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見守る保育(保育アーカイブ)

アンガー(怒り)のコントロール

2019/08/20

わいわいとらんらんの遊びの様子を見ていると、こんなことに気づきます。以下は特定の子ではありません。どの子にも当てはまる特徴だと思ってください。

◆謝りたくない気持ちとは?

例えばAくんの手がぶつかって「イタッ」と思ったBくんが「痛い」と相手Aくんに訴えます。ぶつけた方のAくんが、その訴えに気づいて「ごめん」と謝ってBくんが「いいよ」となれば、仲直り成立で、また遊び始めます。ところが、Bくんが「痛い」と訴えても、Aくんが謝ってくれないときがあります。Aくんがそれに気づかないときもありますが、知っていても、ぶつけたことは「自分が悪くない」と考えて謝らないこともあります。その言い分をよーく聞くと、大抵は次の2つの「論理」がみられます。

そんなとき、ぶつけたAくんのような立場の子がいう理由でよく聞くのは「先にBくんが◯◯したから」というものや「わざとじゃない」というものです。話は長く複雑ですが、核心を要約するとそうなります。
◆先にやったのは自分じゃない
これは典型的な2つの正当化理論といえます。最初の理屈は「先に痛い目にあったのは僕の方で、そのときは見逃してあげたんだから、君だって文句言わず、それくらい我慢しなよ」という考え方です。「被害はお互い様なんだから、僕だけ謝ったら不公平だ」という気持ちがあります。この被った害の量が同じなら公正であるという感覚が、子どもたちには歴然とあります。やられたから、やり返すというのは動物もやります。
◆いまさら言われても・・
しかし、やっかいなのは、いま「痛かった、無視しないで、ちゃんと謝ってよ」と訴えるBくんにとっては、最初のことは自覚がないか、もう過去のこととして終わっている場合があって、「いまさら、そんなこと蒸し返されても」と感じる場合と「ああ、確かにそうかも」と思い出す場合があります。ただ、大抵は「今のこの痛さをなんとかしてよ」の気持ちの方が切実なので、素直にイーブンであると受け入れることは、まずありません。
◆わざとやったんじゃない
2つ目の理由「わざとじゃない」も、強力な理論です。子どもは9ヶ月ごろから人は「意図」をもつ存在であることが分かるようになります。意図してやったことは、より悪いとわかっています。なので「わざとじゃないもん」が、「自分は悪くない」とほぼ同じように使われてしまいます。意図したことか、それとも過失なのかで罪の軽重が変わるのは、大人社会の罪と罰の関係も同じです。
◆ハムリンの実験
最初の「先にやったのは自分じゃない」という憤慨は「よくないのはこっち」という判断に基づいており、1歳未満の赤ちゃんもできることが、わかっています。このホモ・サピエンスの強力な倫理観は先天的なのもです。この分野の研究で先鞭をつけた有名な研究者がハムリンです。次の動画をご覧ください。ちょっと脇道にそれますが、面白いのでみてください。協力的であることへ、赤ちゃんは共感します。
◆アンガー・マネジメント
 このような感情の噴出と鎮静を繰り返しながら、この子たちは、良心との葛藤を経ながら、倫理を学んでいます。どのように言えば、分かってもらえるか、どのように言われたら許そうと思えるか、そのような経験を子ども同士の中で繰り返しながら、感情のコントロールを学び続けています。とくに子ども同士のけんかは、怒り(アンガー)をコントロールする練習です。その正義の怒りを、自分の中の暴力に転化させず、ほかのエネルギーに昇華させることを学んでいく必要があります。この感情に負ける大人の犯罪が増えているのは、幼児期の自由遊びが足りなかったのでしょう。人は生まれたときから道徳的ですが、現代の社会では、子ども同士の関係がなくなり、子ども社会で育つ機会が奪われてしまっているのです。
◆私たちがやるべきこと
私たち保育士は、いざこざの中でどっちがいいか悪いかをジャッジして、謝らせることを優先しません。お互いの気持ちがすれ違っていて、子ども同士のやりとりだけでは手が出てしまうようなときは止めに入ります。気持ちや、考えをわかり合うためのサポートが必要なときは例えば「ホントはこうしたかったんだって」などと、お互いの気持ちや考えを代弁します。また言葉で伝え合う力があるなら、ピーステーブルに促したりして、考えを伝え合う機会を保障します。子どもが自分の感情を味わい、自らの内面からそれに打ち克つ時間を待つ必要があります。そして必要な時間は、個人差があります。
◆自律を育てる
できないところは助け、できるところは自分でやれるように援助します。自分でできるようにと言うのは、言われて謝れるのではなく、自分から悪かったなぁと思えるような心を育てることです。「ごめんね」と形だけ言えることではなく、仮にバツが悪くて言えなくとも心から「ああ、悪かったな」と思えることが大事です。形だけの行動よりも、相手をいたわったり、優しい心情が豊かなら、行動はついてくるものだからです。無理に謝らせても、自分から謝罪できる勇気や気概も育ちようがありません。反対に、いろいろなことを言って外からの働きかけでそのタイミングで「させて」いると、その働きかけがなくなると、やらなくなります。それは自律ではなく他律だからです。

