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見守る保育(保育アーカイブ)

他罰性の心理をめぐる考察

2020/02/01

◆免疫力や抵抗力も高めましょう

今日は電気に依存した機械が急に動かなくなったので、急いでその対策を講じることに追われました。このようなことが起きると、バップアップや代わりの手段を用意しておくことをシミュレーションしておきたくなります。新型コロナウイルスでWHO(世界保健機構)が緊急事態宣言を出すと、店頭からマスクがあっという間になくなりました。リスク回避能力は、経験と学習から育つものも多いのですが、病原体に関しては侵入を防ぐことですね。手洗いやうがいはもちろんのこと、子どもの心身の健康を維持増進するためのポイントは、大人にも通用します。また心が疲れていると病気になりやすくなります。栄養、腸内細菌、運動、睡眠、休息にも目を向けましょう。やはり自分の免疫力や抵抗力を高めておくことが大事だと感じます。

◆増え続ける煩雑な手続きが人間性を麻痺させる

保育の仕事をしていると、子どもの心の健康を考えることが多いのですが、この日記で以前、人類学者のデヴィッド・グレーバーの著書『官僚制のユートピア』を紹介したことがあります。この本のタイトルはもちろん皮肉です。官僚制賛美の本ではなく、現代社会の特徴として、ペーパーワーク的な仕事が増え、人間としてのシンプルな生活に専念できないというジレンマがなぜ生まれるのかを探求しているのです。人間の内面にまで官僚制が侵食してきていることに警鐘を鳴らしている本です。私はこの本を読んでいると、現代の社会がいかに心の健康に良くないかということに気づかされます。

◆私たちの人間性を振り返る

規制を緩和して自由競争を進める新自由主義社会になれば、煩雑で手続き的なルールに縛られなくなると思っていたら、現実はそれとは正反対になってしまいました。どの企業でも起きている書類や印鑑に象徴されるような煩雑な手続きをが増え続け、つい最近発明された企業の接客態度やクレーム処理をめぐる振る舞いなども、唯一の正解かのように思い込まされています。これらの行為を、私たちは当然視するようになってしまいました。

これら問題は、社会学で重要なテーマとして研究されています。人類が共生社会を維持するために、動物は力関係を権威と威圧と暴力で構築しました。しかし、ホモ・サピエンスはそこにとどまらず、協力と和解を生み出して進化させたのです。それが「笑顔」でした。生まれたばかりの赤ちゃんは生理的微笑という「笑顔」で親の養育を引き出します。

官僚的社会は、人が「生きる意味を考える」ことから遠ざけさせる、人間力の形式化、空洞化のテーマとして考察されてきました。これは自覚の可能性が問われている問題なので、共有することがとても難しいテーマにもなっています。

◆多様性から協働性へ

このような社会を変えること。それに気づく大人を増やすこと。これは生涯教育の大切なテーマなのですが、環境に適応することが上手な人間は、知らず知らずに、周りの環境を変えることが「自己実現」になると信じ、バラバラの価値観が多様化することに歯止めがかかりません。今年の新年会で藤森統括園長から頂いた色紙の言葉は「多様性から協働性へ」でした。

◆豊かさと他罰性、貧しさと自己罰は結びつきやすい

さて、佐々木正美さんの講演をまとめた本「生き方の道標 エリクソンとの散歩」(子育て協会)の冒頭に、こんな話が語られます。引用します。

文化人類学の方面から人間ということを考えますと、地球上ほとんど至る所にいろいろな種族、民族、いろいろな人間が住んでいるわけではありますが、経済的、物質的に豊かな地域や文化圏に住んでいる人間ほど、外罰性とか他罰性という感性を強く持っていると言われます。外罰、他罰というのは、何か不愉快なことがありますと、自分以外の人を罰したくなる、そういう感情、感覚、感性のようなものであります。人のせいにしたくなるとでも言いましょうか。卑近な例を申しますと、仮に幼い子どもの手を引いて自分の家の周囲を歩いていて、ちょっと親が心の隙を作ったときに、子どもが親の手を振り払って、ちょろちょろって歩いて行って、転んで、運悪く道の端のドブ川へ落っこちたとします。この場合、「ああ、しまった、いけない」と思うだけで済ませれば、それは自己罰であり、内罰でありますが、同時にこのどぶ川の管理責任者は誰だろうという感情が湧き上がったとします。こういう人通りの多いところにどぶ川をオープンのままにしておくというのは許しがたい、この道とどぶの管理責任者は誰だ、という感情に自分が支配されたとしますと、この部分が外罰であり他罰であります。経済的に、あるいは物質的に恵まれない社会に住んでいる人の場合は、おそらくこんな時に、こんな外罰的な感情は湧き上がらないというわけであります。豊かさと外罰、他罰性、貧しさと内罰、自己罰という感情が結びつきやすい。これは人類としての特性だそうです。

