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園長の日記

お泊まりで深まる世界と自分とおともだち

2022/07/16

「ぼく、寝てたから(お泊まり会って)わかんなかったんだよ」。

朝起き抜けの、子どものことば。

「そうだよね、すぐ寝ちゃったし、ねちゃったら、わかんないよね」

「うん。でも、また、お泊まりしたい」

・・お泊まり会二日目の朝は、こうやって始まりました。

そうなんですよね、お泊まり会の最大の活動は園で寝ることなんだけど、その寝ていることこそ、よく覚えていない。起きて初めて「あ、保育園だ、あ、お友達がいる、あ、そうだった・お泊まりしてたんだ・・」という、感じなんですよね。

そして寝る前の記憶としての昨日と、目の前の今の現実の今が繋がって「ああ、お泊まり会だったあ〜」と、なったんでしょうね。そして、すでにバッチリ起きている子は、寝ぼけ眼の子のまえを「はやく買い物、行きた〜い」と、早くもぐるぐると走り回っていました。

さて、今みんな顔を洗って、パジャマから着替えて、今日もやる気満々です。「ねえ、園長先生、お迎え来るんでしょ? これから」。パパやママに会える、という期待や安心感の気持ちもあるし、「まだ、帰りたくな〜い」とネット遊びをしている子もいるし、やりたいこと、叶えたいことがいっぱいあって、一度にあれもこれもできないことから気持ちが爆発してしまうことも度々です。これが子どもらしさの一つでしょうね。つい大人は「じゃあ、どっちなのよ」と言いたくなること、ありますよね。でもどっちも本心なんですよね。

今年はお膝元の山崎バンとの連携を深める計画なのですが、その第一弾が今朝のお買い物です。朝食用のパンをデイリーヤマザキへ行って、買ってきました。同店は本社が直接運営している直営店で、今日の活動は本社にも伝えてあります。この機会に、私も同社の作っているパンの人気ランキングやおすすめの食べ方などを調べました。最近もテレビで社員オススメのパンランキング、ベスト10というのをやっていたので録画しました。

今朝は、テレビで紹介されていたような、袋にパッケージ化された商品ではなく、お店のなかで作っている自家製の焼き立てのパンの中らから、一人二つずつ選びました。最も人気だったのは「はちみつパン」。チーズ味のクロワッサンやトーストに目玉焼きが乗ったパン、ねり餡に生クリームも入った「神田」印のあんパンも選ばれていました。

親御さんとの対面式では、一人ずつに「楽しかったこと」をインタビューしました。表彰状やメダル、アイロンビーズの作品を一人ずつにお渡しして、お泊まり会はおしまいです。最後に10分ほどにまとめた動画を親子で見ていただきました。

たった一泊二日のお泊まり会ではありますが、一生忘れられない思い出になったことと思います。新しいことを体験するたびに、そのことを知っていくことになるのですが、同時にお友達はどうだったか、そして自分はどうか、ということも知っていきます。お友達と自分との違い、自分がどうであるか、それは物事を選ぶときに、自問自答しながら、自分自身との対話が生まれているのです。内言が豊かに心の中で響いていて、それがいろんな表現、100の言葉になっていきます。

例えば初めて手持ち花火をしたKAさんは、「◯◯○(自分の名前)、花火好き。初めてやったけど、好き」と言っています。この言葉の中に、花火のことはもちろん、それに対して自分はどう思っているのか、お友達どうだったのかも含まれています。

「ぼく毎日、お泊まり会がいい」という子もいました。友達の考えや言葉を聞き、<自分はこう思ってるんだけど>と、言う自己認識を深めながら、物事を意欲的に探求しています。こうやって世界を広げ、自分と他者が同時に世界の中に位置づいていきます。この積み重ねを私たちは応援しながら、子どもたちは<自分というもの>を、しっかりとした自我、自分の考えをしっかり持っている自分へと、自ら育てていくのです。

これは普段の保育、毎日の生活の中で大切にしていることですが、今回のお泊まり会でも、そんな仲間意識を育みながら、そして「選択する」「選ぶ」ということを通して、自分と世界と探究していく貴重な体験になったように思います。

 