くつろぎと安心のゾーンを新設

2019/08/16

昨日15日から3階の幼児空間に「くつろぎゾーン」を設けました。家庭のリビングが、ゆったりとくつろぐ場所であるなら、子どもの生活にもそれは必要です。
「くつろぐ」という言葉は子どもには難しいので、のんびり、ゆったり、といった気持ちをイメージしやすいイラストも近くに掲示しました。
こんな空間が、子どもに必要だろうかと、思う方がいるかもしれません。また空間に余裕があるなら用意してもいいぐらいに考えるかもしれません。しかし、そうではないのです。もっと積極的な意味があります。
◆海外では当たり前にある場所
(マレーシアの保育園)
くつろぐ場所を園内に用意するのは、海外では当たり前です。日本の学校にはプールがあることで驚かれますが、ダイニングやくつろぐ場所がないことにも驚かれます。くつろぐ場所が、いかに当たり前の空間かを表すものとして、海外でよく使われている有名な「保育環境評価スケール」を紹介します。43ある項目のうち、3番目に「くつろぎと安らぎのための家具」があります。
◆「とてもよい」環境を目指して
この保育環境評価で「よい」の評価をえるには、次の3つのことが、揃っていなければなりません。
・1日の相当の時間を、くつろぎの場で過ごすことができる。
・くつろぎの場は、体を動かす遊びのためには使われない。
・柔らかな家具はおおむね清潔で手入れがよく行き届いている。
さらに「とてもよい」のためには、さらに次の2つのことを満たす必要があります。
・くつろぎの場以外にも子どもが使える柔らかい家具がある。
・子どもが使える柔らかくて清潔なおもちゃがたくさんある。
◆リビングは寛ぎの居間
こうした保育の専門的な視点を持ち出さなくても「寛ぎ」が大事だと思い直すことができないでしょうか。子どもは寝ている時間以外は、生活と遊びのなかで学び続けています。そのエネルギー効率は凄まじく、これと同じことを大人は真似できません。くつろぎと安心が得られる空間は、住宅表記では「◯LDK」と表すときのリビング(L)に当たります。生きる、生活するメインとなる空間です。ダイニング(D)やキッチン(K)と併せて、必須の場所として最初に書いてあるように、くつろぐ場所は大切な生活空間でなくてはなりません。
◆くつろぎは養護の条件
人間の生活には「衣食住」が必要です。「住む」ところは「寝る」ところでもあります。そして子どもには「遊ぶ」がなければなりません。すると確かに「子どもの生活」は「遊ぶ」「食べる」「寝る」の3つが時間的にも空間的にも、重要な要素になっています。この3要素を満たすことは、最近、このブログで説明してきた「養護」(生命の保持、情緒の安定)を満たすことでもあります。
生活空間も、最初からその3つのエリアを用意しておけば、園生活はスムーズに運びます。さらに私たちは生活空間を静的なエリアと動的なエリアを対照的に配置することで、生活動線のコンフリクトを避けています。
◆日本の最低基準はサイテー!
ちなみに日本では幼児教育施設が養護を重視した「生活」ではなく、狭い意味の教育でしかない「学校」を前提として基準ができてしまっているので、年齢別の「教室」しか作られません。「生活」という発想がないので、リビングやダイニングや寝室が、建築設計から完全に抜け落ちています。子ども一人当たりに必要な最低面積が1.98㎡しかないのは、一人分の机と椅子を置いたときの面積だからです。ひどい話です。これではとても、ゾーンどころではありませんね。