・・・・・・・・・

私もこんな感情にとらわれることがあります。皆さんはどうでしょうか。この感情が湧き上がってくるとき、私の中に感謝する心が足りないな、と反省します。人間関係力を小さい時から育むことがいかに大事か、保育園の子どもたちの様子を見ていると、強く感じてしまいます。

 

 

自信を育て自分をつくり他者と協力できるように

2020/01/29

(園だより2月号 巻頭言より)

◆自信を持った子になってほしい

将来必要になるであろう、社会人の力について考えていると、保育園の頃に必要な体験が何かがはっきりしてきます。それはやはり「自律と貢献」です。まず自分というものがどうであるのかを探しながら、自信をもった子になってほしいと思います。そのためには「ちっち」の頃に、自分が望んだことを受け止めてくれる他者(ほとんどの場合は親です)がいることで、「周りは信じるに足る世界だ」という感覚を持てるようになります。これを基本的信頼感の獲得といってもいいのですが、これが人間関係の世界に入っていくための駆動装置(エンジンやモーター)なります。反対にこれがないと、世界に対する不信を学ぶことになり、人間がもともと持っている意欲や自発性がよく育ちません。

◆条件なしの自信を育てたい

0歳の赤ちゃんはまだ自分のことがわかりませんが、その頃に「呼べば応えてくれる他者」があると、自分への自信にもなります。応えてくれる世界が呼んだ自分を認める作用になるからです。世界への信頼が同時に自分への自信にもなる。そういう関係です。1歳をすぎる頃から、それが自分の有能感(やればできる)や万能感(なんでもできる)の基礎になっていきます。

注意してほしいのは、これは「何々ができたから褒められる」という経験から生まれる自信ではありません。そうした条件のつかない自信です。やった結果の反映として生まれる自信ではないのです。頑張って努力して達成できたからつく自信とは違います。それは小学校以降でいいのです。根拠のない自信といってもいいでしょう。そもそも存在していることだけで認めてもらえる自信といってもいいかもしれません。「あなたがいるだけでママ(パパ)は幸せよ」ということです。ある心理学者はこれを英語の「ある」という意味で「Beの自信」と呼びます。やった結果から生まれる方の自信が英語の「やる」という意味で「Doの自信」と、その研究者は命名しています。乳幼児期に大事なのは、もちろん「Beの自信」です。

◆世界を探求できる力を

もともと持って生まれてきた存在(あること)と意欲(しようとすること)に応答し、認めてあげることは人権の尊重そのものです(これをAIができるかどうか)。ここが育つことができれば、あとは駆動装置が自分を導きます。そして自律というテーマが浮上してきます。他者(社会)との関係のなかで、目的に向けて自分を自分でコントロールする力です。他者とモノとの関係の中で展開されるドラマの始まりですね。自分づくり、自分探しの始まりです。あのイヤイヤ期です。世界との折り合いを学び(目的や目当ての発見)、自分の心と身体を世界にフィットさせていく。満3歳ごろまでそれが続き、世界の歩き方がわかると、4歳以降、生活と遊びの中で「自分で探求できる」ようになっていくのです。

◆他人と協力できるように

この自発的な活動としての遊びは、自由遊びのことです。自分の心身を自発的に使うとき、その力は育ちます。能力は使わないと育たないのですが、使って育つような環境を選べるように用意するとき、その環境は歴史的にも国際的にも、そして将来性からも正当性のある活動になるようにしたいのです。切実な自分づくりと、それが将来から見ても困らないようなものです。自信を持ち、自分をつくり、5歳以降は他者と力を合わせられる力を育んでいきましょう。

じゃれ遊びについて

2019/12/15

保護者のみなさんは、じゃれ遊び、やった事ありますか? この楽しさはやったことがないとわからないのもだと思います。この遊びの感触を説明するのは難しいんですが、ここがポイントじゃないか、と感じることは、じゃれているときは「気持ちがいい」んです。

一言で「楽しい」と言っても、その中には色々なものがあって、浅い楽しさや深い楽しさがあったり、長く続く楽しさや一発芸のようにすぐに終わってしまう楽しさもあります。声をあげて笑い転げるような可笑しい楽しさもあれば、黙々と観察したり絵を描いたりしている黙々とした楽しさもあります。

いろんな楽しみ方があるなかで、じゃれ遊びの楽しさはちょっと格別なものがあります。決して品位が高いようなイメージはなくて、どちらかというと、「そんなもの!」と軽蔑されかねない、低俗なものと思われがちです。幼い子どもがやることであって、そんなことばかりやっていたら、もうちょっと気の利いたことをやってくださいと言われるんじゃないかと、ちょっと恐る恐るやらないとけないような、なんだかそんな扱いを受けがちな遊びかもしれません。

