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見守る保育(保育アーカイブ)

自然に属する子どもにたずねよ!

2020/12/24

人間は頭で考えると間違えることがあるので、人間の「内なる自然」に耳を傾けよう。こんな趣旨のことを聞いたことありませんか? このようなことに耳を傾けた方がいいのは「大人」です。子どもに向かって、このようなことを言いたくなることはあまりありませんよね。頭でっかちで気難しく、頑なに心を通わせにくいのは大人の方が多いですからね。なぜでしょうか。答えは簡単です。子どもは自然に属しているからです。西欧宗教圏なら「子どもは7歳までは神の子ども」という言い方もあります。確かに子どもはまだ「自然」そのものの要素が大きいのです。

子どもといると、その真っ直ぐな心のありように「自然」を感じます。この子どもらしさを変に歪めたくない、と感じます。当園は、この子どもの「自然性」を大切にした保育を実施しているつもりなのですが、当然ながら行事も同じ考えにあります。昨日でお楽しみ上映会の期間は終わりましたが、今日24日の追加上映のときにも、にこにこのHちゃんが「ぐんぐん」の映像を見ながら一緒に体を動かし始め、「にこにこ」の劇を見終わって「もっと見たい」といっていました。その様子を見て、私はやはり自然そのものである子どもが望むものには、そこに自然の摂理が働いていると感じます。

私はよく「子どもが繰り返し求めるものには発達に必要なものが含まれている」という言い方をします。発達は使うことで伸びるからです。何かを身につけるときに練習や訓練をすることを思い浮かべて貰えば分かりやすいでしょう。あるスキルを身につけるには繰り返すことに効果があることは誰も否定しないでしょう。これは言い方を変えれば、スキルはその能力を使うことで上達するといえます。それを自発的にやるのが「遊び」です。遊んでいるとき使っている能力が伸びます。遊びは練習や訓練ではなくても、同じ効果があるのです。

しかも「自発的」にやるので、意欲満々です。イヤイヤやるのと違って効果テキメン、そこにも、発達における自由遊びの重要な意味があるのです。劇遊びで育まれる資質や能力は、知識や技能だけではなく、思考力や判断力も働いているし、もっとやりたい、できるようになりたいという意欲などの非認知的能力が含まれています。

子どもは、このようなことを誰に教わるわけでもなく「遊び」を通じて身につけていきます。こんなことは、人為的にできるようなものではありません。やはり自然の摂理が働くものなのです。それを信じることが「子どもを信じる」と言う意味になります。自然に属する子どもにたずねよ!という感性を大人は磨く必要があるのでしょう。

 

WHO国際生活機能分類(IFC)2001

2020/11/14

5年ぶりに田口教育研究所主催の「発達障がい基礎講座」で話をしました。テーマは「困難さは私たちの意識と環境が作り出しているのかも〜障がいという概念を超えた保育を目指すために、子どもの特性理解を深めよう〜」です。3時間の内容で、保育現場の先生たちが約30人参加されました。私がこれまでの保育の経験から、実践的な視点で子どもと環境をとらえる方法を説明しました。

事前の案内には、次のように書きました。

「私たちが使っている障がいの種類や程度は、医療の診断が根拠になっています。具体的にはアメリカ精神医学会のDSMの基準が大きな影響を持っています。しかし、このような医療モデルに従うだけでいいのでしょうか。障がいは環境が作り出している面があるのではないでしょうか。その時代の価値観や環境によって、かなり違った様相になってくるのかもしれません。そのような人と人、人と環境との構造や関係を踏まえた上で、当事者のためにふさわしい生活を創り出していきませんか。」

世界保健機構(WHO)は2001年から、障がいの概念は、個人の特性だけから生まれるのではなく、環境との関係の中で生じるという定義に変えました。講義はその説明から入ったのですが、この考え方はとても大切で、どんなところで生活するか、どんな道具やサポートがあるかで、生活の質は変わります。私たち大人の意識次第で参加できる生活圏も広がります。このことは、いろいろなところに応用して、広がっていくといいと思っています。

