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園長の日記

象さん、なんであんな風に動かないのかしらん?

2023/04/20

今日紹介したいのは「見方・考え方」を考えていたときに出会ったエピソードです。毎日のように、子どもと接していると、ちょっとした小さなエピソードがたまっていきます。流れていく生活の中から何を「エピソード」として拾い出すのか、何を考察する対象として振り返るのかは、こちらがかけている「メガネ」次第。「あは〜ん、やっぱりこちらが見方を学ばないと見えてこないなあ」と思い巡らしながら、これを書いています。私の「思い巡らし」は、ただの迷い道みたいなものなので、そのことは棚上げしておいて、それよりも子どもが「思い巡らす姿」に出会った時のことです。4月19日に乳児の部屋でしばらく遊びをそばで見ていました。

すると、私と衝立てで「いないいないばあ」をしたがる子がよって来て、私が相手をしてくれることを期待して、私と衝立を挟んで自分から、いきなり、しゃがみ始めたりします。<お、もう始まるの!>と私がちょっと慌てますが、子どもは思い立ったが吉日、待ってはくれません(笑)。でも、同時にまた別の子が玩具の自動車を「ほら、これ」と言ったふうに見せてくれたり、読んでほしい絵本を持ってきて私のそばにドンと置いたりする子も来ます。

今日の振り返りはこっち。どんぐりのような形をした木製の人形が、コトコトと坂道を下っていくおもちゃがあるのですが、さっと動かず、ゆっくりとコトコトなので、1歳4ヶ月のその子にとっては面白さがまだわからないようでした。握ってはポイ、という状態。どんぐりが壊れていないか点検を兼ねて、私はあまり意識せずにそばにあったレゴの象さんを手にとって、自分で坂道を動く人形「どんぐり」を追いかける遊びを何度か繰り返しました。私が像を揺らしながら「待て待て〜」とどんぐり追っかけます。まな板の台から落ちるときに「どて!」と倒れるという遊びです。先生はふだん私のように「介入」しない方がいいのですが、まあ、結果的に遊びのモデル提示みたいになってしまったケースです。というのは・・・

(写真はカタログから)

どんぐり人形遊びを終えてしばらくすると、それを見ていたらしい別のSくん(1歳10ヶ月)が近づいてきて自分でまな板の上にレゴの「象」人形を置いて、動くかどうか置いてみてたのです。私は手でゆらゆらと動かしたのですが、その子は自分でその動きをするかどうかまるで確かめたかったかのように、置いたり揺すったり試行錯誤しているのです。これは私の解釈ですが「あれ、動かない」といった風に見えます。そこで、その姿に私は「思い巡らす」がぴったりだな、と感じたのでした。

(写真はカタログから)

「思い巡らす」ということを学んだのは、ある教科書の「幼児教育の根幹」と題する「見方・考え方」を解説した文章からです。それをいかに引用します。

「・・・(子どもが)環境の関わり方を知り、こうしたいという思い気持ちをもち、それを取り込んで、自分のものとして自分の力でやってみたいと思うことから試行錯誤が生まれる。これは体を使い、諸感覚を使いつつ、思い巡らすことである。思い巡らすというのは、「じっくり考える」「あれこれ悩む」「こうかなと思う」「こうしようとする」といった、子どもの内面的な、知的であり情動的なことを表現した様子である。」

どうですか?乳児もいろいろ「考えている」んですよね。保育界ではルチアちゃんの時計エピソードが有名なのですが、私にはその事例の分類ケースにこれが加わりました。そして、その子の姿を見ていたら、なんだか私と同じだ!と思えてきます。私のワーキングメモリーは「環境との関わり方や意味に気づき」という言葉の謎解きで、「メモリーいっぱい、もう録画できません」のビデオデッキみたいで、外付けのハードディスクが、最近はchatGPT経由のクラウドに移っていく予感を感じています。

ちなみに、幼稚園教育要領の「見方・考え方」は「〜考えたりするようになる」ですが、無藤先生の文章は以下のものです。私はこっちの方を併せて、じっくりと「思い巡らして」いるところです。鈴木宏昭さんの「思考力などのきわめて曖昧な能力を検討しているきちんとした研究は現在では存在しない。そうしたものは中身が不明であるため、直接に研究を行うことはできないからだ」(ちくまプリマー新書『私たちはどう学んでいるか』P26)といった言葉に出あって、こういうことは「早く言ってよ〜」と、松重豊になりたい気分でもあるのでした。