こんな風に書いてくると、読んでいる方は、きっとじゃれ遊びは、そうじゃなくてこんなにすごい遊びなんだと、話はきっとそういう展開になるじゃないかと期待される方がいらっしゃるかもしれません。申し訳ありませんが、じゃれ遊びはじゃれ遊びでしかありません。

ただ、「気持ちいい」という感覚が残る遊びというのは、脳の深いとろこにある欲求が求めているものです。彼ら彼女らの「食いつきぶり」と言ったらありません。これでもか、これでもかと求めてきます。何か飢えていたものがこれだったのか!と思えるほどに、執拗に求めてきます。ですから園長の朝の運動タイムは最近は私がわざと子どもたちの中に入って遊んでいます。見守るどころじゃありません。こんなに求めてくるのは、明らかに愛着(アタッチメント)の欲求なのですが、それをこんなにも多くの子どもたちが求めているという事実をちゃんと踏まえておく必要があります。

この根深い大切な欲求が満たされていないという事実は、結構重要です。心の安定にとっては、最も大切なもだからです。子ども同士がじゃれ合う遊びをたくさんやることで、心は落ち着き、自信も育っていくでしょう。

私が心がけていることは2つあります。一つは子どもが子どもと体を寄せ合い触れ合うことは、脳の育ちにとてもいいことがわかっているので、できるだけ多くの子どもたちが、この遊びをやってほしいと思っていること。二つ目は、単純な遊びながら、見立て遊びのスパイス(例えば沈没船ごっこやおばけごっこ)を入れると、とても盛り上がり、誰もが「じゃれ遊び」の入り方、作り方を知ることができるようになってほしいと思っていること、です。

私が即興で見立て遊びで「うそっこの世界」を設定すると、子どもたちは「ぽ〜ん」と身も心も投げ入れてきます。その間髪を入れない貪欲さは、本当に求めている遊びなんだろういと感じます。

ちなみに私が船役の沈没船ごっことは、「この船は高い波がくると沈没します。しっかりとおつかまりください」とアナウンスするだけで、ゲラゲラと笑い転げます。子どもたちは高い波がくることを求め、実際に船がひっくりかえり、そしてそれを元に戻す。その過程で、子どもたちが色々な役割を演じてくれます。船から落ちないようにしがみつきあうことが、この遊びの隠れたキー体験になっています。(私が船役なので、写真がありません)

生活の中の声、言葉、椎茸の天ぷら

2019/12/05

◆「にこにこさん、通っていいよ」。

サンタからの手紙が届いているか、確かめに来た3歳のNKくんと4歳のYSさんの2人。NKくんが「今日はよん?いつつ?」とか「ごにちと書いて5日っていうんだよ」とか話していると、ちょうど散歩に出かける2歳クラスのにこにこ組の子たちが降りてきました。そこで私が「あ、にこにこさんが降りてくるから、ここにいると靴がとれないかな」と、にこにこの先生にいうと「大丈夫です。靴は、こっちなので」と先生からの返事。2人はその会話を、聞いていたのでしょう。二人らしいなあと、笑ってしまったのですが、座っている場所は変えずに、足を上げて、冒頭のようにいったのです。

◆英語でおかえり!は何ていうの?

散歩から帰って来たらんらんのUKくんが、坪井先生に聞いています。「英語で、ただいまあって、何ていうの」「アイム・ホーム、じゃない」「じゃあ、おかえり!は?」。いい会話だなあ、としばらくその会話を聞いていました。すると、らんらんのNJくんが、「アイム・ハロー」というから、私が「それじゃあ、僕は今日は、になっちゃうんじゃない」。それを聞いていた、TRくんも、英語らしい発音で何かそれらしい口調を真似していました。英語を喋りながら遊んだり、食事をしたりできる方を探してみようかな?

◆「言葉かけ」という言葉への違和感

11月8日にある大学へ講義へ行きました。その感想と質問が届き、先日返事を返したのですが、その中に数人の学生さんから「子どもの言葉かけで気につけていることはありますか?」とか「どのようなこえかけと接し方をしていけばいいのか?不用意な声かけをして、よくない影響を与えてしまうのではないか?」、あるいは「子どもの気持ちに共感するには、どのような声かけをするべきでしょうか?」といった具合に、何度も「言葉かけ」とか「声かけ」という言葉が使われていました。私からは「言葉かけ」という言葉に違和感を感じてほしい、という返事を次のように書きました。

<(略)・・・まず「言葉かけ」という言葉に、違和感を持って欲しいですね。Eさんは普段の生活で家族や友達に「言葉かけ」なんてしますか? 園生活も生活です。この言葉の由来は、学校での指導のための教育心理学と対応して生まれた教育技術の言葉です。子どもたちと自然な会話をすればいいだけです。

ですから、子どもに教育的な語りかけをしないといけないという先入観をまず捨ててください。その根拠を知りたい方は、『心理学と教育実践の間で』(東京大学出版会)などを読んでみてください。

