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園長の日記

2年前には戻れない「気づき」

2022/01/03

ケイト・ラワーズ著『ドーナツ経済』(河出文庫)より

 

明日から仕事始めです。年末年始の大移動が終わりました。年に一度の大きな節目を跨いで、私たちは何をしているのでしょうか。1億2千万人のうち何割が移動したのか知りませんが、移動しなかった人も含めて、私たちはどこへ出かけてどこへ戻ってきたのでしょうか。

 

一体何をしてきたのでしょうか。もちろん、大切な人、場所、家族と過ごした人たちが大勢いたことでしょう。私たちのおこなっているこの表面上の移動や出会いは、いつもの仲間の中での往還です。その裏側に「往還の意味」がきっと見出されるはずなのですが、それは、一人ひとりがこれからもずっと問い続けることになる人生のテーマでもあります。何処かから私たちはやってきて、どこからかへ還っていく。その往還のテーマです。

昨日はコロナ禍の話をしましたが、それはコロナ前とコロナ後の間の往還の物語でもあります。私たちは、2020年の春の始点と2022年の春とでは、もはや同じではないことに気づきました。もう元の世界には戻れません。いろんなことに気づいてしまったからです。

(1)私たちが地球規模の生態系に織り込まれていること。私たちの生活や経済や身体が、あくまでも地球規模の自然の一部であること。ウイルスと私たちは何万年も共生していたこと。それはワクチン接種の副反応でも、よくわかりました。

(2)被害を被った人たちとそうでない人たちの差も明らかになりました。家計への影響です。また大儲けした人と苦境に追い込まれた人の差も明白になりました。市場メカニズムの歪さ。資本主義経済の脆弱さと残酷さ。生活基盤としての公共財の不足。

(3)経済的先進国とそうでない国や地域の人たちとの格差の問題もコロナ以前からある問題。国家としてのグローバル経済のリ・デザインの必要性

(4)「人新世」として引き起こされたコロナ禍。地球規模の危機の序章あるいはリハーサルとしてのコロナ禍。最後のリハーサルかもしれないという見方もあります。

私たちは、こんなことを、くっきりと見てしまった、知ってしまった以上、もう同じ地点には戻れない、そういう意味の往還もあります。戻ることのできない旅立ちだったのかもしれません。

それは私たちの先祖も繰り返してきました。10万年前にアフリカ中央部から旅立ち、地球上に拡散しました。これをグレートジャーニーと言いますが、その間に地球はとても寒い時期があって、私たちはそれを乗り越えて、奇跡的に太陽と地球の熱代謝のバランスがとれている、非常に温かな地質年代「完新世」に恵まれました。この時代は1万2000年ほど続いています。あと5万年ほど続く予定でした。

こんな奇跡的に快適な地質年代は、40万年ぐらい後にならないと再現しません。それくらい珍しい奇跡的なラッキーな状態なのです。ところが「予定でした」というのは、もうあと10数年で「終わってしまいそう」だからです。地球上を薄く覆う大気の中の二酸化炭素などの温暖化ガスが増え過ぎてしまいました。人の経済活動が地球環境を破壊している新しい地質年代「人新世」に入っているかもしれないというのです。

その中で起きたコロナ禍です。これが何かの序章だとしたら、これから起きるかもしれない問題の影響を小さくするための、減災のような心構えを逞しくしていく必要がありそうです。これも戻れない往還です。あと数十年で引き返せない地点に到達してしまうかもしれない往路です。復路はないのかもしれません。私たちは、どこへ行こうとしているのでしょう。そしてどこへ行ったから、こうなってしまっているのでしょう。

オミクロン株じわり・・でも全国各地で新年行事が開催

2022/01/02

箱根駅伝で青学が往路で優勝した2日、今年は全国各地で成人式や伝統行事が復活しています。昨年とはちょっと違った年明けの雰囲気です。私は人混みは避けたいので初詣には出かけませんでしたが、今日は茨城、高知、香川でもオミクロン株が発見されて全国27都府県に広がりました。確実に地方へも新型株が伝播していることがわかります。このように水際対策をすり抜けて市中感染も始まってきたので、感染者数の上昇カーブの傾きがどうなるのか、気になります。

