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園長の日記

自分の感情をしり相手の感情にも気づく

2022/10/03

この図は、脳のセンシィティビティ、つまり脳の感受性(敏感性)が年齢とともにどう変化するかを表したグラフです。藤森先生はこの8年ぐらい、何度も何度もこのグラフの重要性を説いてきました。今の保育所保育指針で乳児が重要視されることになったことのエビデンスの一つです。いろんな線がありますが、ほとんどが満3歳までにピークを迎えていることに、ご注目ください。そのテーマの力が身につくには、その時期に体験することが望ましいことを意味します。

例えば白は視力ですが、誕生時にすでに最も高い感受性を持っています。ですから、生まれてすぐに光に当たること(ものを見ること)が必要だということがわかります。もし目に光をあてないで塞いだままで数年過ごすと、失明します。その時期をすぎて光を当てても、視力は回復しません。ものを見る力が発達せずに失われてしまいます。聞くことも、同様に生まれる前から聞こえていることがわかります。その力を基盤にして、言語の発達も、黄色の曲線のように初語を発する満1歳ごろがピークなのです。このような時期を臨界期ともいいます。人類は長い進化の過程でこのような脳の発達の特徴を得たわけですが、この特徴の中に、人類の生活の姿、子育ての姿を読み取ることができます。

さて、ここでピンク色の「エモーショナル・コントロール」、つまり「感情を制御する力」が最も敏感なのは、1歳半ごろだということも注目に値します。感情は、人との関係がなければ、あまり生まれないものだからです。喜怒哀楽の感情は、人間関係の多様性があって初めて豊かになるものだからです。

どんなに豊かな感情体験をしているのかは、1歳児クラスのブログをご覧ください。特に今日3日の内容は、この感情体験の重要性がよくわかる内容になっています。当園では1歳児クラスの子どもたちが、いろんな関わりを体験しながら生活しています。中でも、好きな先生に自分が感じている感情について「楽しいね」とか「悲しいね」と、言葉で表現してもらいながら、先生は子どもの気持ちに「偽りのない共感」を寄せてあげています。これは極めて重要なケアでありエデュケーションです。まさしく質の高い「エデュケア」(保育という意味)になっているのです。ここに教育におけるケアがいかに重要かということが、見事に描写されています。この描写は、幼稚園や学校の教育者が噛みしめていただきたい教育原理を示しています。

ところで、なぜ、感情コントロールの敏感期がこんなに早い時期なのでしょうか? ここに極めて重要は示唆が含まれています。乳児の担当制がよくない理由もここにあります。人間の子育ては、村を単位にしていました。子育ては共同保育だったのです。核家族で子育てをしてきたことはないのです。毎年子どもを産む多産が人類の特徴であり、脳が大きくなった人類は未熟なうちに出産し(ポルトマンの生理的早産)、一人の子どもが育つには村中の人が必要(人類発祥の地であるアフリカの諺)だったのです。その人的環境が、赤ちゃんの脳の感受性の特徴に現れているのです。

0歳の時から、赤ちゃん同士の体験が必要です。満1歳になる頃までに、豊かな人間関係を体験することが大事です。保育園を見学に来られる方と仲良くなると、お母さんに抱かれていた赤ちゃんは私に抱っこされても平気です。「お母さんが警戒していない人だから、抱っこされても大丈夫だな」と、赤ちゃんはすでに感情的な判断をしています。いろんな人に抱っこされる経験が、赤ちゃんには大切なのです。そして、子ども同士の関わりがたくさんある人的環境が、乳児保育には必要です。だから、全ての赤ちゃんが数時間でも保育園で過ごすことが大事なことなのです。

それは子どもの発達を保障するだけではなく、子育てのつらさを軽減して児童虐待を防ぐ、子育て支援の本道であり、子育てのコミュニティづくりに貢献します。その延長上に、その子らしく生きる子どもたちの学びと自治力(自信を持って他者と共存していく力、共生と貢献の力)が育っていくのです。

愛おしく気遣い合うことがケアだから・・

2022/10/02

(園だより10月号 巻頭言より)

最近はこんな思いを抱いて子どもたちと接しています。

子育ての根幹には愛がある。

それは必ず朝が来るように間違いないこと。

でも、それが愛だとは、親も子どもも決して言わない。

朝が来たからって、毎日、驚いたりしないように。

そりゃ愛には、イライラやプンプンもうんざりだってある。

不合理やムダや矛盾もいっぱい、ときには、ひどいケンカになってしまったり。

だけどそれは間違いなく愛、誰がなんといおうと。

 