語りかけることよりも大事なことは、子どもが何をしたがっているのか知ろうとすることです。それがあって、先生が何かに気づいて、「あ、そうか!」があったら、その上であなたの中に何か自然に湧き出てくるものです。それが援助内容なのです。そのつながりが大切なんです。それが「保育のプロセス」になることを押さえておきましょう。・・>

◆なにも言わないという働きかけ

今日、私の中に起きた、「あ、そうか!」は、12時前にお散歩から帰ってきた「わいわい」「らんらん」さんの姿を見たときに閃きました。閃いたことを、先生に伝えました。「この子たちに先生たちは何も言わないで、自分で何をすればいいか考えられるようにしよう」。先生たちが玄関でつい色々言っていた言葉を全く封印して、どうなる見てみました。すると、面白いことに(と言って子どもたちに失礼ですが)、自分で外履を脱いで上履きを靴箱から出して入れ替え、上履きを履いて、水筒を下ろして帽子とコートをかけて全員3階まで登ることができました。

(こう書くと、なんだか当たり前すぎることですね。そんなことも自分でまだできなかったのか?と思われるかもしれませんが。でもそれすら、なかなかできなかったのが現実なのです)

途中で、帽子の紐が絡まって「やって」と助けを求める子が一人いましたが、それ以外全員が自分で考えながら3階まで登って行きました。この子達は、全員できるんです。自分で考えて次はどうするのかも知っているし、大人の「声かけ」はいらないのです。その代わり、先生たちと打ち合わせて意識して声にしたのは、「だいぶ大きくなった椎茸を収穫しなきゃ」とか「お昼ご飯はすき焼き風煮物だって、お腹減ったなあ」とか、「調理の先生が椎茸を天ぷらにしてくれるそうだよ」とか、そんな会話を子どもたちに聞こえるように話しました。

椎茸の収穫の話が聞こえた子は「僕もきのこやる」と言ってきました。自分なりに次の行動に移し始める子ども達です。その中で、困ったことやあれば「やって」「できない、手伝って」などを言えるようになっていけばいいのです。大人は黙って手を出してやってあげてしまいますが、自分でできるようになっていくように助ける。これが大切なことだと思います。

椎茸の天ぷらは、大好評でした。

 

 

 

子どもの育ちと自らの保育を振り返る

2019/11/02

(北の丸公園)

◆1週間を振り返る

毎週土曜日は一週間を振り返ってみることにしています。こんなことがあった、あんなこともあった。そして、こうしたのは良かったけど、それならこうしたらもっと良くなるだろう、そういう「新たな課題」を見つけることが楽しいからです。課題が楽しいというと、不可解に思うかもしれませんが、私のいう課題というのは、その時点から見える景色のことです。その景色を見ると「今度はあそこへ行ってみたい」と思うのです。ですから、どうやったらそこへ行けるかを考えることが楽しいのです。

◆課題とは「あそこへ行きたい」と思う私から見える景色

先週土曜日に親子で体を動かして遊ぶ運動会を終えました。外へ出かけたら「子どもが鬼ごっこをしたがる」ようになるのがねらいですから、その後がどうかが大切です。それに備えて、先生の鬼ごっこスキルをアップすること。それが私の見えている景色=課題です。そのための研修計画を羽崎さんと7日に打ち合わせます。

 

◆全ての赤ちゃんに夜はぐっすり眠ってほしいから

「子どもの早起きをすすめる」ことは、園児だけではなく、子育てをしている全ての家庭に伝えたい。それが私の見えている景色=課題です。そこで、9月のシンポジウムで知り合った睡眠のスペシャリスト永持伸子さんと月曜日に「海老原商店」で打ち合わました。すぐにチラシを作り、区に了承してもらい、11月22日に「赤ちゃんがぐっすり睡眠できるためのミニ講座」を開くことになりました。

(海老原商店の2階)

◆保育参観から、ぜひ保育体験へ

火曜日からは3日間の「保育参観」でした。二日目は園の中での生活に加えて「バス遠足」の様子もご覧いただきました。給食も少し試食してもらいました。隠れてみる保育参観から、今度はママ先生、パパ先生として保育を体験してみましょう。

 

幼児クラスなら子どもも大丈夫なのではないでしょうか。乳児の場合も最初はくっつくでしょうが、そこにいるとわかると、自分から離れて遊び始めるでしょう。子育て広場のようなつもりで、そばで過ごす我が子を見守ることができると思います。

◆感染症に気をつけたい時期

感染症が流行る時期に備えて「手洗いチェック」はどうでしたか。もうしばらく機械があるので、ぜひ試してみてください。昨日は、職員の健康診断だったのですが、これも職員の体調管理として不可欠なものです。