柳原堤

2020/09/20

先週は2度、クリスタルビル11階に登って秋葉原駅周辺を一望しました。「江戸名所図会」(上の写真)を見ると、天保5年(1834年)の頃の「柳原堤」は、和泉橋を町人が行き交い、柳原通りにならぶ店の前には侍や旅人が描かれ、柳森稲荷を参る人もいます。その図会の角度は、ちょうどクリスタルビル辺りからの展望と一致する図柄です。ちょうど江戸城のある方から、神田川の南側から北側を、ドローンでも飛ばしたかのように北北西に向かった眺望を描いているのですが、当時はそんな高いところはありませんから、想像で遠近法を用いて描いています。

それと重ね合わせて、現代の風景を眺めてみると、目の前にホテルや高層ビルが立ち並び、その向こうの遠い風景を望むことはできません。もっと高いところからでないと、風景の奥行きが取れません。それでも秋葉原駅を南北に通過していく電車を、子どもたちはたっぷりと堪能できました。

ビルが立ち並ぶと、そこを歩いている人々や生活の生業を風景として眺めることはできないのだな、と再確認してました。

人が見えるのは、ふれあい橋を行き交う人と、眼下の柳原通りを歩く人だけです。そのほかは建物で隠れて見えません。大都市の風景は、高いところに上がっても建物や道路や鉄道などは見えても、そこで生活する人々の風情や表情までは見えないのです。

江戸時代の図会も、それは想像で描いています。その場所、あの場所ででみた人々の様子を頭の中で再構成して、つないで一枚の絵にして描いたのですから、子どもたちも、きっと同じことをするに違いありません。見えてないけど「そこにはこれがあるんだよ」と描いたり、作ったりするでしょう。人間は心動かされたイメージを再現したがる(表象)からです。

「むちた!」?

2020/09/17

今日はちっち組の保護者会が夕方あったのですが、それが始まる直前に、にこにこ組のSくんが、階段から降りてきた方を指差して「むちた!」といいます。というより、そのように聞こえました。「?」なんだって?と思ったら、そばにいた担任のY先生が「虫いたよね。蜘蛛がいたね」と言って、応えてくれたので「ああ、そういう意味か」と了解しました。そして、虫が好きなSくんらしい!と納得もしたのでした。にこにこ組の今日のブログ「柳森神社」もご覧ください。

このように「むちた!」という言葉になる前は、きっと「あ!」と指差すだけだったに違いありません。それが「虫いた」という言葉になっていくのは、そうなるまでのどこかに、決定的な発達があったと考えることができます。それはSくんの9ヶ月頃にまで遡ることになります。

ちょうどその頃、子どもは日本語の「ムシガイタ」という音を「虫が居た」という意味で理解できるようになっていく「仕組み」が完成するからです。それは象徴機能の成立です。言葉は表象の1つですが、実物ではなく、その代わりの象徴(シンボル)を用いて意思疎通をすることができるようになるのです。それが言葉の獲得です。

現実の「虫」という実物に対して、日本語の「ムシ」という話し言葉としての「音」が、子どもの頭の中に想起されるイメージ(表象)とつながることによって、物のシンボル(象徴)としての言葉がイメージと一致するわけです。虫という言葉を聞くと、現実の虫を思い浮かべることができるのは、この心理的な仕組みがあるからです。こうして、子どもたちは言葉を獲得することができ、同時に、模倣遊び(見立て遊び、ごっこ遊び、劇遊びなど)ができるように、言葉は発達していきます。

今日は保護者会では、「言葉の発達に大切な『話しかけ』」の資料をお配りしました。どんなときに話しかけるといいのかというと、子どもが注意を向けているときに、その事柄について、言葉にするといいのです。子どもが注意を向けているものに、大人も注意を向けている状態を「共同注意」と言いますが、そのように同じものに注意を向け合っているときに、話しかけることがいいのです。

