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園長の日記

「初めて」や「再会と繰り返し」におきる新しい関わり方と意味

2024/10/22

今日はいつも親しんでいる人やものに繰り返し「再会」している姿、反対に初めて電車に乗ったり、初めて広い場所で野球をしたりと、そのコントラストのある1日だったように感じます。それぞれの記録を拾ってみました。

 

0歳児クラス「今日はお友だちとの関わりもたくさん見られる一日でした。

いずみ公園にも慣れ親しんできた様子で、いろいろな場所へ行ってみてたくさん新たな発見をしたり、

お友だちのいるところに行って自分もその場で遊んだりと、遊びが広がってきただけでなく、子どもたちの表情も豊かになってきました。

言葉がない中でも、ちっちさんならではのコミュニケーションがあり、お友だちと楽しさを共有できて嬉しい気持ちが増えてきているようです。」

 

1歳児クラス「きのうまでのお散歩の記憶を反芻するように色々なことを思い出しながら…

そして同時に新しいことも発見したり興味を広げたりしながら、お散歩を楽しんでいます。

佐久間公園では、砂場遊びをじーっくりと満喫したり、広場でたっぷりかけまわったりして、遊んでいました。」

2歳児クラス「今日は、旧今川中学校へ遊びに行きました。初めて行くルートだったからか全員が「歩きたい」と言っていたにこにこさん。

学生さんも授業の一環で来てくれていたこともあって、目的地までゆったりと歩いていくことが出来ました。

少しずつ先生と手を繋ぐからお友達と一緒に歩くことを誘ってみると、「わらすさんみたいだね~」とお互いに顔を見合わせて嬉しそうな姿もありました。」

3歳児クラス「今日は、わいわい組だけでどのくらい出来るのかなと子どもたちの持っている力を見て見たいと初めての活動を行いました。

集団活動や社会生活(今回は鉄道)に参加していく中では多少の我慢が必要です。自律ですね。 どのくらいできるだろうかと思っていた通り、難しいシーンもあってその時々にじっくりと時間をもって考えました。

電車には乗れてとてもいい経験でしたがそれに至るまでの多様な時間があったことが良かったです。」

45歳児クラス「今日は旧今川中へ行きました✨中々近隣の公園では、ボールあそびが出来ない所が多いのですが、唯一旧今川中は、のびのびとボールあそびが出来る場所です。

月に1度は千代田せいが保育園が使える日となっているのですが、その他の日は他園の利用日になっていて相談が必要なため、中々利用出来ない日が続いていたのですが、やっと行くことが出来ました!野球やバスケ、サッカー等、色々なボールあそびを楽しみました^^✨」

毎日のドキュメンテーションをみていると、0歳から幼児まで、子どもたちの環境への関わり方と意味が多様に、また繊細に変容していくことが見えてきて面白いものです。確かに「できる」ことが増えていくのが目立ちやすいのですが、同じ人やものであっても「感じ」たり「気づいたり」することも違い、広がったり深まっていくようにみえます。また色々な関わり方が変わっていく様子も面白く、いろいろ考えたり、工夫して試す姿もたくさんあります。

すべてのクラスのドキュメンテーションが読みたいと言う方の声もあるので、今後そういう仕組みに変えてみたいと思います。

 

 

 

子どもはやっぱり小さな芸術家だ!

2024/10/21

こんな言い方をすると誤解されるかな?

でも散歩先で、やっと歩き始めた0歳児クラスの赤ちゃんが、紅葉した葉っぱを「これ」って、トコトコ走ってきてみせてくれたら、やっぱり「美しさ」がわかっているんだって、思いたくなります。1歳2ヶ月の女の子です。

1歳4ヶ月の別の子は手にした石や葉っぱを見せてくれます。それらのものに何かいい感じがするんだと思います。珍しいとか、面白いとかいう感情もあるでしょうけれど、感覚的に「これ、いいと思わない?」と言いたいかのように、見せてくれます。

見せてくれなくても、夢中になっていることが、楽しいというのはそうなんでしょうけど、「音が鳴ることに気づいた子どもたちは、今日も足を高く上げながらいっぱい歩いていました」。その音があまりいい音でないなら、あんなに何度も夢中になるだろうか?とも感じます。