20歳の懐かしい再会

2019/08/11

今年成人式を迎えた11人と再会しました。2004年度にせいがの森を卒園した仲間たちです。保護者とはすぐにわかりますが、園児たちとは「誰だかわかりますか?」と、愉快な名前当てクイズになります。中学までは地域で会っていた子はすぐわかりますが、15年ぶりですぐには分からない子もいました。でも話せばすぐにわかるもので「変わらないね!」となって、楽しかったです。
保護者の皆さんとも当時のエピソードを語りあって、あっという間に時間が経ってしまいます。実に感慨深い日になりました。
 せっかく八王子まで行ったので、雑木林でカブトムシのツガイと、伐採した園庭の桜の枝をもらってきました。
カブトムシがまた、元気に卵を産んでくれるといいんですが。

探索基地の形成と学び

2019/08/10

心が安定すること、つまり「情緒の安定」は「学び」に直結します。それは、どういうことでしょうか。発達や学びの辞典に紹介されているような有名な仮説をもとにすると、こうなります。
(屋上で育てたスイカを収穫。翌日、食べました)
◆「興味・関心」が「生きる世界」の窓になる
9日金曜日の見学者の赤ちゃんは4か月で、案内中、ほとんどお母さんの胸の中で寝ていましたが、後半は目覚めると、話し声がする私の方へ首を振り、私の顔を見つめます。乳児は生後2ヶ月くらいから周りの人の目に視線を集中させるようになります。これは遺伝的基礎に基づきます。この赤ちゃんは私という「未知」の対象に関心を向けています。関心が向かわない限り「生きる世界」は広がりません。関心が生きる世界の窓になっています。私の声と聞き慣れた母親の声を区別し、時々、2人が笑う声に反応したりしていました。
◆子どもの探索基地
この赤ちゃんを眺めながら、私はこうお母さんに話しました。「あー、Aちゃん起きましたね。話を聞いてますね。しっかり私を見つめますね、知らないこのおじさん誰だろうって(笑)」と。この場合は赤ちゃんは「目線」だけですが、身体が自由になる状態なら、興味があるものに手を伸ばして触ろうとしたり、それを口に持っていって確かめようとするでしょう。
(ちっちの子どもたちも、先生が安全基地になっていろんなことをやって楽しんでいます)
そのようなことを盛んにする心理状態は情緒が安定している時です。不安だったり、お腹が減っていたり、眠かったりすると、泣いたりして、まずはお母さんという愛着対象に依存して安心を得ようとするでしょう。そして安心や安全が確保されるとまた「探索活動」が始まります。信頼する人を安全基地や探索基地にしながら、持って生まれた好奇心が世界への学びへと向かわせます。「情緒の安定」が「学び」に直結するとは、こういうことです。
(お友だちとの関わりも盛んです。ちっちのブログをご覧ください)
◆社会的スキルも学習
月齢が上がっても同じことがいえます。ハイハイして、あるいは歩いて目新しいもの、面白いものを求めて探索します。ちっちやぐんぐんの子たちも、探検家のように毎日が発見の連続です。
(にこにこ組の外の通りがよく見える場所。先日の模様替えで作りましたが、とても好評だそうです。子どもたちにとって新奇なものは、大好きだからです。ちなみに、通りからは子どもの顔があまり見えないように、フィルムが貼ってあります)
模様変えした、にこにこの子たちは道路側の観察コーナーが、車や人が見えて人気のようです。わいらんすいも仲間関係の学びがたくさん起きています。「入れて」「いいよ」などの社会的技能を身につけています。また遊びが目的志向的な遊びが見られるようになってきたり、感情のぶつかりあいを通して情動抑制も徐々に(小学校期も含めて)うまくなっていきます。
(スイカの白い種と黒い種があるのに気づいたJ君が、と「どっちも芽がでるのかな?」と疑問をもった。早速、白と黒に分けて土に蒔いてみることになった)
◆情緒の安定と学びは表裏一体
このように保育は家庭でも、この大人の愛情、保護、学びの要素から成り立っているのです。このような心理的機序があるからこそ、私たち保育士は「保育とは養護(生命の保持と情緒の安定)と教育が一体的におこなわれるもの」だということを大切にしているのです。

