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園長の日記

未知の大きさに途方に暮れながら年度末を迎える

2024/03/29

ちょっと前のことですがテレビで鳴門の渦潮を見ました。「その渦は取り出して持って帰れませんよね。宇宙も銀河系も、やっぱり渦ですよね。それと同じようなことが保育でもいっぱい起きているんです」と、新年度の月刊絵本の見本を持ってこられた代理店の方に話したら面白がってくれました。

「そこには海水の動きの中に、関係のプロセスとパターンがあって、その渦を切り取って並べてみることはできないでしょ。ほとんどの事はそうなっているわけですから、子どもが何かを身につけて成長していく姿は、そのように関係のプロセスの中に見えてくるパターンを認めていくことになるのなもしれない、なんて想像しているんです。小さな渦や大きな渦や、ゆっくりのや早いのや、いろいろあって・・」

最近「そういえば」と思い出したのは、大学時代に親しんだユクスキュルの「環世界」の見方があります。いまごろになって保育に関係してきたので面白いのです。ギブソンのアフォーダンスの見方が知覚と行為の関係について、ずいぶんと変えてくれた気もするし、それ以前に、そのような人間の認知の限界を見出した先駆ともいうべきユクスキュルの発見とともつながって、それに影響を受けたアーティストもたくさんいたというエッセイを最近よんで、同時代にクロスしていないことを残念に思います。

私の場合は20代の後半から、感覚が捉えることのできる世界が「ここ」なら、超感覚的な世界が「向こう」にあると仮定することを否定できないと思っていたので、高橋巌さんの導きでルドルフ・シュタイナーにいったわけです。超感覚的世界を認識する力の開発の難しさを淡々と受け入れつつ、日常的は時間の中では、普通の人間の感覚で捉えている世界の中で通用する理論と見方と言葉を辿り直している感じです。それは、数年前からやっている東大のテンミニッツの知識の全体像(小宮山宏)の片鱗(ほんの一部)なっていくのでしょう。

ユクスキュルがもし生きていたら、自然に対する人間の所業を嘆き悲しんだかもしれません。どうしてこんな巨大な装置を作ってしまったんだろう、と。人間は、もうそんなことを言っても仕方がないところまで来てしまった。それにしても人間はすごいことをしでかしてしまうものだ。映画「オッペンハイマー」がもうすぐ公開されるようです。これは観に行くことにしよう。

まだ出会えていない膨大な知識が世界にはあって、それは現代は爆発しているようなものだといいます。どんな専門家がよってたかって全体像を掴もうとしたって、不可能だろうと。世界に前人未到の土地は限られていると思ってたら、とんでもない、知識の世界がビッグバンを起こしているようだ。じゃあ、どうするといいんだろう。朧げでもいい、片鱗だけでもいい。世界の全体像をいまだに知りたいと思っています。

必要なことを選択できる育ち(共同主体性の育ち)

2024/03/27

来年度の保育の年間計画が、出揃い始めました。各クラスの新しい担任がこんな1年にしたい、という保育目標を言葉や写真で表現しています。その内容は4月のクラスごとの保護者会で説明させてもらいますが、今年は子供が主体的に関わる環境の有りようを、乳児の3つの関わりの視点から10の姿までを、かなり具体的なこどもの姿として、つなげて表現することができそうです。

乳児の身体的な発達と思われている視点を、自己との関わりの視点と読み変えることで、行為主体性が、共同主体性に成長していく事例を並べてみようと言うわけです。例えば、ある遊びを眺めていた子供が、その遊びに入った途端、その決まりを守る必要があり、それを守れなくなった時、例外条項を共有していることに気づきました。タイム、透明人間、トイレ、お茶を飲みに行く、などなど決まりを守らなくても良い理由を宣言していくのです。まぁ律儀だなぁと思っていたのですが、ここに共同主体性が機能していることに気づきました。

これまで選択めぐって、自分のやりたいことを選択すること、他者との関わりの中で、身につけていく社会性の両極を橋渡しするものとして、「発達に必要なことを選択できるようになる」と表現していたのですが、これこそ、共同主体性の育ちと位置づけてみようと言うわけです。

 

感情の震度〜気持ちが充満する空間の密度

2024/03/26

最近、こんな光景があったそうです。4月ですぐに3歳になる1歳児クラスCさんが「(気持ちが)落ち着いたら、やったら」と、手を洗おうとしない同じクラスのYくんに優しく声をかけたそうです。こんな小さな子どもの気持ちを察してこうしたら?と提案しています。

そこでYくんに先生が「何か嫌だったの?」と聞くと、どうも水道の水が「冷たい」から、どうしようかな?と思っていたらしいのです。さらにこの話にはオチがあって、同じクラスのもう一人の子(この子は5月で満3歳になります)が「もう少し待ってあげたら」と先生に苦言を呈したというのですから、面白いですね。