一つ上の1歳児クラスの散歩でも、砂場での遊びに夢中です。いろんなお山をつくっています。いいのができるかな。

道中、「船が来るかな?」と橋から見ていたら、Wちゃんが「きた!」と遠くからやってくるのを見つけました。ナイスタイミング!「なんであわあわになるんだろー?」と呟いていました。

そして「うみは、なみがぼこぼこってなるよ」と、お話を続けてくれました。川は波がないけれど海には波があったこと…を教えてくれていたみたい!(日誌より)

こんな風に、子どもたちがやっていることや、気づいていることに先生たちは着目して写真にとってコメントをつけてくれていますが、どこを切り取っているかというと、総じて「いい感じ」のところなんですよね。

 

子どもが何かを感じてそうしていることのなかの、子どももそこがいいんだよ、というところに共感して、それを皆さんに伝えたいと思っていることが伝わってきます。

例えば、こんなこと。

「朝のお集まりをしようとテーブルのところに行くと…あれ?それぞれの席に水筒が配られていました。なんでかな?と思ったら・・・」

「先に食事ゾーンの方へ行っていたRちゃんが、それぞれの席に配ってくれていたみたいです!かわいいアイデアと、親切な気持ちに、ほっこり。それぞれのお友だちの席と水筒の組み合わせもバッチリ!・・」

これも親切にやってあげたということもあるんですけど、きれいに並べているところに面白さを感じてるはず。

秋だからそう、ということもあるかもしれないと、ふと思ったら、3歳9ヶ月のHくんが「いろいろな色のもみじがあるね〜あきだね〜」と呟いたそうで、担任が「季節を感じているセリフ!素敵だなぁと感じました^ ^」と書いています。外に出かけると、芸術の妖精たちが秋の気配で子どもたちを包んでいるのでしょうか?

幼児たちはハロウィーンの装飾作品作りに熱中していました。

先生のかわいい!という感嘆のなかに、子どもの愛おしさが現れいるのですが、それは子どもたち自身が「美」への志向をもっているからのように感じるのでした。

 

 

しずくの会がハロウィン・パーティー

2024/10/20

とってもいい天気になってよかった。よかった。

しずくの会の皆さんが開いたハロウィンパーティー。

親御さんたちが手作りで用意した「ピニャータ」と呼ばれる袋を大人がつるして、子どたちが棒で叩いて、袋を破ると、中からお菓子がたくさん。これは楽しい!私は参加できなかったのですが、大変盛り上がったそうです。

良い思い出になりましたね。

 

赤ちゃんを抱っこして伝わりあう「波紋」の感度

2024/10/18

赤ちゃんを抱っこさせてもらい、あやしてあげると笑顔を見せてくれます。「あら、いいね、ママに抱っこしてもらって。ねえ、いいよね、ご機嫌だよね~」などと、色々声をかけて、ほっぺをつんつんと触ってあげたりしているうちに、あ、笑った笑った。私が発する声を受けとめてくれました。そして私の抱っこを受け入れてくれました。お母さんも喜んでくださり、私は「いろんな人に抱っこされてもらおうね」といってまたお母さんの胸元に戻しました。

私に抱っこされていた瞬間の、それ以外時間とはまったく異なる密度。そうした瞬間の粒々(つぶつぶ)が、無限に連なっているように感じますが、「いいね、ごきげんだねえ」の声が赤ちゃんにとどき、ここちよい気持ちが生まれ、その気持ちがお母さんや私にも波紋として広がるように伝わってくる。私にだっこされたものの、ちょっと不安になって、ママに手をさし出して戻って安心する。人が生きている世界とは、その小さな波紋の重なりや干渉のようなことが、大小さまざまな波を立てて連なっている海のようなものかもしれません。

このような波を感じる感性は、確かにあると思えるのに生物学的に、あるいは神経学的に特定できないからからといってないわけはないだろうと思います。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚などはよく五感と言われていますが、保育では運動感覚の話として固有感覚や前庭感覚が言われるようになって久しいし、身体の緊張度もよく話題になります。おもえば内臓感覚も加速度感覚も、あるいは温痛覚とか時間感覚もありそうです。動物によっては渡り鳥やウミガメなどは磁気感覚があるらしいといわれています。

