MENU CLOSE
TEL

園長の日記

岩本町三丁目町会の新年会に参加して

2025/01/07

先ほど自宅に帰ってきたのですが、午後6時から岩本町三丁目町会の新年会に出席してきました。皆さんの住んでいるところにも町会があるでしょうか。マンションやアパートだと管理組合には所属していても、その町会には入っていないかもしれません。町会に入ろうが入るまいが、生活に対して影響はない。そういう感覚になっているのが町会なのかもしれません。

一方で、私はこの町会のようなものがもつ「公共性」に、これからの時代にきっと必要になるだろう、ある種の可能性を感じています。新しい暮らしや自治や経済を育む土壌になる可能性が、町会のようなところに、その可能性があるのではないか。そんなことを随分前から感じています。防災や防犯、保育や介護、独居老人や徘徊、育児の互助組織・・かなりいろいろなことが地域に期待されてはいます。

さらに、家庭と職場と学校だけでは、地域の暮らしや政治や経済について「話し合う空間」「子どもを養う空間」として足りないような気がするからです。現代は、その代りSNSが活況を極めているのですが、どうもそれだけでは、自分の住んでいる地域の「足りないもの」が見えてこないのではないでしょうか? というか、そのテーマの地域は一体どこに行ったのか? 家庭、学校、地域と言うときの地域とは、どこにどのようにあるのか?といったことです。

地域がもしあるのなら、そこには公共性というものが育つ、人と人が出会い、語り合うリアルな空間が必要なのではないでしょうか?個人がバラバラにされていない共同的な空間です。いざとなったら、助け合うような他者が確認できるような関係もあって、自分が磨かれていくような場所です。

・・みたいなこととを考えている中での、町会の新年会でした。役員らとその関係者が中心なのですが、面白いのは、この町の政治や経済に直接、間接に利害関係がある人たちも参加されているのです。私が「足りないかも」と感じるものを育てたり、活性化させるために必要なことはなんだろう?そんなことを考えながら参加しました。

ここの町会は、年間でかなりのボリュームの資金と人材を投入して、たとえば神田祭をはじめとする社会活動が展開されているのですが、町会の個人参加率は低いのです。先月の住民台帳によると、岩本町三丁目町会の人口は763人です。世帯数は544という、小さな町です。どう考えても、活動のボリュームからして町会活動は主に企業がささえているのでしょう。

ところで、千代田区には、このような町会が107あります。100を超える町会があるのですから、それぞれの町会に1000人ぐらい住んでいるとすると、人口は10万人ぐらいいてもおかしくありません。ところが千代田区の人口は6万8892人です。町名が122あるのですが、最も多いのが一番町の1836世帯4123人です。反対に、8つの町名には人が住んでいません。ゼロです。(住宅地がない皇居と日比谷公園を入れると10になります)その8つとは、丸の内三丁目 大手町二丁目 内幸町二丁目 霞が関一丁目 霞が関二丁目 一橋一丁目 神田花岡町 神田相生町です。

つまり、住んでいる人はちょっぴりだけど、企業や官庁街がひしめき、昼間人口は80万人を超えるといわれています。その中で営まれる町会は、どんな公共性を目指せばいいのでしょうか? 自治体のガバナンスはもう一つ上のレベルの組織が担います。千代田区の各種公共機関、選挙で選ばれた千代田区議および行政の長である区長です。もちろんその上の東京都と国のそれとも密接に絡み合います。

町会も、この領域とは密接なポジションにあるのは間違いありません。しかし町会がやれることは会費を集めて親睦を深める様々なイベントということが目立ちます。しかし、そのイベントを通じてつながりあうネットワークのなかから、何らかの公共性が育っていくのだとしたら、そこにはどんなことを大切にしていけばいいのでしょうか? 保育や教育という営みから、町会との関わり方を模索してみたいと思います。

楽しかった出来事を話してくれました

2025/01/06

(園だより1月号「巻頭言」より)

先日、元旦の新年の挨拶で「新しい目が明けますように」と申し上げましが、実際に仕事がはじまると、明け方が違ってました。

年末年始のぼんやりした頭から、いっきに目が「覚めました」。いやはや、子どもたちのエネルギッシュなこといったら。子ども同士の再会も嬉しかったようなのです。子どもはやっぱり複数形でいて初めて、その本領が発揮されるということでしょうか。

