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園長の日記

すずむしの「お すそ分け」

2023/06/05

たくさん生まれた「すずむし」のおすすわけ。保護者の皆さんもいかがですか。まだ小さいのですが、時期に大人になって鳴き出すでしょう。カゴをお持ちください、昨年に引き続きお分けします。5月25日には姉妹園の「新宿せいが子ども園」へ持っていきました。先週2日には、近所の保育園に声を掛けたら「ぜひ」というのでお持ちいただき、今日5日は飯田橋にあるこども園へプレゼントしました。

だんだん大きくなっていく虫の成長を子どもはよく観察しています。どこにいるのか、どんな風に動くのか、触覚だけが白くて目立つことや、ときどき噴霧器で湿気をあげないといけないことなどを知っています。この園で産んだ卵が孵った3代目のすずむし。鈴虫が何はじめるのを「待ち遠しく待つ」という子どもたち。こういうのを気長に待つというのは、なかなかない。この園の特徴になるかもしれませんね。

しりとり・図解・ユーモア

2023/06/02

グリコ!が流行っているので、しりとりもきっと好きだろうということで、聞いてみたら大好きでした。そこで「しりとりのだいすきなおうさま」。絵を見ながらクイズのように名前を当てていきながら読みました。大ウケです。この手の絵本は、私は紙芝居のように、また子どもたちと問答しながら、楽しみます。

2冊目は、幅広い年齢で楽しめるように、かこさとし作品から「あさですよ よるですよ」。最近、食事の下拵えのお手伝いで「そらまめ」の皮むきをやっていたので、そら豆くんの家族のお話にしてもいい?と聞くと「いいよ〜」と興味津々。細かい描写のひとつずつを丁寧に確かめるように見ていきました。

絵本は文字がなくても楽しめることがよくわかる絵本。かこさとしさんも私と同じ理系ですが、世界を分解してよくわかるように絵本にするという図鑑的な絵本もたくさんあって、立派なサイエンスになってますよね。

最後は、今日でお別れのお友達もいたので「げんきでなあ〜」と楽しく言いたくて、これにしました。

「かなしいはなしです」のユーモラスな感じがわかると、もう年長さんだなあ。ここにも10の姿があるんだけどなあ。面白い話です。

子どもが作るバリケード

2023/06/02

昨日からの続き。6月1日木曜日の午前のことですが、室内の窓際に3人の3歳児男女がせっせと椅子を、バリケードのように(と形容するのは、私の勝手な解釈ですが)並べ、そこに椅子の扉を置いて、出入りできる空間を作っていました。その中で外を眺めたり、絵本を読んだり、お絵かきをしたがったりしています。主任とその遊びをずっと見ていました。これはどんな意味があるんだろう? そんなことを考えていました。そこに出来上がっていく空間の意味を。
・・・基地づくりだとか寛ぎ空間だとか、お家ごっこだとか、プライベート空間だとか、まあ、色々な言葉と概念が私の頭の中にはびこっていて、自分でも「なんて陳腐なことしか思いつかないんだろう」と思いながら、その子どもたちの表情を眺めていました。いずれにしても、安心できる快適な空間を求めているのだろうという。でも、どうもピッタリする意味が思い浮かびません。
そんなときに、子どものトラブルについて書いた巻頭言について「子ども遊びとはまずははみ出すことからですからね」というコメントをいただき、遊びと自由の関係、協同生と自由の関係が「いわば遊びの高度化である」という言葉で、ミッシング・リンクが繋がる思いをしたのです。私にとってはこういうことでした。
遊びに自由という言葉を頭につけて、わざわざ「自由遊び」と呼ぶことを、<屋上屋を架すようなことを言わないといけないのは、本来の遊びになっていないことへの留意だろう>と考えていたのですが、それは「遊び」に加担しすぎた解釈だと気づきました。自由の方にアクセントをおいてもいいのだと、気づいたのです。生きることだったのです。大事なのは自由に生きるということ。
子どもがそうしたがるのは、観念的に自由を求めているのでも、大人が考えるような概念としての自由を思い描いているのでも、もちろんありません。ただ、大人であろうと子どもであろうと、「生きる」というのは、そういう衝動に突き動かされているからであって、そのいのちの大きな傾向、動きというものの流れは、本人にしてみると切実なものなのだと思います。
それが時には周りへの抵抗、反抗だったり、大人だったら転職や起業、あるいは社会運動だったり、場合によっては犯罪にもなり、芸術家なら自身の内的真実をかけた戦い、表現への飽くなき探究(もちろん現実的に生計を立てるという切実な問題もあるのですが、それも飲み込みながら、妥協しながらでも美と表現を求めるように)になっているのだと思います。
それは、いずれも切実な「生きる」という姿なのでしょう。大人が小説や映画や伝記を通じて、それを感じるとき、自身のそれと感応しあっており、子どもは遊びの中にその芽生えを見せてくれているのかもしれない、と。
そして、子どもの作るバリケードのように囲われた空間(を撮った写真はないのですが)は、生きる姿の象徴のように見えてきたのでした。(こうやって振り返ると、当たり前の話に戻ってきたがして、なんだか恥ずかしい限りな、話になってしまいました・・)

