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園長の日記

線と色の葛藤のはてに

2023/05/03

多くの人が自分の時間に新しい意味を見出したいと思っているんじゃないだろうか。どうして休みになると出かけたがるのだろう。家にいるのがつまらないわけでもないだろうけど、新しいことをしたがるようにみえる。人々を動かしているそのエネルギーは植物の繁殖力とはちがう。人間の自由に関わる精神的な運動の在り方だろうか。

そこには、それは大人らしい好奇心と、プラスアルファの何かは人によって異なるものがありそう。私は家族と都内の美術館に出掛けてみた。有名なフランス人の画家の大規模な展示会で、新しい発見があって面白かった。芸術家もまた比類なき探求者で、その変化は絵画の時代的革新に関する要請に自覚的な、じつに敏感な意識的な変化であり、印象派が臨んでいたデッサンと色の葛藤を彼もまた抱えていた。線と色。実際に没頭して試みて、離れていく。筆色分割も散々やってみた挙句に次へと。

その変遷がよくわかる展示になっていて興味深いものだった。彼は大きな転換点には彫像に取り組んでいる。スタイルが変わるのは探し求めている自分に合った表現方法をみつけるためだということがよくわかった。デッサンという組本に同じテーマで異なるバリエーションをいくつも描いている。そこから何かをつかみ取ろうとしている。いくつもいくつもやってみて、そこから得る次の展開へ。この順番。そして体が不自由になると切絵にたどり着く。へえ~!コラージュなんだ。私はびっくりした。彼は色そのものを自由に扱える感覚があったそうで、そこに自己と表現が一致していくものを感じ取ったらしい。ああ、これも愛と知の循環だ。

こうやって、いつも思うのは芸術は繰り返し楽しむことができるということ。そこに立ち戻ることが目的と手段に分離しないこと。子どもの遊びに似ているように思う。そこにある創造と休息は命のリズムそのものであって、仕事と休暇ではない。そんな風な時間がいいなと思いながら、疲れてロビーのソファーにしばし座った。そうか、リフレクションは子どももやっている。振り返りはお集まりの時間じゃなくてもいいし、ソファーにごろごろしながら、大事なことを思い出したりしている。堀真一郎さんも同じことを言っていたことを思い出した。教室にはソファも必要だ。

絵が人の肘掛け椅子のようなものであったらという(先の世界大戦中の中での話ですが)、こんな探求もあると思うと、人間のやっていることが、他人のことなのに、なんだか人生がいとおしくなってくる。

「怖いけど、やりたい!」を助けてあげる子どもたち

2023/05/02

さてさて、今日を振り返ってみると、子どもの数は、GWのはざまの平日なので、昨日と同じく普段の3分の2ぐらい。比較的のんびりと過ごしました。5月に新しく入園したお友達に遊び方を教えてあげたり、絵を描くのも室内と屋上を行き来して使い分けたり、先生と一緒に食べる食事のときに、みんなで同じ話題を楽しんだり・・・ちょっと人数が減るだけで生活の流れ方がこうも違うものかと思う場面もありました。

子どもは友達になる名人です。昨日から園に来始めた年中の女の子。登園初日から数人の女な子たちと一緒にドレスに着飾って、ごっこ遊びを楽しんでいます。人形の赤ちゃんをベビーカーに乗せて、室内をお散歩です。ときどき、ソファのある絵本ゾーンにきて、赤ちゃんと一緒に寝転がり、くつろいでいます。

今日は幼児のクラスブログにあるように、運動ゾーンで微笑ましい子どもの助け合い、というか協力し合う場面がありました。ちょっと紹介します。

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今日の運動ゾーンでのエピソードです。
この5月からの新しいお友だち、らんらん組のKちゃんが、ネットの遊具に挑戦してみたい!と やってきました。

少し、足をかけて登ってみるけれど、まだロープがゆらゆら揺れるのが怖いみたい…。
「こわい〜〜」と半泣きになりながらも、降りるのはイヤ!と、挑戦してみたい気持ちはあるようです。諦めずにチャレンジするKちゃんです。

はじめのうちは、まわりにいたお友だちもおかまいなくネットによじ登ったり、となりのブランコに乗ったりして遊んでいたのですが…
ふとJくんが、「Kちゃん、揺れると怖いんだって!だから、みんな乗らないで!」と、Kちゃんのことを下から支えながらまわりのみんなに伝え始めました。

すると、そこから少しずつ、一緒に遊んでいたHちゃん やMくん も、 Kちゃんのためにロープが揺れないよう押さえたり、怖くないように下に立って支えようとしてあげたり、協力しながらのお手伝いが始まりました。

Jくんを筆頭に、「じゃあ、こっちを押さえといたら良いんじゃない!?」と案を出したり、あとから何も知らずにやってきたお友だちに「Kちゃん 揺れるのイヤだから、いま(ネットに)乗っちゃダメ〜!」と伝えたり…。
そして、後半から加わったRちゃんも 一緒にお手伝い。

↑赤い玉が揺れるとネットも揺れてしまうと気がついた子どもたち。みんなで押さえています!

