、学びたいから学ぶという自発的に参加している方で成立している研修会だからです。これとは反対に、制度的にやるしかない研修というものがあって、私はそれを「アリバイ研修」と呼んでいるのですが、そうした研修の講師をやってみるとわかります、昨日今日の研修の参加者とは参加者の「熱量」が全く違います。いい保育を求めている切実さの違いです。

私が毎回担当している講義は、「見守る保育5つのポイント」というもので、質の高い保育を実現するためには、この5つの考え方が大切ですよ、という内容です。参考までにその5つはこうです。

(1)個性の尊重(2)子どもの意欲と選択(3)子ども同士の関係(4)こどどもを見守る(5)チーム保育

千代田せいが保育園の子どもたちは「自分らしく意欲的で思いやりのある子ども」になってほしいという保育目標を持っています。5つのポイントの最初の3つが保育目標の3要素と相関関係になります。それが実現して初めて子どもの主体性と社会性が育まれ、子どもを「見守る」ことができるようになります。

この保育、実は中国や韓国でも広がり始めました。中国政府は乳幼児期にはその時期に必要な経験をすることが大切だと判断し、小学校教育の先取りを禁止しました。また幼児教育を投資の対象にさせないように、上場している株式会社は保育園を運営できません。

そういう教育改革の真っ只中にある中国が、英語に訳されている本「見守る保育」を読んで、中国の保育のスタンダードにしようとしています。中国語に訳された「見守る保育」もすでに出版されています。一人っ子政策から二人っこ政策に切り替えた中国は、子どもの自律に問題を抱えています。主体性を持った大人になるために、幼児期の教育のあり方を具体的に実現している保育に強い関心を寄せているのです。

 

 

 

木場公園での自由遊び

2020/01/20

◆芝生広場か冒険広場か

木場公園は芝生広場と冒険広場があって、どちらで遊ぼうかと子どもだちに尋ねると、はっきりと自分の意見を持っていました。僕は原っぱの方で鬼ごっこやりたい。僕はアスレチックの方がいい。そこで手を上げてもらうと、芝生広場の方は5人の男子が選びました。らんらん(4歳児クラス)3名、わいわい(3歳児クラス)1名、にこにこ(2歳児クラス)1名の合計5名です。残りは冒険広場(秋の保育参観の時にかくれんぼのような参観をしたあそこです)。

私はまずこの選択ができたことに、子どもたちの大きな成長を感じました。どちらも散々遊び込んできたからこそ、その上で今やりたい遊びが明確にイメージできているということ。これは室内でいくつか分かれているゾーンを選ぶことに似ています。その広範囲なエリアの特色がまずあって、さらにそこでこんなことをして遊びたいという見通しもあります。

◆鬼ごっこの中にルパンが登場

私は5人の芝生広場を担当しました。するとまた面白い気づきがありました。鬼ごっこは、最初「通り抜け鬼がいい」というJくん(らんらん満5歳)がリードして遊びが始まりました。私が鬼をやったりして、タッチされないようにすり抜けようとします。何回かやると「鬼やる」と言って、捕まえる方をやりたがります。そのうち、遊びは「ルパン三世」の鬼ごっこになっていきました。「オレ、ルパン」とか「オレ、次元」とか「五ヱ門」とか言いながら、駆け回っています。映画かアニメの「ルパン三世」の躍動する登場人物たちの「ごっこ」が、鬼ごっこに融合していきました。

◆鬼ごっこの中から、役割分担のある「ごっこ」遊びへ

秋の運動会でお伝えしたように「鬼ごっこ」は、本来、鬼と子どもと親の3つ巴のロールプレイイングゲームです。子どもを捕まえようとする鬼から、親が子どもを守るという「ことろことろ」が原型ですから、その儀式的遊びが、伝承されていく中で現在は約3000種類あるとも言われる「鬼ごっこ」に枝分かれしていきました。今日の木場公園の「芝生広場」での鬼ごっこは、その中心はらんらんの3人でしたが、何かになったつもりで遊ぶ模倣遊びの中で、走り回って捕まえる、逃げるという運動にのめり込んでいました。これが1年後、年長さんになると、役割交代はもっと明確に頻繁になり、その交代のルールは厳密化されているでしょう。協同して遊びを創造していくようになっていく姿が目に浮かぶようで楽しみです。