以下は補足メモ。

「幼児がそれぞれ発達に即しながら身近な環境に主体的に関わり、心が動かされる体験を重ね遊びが発展し生活が広がる中で環境との関わり方や意味に気づき、これらを取り込もうとして諸感覚を働かせながら試行錯誤したり、思いを巡らせたりする」(萌文書林「改訂 事例で学ぶ保育内容」シリーズの第1章「幼児教育の基本」から無藤先生の定義)

「幼児が身近な環境に主体的に関わり、環境との関わり方や意味に気づき、これらを取り込もうとして、試行錯誤したり、考えたりするようになる」(幼稚園教育要領)

上と下を比べると、無藤先生の方が長くて下線を引いたところが、要領にはない文言のところになります。

みかんの花が咲いている

2023/04/19

 

玄関のみかんの木に花が咲きました。

花の香り、どう?匂う?

ほら、蜂が蜜を集めてるよ。

「アゲハは?」

そうだね、アゲハもやってくる季節がもうすぐだね。

そして「はらぺこあおむし」の卵を子どもたちが見つけることになるのでしょう。

「資質・能力」をかみくだいた言葉

2023/04/18

私たちが普段日常的に使っている言葉遣いと、保育で使われている言葉遣いとの間にある開きを埋めるために、一種の日本語から日本語への翻訳に似たことが必要だなあと感じる時があります。その行ったり来たりに慣れる意味でも、専門用語のいわば「意訳」を使って、正装から普段着に、あるいは反対にカジュアルからフォーマルに着替えます。

(その「意訳」でいいんだ、と納得するためには、別の専門的な理解が必要になるのですが、私はどうしてそれでいいんだろう?とわからなくなることの方が多いので、できるだけ調べて「なるほど」と思えるところまで辿り着くようにしています。それでもまた新しい「?」が生まれるのですが)

例えば、子どもたちの姿を語るとき「資質・能力」の言葉遣いを取り入れる必要があります。知識・技術は「気づくこと、できること」ですし、思考力・判断力・表現力等は「考え、試し、工夫し、表現すること」ですし、学びに向かう力・人間性等は「おもしろく感じ、興味を持ったものにかかわろうとして、挑戦し粘り強く取り組み、また人と協力して一つのことを実現しようとすること」といった風に。

これに似た、近い言葉を連想しながら、それを用いてねらいなどを考えたり、振り返ったりします。保育にも国語力が必要です。

その具体例を今日18日(火)の乳児クラス(0〜1歳)のグログから見てみましょう。次のように書かれています。

・・・・・・・・・・

今日はお部屋チームとお散歩チームに分かれて過ごした ちぐん組です。(クラス単位、というよりも、子どもの様子や活動の内容など、一人ひとりの発達や体調などに合わせて過ごしています。)

お部屋チームは、テラスですこし外気浴をしました。はやくお外に出たいよ〜と、やる気満々です。
しゃぼん玉をふくと、追いかけてみたり、目で追ったり

 

ぐんぐん組のRちゃんも、まだ大人にくっつきたくなる瞬間もあるけれど、安心するとまた活発に動き始め、少しずつ笑顔も見せてくれました♪

ちっちのHくんは、マットの坂道の上り下りが得意技…!

下り坂のときは、ちゃんと後ろ向きに身体を回転させて、安全な下り方を知っているようです。色んな運動遊びを繰り返すうち、自分の身体の使い方や、”このくらいだったらできそう”というような自分自身の力の見通しも、だんだん分かってくるのでしょうか。

お部屋でもいろんな遊びを見つけます。

棚の影から「いないいない…ばっ!」

この笑顔にやられてしまいますね。

↑感触あそびゾーン。

↑Rちゃんは、ふわふわの上がお気に入りみたいです。

お昼ごはん。

Mちゃん、先生のひざの上は安心するみたいです。

U先生が歌ってくれる『ぐーちょきぱーでなにつくろう』の歌に合わせて、Mちゃんもちょこっと手をグー✊とパー✋にして動かしていました!