お泊まり会でのサークルタイム

2022/07/15

「これからの社会、子ども大人も、どうやって生きていったらいいんだろうって、探りやっていったらいいんじゃない」ーー。

映画『こどもかいぎ』の公開に合わせて、小学館が緊急出版した本『子どもが対話する保育「サークルタイム」のすすめ』の中で、汐見稔幸さんが、こんなことを語っています。私もこの本の中でインタビューを受けて、映画のことについて語りました。

サークルタイムと言うのは、輪なって話し合う時間の事ですが、今日の午後1時過ぎ、『お泊まり会』の始まりの会で、私は〈園長からのお話〉の時間をもらったので、そこでちょっとだけ、サークルタイムをしました。テーマはお泊まり会の前日の「昨日はどんなだったか?」です。それを聞いていると、この日をいかに心待ちにしているのかが、よく伝わってきました。

まず思うのは、生まれてまだ5年ぐらいしか経っていないのに、よくも、こんなに自分の気持ちや考えや出来事をしっかり伝えられるようになったなあ、ということです。さらに、気持ちの昂まりが大きくて、楽しいお泊まり会にしたいという意欲に溢れていることに、こちらの胸も熱くなりました。このようは気持ちで過ごす一泊二日は、この子たちにとって濃密な体験になることは間違いないでしょう。

さらに汐見さんではありませんが、どうやって生きていったらいいんだろう、というテーマを実は大人も携えて生きていることを、子どもよりも大人の方が、子どもに教えてもらっている気がしてきます。この子たちが、こうやって自ら育とうとしてくれているからこそ、わたしたちも生かされているという感覚を強くするものです。

また、このお泊まり会では、きっと年長同士の絆も強まることでしょう。色水遊びをしたり、アイロンビースで好きなものを作ったり、好きな絵本を先生に読んでもらったり、アイスを作って凍らせてもらったり、ピーラーや包丁を使ったクッキングを楽しんだり、手で捏ねて自分の好きな形のハンバーグを焼いてもらったり、お風呂に入ってさっぱり汗を流し、手持ち花火も楽しみました。それぞれの活動のたびに、いろんな関わりが起きています。そして夜9時10分にはみんなぐっすりと夢の中でした。

その間に、何度か話し合いも自然と生まれました。私が立ち会った場面では、どのグループが先にクッキングを始めるかで、意見が食い違いました。まとめ役のTKさんがみんなの意見を聞きに回ってくれたのですが、それだけではまとまらないで困った様子だったのです。ところが、どういうわけか、最初がいい、と言っていた子が最後でいいといい、すんなりの先生提案の案と同じ順番に決まったりしていました。

同じ結果であっても、この話し合いの時間があるのとないのでは、全く異なるものだということがわかります。自分の考えや相手の考えを並べて考えるという力が、少しずつ育っていることを感じました。一旦意見を出し合って、全体の状況を理解して、自分の考えを修正する、ということができるようになってきているのです。なんと素晴らしいことでしょう。相手の自分の考えが違うことに気づく、ということは、自分と他者と世界が串刺しになっていく(汐見)ことであり、それが発達だということだからです。

今日のお泊まり会は、雨になって午前中に予定していた神田川の乗船探検は取りやめ、スカッと晴れた日にやることにしました。毎日の生活リズムが整ってきているのか、8時過ぎから眠そうな雰囲気になっていて、9時ごろにはみんな寝ています。明日は、朝から買い物散歩に出掛ける予定です。

映画でひろがる共感の輪

2022/07/14

7月22日に「シネスイッチ銀座」で公開される映画「こどもかいぎ」は、ドキュメンタリー映画です。その最終版のチラシが届いたので玄関に掲示しました。ご自由にお持ちください。

この映画は東京の保育園が舞台です。予告編のトレーラーを見ていただくと分かるように、多くの著名人がこの映画を推薦しています。実は、こんなに多くの方がコメントを寄せてもらえるとは、思っていませんでした。そして、この映画をこんなふうに観て、こんなふうな感想を持たれているということに、私はとても喜んでいます。多くの人に見てもらいたいと思う映画になっています。園名は伏せてあるのですが、出演する先生が3人紹介されています。