子どもが注意を向けていないものに、注意を向けさせようとして言葉をかけてもうまくいかないことが多いのです。

 

表現③自分の体の動きがアートになる遊び

2020/02/18

◆体の動きのつながりとアート感覚

アートってなんだろう。色々な定義や説明があるのですが、子どもの言葉を借りると「なんかいい!」という感じのことです。今日もその「なんかいい」といった男の子がいました。今日はダンスのアーティストが3人いらっしゃって、わんらんの子どもたちと体を動かして遊びました。体を動かして遊ぶ、といっても、いつもとちょっと違います。例えていうと、体の動きを、一つずつ丁寧にバラして感じとっていくプロセスがある、といっていいでしょう。あるいは、粗大運動の中の微細運動といってもいいかもしれません。

◆いろいろな身体遊び

やったことは、正式な名前があるわけではないのですが、今日楽しんだ子には多分、こう言ってもらえたら通じると思います。一人スキップ、二人スキップ、やさしいだっこ、マネキンとデザイナー、片手にょろにょろ、両手にょろにょろ。どれも楽しそうにやっていたのですが、マネキンとデザイナーはかなりアートらしい体験だったと思います。

◆自分の体の骨をイメージする

一人がマネキンになり、もう一人がデザイナーになって体の一部を優しく押したりして動かします。これをやる前に、イミテーションの人の骨を見せて、人の体には骨が入っていて、それがうまく動くようになっていることを感じ取った上で、この遊びをしたのです。自分の体の中にも、この骨があって、それが動いて体の動きができていくんだということをやりながら学んだのです。

◆自分の身体を自分で感じながら動かす

こんなことはやったことがなかったからでしょう、それが面白かったようで、カクカクと動かされる自分の体の姿勢やバランスを感じながら、それが「身体表現」になっている面白さに気づくことができました。動かされている本人の感覚はあっても、外からどう見えるのかがわかりません。少しの力に優しく動いては静止し、少し押されてはまた動き、その繰り返しの中で、自分の体の姿変わっていく。そうした自身の身体の動かし方を意識したのは初めてだったのではないでしょうか。

◆自己イメージの形成

逆に動かしているデザイナーの方は、「こうしたらどうなるかな」「もっとこうしてみよう」という造形的な面白さを感じています。「こっちの方が、なんかいい」という感覚を頼りに、友達の体を使って造形活動をしている、まさしく表現遊びです。動かされる方(マネキン)と動くかす方(デザイナー)の両方を交代でやりながら、最後は同じポーズで記念写真を撮りました。自分の姿がどのように見えているのか、何度か繰り返すことで、マネキンになりながら外から見える「自己イメージギャップ」にも気づく体験になっている子どももいたことでしょう。

◆知らなかった自分の体の動きと出会う

たった一時間という短い時間でしたが、3人のアーティストをご紹介しておきましょう。リーダーの青木尚哉さんと、芝田和さん、高谷楓さん。子どもたちは、ダンス遊びの途中から「もっとやりたい!」の連発でした。青木さんも「あの意欲が大事なんですよ。それを引き出したくてね」とおっしゃいました。このようにアートの力は、例えばマネキン人形になって体を動かす/動かされる、という中に「今までなかった自分の体と出会う」という貴重な経験を作り出す力を持っているのです。

成長のしるしとしての夢中度

2020/02/17

 

春の訪れを知らせる梅の開花。八王子市の姉妹園の園庭に白梅が綺麗に咲いていました。小川にはヤマアカガエルが生んだ卵の寒天のような塊が漂い、すでにおたまじゃくしが泳いでいました。すでに春が来ています。このような分かりやすさと同じように、わいらん(3歳4歳)クラスの子どもたちの姿に、くっきりとした成長の印を今日17日、来客者と一緒に確認しました。

