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園長の日記

アゲハの卵と幼虫を見ながら

2023/05/16

新緑が眩しい季節。保育園のみかんの木には、アゲハの卵や幼虫を子どもと一緒に発見しました。

屋上のプランターに野菜の苗を植えたり、ミミズハウスの餌やりに新しい子どもたちが加わったり、バスで木場公園まで出かけたり、一つひとつの出来事はこれまでの積み重ねてきたものであるわけですが、園生活が活気付いてきたような気がします。

クラスの保育日誌を毎日読んでいると、子どもたちの生活に新しいうねりのようなものを感じます。4月からの遊びが進展して、ちょっと深い探究が始まっています。6月から始まるダンスの計画。一方で保育園は年度の途中にも入園があります。6月に入園が決まった赤ちゃんのお母さんとの面談が今終わりました。

それにしても、今週の中日は真夏日になるという、季節外れの天気に見舞われたりするのが近年の特徴です。東京都からは「蚊が媒介する感染症」についての研修案内が届いたり、千代田区からは安全・安心メールの更新手続きがきたり。季節の変化と防災は連動します。

同時に保育に関する運営に関する事柄も忙しくなってきました。例えば、近隣の公立小学校に来週、集まって、架け橋プラン作りの話し合いをします。今日は区の担当の方と10の姿や見方・考え方をまず共有しましょうという打ち合わせ。各保育園から写真を持ち寄って話し合うことになりました。

全国保育士会の人権擁護チェックリストを、スマホで自己チェックして組織としての傾向を掴みやすくするために主任がGoogleフォームで集計できるようにしてくれたり、外部の団体から6月の総会案内があったり、先日の日本保育学会の試聴できていないものを見たり、近隣の保育園から会報の原稿を頼まれたり、新しく発行される書籍や雑誌に目を通したり、そういうことも入り込んできます。

そして、こんなことをアプリ経由で先生たちに情報発信します。

「いずれにしても、何をやっても保育で大事なのは・・・先生の子ども理解(発達、内面の心の動き、生活背景、個と集団の関係、興味関心と環境との関係)を深めて、新しい事象に発展し豊かにつながっていくことです。」

お神輿をみんなで担ぐ

2023/05/13

威勢のいい掛け声で、エイヤ、サ〜、ヨイショ、サ〜・・と神輿が踊る。

神田祭のお神輿を担いできました。同僚の仲間10人で。

行列をお迎えした後の午後12時半から、神田明神の氏子百八町の神輿が同時に各々の町内を練り歩きます。

神田岩本町三丁目。

朝から雨模様の中、祭りの熱気は雨雲も吹き飛ばして、汗をかくにはちょうどいい気温に。

行く先々で声援に来ていただいた親子に出会って、熱いエールの交換。

こうやって大人がお神輿を担いでいるところを子どもたちに見せたくて、そのパッションが伝わったかなあ。

夕方5時まで、交代しながらですがフル出場。山崎パン本社前に戻ってきた時は、高揚感を味わいました。

ヒリヒリと痛む肩。くたくたの体。この身体を何かに役立てるということの意味の、なんと分かりやすいことか。

しかしそこには厳格なルールもあり、そして美学も必須。

この伝統を伝えていくこと、お祭りに込められたものは、わたしたちが命の連続体の一部であることを確かめることでした。

それを実感するためにお祭りはあるんですね。

https://www.facebook.com/kanda.iwa3

保育園の社会的責任と可視化について

2023/05/12

働き方改革やDXの影響から、園の書類のデジタル化がずいぶん進んできました。まだまだ、変化の只中なのですが、当園の場合もデジタル化は「保育の可視化」の方法にも影響を与えてきました。園内に掲示しているものと、ホームページに写真や文章で解説しているものとバランスというか、その比重も変わってきました。掲示スペースが少ないということもあり、量的にはデジタル化されたものが多くなりました。個人情報を守るという観点も大事にされるようになってきて、園内での写真掲示を控えることも増えてきた要素です。

また毎日のように保護者の皆さんとやりとりしている内容と、保育実践との関係も、コミュニケーションのツールの変化にともなって影響を受けています。

この15年ぐらいの変化を振り返ってみると、職員が作っていた装飾から子どもの作品や、活動の一環の何かを園内に掲示することへ変わっていったと思います。その後、それを子どもが見たり活用したり、またその作成過程の前後の子どもの心の動きを書き添えるということが増えていきました。