私はこんな推薦コメントを書きました。

「大人がすっかり忘れている「子ども社会」を思い出してくれます。これを観た方が「あ、子どもってこんな風に、はみ出していたり、必死だったり、でこぼこだったりしてたよなあ」みたいな気づきあると嬉しい。子どもの心の響き合わせ方って、美しい。よく「子どもから学ぶ」って言われることがありますが、楽しくそれを本当に実感できる物語です。民主主義社会のお勉強にもどうぞ。」

ずいぶん前に書いたコメントですが、今でもこのように推薦したいと思っています。他の著名な方々のコメントも興味深いので、ぜひご覧ください。

関係の中で育つ個人と公人

2022/07/13

子どもたちが見せてくれる姿は、ちょうどその発達にあった「人との関わり」を伝えてくれています。0歳児クラスのちっち組、1歳児クラスのぐんぐん組、2歳児クラスのにこにこ組と、まるで「子ども同士の関わりは、このように発達していくのです」という説明になっているかのように、その「発達の連続性」が描かれています。

私たちの保育で大事にしていることは、「その子らしさ」と「人間関係」なのですが、そのことを保育目標として「自分らしく、・・思いやりのある子ども」と表現しています。この二つのことは、小学校以降でも大事にしようと、国がめざしている「個別最適な学び」と「協働的な学び」と重なっています。

一人ひとりが、その子らしく生きていることと、他者との中で市民の一員としてその力を身につけていくことは、私たちが持っているそもそもの人権であり、権利なのですが、日本ではその二つのことが教育制度の中に、あまり明確に位置付けられていませんでした。しかし、2016年の教育機会確保法が成立していく頃の議論から、フリースクールや家庭学習の子どもたちの教育機会を学校での学びと同様に保障していこうという動きが明確になってきました。それは「自分らしく学ぶ」という方向性を、国も大切にしようとしている表れです。

言い換えると、その子が世界が広かっていくことは、どの子どもにも保障していくことなので、その世界の中で多様な個性が共生していく方法を学ぶことが市民性です。個人が公人になっていく、と言ってもいいでしょう。でも、ここで間違ってはいけない理念の岐路(別れ道)があります。公人が向かうのは個人の尊厳と自由を尊重する方法で、国を超えた地球市民としてなのか、それとも国家の形成者としての市民性に留まる方法でなのか、という別れ道です。

その岐路は、ずっと遠いところにあるのではありません。身近なところで私たちが行っている「人との関わり」の中で起きていることです。子どもはとにかく多様です。個性的です。私は入園案内の時に、「大切にしていることが3つあります」と言って、この理念の説明をしています。みなさん、お聞きになったことがありますよね。「まず大事にしていることは、子どもは一人ずつ違う、その違いを大切にしています」と。月齢、年齢、男女差、個性、興味関心、生活リズムなど、とにかく色々です。そんな子どもたちと家族が、共に生活を作り上げていく場所である保育園は、一人ずつが大切にされなければなりません、と。

そして、意欲と環境の選択制の関係をお伝えして、3番目に社会性、つまりしつけやコミュニケーション、協同性の話をしてきました。自分らしさと、思いやり、というキーワードがそれらを象徴しているという話です。この発達の姿がクラスの子どもたちの様子を並べて読んでいただけると、わかっていただけるのではないかと思います。小学校へのつながりは、連続性や連携というテーマが中心であり、この子ども一人ひとりの発達を、その子ならではの歩みの道筋の中で保障していくことでなければなりません。

 

 

新型コロナ第7波に要警戒

2022/07/12

4か月ぶりに全国で7万人、東京で1万人をこえる新規感染者が発生した今日12日(火)、そのグラフを見ると急激に増えていることがわかります。国は行動規制に乗り出さない方針のようですが、それもどうなるか分からない状況になってしまいました。変異したオミクロン株の感染力が強いようなので警戒が必要です。今のところ、今週末のお泊まり会、月末の納涼会の実施には変更はありませんが、感染対策を徹底しながら保育を進めていきます。ご協力をよろしくお願いします。

どう生きるか?世界を広げるという意味は?