◆自由遊びの大切な意味

この遊びはどんな意味があったのでしょうか。原っぱで走り回る鬼ごっこ。その中で垣間見られた役割交代のあるごっこ遊び。大人にとっての遊びは「娯楽」と捉えられがちですが、子どもにとってのこの遊びは「自発的」な活動であり、それ自体が目的になっていて、その遊びがどこまでいくのかはわからないようなものです。遊んでいる時、私はよく「子どもの時間が流れている」という言い方をするのですが、正確にいうと、子どもが本当に遊んでいる時は、意識も行動も日常のことから隔てられています。遊びがもし日常の生活に役立つようなものばかりになったら、それはもはや遊びではないでしょう。鬼ごっこという緩やかなルールはあるものの、自在にルールを変化させ、新しいルールが創り出され続けます。そうした遊びが今日の木場公園での芝生広場の遊びだったと思います。

◆まだ帰りたくない、もっと遊びたい!

そんな遊びだったことの証明は、「そろそろ帰る時間になってきたよ」ということを伝えた時、遊びの時間と空間を生きていた子どもたちは「嫌だ、もっと遊びたい!」と口を揃えました。私は「よし!それでよし」と心でガッツポーズをとります。そうでなければ、遊んだことにならないのです。その遊びこそが、この子たちに必要な発達を支えます。最近の流行りの言い方では「遊びが学びになっている」と、いちいちいう必要があるのですが、もちろうそうです。ここでいう学びとは成長に必要な経験をしている、という意味です。

もし、遊びが自発的でもなく、何かの目的のための手段で行われ、日常の意識となんら変わらず、解放感をもたらさない活動だったら、それは「遊び」ではなく「学び」にもなっていません。それを保育学では「学びのない堕落した遊び」と言います。

 

卒園した後の居場所と育ちで語り合う

2020/01/19

園を卒園した保護者や、高校生になった子どもたち、そして地域の学童やひろば、児童館の職員らが集い、地域に子どもたちに必要な居場所のあり方を話し合いました。主催したのは新宿せいが子ども園の保護者の皆さん。千代田せいが保育園の保護者も参加してくださいました。藤森先生による幼児教育のあり方、保育者養成校の先生による本当の遊びの意味、そして参加者からの現状報告など、とても学びの多い会となりました。

待機児童を解消するために保育園は急ピッチで作っているものの、学童は定員を大幅に超える鮨詰め状態で、法律では本来6年生まで利用できるようになっている学童ですが、実情は3年生までしか入れない状況になっています。しかも児童館が少なく、友達の家やいろいろな地域のスポットを自転車などで回遊して過ごす子どもたちもいるという報告もありました。運動場の開放で走り回って遊ぶことができても、そこは男の子ばかりで、座って過ごせるような場所が少ないようです。

新宿せいが子ども園を卒園した子どもたちは最年長でいま大学生になっており、昨日と今日の大学入試センター試験を受けている高校生もいました。主体性を育てる保育を経験しているので、小学校に入学すると自分で判断したり、行動することが染み付いており、小学校3〜4年生になるとリーダーシップを発揮するようになっています。また男女が別々のグループにならず、性差の垣根を超えての友達もできやすいようです。

異年齢児保育で過ごしているので、小学校に行くと知っている2年生や3年生がいて、学校に溶け込みやすいのも、せいがの保育のよさ。それは学童でも同じで、保育園時代に一旦別れてもまた再会できることが、子どもにとっては保小の円滑な接続になっているという話もありました。

 

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