さらに環境の再構成の結果だけではなく、先生同士の話し合いや計画の変更過程そのものも、大事な子ども主体の軌跡として示してくいく要素も加わっていきました。そのうちに保護者からの「お便り帳」などでいただく意向や感想、アイデアなどコミュニケーションの一部も、やりとりそのものを大事にする形へと変化しながら、保育を作り出すパートナー、その考えを共有するものとして、意識して可視化されるようになっていきました。

このようなことを考えるとき、保育士養成課程の「保育原理」の中にもある「保育所の社会的責任」との関係を踏まえないわけにはいきません。それは保育所保育指針の総則で示している「基本原則」の5つ目と重なります。その内容項目としては3つにまとめてあります。参考までに書き記すとこうです。

ア 保育所は、子どもの人権に十分配慮するとともに、子ども一人一 人の人格を尊重して保育を行わなければならない。

イ 保育所は、地域社会との交流や連携を図り、保護者や地域社会に、 当該保育所が行う保育の内容を適切に説明するよう努めなければな らない。

ウ 保育所は、入所する子ども等の個人情報を適切に取り扱うとともに、保護者の苦情などに対し、その解決を図るよう努めなければな らない。

そもそも「ア」の展開としての実践の深化としてドキュメンテーションはあると思っています。これは子どもにとってのものであり、職員の対話と、保育のデザインがセットのものです。入園の案内の時に、皆さんに私が「この保育園のベースは一人ひとりを大切にすることです」という話をしてきたと思いますが、それはこの子どもの人権のことからきています。それを可視化したものは、まずは本人のリソースになる必要があります。ただ「イ」のところの説明責任からの可視化が、保育界全体を後押ししてきたとも言えます。

また「ウの個人情報保護」との兼ね合いから、園内の掲示のあり方も影響を受けているのも確かですね。昔の掲示をご存知の方からは、寂しくなりますね、という感想も受けますが、そこは時代の変化でもあります。ただ、子どもにとって必要な可視化は豊かにしていきたいと思っています。それは両立が可能だと思っています。

赤ちゃんのねんね講座 明日から始まります!

2023/05/11

令和5年度の睡眠講座が始まります。

ぜひ、ご参加ください。

いずれも午前10時から11時までの1時間。無料

全てリモート(ZOOM)で参加できます。

講師は「もっと早く聞いておけばよかった」と

大好評の永持伸子先生です。

参加されたい方は、以下までメールをください。

招待メールを送ります。

c.seiga@chiyodaseiga.ed.jp

◆令和5年度の日程 HPの「mam’s salon」に掲載◆

1 5月12日
2 5月26日
3 6月9日
4 6月23日
5 7月21日
6 8月22日
7 9月12日
8 9月30日
9 10月10日
10 10月27日
11 11月10日
12 11月25日
13 12月12日
14 1月12日
15 1月23日
16 2月9日
17 2月20日
18 3月8日

鯉のぼりのシャケご飯

2023/05/09

遅ればせながらの「こどもの日」。

この写真は、今日の子ども日祭りで紹介された、日本で最も大きな鯉のぼり(全長100メートル)を揚げているところをK先生が実際に行って撮影した動画です。

連休中はお休みも多いので、お楽しみメニューは今日でした。

鯉のぼりをあしらったシャケご飯。

きゅうりの鱗がかわいいでしょ。

鶏の照り焼き・もやしのサラダ・ふのすまし汁・すいか🍉・麦茶
見事に完食でした・・・

さあ、さあ神田祭へ

2023/05/08

長いお休みから開けて迎えた月曜日。子どもたちの生活はGW前の生活としっかりとつながっていたようで、笑顔の多い1日でした。これなら大丈夫。子どもたちから受け入れられている保育園の生活を実感します。子どもたちの居場所が確実に広がっている様子を確認できてうれしくなりました。