2022/07/11

選挙が終わりました。今週は、また梅雨に逆戻りしたような、ジメジメした雨模様の天気が続くそうです。

2階のテラスや屋上で水遊びをしたり、3階の幼児では部屋の模様替えをしたり、協力ゲームを楽しんだりと、それぞれの子どもたちが「新しいこと」に出会って、自分にとっての世界を「広げて」います。

 

私たち人間は、植物や動物のように、一生の間に本能で決められた世界に閉じ込められておらず、自分自身の力で、自分が生きる世界を「広げる」ことができる存在です。このことは、あまり意識しないで生活しているのですが、私たちは現状をそのままにしないで、絶えず、変えていこうとしているように見えます。

 

そこに発展や向上や幸せがあるのと同時に、争いやリスクや不確かさも生まれます。人間のやっていることは、本当に・・・大変?だけど、まんざらでもない?・・・ここの受け止め方は人ぞれぞれですね。

それぞれの違いが際立つ世界に住んでいることを実感します。それは国も地域も家族も個人も、それぞれ「違う」ことが当たり前になっているのですが、それがバラバラのままでは困ることも多くて、「人と関わる力」がもっと必要だと思います。

それは選挙結果を見ても、人を銃で殺す人の動機に触れても、民族と国家の線引きのために他者を抹殺して構わないと考える大統領の言葉を聞いても、何のための「それぞれ」だったんだろうと、訝しく感じます。

今日11日に、大学で学生さんたちに講義をした後の感想にこんな記述がありました。

「助け合うために自立する、という言葉が印象に残りました。自立するというと、自分一人で生きていけるようになる、自分で考え、自分で決定するというようなことを私は思い浮かべてしまいます。自分一人では生きていくことができないということは理解していたが、保育は一人で生きていく能力を育てるために行うことであると思ってしまっていました。しかし今回の授業で、助け合うために支えあうために自立しなければならないという話を聞いて、自分が自立しているから、他の人を助け、支えることができるようになるではないかと感じました。そして、その自立を支えるのが保育者の役割であり、どのようにしたらよいのか、考え続け、環境を作っていくことが大切なのではないかと思いました」

世界を広げることは、自分の生き方と繋がっています。保育のねらいに子どもの姿を「人間関係」から捉える視点があるのですが、そのねらいには、こう書いてあるのです。

「他の人々と親しみ、支え合って生活するために、自立心を育て、人と関わる力を養う」。

人は支え合って生活するために、自立するのです。人間の場合、世界が広がるというのは、協力して支えあう生活を作り上げることなのです。

「一日保育士デイ」説明会 7月21日(木曜日)

2022/07/09

9月10日(土)に開く予定の「一日保育士デイ」の説明会を開きます。

◆「一日保育士デイ」説明会

7月21日(木曜日)

5時30分から6時30分の1時間。

場所は保育園の2階です。

□ 9月10日の内容と、それまでに何をするのかを説明します。

この説明会を聞いてから、一日保育士デイに参加するかどうかをご判断ください。

 

** せいがの森こども園時代の経験者のお父さんにも参加いただく予定です。

 

◆リモートでの参加も大歓迎です。

URLは「コドモン」あるいはホームページの「お知らせ」からどうぞ。

多くの方の参加をお待ちしています。

参加される方は、保育園への参加か、リモートでの参加か、コドモンでご返事ください。

納涼会の準備の最中に「テロ」ニュース

2022/07/08

子育てをしていると、自分の子どもや他人の子どもなど、本来は愛している存在に対して、なぜか素直に受け止めがたい時があるものです。愛するがゆえに、生まれてしまう矛盾はなぜ起きるのでしょう。理由がわかれば対策も講じやすくなるはずです。私たち法人の保育理念は「共生と貢献」という言葉で表しているのですが、どんなに考え方や生き方が違っていても、このかけがえのない地球の上で、ともに助け合って暮らしていく方法を作り出さなければなりません。この対策や方法として、着目しなければならないのは、思想や信条の違いなどの動機に目をやることも大切ですが、まず考えなければならないのは、人間関係のあり方です。

今日は夕方、お迎えの時間に、保護者の方が納涼会で使う縁日の風車の部品づくりを、手伝ってくださいました。その最中に安倍元首相が撃たれて亡くなったという衝撃のニュースが飛び込んできました。過去の政治テロを見ても、秋葉原通り魔事件にしても、犯人は人間関係が極めて薄く、思い込みの激しいパーソナリティという特徴があって、何かの行動に移す前に自分の考えや思いを他者と交わし合い、自分を見つめ直すというプロセスが飛んでしまっています。この他者がどう感じているか、自分の考えは偏っているのではないか、そうした振り返りのスキルは、非認知的な力として、極めて重要なものだということを、改めて考えてしまいました。