ただ、入院や重症化の割合がこれからどうなるのか、これまでの予防接種や始まったブースター接種の予防効果、あるいは抗体カクテルや飲み薬の治療効果など、これまでとは異なる「予防・検査や診断・早期の治療」の医療4条件の中で、これからの感染拡大局面を迎えていることになります。ただ欧米などに比べてアジアの感染数が目立たないのが「謎」です。日本よりも甘いシンガポールやインドで オミクロン株が増えないのはなぜなのでしょう? 日本も同様にあまり増えない可能性もあるかもしれません。

それはともかく、日本は医療逼迫が起きない限り、このまま感染対策を継続しながら「経済を回して」いくことになりそうです。新型コロナはWHOが昨年「空気感染」であることを認め、10月には厚生労働省も「接触感染」「飛沫感染」に加えて「空気感染」も加えました。二酸化炭素濃度との相関が強いことになります。保育園では換気と清浄機の併用で対策を講じてきました。これは1月からも変わりません。寒さが一段と厳しくなった中での新年のスタート、ここまま静かにコロナが去ってくれないかと、思うばかりですが、果たしてどうなるでしょうか。

 

 

ドーナツ経済とともに謹賀新年

2022/01/01

2022年が明けました。昨年中は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いします。お年賀ありがとうございます。みなさんにとって良い歳になりますよう、祈念いたします。

新年のカウントダウンを始めたテレビを見ていたら、今年は大晦日から初詣に大勢の人が並んでいて、昨年とは違う光景に、明るさと危うさを感じます。じわじわと上がっている、あの数字を横目で見ながら、ある種の覚悟と祈りの中で新年を迎えました。

元旦の新聞に齋藤幸平さんが対談に出ていました。多くの人たちが時代が「人新世」に入っているのかもしれないと気づき、若者たちの精神的な目標になっていくことを期待しました。そして齋藤さんがいうように、大人が反省して新しい経済の仕組みへの舵を切るべきなのです。昨年の園だより1月号も「人新世」の話で始まりましたが、今年は、その実践がいろんなところで報告され、語り合える年になるでしょう。その実践に、千代田せいが保育園も引き続き踏み込んでいこうと思います。

すでにいろんな組織や団体で、採用されているケイト・ラワースさんの「ドーナツ経済」論は、すでに文庫化されて広く読まれるようになりました。地球環境を保全することが、ドーナツの外側の限界点を示し、地球上から貧困を根絶することがドーナツの内側の限界点を示します。このふたつの輪で挟まれたドーナツ型の帯の部分に、私たちの「目標」を据えましょう、そういう経済のあり方を提案しています。

保育が生活である限り、私たちも、このドーナツの輪の外側と内側に落ちないように、保育料を設定したり、自然環境を破壊せず、疎外労働にならない働き方を支援したり、動物福祉を考えた食材を購入したり、国土や海の生物の多様性を守るような活動を取り入れたいと思います。すでにいろんなところでその実践が始まっています。佐伯胖さんが以前、保育のドーナツ理論を提唱しましたが、これからは経済にもドーナツの発想が求められる時代になってきました。

多様でありながら一つのことへ

2021/12/31

 

いろんなことを学び続けていくと、多様になっていく部分と、一緒になっていく部分とがあって、大事なことは一つになっていくように感じます。確かに一人ずつ違うということを保育の基盤に据えているのですが、それをお互いに認め合って、お互いに尊重し合うことを大事にしたいのですが、それがバラバラになってしまうのかというと、そうではなくて、支え合ったり、協力しあったり、同じ目的を見出そうとしたりと、何かのため連帯や調和を作り出すことに価値を見出します。

これは変化するものとしないものでもあって、あるいは不易と流行でもそうですし、なくなってしまうものとずっとあるものの違いかもしれません。私たちは必ずいつか死ぬのですが、生命のバトンは引き継がれてきたからこそ私がいるのですし、私はいつかいなくなっても生命の連鎖は無くなりません(で、あってほしいものですが)。テクノロジーの発達でできることが増えたように見えても、真善美など人間の感覚で大事にしたいものは変わらないような気もします。