頼もしいチームワークのわらすさんでした。

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人間は「人への関心」や「利他性を持って生まれてくる」と言われます。協力することがヒトの特性だという説もあります。そう考えれは子ども同士がすぐに仲良くなったり、協力しあったりするのも当然といえば当然かもしれません。それでも、他人が困っていたら助けようとする心が動き出すのは、子ども同士の中に気持ちの通い合いがあることや、その遊びの面白さを知っているからこそ、Kちゃんの「怖いけどやりたい」気持ちが分かる、という同じ体験に基づく共有された心情もあるからでしょう。そういう要素が重なり合って「わかった、そうだよね」が受け入れられて、伝播していったと言えるのかもしれません。

優しさや思いやり、お友達が喜ぶことが嬉しい、困っていたら助けてあげたいという心情の育ち。それは確かにその子の「資質・能力」としての育ちになっていってほしいものなのですが、このような姿を生む要因を個人の資質・能力だけに限定した見方をせず、やりたいと思うネットという遊具(もの)や、お友達(人)などの存在(環境)が影響しています。その場に創発している、とも言えるのでしょう。

さらにこのことを、幼児教育の「見方・考え方」から捉えると、Kちゃんはネットでの遊び方、つまり環境との関わり方と、こうしたらこうなるという意味に気づき、それを自分に取り入れようとして試行錯誤しながら、どうやったら上手く登れるようになるのかを、自分の身体と会話しながら、思い巡らしているように見えます。自分と物と人との関わりが同時に起きているわけで、身体的、精神的、社会的な関わりが、乳児に限らず生じています。

もちろん同時に、そこにお友達も助け合う過程で、助け方や声のかけ合い方などの関わり方や意味に気づき、それぞれがそれを学び取っていきます。行動の起点は困っているKちゃんへのJ くんの気づきと共感から始まったことですが、それが力強く広がっていった事実の中に、人が世界に関わっていく力強さの芽生えさえ感じます。

気づいてできるように「なっていき」、その手応えとしての世界の変化を感じとりながら、新しく遊びに加わってくるお友達に「〜なんだよ」と教えたりして協力を求めたり「しようとしています」。ここには、共感や見通す力などの非認知的なものを合わさって、考えることも判断することも表現することも含まれています。

より善いことをしようとしていると信じており、また、お互いの自由を認めながら、共にそれが実現できるようにすること、つまり公正さ(ジャスティス=正義)を実現させようとしているようにも見えます。これをきっと、よりよい社会をつくり出すための、学びに向かう力、人間性の陶冶と呼んでいいのかもしれません。こうした小さな積み重ねが大きな変化を生み出していくのではないでしょうか。

 

AIが回答した「見守る保育とは?」

2023/05/01

(園だより5月号 巻頭言より)

生成型の人工知能(AI)の一つ、chatGPTをよく使っています。どのようなものか、実際に使ってみようと思って始めたら、私にとっては、すぐに手放せなくなりそうなくらい便利なツールになっています。例えば次のように尋ねてみます。「藤森平司が唱えている見守る保育とはなんですか?」すると次のように回答してきました。

・・・・・・

見守る保育とは、保育者が子どもたちを徹底的に観察し、子どもたちの個性や特性を理解した上で、必要に応じて手を差し伸べることで、子どもたちの自主性や自己表現力、思考力などを育む保育の方法です。

従来の保育は、どちらかというと保育者が主体的に子どもたちに指導を行うことが多といわれ、子どもたちはそれに従うことが求められていました。しかし、見守る保育では、子どもたちの興味や関心に合わせて保育内容を調整し、子どもたちが自ら学ぶ力を育むことを目的としています。

また、見守る保育では、子どもたちの成長過程を共有することが重要視されており、保護者とのコミュニケーションも密に行われます。保育者は、子どもたちの成長について保護者と共に考え、協力してこどもたちを育てることが求められます。