心が落ち着いていること

2019/08/09

◆「子どもが落ち着いていますね」

 
今日は2組の親子に入園の案内をしました。0歳と2歳です。「子どもたちが落ち着いてますね」。そう言われてみて、改めて思いめぐらしたことがあります。それは「心が落ち着いているとは、どういうことか」 ということです。
◆安定した気持ち
では、同じような意味をもつ表現を集めましょう。連想ゲーム、言葉遊びです。
・・・・・
心が満たされている。満足している。
やりたいことができている。
不安もない。
愛されている。
認められている。
目的が叶っている。
仲間がいる。
喜んでいる。
・・・

こんな気持ちでいられたら、それは幸せなことです。確かにそんな時、子どもは落ち着き、いい顔をしています。今日は「心の解放」と「安定した気持ち」の関係について考えます。

◆情緒の安定とは・・・
こんな状態を、私たち保育士は「情緒が安定している」といいます。先ほど述べた心の状態を別の言葉でいうなら、安心、愛情、承認、達成感、連帯、歓びでしょうか。これらに共通するのは、一人では得られない社会的なものだということです。人間関係の中で初めて、得られるものです。一人で得られるものではありません。社会性とは、人間関係を上手くやる力だと思って、ほぼ間違いありません。それなら人間性とは、豊かな社会性のことになります。
◆欲求が適切に満たされるから
さて、満たされるから満足するような心の動きを、「欲求」と言っていいなら、欲求が適切に満たされるから、情緒は安定するのです。もし気持ちが穏やかでないなら、その人は何かの欲求が満たされていないのかもしれませんね。
実は、子どもも同じことです。赤ちゃんの頃から、安心した気持ちでいること、愛されること、「見てみて」というとちゃんと応えてもらえること、「やったあ、できた、できたぁ」って嬉しがってもらえること、そばにいるのが親しい「お友だち」であること、そして友だちが楽しそうだと自分も嬉しく思うこと。
こんな生活が確かにあります。
◆心が解放されると心は落ち着く
この「情緒の安定」が図られことを、別の言葉でケアといいます。養護のこと、世話をする、配慮すると言った方がわかりやすいでしょうか。先生たちは、のびのびと心ゆくまで、やりたいことが出来るように、子どもたちの欲求に応えています。先生たちはどこまでも優しく穏やかで、寛いだ雰囲気を大事にしてくれています。だから、子どもたちは落ち着いているのでしょう。
◆心の解放も欲求の一つ
そうすると、欲求に応えてあげることは、心を解放することも含まれてることになりますね。
だだし、大切なことを忘れてはいけません。それは、家庭でもここで申し上げたことをやってくださっているからこその園生活だということです。家庭での落ち着いた生活があって初めて、落ち着いた園生活になるからです。
情緒の安定は、実り多き学びに直結するのですが、その話はまた明日。内発的動機が生じる仕組みについてです。

湧き上がってくる心を受け止めながら

2019/08/08

今週は子どもの「心の解放」がテーマになっています。子どもが「自分の生きたい自分」を生き始めたとき、こんなことをやりたかったんだね、と教えてもらうことがいっぱいあります。今日8日には私たち誰もが持っている「身体をもっと使いたいという衝動」が溢れ出てきた時間がありました。

