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園長の日記

新型コロナ感染症対策へのご協力、感謝申し上げます

2022/06/06

本日は多くの方に登園を控えてくださり、ありがとうございました。園の関係者(*)2名が続けて新型コロナウイルス感染症の陽性になったことから、千代田区と相談して今回のような対応を取らせていただきました。新型コロナは変異を繰り返しており、感染力や症状が変化しているそうです。発症した日を起点に考えると、その前の2日間と、その後の7日間が感染しやすいと想定されています。つまり発症した日から2日遡るあたりが感染した日だと想定していますので、もし発症した日あたりから二日間は、症状がでやすい、ということが言えます。そこで今回の場合は、土日を挟んで月火を感染しやすいピークだと想定し、この間に接触を経つことで感染拡大を防ぐ効果が高いと判断しました。今日はお休みいただいたから、新たに新型コロナになったという報告はなく、このまま何もなく推移していくことを願うばかりです。東京都の感染者数が1日1000人程度になってきましたが、まだ感染リスクはあります。子どもたちが集う場である保育が、集団であることからもたらされるメリットは大きのですが、こと感染症となると、どうしても移しやすい、移されやすいという課題があります。どうぞお子さんとご家族のみな様の健康状態を把握していただき、早く安全な保育園生活が戻ってくるように力を合わせていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

 

集団的思考「みんなで育てたい枝豆」からの私の学び

2022/06/05

今週を振り返ってみて私が印象に残っているエピソードは(私に届いているエピソードの中では)、枝豆をみんなで育てたいと先生に言ってきた子どものことです。年長さんらしい「共に」の心が美しい話です。集団でこそ育つものが現代では失われてしまったという強い危惧を抱いて、この仕事の世界に30代で入った私は、それから四半世紀が過ぎても、その状況が好転しているのか停滞しているのか、少しでも改善しているのか、思案することが続いています。

そんな中で、友達のいる保育園の仲間と枝豆を育てたい、分かち合いたいと思う気持ちほど、素敵な育ちはないように思えて仕方がなく、なんだか私が救われたような気になります。ちょっとした「いいな」に気づき、それを伝える勇気を育み、共感の輪を広げていく。そこに彼女の思いが素敵だなと思った次第です。また担任がそれを受け止めて目に見える形にしてくれています。玄関の昭和通り側にあるプランターに、その枝豆の「赤ちゃん」がいます。種を撒いてから数日後、それこそ枝豆のように、ふっくらと頭をもたげて芽を出し、双葉を広げて日差しを浴びようと大きな背伸びをしています。

話は変わりますが、生きている上で大事なものを大事にする順番がこんなに違う。そう思うことが多くて、世の中の常識を疑ってみないといけないことがたくさんあります。ただこれまでそうだった、ということを根拠に物事を判断できない時代が、1980年代以降(ポスト近代)始まっているのですが、突然にロシアが世の中を近代に連れ戻してしまいました。半世紀以上も世界時計が戻ってしまいました。悲劇の絵本の世界に、現実を描いて見せたのではなく、悲劇の絵本がまるで現実になってしまった。うそだろ、を本当にしてしまった。

枝豆の芽を大切に育てたい。その気持ちとウクライナの人々への想い、ロシアでの不幸に巻き込まれてしまった人々の苦悩。この二つが近づくのに決して重ならない。やっぱり数と勝敗と武力で語られる戦争の愚かさ。いいな、こうしてみたい・・・そんな子どもの小さな願いを叶えていくことができる平和な時間が、今ここにあると言いたいのではなく、それこそ井の中の蛙だと自覚しながらも、それを守ることぐらいもやれないなら、目の前の子どもたちのために何がやれるというのでしょう。戦争は動いているように見える世の中で私の心を動かなくさせてしまう。でも枝豆は葉を広げる。

 

集団的思考の結果としての3歳児のあいさつ

2022/06/04

今の時代に保育園に期待されていることは何だろう? いつもそんなことを考えながら保育園の運営をしてきました。育ってほしい資質や能力という、眼差しで子どものことを考えると、昨日もお話ししたように、コミュニケーション能力、集団思考、実行能力という3つのことを、これからのAI時代に必要なものだと、藤森統括園長は考えています(5月13日ブロク)。