でも、いま愛の息の根が止められようとしている

世の中は何かと、成績を良くして、効率よく、生産性を上げなさいという。

愛はいう。「僕の天敵は、忙しさなんだよ」と。「忙しいって心を亡くすと書くでしょ」。

「僕が育つには心というベッドに時間も必要なんだよ」と、愛はいう。

愛はまるで自然の草木のように、ゆっくり、ゆっくり育つ。

例えば「僕は君を効率よく愛したい」って言われたら、どう思う?ゾッとするよね。

子育ても勉強もおんなじなんだよ。だって子育ての根幹は愛だから。

時間の中に活動を並べてしまったら、それは生きる時間じゃなくなってしまう。

活動を本当に生きるようにしたら、それにふさわしい時間が決まるんだよ。

愛も同じ。出会いと別れ、遊びと学びが人生だから。

その過程ぜんぶが愛おしくなっていくことを、愛って言うんだよ。

何々の結果が、大事なんじゃないんだよね、どうせみんな死ぬんだから。

 

保育は愛です。愛は愛おしさのことです。

子どもたちには、その愛おしさをプレゼントしませんか。

すると子どもたちは、自ずと自分の生き方を始めます。

その時間が幸せな時間になるように、大人は公正に気遣ってあげましょう。

より良い社会を作っていくための友として。

フェアに愛を分け合い、子どもを気遣あう社会を作りましょう。

「夢みる小学校」と南アルプス子どもの村

2022/10/01

9月30日金曜日の夜、オオタヴィン監督の映画「夢見る小学校」を千代田区半蔵門のいきいきプラザで開かれた自主上映会で、やっと観ることができました。今年2月に上映されて話題になっていた映画だったので、ずっと観たいと思っていたのです。この映画は、山梨県南アルプス市の小学校を舞台にしたドキュメンタリー映画で、こんな小学校が近くにあったら、子どもたちは幸せだろうなぁと思えてくるものでした。多くの人にぜひ見てほしいと思いました。保育園でも自主上映会を開きたいと思います。

そして今日10月1日土曜日、その映画の舞台となった小学校に来ています。南アルプスこどもの村小中学校です。この学園が主催する秋の教育講座に参加しました。話し手は、文化人類学者の辻信一さん。辻さんと言えば、スローライフ、シンプルライフを提唱されている方というイメージを待っていましたが、海老原商店で海老原さんに「ゆっくり小学校」の本を紹介してもらったり、青木さんが辻さんと対談したりして、地域的にも身近な存在になっていました。お目にかかって「これから必要な学校」の基礎固めになりそうな「てつがく」を聞くことができました。

すいすい〜花の植え替えと野菜のお土産

2022/09/30

大丸有というエリアをご存知でしょうか? 今日9月最後の30日は、年長のすいすい組が、この大丸有エリアまで歩いて出かけて「花壇の花の植え替え」をしてきました。歩いて片道30分かかりますが、さすがに年長児、往復60分以上の散歩をこなすことができました。花壇の花の植え替えは、今年の親子遠足(雨の中の屋形船乗船)の時に、佐久間橋児童遊園の花壇のアダプトとして、花のポットを花壇に植える体験をしましたね。あれと同じようなことを、すいすい組で体験してきました。

大丸有(だいまるゆう)とは、ウィキペディアによると、次のような説明がなされていました。

「東京都千代田区にある大手町・丸の内・有楽町の3町域を合わせたエリアであり、東京を代表する一等地である。このエリアは大企業の本社ビルが集積しており、日本最大規模のオフィス街・中心業務地区(CBD)を形成している。皇居の東~北東側に位置し、東京駅(丸の内)や大手町駅周辺では大規模なビジネス街が、有楽町駅周辺ではオフィスビルや大型商業施設、劇場や映画館などが集積しており、銀座の繁華街とも隣接している。東京駅界隈は三菱財閥がイギリス・ロンドンのシティを模範としたビジネス街として開発を行ってきた歴史を持つことから[1][2]、現在でも三菱地所が多くのオフィスビルを所有しており、丸の内一帯は「三菱村」とも呼ばれている」

私は、このエリアとの接点を増やしたいと思っています。この地域が来年度以降の「千代田せいが保育園」の教育活動を展望する上で、中央区の八重洲の再開発を視野に入れながら、いろんな意味で重要になっていくという予感があります。今日の活動は3月のホタル放流体験に続く2回目なのですが、せっかく「エコミュージアム」という場所と機能ができているので、子どもたちの「自然体験」をもう少し、本格的な学びの詰まったプロジェクトに発展させるための提案を企画側へ、したいと思っています。