◆潜在的に持っている力

私がお昼寝マットを胴体に巻いてサンドバック役になってみたら、6人ぐらいの子どもたちが叩く、蹴る、頭突く、押す、剥がす、潜り込む、ぶら下がる・・など、必死で私に向かって「あらん限りの力」を出し切ろうとします。よーし、いいぞ、いいぞ、もっとかかってこい!と思いながら、どうなっていくのかやってみました。
きっかけはJ君が緑の布地の揺れる遊具を丸めて叩いて遊び始めたからで、それなら「園長先生がサンドバックになってあげよう」と試してみたのです。いろんな生活シーンや遊びの中で「やめてー」と叫ぶ子どもが多いのですが、どんな時に叫んでるのか、よーく観察すると、ほんの些細なことが我慢できないので、すぐに他人のせいにしています。まだ3〜4歳の自己中心性を脱していません。そんな彼らの発達心理的な意味を理解しながら、その子一人ひとりの心もちに応えていきました。
15分ぐらいでしょうか、しばらく続きましたが、私はあえて負けてあげなかったので、彼らには達成感はなかったでしょう。そうしたのには、理由があります。
◆私の実体験
私も4歳の頃、大人にこうして遊んでもらったことがあります。思いっきり押しても叩いてもビクともしない、圧倒的な強さの壁。そのときに味わった感情をよく覚えています。自分のなかにある攻撃性や闘争心に火がつく感じ、しかし、いくらやっても力では叶わない相手。やがて悟らされる軽い屈辱感。決してスカッとした爽快感ではありませんでした。もちろん当時こんな分析ができたわけではありません。でも、なぜか何度もやっていましたが、いつしかつまらなくなってやらなくなりました。相手が負けてくれていたら、もっとやっていたかもしれません。それはわかりません。
◆自分のいろんな気持ちに出会ってほしい
彼らもまた、ビクともしない私の身体を相手に、いろんな顔や声や気持ちを見せてくれました。びくともしないことに「アレッ」と意外に思う反応、単純に体を動かすのが楽しいと言う笑顔、タックルして自分がひっくり返ることの面白さ。よーし今度こそ、という気持ちと気合のギアチェンジ、助走を長くして走ってみる工夫、私も想定外なのは、胴体に巻いているお昼寝マットを剥がしにかかる作戦に出てくる子がいて「それもアリなんだ⁈」と、彼の意外なアプローチに彼らしさを感じました。
◆体験の意味について
保育の意味について、何に説得性を感じるかは、科学者でも違いますが、戦いごっこを好むのは「もっと強くなりたい!」という願いの表れということがいわれることがあります。もっと踏み込んで「自信をつけたいから」という深層心理と結びつけることもあります。人間なら誰もが持っている、闘争心や攻撃性、それらと関係もあるでしょう。
でも、そのような一般的な言説が、一人一人の子どものその時々の心理に当てはまるとは限りません。家庭での体験も影響するでしょう。複雑で、変化に富んだ心の動きを、一面的に切り取って解釈しても、真実とは似て非なるものだろうからです。
◆善さに向かう育ちを信じる
そこで私はこう考えています。私の実体験とも一致しているからですが、私は「人はなぜか自らより善き事へ向かって、調整していく力を持っている」(村井実/佐伯胖)という発達観を信じています、というか慣れ親しんでいます。
ですから、こう思います。
まずは子どもたちに、他人との関わりの中でしか噴き出て来ない感情を味わってほしい。お友だちとの関係の中で、息づいている感情と向かいあってほしい。
◆気持ちの調整には時間がかかります
そして、できればこう考えてあげてほしいのです。自分の感情を知りコントロールできるようになるのは、ゆっくりだということ。感情を子どもなりに整理して消化するには、時間がかかります。そのとき、大人から期待された行動がすぐにとれない心理状態というものがあって、自分を守るために、「なにもしない」「いやだ」という時間が必要な場合も多いのです。
家庭や地域には、子どもの同士の関わりの中で学ぶ機会がありません。園生活では、家庭では体験できない社会性を学んでいます。