(1)「対話する能力」コミュニケーション能力

(2)「他と協力する能力」コラボレーション力・集団的思考

(3)「実行機能」自己調節能力

このことは家庭や地域ではあまりできないけれども、保育園だからこそできるものということでもあります。家庭のしつけだけでは、子ども同士の刺激やモデル、模倣、集団力などで育つ力が発揮できません。多様な人間関係があって初めて、さまざまな<児童文化の世界>が成り立っているからです。

わらべうた、絵本、素話、紙芝居、人形劇、子ども同士のごっこ遊び、鬼ごっこ・・・このような児童文化財の質の選択には、学識経験者や研究者たちによる知見が生きています。それが私たちの仕事の質を支えていると言ってもいいでしょう。

その児童文化の中に入っていって、コニュニケーションをはかりながら、そこに展開されている子どもたちの体験は一人ひとりのことでだけではなく、人と人の関係の中にあります。それがコニュニケーションが発生し、集団的思考が働いたりしています。

集団的思考というのは、当事者にとってはどんなことなのか、私の体験から説明します。子どもの側にもそれと似たようなことが起きているんだと想像してみてください。この体験は家庭でも起きているのですが、保育園の集団の中でしか起きないものがたくさんあるということを想像していただきたいのです。

その具体的な出来事を、昨日の「園長ライオン」の終わりに私は体験しました。わいわい組のKRくんが、お母さんがお迎えに来たので自分で遊びをお終いにして(運動遊びのときは裸足なので)靴下を履き、上履きを履いて、鞄を持って私のところにわざわざやってきて、私の目をしっかり見て「せんせい、ばいばい」と挨拶して行ったのです。

その「せんせい、ばいばい」の中には、“たのしかったよ、またやろうね”がはっきりと含まれていました。あの表情は忘れられません。まるで映画のシーンのように、彼の目が焼き付いています。その瞬間の表情をよ〜く吟味したいので、映画作品などで、その瞬間を止めて、しばらく数秒間そのままにするという手法がありますよね、あれを思い浮かべてください。(例えば、ちょっと古いですが映画「つぐみ」(吉本ばなな原作)の片瀬里穂が黙って真田広之のことばを聞いている時の表情のようでした)

この挨拶こそ、挨拶の本質だな、と思いました。自分から自分のうれしい気持ちを伝えたくなって伝えに来てくれたのです。二語文ですが、多義的な、というよりも、自分が体験した時間は充実していたよ、うれしかったという気持ちを分かち合いたかったのだと思えます。学生には精神間機能から精神内機能へ(ヴィゴツキー)の事例として説明することもできるでしょう。社会的な知性というものは、人と人の精神の間にあるものを、個人の内面に「略奪」して獲得していくんだ、という意味です。

確かに心の中で起きていることは見えません。誰にもわからないものです。しかし、KRくんと私の間には、確かに通わせたいものが同時にそこに発生したとしか言いようがないのであって、その豊かな<表象>をもっと正確に再現させるとしたら、それはいろんな表現方法があるんでしょうが、3歳の彼には「せんせい、ばいばい」という言葉に代用させたのです。体験からえた感覚が表象となり、それが言葉に結実した瞬間がそこにはありました。

保育園に期待されていること

2022/06/03

園生活の中にあって、家庭生活の中にないものがたくさんあります。特に私たちが意識しているのは子ども同士の関わり、子ども文化の継承ということです。会話だけではなく、言葉にならないものも含めて、あるいは言葉以前のことばを含めて、コミュニケーションの力を育てることを大事にしています。歌や音楽、運動、ダンスなど体を使う表現活動は、自分と世界、自分と他者を繋いでいく大切な自己表現です。考えや気持ちを伝え合う、伝わりあっているという体験が喜びになっていくように、子ども同士の文化を豊かにしたいと思っています。

