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アート(保育アーカイブ)

朝から「わくわく」「ドキドキ」で始まる1日に

2021/11/17

朝、本当にワクワクして1日が始まるのと、なんとなく受け身で始まる1日とでは、生き方が全く変わってくるんじゃないか。それは大人も子どもも一緒だと直感したら、なんとなく始まる1日は、何ともったいないものでしょう。朝一人ずつに大きな風船を膨らませてあげて渡して、運動遊びをしました。風船を渡すと、上に投げて落ちてくる風船を上手に受け止めるだけでも、普段あまりやらない運動になっていました。ネットに風船をいっぱいのせて、ネットを揺らして落ちてくる風船を受け止める遊びをしました。

時々、風船の取り合いになって喧嘩も始まるのですが、その時、本気で何かを訴え合う欲求のぶつかり合いは、そこで得るものに間違いはないと思えました。そうそう、もっと本気でぶつかり合っていいよ、と。朝からこんなに気分が発散するとその後の活動も落ち着きます。今日の午前中は年長さんの「お手伝い保育」でしたが、事務室グループは「秋拾い」に出かけました。ワクワクしながら柳原通りを歩いて、ボタン屋さんまで行って挨拶して、柳原神社に寄って帰ってきました。たったそれまでなのですが、その途中に落ちていた落ち葉を拾ったり、変わった形の石を見つけたりしながら戻ってきました。途中で、駐車場の料金を確かめている方に「何をしているんですか」とインタビューもしました。

好きな色の画用紙を子どもが2枚ずつ選び、6枚を継ぎ合わせていたのですが、その並べ方も「交互」にしていて「こっちがいいよね」だそうです。そして葉っぱを木工ボンドで貼り付けました。見ていると、花とか蝶とか、鳥などを葉っぱで形作りっていました。同じ色の葉っぱを並べ、それに枝を繋ぎ合わせていました。玄関に立派な装飾ができました。

何気ない活動なのですが、横断歩道の渡り方も上手になったり、桜の木の見分け方を覚えたり、木についている葉の色と落ち葉の色の違いに気付いたり、消火栓の意味が分かったり、ちょっと地域探検を楽しみました。

第3回 親子運動遊びの会

2021/10/24

第3回親子運動遊びの会を開くことができて、本当にホッとしています。後片付けを終えて園に戻り、12時半から1時間ほど反省会を開きました。全員で感想を話し合いました。コロナ禍にあっても、なんとか開催できて、子どもたちも楽しそうだったので、よかったという感想がベースなのですが、私たちからの目線だけではなく、ぜひ、保護者のみなさんからも感想をお寄せいただけると嬉しいです。

今年も青木尚哉さん率いるダンスグループZero(ゼロ)のダンサー、芝田和(しばた・いずみ)さんと宮崎知佳(みやざき・ちか)さんと一緒に自由に体を動かして楽しむことできました。反省会で出た言葉を、以下、カッコ「 」付きで繋いでいくと、「時間は短かったのですが、いろんな要素がぎゅっと詰まった時間」でした。

特に最後に青木さんのダンスをライブで見てもらったことで、「ちよだせいがの保育が、何を大事にして、何を目指しているのかに共感してもらえたんじゃないか」としたら、私としてもこんなに嬉しいことはありません。決まった振り付けを覚えるのではなく、内面の動き、イメージを外に表すことの素敵さです。

反省会でミュージシャンでもある坪井保育士が「プロのアーティストがやっていることと同じ創造的な活動になっている」と説明してくれました。それを目指しているのは間違いありませんが、そうなっていたら、これまた嬉しい。「昨年の姿を思うと、こんなに積極的に楽しそうに参加してくれて、すごい成長だなあと思った」という姿がいくつも挙がりました。保護者の皆さんはどうお感じでしょうか。

幼児(わいらんすい)の第二部の方では、保護者の皆さんと先生とで、大人が輪になって「鬼さん、鬼さん何するの」をやってもらいました。その姿を子どもたちがみるというプログラムを入れたのですが、「大人が体験してもらうことで、子どもの世界を想像してもらいたいし」「親子が一緒に生きる世界が重なって、同じ感覚を共有できる」「小学校にも、そういうのはある」などの感想がありました。どうだったでしょうか。