これは Kくんも、お気に入りソングです♪

一人ひとりのペースで、少しずつ保育園に慣れていけたらと思います。

・・・・・・・・・・

さて、いかがでしょうか?

こんな風に描写されている「子どもの姿」について、私たちは「乳児の3つの関わりの視点」や、先ほどの「資質・能力」の視点で振り返ることになります。自分自身の体の使い方がわかってくるというあたりは、乳児のかかわりの視点の中の「自分とのかかわり」がよくわかります。これが五領域、あるいは10の姿で見ることにつながっていきます。また養護と教育の一体的な関係も、特に養護の「情緒の安定」は「大人にくっつきたくなる瞬間もあるけれど、安心するとまた活発に動き始め」とか「先生のひざの上は安心するみたいです」といったあたり見られます。

このように保育の言葉を使って、子どもの姿に重ね合わせていくことで、私たちがこんな風に育ってほしいなと思っている姿が、乳幼児教育のねらいにあっている、間違いない、という確認にもなり、新しい具体的な活動を話し合って作り出していく計画に結びつくことになります。

ダンゴムシさん、ありがとう

2023/04/17

子どもたちの遊びを見ていると、そこに複雑な出来事がたくさん生じていて、それを動画に撮ってじっくりと見直したりするのが楽しい。こんなことが起きていたんだ!と驚くことがよくあります。今日は遊びの志向性の違いを見せてくれる場面がありました。

散歩へは行かず、室内遊びを選んだ子どもたちの中の数人がダンゴムシを観察していました。ある3歳の女の子はちょっと前までは、土の上をゴソゴソと動いているのを恐々と見ていただけだった記憶があるのですが、いつの間にか上手に摘んで自分の手のひらに乗せてその動きを見たり、しばらくするとまん丸団子から、動き出すので、だんだんと手首から腕へと登っていったりするのを、それに任せています。まるでペットを遊ばせてやっているような雰囲気に見えます。ダンゴムシへの愛着が深まってきたんだ、と感じます。

一方で別の男の子は床に落ちたダンゴムシが床を歩きだし、その様子が面白いらしくて「見て、ぼくのダンゴムシだよ」と周りに大きな声でアピールします。すると先生にストローが欲しいというので、どうしたいんだろう?と見ていたら、ストローを床に繋ぎ始め、長いトンネルのようにして、その中を「ぼくのダンゴムシ」を通らせようというわけです。スロトー繋ぎにはもう一人の男の子もすぐに加わりました。果たして、うまくいくかどうか?その中を通っていけるかどうか?こんな遊びに発展していったのですが、長いトンネルにダンゴムシはうまく入ってくれません・・・

そこで面白いことに、そこにはさっきまでいた女の子たちがいません。あれ、どこに?と思ったら、ままごと遊びの場所へ移動していたのですが、そこにダンゴムシも「家族」の一員になって一緒に遊んでいるのです。そうか、そっちの遊びか、と妙に感心して「その子たちらしさ」を見つけたのです。ただダンゴムシもいじられっぱなしでは可哀想です。でもそこにはまだ考えが及ばない3歳児たち。先生からの情報が届きます。ダンゴムシがじっと丸くなって動きたくない時は、ダンゴムシさんも疲れているんだよ、死んだりしないように休ませてあげようね・・といった話をしてあげています。こっちへの気づきも確かに大事。先生たちはいろんな「伸びしろ」を子どもの姿から感じ、そこへの辿り方のそれぞれを見守りながら過ごしています。

そして、ダンゴムシさん、ありがとうね。

季節の変化の中で感じる成長

2023/04/14

大陸からミサイルや黄砂が飛んできていますが、園生活には夏がすぐに来そう。いつもより生き物たちが早めに動き出したような気がします。あちこちで早くも藤が咲いたと聞きます。姉妹園の藤棚も昨年よりちょっと早いですし、

当園では「すずむし」の赤ちゃんが早くも生まれて、子どもたちがそれを取り囲んでいます。チュウリップも早い。

すでに玄関には鎧兜を飾り、2歳児にこにこ組では、絵の具遊びが鯉のぼりに変身しています。

今日は午後から千代田区役所で保幼小の先生が集まって、就学前プログララムや架け橋期のカリキュラム作りについての話し合いがありました。昨年度までの理論編作りがひと段落して、これから実践編作りが始まります。