また人と人が力を合わせること、協力することは人の人たるゆえんとも言われていることです。ホモ・サピエンスが氷河期を乗り越えることができたのは、その何かの目的に向かって協働することや考えること(集団思考)が長けていたからだそうです。子どもの育ちというのは、人類の系統発生的なプロセス(進化の過程)を再現している面もあります。ですから、人との関わりという、そうした体験を積み重ねることで、子どもたちは自分らしい自己決定ができるようになっていきます。やりたいことと期待されていることのジレンマを乗り越えていきながら、実行機能を育むようにしています。

今日は久しぶりに夕方2時間、4時から6時まで3階の運動ゾーンで「園長ライオン」を3セット行いました。3歳のわいわいから始まって、4歳のらんらん、5歳のすいすいと20〜30分ずつやったのですが、発達の段階がよくわかると同時に、この3年間の変化を比べると、明らかに今の方が身体能力が全体的に向上しています。ネットに登っている子どもたちは700万年以上前から使ってきた身体を使っています。脳幹の部分を刺激しています。またライオンから食べられないように逃げる動物を演じているごっこ遊びですから、そこに蘇る感情は恐れと安堵という、とても原初的な情動です。かくれんぼのドキドキ感、スリル感が楽しそうです。そしてこの遊びの中には、ライオンを騙して仲間を助けようとする姿が見られます。こんな群れ遊びは家庭や地域にはありません。

現代は子育てが家庭だけでは難しい時代になりました。第一次産業から第二次産業へ移行する過程で「職住の分離」と「都市化」「核家族化」が進み、住んでいる家の近くで働きながら子育てができる環境がなくなりました。それは現代では当たり前の姿かもしれませんが、実は人間は何百万年もの間続いた狩猟採集社会にできた「脳」と「身体」のままであり、現代のような急激な環境変化に適応できていません。その悪条件の中で、子どもたちに取り戻さなければならない体験を、保育園は創り出していく必要に迫られています。

保育参観について

2022/06/02

6月には保育参観があります。そこで、少し見学や参観や保育体験について考えてみたいと思います。まず、この時期の保育参観は、新年度から2ヶ月が経ち、入園や進級した子どもたちが園生活をどのように過ごしているのか、どのように慣れてきているか、などが見てみてください。秋にももう一度あります。とは言っても、保育参観はこの時期に限らず、いつでもできますので、ご希望があれば担任にご相談ください。

保育参観はベランダなど、ちょっと離れた場所から見てもらうので、だいたいこんな様子なんだなあ、という程度しかわからないかもしれません。遠くからの印象という感じになるかもしれません。それでも、楽しく遊んでいるな、とか、おやつやお昼ご飯も美味しそうに食べているな、とかがわかると思います。時間帯を選んでご覧になってみてください。

保育園では、家ではあまりやらないことがたくさんがあります。園だより6月号の巻頭言では、その活動が色々あることをお伝えしました(5月30日)。これは毎日のルーティーンのことなので、クラスのブログや日誌でも、取り上げることさえあまりないのですが、その一つ一つに、とっても大事な体験がギューっと詰まっています。

例えば、今日6月2日(木)のちっち・ぐんぐんの生活を覗いてみます。すると子どもたちが毎日の生活の時間の流れの中で、それぞれが「自分」というものを発揮していく姿があります。先生に「あれ!」と求めたり、先生が「これな〜に?」と聞いたり、「今日は、どの絵本にしようかな。これにしたいと思うけど、どう?やる?」と話しかけたり、じゃあ、お歌うたおうか・・・♪でんでんむしむし かたつむり〜 と歌をうたったり、先生がつくった電車の写真が「ガタン ゴトン ガタン ゴトン」と、子どもたちの周りをぐる〜っと回ったり・・なにげないように見える生活のシーンなのですが、そこには計画された体験のつらなりがあります。

参観の日に、外遊びとして散歩に行ったり、公園で遊んだりする日になることもありますが、一緒について行ってみてください。小さいうちは見つからないように、少しあとを追っていくといいでしょう。