今週末は神田祭が令和元年以来の4年ぶりの開催とあって、当園が所属する岩本町三丁目町会も盛り上がってきました。

神輿も準備万端。当園の職員も10名ほど担ぎに出ます。

開園して5年目ですが、本格的に祭りに参加するのは今年が初めて。

この地域は祭りで一体感を感じるところがあって、粋でいなせな江戸っ子かたぎは、この神田祭でこそ味わいたいものです。

確かなものへ

2023/05/07

今日でGWも最終日。明日をどんな気持ちで迎えるかによって、日々の暮らしの何かを図る指標になりそうな気がします。この休暇と労働という区分に精神的な架け橋が必要そうな場合には、自分自身の深いところで望んでいることを見つける機会にしていくといいのかもしれません。

大人にも自分自身との関わり方と意味に気づくことが必要なのでしょう。その場合の環境というのは、実は無数の文脈で織り込まれている自分自身のありようです。今日から明日へ向かうことへの不自由さを感じる何かがあるとしたら、明日になればもっとよくなるという希望に似た文脈を見出しにくくなっているということによるのでしょうか。

皆さんにとって、明日からの楽しいことってなんでしょう。私にとっては新しい確かな揺るぎないものを作り上げていくプロセスにいるという小さな実感を感じたいという期待のようなものです。小さな積み重ねのようなもの。そこへの期待でしょうか。本当に小さな、小さな確かなものと思える何かです。

ちなにみ週末には地域の祭りがありますね。

子どもにとっての風景や光景とは

2023/05/06

普段は考えないようなことを思い出しては、頭の中でパズルのように遊んでいられる時間があるというのは幸せだ。確かに言われてみると、保育でそういうことはあまり意識してこかなったと気づく。何かというと風景画です。

(写真は、5月20日に予定している親子遠足で、ちょっとだけ歩く隅田川テラスに掲げてある浮世絵の拡大図です)

塗り絵、自由画、人物画、そういうカテゴリーで子どもの「作品」を整理することはっても、子どもは風景や光景そのものを再現しないかもしれません。そこにある物にはもちろん興味はあっても。

それに似たことは、いろいろやるけれども、いわゆる大人が思うような(と言っても人それぞれでしょうけど)自然とそれを再現(リプレゼンテーションとしての、ですが)はしないと言っていいのかなあ。でもこんなことはやってました。

以前の八王子の園でのことですが、インスタントカメラで子どもが写真を撮って、展示するとか。その前は、ネイチャーゲームにハマっていた時にいろいろなゲームがあって、自然の中の美しいと思ったところに絵葉書大の額縁をかざして空間的に切り取るというのをやっていました。

千代田区に来てからは須田町二丁目の会長に頼んで、会長がオーナーのビルの11階に昇らせてもらい、そこから秋葉原絵周辺の光景を眺めたことがあります。園に戻ってくると、幼児は早速、室内に駅や線路を作り、新幹線を走らせて遊びはじめました。

下を散歩で歩いているだけでは見えない風景だからでしょう。園周辺を一望することで、あそこにこれがあったとか、こっちの道がどうとか、神社がこっちでこれはホテルとか、模造紙の上に建物の箱が並びました。散歩マップ作りにどう役立つかな、と思って楽しみでした。絵にした子がいたかどうかわかりません。

確かに風景画という切り口は、科学と同じでただの日常的な生活だけでは、子どもからは出てこないような気がします。虫眼鏡で見るのと同じように、この枠で見たらどう見える?的なものを置いておく必要があるかもしれません。

高尾山に子どもたち(年長)と卒園前の時期のお別れ遠足で登った時、広い場所に出ると子どもは走り始め、わ〜っと展望できる場所へ駆けていきました。高い場所に上りつめて、目の前がば〜っと開かれていく風景。その開放的な気持ちのいい感覚を子どもたちは山登りで味わいました。

そこで、もし子どもに写真を撮らせたとしても、きっと物を撮りたがるだろう。それを「風景として」は、撮れないだろうという気がします。そういう認識の枠組みをまだもっていないでしょう。そのフレームがどういう意味で必要なのかと考えると、別に枠組みの話ではないでしょうね。その枠に縛られない方がいいでしょうから。

どこに何をどう描くか、再現させるかは、その時の制約から生まれました。古代の洞窟壁画にしても、教会の祭壇画も、飾る部屋の大きさに合った人物画も、どこに飾るのか、大きさや形、画材などの制約を受けながら、おおむね成立していったと見ていいでしょう。