そういう意味では、人の進化というものも、進化してよくなっていくものと、環境に適応してできなくなったこともあるので、一概に進化がいいのではなくて、どういう意味でいいのかを読み取っていくことが大事になります。その人にとって意味があることが、さらに他の人にとっても意味があるように、関係の中での意味を作り出していくことができるように、保育を創り出していきたいものです。その当事者はみなさんでもあります。子どもたちの育ちをみなさんと支えあうために、いろんな関係を作っていきましょう。たくさん、たくさん作っていきましょう。そしてその関係は、いろんな形をしている多様なものでしょうが、ただ、どれも信頼の関係になっていくはずです。七色に輝く多様なものかもしれませんが、きっと美しい関係になっていくでしょう。そんな新しい一年になるといいなと思います。

子どもにとっての故郷

2021/12/30

人は「くに」に帰省すると、普段いる場所が、「故郷ではないこと」に、いちいち気づかされることになります。仕事柄、心の安全基地だとか、心の拠り所だとかを考えることが多いので、つい自分の幼少期に過ごした場所と、千代田せいが保育園の場所との関係を比べてしまいます。帰るとか京に上るという言葉遣いからして、やはり「ふるさと」とは、遠くにありて思うものであり、幼少期に過ごした場所に実際に戻ってきてしまうと、東京という場所は、あくまでも「出かけていく先」のように感じてしまいます。

ところが子どもにとっては、生まれ育った東京が紛れもなく故郷であり、何かがあったら帰ってくる場所になります。子育ての最中にはあまり考えなくても済むことだったのですが、私のように、自身の来し方行く末の始点と終点が見えてくる歳になってくると、本来、魂が還るべき場所は、どこだったのか、迷ってしまう自分がいます。今は亡き父や母も、生まれ育った場所と、私たち姉兄弟を育てた場所が違います。日本人は、近代になると「お国=江戸時代までの藩」から出て、働く家庭が急増します。私たちの「ふるさと」のあり方も、戦前から戦後、そして現代にいたる約150年の間に、様変わりしてしまいました。

こんなことを考えるのも、年の瀬のせいかも知れません。保育の質が、人とを含む環境との「関係の発達」にあることを考えているうちに、親の働き方に大きな影響を与え続けている「資本主義の歴史」を考えなければならなくなり、それが「人類の子育ての歴史」とぶつかって、大きな波頭を立て始めたのが明治以降になるわけですが、その津波の影響は現代にもまだ続いていて、それはまた都市と故郷との関係とも重なっていることに気づきます。

すでに多くの子どもたちにとって、生まれ故郷が都市になっている時代において、「お国」の風景は田園ではなくて、ビル群や駅前の風景、あるいは遊んでいた公園が原風景になっていくのでしょう。故郷としての保育園。そのありようを改めて考え直してみたいと思います。

 

 

清らかにしておきたい理由は・・

2021/12/29

13世紀の「最寒三友図」(ウィキペディアより)

正月飾りには必ず松、竹、梅が描かれています。日本で「松竹梅」がめでたいことを表すようになったのは、色々な俗説があるようですが、松は平安時代から、竹は室町時代から、そして梅は江戸時代から祝い事で使われるようになったそうです。松も竹も寒い冬でも緑を保ち、花を咲かす梅に生命力や寿ぎ(ことほぎ)を感じたのでしょう。私の実家の襖絵も、宗の時代に活躍した絵師に始まると言われる「歳寒三友」が、芳水の作としての松竹梅が描かれています。色々なところに見られる松竹梅ですが、子どもたちに「本物」の梅を愛でる機会を逃さないようにしてあげようと思います。

おせち料理にしても、お祝い事で使う食材に吉祥を読み取るようになっていったことも、同じものを感じます。また新しい歳を迎えるにあたり、豊穣への感謝と共に、自然の畏敬の気持ちを新たにしていくところに、年末年始の清まっていく気持ちよさを感じます。改めて気持ちを清らかにしておきたいと願うのは、日本の文化として良質なものを感じるのですが、皆さんはいかがでしょうか。

植物の育ちや実りを、子どもの成長や教育に例えることが、日本では昔からあったそうです。自ら育つ力を持つものとしての、草花や樹木の生長を、子どもの発達の特徴になぞらえたものが多く見られます。秘めた命が形を変えて大きくなっていく姿は、種から芽が出て茎や幹が伸び、葉から蕾が出て花が咲く。それが実をつけて種に戻っていく。そうした変化は、生命と生態系の循環を表していることに、子育てや人生の循環を重ね合わせてきたのでしょう。