前の保育園で地域の方々と交流を始めた時、園だよりに「地域をつくる人々」という連載をしたことがあります。その時に、省我会の理事を長い間務めていただいた大妻女子大学の教授で、多摩ニュータウン学会を立ち上げた社会学者の先生に、エッセイを書いていただきました。その内容は「ヤマアラシのジレンマ」を紹介されたものでした。ドイツの哲学者ショーペンハウエルが書いた寓話です。それを精神分析家のフロイトが引用して有名になったと言われています。

私はそれを読んで、初めてこのジレンマを知ったのですが、その内容は、こんなものです。「やまあらしの一群が、冷たい冬のある日、おたがいの体温で凍えることをふせぐために、ぴったりくっつきあった。だが、まもなくおたがいに棘の痛いのが感じられて、また分かれた。温まる必要から、また寄りそうと、第二の禍がくりかえされるのだった。」

ヤマアラシのように、私たちもニューマン・コンタクト(人間的接触)を求める存在です。親しみがますと、精神的に近づきたいという衝動を持ちます。子どももそうです。表現は拙いものですが、気持ちを通わせようとします。大人も同じで身を寄せ合って暮らそうとします。でも近づき過ぎると互いに傷つけ合ってしまうことが、よくあります。子どもはケンカになったりします。この人間関係の葛藤は、私たちが生きていく上で不可欠な体験です。誰も避けては通れません。

このジレンマの大切な意味は、後半にあります、やまあらしたちは、試行錯誤を経て、傷つけないほどよい距離感を見出して集まるのです。適切な妥協点を見出すのです。それは「お互いに」です。児童生徒や学生の友人との関係、恋人との関係、職場の人間関係、そして親子関係にしても、社会におけるいろいろな人間関係において、見出されるジレンマです。親しいからこそ、言わなくてもいい踏み込んだことを言ってしまったり、言われたりして相手を傷つけてしまったり、自分が傷ついてしまったり・・・。このような人間関係の一つの糸を、誰もが担っているんだという自覚が必要です。

私は中学の時にテニスをしていたのですが、ガットが切れるとその度に自分で張り直していました。その時に張り具合を均一にするように千枚通しで止めながら張ります。中島みゆきではありませんが、人間関係も縦と横の糸が張り巡らせることが人生であるように、またニュージーランドの保育理念が織物に例えられているように、一本だけが張り詰めていたり、緩すぎたりすると、テニスのラケットや人生や保育のチームワークは、バランスを崩してしまうものです。

子どもが歩んでいく道には、いろいろな人々との出会いが待っています。その一人ひとりとの出会い方、距離の取り方、くっついたり離れたりする作法を、大人になっても学び続けることが必要です。その作法も一人ずつ異なるので、おおらかにお互いを尊重し合う姿勢が、私たちの共生には不可欠なんだろうと思います。

自己満足なおふざけは、共感されない笑い

2022/07/07

子どもたちが笑顔になるように・・・。いろんなことが、子どもの笑顔に結びつくと、私たちは幸せな気持ちになります。子どもの笑顔というのは、幸せや平和のシンボルです。この場合の笑顔は、喜びに直結しています。喜びとは、嬉しいこと、楽しいこと、美しいこと、良いことなどに接したこときに、私たちが覚える感情です。

心地よいという「快」感情は、動物も持っているわけですが、その時に笑顔と連想していることに、例外はないように思えます。ところが、その心地よい感情の中に、おかしみや面白みが混ざってくると、笑いが生じてきます。このラーフターの「笑い」は、スマイルの「笑み」とは、違います。日本語では、同じ漢字を当てるので、あまり区別がされないのですが、新生児の赤ちゃんでも「笑み」を示しますが、笑うのではありません。

「笑い」は、意味のある言葉を獲得してからの発達的な特徴のように思えます。私は認識的な喜びのくしゃみ、のように思えます。あはは、と声を出す時、「あ」や「は」は、母音の基底をなす音であり、太陽が地平線を登ってくるときに感じる、明るい開けゆく感情を伴います。