大人は子どものトラブルをどう受け止めるか、の続き

2023/06/01

園だより6月号「巻頭言」より

子どもは「はみ出し」ながら育ちます。このことも付け加えておかなくちゃ、と昨日の「園長の日記」に書いたことの続きです。そのはみ出し具合を、できるだけ「ひろ〜く」とってあげたい。そういう話です。なぜ「広いか」というと、子どもは自然だから、と言うことなのですが。

大人が思う通りに育ってほしいというより、子どもはそれを飛び越え、予想外のことをやりながら、生きているのだと思います。それを「困ったこと」とか「例外」とか「普通じゃない」というように捉えたくありません。子どもを大人の狭い枠組みの中に押し込めたくはないのです。そうではなく、子どもは(つまり人間は)、そういうことが「自然」なんだと思えるといいのかもしれません。

子どもは自然そのものだという話は、私たち幼児教育に関わるものは、よく聞きます。自然というのは思う通りにならない、という性格を持っています。人間は自然を相手に都合のいいように変えて、都市や文明を築いてきたが、時々、自然災害や天変地異などが自然の怖さを思い出させる、というよくある話。それとはまた別に、人間の外側に自然を見るのではなくて、私たち人間が自然の一部であって、大きな自然の営みの中にあるという認識を忘れないでいよう、そういう話が一方にありますよね。子どもはその「うちなる自然」を思い出してくれるということです。

その話で私が思い出すのは、養老孟司さんの「子どもは自然に属する」という話です。どこかで聞いたことがある方も多いでしょう。大人は都会では道に段差があったり障害物があると、つまずいて怒ったりします。ちょっと不便なことや都合が悪い不合理なことがあると文句を言いたくなる、そんな気分を持っています。私たち大人が都合のいい「人工」世界にいるからでしょう。

でも山の中に入って、凸凹しているからといって、それに文句を言う人はいないでしょ。子どもが凸凹していて、大人が思うど通りにやらないからといってイライラしてしまうのは、山に入って歩きにくいと文句を言っているのと同じですよ、というそう言う話でした。

先ほど主任が「ある活動で、幼児がサンダルで山登りをしているところがあるんですよ」と教えてくれました。過保護にしないという趣旨の話ですが、もう一つ、自然の一部である子どもは自然の中なら裸足でいたがるもの、という話にも聞こえてきます。子どもは自然でいることを求めていて、その振る舞いの延長に、「人工的な」人間社会が求める決まりにうまく適応できないことが起きているだけ、という見方もなりたちます。ちょっと理屈っぽい話になってしまいましたが、子どものトラブルを有る意味で自然現象だから仕方ない、そんな大らかな受け止め方も必要な気がするのです。

大人は子どものトラブルをどう受け止めるか

2023/05/30

私たちが立ち帰るものに保育原理があります。そこに書いてあることは、長い年月をかけて先人たちが作り上げてきた教育や保育や育児の要諦が、簡潔に記載されています。大事な原理、原則のようなもの、あるいは保育の道標のようなものになります。こういうことが起きていて、どうしたらいいのだろうか、どう考えたらいいのだろうか、という時、私はまず、「保育は養護と教育が一体的に行われている営みである」という保育所保育の特性に立ち帰ることにしています。

養護は生命の保持と情緒の安定ですが、そのためにはさまざまな欲求が満たされていく必要があって、とりわけ社会的な欲求、つまり人と人の関わりの中で見えてくる欲求、社会的な欲求が十分に満たされていないと、とかく不安定になりがちです。どんな関わりの欲求なのだろうか。それはケースバイケースです。

それはある時は愛情かもしれないし、私をみて「これ作ったの、みて」と認めてもらいたいという承認の欲求かもしれません。あるいは自分でやりたい、思う通りにしたい!という自在感のようなものだったり、何かを成し遂げた時の達成感のようなものの時もあるでしょう。また、お友達という仲間の一員になりたいという仲間意識、所属感のようなものも、あるかもしれない。