◆今日は秋の園外保育候補の下見

ところで、テレビの天気予報は「秋の紅葉」スポットを紹介しています。今日は午前中に「北の丸公園」へ行ってきました。日本武道館のちょっと奥に行くと、芝生と池と雑木林が広がる場所があります。11月中旬は紅葉が美しい場所です。イチョウ、モミジ、ケヤキ、ニシキギ、ハナミズキ、ハゼノキなどが見られます。池の鯉は手を叩くと寄ってきます。保育園から近いので、保育で出かけたいと思います。

◆科学技術館にも行ってみました

北の丸公園から竹橋の方へ下ると、科学技術館があります。明日11月3日まで「東京パズルデー」展をやっていて、私が行った時ちょうど「ルービック世界チャンピオン」中島悠さんが、華麗なる技を披露していました。キュービックを6回動かすのに1秒もかかりません。指の動きが速すぎて肉眼では見えません。

わい、らんの子どもたちが夢中のパズル「LaQ」もありました。

この遊具は、世界での受賞歴がいろいろある知育ブロックで、製造メーカーのヨシリツ(株)イベント事業部の方に、保育園にきてもらうことになりました。ただ予約が年度末までいっぱいだそうで、4月以降になるそうです。(そこはこれからの交渉次第!これも私の景色です!)

◆子どものアセスメントについて

先生たちは、園児一人ひとりの「成長」を、保育所保育指針の「ねらい及び内容」に沿って、全ての項目をチェックしています。これが自己評価です。

一般に保育では、自己評価の視点は2つです。「子どもの育ち」と「自らの保育」です。一つ目の「子どもの育ち」とは、子どもの成長のことです。子どもがこんな経験をしたけど、それによって、こういうところが成長してきたな、とか、こんなことを学んだな、とか。あるいは、どんなことができるようになったかとか、何を学んだか、何を身につけてきたか、ということです。

◆心情・意欲・態度の育ち

とくに注意したいのは、できた結果よりも、楽しい、嬉しい、面白いといった心情、その体験によって、もっとやりたい、またやりたいという意欲、そうした積み重ねから育つ心の姿勢としての心構え、そうした「心情・意欲・態度」がとても大切です。

この育ちの振り返りは、ある程度期間を置いて、一人ひとりをアセスメントします。乳児(0歳〜2歳)のちっちからにこにこは年に4回、幼児の3歳以上のわいらんすいの場合は年に3回実施しています。

子どもの様子を家庭と園からお互いに伝え合い、了解しあうことも大切ですよね。そのための個人面談や毎日の伝え合いを大切にしたいのです。担任と同じようにとはいきませんが、私もできるだけ子どもの姿を理解しておきたいと考えています。

◆保育の自己評価が大事

二つ目の「自らの保育」とは、私たちの保育のことです。そういう育ちに結びつくために、どんな保育をしたか、ということです。こちらは、その都度の振り返りから、日々の振り返り、週間、月間、期間、年間などがあります。節目節目で振り返ります。その積み重ねが子どもの成長を支えることになります。

子どもと毎日心を通わせているか。その時子どもの育ちについて何かの気づきがあるか。生活の展開、遊びの発展のために環境の再構成ができたか、人間関係の構築も促せたか。そのほかリスクマネジメントのチェックもあります。

 

 

自分を見つめ出した子どもたち

2019/10/31

今朝31日、IKくんの訴えに感動しました。彼は私に“こうしたらどうか”と具体的な方策を提案してきたのです。やる前にルールを読む。読めない子には読んであげる。低いところからでも読めるように下にも掲示する。だから「園長先生、クライミングやりたい。クライミングゾーンを開けて」と言ってきたのです。

実は、子どもの態度を見ながら運動ゾーンの運用と環境を見直すことにしました。きっかけは、今週火曜日の夕方に子ども同士で頭をぶつけてしまったからです。翌日話し合い、波型遊具とスイング遊具を一緒に使わないで、子どもにとって死角がないようにしました。また子どもたちにも、4つのルールがしっかりと伝わるようにして、それを「自ら守ろうとする姿勢」を育むことに、さらに力を入れることにしたのです。

わらすの先生たちには、子どもたちに昨日の夕方、それをしっかり伝えてもらいました。すると今朝、ちゃんと決まりを守って遊ぶから、ゾーンを開いて欲しいと、IKくんが私に交渉しにきたのです。

このような力を「非認知的スキル」と言います。自分なりに課題を解決するためにどうしたらいいかをしっかりと考えることができ、それを相手に話して伝え、しかも相手が(私が)納得できるような論理を持っているのです。これは、すでに年長さんの姿に近い「育ち」がしっかりと見られます。

昨日の先生たちによる子どもたちへの話が功を奏したは間違いありませんが、それをしっかりと受け止めて、「どうやったら、運動ゾーンをもう一度開くことができるか」を真剣に考えてきたことは素晴らしいと思います。