もっと詳しく知りたいときは、ぜひ「保育体験」をなさってみてください。パパ先生、ママ先生になっていただき、半日子どものいるクラスで保育補助を体験しながら、お子さんの生活の様子をご覧いただけます。この2年間はコロナ禍でできませんでしたが、令和元年度に参加された方は「とてもよかった、どんなふうに過ごしているのか、よくわかりました」という感想をいただいています。「今日はママじゃなくて先生だよ」ということを理解して、子どもなりに先生なんだ、という感覚で接するので、それが理解できるぐんぐん組後半くらいからなら保育体験もありだと思いますので、お勧めします。

今日のクラス日誌から・・

2022/06/01

今日から6月です。新しい月が始まりました。そこで今日は先生たちが毎日書いているクラス日誌を紹介します。そこには、子どもたちの成長の様子が記録されているのですが、その成長を喜んでいる先生たちの書き振りを見て、私は嬉しくなってしまいます。例えば・・

ちっち組

・・・身体測定後、高月の2名は屋上へ。◯ちゃんは、朝から機嫌があまり良くなかったのでもあったので、ゆっくり関わってから屋上へ行って気分転換した。低月は、友だちへの興味が出てきたのか、近づいていってお互いに顔を触ってみるような姿が増えてきた。・・

ぐんぐん

・・・身体測定では自ら洋服を脱ぎ始め測定しようと意欲的な子どもが多くいた。以前まで拒む子もいたが、今日は友達の姿を見たり大人と話をすることで、自ら測定器に乗り測っていた。子どもたちが自分からやろうとする気持ちになることで楽しく行動できていたので、遊びだけでなく身体測定など自ら行動できるような工夫をしていきたい。・・

にこにこ

・・・ぐんぐん組と一緒に屋上で遊ぶ。わらすさんが育てているスイカにアリが沢山集まっているのを見つけて、観察していた。他の野菜よりもスイカの方にたくさん集まって来ていたので、「甘い匂いがするのかな?」と葉っぱの匂いを嗅いでみる。◯◯ちゃんが「何もにおわな~い。葉っぱの匂いだけする~」と話していた。それからしばらくアリの観察が続いていた。・・・

わいらんすい

・・・浜町公園で、鬼ごっこや自然物での遊びを広げていた。ひと遊びの後、すいすい組が集まってミーティングをする。テーマは「この公園をより楽しく遊ぶために必要な物」という内容。 子どもからは虫網が提案され意見が一致。 具体的にどれくらい用意するかを話し合うと「5,10、15・・・」と意見が出て「5本か15本」で割れる。最後は5本用意して遊んでみようと決まった。・・

こんな子どもたちの様子の描写が続き、それに基づくその日の反省・振り返りが記載れていくのですが、そうした計画、実施、評価・反省の保育サイクルを推進していく原動力は何かというと、先生たちの子どもたちへの愛情です。一人ひとりの子どもたちに「こうしてあげたいな」「こうしたらもっと◯◯になっていくかな」という、先生たちの願いが、計画に変わっていくということが、よくわかります。

そして愛情に裏付けられた保育に、その実質を与えるものが、子どもや保育を見ていく力、多面的な視点や重要と思えることを選び出せる判断力です。特に子どもの姿から、心の動きや心情、学んでいる内容、身につけていることは何かなど、発達の意味を理解するには、専門的な知識を得ることが不可欠です。日誌に記録されることは保育全体のほんの一部でしかありませんが、それでも部分の質は全体の質と相関があるのです。

 

子どもにとっての「◯◯の赤ちゃん」

2022/05/31

保育園では幼児が赤ちゃんと触れ合うことができるので、接していると「赤ちゃん」という言葉に、子どもたちの親しみと優しさを感じます。見学に来た方が赤ちゃんを抱えていると、よくそばにやってきて「かわいい〜」と言って、頭を「いい子いい子」と撫でようとしたり、頬をそっと触れたりしようとします。赤ちゃんという存在は、園児たちにとって特別な、大事にしないといけない存在としてあります。

だからでしょうか。「◯◯の赤ちゃん」という言葉は、子どもたちにとって、説得力のあるインパクトを持つようです。それは人間に限らず、動植物に対しても「◯◯の赤ちゃんだよ」と言われると、その「◯◯」は格別の存在であり、特権的に大切にしてあげなければならないという響きさえ感じます。まるで水戸黄門の印籠のようです。