規範意識が育ってきたからこ生まれる葛藤もあります。自分はきまりやルールを守っているのに、そうじゃない姿を目にすると「違う」と言いたくなる気持ち。そうすることになっているという事を守れないお友達への注意をめぐって、手が出てしまうこともあります。公平感や正義感からくる「守らないのは悪いこと」という意識から、強い働きかけが生まれてきます。指摘されて「あ、そうだった」と、行動が変わればいいのですが、そう簡単にはいかないものです。それができるようになるまでに、ある程度の時間がかかります。

とにかく、いろいろな「思い」の伝え合いの中で、それが子ども同士の中でぶつかり合ったり、受け損ねたりし、誤解しあったりすること、やりとりしている間に、こんがらがってしまってうことも起きます。子どもたちは、幾つもの「こうしたい、ああしたい」が絡み合って、それぞれの主張がぶつかってしまう時もあります。さらに感情的になって、気持ちを抑えきれず、手が出てしまうこともあったりします。

子どもは「やり方が違うよ、こうだよ」と優しく教えることができず「違うよ、ダメだよ」という強い言い方になることもしばしば。それを無視したり応えたりしないと、伝えた方が「制裁」への向かうことがあります。先生に言いつけにくる、といこともあります。守ってほしいルールは子どもがやることなので単純明快な方がよくて、人を叩いたり(バンしたり)、蹴ったり(キックしたり)、噛み付いたり(ガブしたり)はダメだよ、ということは、大体小さい時から理解していきます。それでも、相手がそうしてくると、つい自分も「応戦してしまう」ということだったあります。

このような我慢できる力や、感情をコントロールする自制心などは、持って生まれた特性や経験の積み重ねの度合い、他の欲求が満たされているか(睡眠不足とか運動不足、お腹が空いているか)など、生理的な欲求も含めて、どうなっているかという個別の影響なども相まって、いろいろなことが影響します。

先生や親の話も理解して、わかっているのですが、実際にその場面になるとまだできないということもあります。私たちは、起きた事柄の経緯から、それぞれの子どもの「こんなつもりだった」という思いを丁寧に受け止めていくこと(言葉で表現できないことも多いくて、察していくしかないことも多いのですが)を大切にしながら、伝わっていないときは、仲介して「こういうつもりだったんだって」と代弁したり、橋渡しをしたり、しています。どっちが正しかったか、ということはあまり優先しません。そもそも、白黒つけることが目的でもなく、それぞれの折り合いの付け方、気持ちの寄せ合い方、許し方、仲直りへの気持ちの整理の仕方などを、体験的に学んでいく、貴重な体験の積み重ねだと思っています。

ぎゅ〜っと

2023/05/29

今日は二人の子どもを「ぎゅっ」と抱きしめてあげました。子どもは水分補給と同じで、心が乾くことがあるんですよ。瑞々しい心を取り戻してあげるために、膝の上で大好きだよ〜、ってぎゅ〜っとしてあげます。まるで植物が日光と水を求めるのと同じみたいに。

そうすると、それで子どもの表情は和やかに落ち着き、笑顔が戻り、自分から膝を降りて走り出します。大人が子どもにこうしてほしい、ああしてほしいと思うときは、なおさら。それは、抱きしめてあげて、心をうるおいいっぱいにしてあげてから。子どもの心の葉っぱはぴーんと、ツヤツヤと輝き出すのです。

活気にあふれた話しあいに参加

2023/05/27

ある知人の保育園で夕方の園内研修に参加しました。子どもの写真や動画を見ながら、ああだ、こうだと話しあいです。先生たちが活気に溢れています。夕方6時すぎにお開きですが、学びたいという気持ちに溢れている職員の多い園は、保育も生き生きとしています。そして清潔で装飾も綺麗です。保育をよくしようとすると、子どもが生活する舞台を綺麗にしようとします。子どもの表現したものを慈しみ、飾ろうとするでしょう。子どものいいな、という姿に気づいたら伝えたくなるでしょう、保護者にも先生にも。そんな気持ちで保育ができたらいいよね。そんな話にもなりました。

継続は力なり

2023/05/26

今日は午前中に睡眠講座をZOOMで開き、午後から職員との打ち合わせがいくつかあり、夕方に絵本の読み聞かせをして、午後6時から岩本町三丁目の総会に出席し、その後は夜の職員研修会でした。