 

 

知恵としての「資質・能力」は「対話」が鍵になる

2022/09/29

人に何かを説明しようとすると、自分でよくわかっていないことに気づくことができます。考えをまとめることができます。人との関係性が自分を作るのです。人とどんな関係を作るかが、自分作りにもなるのです。対話は自分磨きになります。

例えば、今日も見学に来た保育園の先生と話をしているとき、実習生に「態度」の意味を説明しているとき、そして保護者の方と今後の行事のあり方を語りあっているとき、そして子どもの姿の背景を一緒に考えているとき、自分自身、いろんなことが「わかっていないなあ」「できていないなあ」と気づきます。

その都度、私はいろんなことを「感じたり」「気づいたり」します。そして何かがつながって、一貫性が出てきて見通しが良くなり、いろんな要素の辻褄があって矛盾がなくなり、納得性が高くなると「わかった」と思えるようになります。それでとりあえず、いいだろう、と思えます。そして、ものや出来事が形をなして何かが「できる」と、一通りのあるまとまりのある物語やエピソードとなります。

本当に不思議なことですが、人間はなぜか、赤ちゃんの頃から、こんなことを繰り返しながら生きているように見えます。このようなプロセスの中には、いろんな知識や技能が動いています。

でも、それを動かしているのは、つまり生きて働かせているのは、知識そのものや技能そのものではなく、望ましいもの、よりよきものに向かっている心情や意欲なのです。その心情や意欲が、知識や技能をイキイキしたものに変えていくのです。

ですから、私たちが本当に必要はものは、その知識の量や、うまくできる技能だけではもちろんなく、その活かし方であったり、何がどう大事なのかという判断力、さらには、その判断の根拠となっている価値づけです。また人間性も大事になります。

そして、冒頭に述べたように、他者との対話が考えたり判断したり、どう表現したらいいかを省察する機会になります。思考力や判断力、表現力を磨くのは、そんな時です。

あとえ実際に会わなくても、その対話の相手が自分自身であったり、書物であったり、思い出の中の出来事であったりしても構いません。本質としての対話が生じるものであれば、生ききた人間である必要はないかもしれません。しかし子どもの場合は、真心を持った大人がそばにいる必要があります。

以上のことは、保育所保育指針や幼稚園教育要領が示す「資質・能力」の三つのことなのですが、このような説明をどこにもしてくれないので、その3つの関係をうまく理解できないままになっていることが多いように見受けられます。資質・能力の3つが有機的に機能する時、私たちはそれを「知恵」と呼んできたのです。

いろんな人と話していると、他者との対話は自分の知恵を磨いてくれます。知恵とは、よく生きるために働く動的なものです。方法としての知識に近いかもしれません。知識を素材として活かすものです。

その知恵を今日は子どもに見つけました。子どもは知恵者です。子どもの「知識」は少ないかもしれませんが、大人以上の知恵を発揮することはできるのです。もし資質・能力は大人が高くて子どもが貧しいという前提があるとしたら、それは間違いだと、言っておきたいと思います。

事務所での「お手伝い保育」

2022/09/28

9月20日に今年度のお手伝い保育について、年長組(すいすい組)が話し合いをしています。わらすのクラスブログをご参照ください。そして今日28日(水)、その1回目の「お手伝い保育」が始まりました。

この「お手伝い保育」とは簡単にいうと、年長さんが、ちっち組(0歳)ぐんぐん組(1歳)にこにこ組(2歳)のお部屋に別れて、一緒に過ごす活動をいいます。お兄さん、お姉さんとして小さい子どもたちのお世話をしたり、遊んであげたりします。大家族のように過ごすのです。詳しくは、2019年10月20日の「園長の日記」をご覧ください。その歴史や意味を解説しています。

子どものいない事務所では主に3つのことをします。金魚やプランターのお花など生き物のお世話(水替えや水やり)、ペーパータタオルの補充や玄関の掃除、そして乳児室で「使う手作りおもちゃづくり」などです。

今日は玄関のプランターの花の植え替えをしました。その後は、屋上にいる虫探しを手伝ってもらい、その後は水鉄砲で遊びました。

自然との触れ合いをできるだけ増やしたいと考えているので、お手伝い保育にも、生き物との触れ合いを位置付けているのですが、ちょうど「花の植え替え」は、エコッツェリア協会(2022年3月23日の「園長の日記」を参照ください)からお誘いを受けて、今週金曜日30日にも大手町まで出かけて行います。当園の屋上にはバケツの田んぼの稲や、水桶の小さなビオトープなどがあって、そこに自然発生する水生動物を観察することができます。