それを聞いた先生が「ハッとして、反省したんです」と、子どもの微笑ましい姿を思い出しながら、「あの会話を録画しておきたかったなあ」と悔やんでいます。つい大人はこうしたら、ああしあたら、と行為を促すような言葉をかけてしまいます。

自分の気持ちをお友達の気持ちにかさね合わせているとか、相手の気持ちに気づいているとか、そういう解釈は色々できるのですが、そして大筋そういうことなのでしょうが、担任はこういうのです。「やっぱり自分が経験したことから、どんな風にしてもらいたかをわかっている。周りのお友達が自分のことを気遣ってくれていること自体で、何か安心してまたやろうとする気持ちになっていくみたい」。気持ちの通い合いというのは、いわば水の流れのようなもので、そこに相互の波長があうと感情の「渦」のようなものができるのかもしれません。

この事例は3人が作った感情の渦ですが、もっと大きくもなるでしょう。またすぐに消えてしまうかもしれません。その経験はきっと何らかの形で生きていく。

私たちはなんとかして行動に移させようと、あれこれやるのですが、それだけではなくて意味に気づくことも大事なのですが、その取り巻いている感情の動きから、自分にあたってくる感情の感触のよさみたいなものがあって、それが気持ちを動かして行為となって現れるみたいなことがあるかもしれません。相互の中で動く温かい気持ちの渦のようなものが、Yくんを巻き込んで動き出させているというように。

別に目に見えるものではないのですが、その子たちにとって、自分の気持ちを出せる範囲が周りの子どもたちとの気持ちを感じながら、その居心地のいい感覚を自分で再認識するようなことが起きているかもしれません。

捕食を引き起こす知覚情報

2024/03/25

月曜日に品川水族館に出かけました。ここに来たのは何度目になるのでしょう。5年前に来た時、生まれたばかりかりだったイルカのバニラが立派にショーをやっていました。

皇帝ペンギンも新しい家族が増えていました。

子供たちはイルカショーもアザラシも見ることができてよかったのですが、くるたびにちょっとした新しいことに気づくのも楽しいものです。

それは、魚から、鳥や哺乳動物に至るまで、生存に欠かせない。食べるという行動に関することです。

イルカもアザラシもペンギンもサメも、飼育員が餌をあげている場面を見ることができたのですが、アザラシとペンギンは水槽に落ちている魚は食べません。

死んでいるからでしょうか、動かないからでしょうか。飼育員がサメに餌をあげる時も、曲がった槍に魚を突き刺して、ゆらゆらと揺らしながら、口のそばに寄せると、サメがパクっと食いつきます。見ていると、条件反射的にかぶりついているように見えました。曲がった槍から離れて落ちていく魚には見向きもしないのです。

捕食行動は、食べようとする相手が捕食行動を引き起こすような姿、つまり情報を提供しないと成立しないのでしょうか。捕食される側はよく死んだふりをします。動かなくなる、つまり知覚情報を提供しないようにすることを、私たちが「死んだふりをしてる」ようだと、解釈しているだけなのかもしれません。

生きて動いているものを食べる。動かないものは食べない。その解釈はいろいろできるでしょう。ただイルカとアザラシは演技が終わると口を開けて、報酬としての餌を口の中に投げ込んでもらっていましたけれど。

神田川に鯉のぼりを泳がせる(こどもの日に町会が主催)

2024/03/24

今年度最後の「にちよう開放」の朝は、和泉橋出張所管内にある町会の3連合会の皆さんがいらっしゃいました。

こどもの日に子どもの作った「鯉のぼり」を、神田川の上を泳がせようというプロジェクトが持ち上がり、そのロープを張る実験です。当園の非常階段から、向こう岸は出張所の3階の会議室。

支柱が風で持っていかれないか心配しましたが、子どもの作るビニール製の鯉のぼりと聞いて、軽そうなので大丈夫そうです。園児も鯉のぼりを作って一緒に泳がせてもらうことにしました。

あらかわ遊園で思いっきり遊ぶ

2024/03/22

秋葉原駅から京浜東北線に乗り、王子駅で都電荒川線に乗り換えて「荒川遊園」へ。弁当を持って電車で遠出できるのも子どもたちの成長の証ですね。9人の年長と職員4人でお別れ遠足第二弾を楽しんできました。遊園地で子どもと遊んで給料がもらえるなんて、保育ってなんて素敵な仕事でしょう! 出かける前に、赤ちゃんを抱っこしている保育中の先生たちにそう言ってみたら、100%冗談だと思われました。でも私は本当にちょっと、そう思ってるんですけどね!