人間にも種なのか類なのか別にして、人への関心の強さという対人感覚のようなものがあるといってもおかしくないのではないかという気がします。シュタイナーなどはあるといっていますが、人の気配を敏感に感じる人は確かにいます。保育に活かす~感覚を考えると、環境から感じとるセンサーのようなものは、それぞれ感度が違いそうなので、その調整ということもありそうです。

公園という環境から得ていくさまざまな身体感覚

2024/10/17

和泉公園での散策の様子の写真が24枚。0歳児クラスの赤ちゃんたちは、保育ドキュメンテーションによると「葉っぱや石の観察、足踏みをして音を鳴らしてみる、気になるところへの探索、たくさん走る…と子どもたちそれぞれが楽しい遊びを見つけて伸び伸び過ごしていました。「今はこれに夢中なんだなぁ」と思う場面が一人ひとり違っいてとても興味深かったです…!」と描かれています。

こんな様子から、私たちが大事にしている姿を再確認してみると・・・。0歳の頃に遡って「身体的発達に関する視点」を参照すると「まず環境に働きかけることで変化をもたらす主体的な存在としての自分という感覚を育むこと」ということが保育所保育指針の解説書には書かれています。すこし拾ってみます。

「自ら感じ、考え、表現し、心地よい生活を追求していく健やかな自己の土台は、安全に守られ、保育士等による愛情のこもった応答的な関わりによって心身共に満たされる、穏やかで安定した生活を通じて築かれる」

「身近な環境との関わりを通して身体感覚を得ていく」

「身体の諸感覚が育つ中で、子どもが自分の働きかけを通して心地よい環境を味わう経験を重ねることが重要である」

「こうした生活の中で、周りの人やものに触ってみたい、関わってみたいという気持ちが膨らみ、子どもは対象にむかって盛んに自分の体を動かそうとする。興味を引かれたものをつかもうと懸命に体を動かそうとする・・・」

いかがですか。写真の一枚一枚に、こんな姿を感じませんか? このことは一歳になっても継続していく姿です。

子どもたちは毎日、身近なものを面白がって触り、動かし、その身体感覚を得ています。ダンスにもあった身体感覚、今日は自然の中にいるとまた違ったそれを感じているのでしょう。

そして他のクラスの写真と記録と繋いでみてもらうと、同じ公園でありながら、その関わり方が大きく変化していくことがわかります。

次の写真は、幼児たちが同じ公園で野球ごっこを楽しんでいるところです。自分たちで道具を作り、大リーグ選手にはなれないけれど、その世界に強烈な眼差しを向けて先取りし、自分たちの世界を切り開いているように見えます。

その変化の中に変わらない傾向のようなものが見えてくるのですが、そこに私たちが「世界を開く」とでもいっていいような関わり方をしているように感じます。そこをもっと繊細に広がりを持たせてあげたいと思います。

コンテで楽しく体をうごかす世界への冒険

2024/10/16

今日はダンスの日。芝田いづみさんと、宮崎知佳さんに来ていただき、乳児の健康診断もあったので、順番をかえて最初に「にこにこ」から、その後「ちっち・ぐんぐん」「わいわい」「らんすい」とダンスを楽しみました。ダンスといっても、音楽性のある空間のなかで、子どもたちが思い思いに体を動かす「遊び」です。何も難しいことはなく、赤ちゃんは、いつも楽しんでいる音楽をかけてもらい、それに合わせて口ずさみながら体をいろいろ動かしてみます。

にこにこ以降になると、床にマスキングテープを貼ったり(探検あそび)、人の体を人形に見立てて動かしてみたり(マネキンとデザイナー)、ダンサーの動きを真似して全身を動かしたり(鬼さん何するの)、手足や体を動かして穴をつくったり(トンネル遊び)、いろいろなものや身体への関わり方に気づいていきます。他人の体を動かすときは「優しくそっと動かす」とか、体をまっすぐに伸ばして寝返りをすると自分の体が棒のように転がるとか、うつ伏せで手足を丸めるとダンゴムシのように「ごろんと転がる」とか、そうした動きの中で、身体感覚が覚える面白さに気づいていく感じです。

身の回りのものには、床という平面があるのですが、普段はそれは歩いて移動する、あまり気にしていない「身近なもの」なのですが、マスキングテープを自由にはって、その形からイメージされてくる「動き」が誘発されます。海にうかぶ島々のように見えたり、線がぎゅっと詰まった場所は、広めに感じるので、そこで一呼吸できて「座る」ことや、「跳びはねる」動きも。