シンカリオンを見てみる

2019/08/07

「子どもが興味や関心を持っているものは、大人も見たり体験してみよう」。私は保育士養成校で学生によくこう言っていました。「子どもがなぜ、それが好きなのか、どういう感じでそれを楽しんでいるのか、実際に感じてみよう!」と。
そこで今朝、シンカリオンを見てみました。一部の男子に人気のテレビ番組です。新幹線がロボットに変形して大怪獣と戦うのです。いまや日本アニメの代表として世界的に有名な「マジンガーZ」と同じタイプの操縦ロボものです。「E5はやぶさ」「E6こまち」「E7かがやき」「E3つばさ」「N700Aのぞみ」など、実際の新幹線の名前がついたロボットを、小学4年生から中学1年生の男女が操縦します。
今朝は「ブラックシンカリオン」が味方のピンチを救うストーリーでした。「ブラック新幹線なんて実際にはないけど・・・?」と思って番組サイトを検索したら、「10年前突如現われた正体不明の謎の新幹線」でした。うまくできてる!
ブラックシンカリオンが、大きな怪獣を押さえている間に、他のシンカリオンがでかい手裏剣のようなものを振り回してやっつけた!と思ったら、「さっきのは影武者だ」とかなんとか言って、また戦うことを約束して次回に続く・・。また次を見たくなるようなところで終るあたり、まぁ、そこも昔と同じでした。
◆男子が好きなツボを押さえた作り
男子が好きな要素を上手に取り込んでいます。変身、鉄道、怪獣、収集、小学生、忍者、戦い。本当の新幹線の系統番号などと同じで、走っている場所の都道府県が出身地になっていたり、女子のキャラクターも配置していたり、あまり過激な表現もないなど、親を敵に回さないための配慮が明瞭です。スポンサーはプラレールやトミカの(株)タカラトミーです。
◆テレビは表層イメージを共有しやすいのが強み
ごっこ遊びは「再現遊び」なのですが、登場するキャラクターを共有していれば、その名前を言うだけで相手にも伝わります。シンカリオンはそれぞれが得意技を持っていて、それを繰り出して戦うときに「フミキリシュリケン!」とか「ビームライフル!」とか、口癖の「ぶちおもしれえ」とか言って遊べるわけです。
運動ゾーンのネット遊びの中で飛び交っていた「言葉」の世界は、きっと、そんな感じだったのでしょう。テレビ映像を思い浮かべて少し想像できます。

◆子どもは手と足で感じて考える

昨日はこの「園長の日記」で、「週1回ぐらいのテレビの影響に負けたくない!」という趣旨を書きましたが、実はこの番組は毎日やっていました。火曜~金曜 の朝7:00~8:00に、2話ずつ放送しています。毎日見られるのです。これは、ちょっと「手強い相手」かもしれませんね。

でも大丈夫です。子どもは身体ぜんぶが感覚です。あくまでも例えですが「子どもは頭と手足で一緒に考える生き物」です。テレビは所詮テレビです。リアルに五感が揺さぶられるような遊びの魅力には、到底及ばないのです。

テレビ番組のシンカリオンよ、千代田せいがは「センス・オブ・ワンダー」な体験で、「しょーぶだぁ!」。

(カブトムシを幼虫の頃から育て、孵化するときも観察し、ジェリーの餌を与えて、飛ぼうとするとき羽を広げるところをみたり、カブトムシを持てるようになったり、こうやって、それを見せてくれたりしています。でも、先日、飼っている虫かごに、カブトムシは湿り気がある方がいいという話を勘違いして、ドボドボと水を入れてしまい、溺れて死んでいましました。そんな痛恨の失敗が起きるのも、実体験の詰まった生活です)

戦いごっこの是非

2019/08/07

今日は先月7月9日と同じく日本橋でギビングツリー主催の研修会がありました。その中で、いろんな保育の話をしましたが、自由遊びについては、偶然、男子の「戦いごっこ」が話題になりました。研修会から、その部分だけご紹介します。ちょうど、昨日までの続きになります。
◆役割交代のある遊びを
戦いごっこは、基本的に武器を使い、暴力で相手を負かすものなので、ヨーロッパのドイツやフランスでは遊びとしては推奨されていません。ただ、自由遊びの種類として、一定許容されているのは、役割交代のある場合です。

例えば、いわゆるヒーローものには、正義の味方や悪者役を演じ合うロールプレイになることが多いので、自由遊びの「条件」に当てはまるようです。女子なら「お姫様もの」が該当します。