・・・・・・

どうでしょうか。よくこんなに平気でわかったような断定ができるものだと感心します。ネット上にある情報を集めて瞬時に回答するのですから、大したものです。藤森先生も同じことをやって「下手な解説よりも、よっぽどいいんじゃない?」と、新宿せいが子ども園だよりにも、A Iの解説を載せて、本人が間違いないと言っているから、正しいです、とユーモアたっぷりに紹介したそうです。

一方で、使っていくと、このチャットの限界もわかります。回答について、さらに詳しく問い質していくと、行き詰まりが露呈します。例えば見守る保育と要領・指針との違いを聞くと、方法でアプローチが異なることがある、というので、さらにそれは具体的に何が違うかと問うと、最初の回答の言い方を変えたものに、いくつかの要素を新たに加えてきました。それはどこでもありうる保育方法でした。自信ありげに平気で嘘もつくのです。この辺りから、知らない世界のことだと、私も騙されるかもしれないと思いました。

こう言う意味での精度は、ユーザが使うほどデータ量も増え技術もあっというまに、どんどん進化していくでしょうから解決されていくのでしょう。人間が言葉や映像や記号や音など、デジタル化されうる表象は全てAIの独壇場となるのかもしれません。しかし、もちろん人間の物理的な身体性に由来するものはAIそのものでは代替できないでしょうが、倫理的問題は別にすれば、人工人体などとの融合技術は進むでしょう。それでも人間の内部で起きている事実と人間性の関係にどんな影響を与えていくのか、専門家はきっと、そこの周辺を真剣に議論していることでしょう。

ワールド・クラスルームヘようこそ

2023/04/29

ちょうど子どもの「言葉の獲得」について調べていたので、冒頭の展示から引き込まれた。本物のジャベルの左側に写真のシャベルが並び、右側には辞書のシャベルの定義が文章で書いてある。この3つが合わせて一つに作品になっている。

まさしく三項関係である。これがアートになっているのは、作者のジョセフ・スコースがアートの本質をコンセプトにあると考えているからだ。この3つの要素はどれも表象だが、そのどれ一つを欠いても、アートにならないとスコースは考えた。展示の解説も図録もそこまでしか書いてない。しかし次のようなことを考えると、保育がアートになる境目というか、関係性によって3つの要素が明らかな者にとって、それは作品となるだろう。以下はこの展示のスコー スの発想からインスパイアされた私のアート論である。

どんなアート作品でもいい、その作品Aが何かBを表しているとしよう。宗教画でも歴史画でも人物画でも風景画でもなんでもいい。これは絵画に限らない。彫刻でも建築でもなんでもよい。小説でも俳句でも映画でも音楽でもなんでも。物象化しているものならなんでもいい。どんな現代アートも含まれる。その時なんらかの説明に相当するCがあるから、アートはアートたりうるのだとスコースは考えたに違いない。

もし作品Aが、誰がみてもそれとわかるシャベルじゃなくて、「無題」と題した何かの物体だとしよう。それでも、人によってはそこに何かを表象してしまう。つまりBがそこに存在してしまう。AとBの間の関係性はCが補完するとき、その時にAはアートになるのだ。なんでもないものがCの説明つまりコンセプトの生成がアートの条件ということになるだろう。それなら保育の風景の中に、それは無限に存在することになる。それは一見するに、アートらしいという私たちの概念とは全く異なるものだ。それらしいものに描かれたものが作品で、そうではないものが無視されてしまうだろう。私がみている風景の美しいと感じたものを写真にとりインスタにアップしているものも作品である。

極端なことを言えば、赤ちゃん自身がぼんやりとした風景の中に、母親の笑顔を見つけた瞬間の映像を、そのまま物象化することができれば、それもまた作品である。赤ちゃん本人にその意思がない限り、アート宣言はできないだろうが、保育者がその関係の中にコンセプトDを持ち込み、それがコンセプトC の代理であるといった展開なら可能なのかもしれない。保育では実際にそういうことをやっているのではないか? 子どもの描いたものは大人が描いたものよりもアート性があるとか、なんとか。

ということは、同じ風景であっても見る人によってそれは作品となりうるAとBの関係にCのコンセプトを意識できるかどうかにかかってくるということになるのだが、こういうことはすでにどこかできっと論じられていることだろう。なぜなら、このコンセプチャルアートは1960年代からあるものだから。それでも私はもっと深掘りしてみたいと思う。