そこに何か、大事なもの、大いなるものがあるという感覚。改めてそれを迎え入れようとする姿勢。子どもたちに、その何かを感じてもらうことは難しいことですが、それでも、そのきっかけを、わいらんすい(3〜5歳)の子どもたちは、大掃除という活動で感じたようです。「自分達が1年間お世話になった部屋をきれいにしましょう。そうして神様を気持ちよくお迎えしましょう」。先生が、そう呼びかけて行った掃除を真剣にやっていた子どもたちの姿を見て、私は大掃除を行う大切な意味を思い出しました。

新しいものを迎え入れるために、きれいにするんだということ。新しいものが何かは、それぞれでしょうが、このウェルカムのために清らかにしておきたいということを、心や精神の「容れ物」にも当てはめているところを、大事にしていきたいと思ったのでした。

 

新年を迎えるにあたり、遊びの力に思いを寄せて

2021/12/28

本日で、今年の保育は終わりです。明日から年末年始の休園に入ります。1月4日(火)にお目にかかります。よいお年をお迎えください。

(以下、本日配布の「園だより」1月号 巻頭言より)

子どもたちが同時にいろいろなことをしているのが保育園です。一人ひとりが自分らしく生活しています。やりたいことがあって、それを実現させたくて取り組んでいます。その姿を見れば、多くの人は「遊んでいる」というでしょう。子どもが他愛もなくよく遊んでいる、と。その通りです。でも、その表現、言い方だけでは見落としてしまうことがたくさんあるのが、その「遊び」というものなのです。

赤ちゃんは自分が遊んでいると思っていません。大人の目から見ても、どこからどこまでが遊びだとはっきりしません。大きくなると子どもは自分が今遊んでいるのか、そうでないのかを区別できるようになります。いずれにしても遊びは生きるために必要な経験になっています。子どもから遊びを取り上げたらきっと死んでしまいますから。子どもの遊びを大切にできない社会はきっと滅びます。なぜなら、社会を形成するために必要な力の根っこを、この乳幼児期に育てているからです。根の生えない木が育つことはないように、社会を形成する力の根がなければ、社会は機能しなくなるでしょう。

では、社会を形成する力の根っことはなんでしょうか。それは遊びの中に見出せるのですが、一つ目は「対話する力」や「コミュニケーション力」です。遊んでいると頻繁にこれを使っています。二つ目は「他人と協力する力」や「集団の中で考える力」です。お楽しみ会の動画や劇遊びの中に、いっぱい見られましたね。三つ目が「実行機能」や「自己調整能力」です。自分の考えや目的のために自分をコントロールする力です。集団生活である社会は、他人との関係の中で自分を発揮し、また他者も生きるようなスキルを身につけていく必要があるからです。

これらの力を育んでいるのが保育園生活なのですが、個別の塾や教室では、これらのうち特定の力しか育てることができません。なぜなら、そこには本当の遊びがないからです。本当の、というのは「本心を自由にさらけ出せる場」の中で「地の自分」が育つ以外に、心の成長はないからです。本物の強い根っこは、自分の力で地面の土を握りしめます。ずんぐ、と地面を掴み取って張り巡らした心の根っこが、社会を形成する力になるのです。

しっかり遊んだ乳幼児期は、いくつもの非認知的スキルを育むことになります。その種類だけお伝えすると、誠実さ、情熱と粘り強さ、自制心、好奇心、考える力、楽観性、見通し力、感情のコントロール、共感する力、自信、今に熱中する力、気持ちの復元力、ストレスへの耐性・・こんないろんな力が遊びの中で育っています。さらに、社会への希望をもてる子どもになってもらいたいとも思います。ただ、そのためには大人の責任も大きいでしょう。本当に不思議なことですが、遊びこそ、大きな根っこが育つ土であり、地面なのです。改めて、これを守ってあげましょう。子どもから遊びを奪わないこと。このことを心に留めながら、新しい1年を迎えたいと思います。

第三者評価者が園に来られて訪問調査

2021/12/27

東京都の場合、保育園は第三者による評価を受けることが義務化されています。すでに保護者の皆さんには先月11月中旬、「利用者アンケート」をお願いしました。今日27日は、それとは別に評価機関の評価者3人が保育園にやってきて、実際の保育を観察したり、職員からヒヤリングを行ったりする「訪問調査」をしていかれました。