青木さんは「これするの、のところで、何もしないで、じっとしておく、もアリです」といっています。

私は何かの目的のために頑張って、その頑張りが褒められるという評価の仕方は、小学校以降でいいと考えています。知識や技能のコンテンツがいっぱい待っています。発達課題としても目標に向かって何か学ぶ「勤勉さ」は獲得してほしい。でも、そのとき「劣等感」を持たせないようにしたい。

だからこそ、就学前の乳幼児期には、その部分は半分でいい。残りは条件のつかない自信をいっぱい育ててあげたい。多くのコンテンツを自分から獲得に行ける意欲の根っこを太くしてきたい。エンジンを大きくしておきたい。

そのままでいいという無条件の愛と承認が、この時期の子どもたちの必要条件です。その温かい人間関係の土壌から、自分で目覚め、立ち上がり、歩んでいく力が育ちます。多少早くコンテンツを詰め込んでも、そんなものは1年も立たないうちに追いつかれます。

体を思い通りに動かすことの自由。脳の発達の柔らかいうちに、その創造力の元の元、をいっぱい動かしておきたい。大人が「鬼さん〜」をやってみて、その難しさ、自分の頭の硬さ、発想の貧弱さを感じませんか? 私は最初恥ずかしさを感じ、やってみると難しさを感じ、何度かやっているうちに面白くなって、その心の変化を実感しました。子どもはそこが解放されると、中から湧き上がってくるようになります。

わになって遊ぶわらべうたを、たくさんやったほうがいいなぁと、気づいた瞬間でした。

子どものその素晴らしさは、自分の体だけではなく、考え方、感じ方、試し方、生き方も自分なりの自由な精神性の開発につながっていくでしょう。その道筋はさまざまでいい。その子らしさの世界は広く、深いものです。

青山星灯篭のダンス

2021/09/23

最近よく考えていることは、子どもの中にある「イメージの可視化」です。旧今川中学校の校庭で「鬼ごっこ」をしたときに、地面に引いてある線の上を夢中で歩き始めた子(9月14日)。アゲハ蝶を外に放すときに迸り出てきた言葉の数々(9月22日)。青木さんのダンスの時間に「こんなのどう?」っていうふうに見せてくれるポーズ(9月21日)。こんな瞬間はたくさんあるのですが、それでも旧今川中へ行かなかったら、アゲハを育てなかったら、コンテンポラリーダンスをしなかったら、そうした子どもの姿を確認することはできなかったでしょう。やってみなけりゃわからない(9月18日)ものです。

子どもの内面は「どうせ本人にしか分からないもの」と諦めてはいけません。やり方によって、子どもはそれを「表現」してくれることがあるのです。その「やり方」は色々で、こうじゃないといけない、というわけではないのですが、ただ共通するのは<何かと強く関係する状態のとき>であるのは間違いありません。校庭の地面の線に触発されて(ギブソンのアフォーダンス)その上を歩き出したことにも、<地面という物との関係>があります。何日もアゲハの世界に向き合いお世話をして育てたからこそ、子どもの中に優しい心情が育ったという<生き物への関わりという関係>があります(ノディングスのケアリング)。そしてインプロビゼーション(即興的表現)のダンスにおいても、自分と自分の身体との関係、あるいは自分の身体と見られている他者との関係があります。

昨日9月22日(水)の夜、北青山で青木さんのダンスグループZerOの野外公演を観てきました。高層住宅マンションを含む再開発された街「ののあおやま」の敷地中には、雑木林やビオトープ、遊び場やステージができています。夜空は満月。お彼岸のこの時期らしく、雑木林の中に22の灯篭が並んでいました。よそぐ風が涼しく、秋の虫の音も聞こえてきます。赤い灯籠が並んでいるのは理由があって、地元の有志が集まって江戸時代のある風景を蘇らせようとしているそうです。その風景とは歌川広重が約160年前に描いた浮世絵「青山星灯篭」の景色です(下の写真)。灯篭は二代将軍徳川秀忠の菩提を弔うもので、5年前から地元のギャラリーや善光寺で始まり、2年前から「ののあおやま」も加わりました。