ワールド・クラスルームは、こんな調子で国語・算数・理科・社会と続く。写真は理科のナフタリンで作った靴。展示ケースの中で揮発して再結晶化したもの。靴が再結晶していく過程がアートになっている。なんと美しい理科実験だろう。

誕生会の絵本プレゼントとせいが文庫について

2023/04/28

誕生会は、一人ひとりに保育園から絵本と手作りの色紙がプレンゼントされます。絵本はその年齢に合ったものを基本的に私が候補リストを挙げて、その中から先生たちがその子に合ったものを選びます。子どもの誕生を祝うもの、成長や大きくなることを慈しむような内容のものです。

毎月、書店には新しい絵本が並び、どれを買っていいのか迷います。そこで保育園には「せいが文庫」を設けて、ご家庭に貸し出しています。定期的に代表的な有名な絵本を、計画的に揃えてきました。誕生会では、そのリストにもまだ入っていない、けれどもいい絵本を選びます。

絵本選びの基準そのものも、選んでいます。私の基準は絵本に造詣の深い方の推薦です。作家自身のもの、編集者のもの、絵本研究者のものなど、絵本屋さん推薦のものなど、それだけでもかなり色々あります。その選び方の基準を知るのも楽しいものです。

始まりは馴染みやすいものから〜4月の誕生会

2023/04/27

4月の保育は慣れ親しんだもので安心するような内容を意識して取り入れています。給食の献立も家庭で食べことがあるようなもの。メニューの名前から想像しやすいもの。慣れていくこと、安心でいることは、子どもがそれ「知ってる!」といることが、その子どもが初めての場所を歩いていく近道だからです。それと似たこととして、玄関には金魚が泳いでいます。行事の出し物にも、その発想が入っています。

当園の誕生会は、乳児0〜1歳のクラス(1階)と幼児2〜345歳のクラス(2階のダイニング)に分かれて、開かれます。いずれもその月に生まれた子どもたちをお祝いします。一人ずつの手形の色紙と絵本をプレゼントします。藤森平司作詞作曲の「たんじょうかいのうた」を歌い、先生による小さな出し物があります。

4月27日(木)の、今年度最初の誕生会では、乳児では、くだものケーキをエプロンシアターで作りました。子どももケーキにフルーツを乗せる参加型です。

幼児むけには、ちょうどアゲバチョウの観察や、その卵がこれから「手に入る時期になる」ことを見越して、エリック・カールの大型絵本「はらぺこあおむし」を使った歌とミニ上演をしました。

その前に導入として、厚紙で作られた手製の仕掛け遊具で遊びます。開くと卵が出てて、さらに開くと蛹になって、最後は蝶になって・・また葉っぱになって、と繰り返す仕掛けのもの。

それにつけた「お話」も、最初はゆっくりと語り、また同じ絵が出てくると、あれ、同じだ!と気づき、3回目になると「またあれだ!」「また、そうなるぞ1」と予想して、面白がり、実際にそうなると「やっぱり!当たった!」と嬉しくなり、「またやって!」と期待します。

このような遊びを見ていると、知らないものが既知のものに変わり、そこから新しい見通しが現れ、それが実現していくことのワクワク感を感じます。繰り返されること、小澤俊夫さんの昔話の3回繰り返しのことを思い出しながら、知らない世界に入り込んでいく仕掛けのようなものを考えながら、その様子を見ていたのです。

先生の演じ方は、また同じものが現れることに先生が「驚いているふりをしていること」がわざとであることに気づき、「そんなこと、またわざとやって!」と面白がっています。先生の冗談を冗談としてわかり、ニヤニヤしているのは年長の数人です。

 

アゲハの綺麗な模様

2023/04/26

保育園のみかんの花が咲いたと思ったら、子どもたちが早くもアゲハチョウを捕まえてきていた。

和泉公園から帰ってきたら虫かごに「アゲハ」が入っている。綺麗な模様。虫眼鏡で覗き込んでいる。散歩に出かけるときは虫とり網や虫かごが必須アイテムになってきた。

鯉のぼりを子どもと揚げる

2023/04/25

「それって、面白そうだから、子どもに見せたいし、触らせてみたいね」。

そんなことがたくさん出てくるのが保育園です。大人ならすでに経験済みなのでしょうが、子どもには「楽しかった」こととして残っていきます。

今日のおやつは練乳クッキーでしたが、長い棒のようして、一旦凍らせれから輪切りにします。そして焼きます。その途中を子どもたちにさせてあげたいと思うのでした。

そういう意味で今日一緒に体験できたのは、鯉のぼり。数人の子どもたちと揚げました。

いったん、揚げてお終いではなく、上げ下げを毎日のように数人ずつ行います。今日25日も夕方から雨になる予想なので、この後、やりたい子数人と降ろします。

今もお迎えのお母さんとの会話も楽しそうです。

「今日、鯉のぼりやった」「え、朝なかったよね、鯉のぼり」

「うん、いっぱい揚げた」「そう、よかったね」・・・

 