その訴えを聞いて、私がわらすの先生たちに「IKくんがこう言ってきたから、ゾーンをもう一度再開してあげることにしませんか」と提案して、再開しました。

このような子どもたちの「姿」のことを、本当の意味で、心構えができている態度と言います。真剣な気持ちを持った心情、どうしても運動ゾーンを開いて遊びたいという意欲、そして自分を律していく態度。この心情、意欲、態度の育ちのことを文部科学省は「生きる力」と呼び、非認知的能力として、社会で最も必要な力になると考えているのです。

 

発達に必要な子ども同士の体験

2019/10/21

◆お手伝いって、楽しい

10月になって、わいわい組(3歳)とらんらん組(4歳)の子が、ちっち組(0歳)やぐんぐん組(1歳)で一緒に生活する時間が増えています。今日もらんらんのTAくんが夕方、事務室にいる私に「お手伝いしているんだよ」と嬉しそうに教えてくれます。「楽しい?」と聞くと、「うん」と笑顔で答えてくれます。自分でそれを選んで過ごしています。

その様子が、ここ数日、ぐんぐん組(18日素敵な時間)、わらす組(20日自分の生活を作ってみる)、ちっち組(21日お手伝い保育へようこそ)のブログで報告されています。「お手伝い保育」という言葉は、私たち省我会の保育園で古くから使っている言葉です。子どもが先生の保育のお手伝いをしている、という意味ではなく、小さい子どものやりたいことを手伝ってあげるという、「子どもの、子どものための、子どもによるサポート」のことを指します。まさしく子ども同士の関係です。

◆やってもらう、やってあげる

小さい子どもが大きな子どもに「やってもらう」「教えてもらう」「分けてもらう」といったことを「してらもう」わけですが、満1〜2歳と4〜5歳の差があると、その関係が逆転することはまずありません。兄弟関係はだいたいこのくらいの差があることが多いでしょう。子ども同士の関係ですが、同等の関係(水平方向)ではなく、まさしく兄弟姉妹のような関係(上下関係)が生活の中に生まれることになります。

ただ、小林先生が20日のブログで、この活動が「生活を作る」活動になっていることを指摘しているように、この活動は、ちっち組やぐんぐん組での活動とだけとらえるのではなく、園全体から俯瞰すると、自分が過ごしたい場所を選択して過ごすことができる「オープン保育」という保育形態になっていることも見逃せません。

 

また、この活動は21日のちっち組のブログにあるように「年上の子どもたちの姿そのものが、知らず知らずのうちに “成長や学びの『お手伝い』”にもなっている」のです。発達が少し上の子どものやることは、子どもにとっては、やってみたい!と思えるちょうどいい刺激になります。

 

◆発達がちょっと上か下か

この場合、ちょっと上、ちょっと先であること大切で、それ以上の離れた大きな発達の差になってしまうと、小さい子どもにとっては「遠い存在」でしかありません。視野に入ってこないでしょう。

子どもの思いを想像すると<あ、やってみたい。どうやったら、ああなるんだろいう。僕はこうしていたけど、ああしたら、こんなこともできちゃうのか、ああ、やってみたい!>という感じでしょうか。

こうしたことを「異年齢児保育」と呼ぶことがありますが、この言葉は誤解を招きやすいので、あまり使いたくありません。「学年」を跨ぐか跨がないかの違いしかないからです。12ヶ月離れている同学年の4月生まれと3月生まれが一緒にいても「同年齢保育」と呼ばれ、1ヶ月しか離れていない学年の違う3月生まれと4月生まれが一緒にいると「異年齢保育」と呼ばれます。ですから、学年が混ざるか混ざらないかで言い方が変わるような言葉は誤解を生みやすいのです。

 

◆発達が豊かになる関係

そんなことよりも、「発達の差が大きい子ども同士の関係」で起きる関わりや刺激、「発達の差があまりない関係」で起きる関わりや刺激が、どの子にも必要ですね、という話です。それが経験に幅がある生活、豊かな生活に繋がるからです。生活の幅が豊かになるのです。

実生活を考えてみてください。同じ学年だけの人間だけで生活なんかしていません。家族も会社も地域も年齢が異なるのが当たり前です。それが不自然になってしまうのが、日本の学校空間だけです。学年で仕切られます。実は人が何かを学び、それを分かち合い、共有していくことが人間本来の営みです。しかし学校は個人をバラバラにしておいて、しかも、お節介なことに、それぞれの能力を一定の「ものさし」で評価しようとします。産業革命以降に雇用労働者が発明されてから、学校は個人の能力を一元的に測定する役割をもっぱら担うことになってしまいました。

 

◆大人はまだよく知らないかもしれない、子ども同士の関係

お手伝い保育。その名称はともかく、大事なことは、人間は誰でも差別されず持って生まれたかけがえのない生命を発揮しながら生きる権利があること。その人が生きている周りには、多様な人がいるからこそ、その中でそれぞれの人が輝くこと。輝き方はそれぞれでいい。輝く必要もないかもしれない。そいうことが起きているのが、実は子ども同士の関係だということ。大人はまだまだ、子ども同士の関係の面白さを知らないのではないでしょうか。

アンガー(怒り)のコントロール

2019/08/20

わいわいとらんらんの遊びの様子を見ていると、こんなことに気づきます。以下は特定の子ではありません。どの子にも当てはまる特徴だと思ってください。

◆謝りたくない気持ちとは?