卒園した1年生の子どもたちが姿を見せにきてくれていますが、先生たちが小学校へ授業の様子を見に行ったり、あるいは小学校の先生が「幼保こ」(幼稚園、保育園、こども園)に来てその様子を見てもらったりする時間がなかなか取れません。

そこをどうするか、ブロックごとに5月に集まって、話し合うことになりました。これまでにない動きです。それぞれが単発でつながり合っていた線の動きが、組織として、面として動き出そうということになったので、大変大きな一歩です。先生の行き来が始まると「同じ子どものこと」について先生同士の交流が生まれ、小学校の単元や「幼保こ」の遊びの中の「学びのつながり」が作られていくようになるといいですね。

創発的な遊びとしての「グ・リ・コ!」

2023/04/13

4月になって子どもたちの間でブームになっているものを、クラスブログで紹介されていますね。その中に「グリコ」といってジャンケンして、グーで勝ったら「グ・リ・コ」と言いながら階段を3歩あるいて進む。チョキで買ったら「チョ・コ・レー・ト」と4歩進む。パーで勝ったら「パ・イ・ナッ・プ・ル」と5歩進む。これを5としたり6とする場合もある。年長の女子2〜3人が始めてたら、あっという間に年長、年中の間に広がり始めました。その話をお母さんにしたら「家でもやってます。昨日は20回もやらされました(笑)」と、よくご存知でした。

この遊びも言葉の学習なっているので、よく奨励される遊びです。言葉の単語が、音韻に分かれることを、体全体を使って身をもって学んでいると言っていいのでしょう。体験が学びになっているから、その活動が肯定されるというのも狭い考え方かもしれませんが、私などは「いいね、もっとやってやって」と思います。パラシュートに変えたり、こどもが発案するかもしれません。かるた遊びとかトランプ、カードあそび、双六などにもそのような「言葉」の学習の側面を取り出すことができるでしょう。10の姿のでもあります。

でも、ここでお伝えしたいのは、今週ここで話題にしてきた意味やプランの話です。遊びに中に学びがあるのは大切です。ただ、この「グリコ」にしても「だんごむし」の観察にしても、この遊びが週案にも月案にも、ましてや年案にも具体的には書かれてません。ある意味で偶然生まれた遊びなのですが、それでも子どもに届いたネタ元がどこかにあって、それが階段、友達、ことば遊びへの興味などが相まって、食後に部屋に戻る途中で創発的に生まれた遊びだ、ということです。いろんな遊びが生まれてもおかしくない条件は整っているようにしておいて、それが起きるのは何かのきっかけで起きるとも言えそうです。

そこで「プラン」の話なのですが、保育の計画というのは、何起きるかわからない「空白」が必ずあって、そこに子ども一人ひとりの主体性が発揮された姿が現れてくるのでしょう。もちろん、私たちにはこう育ってほしいな、という方向目標みたいなものが意図されていて、その実現に向けて環境が用意されます。計画というのは、その誘発システムみたいなものを、より、そうなるように、あるいはどう起きても対応できるように、どっちに転んでも困らないように、あらかじめ色々な選択肢を用意しておくものだと思います。プランは「人と状況が影響しあって生まれる活動」の資源=リソースの一部です。グリコ、という遊びは活動としてプランされたものではなく、結果として起きたコトです。新たな状況が生まれたのです。プランは活動をうむ資源=リソースの一部なのでしょう。

そこで、毎日の生活の中で起きることを個人別に想定することはあまりにも多くて複雑なので、ざっくりと抽象的に押さえることになります。週案にも書いてないというのは、そういうことです。でもいつか起きるかもしれない、ということは想定されてはいます。

そこで保育者のこうなってほしいな、という「目標」や「ねらい」のために、その「環境構成」によって創発されるであろう「子どもの姿」を予想しましょうというところまでが「計画」で、その結果がどうなったのかの子どもの姿から育ちと保育を振りましょうというのが「記録」であり「日誌」である、という言葉遣いがされています。