どれもこれもテーマは違えども、子どもの経験をよりよくするために必要な、ちょっとずつの工夫の連なりです。保育がもしネックレスのような大事な装飾品だとしたら、一部をよく磨くと他の曇りに気づき、そこを磨こうとすることに似ています。

あるいは拡大すると「あ、ぼんやり汚れてるなあ」に気づいてメンテする。全部を磨くとやっぱり見違えるほどキレイになったりするものです。遠目から見ると、あまり違いがないように見えて、でも続けると全体が少しずつ良くなっていくはず。そう思いたい。そして、きっとある日、振り返ると遠くまで来たなあ、って思えるのじゃないかと。一歩でも半歩でも、歩くことが大事。やらないとずっとゼロ。

また違う話ですが、例えばどんなに忙しくても毎日30分の読書。300日だと150時間にもなる。15分でも75時間。これだけの話し合いがあれば何かが変わるはず。こういう積み重ねを生み出す粘り強さは大事だろうなあ。でもそれを動かすモチベーション、エンジンを持つことがないとね。グライダーじゃないのよ、自分で飛べるように、目的地を探して。もっとも難しいのは組織の場合は、その共有。これが肝。

絵本を読んであげながら

2023/05/26

5月26日の園長の絵本ダイムには松岡享子さんと松居直さんのを用意しました。お二人が対談をした古い記事を、この園長の日記で紹介したことがあります。まだお元気なころのお二人。そのお二人がもういないことを思い出しながら、「おふろだいすき」と「だいくとおにろく」を読もうと用意しました。

このような絵本は親子で、あるいは少ない人数で読むほうが、その子の理解や気持ちがわかって楽しい。というのも、その架空の世界のなかに没頭する度合いは、それぞれだから。また、その入り込んでいる感覚をそばで感じ取りたくて。あるいは、その「ああ、どうなってしまうのかなあ」とつぎの展開へ心が奪われていく感覚をより濃く一緒に共有したくて。そして最後は・・・ああ、よかったね、と戻ってくる幸福感。その世界をいっしょに味わったという安心と満足の共有感覚。これがあるから絵本は楽しい。そう思います。

でも、今日実際によんだのは「おふろだいすき」と、どうしてももう一回やってほしいというので前回も読んだ「かえうたかえうたこいのぼり」。もう一冊は「電車がいい」というので「がたんごとん がたんごとん」。「だいくとおにろく」はまた今度ということに。

松岡さんは幸せな絵本の時間をとても大事にされたし、松居さんは、子どもの世界の未知への広がりを切り開いた方。その貢献は実に心からありがたい。そうだ、お二人の特集を近いうちに組もう、せいが文庫で。

国際理解の意識の芽生え

2023/05/25

園生活には行事や栽培活動、他園との交流など「共通体験」といって、子どもたちが同じ活動を体験することがよくあります。毎月開かれる誕生会もその一つで、当園ではその月に生まれた子どもたちを乳児と幼児に別れてお祝いします。

担任がお友達の年齢やよいところ、好きな遊びなどを紹介してあげたり、お友達からの質問に答えたりします。そしてプレゼントを渡して歌を歌ってお祝いします。その後、毎回、ちょっとしたお楽しみの出し物があります。今月は乳児は絵本の読み聞かせ、幼児は世界の国を紹介するスライドショーでした。

絵本の読み聞かせにしても、何かの紹介にしても、それが子どもたちにとって身近なものになるのは、よく知っている好きな先生がやってくれるからでしょう。例えば今日の世界の国の紹介は、T先生が実際に旅行に行って撮ってきた写真や動画を使っているので、その写真や動画の中にT先生が出てきたり、実際に出会った人や出来事の話がリアルでとても身近な感じがします。「これ、つぼいっちが撮ったの?」とか「あ、(先生の)バイク乗ったの?」とか、興味がぐ〜んと湧いているのがわかります。

今回のテーマは「いろんなくにのみちをあるいてみよう」でした。紹介された国は、日本、エジプト、ヨルダン、レバノン、タジキスタン、キルギス、ソマリランド、エチオピア、ガテマラ、ヘルーと、ちょっと大人でもあまり行ったことがないような国々ばかり? ではないでしょうか。というのはT先生は若い頃から世界50ヵ国以上を訪ね歩いてきたバックパッカーでもあり、いろんな国の生活や文化や考えを実際に体験しています。

話は保育園の前の「道」から始まりました。見慣れた風景の中にある「道」。散歩で通る道で見かけるスーパーマーケットが映し出されると。「あ、マイバスケット!」「◯○ちゃんのち(お家)!」と声が上がります。日本の「田舎の風景」も映ります。山、田んぼ、青い空に白い雲。長閑な自然な風景です。その風景は真ん中にアスファルトの道路が走っています。そうやって景色を見ると、私たちは「道」からしか景色というものを見ていないのだなあ、と気づきます。人が歩けるところからしか、見ていないかもしれない風景。