いまの70歳前後の団塊世代なら「月光仮面」、「怪傑ハリマオ」その下の60歳前後世代なら「マグマ大使」「ウルトラマン」などのヒーローと悪者役で遊んでいます。その後は「仮面ライダー」シリーズが長い間、他に人気を譲らず、90年代からは「◯◯レンジャー」がテレビの特撮ヒーローの座を占めてきました。
◆テレビに負けるな、遊び!
ところが、今の子どもたちの「ヒーローごっこは、ちょっと心配です」と藤森統括園長はいいます。
「見ていると、悪者役がいません。力任せに強い方が勝ちです。それぞれが、自分が一番!という強さだけを競うヒーローになってしまっています」
テレビの影響が大きいとはいえ、たった週30分程度の番組が子どもたちの心を掴んでしまうことに、私たちは負けるわけにはいきません。そんなものよりももっと夢中にさせるものを用意しようと思います。

心の解放と自由遊び

2019/08/05

人は心が解放されると嬉しいと感じます。精神性の自由は、人間性の根幹だからです。空想の羽を伸ばし、自由な発想で自分らしく生きる時間を満喫出来ること。これこそ人権の核心です。だから現代の憲法もその自由を保障します。日本国憲法も同じです。国家は個人の心を縛ってはならないのです。それが「基本的人権の尊重」の意味です。

子どもは心が解放された状態のとき、自由に遊んでいることが多いものです。そのことは昨日お話しました。今日はその続きです。テーマは「自由遊び」についてです。自由遊びが人権の尊重と結びついていることを、私たちは深く理解する必要があります。
◆遊びという切実な要求
こんな文章があります。別冊日経サイエンス『心の成長と発達』から引用します。サイエンスライターのM・ウェンナーは2009年、米国の科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」に掲載されたレポート「遊びはシリアスなニーズ」で、次のように書いています。
ーーーーーー
「子どもの頃、ルールのない、空想力に任せた遊びをしたことがないと周囲に適応した幸せな大人に育ちにくい」。
ーーーーーー
そして、こう続けます。
ーーーーーー
「科学者は、そうした遊びを『自由遊び』と呼んでいるが、社会の中でうまくやっていき、ストレスに対処し、問題解決などの知的スキルを身につけるには、そうした自由遊びが極めて重要だ」
ーーーーーー
この結論に至るまで、アメリカの精神科医スチュアート・ブラウンは42年の歳月をかけて6000人から幼年期の話を聞いてデータを集めています。
◆ネットの上での自由遊び
園生活の中で、今日もそんな「自由遊び」を楽しんでいる場面がありました。私が担当している「園長による朝の運動遊び」のときです。ネットへのよじ登りがひと段落すると、ネットに乗ったまま、わいわい、らんらんの男子たちの井戸端が始まりました。
ーーーーーー
「ハヤトのシンカリオンだ」「オレはハヤブサ」「じゃあオレはかがやき」「怪物がやってくるぞー」「いまだ、ツバサ!いくぞ!」・・・。
ーーーーーー
運動遊びを見守っていたら、子ども同士の戦隊ごっこになっていたのです。ただ、ことばだけですが。その会話遊びは、ゲームなどのルールのある遊びではなく、自分たちで「面白い」「楽しい」と感じる中で思いつくことを友だちに伝えあい、共有していく遊びであり、まさしく「自由遊び」です。
例えば普段、無口なKくんの饒舌なことと言ったらありません。シンカリオンの役割を演じているとき、彼らはコミュニケーション能力、他者理解、自己主張、感情コントロールなどの力を駆使しています。自由遊び、おそるべし!
◆シンカリオンというヒーローたち
私は彼らが何を語っているのか、全くわからないので、こういうときに頼りになるHくんに「シンカリオンってなぁに?」と聞くと明瞭な回答が返ってきました。「新幹線が変身してロボットのシンカリオンになるの」。なるほど、新幹線が変身して新幹線ロボットになる戦隊アニメーションもので、テレビでやっているらしいのです。彼らの心のなかではテレビのヒーローが躍動していたのでした。