それは見学者が来ても、誰も寄って行かったことです。「見学者が多いんですか?」とおっしゃるので、「いいえ。見学者は少ないですよ」と答えたのですが、この質問の意味は「寄って来ないのは珍しくないから、つまり、見学者慣れしているからだろう」。こんな考えからなのですが、私の説明に納得して「覚えておきましょう」と感心されていました。私の説明とはこうです。

「子どもたちは遊び込んでいると、見学者には気づかないんです。もし気づいたとしても、やっていることに夢中になっているから、見学者に関心が向かないんですよ。もし見学者にすぐに寄っていくような姿が多い時は、まだ情緒が安定していないか、没頭して遊び込んでいないのかもしれませんね」

こうした姿は、保育の質を測る「ものさし」の一つになっています。開発したのはベルギーのF・ラーバース女史で、日本でもSICSという略語で有名になりました。先日、いずみこども園で講演された秋田喜代美教授が日本版を開発しました。ごく簡単にその要点を説明すると、ラバースは保育の質を、子どもの情緒的な安心の度合い(安定度)、熱中度(夢中度)、大人の関与の3つの要素から捉えました。そしてSICSはそのうち、安定度と夢中度を保育者の観察によって自己評価するのです。

もし、ラバースさんが、その視点で今日のわいらんの子どもたちの様子を見ると、とても高い得点がついたと思います。今日の来客者は、実は千代田区の保健福祉オンブスパーソン事務局の方と相談員のお二人です。お二人は千代田区の保育園を全て見て回っていますが、子どもが誰もよって来ない経験は初めてだったそうです。それだけ遊び込んでいた時間だったとも言えますが、子どもたちが主体性を発揮した集団の雰囲気の良さを感じ取ってくださいました。

表現②豊かな感性や表現する力を養い、創造性を豊かにする

2020/02/16

15日(土)の午前中、私が昨年3月までいた八王子の「せいがの森こども園」が開いた行事「成長展」に出かけてきました。成長展は子どもの成長をお伝えするものです。これは、現在の子どもの状態をお伝えするだけではなく、昨年の4月から毎月、記録してきた育ちを並べてみることで、その成長のプロセスを可視化します。教育の「ねらいと内容」は5つの視点があるのですが、その分類(領域)に従って展示します。

子どもの発達を概ね右肩上がりのグラフで表すとすると、それは直線にはなりません。カーブを描いたり、山並みのようにギザキザになったりします。身長や体重、手や足の大きさ、人間関係の広がりやコミュニケーション力、遊具のバリエーションや活動範囲、言葉の発達など、それぞれのテーマで異なりますし、個人差もあります。

特に表現の領域は「感じたことや考えたことを自分なりに表現することを通して、豊かな感性や表現する力を養い、創造性を豊かにする」ことです。そこで成長展では、1歳児クラスから子どもの4つの描画制作を展示します。4つというのは「自由画」「ぬりえ」「人物画」「シルエット」です。

シルエットというのは、人や家、犬などの形をしたシルエット(黒画用紙を切り抜いたもの)を子どもが白い画用紙の上に自由に並べて「お話」を語ってもらうます。それを先生が聞き取って説明文を添えたものです。

この4つを4月から2月まで、それぞれ4ヶ月ごとに作って並べます。ですから自由画が3枚、ぬりえが3枚、人物画が3枚、シルエットが3枚並び、その変化をみてもらいます。1年での「変化」の中に、子どもたちの成長の軌跡が見えてきますから、興味深い気づきが生まれることでしょう。

表現① 感じたことや考えたことを自分なりに表現する

2020/02/15

◆アートの中の「中間領域」

14日金曜日の夜、ある知人の保育園で、4歳の子どもが作った造形作品について、その園の先生(アート担当)からとても面白い話を聞きました。3歳児、4歳児、5歳児と成長していくにつれて、制作遊びも発展していくのですが「4歳児のクラスのある特徴に気づいた」とおっしゃるのです。それは昨日もお話ししたように、制作というアート(技術)の中にも「中間領域」がある話と通じるものでした。