環境との関わり方や意味に気づいていくプロセス

2023/04/24

私がぶらぶらと園の中を歩き回っていると「これからお店やさん、やるの!。これから準備するの」と2歳児クラスの女子二人が私にそう言って遊び始めました。「〜やるの!」のところで両足でピョンと飛び跳ねながら、抱きかかえたぬいぐるみを振り回しながら、足取りも軽やかにルンルンしています。自分がこれから始めることをそう言って始めるのは、それが楽しいことで、それを人に伝えたいコトになっているからでしょう。そこに気を許せる親しい人(私)が来たから、またそれはすでに知っている担任に言うのではなく、今ここに現れた私にいうのは漠然と「この人はそれを知らないだろうから」と意識したか、しないかはわかりませんが、とにかく私に教えてくれたのです。

子どもが言葉を獲得していく過程には、自分が伝えたいことがあって、それを親しい人や好きな人、特定の大人に伝えようとして、表現し始めるのでしょう。その時、私が現れなかったら「これからお店やさん、やるの!。これから準備するの」という言葉は発せられなかったかもしれません。彼女たちの表現にとって、私はそれを引き出すきっかけになったとわけです。私が現れただけで、彼女たちにとっての環境は変化し、言葉を引き出すリソース(資源)として働いた、と見ることもできるのでしょう。その子がそう言った時、多分あまり意識しているとは思えないので、無意識的なメカニズムが働いているように見えます。

そのような人と人、人ともの関係やかかわりに焦点を当てながら、その時のことを振り返ると、どうしてそういうことが起きたのかな、ということの理解の仕方が、変化することを実感できます。本人の特性にだけ還元して「気になること」をその子どもの原因として語るようなことではなく、そこで創発したことの複雑な要因のネットワークに視線を凝らすようなことが必要だと思えてきます。

人やものからその子どもに届く情報は、子どもにとってそれ見るだけで伝わってしまう意味が色々あって、それがその子どもの認識の変化を引き起こして、あることが気づかれたり、わかったり、できたりするように見えてきます。またそうやって発した言葉を聞いた私が「そう、お店屋さんやるの、いいね、何屋さんになるんだろうねえ」などと応えるものですから、より嬉しく思え、また楽しくなったりして、子どもが思ったことの注意の向かう仕方に影響を与えます。昨日までの話の続きに戻るなら、環境との関わり方や意味に気づいていくプロセスの一コマのようでもあります。

その子たちの遊びは、その後、延々と展開されていきました。このようにちょっとした「一コマ」をあえて虫眼鏡で拡大するかのように取り出しているのは、環境と子どもの間に起きている相互作用と言われているものの姿をよく理解し直したいからです。なぜなら、子どもにとっての経験のあり方をどう捉えるのかということについて、私たちの方が見方を変える必要性を感じているからでもあります。それは無藤隆先生の導きが大きいのですが、併せていま私が面白がっているのは佐々木正人さんの説明しているアフォーダンスと、鈴木宏昭さんの認知科学の知見、そして戸田山和久さんの知識論になります。

象さん、なんであんな風に動かないのかしらん?

2023/04/20

今日紹介したいのは「見方・考え方」を考えていたときに出会ったエピソードです。毎日のように、子どもと接していると、ちょっとした小さなエピソードがたまっていきます。流れていく生活の中から何を「エピソード」として拾い出すのか、何を考察する対象として振り返るのかは、こちらがかけている「メガネ」次第。「あは〜ん、やっぱりこちらが見方を学ばないと見えてこないなあ」と思い巡らしながら、これを書いています。私の「思い巡らし」は、ただの迷い道みたいなものなので、そのことは棚上げしておいて、それよりも子どもが「思い巡らす姿」に出会った時のことです。4月19日に乳児の部屋でしばらく遊びをそばで見ていました。