遊園地の乗り物は強風に弱いということを今回知りました。数日前は強風で観覧車やスカイウォークなどの乗り物系は停めたそうです。それを知っている子どもたちは、遠くから観覧車が見えると「あ、動いてない!」「動いてる!」と戦々恐々、動いているとわかって喜んでました。・・・詳しくはクラスブログをご覧いただくとして、こんな晴れ渡った天気のもとで、時の経つのも忘れて友達と遊び回り、おうちの人に作ってもらったお弁当を広げてワイワイと食べる。素敵な思い出になったことでしょう。

ちなみに先ほど「大きくなったら保育士になりたい」と言っているMMさんに「荒川遊園地と保育園とどっちが楽しい?」と聞いてみたら「あらかわ遊園!」と即答でした。やっぱりそういうものか。でも私が「保育園っていってほしい」と思っていることも察しているので、わざと大声で即答だったんです、そんな表情をしてました。

休日の本屋巡り

2024/03/21

書店に行くのは好きです。どんな新しい本が出ているのか、何が売れているのか、定点観測は欠かせません。しかもいくつかの書店を回ると、共通しておいてある本と、そうでないものがわかって面白いものです。

アマゾンで見ていると欲しいものが増えてしまうので、どこで諦めるのか迷います。迷った本が書店に置いてあったら、手に取ってパラパラ。あるいは、図書館で、取ってみる。

ちゃんと読んで、頭に入ってきて、使うまでつながるようなものは、線を引いたり、メモをしたり、ノートに図を書いたりするので、結局は買ったものが1番役立っています。読みたいときに、そばにあるというのが1番良いということ。

本を読むものではなくて引くものだと言ったのは、たしか大宅壮一ですが、本の読み方、楽しみ方はいろいろですから、こちら読み手側の気分によってもいろいろであっていいし、本の内容によってもいろいろ違う。そう考えれば、本にこだわる必要はないのかもしれません。

インターネットとYouTubeとSNSで、ほとんどの情報が手に入り、発信し、学ぶことができる時代です。大学院レベルの講座もネットで開かれています。実際本の内容もネットで検索したり読んだりできるようになっているので、アナログな本だけが本ではないと言うことでしょう。オーディオブックも本ですし、読書と言う行動の一つです。

これからの多様なメディア、社会の中で生きていく子供たちにとって、学校教育や社会教育の中での読書をどう考えるか。幼児教育の絵本をどう考えるか。本とその周辺のことをつないで眺めてみないとなかなか見えてこないような気がします。

でも、明らかに大人にとっては本の優位性というものがあります。場所的にも時間的にも、今ここと言うことを超えて、無限といってもいい位広い世界につながっているからです。

さらに、認知や学びのモードといったフェーズで、このことを考えると、保育園や幼稚園に置いてある絵本、家庭の中にある絵本、その意味をもう一度考え直したくなります。また学校図書館や公共図書館のスタイルと言うものを、インターフェースのデザインとしても、考え直すことが必要になっている事情もあるようです。

24日は今年度最後の「にちよう開放」

2024/03/20

保育園はみなさんのホームグランドです。新しく入園される方々との個人別の面談が終わり、入園に向けた準備をされていると思いますが、保育園が子どもたちにとっても、アウェイではなくて家庭とはまた違ったホームになるといいなと思うと同時に、家庭からさらに広がっていく世界性を代表する「面白空間」として機能していくといいな、と思っています。

そのためにはまずは親子で足を踏み入れていただく時間を増やしていただき、最初は一緒に過ごしてみてください。4月1日(月)は親子で過ごしていただきますが、そのちょうど1週間前に当たる、今週の日曜日、24日は午前中に「いちよう開放」もやっていますので、親子で遊びにきてくださっても構いません。

千代田せいがサポートスタッフ(SSS)について

2024/03/19

卒園した子どもたちが保育園で平日の午後や、学校がお休みの日などに来て、ボランティア活動をすることができます。せいがのS、サポートのS、スタッフのSでスリーエス(SSS)と呼んでいます。1997年にできた「せいがの森保育園」時代からやっているので、20年以上前から続いている活動なんです。

学童とは違って「保育」はしません。あくまでも乳幼児のサポート活動です。保育見習いのようなことなのですが、卒園児はそのサポートが上手いんです。年長の頃に「お手伝い保育」をやってきているので、小さい子どもの気持ちに気づいたり、必要なタイミングで手伝ったりできます。本人が遊ぶのではなくて、助けたり、手伝ったりすることが好きになる活動と言っていいでしょうね。

そう考えると、保育というのは、子どもが実現したいと願っていることを実現できるようにサポートすることとも言えるわけですから、そのお手伝いは小学生、中学生、高校生のための保育実習のようなものです。実際に卒園児が保育士になって姉妹園で働いていますが、本人は保育園時代から「大きくなったら保育士になりたい」と言っていたし、お手伝いも上手でした。

また保育園で保育をしていると、大人も人によっては「癒される」という体験になることがあります。子どものことが好きで、その好きな子どもに接することができるから、ということもあるのでしょうが、さらに、人を助けるとか役立つという実感が持てやすくて、それが自己有用感を得て、心の安定や自信につながる、という面があるかもしれません。

 

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