この二つは実際にはサイクル的につながって循環しているのですが、当園の場合、計画と記録の書類的な隔たりが残っていました。そこが不便なところの一つで、保育書類のデジタル化や業務省力が進んで改善されてきました。また計画と記録が「マップ」という形式によって、一体化されてきた事例も増えてきました。さらに記録の中で保護者に伝える可視化したものと、保育者が振り返りのための残す記録の重複を、デジタルなリンクを張ることで「二度手間」が省かれるようにもなってきました。

子どもの姿ベースで創発的に起きる「コト」。環境構成までの計画でありながら、その結果として相互関係の中に起きている「コト」をつなげてしまうドキュメントにしたい。何が起きるかわららない、その子どもの姿からどう発展していくかわからない活動の軌跡の中に、ねらいも環境との相互作用も結果も見えてくるようなもの。そのつならりの可視化の工夫。ただ、その全体を言葉で描くことは限界があるので、写真や動画や作品や活動そのものが動員されるのですが、それを簡単に「見せてください」と書類印刷を求められても困る、という問題があります。

起きていることは、予想も結果も言葉だけでは全てを表現できないが、意味は言葉で表現するしかないのでしょうね。

保育の多様な見方を学ぶ意味

2023/04/12

私は保育の世界に入ったときに、保育の大先輩の先生から「保育の見方を多様に学ばないといい保育につながらない」といった話を聞いたことがあって、当時はその意味が全くピンときませんでした。私が30代後半の頃です。新聞記者だったので、ある出来事は複数の第一次情報源から裏を取らないと事実として認定できないという常識を持っていました。ある人がこう言っている、それは本当か?別の人に聞くと別のことを言う。どっちが正しいんだ? そう言うことの繰り返しです。記者は自分の中に重層的な対話を作り出し、その結果から明らかなことだけを書く。事実に慎重でした(という気がします)。

でも保育の「事実」はそれとは全然、違います。「今日は公園にいった。ダンゴムシを見つけた。楽しそうだった」。これでは保育を語ることならない。生活の日記でしかない。素人でも書ける。だからなんだんだ、と言う部分がない。事実のどこに着目するのか、どう解釈するのか、何を大事だと思って抽出するのか。そこは保育や教育の「理念」や「思想」からの価値づけがそれを示唆する気がします。実際のところ保育原理は、だからそこに触れるのだと思います。

生物学者なら「こんなとろこに、こんな種類のダンゴムシが!?」かもしれないし(そんなわけないだろうけど)、公園管理課の人なら「子どもが触るのなら花壇の土に除草剤を撒くのはやめておくか」となるかもしれない。近所の人なら「まあ、あんなものを触って喜んで、子どもだねえ」かもしれないし、ある方面の方からは「砂利が椅子の隙間に挟まって掃除が大変なんだけどね」と苦情を言われたこともありました(ごめんなさい)。

例えば、私たちは保育者なので、それが当人の体験なら、何らかの発達や学びにつながっていることなのかどうかに着目するのだと思います。生活や遊びが、活動や体験が、子どもにとって発達や学びにとってどんな意味があると言えるのか?そこが基本的には求められるのではないでしょうか。・・・といった意味での着目の仕方です。遊びに意味がある、充実した遊びに意味がある、どうして?というあたりのことです。

ニュース報道では、そこは当事者がどう受け止めているのかというコメントの部分に近いのかもしれません。記者は自分の意見をもちろん書かない。それは読者に委ねる。しかし、わかりにくい事実は専門家に解説を求めることも多い。科学的発見の意義、美術品の価値、経済的見通しなど、現代は多くのものがそうなった気がする。解説がないとわからない。だから保育の意味も専門家の見方が必要だと思います。

だから保育の見方を多様に学ぶというのは、現在も続いています。今日は次のような言葉を信頼している先生からもらいました。昨日のペースメイキングの続きです。「人々とプラン(状況)とが互いに影響しあってペースメイクしていくのではないでしょうか」。この見方を当園の場合に当てはめてみるとどうなるんだろう。こういうレスが、対話があるから、情報を発信する意味がありますね。

すぐに、それはそうだ、と思ったのですが、待てよ、どんな保育の活動が生まれているのか、どういう力学が働いて保育の営みが動いているのかは、子ども主体ならある程度、子どもが主導権を持っているわけだから、その活動に振り向けられる資源(人々の数、つぎ込むエネルギー、時間などか)は、誰がどうやって決めているの? 人々って誰だ? ここには子どもも保護者も地域の人も、もちろん先生も入るだろう。だから「人々」となっているのだろうし。などと考えます。