すると、私と衝立てで「いないいないばあ」をしたがる子がよって来て、私が相手をしてくれることを期待して、私と衝立を挟んで自分から、いきなり、しゃがみ始めたりします。<お、もう始まるの!>と私がちょっと慌てますが、子どもは思い立ったが吉日、待ってはくれません(笑)。でも、同時にまた別の子が玩具の自動車を「ほら、これ」と言ったふうに見せてくれたり、読んでほしい絵本を持ってきて私のそばにドンと置いたりする子も来ます。

今日の振り返りはこっち。どんぐりのような形をした木製の人形が、コトコトと坂道を下っていくおもちゃがあるのですが、さっと動かず、ゆっくりとコトコトなので、1歳4ヶ月のその子にとっては面白さがまだわからないようでした。握ってはポイ、という状態。どんぐりが壊れていないか点検を兼ねて、私はあまり意識せずにそばにあったレゴの象さんを手にとって、自分で坂道を動く人形「どんぐり」を追いかける遊びを何度か繰り返しました。私が像を揺らしながら「待て待て〜」とどんぐり追っかけます。まな板の台から落ちるときに「どて!」と倒れるという遊びです。先生はふだん私のように「介入」しない方がいいのですが、まあ、結果的に遊びのモデル提示みたいになってしまったケースです。というのは・・・

(写真はカタログから)

どんぐり人形遊びを終えてしばらくすると、それを見ていたらしい別のSくん(1歳10ヶ月)が近づいてきて自分でまな板の上にレゴの「象」人形を置いて、動くかどうか置いてみてたのです。私は手でゆらゆらと動かしたのですが、その子は自分でその動きをするかどうかまるで確かめたかったかのように、置いたり揺すったり試行錯誤しているのです。これは私の解釈ですが「あれ、動かない」といった風に見えます。そこで、その姿に私は「思い巡らす」がぴったりだな、と感じたのでした。

(写真はカタログから)

「思い巡らす」ということを学んだのは、ある教科書の「幼児教育の根幹」と題する「見方・考え方」を解説した文章からです。それをいかに引用します。

「・・・(子どもが)環境の関わり方を知り、こうしたいという思い気持ちをもち、それを取り込んで、自分のものとして自分の力でやってみたいと思うことから試行錯誤が生まれる。これは体を使い、諸感覚を使いつつ、思い巡らすことである。思い巡らすというのは、「じっくり考える」「あれこれ悩む」「こうかなと思う」「こうしようとする」といった、子どもの内面的な、知的であり情動的なことを表現した様子である。」

どうですか?乳児もいろいろ「考えている」んですよね。保育界ではルチアちゃんの時計エピソードが有名なのですが、私にはその事例の分類ケースにこれが加わりました。そして、その子の姿を見ていたら、なんだか私と同じだ!と思えてきます。私のワーキングメモリーは「環境との関わり方や意味に気づき」という言葉の謎解きで、「メモリーいっぱい、もう録画できません」のビデオデッキみたいで、外付けのハードディスクが、最近はchatGPT経由のクラウドに移っていく予感を感じています。

ちなみに、幼稚園教育要領の「見方・考え方」は「〜考えたりするようになる」ですが、無藤先生の文章は以下のものです。私はこっちの方を併せて、じっくりと「思い巡らして」いるところです。鈴木宏昭さんの「思考力などのきわめて曖昧な能力を検討しているきちんとした研究は現在では存在しない。そうしたものは中身が不明であるため、直接に研究を行うことはできないからだ」(ちくまプリマー新書『私たちはどう学んでいるか』P26)といった言葉に出あって、こういうことは「早く言ってよ〜」と、松重豊になりたい気分でもあるのでした。

以下は補足メモ。

「幼児がそれぞれ発達に即しながら身近な環境に主体的に関わり、心が動かされる体験を重ね遊びが発展し生活が広がる中で環境との関わり方や意味に気づき、これらを取り込もうとして諸感覚を働かせながら試行錯誤したり、思いを巡らせたりする」(萌文書林「改訂 事例で学ぶ保育内容」シリーズの第1章「幼児教育の基本」から無藤先生の定義)

「幼児が身近な環境に主体的に関わり、環境との関わり方や意味に気づき、これらを取り込もうとして、試行錯誤したり、考えたりするようになる」(幼稚園教育要領)

上と下を比べると、無藤先生の方が長くて下線を引いたところが、要領にはない文言のところになります。

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