皆さんに書いていただいたアンケート結果も含めて、本日までの審査結果は、来年2月25日に保育園に届くそうです。ずいぶん時間がかかりますね。皆さんから書いていただいたアンケート結果は第三者機関が把握しており、当園にはまだ届いていません。全体の審査結果を皆さんにお伝えするのは、来年になりますので、しばらくお待ちください。

今日の訪問調査の一人は、東京都の第三者評価の仕組みづくりに関わっている方で、「評価とは何か」ということに詳しい専門家です。評価者を養成する研修会の講師を努めている方でもあり、客観的に当園のことを評価していただけるので、とてもいい機会に恵まれたと思います。他のお二人の方も、保育園を運営していり園長先生でもあり、保育の質にとても詳しい方です。

当園の保育をさらに良くしていくために、第三者の専門的な目で分析していただき、私たちが気づいていない当園の強みや課題を明らかにしていただきたいと願っています。

さて、早いもので12月も最終盤になり、今日で年末の挨拶をさせていただいた方もいらっしゃいました。今月はお楽しみ会の動画配信やクリスマスデーなども無事に行うことができ、楽しい思い出を作ることもできました。

ちょっと心配なのは、健康管理です。寒さも一段と厳しくなってきました。25日に都内で初めてオミクロン株の市中感染が見つかりましたが、年末年始の人の移動などでその拡大は避けられそうもありません。帰省される方は、くれぐれもお気をつけください。新年が平穏に始まることを祈ります。

 

 

 

保育を「商品」にしてはいけない

2021/12/26

ぐんぐん組のブログで、屋上で長縄跳びをめぐる子どもの心の通いあいが描かれています。子どもの心の機微を想像しながら、それをそっと包み込むような立ち位置にいる保育者の仕事の質を、誰かが値踏みすることなんて、できるだろうか? できはしない! と考えてしまいました。この人の育ちの過程に見つかるエピソードの数々に値段をつけることはできません。ましてや、保育がどこからどこまでで、ここから保育の商品です、なんて線引きはできません。生活の中に空間や時間の区切りをつけて値段をつけることはできないのです。時間を区切って預かるということと、私たちが実践している保育とは、似て非なるものです。

保育はお金にならない。そういうと、起業家が保育を事業化しにくい、と言っているように聞こえてしまうかもしれませんが、そういう意味ではありません。保育は儲からない、そう言うことではなくて、保育は商品のようにはできない、と言う昨日の話の続きです。

最初に、余談です。

こんなものまで値段がついて商品になっているのか、とびっくりすることが時々あります。坂本龍一の映画音楽「戦場のメリークリスマス」が、1万円でネットで売られていることがニュースになっていました。1万円か!と高いなあ、と思って見ていたら、ご存知の方も多いと思いますが、「戦場のメリークリスマス」の1曲ではなくて、その曲を構成している音符、音、一つが1万円なんです。300だか500だかの音符でできているのそうですが、それが完売したそうです。しかも、早くもネットオークションで、さらにその一音が60万円もの値がついていると言うから、物の価値が本来の使用価値から遠く離れて、投機目的の価値、つまり使う目的ではない、資本増殖の価値にどんどん転化してしまうことの、わかりやすい例ですね。ただ、最初の一音1万円のほうの収益は、慈善事業に寄付されるそうなので、生活基盤を支える「富」の方へ還元されるので、ちょっとホッとしました。

そこで話を戻すと、保育園での保育に値段をつけるとすると、すぐに思いつくものは「保育料」でしょう。子どもを預ける保護者が自治体に支払います。保育園にはきません。この保育料は、児童福祉施設である保育園の場合は、小さい子どもほど高く、さらに保護者の収入が多い方ほど高い、という2つの要素の組み合わせで決まっています。このような価格の決まり方は、市場経済にはありません。一般の商品は、市場メカニズムに任せてあり、供給量に対して需要(ニーズ)が多ければ、価格は上がります。この市場メカニズムに任せないで、規制をかけているものはたくさんあって、公共料金は市場価格ではありません。