そして保育であまり「計画に基づき」を強調しすぎないほうがいいのに、と思っていた頃のことを思い出しました。ルーシー・サッチマンを佐伯先生が翻訳紹介した「プランと状況的行為」を「幼児教育のいざない」で知って読んだ頃のことです。その話が今日のペースメイキングするのはどういう仕掛けになっているか?という問いだったのではないかと思い返されたのでした。だとしたら、ちょっと待ってくださいね・・・色々と考えてみたくなりました。

 

仕事のペースメーカーとは?

2023/04/10

保護者の方から「ピクニックのお誘い」のチラシが届きました。春のお花見に続く第二弾。こういう気分転換は大事ですね。私も参加したい・・・

「保育の仕事を2つのスポーツで例えると、なんだと思う?」そんな会話が挟まれることがあります。4月から新しく働くことなった職員との対話の中でした。今年一年で何を学びたいか、個別の研修計画を立てます。

この質問は私のほんの思いつきです。当人からは「陸上ですか?」と返ってきたので「お!いいねえ。じゃあ、それは走り幅跳びなの?それとも砲丸投げ?」というと笑い出した。「そうですね、それも陸上と言えば陸上ですね」と。聞きたかったのは、もちろん長距離か短距離か。私の答えは「仕事はマラソンだよ、完走しようね」ということ。途中で一番走っていても、その時はいいかもしれないけど、途中でバテて、リタイアしてしまうペースで走ったらアウトだよね、ってこと。感想できるペースを掴めるかどうか、実は結構難しいんだよね。つい全力疾走したがるからね。気持ちいいし、やりがいがあるし。だからマラソンで完走できるペースを掴むというイメージを仕事でももってほしい。特に今は張り切っているから・・・うんぬん。

もう一つのスポーツは野球でもサッカーでもバスケットでもいいけど、要するに団体競技。攻撃も守備もチームプレーだろいうこと。保育もチームが基本。そこでの攻め方も色々ある。守りでもカバーリングもあるし、必要なコミュニケーションの取り方もある。あらかじめ決まっているリーダーシップ、フォロアーシップなどメンバーシップの役割や構えもある。そこでも個人と個人の噛み合い方が崩れるのは、スタミナの違いだったりする。試合の最後まで持たないペース配分だとメンバーが足りなくなって、負担の皺寄せが残りのメンバーにきてしまう。ここでもそれぞれのペース配分という見えにくい要素が鍵だったりする。

少数精鋭で賄うしかない小規模園。スタッフが余裕を持つことが保育には必要なメンタルケアになります。そこが残念ながら非常に難しい。スポーツと違って、控え選手がいない。全員がスタメン。大谷選手みたいに両刀遣いが必要だったりする。うちにも担任と主任を兼ねてもらっている選手がいる。本当はよくない。看護師だって民間の保育園は専任というより法人内の兼任だったり、その園の専属でも実際には乳児の保育士を兼ねている園も多いだろう・・・うんぬん。

ペースメーカーは誰か? 人なのかプランなのか? 無理な計画は修正した方がいい。いわゆるメリハリが大事。いい意味でピークのもっていき方を全体でバラつかせるとか、休憩や何もしない時期を意識して計画したりした方がいい。自動的にやってくる長期休業もないからなおさら。この方針も大事なペースメーカーじゃないかと思ったりするのでした。

学びの門はどこにあるのか?

2023/04/09

春休みが終わって、先週7日金曜日が入学式で、卒園した子たちがランドセルを背負って保育園にやってきました。つい先日まで一緒にいたお兄さんお姉さんが、ピッカピカに輝いて見えたことでしょう。

そして明日4月10日から多くの学校が新年度の授業が始まったり、企業や役所の仕事も異動の挨拶なども済んで、通常通りに戻っていくのではないでしょうか。

保育園の場合は、1日からあるいは3日からすでにいつもと同じ生活が続いています。働くお父さんお母さんたちのための下支え的な役割があるわけですが、子どもたちが過ごす生活の場として最もふさわしいようにしていきたいと思います。