なぜこんな経過を説明しているかというと、この歴史と舞台環境を知っていないと、青木さんのダンスの意味がわからないからです。この夜に演じられたダンスのタイトルは「もりのダンス」です。江戸時代から明治時代初期まで、青山・百人町周辺で行われてきた「星灯篭」がコンセプトです。イベントの企画者の意図は「逝きし人を偲び、土地の記憶を訪ね、地域の環境と文化を体験すること」というもの。ダンスを観るということが、古の祖先や両親、周りの方々へ感謝するような気持ちをダンスで表現しているように思えました。

子どもの内面に限らず、外から見える「表現」は、その表現を生み出している側の内面に動いているイメージがあるからです。現代アートが難しく思えるのは、その関係が見えにくいからです。どんなふうに「見えにくいのか」というと、見えやすいものと比較してみるとわかりやすいかもしれません。

子どもが「象さん」のイメージを持てば、象さんのつもりのダンスになります。見ていればすぐに「象さんね」とわかります。それは他の子どもにもわかります。では、そのイメージが「はらべこあおむし」だったら? アゲハ蝶だったら? これだったらその「お話」を知っているので、知っているもの同士でお互いに通じ合うでしょう。一年目のお楽しみ会の劇にもしました。誕生会でペープサートにして楽しみました。さあ、ここからが今日の日記のお題です。

それでは満月だったら、どうなるでしょう? お彼岸だったら? 人間も自然の一部、という考えだったら? 祈りだったら? 感謝だったら? それはどんなダンスになるでしょうか。それを青木さんたちは演じたのです。そこには、こうじゃなければ、という統一された振り付けがあるのではなく、それぞれの演者が直観する動きが折り重なって「わあっ・・すごい」という日本らしい風情を目の前に表してくれていました。素晴らしいものでした。

きっと子どもの表現にもそれがあるのです。言葉、作ったもの、積み木を並べたもの、描いたもの、叩いてみる楽器、鳴らしてみる音、走っている姿、飛び跳ねている瞬間、何かに感動しているとき。子どもの心の動き、イメージの躍動。それをなんとか「表現」にしていく営みの工夫が、創造と協働(協同)を目指すレッジョ・エミリア市の保育実践でしたし、イメージを可視化して子どもと子ども、子どもと大人、園と地域が繋がっていくために記録(ドキュメンテーション)があるのでした(9月17日)。

中秋の身体で表現する「なんかいいやつ」

2021/09/21

今日は中秋の名月にふさわしい表現活動の日になりました。

アーティストのダンサー青木尚哉さんがやっていることは、子どもが描く自由画に似ています。写生ではなくて、子どもがイメージしたものを画用紙に自由に表現してみる絵のようです。輪になって「鬼さん、鬼さん、何するの?」と尋ねるられた子が即興で「これするの」と応え、それをみんなで「これするの」と真似します。リズムはイチ、ニイ、イチ、ニイの二拍子です。

イメージを形にすることは、紙やキャンパスの平面なら描く、といういのでしょうが、身体を使うのでやはり「踊り」や「舞」や「ダンス」なのでしょう。まあ、それはどうでもよくて、大事なのはその表現の起点と終点です。身体を動かし始める始まりがあって、終わりがくる。そしてまた始まり、終わるという短い時間の中で、身体が形作るものが存在して消えていく。絵画や造形物のように残ることがなく、なくなってしまうのですが、確かにそこには「子どものうちにあったものが引き出されていく創造」が行われているのです。

体を動かすといっても、「運動」でも「スポーツ」ではなくて「踊り」や「ダンス」であるのは、その「身体の形」に子ども自身がセンスの良いものを、なんだかいいと感じるものを、必死で嗅ぎ取ろうと、引き寄せようと、生み出そうとしていることがはっきりとわかるからです。その表現が楽しそうです。