ところで、保育料は保護者が負担しますが、実は実際にかかる保育の経費は、その約10倍です。保育料を除く部分は、国の国庫補助から半分、東京都から4分の1、基礎自治体の補助金が4分の1加わります。全部、税金です。つまり保育は、公共的な富なのです。ですから、その富の使用を決定するのは、私たちではなく、自治体の福祉事務所が審査の上で決定します。実際の保育経費のうち、7〜8割が人件費です。しかも保育士も看護師も国家資格であり、誰でも担える仕事ではありません。

このような仕組みでやっと成り立っている保育という社会的な富に対して、その富を豊かにするということを望まない国民がいるでしょうか。私たち国民の富である保育の質を良くしようと思わない人はいないと思うのです。しかし、もしこの保育が富ではなくて、市場メカニズムと同じような、言い換えると保育サービス=商品と同じように、需要と供給のバランスで変動してしまう「価値」になってしまったら、私たちはその価値に振り回されてしまい、本当に大事な質を求めることに集中できなくなってしまうでしょう。マルクスはこの転倒を「物象化」と呼びました。

私たちは保育を物象化してはいけません。保育をサービスと呼んではいけないのです。

新しい資本主義

2021/12/25

私たち(人類)は、地球上のすべての過去の歴史にはなかった、とんでもない時代に突入していると感じます。経済成長の変化のグラフを見ると、ここ200年ほどの上昇カーブは異常です。

 

これでは地球環境を破壊しながら、不要な商品が造られ続けてしまうだろうと、予想されます。持続可能な社会にするには、別の経済の仕組みに移行することがどうしても必要です。

https://ourworldindata.org/economic-growth

そんなことを色々考えていると、保育というの仕事が、人類にとって不可欠で、もっと豊かにしなければならない「富」でなけれなならない、ということに気づきます。私たちはいつの間にか、「保育料」のように経済的売買の価格で、物事の価値を考えるクセがついてしまいましたが、このような市場経済の価値では、はかれない価値ほど、貴重で豊かな富だったはずです。

地球や土地や空気や自然や水などは、本来、誰のものでもなく、その一部を人間が囲い込んで商品化していくことは、ある程度は生活を便利にしていくために仕方がないことなのですが、それが行き過ぎると、取り返しのつかない地点にまで、突き進んでしまうのではないかと、非常に心配になります。

(引用) NHKテキスト「100分で名著 カール・マルクス 資本論」(斎藤幸平)より

オランダ・アムステルダム市の女性市長フェンケ・ハルセマさんは、植民地時代の奴隷制度を謝罪して話題になりましたが、市の経済政策には、イギリスの経済学者であるケイト・アラースさんが唱えている「ドーナツ経済学」を採用しました。

ドーナツの輪のところで、私たちは生活しています。この幅の間で、私たちの持続可能な社会を作り出す必要があります。ここにエネルギー、水、食糧、教育、民主主義、住宅などの社会的基盤があります。これが不足すると内側の穴に落ちてしまいます。一方、ドーナツの外側は、環境的な上限で、それを超えてしまうと、気候変動や海洋汚染、化学物質汚染などが起き、生物の多様性も破壊されます。すでにその兆候が地球規模で表れています。

(引用) NHKテキスト「100分で名著 カール・マルクス 資本論」(斎藤幸平)より

 

マルクスは資本を「運動」だと捉えたそうです。なんの運動かというと、貨幣で労働を買い、生産した商品を売って儲ける、その剰余価値でさらに商品を効率よく生産して売る。この果てしない運動のことを、資本としたのでした。それ以前の市場経済は、たとえば、食糧や服や薬を作って売り、得た貨幣で必要な生活品を買って生活しました。この過程には経済成長をどうしても必要とする仕組みを必要としません。剰余資本を再生産過程に投資することの何割かを、商品でありながら、社会基盤でもあるような「富」に還元する必要があります。

新自由主義以降の経済学は、経済成長、景気の安定、所得の再分配を3本柱としてきました。でも、経済成長を前提としなければ「回らない」資本の運動が、環境の限界を超えないような再生産になるようにデザインするのは、政治の役割だと思います。国ができないなら、地方自治体からでも始める必要があります。本来は、資本によって商品化されてはならない社会的基盤の一つは、明らかに「子育て」でした。空気や水や食糧と同じはずの「人類の子育て」や「共同保育」が、どんどん商品化されていくのを、私たちは、黙って見過ごすことはできません。

サンタが届けてくれるのは、ただ(無料)の社会的基盤(コモン)だろうと思います。

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