その破裂音が笑い声です。アッハハ、という音の並びが、幸せの感情の痙攣になっているのです。そうすると、子どもの笑い声は、最も素朴な幸せの自発的な発露ということにならないでしょうか? それは、きっと周りの大人からも共感される感情を伴っていて、子どもの笑顔や笑い声は、大人をほっとさせ、幸せにさせるのでしょう。

一方で、似て非なるものとしての「おふざけ」に見えてくる時、そこには認め難いものが見出されますから、決して誉められたものではなく、共感されません。自分だけが面白いと感じている自己満足な、面白さなので、その行動は「おふざけ」と呼ばれることになります。同じおかしみや面白みが笑いになっても、周囲から共感が得られないと、自己満足な喜びとして、受け入れられないものになってしまうのです。

子どものおふざけの意味

2022/07/06

人間について研究している分野はいろいろありますが、人の「お笑い」がどのように発達していくのかについて、研究したものは見たことがないので、私はいつか論文にしてみたいと考えています。

大人の世界を見渡すと、これだけ多くの「お笑い芸人」が切磋琢磨している時代は、日本の歴史には、過去ないはずです。お笑いを楽しむ人たちがたくさんいるから仕事としても成り立っているわけですが、人間が生み出す表象文化の中で、人を「笑わせること」が仕事になる社会というものも、面白いことです。不要不急の最たるもの、そう思えるようなものが、実は最も求められているものかもしれないと言うパラドックス。お笑い大盛況の社会が、子どもに影響ないはずがありません。

今日は子どもが「笑い出したら止まらない」という経験をしました。午後4時から5時までの1時間、年長のすいすい組の子どもたちと絵本を読んでいたら、いわゆる「おふざけ」が始まり、調子に乗ってしまった数人の子どもたちの歯止めが効かなくなりました。そうなったら何を言ってもダメ。こちらの制止が、あるでボケ役になっているみたいで、どんどん、突っ込まれてしまいます。なかなか絵本のお話に戻れません。

こんな時、大人はつい「いい加減、ふざけないで、ちゃんとお話を聞いて!」みたいな気持ちになりがちなのですが、これほど根強い、子どもの可笑しさへのハマり具合を目の当たりにされると、いろいろなことを考えてしまいました。

まず、この欲求は、子どもたちにとって精神衛生上、不可欠なものだろう、と思えます。これを抑え込むと、ろくなことはないだろう、ということがまずあります。私の保育経験上、子どもが繰り返しやりたがることには「必ず」発達に必要な意味があります。どうして、そんなことするの?(いうの?)という、大人には不可解な出来事があったら(「いやいや」もそう)、それには発達のために必要な何かがあるんだ、と思ってください。私たちが、それはこんな意味があるんだ、ということを理解できていないだけで、必ず意味があります。

おふざけの場合はこうなります。ここで文字にするのは、ちょっと憚れるのですが、ウン◯という言葉が大好きで、それが、ああなった、こうなったというだけで、ゲラゲラと笑いが止まりません。品のない言葉を繰り返すのは、やめてほしい、先生は嫌な気持ちになるよ、ということは伝えているのですが、そんなことでは収まりません。我慢できるか、できないかは、そこは子どもによって個人差もあるのですが、それでも、この「おかしみ」を楽しむ心理というものは、健康上、何か必要な体験のように見えて仕方がありません。

この屈託のないゲラゲラ笑いは、子どもにとっては「あり」だと思います。というのも、同じことを大人もやっているのです。落語、漫画、アニメ、バラエティ、漫才、コント、ボケ、トークショー、お笑い番組・・・番組の司会やMCはお笑い出身者ばかりです。SNSやマスコミでたくさんのエンタメを消費しているのは、私たち大人の方であって、このエンタメ性へのニーズは、子どもの時から持っているのでしょう。ただ、子どもは、お笑いのバリエーションを持っていないので「おふざけ」一辺倒になるのかもしれません。

そう考えると、1日の中に、お笑いにハマる時間があることは、精神衛生上も好ましいのではないでしょうか。ただ、それが昂じて、危険な遊びや行動に脱線しないようにしないといけません。人にパンチを繰り出したり、机の上に乗ってみたり、不適応行動につながる場合は、即刻、制止します。超えてはならない一線があることも、学んでもらう必要性があるからです。

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