身体表現として、「どうやろうか」と考えながら、「こんなのどうだろう」と試しながら、思い思いに体の動かし方をデザインしているのです。

それは「鬼さん、鬼さん、何するの?」に限りません。「ステップシークエンス」も「マネキンとデザイナー」も「じゃあ、今度はこんな風にしてみたい」という試行錯誤の身体表現です。

らんらん、すいすいの子たちにとっては、その意味あい、というか勘所、面白さがわかってきたようです。一方で、にこにこさん、わいわいさんには、「動物遊び」のような、ごっこ運動が楽しいようです。

そして、やっぱり花より団子です。こっちも歓声が上がっていました。

体験を表現して共有したい

2021/09/19

根が出たメロンの種が育つかどうかや、水をかけたら黒くなるか「やってみないと、わからない」ことを、子どもと一緒に試してみるのは、大人も楽しい。種も水も自然界の話ですから、そこには一定の理(ことわり)、法則、因果関係が見つかるものなのですが、いかにも「自然科学」とか学校の「理科」につながっていく傾向を見つけることができます。身の回りの「物質」や「生き物」には、そうした特徴を見出すことができます。対象についての「知」です。

確かに、保育は対象そのものの特性に気づくということも「保育内容」(特に領域「環境」など)にあるのですが、日本の保育内容は、それを「子どもの姿」で捉えることになっているのです。面白いと思いませんか? メロンの根が出たね、今度はどうなるかな。早く芽が出るといいね。・・・ここには「メロンの種についての知識」を得ることが保育内容になっていない、のです。

子どもたちは、メロンの種を見て、触り、土にそっと大事に埋めてみて、水をかけて、「どうなるかなあ」「芽が出てくるかなあ」って、感触を味わったり、生き物に気にかけてあげること、そんなことに何かを「気づき、感じ、試したりすること」の姿があるようにしましょうね、ということが保育所保育指針や幼稚園教育要領の保育内容なのです。

(うちわ話ですが、これが乳幼児の「考える」姿だというように捉えています。なので子どもの「思考力」の育ちは、領域「言葉」ではなく、領域「環境」に位置付いているのです。)

アゲハの幼虫が今、また蛹になっていますが、もうすぐ蝶になります。これに「驚くこと」や「不思議がること」や、「面白い、やってみたい」と子どもの興味や意欲が動くのです。子どもの情動的知性が働くことが大事だからです。生き物の飼育がいい経験になるのは、ある程度の時間がかかり、その繰り返される観察と餌やり、水やりなどの「お世話」が生まれるプロジェクト型の活動になっているからでしょう。

さらに、本当はもっと大事なのは、それを見守る大人側の方が、本気で「驚くこと」「不思議がること」「面白い」とおもうこと、なのでしょう。研修でレッジョのDVDを見て、「先生たちが楽しそうだった」という感想を持った先生がいたのですが、私たち保育者が大事にしている色々なキーワードの一つが「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン)でもあり、それは保育者の専門性として持ち続けたい資質です。

レッジョから学ぶとすると、この子どもの心の動きを、ここから、絵にしたり、粘土で造形したり、ダンスにしたりします。20年前の映像でも「古典的な道具である粘土や針金だけでなく、パソコンで絵を描いたり、プロジェクターで光を当てること」などをしていたのですが、今なら多分、最新のテクノロジーも使いこなしながら、子どもの内面を外に表す遊びをするのです。それをまた共有し合います。アート表現が他の子どもたちや大人たちと生まれるコニュケーションの「道具」に位置付けているのです。さらに大きな価値の創造のために。当園での例でいうと、はらぺこあおむしの歌を歌ったり、ペープサートや劇にしたりしていることと同じです。一年目のお楽しみ会で、その世界を親子で親しんだことが子ども文化のコミュニティ作りになると確信しているからです。