例えばAくんの手がぶつかって「イタッ」と思ったBくんが「痛い」と相手Aくんに訴えます。ぶつけた方のAくんが、その訴えに気づいて「ごめん」と謝ってBくんが「いいよ」となれば、仲直り成立で、また遊び始めます。ところが、Bくんが「痛い」と訴えても、Aくんが謝ってくれないときがあります。Aくんがそれに気づかないときもありますが、知っていても、ぶつけたことは「自分が悪くない」と考えて謝らないこともあります。その言い分をよーく聞くと、大抵は次の2つの「論理」がみられます。

そんなとき、ぶつけたAくんのような立場の子がいう理由でよく聞くのは「先にBくんが◯◯したから」というものや「わざとじゃない」というものです。話は長く複雑ですが、核心を要約するとそうなります。
◆先にやったのは自分じゃない
これは典型的な2つの正当化理論といえます。最初の理屈は「先に痛い目にあったのは僕の方で、そのときは見逃してあげたんだから、君だって文句言わず、それくらい我慢しなよ」という考え方です。「被害はお互い様なんだから、僕だけ謝ったら不公平だ」という気持ちがあります。この被った害の量が同じなら公正であるという感覚が、子どもたちには歴然とあります。やられたから、やり返すというのは動物もやります。
◆いまさら言われても・・
しかし、やっかいなのは、いま「痛かった、無視しないで、ちゃんと謝ってよ」と訴えるBくんにとっては、最初のことは自覚がないか、もう過去のこととして終わっている場合があって、「いまさら、そんなこと蒸し返されても」と感じる場合と「ああ、確かにそうかも」と思い出す場合があります。ただ、大抵は「今のこの痛さをなんとかしてよ」の気持ちの方が切実なので、素直にイーブンであると受け入れることは、まずありません。
◆わざとやったんじゃない
2つ目の理由「わざとじゃない」も、強力な理論です。子どもは9ヶ月ごろから人は「意図」をもつ存在であることが分かるようになります。意図してやったことは、より悪いとわかっています。なので「わざとじゃないもん」が、「自分は悪くない」とほぼ同じように使われてしまいます。意図したことか、それとも過失なのかで罪の軽重が変わるのは、大人社会の罪と罰の関係も同じです。
◆ハムリンの実験
最初の「先にやったのは自分じゃない」という憤慨は「よくないのはこっち」という判断に基づいており、1歳未満の赤ちゃんもできることが、わかっています。このホモ・サピエンスの強力な倫理観は先天的なのもです。この分野の研究で先鞭をつけた有名な研究者がハムリンです。次の動画をご覧ください。ちょっと脇道にそれますが、面白いのでみてください。協力的であることへ、赤ちゃんは共感します。
◆アンガー・マネジメント
 このような感情の噴出と鎮静を繰り返しながら、この子たちは、良心との葛藤を経ながら、倫理を学んでいます。どのように言えば、分かってもらえるか、どのように言われたら許そうと思えるか、そのような経験を子ども同士の中で繰り返しながら、感情のコントロールを学び続けています。とくに子ども同士のけんかは、怒り(アンガー)をコントロールする練習です。その正義の怒りを、自分の中の暴力に転化させず、ほかのエネルギーに昇華させることを学んでいく必要があります。この感情に負ける大人の犯罪が増えているのは、幼児期の自由遊びが足りなかったのでしょう。人は生まれたときから道徳的ですが、現代の社会では、子ども同士の関係がなくなり、子ども社会で育つ機会が奪われてしまっているのです。
◆私たちがやるべきこと
私たち保育士は、いざこざの中でどっちがいいか悪いかをジャッジして、謝らせることを優先しません。お互いの気持ちがすれ違っていて、子ども同士のやりとりだけでは手が出てしまうようなときは止めに入ります。気持ちや、考えをわかり合うためのサポートが必要なときは例えば「ホントはこうしたかったんだって」などと、お互いの気持ちや考えを代弁します。また言葉で伝え合う力があるなら、ピーステーブルに促したりして、考えを伝え合う機会を保障します。子どもが自分の感情を味わい、自らの内面からそれに打ち克つ時間を待つ必要があります。そして必要な時間は、個人差があります。
◆自律を育てる
できないところは助け、できるところは自分でやれるように援助します。自分でできるようにと言うのは、言われて謝れるのではなく、自分から悪かったなぁと思えるような心を育てることです。「ごめんね」と形だけ言えることではなく、仮にバツが悪くて言えなくとも心から「ああ、悪かったな」と思えることが大事です。形だけの行動よりも、相手をいたわったり、優しい心情が豊かなら、行動はついてくるものだからです。無理に謝らせても、自分から謝罪できる勇気や気概も育ちようがありません。反対に、いろいろなことを言って外からの働きかけでそのタイミングで「させて」いると、その働きかけがなくなると、やらなくなります。それは自律ではなく他律だからです。