水槽の中に、ミジンコのような小さな生き物がたくさん泳いでいるのを発見したKTくんとTYくん。「虫眼鏡を持ってこようか?」と、私に提案してくれるので、「そうか、私のお手伝いをしてくれていたんだ」と思い直した瞬間でした。虫探しは私がやっているんだといことを、しっかり理解していたのです。それでもよく見るためには、虫眼鏡が便利だということを知っている証拠ですね。

子どもの感情に気づき、言葉を結びつけてあげること

2022/09/27

「自分の感情に気づく頃なので、Kちゃん、怒っているんだよね、って、言ってあげるようにしています。そしたら、自分で『もう、◯◯(自分の名前)、怒ってるの』と、言ってこうやって(怒っているという仕草)・・」。

実習生の反省会で、1歳児クラスのS先生が、保育の意図を説明してくれます。それを聞いていて、私は感動してしまいます。子どもの発達を理解しているからこそ、その時に必要な言語環境をデザインしているからです。1歳児クラスといえども、4月以降に誕生日を迎えている子どもたちはすでに満2歳になっており、言葉の爆発的な獲得期に入っています。質問期でもあり、何にでも「これは?」と聞いて、いろんな言葉を覚えていく頃でもあります。

そんな時期は、自分のことをもう一人の自分が客観的に眺めるような視点を獲得して、自分はこうなんだ、と他者に説明できるようにもなってきます。その時、自分が楽しいんだ、嬉しいんだ、怒っているんだ、悲しいんだ、辛いんだ、というような大まかな感情も「自己認知」できていることに、担任は気づき、冒頭のような言葉をかけているのです。あえて意識して、そうしてあげているのです。

実習生たちは、「保育の過程」というものを学びます。それは「子ども理解」に始まり、その子どもの姿にふさわしい「環境の(再)構成」を行うことで、子どもは新しい体験をします。その体験が発達を促したり、新たな学びになるので、その子どもの姿を予想する、ということをします。指導案の書類には「予想される子どもの姿」という欄が用意されています。

今回のケースでも、子どもの発達理解があって、言葉を変えている担任の判断の中には、このような「子ども理解」をもとにして担任という「人的環境」のあり方を変えている、という「保育の過程」を見てとることもできます。実際の保育というものは、そんな回りくどいことを、いちいち考えているわけではないのですが、いずれにしても大事なのは、子どもが何を感じてどう思っているのかを、敏感に感じ取る力が保育者には必要で、そのセンサーの感度が、子どもにふさわしい次の体験を用意していくことになる、ということでしょう。

そんなことを反省会では実習生に伝えています。そして伝えながら、私たち自身も自らの保育を振り返るのでした。

見守る保育は自然栽培に似ている

2022/09/26

「見守る保育は自然栽培と似ている」

そのことに、最近気づきました。

自然栽培はとても面白いです。いろいろと勉強していると、大自然の持つ神秘的で不思議な力を感じます。食の営みも本来なら、自然と調和した暮らしを取り戻すことだと気付かされるのです。この2ヶ月ほど「自然栽培全国普及会」の方の話を聞いているのですが、子どもたちも自然の一部なんだという、当たり前の事実に気づくのです。子どもだけではなく私たち人間は、大いなる生態系の中でこそ、人間らしくいられるのだろうと、思えてきます。

例えば、自然栽培では肥料を使いません。化学肥料だけではなく、有機肥料も基本的には使いません。また、いわゆる害虫が来ても農薬もかけません。それでも、辛抱強く、我慢強く、待っていると素晴らしい野菜が育つようになります。それは、まるで保育が、子どもたちとそれを見守る大人たちの関係にそっくりです。子どもが本来持っている育つ力を信じて、大人がおおらかに待ち、見守るような関わり方をすることに、とてもよく似ているのです。

さらに、自然栽培では、土をとても大切にします。その土は何年もかけて作り出されるものです。根気がいるので、ついたくさんの有機肥料を使ってしまいます。その方が早く大きく、立派な野菜になるからです。そこを辛抱強く自然のなす力に任せていくと、土は自ずと自然の生態系の営みの中で、なるべきものになっていくのです。それはまるで、子供にとって夢中になれる遊びの環境のようです。本当に健康で安全な野菜や果物などの農産物が「いい土」から育つように、子どもの発達を促す遊びも、「いい環境」から生み出されます。