自然界の営みを知ることが「知」なら、そこへ向かうだけではなく、子どもが受け取る内面の体験を、再現遊びや表現としてのアート(=アルス=手や体を通した技)にすることも保育なのです。「自然界」と「人間界」が「子どもの内面を外の表すこと」でつながるのです。自然科学と文化的活動を繋げているものが「人間の内面の躍動」なのだと思います。それが小学校以降の学習や生活につながっていくのです。

お店屋さんごっこはアナログな拡張現実

2021/08/19

お店屋さんごっこ、といっても昔のような市場でやられていたような「売り買い」を、このあたりでみかけることは滅多にないような気がします。三井記念病院の先にイトーヨーカドーがありますが、そのちょうど向かいに八百屋さんがあって、そこでは「今日は〇〇がお得だよ」などと、威勢のいい声を聞いたことがあります。

ある調査で子どもの「お手伝い」の内容が時代でどんなに変化したのかを調査したものがあって、それによると昔よくあった「おつかい」が、今はほとんどなくなっているという結果が載っていました。それはそうかもしれません。交通事故や誘拐事件などの事故に遭わないかと心配ですし、今は宅配という便利な方法も増えました。さらにこの、コロナ禍で人と会って言葉を交わして何かを買う、という行為そのものを避けるような便利さがさらに進行しています。レジで「レジ袋入りますか」と「〇〇円です」しか話さないアルバイト店員のコンビニでさえ、さらに自動支払い機の導入で、全く無言で買い物が成立するようになってきました。

≪・・お客さんたちは受付でチケットにハンコを押してもらい、どれを買おうかとお店の商品をじーっと見て・・・恥ずかしそうに「これください」。本格的なお店屋さんごっこに、お互いちょっと照れながらのやりとりがありました。≫

昨日までの納涼会プレイベント「屋台のお店屋さんごっこ」では、そんな会話の様子が報告されています。

人と話すという基本的なスキルを身につけるには、人と話す機会を設けることですが、赤ちゃんが言葉を獲得する(学ぶ、ではありません)ためには、他者に何かを伝えたい、という心情がなければそうなりません。自分の思いや考えを他人に伝えようとするには、伝えたい相手と伝えたい気持ちがないと言葉は動き出さないのです。その状況は生まれた直後から、親と子の関係を起点としがら発達していくのですが、核家族だけでは、その相手が不足します。保育園のような集団のある場所で、さらに年齢の異なる色々な子どもや大人との交流が起きる生活は、家庭にも地域にも、全くなくなっているのです。

地域で人と人が出会い、会話をかわし、気持ちを交流するような公的空間、井戸端会議や立ち話を含めて、人が何かをやりとりするアナログな機会を、私たちは子どもの生活から奪っているんだという事実を知っておくべきです。それを補うかのように、保育園の生活は色々な人間関係の体験の場になっています。「いらっしゃいませ」「これください」「〇〇円です」・・ごっこ遊びの世界は、こうやって現実では体験できにくいことさえできる機会だと考えると、このアナログな拡張現実(AR)こそ、大事な経験のような気がしてなりません。

今日の夕方、妄想公園に行ってきました。デジタルデバイスを使って、目の前の空間を魚の群れが泳いだり、電車が走ったりします。それはそれで大変面白い体験だったのですが、子どもへの与えたかは微妙だなぁと思いました。その話はまたしますが、アナログな「お店屋さんごっこ」こそ、子どもにとっては必要な拡張現実だと思います。その前に実際の体験がもっと必要なのですが。そこで、子どもが大好きな模倣遊びのことを、デジタルのARに代わって、アナログのAを頭につけて、AARこそ大事と言っておきたくなります。

活況だった屋台のお店やさん

2021/08/18

「いらっしゃ〜い、いらっしゃ〜い」。屋台のお店から売り子の声が聞こえてきます。「園長先生も買ってって〜」と呼び止められて、「わあ、おいそうなアイスに綿菓子、ドーナッツもカラフルで綺麗だなあ」と返事。ちょうど入園先を選んでいる見学者の案内をしていたのですが、2階の屋台マーケットは、活況を呈していました。