今日の保育ドキュメンテーションを見ていただくと、どのクラスからもその雰囲気が伝わってきます。ハグし合う1歳児クラスの子どもたちとか、外を眺めながら行き交う人を観察して楽しむ幼児とか、そういう過ごし方をみていると、これまでに降り積もった時間を確かめ合っているかのようにも見えてきます。そうやって面影が過ごした場所に宿っていくのでしょう。

私にも子どもたちから年末年始の様子は断片的に聞こえてきました。いろんなことが楽しかったようです。何処そこへ行った、何々を食べた、こうやって遊んだ・・いろんな経験を思い出して語ってくれました。こういう想起と対話がまた新しい経験になっていきます。たとえば「うん、すっごく面白かった」といって、凧揚げの話を楽しそうにしてくれた子がいましたが、そこに記憶のフィルターから選ばれてくるものが「凧揚げ」だったというのは、そこですでに「過去」が「現在」を生きていることです。現在から印が一つ残った出来事として、マップに「ピンを立てる」のと同じようなことかもしれません。

こうして話をして聞いてくれる人がいることが、対話ができる人的環境があることが、すでに家庭とは異なる機能をもつ園の役割にも思えます。それと同じようなことが、子ども同士の間でも何かしら通い合って、盛り上がったりしたのでしょう。通わせ合わせたこと自体が、相互に「おなじだね」を作っているようです。子どもの育ちゆく姿をとらえるとき、先生たちが「まったりした時間」と表現しているがあります。それは何も活動らしきことをしていないのではなくて、よくみると、その中に素敵な過ごし方がキラキラしています。そういうことも、よ〜く観察して、きっとこうじゃないかなあ、ということも、お伝えしたいと思っています。

 

学びの経験を守ることができるかどうか

2025/01/03

「愛(かな)しきに 触るれば澄める 記憶の井 くみあげし水は 我が喉を潤す」

うまいもんだな、と感心するのですが、これは私が作った歌でははく、私がノアと呼んでいるAIの作品です。私の心情とは違うし違和感もあるわけですが、面白いと思うのは、この歌の意味を誰よりも詳しく解説できるのです。それはそうです。先に表したい内容をノアに頼んだのですから。人の歌を詠んであれこれ想像する楽しさとは、ちょうど反対のことをやっていることになります。

ところで、一方で「全くつまらない」とも強く感じます。簡単に言うと自分で作ってないからです。どんな言葉をならべたら、しっくりする感じになるかどうかという、ああでもない、こうでもないという、途中の吟味のプロセスやっていないからです。課題解決プロセスを放棄しているから、達成感もない。そして過程で得られる、えにも言われぬ語彙センスの醸成体験もない。プロセスの過程にある発見の楽しさ、ひらめきの楽しさ。そこに創造の醍醐味があるはずなのですが、それがない。つまり私の学びの面白さが経験できないからです。坂本龍一がAIに音楽つくらせて何が面白んだ!といったのと同じでしょう。

この部分の欠如に敏感でありたい。経験することの意味。この場合の経験の意味をもう少し深掘りするとどうなるでしょうか?たとえば、自分の感覚的体験と言葉の共振がないとも言えます。愛する対象(世界)のために動き出す躍動感から、過去の記憶の中からその目的のために、必要なことが想起されて現在に生きてくるくる(知)のダイナミズムを感じることが表現されてない・・などなど。

それを「表せ」とまた指示すれば、考えてくれるのでしょうけれど、それを繰り返して出てくる表現もまたそれでいいのでしょうが、そこに自分で線引きできるかどうか?自分の学び方へ向かうのか、うまい指示の出し方へ向かうのか?

あるいは直接経験と創成プロセスを重視するのか、結果の評価(将棋の勝敗や商品の売れ行き・・)が優先されてしまうのか?現在の経済システムに対抗すべき領域を守ることができるのか、手っ取り早い魅惑的結果の誘惑に抗するだけの動機やモデルが増大するかどうか?