その展開の中で慣習的に今にも伝わっているのがキャンバスのサイズだったり、額縁舞台から始まった舞台空間やコンサートホールでしょうから、日本の能舞台は西洋とは全く違うし、画用紙がどうして四角なのかも、まあ、裁断機のサイズなどいろんな意味で落ち着くべきところに落ち着いていると見ていいのでしょう。新聞紙の大きさもそうでした。

ここにきてデジタル化です。その辺りもどうなるのでしょう。「書く」や「描く」という言い方では収まらなくなってくるのでしょうか。若い人たちはネットでの注文をポチるというように。

保育園の目の前を流れる神田川。その川にかかる和泉橋。散歩の時にそこを渡りながら、船を眺めたり、ゆりかもめが羽を休めているのを見たり。

そういえば、ちょっと意識してやってきたのは、風景に季節感を感じることです。春にはたんぽぽやハルジオン、ヒメジョオンを摘んできます。夏には朝顔や園舎の屋上のひまわりの黄色が見えるように、また同じ場所に秋にはコスモスが見えます、そして冬にはクリスマスの電飾がツリーをかたどります。子どもがいつも通る同じ場所から、季節の変化を感じてもらいたくて、そうしています。そうでもしないと、都市のビル街に自然や季節を感じるものが少ないからです。

それらを子どもが写真にとって、季節ごとの変化を「絵はがき」にして飾るという活動を子どもがやってみようと思います。そこから何か見え方が変わってくるかもしれません。

話は、そもそものことに戻りますが、子どもは心動かされたこと、印象深いことは再現したがります。「ねえねえ、あのね」と話してくれたり、絵にしたり、ごっこ遊びになったりします。いずれにしても、何らかの再現・再演・表象表現が起きて、表しやすい表現手段と結びつくと、その表象を目に見えるコトに変えていきます。

アイスクリームにもして、パン屋さんにしても、蕎麦屋さんにしても、お寿司屋さんにしても、実演があると子どもは食いつきます。そこを再現したがる。そこを面白いと思うのです。遊びの模倣というジャンルをひろ〜く捉えれば、遊びはそこに入ることがとても多いような気がします。なので幼児の自由遊びはごっこ遊びが多くなります。その表現のバリエーションに風景や光景などが入っていくための、心動かされる体験とは、どんなことなんでしょう。・・・

子どもたちと覗くと「見えた!」と喜ぶお月様の観測。スマホで撮った写真です。

気持ちいい風

2023/05/05

こどもの日だから、子どものいる場所にいました。そこは普段は子どもがいない場所ですが、保育園そばの海老原商店。柳原通りから吹き抜ける風が気持ちいい。ダンサーの青木尚哉さんと並んで、ひとときの雑談。思いつくままの話題が転がっていった。

ダンスにしても保育にしても、それを「やる」という自由は常に不自由感が付きまとうという感覚で一致しました。

ああ、こうしたらよかったかも、という通り過ぎ去っていった時間への後悔めいた感覚。それは嫌なものじゃなくて、なくなってしまいたいものでもなく、否応なく生じるものであり、次の自由につながるもの。十全な準備ができると思える時間がもらえたときの自由感。よく準備された後のスタートライン。

あれだけしんどかったのに、やり終わった時の解放感。やってる最中は、ものすごく不自由だったりするけど、その繰り返しかもね。ね。

休日の、何も宿題感覚のない午後の風がやたらと気持ちよかった。

子どもにとって、そんな時間を感じるのは終わり間近な夏休み終盤くらいか?じゃあ、大人は?

 

小さなアーティストたち~表現の前の居場所をめぐって~

2023/05/04

この時期は、新しく入園した子どもたちが慣れてきたかな、と考えることが多い。親御さんもそうですよね。すっかり先生たちに抱かれて「あっち」とか「これは?」とか周囲に目を向けて世界を広げている赤ちゃんたち。私を目を合わせるとにっこりして手足を動かしてくれる子も。乳児にかぎらず幼児の子たちも、友達と一緒に遊ぶのが楽しそうです。

わたしたちはよく、慣れていく話の中に、そこが子どもにとっての「居場所になる」という言い方をよくします。居場所になるといういい方は、ちょっと大事なニュアンスを含んでいるように感じます。人によっては「居場所づくり」のような、何かスローガン的な使われ方をすることもありますし、そうなっていなことがとても大事なものを失っていることを示しているようです。

子どもたちが園生活に慣れていくこと、馴染んでいくことと、その子たちにとっての居場所になることとは同じなのでしょうか。違うのでしょうか? 居場所になる場というものは、空間とはちがうのでしょうか?物が置かれている空間やスペースとはどうちがうのでしょうか?