自然栽培を成り立たせている自然の力を考えていると、数年前に観たドキュメンタリー映画「ビッグ・リトル・ファーム」を思い出しました。自然の持っている生態系の力を、とても美しく描いた物語です。こんなエコシステムの中に「子どもの領分」があるとしたら、私たちは「子どもの環境」について、もっと学び直す必要があると思えてきます。

都市を歩きながら国葬の意味を考える

2022/09/25

台風17号が過ぎ去って青空が広がった25日の日曜日。午前中は、オンラインでダンスを楽しもう!のイベントが開かれて、職員の親子も参加してくれました。ダンサーのいづみさんが出演しています。私は家族との用事で別のことをしていたのですが、晴れた空の下で都内を歩きました。

東京は、地上を歩いてみると区内も意外と起伏に富んでいて、多く残っている江戸時代以降の地図と重ね合わせながら、大名屋敷の名残を見つけたり、その当時のわらべ遊びを想像したりして、庶民の暮らしを思い描きます。そのような光景を思い浮かべてみると、これからの持続可能性を探るヒントになります。日本が近代に入る前の時代の生き方に、いろんな知恵を学ぶことができるからです。

週が明けると「国葬」が開かれますが、国を挙げて誰かを弔うという行為は、まさしく近代国家が国民を統べるために編み出したものなので、必ず国旗を掲げた武装した軍隊がその主に敬礼をします。軍が介在しない国家の歴史はないところに、政権が決定する国葬の特色が滲み出てしまいます。一方で、日本の場合の朝廷の権威は、別のところに根拠を置くので宗教の歴史が精神的な背景を支えた習わしになります。国家の重みと集合性は、こちらの方にあるのかもしれません。

いずれにしても、庶民の歴史と近代国家を必要としてきた歴史の両方を学ぶことが、これからの社会を生きていくための道標としては不可欠なものになります。都市を歩くと、それを伝えてくれる展示物や博物館や建物が色々ありますね。

正しい道があるという感覚に頼りながら

2022/09/24

私は何につけても基本的に、現代の近視眼的な対処の仕方について、根本的な懐疑を持っています。本質的なことを棚上げして、しょうがないから、現実的な対応を繰り返して生きていくことが、現代の病理的な様相を作り出しているように思えて仕方がありません。どうしてそうなってしまうんだろうと考えると、変えようと思うことを、早々と断念することが賢明だと思い込まされているからかもしれませ。できない可能性が高いので、挑戦することすらしない、ということに近いのでしょうか。確かに人生は不可解、とわかっていても、その不条理を受け入れてしまった方が、なんとかなる人生だからなのでしょうか。なんとかなっていると思っているうちに、なんともならなくなるかもしれないことを、切実なものとして予想する力が、私たちに乏しいからでしょうか。

何の話かというと、人生における「根拠なき直感の優位性」という話です。科学はエビデンスを求めてきます。物事の根拠です。確かな理由です。誰もが納得する答えや証明です。でもそれが提示できないものは多くて、保育の質もその一つかもしれません。なかなかエビデンスを示せないことが多い。でも実践している当事者には、経験的にも直感的にも、こっちがいいだろうという判断が働いているものです。その判断に至るプロセスにある「落とし穴」には気をつけながらも、それでいい、と思えるものが確かにあるものです。

仕組みがよくわかっていないものの最たるものは、人間です。肉体も精神も霊魂も、宇宙の中でどうやって誕生したのかも、どこへ向かっているのかも、そもそも自分の生体の仕組みさえ、よくわかっていない、だから、健康であることや発達すること、感染症から守ること、そのほかコロナのことやワクチンのこと、自然食のことや地球環境のことまで、人間が考えてデザインして作り出している生産物のあれもこれも、今後どうなっていくのか不透明です。

では、確かな地点を確保することができないのか、というとそうでもありません。確かなものはあります。それはこうのように考えていること、それ自体は疑いえない自明性を持つと思うからです。こうやって時の刻まれていく流れの中にあって思考していること自体を、全くの幻想と退けることはできそうもないからです。この確かにあるという存在の手応えさえも、幻想でしかないとしてしまったら、きっと私たちのたどり着いた意味さえも、不可視の中に胡散霧消してしまうからです。ここから、一歩ずつ積み上げていくことが、私たちの直感が正しいと感じる生きる道だと思います。

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