くつろぎと安心のゾーンを新設

2019/08/16

昨日15日から3階の幼児空間に「くつろぎゾーン」を設けました。家庭のリビングが、ゆったりとくつろぐ場所であるなら、子どもの生活にもそれは必要です。
「くつろぐ」という言葉は子どもには難しいので、のんびり、ゆったり、といった気持ちをイメージしやすいイラストも近くに掲示しました。
こんな空間が、子どもに必要だろうかと、思う方がいるかもしれません。また空間に余裕があるなら用意してもいいぐらいに考えるかもしれません。しかし、そうではないのです。もっと積極的な意味があります。
◆海外では当たり前にある場所
(マレーシアの保育園)
くつろぐ場所を園内に用意するのは、海外では当たり前です。日本の学校にはプールがあることで驚かれますが、ダイニングやくつろぐ場所がないことにも驚かれます。くつろぐ場所が、いかに当たり前の空間かを表すものとして、海外でよく使われている有名な「保育環境評価スケール」を紹介します。43ある項目のうち、3番目に「くつろぎと安らぎのための家具」があります。
◆「とてもよい」環境を目指して
この保育環境評価で「よい」の評価をえるには、次の3つのことが、揃っていなければなりません。
・1日の相当の時間を、くつろぎの場で過ごすことができる。
・くつろぎの場は、体を動かす遊びのためには使われない。
・柔らかな家具はおおむね清潔で手入れがよく行き届いている。
さらに「とてもよい」のためには、さらに次の2つのことを満たす必要があります。
・くつろぎの場以外にも子どもが使える柔らかい家具がある。
・子どもが使える柔らかくて清潔なおもちゃがたくさんある。
◆リビングは寛ぎの居間
こうした保育の専門的な視点を持ち出さなくても「寛ぎ」が大事だと思い直すことができないでしょうか。子どもは寝ている時間以外は、生活と遊びのなかで学び続けています。そのエネルギー効率は凄まじく、これと同じことを大人は真似できません。くつろぎと安心が得られる空間は、住宅表記では「◯LDK」と表すときのリビング(L)に当たります。生きる、生活するメインとなる空間です。ダイニング(D)やキッチン(K)と併せて、必須の場所として最初に書いてあるように、くつろぐ場所は大切な生活空間でなくてはなりません。
◆くつろぎは養護の条件
人間の生活には「衣食住」が必要です。「住む」ところは「寝る」ところでもあります。そして子どもには「遊ぶ」がなければなりません。すると確かに「子どもの生活」は「遊ぶ」「食べる」「寝る」の3つが時間的にも空間的にも、重要な要素になっています。この3要素を満たすことは、最近、このブログで説明してきた「養護」(生命の保持、情緒の安定)を満たすことでもあります。
生活空間も、最初からその3つのエリアを用意しておけば、園生活はスムーズに運びます。さらに私たちは生活空間を静的なエリアと動的なエリアを対照的に配置することで、生活動線のコンフリクトを避けています。
◆日本の最低基準はサイテー!
ちなみに日本では幼児教育施設が養護を重視した「生活」ではなく、狭い意味の教育でしかない「学校」を前提として基準ができてしまっているので、年齢別の「教室」しか作られません。「生活」という発想がないので、リビングやダイニングや寝室が、建築設計から完全に抜け落ちています。子ども一人当たりに必要な最低面積が1.98㎡しかないのは、一人分の机と椅子を置いたときの面積だからです。ひどい話です。これではとても、ゾーンどころではありませんね。

20歳の懐かしい再会

2019/08/11

今年成人式を迎えた11人と再会しました。2004年度にせいがの森を卒園した仲間たちです。保護者とはすぐにわかりますが、園児たちとは「誰だかわかりますか?」と、愉快な名前当てクイズになります。中学までは地域で会っていた子はすぐわかりますが、15年ぶりですぐには分からない子もいました。でも話せばすぐにわかるもので「変わらないね!」となって、楽しかったです。
保護者の皆さんとも当時のエピソードを語りあって、あっという間に時間が経ってしまいます。実に感慨深い日になりました。
 せっかく八王子まで行ったので、雑木林でカブトムシのツガイと、伐採した園庭の桜の枝をもらってきました。
カブトムシがまた、元気に卵を産んでくれるといいんですが。
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