昨年秋、園内に綺麗な鳴き声を響かせてくれたスズムシは、その後卵をうんで、園内で冬を越し、この5月に「赤ちゃん」になりました。お知らせしているように、たくさん生まれたので「ご自宅に持って帰って飼いませんか」というシェア中です。そして一昨日、5月30日(月)の朝、事務所のカウンター棚の上のメダカも卵から「赤ちゃん」になっていました。「メダカが生まれたんだよ」と息を弾ませながら、私に教えてくれる子どもの姿に接すると、なんだか“素敵なことが起きたんだ”、という気持ちが伝わってきます。

メダカは栄養の詰まった袋を抱えて生まれるので、数日間はそのままでも生きていますが、明日あたりから餌が必要になります。金魚などとは、食べられてしまうので一緒には飼えません。別の飼育空間が必要になります。日本では流れのない池やたんぼに生息していますが、だんだんその数は減って、絶滅の危険がある種になっています。それでも、人工的に飼育できる生き物として、夏の涼をを感じさせる日本的な、小さい命ですね。

赤ちゃんにはまだ背ビレも尻ビレもなく尾ビレと一体になっているのですが、1ヶ月もすると、メダカらしい姿になっているでしょう。オスとメスは、お腹の下の方にある尻ビレの形で見分けます。オスは平行四辺形ですが、メスは尾に近いほうがやや細くなっている細長い台形です。流れに逆らって泳ぐ習性があります。昨年、3階の大きな水槽にいたときは、その様子をみることができました。子どもたちは、どんなことに気づき出すのか、楽しみです。

子どもの力が使われて育っていく2つの時間

2022/05/30

(園だより6月号 巻頭言より)

先月は社会情動的スキルに焦点を当てて、見通しを持った生活をしていこうと書きましたが、今月(6月)も引き続き、そうした非認知的能力が存分に発揮できるような生活を創り出していきたいと思います。その時に、私たちが共有しておきたい言葉は、OECDが提唱している社会情動的スキルを表す次のフレーズです。子どもたちに「目標を達成し、他者と協力して効果的に働き、自分の感情をコントロールする能力」【A】をつけてあげたい。このことです。

そもそも、子どもたちはもともと持って生まれてきた力(生得的な力)を使って成長していくところと、体験することで身につけていく(学習する力)ところが組み合わさって成長しています。遊んで、食べて、寝て、それぞれの体験の中で、この二つの力が働いて、その子らしい人格とスキルが形成されていきます。室内で遊んだり、戸外で思いっきり体を動かしたり、いろんな体験が毎日行われていますが、この二つの力がよく働く場面はどんな時なのでしょう?

 

私たちには一日24時間が公平に与えられているのですが、どんな時間の過ごし方をするかによって、それは全く異なったものになります。よりよい過ごし方、というものがあります。それは、次のような大きく2種類の時間に分けることができます。一つは毎日繰り返される同じ流れ、手順の活動の塊です。①登園してから遊び始めるまで②8時30分ごろからのクラスへの移動③ゾーン決め④お片付け⑤お集まり⑥自由遊び⑦散歩のルート⑧昼食の時間⑨絵本の時間⑩お昼寝や休憩・・その後もお着替えやおやつの時間、お帰りの会、などそれぞれの活動のまとまりがあります。生活の活動要素と言ってもいいでしょう。

どれでもいいのですが、例えば⑧の「さあ、お昼ご飯にしようか」ということになれば、遊んでいるものをお終いにして、元あった場所に戻し(お片付けは別の人がまた使えるように元に戻すという活動で、何もなくしてきれいにするということではありません)、手を洗い、配膳の場所へ移動し、順番を待ちながら「あれはこれくらい食べたい」という見通しを考え、量を言ってよそってもらい、好きな場所へトレイを運んで座って待つ・・・このような手順をスクリプトというのですが、この中に、小さな【A】がたくさん詰まっています。言葉も使って知識と技術も身につけていきます。