「なんと名付けていいのかわからないのですが、ちぎったり、ハサミで切ったりしてくっつけていく過程で、いらなくなったものがたくさん出てきますよね。それがとても多いんです。ゴミというか無駄というか、余計なものへの配慮がまだあまりできないので、それがどんどん出てくる。5歳児クラスになると、それがあまりなくなる。3歳の頃は逆に少ない。そこまで活用しようとしない。この特徴に気づいたので、それをなんとか展示で伝えられないかと思って、作っている途中で出てきた、切り屑を取っておいて、ジッパーの袋に入れて作品の隣に飾ってみたんです」

(上の写真)

◆いらなくなったモノが知らせる子どもの発達

子どもの制作の結果としての作品だけを展示するのではなくて、その制作の過程で生じた「くず」「ゴミ」「無駄」の方にも目を向けてみるという展示方法。これはちょっと、深く考えてみたくなる気づきをいただいたなと、とても面白く感じたのです。子どもの造形のプロセスに目を凝らしてみる。しかも、その場で捨ててしまうようなモノ(あるいは再生用としてストックしておく)に着目する発想。そこに発達の特徴を感じ取るアーティストのセンス。

「それは面白いですね。それなら作品を1枚目のパネルに貼って、その制作過程で出た余りをその裏に展示して、どっちが作品かわからないような展示というのもアリかもしれないですね。それぞれが作品Aであり作品Bであるような」

作品Bの増加と減少の軌跡を発達に応じて展示してみるのも面白いかもしれません。ストックという量だったり、素材の種類だったり。2月29日(土)の成長展は、子どもの結果としての作品を展示するだけではなく、その作品が変化していくプロセスをお伝えします。その方法として、こんなアプローチも面白いかもしれないと思ったのです。

◆展示の仕方が園のアートになる

そして、こんなことを考えていてさらに気づくのは、私たちは何かにつけてすぐ「作品」というけど、それは意図した結果だけなのか、それとも偶然の結果も含むのか。あるいは人の営みでありながら、意識の対象に入らないものはアートとは言えないのか。その自覚の発達を追うこともアート表現になるような展示が可能なら、それは子どもの作品でありながら、子どもの発達を可視化するための、園あるいは先生の意図に基づく「展示という作品」になるものです。つまりアート展示の多層性をそこに見つけることができそうです。

発達の中間領域を大切に

2020/02/14

自信のある人になるには、思いが受け止められることが世界を信じることになり(基本的信頼感)、そもそも自分の力で世界に働きかけること自体が喜びになったり(自己効力感)、さらにその結果が他人の役に立っているという手応えが返ってきたり(自己有用感)、そうした一連の自己に対して自分が未来に対して前向きに取り組めそうな気持ちが湧き出てくること(自己有能感)。今日14日の午後は、そうしたことに思いを巡らす時間がありました。

いずみこども園が開いた研究発表大会に参加してきました。3歳と5歳の公開保育、その後の研究協議、シンポジウム、記念講演です。研究テーマは子どもが自分を大切にすること、そして他者へも大切にできること。そうした人になるには乳幼児期にどんなことが大事なのか。実際にやっている保育を視察して、配布された資料を読んでこども園全体でどんな保育を目指そうとしているのかを理解して、そのアプローチについて、教育関係者が集まって知恵を寄せ合う。千代田区教育委員会がこども園に委託して2年間実践した研究結果の報告会です。

学んだことがたくさんありましたが、千代田せいがの保育実践と同じ研究根拠に基づいて、いずみこども園も実践していることがよくわかりました。乳幼児期からの発達観や環境を通した保育と援助、その中でも人的環境の質に焦点を当てた研究論文などが参照されていました。こども主体の保育や環境を通した保育など、保育理念や保育方針で世界が向かっている方向と同じでした。その羅針盤の役割を担っているのは、海外の保育動向に詳しい秋田喜代美・東大大学院教授です。記念講演の中で、印象に残ったのは保育のプロセスの質について、私が「成長の中間領域」と呼んでいるプロセスに言及したことでした。