さて、昨日8日(土)の教育講座で、藤森理事長の講演は、私たちを取り巻く社会の変化の話から始まったわけですが、少子化、AIの進展、グルーバル化、ダイバーシティの4つでした。その変化に共通する現代社会の特徴は、これまでより複雑なことだったり、確率的にどうなるのか不確実だったり、いつ何が起きるか予想しようにも見当がつきにくいことだったりすることではないでしょうか。

その中で目標やビジョンを掲げて、その実現に向けて目標をたて、具体的な実行計画を練り、やってみてその結果を振り返り検証して、さらに改善していく。いわゆるPDCAを回しながら現実に対応していこう。そのために私の役割は何で、同僚や上司や関係する人たちとコミュニケーションをとり、意思疎通をはかりながら、チーム力を向上させ、信頼と対話によるリスペクト空間を作り上げていこう。コンプライアンスやリスクマネジメントも怠りなく・・・そうしたら生産性や質も向上するよ。きっとこんな「世界」に近いことでしょう。

もし現代社会の人、組織、社会の中に、このような似たような特徴があるのだとしたら、多くの人々はそこに「足りないもの」を感じ、プライベートな家族や共同生活の中に、その埋め合わせや回復や休息を求めているかもしれません。それは人によってあったりなかったりでしょう。満足している人ばかりならいいのですが。私なんかが「足りないかも」と強く感じるのは「意味」です。生きる意味。この世に生を供にする人類についての意味です。人生の目的とかとはちょっと違うのですが、日々の地味な目立たないけど大事な意味のようなものです。う〜ん、どう言ったらいいものか。

例えば、仕事で目の前のタスクを処理するために、その目的はなんだったのかと遠くに目を向けても、それが上に述べたような不確かな霧のかかったような見通しに置かれていることからくる不安があるかもしれません。ドラッガーを紐解いても、石工が生活のためではなく教会を建てるためと答えるマネジメントの話にしても、そんな大きな物語を信じられない時代のような気がしてきます。今朝、日本財団の調査で若者の多くが自殺を本気で考えたことがあるというニュースが流れていました。身近な人が相談役になってあげられるかどうかが課題だという。そうだろうか?

https://www.nippon-foundation.or.jp/app/uploads/2023/04/new_pr_20230407_01.pdf

日本財団子どもの生きていく力 サポートプロジェクト『日本財団第5回自殺意識調査』報告書

もっと深掘りすると、その根本的な課題はきっと、この世の生を受けた自身の生きる意味と目的がわからない、という現代社会の何かに埋没してしまっていることからくるのかもかもしれません。時代の中で「生が溺れている」ような状態?。人間関係の弾力的つながりができにくい状態? 何か大事なことが見えにくくなっているのでしょうか?

何か大事なことが本当の意味で「わかる」という体験が少なくなっているのかもしれません。本当にわかるって、大きな喜びです。だから個人の切実な「問い」が自覚できない状況なのかもしれません。大事な問いを自分で自己再生させていくような生きる力の育ちのようなものでしょうか?その問いに気づいてあげられない周りの何かが足りないからでしょうか?難しいですね。

先ほどの日本財団の別の調査では世界の国際比較もあって、将来なりたい職業や学校の学びの目的などに差があり、その国の特徴が出ています。

本気で死を考える「生きづらさ」は、青年たちにとって、大人からのアドバイスは大きな棚上げと先送りのように見えているかもしれません。社会や世界がどうなっているかということへの好奇心や知的関心を抱く、その前の自分の中に沸き起こってくる、どうしようもなさ、わかりたいことへ踏み出す学びが始まるまでの機会喪失、あるいは方法の見えにくさ。あるいは聞こえてくる「生き方」は成功パターンの伝授、自己啓発セミナー的な虚業っぽい自分探し、日本の外から福音が聞こえてくるかのような海外志向がまだあるかもしれないし、自分の置かれた状況からは手がとどかないという肯定感覚のもちにくさもありそう。

 