お祭りにつきものの屋台ですが、コロナ禍でまともにお祭りを経験してない子どもたち。でも4歳のらんらん、5歳のすいすいの子どもたちは、お祭りの夜店で「買ったことある〜」と教えてくれる子もいて、屋台のイメージを持っているようです。この2年間、ブランクを感じさせない子たちで、私はホッとして、嬉しくなりました。

昨日と今日の2日間、子どもたちが作り上げた屋台マーケットですが、すでに「お持ち帰り」でご覧になった方はご存知だと思いますが、どれもよくできていて、物をよくみているなあと感心です。焼きそばの上に乗っているのは、キャベツとにんじん、赤い紅生姜のトッピング。わたあめの袋は、「せいがぼうや」のお見本を真似て描いた子どもたちの絵です。たこやきの緑色は青のり、パックにはかわいいタコの絵もついています。

世の中はVR(仮想現実)やAR(拡張現実)が流行っていますが、子どもたちにとってはアナログな模倣が創造力の源泉です。実際の生々しい体験が大切で、その生々しさが何事も基準になっているからこそ、何かの模倣、何かの仮想、何かの拡張ということもわかることになります。最初から仮想や拡張だけの体験は、実に危なっかしい。

五感をフルにつかった実体験の面白さがあって初めて、それを再現したい!という強い欲求が生まれます。幸いなことに「食べる」ことだけは、代わりのもというわけにはいかないので、食べ物屋さんがメインの屋台になっているのは、わかる気がします。子どもたちにとっての食体験は、やっぱりインパクトが大きいのですね。

妄想公園(8月20日まで) ARでぜひどうぞ!

2021/08/16

7月19日にこの蘭でお知らせした「妄想公園」イベントが8月20日で終了します。会場は「アーツ千代田3331」です。主催者の方からメッセージをいただきました。以下紹介します。ARを試しましたが、びっくり仰天。室内を魚が泳いでくれます、楽しいですよ。ぜひお試しあれ。

20210727 フライヤー「妄想公園」

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外出困難なこの時期だからこそ、お家で楽しめるように、公式サイトから会場と同じARやクラフト、ぬり絵をダウンロードすることができます。是非以下のURLもご紹介いただけたら幸いでございます。
https://mosokoen.weebly.com/

魚のARは特に人気がありますので、先生も是非園内でお試しください。どうぞよろしくお願いいたします。

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子どもたちにとっての納涼会

2021/08/13

コロナ禍で軒並み中止になってしまった夏の風物詩の数々。大人にとっては懐かしいと感じるお祭りの屋台や盆踊り。

そうであっても、未曾有の感染爆発真っ只中にあるからこそ、彼岸から現世を心配されているご先祖さまをお迎えするのがお盆の礼儀というもの。地域でそれらを準備して、実施していく大人をみながら、子どもは育っていくのです。その光景を無きものにしてしまうことが、現代の残酷さでもあります。

子どもたちは「納涼会プロジェクト」をはじめました。というとなんだか凄そうですが(笑)、要するに「お店屋さんごっこ」です。

納涼会はやることにしました。それに向けて7月上旬から、幼児組の子どもたちは、お祭りの屋台に並ぶ「美味しいもの」を作ろうと話し合っていました。

室内にちょうちんを飾った今日13日(金)。制作ゾーンを覗くと、お寿司を握っていました。

まぐろやしゃけ、玉子焼きなどができていました。屋台でお寿司はあまり見かけませんが、それはまあ、いいとして・・

これまでにも作ってきた様子を主任が玄関に張り出してくれました。焼きそば、たこ焼き、ドーナツなど、どれもおいそう・・・ぜひご覧ください。

真夏のダンスの向こうに江戸情緒を感じよう

2021/08/03

今日は7月に続き、今年2回目となるダンスの日。青木さんと芝田さんがいらっしゃって、乳児から幼児まで全クラスで体を動かして遊びました。

いま「ダンスの日」と言いましたが、実は青木さんは「ダンスと言うと、その言葉のイメージに引っ張られてしまって、意味が狭くなってしまうよね」と話されています。青木さんの活動は、ダンスの枠を超えて「身体」そのものの可能性を、いろいろな世界に切り開くような営みを探究されています。園の生活の中では「楽しく体を動かす」としかいいようがありませんが、でも、ただ動かすというのではありません。動き全体をデザインしつつ、子どもから生まれてくる創造力を上手に引き出していきます。