私たちの認識は、対象を捉える時には、必ず無意識に節目や輪郭を設けてしまいます。切れ目のない移ろいを捉えることは苦手です。私たちは「できた、できない」「わかった、わからない」。その境目を漂っている意識を捉えることがとても苦手です。「やるの?やらないの?」「食べるの?食べないの?」「〇〇なの?○○じゃないの?」「ウンチは自分でしたか、しなかったか」「寝たのか、寝てないのか」。そうした区切りを求められて生きざるを得ないのが現代社会の特徴なのですが、発達のプロセスはもっと複雑系で、行ったり来たり、できたりできなかったり、わかったような、わからないような、そんなぼんやりした境目が定かでない「うつろい」を大切にしないといけないのです。

ここからが大切なのですが、それでも教育を語る人たちは、つい「できる、わかる、しようとする」に向けて、こどもに暗黙の圧力をかけてしまいます。どうしてそうなるかというと、それが「好ましいこと」だからです。でも、動機が善いことでも、結果がよくなるとは限らないところに、教育の難しさが潜んでいます。それを見分けることは、難しいことに思われますが、わかりやすい目安があることを、知っています。それは子どもが教えてくれるのです。

その暗黙の圧力を敏感に感じ取り、そこから逃れようとして「自分で、自分の中から、自分らしく」動き出したくて、思いっきり「イヤイヤ」を主張したり、本人にとっては「大きなお世話」と思えることから身を引いたり、その空間や場から逃れようとしたりします。それが多くの事例となって証明されているのが、学校や園に行くのが怖くなったり、自分の部屋に引きこもっている方々の存在です。自分を大切にすることは、その人を心から信じることが必要なのですが、その大前提が語られることが少ない気がします。

成長の「中間領域」を大切にすること。これも、大切な見守る保育のスタンスの一つです。その実例がクラスブログに、毎日のように報告されています。冒頭の写真は佐久間橋児童遊園ですが、「できるかなあ、どうかなぁ」と、身体と空間との内的対話が聞こえてきそうです。

千代田せいが保育園のカリキュラム

2020/02/02

先週は保護者会でいろいろな話ができて、楽しい時間を共にできました。参加していただき、ありがとうございました。この数ヶ月間、子ども(赤ちゃんも)が自分づくり(自分探し)をしている姿に感動したり、夜の睡眠がとても大切なことだと再認識したり、そして鬼ごっこのように規則のある遊び(ゲーム)を含む創造性が発揮されやすい遊び(プレイ)を増やしたりと、いろいろな保育実践を積み重ねてきた成果を、保護者会という機会に少し確認できた気がします。2月は、これまでの成長の軌跡を振り返る行事「成長展」があります(29日)。そこで今月は、子どもの成長の読み取り方を意識してみます。

◆子どもの育ちを見る目を持つ

子どもの成長や育ちを表す言葉は、英語では二つあります。一つはグロースです。「一年で随分と大きくなったね」と言う時に使います。身長や体重など身体的な成長を指すことが多いですね。経済学の「経済成長」はエコノミック・グロースです。もう一つが、デベロップメントで発達と訳されますが、こちらは精神的な側面も含むので、保育で発達というと心身両面の育ちを意味します。心の発達という言い方をします。

私たち保育士は、この発達を理解することが、専門性の中心に位置づきます。ただし、お医者さんのように健康かどうか、病気や障害かどうを診断する視点ではなく、教育(5領域)と養護(生命の保持・情緒の安定)の視点から捉えます。この教育と養護は世界中、同じです。英語ではエデュケーション・アンド・ケアです。略してECと言います。