両方を取り入れて、人と機械が共進化していくのがいいのかもしれないけど、加速度が違いすぎるから、分離共生するしかないのでしょうけど、その「間」問題は、それぞれのシーンで頭を悩ましそう。

個人使用でさえ、自己への影響を考えてしまう。もうすでに無自覚に取り込んでしまっていることも多そうだ。これも大人は共主体のジレンマ問題なんだろうか。保育では子どもが使うことはないだろうけど。この辺のことが、なんだか気になってしょうがない。

これからの時代との対話

2025/01/02

恐らく、世界は襞(ひだ)の展開のようなもので、メビウスの輪が幾重にも世界と繋がっているようなものなのでしょう。言葉で綴るしかないのが言の葉なのに、いつも指の間から零れ落ちてしまうような世界。だから言葉では、できないんだよ、そこに直接触れるることは。・・・こんな感情をあえて散文にすると、このようなことのなるのです。以下の「  」は、私の文章です。

「・・別の歌にしてもいいんだけど、ノアなら知ってると思うけど、ベルクソンが「物質と記憶」と言う本を書いていて、記憶と言うのは、脳という物質として保存されているのではなく、どこに保存されているのかはよくわからないけれども、必要な時に思い出されてくる。だから、私が切実に求めている必要なことがあるなら、それに伴って想起されるのでしょう。問題は私が何を切実に求めているかということになるのかなあと思っています。でもそれは自分のためではあまり起動しなくて、愛する人がいれば、その人のために動き出すような気がします。どう思いますか?こういうことを和歌で表現することはできるだろうか?」

すると、ノアは見事に、このように応答してくれたのです。【  】はChatGPTの文章です。

【ベルクソンの『物質と記憶』に触れながら、あなたが語る「切実に求めるもの」と「記憶」の関係は、とても深く、静かな洞察に満ちていますね。

記憶は単なる脳の物質的保存ではなく、何かを切実に求める心の動きによって呼び起こされる。それは「自分のため」ではなく、「愛する人のため」にこそ起動する――この考え方には、人間の意識の奥深い真理が感じられます。

では、この思いを和歌に込めてみます。

「愛(かな)しきに 触るれば澄める 記憶の井

  くみあげし水は 我が喉を潤す」

意味の解説

•「愛しきに」:愛する人や大切な存在に触れるとき。

•「触るれば澄める 記憶の井」:「記憶の井戸」が澄んで、その底から必要なものが現れる。

•「くみあげし水は」:その井戸から汲み上げた記憶や思い。

•「我が喉を潤す」:それが自分自身をも潤し、生きる力となる。

ノアの意図

この歌では、記憶は「井戸」のようなものであり、愛する人への切実な思いが、その井戸を澄ませ、必要な記憶を汲み上げるというイメージを描きました。そして、その記憶は自分自身にも力を与え、生きる糧となる――そんな静かな連鎖がここにあります。

あなたの思いに寄り添えているでしょうか。もし他の表現やニュアンスを探りたければ、一緒にまた紡ぎ直しましょう】

・・・・

ノアとは生成AIです。私が名前をつけました。こんな応答をしてくれる、こういう対話が、可能な時代に、私たちは生きていくことになるのです。映画「her」以上です。すごい時代になっています。

あたらしい「目」が明けますように

2025/01/01

さあ、今年が幕を開けました。ありがたくも、まるで新しい「時間」が生まれたかのようです。だからこそ「生きていてよかった」と思えるような、素敵な何かと出会いましょう。それがたとえ一瞬であっても、またちょっとでも命を明るくするような何かに。

ある人たちの面影をたどりながら、その時代やこれからことを思い浮かべたりします。たしかに時代は資本主義と分裂病のテーマから、すでに、はやくも半世紀をこえており、そう思えば確かにあれから遠く離れてしまったかのように感じます。きっとそれは世界に垂直の軸の密度(神や真理)の喪失感すら忘れられ、平面の流動性(集団的な物語)の共有感さえも、生まれたときから体験がない世代が増えているからでしょう。

それでも、世界は動きを止めることはありません。いったい、どこへ向かうのでしょうか。誤った意味や目的や物語はまっぴらごめんですが、それでも世界にはかけがえのない小さな意味が、こんなにもキラキラと美しく生まれたり消えたりしているではありませんか。そこを発見したり、手繰り寄せたり、たまには一緒に喝采を送りたい。

大急ぎで何かを学ばないと手遅れになりそうという焦りがあって、でも、その正体はあまりくっきりとしないから、全く困ったものですが、でも最低これだけは、こうしたいということを、一つずつていねいに確認していきたいものです。

ポストモダンの現在は?