例えば今回もいくつかの新しい試みがあったのですが、その一つは「わらべうた」の導入でした。わらべうたは、日本に昔から伝わる児童文化財です。「い・れ・て」「い・い・よ」もわらべうたなのですが、「い・れ・て」(ソ・ファ・ソ)「い・い・よ」(ソ・ファ・ソ)のように、シンプルな音階と休符からなり、会話と音楽を繋ぐような位置にあるのですが、併せて身体遊びと密接に結びついています。

今日の「にこにこ」(2歳)で見られたのは、「おふねがぎっちらこ」です。大人が膝を伸ばした両足の上に、子どもが向かい合ってまたがって座ります。そして、手を持ち合って「ぎっちらこ、ぎっちらこ、おふねがぎっちらこ」と、前後に体を揺らします。最後にブルブルと膝を揺らして揺さぶってあげると、子どもは大喜びです。

わらべうたは、簡単な音階とリズムなので、子どもは自然と覚えてしまいます。しかも、この種類のわらべうたは、体も一緒に動かすので、記憶に残りやすく、言葉、リズム、メロディ、体の動き、動感などが快感とセットになって、いわば身体に染み込むのです。皆さんも、なべなべそこぬけ、とか、ずいずいずっころばし、とか忘れずに覚えていることでしょう。実際のところ、これを「ダンス」と呼ぶよりも「わらべうた遊び」そのものです。しかし、この「わらべうた」がアートに変わっていく瞬間を目撃しました。それは、らんすい(4歳5歳)で「わらべうた」をやった時です。

今年はダンスにわらべうたを取り入れたい、と青木さんにリクエストしたのですが、早速、オリジナルのわらべうたを用意してくださいました。それが「鬼さん鬼さん、何するの?これするの、これするの」というものです。小学生向けのインプロ・キッズ(インプロビゼーションは即興の意味)を、幼児向けの「わらべうた」にアレンジした青木さんのオリジナルなのですが「これするの」のところで、即興的に体を動かしてみるのです。子どもたちはそれを見て、2回目の「これするの」の時に真似して一緒にやります。

この即興による身体表現の「瞬発力」は、自分の中に引き出しをたくさん用意して、それを再現する場合と、全く何も考えず(用意せず)に、その瞬間に何が飛び出してくるか、自分自身も楽しみなっていく場合があるようです。その表現の生み出し方はまさしくアートですね。そして、問いと答えという言葉の意味、身体で答える表現、語りのようなメロディとリズムと間(ま)。遊びの中で、子どもたちは知らない間に、四分音符と休符からなる日本的リズムという音楽的素養も身につけていきます。

こんなことをプロデュースしながら、幼児教育としての身体活動遊びを繰り返していくことで、子どもたちには「自然の営みとしての身体を取り戻していく表現者」に育っていってほしいと願っています。それは本当の健康や幸せに通じるからです。そして江戸情緒など、日本的な文化へ感覚も身近なものになってほしいと思います。

さて、今日はさらに、保育園に素敵なお客さんがやってきました。カナヘビくんとカマキリくんです。ある保護者の家で飼われていて、夏休み間しばらく保育園で過ごします。カナヘビくんは北の丸公園に棲んでいました。

好物は虫ですが、よく水を飲みます。そんなカナヘビくんのことを、まずよく知ろうと、小林先生が用意した動画を見ながら子どもたちは上手な飼い方を勉強です。観察ゾーンにやってきたカナヘビくん、どうぞよろしくね。

連日暑い日が続いています。夕方にはすいすい(年長)の子たちが玄関前の歩道で「打ち水」もしました。クーラーも冷蔵庫もない江戸時代、この柳原通りの夏は、打ち水や柳ごおりが「夏の涼」を演出していました。

 

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