ちなみに「保育」のことを、乳幼児を意味するアーリー・チャイルドフッド(EC)をつけて、Early Childhood Education and Careと呼びますので、略してECECと書くことが多いです。これが世界的には保育の意味です。英語では、とても長い言葉になりますが、日本では「保育」という言葉が、これを意味するので便利ですね。でも、保育には教育が入っていないと誤解されやすいという欠点もありますが、私たち保育者は、保育とは「養護と教育が一体となっている」と理解しているのです。

◆小学校以降は教科カリキュラム

教育の視点は幼稚園もこども園も全く同じですし、教育内容も全く同じです。保育園だから教育がないと誤解されている方が多いのですが、そんなことはありません。全く同じ目標や内容で実践しているのです。違って見えるのは、幼稚園が4時間、保育園は8時間ですから、日本の幼稚園は制度的には「学校」ですから、大人が決めた活動が時間割で活動が並ぶ「教科カリキュラム」的な園が、私立を中心に多くなります。就学準備型、と分類されることもあります。

この方の特徴は、世界的に読み書き計算の基礎(知識・技術)の育成に力を注ぐので、遊びという形式(手段)を通しての文字や数や体力などの習得を目指します。ですから厳密な意味での自由遊びではありません。遊びが手段になっているので、子どもの「自発的な活動としての遊び」(本来の遊び)にならないことが多いのです。現在の日本の幼稚園教育要領はこのやり方を否定しています。

ただし、公立幼稚園は幼稚園教育要領をよく理解しているし、それに準拠していることが多いので、子ども主体の自由遊びの時間を多く設けています。ただ、私が知っている年配の経験豊かな保育者によると、昔の活動内容としての5領域(あるいは6領域時代)の方法の影響と、どうしても一人担任や乳児の担当制になるために、以下に説明するオープン保育に移行できない壁があるようです。

◆乳幼児期に目指したいオープンカリキュラム

一方、千代田せいがのような、世界が目指し始めた保育、OECDが推奨している保育は、一人ひとりの子どもが決めた(あるいは選んだ、創っていく)生活と遊びなので、その内容を時間割で並べることができません。もちろん室内遊び、散歩・戸外探索、食事、休憩、午睡などの大まかな区切りはあります。こちらは「オープン(経験)カリキュラム」あるいは「生活基盤型」となります。知識・技術がしっかりと身につくように、その基盤(根っことか土台とよく言いますよね)となる、子どもの自信や意欲や人間関係力など非認知的能力を大切にします。土台をしっかりしていないと、その上に建つ建物がしっかり立たないからです。毎日の生活の中で、子どもが気づいたことが出発点になります。園庭がないから、「地域全体を園庭に」という発想は、学びの対象を実社会におき(教科書やドリルやお稽古教室ではなく)、地域や保護者の方も一緒に、子どもの経験を豊かにするために協力しましょう、というカリキュラムなのです。

では、この違いはどちらが、<教育的に効果が高い>と思いますか?

◆経験から自ら学ぶ力(learning to learn)が育つ

これは、すでに学術的にはっきりしていて国が強く求めいる「主体的・対話的で深い学び」(アクティブラーニング)が実現しやすいのは、後者です。前者は早く結果の姿が現れますが、小学校三年生で変わらなくなり、その後、後者に追い抜かれます。このスタイルは小学校以降の学びにはふさわしのですが、乳幼児期はまだ早いでしょう。後者は生活と遊びの中で、自分の切実なテーマ(発達のテーマ、課題)に沿って学ぶことができるので、学び方も学んでいます。これを昔から「単なる知識を教え授ける教育」ではなく、子どもが「経験から自ら学ぶ力(learning to learn)」を育てようといわれてきたものなのです。そう考えれば、後者が生涯学習時代の基礎になることや、変化の激しい時代、学ぶ内容がどんどん変わっていく時代にも対応しやすいというのは自然にご理解いただけるはずです。

後者の保育は、保育者の力量、園全体のマネジメントが難しのですが、千代田せいが保育園は、後者のノウハウ(保育理念〜保育方針〜保育方法)があることと、保護者の皆さんがこの保育を支持してくださっていることから成立しています。

 

 

 

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