ここからは大きく脇道にそれますが、意味には4つの層がある気がします。

(1)動植物も持っている生存のための世界の意味。人間もそれはある。解釈者不要で成り立つ機能的世界。機能とセットというか、そのもの。

(2)次が自己が文化世界と出会う時に見つける表象的な意味。身体性も込みの言葉。これが保育園での時間。その意味づけが大事な保育の仕事と重なってくる。

(3)その次に経済的社会的な自己を作るための青年期に考える人生の意味。生き方の意味。これが冒頭に挙げた現代社会の特徴の一つ「コンティンジェンシー(Contingency)」偶然性や不確かさの中に置かれた自己の在り方の難しさと重なりそう。教育の難しさもリンク。

(4)そして科学とそうでない世界の理解における意味。現代的学問の課題。私自身もドラッグはないけど神秘主義や宗教的なものに引き寄せらる心をもつ。だからと言って、そちらで解決できたことにしたくない。だから、それとは切り離して、そこを科学(学問)が真摯に迫っていることを学ぶことが必要だし、やってみるろとても面白いし、そうあることこそ現実世界への対応としても重要。

ただ、そこへの階段をもっと登りやすくしていきたい。学校の先生が面白がれる学び方へ。人間らしい文化ツールとしてのAIの可能性がそこにあるといいんだが。もちろん、その課題もあるわけですが。過去の成功体験からのアドバイスもままならないとしたら、本当に難しい。どこに学びの門を開くといいのでしょう。

春の教育講座からの学び

2023/04/08

ChatGPTのようなツールが日常化してきたように、私たちの「情報編集環境」が急速に変わってきました。知識や記憶や思考のための人間の表象操作ツールが格段に便利になっていくと、社会はどう変化していくのか。今の子どもたちが大人になっていくときの社会を思い浮かべた時に、今の保育はどうあるべきなのか? そんな問題提起から始まったのが今日の「春の教育講座〜藤森先生の講義」でした。保護者の方が18人、職員や他園の先生方などのリモートを含めて36人弱の参加がありました。ご参加ありがとうございました。

 

講演を私なりに要約するとこうなります。(ChatGPTではありません・・)

視野に入れておきたい代表的な社会変化を4つ(少子社会、人工知能、グローバル化、ダイバシティ)を取り上げました。子ども家庭庁ができたり、異次元の子育て対策とか、保育士配置改善が議論されたりしていますが、これまでと何を大きく変えるのかが、よくわからない。スローガンだけがまた踊って、本当に現場の保育が変わるか疑問。子育て支援はあっても、子どもにとってどんな保育や教育にすべきかがよくわからない、だから保育はあまり変わらないままになるんじゃないか、という危惧を持つ。だから地道に実践を積み上げて交流していこう。

人工知能などの技術革新は大人の働き方や生活を大きく変える。なくなる仕事もある。新しい仕事が生まれるかもしれない。過去もそうだったが、その変化は過去のはあまり参考にならない。その変化を前提とした時に必要なものとしてOECDが提案している3つのコンピテンシーなどがある。世界は教育をこんな風に変えようとしている。例えば中国は小学校の先取り幼児教育を禁止したことなど。IQと同時にEQの重視や非認知的なものが注目されるようになった経緯も。実際に15の非認知的スキルについて「自己チェックしてみましょう」と一つずつ解説。

日本の教育改革はこんなことを目指している。日本の大学入試改革も変わってきた。このままでは日本の若者の世界での競争に太刀打ちできないかも。そんな危機感も強まっているように見える。産業界からは文系にも数学は必要な社会になったとか、文理が分かれている日本の高等教育は大丈夫か、とか。英語は大前提で、世界的に見ればそれは学力以前のもの。いくらAIが出てきてもそこはどうなるか?語学を超えた先の力が勝負。それは何か。最低は好奇心や探究心だろう。協同性やクリティカルシンキングも。例の「3つのC」も。

インクルージョンの話。男女差、LGBTQ、年齢、障がいなど。個人と環境の関係でみる視点を社会がもっと理解して取り入れないと。日本はそこで足踏みしているように見える。乳幼児期からの人間観を開かれたものにして保育をする。課題はその具体的な保育の姿。

問題に気づき始めた海外の保育関係たちは、乳幼児のコエイジェンシーが関係性の中で発揮されてくる方法として見守るアプローチを参照し始めている。例えばシンガポールでは個と他者の関わりの中で解決の姿として、中庸の視点を取り入れたりしながら。世界の平和維持に果たす日本の役割がこの辺りにあるのではないか、そんな話とも繋がっていくものでした。

 

 

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