もう一つの種類の時間は、遊びの時間です。とくに子ども同士が作り出す遊びの中に、子どもの自身の興味や関心から、あるいは心動かされた心情や感覚から、もっとこうしたいという意欲によって作り出されていく創造的な時間です。この中にもたくさんの【A】が起きています。子どもの持って生まれた力は、この2種類の時間を通して、膨大な体験がつながっていき、繰り返し使われる力が豊かに育っていくのです。

勉強会で保育を見る視点を学びあう

2022/05/27

今日は夜に「自主勉強会」を開きました。保育所保育指針幼稚園教育要領が変わってきていることは何かを確認しながら、子どもたちの「心の育ち」にとって必要な体験とはどんなことなのか考えるための「視点」や「考え方」を学びました。

その一つはこんな体験です。子どもが何かをやりたいと思ったとします。そこにはその子の目標があります。それを成し遂げるには一人でできることもあれば、親やお友達に働きかけないとできないこともあるでしょう。教えたり助けたり協力することです。その際にジレンマが起きます。いますぐやるか後でやるか、あるいは自分を優先するか他者を優先するか。目標の達成のために感情を抑えることも必要です。

この体験の中には、目標があり、他者との協力があり、感情の制御が含まれます。この三つの要素は、OECDがいう社会情動的スキルの三要素に他なりません。OECDは「目標を達成し、他者と協力して効果的に働き、自分の感情をコントロールする能力」が、将来の幸せのために、乳幼児期から育みたい力だというのでした。非認知的能力です。お手伝い保育やピーステーブルでの語り合いにも、その典型的な体験をみることができます。

このような体験は保育園の中でいっぱい起きていそうです。きっと家の中でもあるでしょう。子どもが見つけてくる「やりたい」をどうやったら実現させることができるか。それを一緒に考えていく生活は楽しいですね。家族や保育園の先生に働きかけて枝豆を育て始めたり、公園で拾った種から目が出てくるかな?と土に埋めてみたり、スズムシやメダカの成長を観察しながら子どもたちからどんな「こうしたい」が出てくるのかが楽しみです。

今日の勉強会は、このような、保育園の生活ではいつも起きているような活動が、どうしていいことなのかを理解しました。その認識にたどり着くための勉強会になったような気がします。

脳の「感覚→脳→身体→感覚」の回転

2022/05/26

今日はお留守番。よく晴れた今日のような日は、みんな風の子、外へ遊びに出かけます。9時過ぎに、はやばやと園の前に停まっている大型バス。わいらんすい(3〜5歳)の子どもたちは浜町公園まで出かけます。登園してきた子が「今日はどうして早いの」と、すかさず突っ込みが入ります。その子が3階に登って「もう、バスが来てるよ」と子どもたちに伝えます。その時、すでに先生がギターを鳴らし、お片付けの時間になっていて、それぞれの子どもたちが自分なりに「おしまい」のタイミングを探していました。まだ積み木やパズルや制作で遊んでいた子たちも、「そうだ、バス遠足だ」と思い出したのか、お片付けへの切り替えのスピードが早まります。

ところが、私の目の前でパズルで遊んでいた子が、そのまま、しまわずに下へ降りて行こうと、その場を離れたので、私が「あれ、お片付けは? このままでいいの?」と聞くと、びっくりしたことに、そこでは遊んでいなかったKRくんが、戻ってきてお片付けを手伝ってくれました。私は「すごい!Rくん、ありがとう!」と言いました。どんな「思い」でそうしてくれたのかは、わかりません。そのことを担任に伝えたら、先生はお集まりでその子をみんなの前で褒めてあげました。

そして、みんなバスに乗り込み、見送ろうとしたら、ある子が先生と戻ってきました。忘れ物?と聞くと「カタツムリの虫かご、持っていくの忘れて・・」と先生。子どもたちは今、虫などの自然がマイブームなんです。朝から、登園の途中で見つけたというカタツムリが話題になっていました。・・・他のクラスも公園などへ出かけ、午前中の園内はがらんとしていました。その間に、私は藤森先生が代表で立ち上げた「STEM保育研究会」の総会にZOOMで参加していました。