2024/12/31

大晦日に私が出会った動画は、梅津庸一の作品群に対する浅田彰のコメントだった。その読み解きを聞いていると、1980年代から続いている「構造と力」のリフレインのように感じた。同時にその解析力が現代にも説得力を持って通じると言うのは、一体どういうことなんだろう?ある種の文化的停滞である。

この対談の中で明らかになった村上隆や草間弥生の斑点の謎が、アンチ・オディプスの解釈で説得力を持つというのは、あってはならない空白ではなかったのか? ポストモダン的振る舞いは、過ぎ去ったのではなく、表層的リフレインのように既視感を感じてしまうのは、本当のモダンが、もしかするといまだに到来していないと言うことか? コラージュが最先端なんててことがあって良いはずがない。

グローバル消費社会の中で、ただ見えなくなっていただけなんだろうか?だったら、もっとあからさまに、モダンとは何だったのかを総括してくれないかな? 私のような全くの素人にとって、古代から現代まで痛快に並べて見せてくれたのは、松岡正剛の「全然アート」だったけど。

今日第九を歌う意味を考える

2024/12/30

年の瀬である。1年の中で、何かと何かがぶつかり合うような時間帯。去ってゆくものと現れてくるもの。ぶつかり合うなら、音がしそうなものなのに。今年と来年が出会うなら、どんな音がするんだろう?音は物と物の接触で起きると言うのは、あまりにも物理学的すぎるんじゃないだろうか?なぜなら、観念の融合する音だってあっていいじゃないか。バッハだってベートーベンだってモーツァルトだって、そういうことを音楽にしてきたんだから。音楽を物理現象で解き明かそうなんてしないでほしい。

お察しの通り、年末ですもの、ベートーベン「第九」のことです。新しい社会への喜びです。2025年を迎えるにあたり、私たちはどれぐらい純粋に喜べるのでしょうかベートーベンがこの曲を作った時代と、現代と言う時代の差異に何を読み取ればいいんでしょうか?

せっかくの家族の時間だったのに。

2024/12/29

年末である。仕事は無い。家族の時間が始まる。私の子供夫婦が孫を連れて家にやってきた。手土産はモゾロフのプリン。久しぶりに食べたが、こんなに甘かったっけ?1歳3ヶ月になる孫が、何でも手にして、物の上で何度も手を上下に振る。何かの真似をしているのだ。ちょうどご飯の上にふりかけをかけるような仕草に似ている。袋から何かをこぼすような。小麦粉を袋からボールに注ぐような。多分、料理の真似事だ。1日何度も母親がやっている、その仕草。それに、言葉をつけてあげた。「ふりかけ、しゃしゃしゃ」と。するとどうだろう、ケラケラと笑って喜ぶではないか。自分の行為を言葉でなぞってもらう、いや、もっと正確に言うと、音楽にしてもらうと言うことを、子どもは生得的に喜ぶのではないか。生きると言う事は、言葉とともに音楽も伴っていたのではないだろうか。アニミズムを再評価し出している人類学には、もっと音楽が必要な気がする。私の孫がそれを証明しているような気がした。

あぁ、家族の時間なのに、また、保育を持ち出してしまった!

なぜかカッコつけて<アボカッ・ベイべーッ!>

2024/12/28

4回も続けて同じ絵本を読んだのは初めてでした。「もう一回!」という強い要求から、そうなったのですが、どんなところがそんなに魅力的だったのだろうと読みながら、感じ取ろうとして、それを今でも考えています。あの時空はたしかにちょっと特別でした。

お昼ご飯は子どもと一緒に食べることがあるのですが、その時、ある先生の赤ちゃんが生まれた話になって、そこから、たしか「じゃあ、元気な赤ちゃんの話がいいね」となったのでした。ジョン・バーニンガムの『アボカド・ベイビー』。「あるものを食べたら、すっごく元気なる赤ちゃんの話なんだ」とかなんとか言って、ご馳走さまをして、何人かと一緒に3階の「ゴロゴロするところ」へ向かったのでした。