短い点の模様のようにみえるあたりは、爪先立ちでツンツンと歩こうとしたり、急に曲がった直角部分からは、いづみさんが「横歩きしてみようっと」と言ってちょこちょこと歩いてみます。

子どもは「そういう感じか」ということを掴むと、それはある種の制約というかルールのようなものなのですが、慣れてくると、だんだん「じゃあ、こしてみよう」という感じで試したりしているように見えました。

私たちは身の回りにある物の意味は、固定されていてあまり揺れないのですが、このような遊びは新しい世界として立ち現れ、そのなかでどう関わるかという冒険のような楽しさがあります。略してコンテというダンス(コンテンポラリーダンス)は、そのような出会いを作り出す面白さのかもしれません。

子どもの不安な気持ち・恥ずかしい気持ちについて

2024/10/15

小さい子どもが何に不安を持つのか、その不安感を大人は忘れています。

(写真は10月10日のものです)

私は自分の記憶がある4歳ごろから小学校以降の子どもの頃を思い出すと、かなり臆病で内向的な性格だったことに自分で驚くことがあります。

自分ごとで恐縮ですが、私は小さい頃から親の包装紙材店の仕事場に出入りしていて、子守り代わりに仕事の配達でつかうトラック「ハイエース」の真ん中に乗せてもらって、いろいろなところへ連れていってもらっていました。

そのこと自体は楽しかったのですが、大人になると「こんな大きなトラックを運転するようになるかもしれない」とか、また「もしそれを自分が運転しなければならなくなるかも」とかを想像して、怖くて仕方なかった気持ちがあったことを思い出すのです。矛盾しているように思うのは、大きなった大人の見方です。

運転できるようになることの喜びよりも、「あんなものを動かすなんて、よくできるものだ」という感じと合わせて、自分がそれをやると思うと「空恐ろしい」という感じの方が強かったのです。

その感覚は、結構大きくなってもあった気がします。私は二十歳をすぎて自転車に乗れたのですが、私が住んでいた町では自転車に乗ること自体が全くなかったのです。子どもの頃は「あんなものにどうして転ばずに乗れるのか」と、不思議でしょうがありませんでした、というよりも乗れるようになりたいとも思いませんでした。

人前に出ると、真っ赤になっていました。恥ずかしさが何よりも先立つ性格でした。それでも大人になると図々しさがないとできないような職業をこなすようにもなるのですから、性格というのはある程度、変容するようです。でも基本的なところは、あまり変わらないように思えます。

どうして子どもが躊躇したり、眺めるだけだったりすのか? そんな子どもの心理への想像ができなくなっているのが大人なんでしょう。このことは、誰でも持っていたはずなのですが、そのとき感じていた感情が成長というものによって、他の感情に移り変わっていくものなのでしょうか。

記憶として残るものと消えたようにみえるもの。その違いがあるように見えます。変化した前の状態がその後の感情に比べてどちらかというと否定される傾向のものだから、(臆病で怖気付く性格から、 大胆で果敢な性格になるというような)消去されてしまうのでしょうか?

いずれにしても、大人が子どもの感情について共感的に同じ感情を思い起こすことができなくても、そういうことがあるという状態を認識することはでき、そのことを思い巡らす想像力を失わないでいてあげたいと思うのでした。

保育園で過ごす日曜日のひととき

2024/10/14

昨日13日(日)は園長の「にちよう開放」でした。行楽シーズンで天気もいいし、土曜日がお休みの方は3連休の中日なので、どうかな?と思っていたら、過去最高の来園者数となりました。というのもの、保育園を見学したいという方も何組もいらして、親子で遊んで行かれたからです。

保育園の環境は子どもを自然と惹きつけるようで、それぞれの遊びのゾーンで思い思いの遊びが始まります。そこに親がいて見守るということがすぐにできます。すると子どもの遊びを見守りながら親同士で話ができ、交流も進みます。

今日はちっち組の自主交流の機会でもあり、あるお母さんは「ふだんお迎えの時だと会えなかったり、ゆっくり話のできない方とも話せてよかったです」とおっしゃっていました。

 

来週の日曜日は、しずくの会が佐久間公園で「日曜ピクニック」を企画されています。ぜひご参加下さい。ハロウィンパーティーなので、仮装してお菓子をお持ちください。

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