さて、外遊びから、戻ってきた子たちは、何やら手に「獲物」や「宝物」をゲットしてゴキゲンな顔つき。ある女の子はちっちゃな木の実を一粒のせて、私に「これ」と見せてくれました。後で聞いた話によると、浜町公園のじゃぶじゃぶ池の近くで、Mちゃんと一緒に見つけたものらしい。大事そうに手のひらに載せています。でもこれからお昼ご飯なので、さてこれをどうするか? そこで困っていたようなので、とりあえず「ポケットに入れておこうか」と教えてあげました。後でビニール袋に入れて自宅へ持って帰りました。

私からの、園の中からチラチラ見えた、細切れの小さなエピソードです。こんな午前中の活動に、どんな意味があるのでしょうか。おうちの方も気になりますよね。ここからは、私の想像です。実際には見ていませんから。今日のような外遊びや虫探し、植物採集のような遊びと、最近ずっとお伝えしてきた非認知的能力や、「確かな認識」などとの関係はどうなっているんでしょう。今日に限らず、屋形船に乗ったり、花を植えたり、また乳児クラスのブログにあるように、上手にハイハイをしたり、上手にお座りができるようになったり、発達の段階は違っていても、どの子にも共通するものがあります。それは大人も同じですが、乳幼児期にこそ、大事にしたいことです。それは「脳」と「身体」と「環境」の関係を思い出してもらうと、少しわかりやすいかもしれません。

ここは、虫探し名人の養老孟司さんの解説を借りながら、基本を押さえてみましょう。発達に必要な体験を「脳」から眺めてみます。私たちの脳は、外からの刺激を受けて、脳の中で何かが起きて、それを体に返していきます。あ、チョウチョだ、という外部からの情報が脳に入り、そこで「捕まえたい」という処理が起こって、「それ、はしれ!」という指令が、脳から身体へ出されます。そして手足が動き「蝶を追いかけて遊ぶ」ということが発生します。はいはいして移動すると見えてくる景色が変わるので、面白い。お座りして手を自由に使って対象に働きかけると、新しい刺激が脳に入ってきて、舐めてみる、投げてみる・・という行動が起きる。こんな繰り返しを「脳」は、やっています。

養老孟司さんによると、「外界からの情報が感覚を通して脳の中に入ってきますよね。これがインプット。脳の中で計算して、考えて、その結果が肉体の運動として出ていく、これがアウトプットです」。「感覚→脳→身体→感覚、という具合に、情報をぐるぐると回していくことがとても大事なんです」「脳は総合であり、回転なんです」「でも、そういうふうに次々に変化していくものを全部覚えこもうとすれば、脳が壊れちゃうんです。情報量が多すぎる。それでどうするかというと、自分が移動することで違った世界がどんどん現れるけど、その世界は根本的には一つの同じ世界で、違うように見えているだけだというふうに脳がまとめていく、概念にまとめあげていく」・・・

だいたい、おわかりいただけますか。実体験が「確かな認識」に結びついていくプロセスです。概念を「ことば」などの表象の記号の世界に結びつけていく基礎ができます。これを保育では「環境を通して行う保育」と言います。解説書にはこうあります。

「乳幼児期は、生活の中で興味や欲求に基づいて自ら周囲の環境に関わるという直接的な体験を通して、心身が大きく育っていく時期である、子どもは身近な人やものなどのあらゆる環境からの刺激を受け、経験の中で様々なことを感じたり新たな気づきを得たりする。そして、充実感や満足感を味わうことで、好奇心や自分から関わろうとする意欲をもってより主体的に環境に関わるようになる。こうした日々の経験の積み重ねによって、健全な心身が育まれていく」(保育所保育指針解説書15ページ)

ただ、経験で得たイメージを「ことば」だけ置き換えていくことは、いっぱいズレが起きるのですが、ことばで置き換えてしまったからこそ、漏れてしまう情報や気持ちを伝えたり共有するために、音楽などの身体表現が重要になってきます。その話は<発達障がい>の話にも通じるので、またの機会に。

 

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