子どもの心が解放される意味

2019/08/04

子どもの心が解放されるときって、どんなときだろう? 今日はそんなことを考える1日でした。きっかけは「高畑勲展」に行ったからです。
◆心が躍動している時間
早々と脇道にそれますが、ここでいう「解放」は解き放すというときのカイホウです。「人質が解放されました」の方です。校庭開放の「開放」ではありません。自由になること。束縛や拘束から逃れ心や身体が自由になることの方です。
◆自由に解放された遊び
高いところへ登り、虫を触り、動物や植物の神秘に驚き、心を躍動させて思いっきり自由に遊んでいるとき、子どもの心は解放されています。保育園では、そんな時間があります。子どもの心が自由になる時間に、子どもの心は成長します。子どもの精神世界は、思い通りにやりたいことができる時に、広がっていきます。・・・・そんな思いを強くする展示と出会いました。
 
◆プレヴェールのことばから学んだこと
高畑勲がアニメーションの世界に進むきっかけとなったのが、アニメーション映画『やぶにらみの暴君』を観たからだそうで、展示会場で、その一部が上映されていました。その脚本がフランスの国民的詩人ジャック・プレヴェール(1900~1977)です。映画「天井桟敷の人々」の脚本も彼です。
そして驚いたのは、当時未訳のプレヴェールの詞華集(アンソロジー)の代表作 『ことばたち』(ぴあ2004年)を訳したのが、高畑勲だったのです。プレヴェールの詩は、大きな影響を与えているそうです。その本は絶版なので今、アマゾンで調べたら1万円以上するのですが、その本の中で高畑は、こう解説しているそうです。
ーーーーーー
「プレヴェールは、早くから太陽や月や大地や海への敬愛や、草木や動物たちへの連帯と自由意思尊重を、子どもの心とユーモアで歌った」
ーーーーーー
私の興味を引いたのは「子どもの心」で、どのように「太陽や月や大地や海への敬愛や、草木や動物たちへの連帯と自由意思尊重」を歌ったのだろうか?ということことです。
それがわかれば、私たち保育者も、子どもの心を捉えながら、子どもが心動かされている対象の「太陽や月や大地や海」つまり「自然」への敬愛や連帯そして自由意思尊重を捉えることができるはずだからです。
◆奈良美智の「子ども」
そして、わかったのです、「子どもの解放された心」の意味が。
まず、プレヴェールの詩『鳥への挨拶』(ぴあ2006年)を高畑が編・訳を手がけたとき、その詩に奈良美智の絵がついているのです。「子ども」はあの奈良美智の子どもです。自由の意味がはっきりしてきました。
さらに、私にとって「あぁ、そういうことか!」と、はっきりしてくるのは、高畑が手がけた作品「太陽の王子  ホルスの大冒険」「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「じゃりン子チエ」「セロ弾きのゴーシュ」「火垂るの墓」「おもひでぽろぽろ」「平成たぬき合戦ぽんぽこ」に登場する子どもたちと、その子ども(=自然)が躍動するために必要な舞台こそ、高畑がこだわってきた部分であり、その装置にプレヴェールと同じ精神が息づいていることに気づいたのです。
◆ハイジは服を脱ぎ捨てて走る
展示でそれを象徴的に解説していたのは「アルプスの少女ハイジ」のオープニング・エピソードでした。「“解放される心”第一話アルムの山へ」で、ハイジが、ふうふういいながら急斜面を登りながら、重ね着をした服を一枚一枚脱ぎ捨てながら登り終わり、ペーターと屈託なく大笑いするシーン。こんなにわかりやすい「心の解放」があるだろうか、と誰もが共感するはずです。
◆8月になるといつも・・
高畑は2つの世界大戦をナチスから解放されるまでフランス人として生きたプレヴェールについて、こう書いています。
「まず何よりも自由と友愛の、そして徹底した反権威・反権力の詩人だった。彼はあらゆる支配や抑圧や差別に反対し、戦争や植民地支配を憎み、人間性の解放と自由を擁護して、抑圧された者たちへの友情と連帯を歌った」
平和しか知らない私たちには、想像しにくい心情かもしれません。そこにこだわって日本のアニメーションを世界に発信した高畑勲の遺作は「かぐや姫の物語」になりました。
(図録「日本のアニメーションに遺したもの  高畑勲展」より)
子どもの心が解放された生きやすい世の中かどうかが、私たちの目指す社会でありますように。
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