 

そして浅草寺の仲店通り。「あ、行ったことある!」・・この春は外国人が大勢歩いていて、数年前の風景に戻っています。その観光地のように見える風景は、今後<日本中でみられるようになるかもしれない風景>かもしれません。

(写真:レバノンの市街地)

すでにスーパーマーケットや牛丼チェーン店の人は、中国、韓国、ベトナム、インドネシア、ネパール、スリランカ、ウズベキスタンなど、いろんな国の人が働いています。こんなに身近に外国の人がいるのに、まだ接点があまりありません。そのうち、その方々の子どもを保育園で預かるようになって、家族ぐるみのお付き合いが始まるかもしれません。

(写真:レバノンから見たシリア方面。あの山脈の向こうは戦争をしている)

映像は世界地図、国旗、そしてその国の道から見た風景、スパーマーケットに相当する食べ物を売っているお店、人々の姿、話し声、そういうものが順番に映し出されていきました。T先生の意図は、見ている子どもたちに、道とスーパーがどうなっているか?という視点をもって、自分が歩いているように感じてもらえたら・・というものです。

(写真:タジキスタンは平均高度は約3000m。世界で最も標高の高い山岳国家)

タジキスタンの写真を見せながら「みんながよく知っているものが、何もないでしょ、何がなんだと思う?」というナゾナゾに一生懸命考えています。答えは「木や草とか、ないでしょ。ここは富士山よりも高いところだから、野菜や果物や草が生えないんだよ」。(そういえば、子どもたちは、クイズや謎々にすると、とてもよく考えてくれます)そして「じゃあ、牛は?」「草がないから牛さんや馬さんもいないんだよ」「食べ物がないの?」「そう、もっと低い場所から運んでくるんだって」・・

(写真」:ヨルダンの市場)

今回の旅で出てくる国の中で、日本のスーパーのように、建物の中に整然と食糧品が並んで売っているようなところは都市部以外にはほとんどなく、道端に点々と敷物を広げた露店が連なっていたり、荷台が並んだ屋外マーケットのような市場に大勢の人々が行き交っているという光景です。

(写真:キルギスまで降りると牛や馬の群れが列をなして道路を歩いている)

自動車と自転車の走る道路を、女性が頭に荷物を乗せて歩いていたり、何十頭もの馬や牛が歩いていたりします。日本では見たことがない人々の様子に「おもちゃ屋さんはあるの?」などと、見入っていました。

世界の旅は、中東、アジアからアフリカへ。

(写真:エチオピアの住宅街と市場)

経済統計で「貧しい国」と言われるアフリカの国々。実際には国と地域でその実態は様々。そのひとつ、ソマリランドの空は澄み切って美しいのですが、生活圏は「ほら、道にいっぱいゴミがあるでしょ、ゴミも処理するところが少なくて困っているんだよ。雨がほとんど降らないから、草とか野菜とかも育たないんだ」と。♪はたらくくるま、でよく知っている「ゴミ収集車」なんてないんだよ。

(写真:ソマリランドの道路と澄み切った青い空)

ガテマラは地盤沈下で近くの湖よりも低くなり水浸しになってしまった道路に「どうして?」「雨?」などと、疑問の声が挙がりました。私も子どもたちと一緒に「へえ〜、そうなんだ〜」の連続です。気候変動や戦争、経済の話は難しくても、子どもたちは着ている服や言葉の違いに気づきます。

(写真:ガテマラの水没地域)

また私たち大人も、食べ物ひとつにしても、日本はなんと贅沢な暮らしなんだろう、食料品がちょっと歩いて行ける場所に、こんなに豊富に並んでいるのが、まるで奇跡のように思えてきます。

最後はペルーの地上絵。道路からは、その絵は見えません。飛行機のない時代に、描いた本人たちにもその全体像を見たことはなかったはずなのに、よく描いたものです。T先生の撮った延々と続く「車窓からの動画の風景」を見ていて実感します。

 

(写真:ペルーの砂漠と上空からみた地上絵)

私たちの知らないこと、不思議なことがたくさんありますね。彼の話を聞いていると「日本の中だけで考えているとヤバイかもなあ」と思います。私たちが常識と思っている生活のあり方や、染み付いている考え方の、ある種の偏りに気付かされるひと時でした。

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