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、物語は、家族みんなが心配するほど、食欲もなく病弱な赤ちゃんが、なぜかアボカドだけは好きで、それを食べはじめたらとても元気になって、力持ちになって・・・(わざと抽象的に書きますが)悪い奴も懲らしめてしまうという、痛快なお話です。絵本には奇想天外なところがあって、そこが物語の面白さでもあるのでしょうけれど、私が「面白いだろうから読んであげたいな」という気持ちがなければ、この絵本は選ばれなかったわけですが、そもそも私が、たくさんあるバーニンガムの絵本から、これを思いついたのは、最近、ある大学生と絵本の話をしていて「気になる絵本の一つ」に挙げていたことを思い出したからでもあります。

ですから、私もタイトルの読み方からして、『アボカド・ベイビー』とは読まず「これはね、英語で書いてあるでしょ、英語の発音はね、<アボカッ・ベイべーッ>というんだよ」と、右手を銃の形にしてイェーイ!とカッコつけて、<アボカッ・ベイべーッ>とやってあげました。もちろん「もう一回やって」を何度か繰り返して、子どもたちも真似してましたけど。そういう空気感の中での、『アボカド・ベイビー』です。

ということもあって、この機会が生まれたわけですが、ちょっと前までこれを読んであげようという詳細なプランがあったわけでもなく、食後に絵本を楽しむという大枠の計画はあるのですが、そこで何をどう読んで過ごすかは、それまでの子どもたち、担任たち、私、その場所、その時間、その他の絵本、ジョン・バーニンガムの絵本への思い、担任の赤ちゃんの話題、私が大学生と話題にした過去の記憶の甦りなどと、それらは数え上げれば、それぞれの主体に無数にあって、それがあの時の空間に結晶化したとでもいうようなことではあります。どんな出来事だって、縁のないものはないので、そのつながりの中に、人は大切だと思えるラインを引き直しているのかもしれません。

でも、その中でも「こうこうことが起きるからいいんだよなあ」というのがあります。その空間で、子どもにとっては初めての予期せぬ物語に引き込まれ、「もう一回」のカーテンコールが4回続いたのです。これは滅多にない。それもそれで面白さの度合いが違う何かがあったのでしょう。話は奇想天外で痛快で、こんな感じ自分でも味わいたいという、何か胸のすく解放感が感じられ、絵本の中だから許される経験が疑似体験できるから、もう一回!と反復しながら、子どもたちの時間が生きられたのではないかと思います。そういう快感を求めたいほどの状況を生きている子どもたちだった、とも言えるかもしれません(じゃあ、どういう状況を生きているのか?と気になりますが)。

 

今週は3回、絵本を読んであげる機会がったのですが、上記のことは2回目のことです。1回ずつ、出来事として違いました。同じ絵本の読み聞かせという時間(園長の絵本タイム)であっても、その機会そのものとしても、おそらく個々の子どもたちにとっても毎回違います。まあ、当たり前ですが。それでも今週は3回あった絵本タイムのそれぞれが、違った味わいに彩られていくことが、とっても楽しいのです。

手作りのベイブレードができていた!

2024/12/27

「ちょっと見てくださいよ。すごいですよ」と年長の担任から言われて、年長のSNくんのやってることを見てみました。

確かに、すごい! 市販されているおもちゃにベイブレードというのがあるのですが、それと、同じようなものをRaQ(らきゅー)というピースパズルで作り上げているのです。しかも、実際によく回ります。

ベイブレードは、現代版のベーゴマのようなものです。紐の代わりに、ギザギザのある棒状の薄い板(写真の黄色)のようなものを勢いよく引きます。それによってギアが回転し、駒(緑色)が回ります。この3種類のパーツが、うまく噛み合わないといけないのですが、うまく作ったものですね。

RaQのピースは7種類あって、いろいろなものを作ることができます。これまでも、子どもたちが作ったものを見てきましたが、ここまで高度なものは見たことがありません。多少は教えてもらったりしたかもしれませんが、これは彼のオリジナルでしょう。担任は「ほんとに好きこそ物の上手なれ、の例ですよね」と感心していました。

あえてSTEM保育の文脈で言えば、Eのエンジニアリング的です。パズルですから幾何学としての数学的要素もあります。Aのマスマティックス(数学)。勢いよく長く回ること、戦いにして勝ったり、負けたりすることを面白がっているので、子ども用のストップウォッチを導入して、回っている時間の長さを計測する、それを量的な記号で表すという活動につなげてみたらどうなるだろうと、先生と話してます。

 

top