このGW期間に帰省されている方も多いでしょう。そこはご自身やご家族にとって故郷だったり生まれ育った場所だったりするかもしれませんね。懐かしさというものはその場所に行けば、あるいは思い浮かべるだけですぐに感じるなにかですよね。それほど私たち一人ひとりにとって、ある場所とそうでない場所は、はっきりと異なりますよね。物理的に見れば同じ空間であっても、人によって意味が違ってきます。

それと同じ連想で家庭と保育園の空間が、それぞれ愛着ある場所になっていくとき、好きな場所にかわっていくとき、そこがその子どもにとっての居場所になっていくのかもしれません。昨日の画家もそうですが、その画家にかぎらず多くの芸術家は、活動の拠点を探して変えています。モネなどはセーヌ川の水を引き込んだ池まで作りました。その池にかかる太鼓橋は、日本の浮世絵にでてくる風景からの影響だといわれています。

私が20代の頃、あるレストランを一緒に取材したカメラマンは店主に「ベストシナリーはどこか?」と必ず聞いていました。カメラマンからの風景と、店からの「ここです」は、たいてい一致しました。そしてそこに座る客にとっても、そこからの眺めが心地よいこととも通じていました。限られた雑誌のページに、店の特徴や店内の雰囲気をもっともよく表す一枚と料理を撮影するのに相当の時間を要しました。

保育園ができたとき、設計した建築家は、2階のガラス窓から外の風景を展望できる一角が、「子どもにとって、ここが人気の場所になるはず」と言っていました。確かにそこは、ここに子どもは基地づくりはおうちごっこをしたがる場所です。狭いこと、隅っこであることもありますが、景色を含めた「居心地のよさ」というものは、子どもに多くの意味を伝えているのでしょう。

ギリシャ語で「場」のことをトポスといい、物の本によると、その言葉の使われ方は、記憶などの何かを喚起させる場所のことで「いつでも使える何かが埋まっている可能的なプレイス」という説明がされていることもあります。私はアキハバラ近くの万世橋を歩くと、ある夏のシーンをリアルに思い出すことがあります。不思議なことですが、そこを歩きながら聞いていたポッドキャストの内容や音楽まで蘇ります。いつもとは限りません。ある情感とセットでよみがえる、ある種の質感(クオリア)です。

それとはちょっと違うのですが、安定的に定着している子どもの頃の思い出は、トピックスになって場面として映像的に記憶されています。こちらは大人になってから、本当にそうなのか怪しいものだと疑いながらの思い出です、というのも聞かされた話と混ざってしまっているからです。

この思い出したり、意味に気づいたりすることを駆動させているものを、ちゃんと調べたり考え抜かれてきた哲学的な歴史があること(アリストテレスから現代に至るまでの思考方法の開拓者たちによる)に気づき、それは修辞学的には「トピカ」と呼ばれてきたもので、場(トポス)に働きかけて引き出す働きを担っているという。そういう見方ができるのなら、トポスとトピカの相互共役的に働くありかたは、芸術家が場所からインスピレーションを得ているありかたとそっくりだと思います。

その働きかけをアルス(アートと言われる元の言葉)といってきたのだから、子どもが無自覚に突き動かされているのかもしれない遊びのなかにあるものも、芸術家が場所をかえて作品を創り出そうとしていることと、同じような何かかもしれませんね。子どもの姿を捉えて「小さな科学者」ということがありますが、室内をうろうろしたり、遠くを眺めてぼ~っとしているときにも「小さなアーティスト」たちが活動しているのかもしれません。そんなときは、大事なアルス・コンビナトリア(と、いうらしい。アート的な表象の結合術ということ)の最中かもしれませんよ。

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