すべての子どもたちが帰った後の保育園。誰もいないのに、子どもたちが残していった、様々な出来事がおもちゃ箱のように積み重なっています。1日を振り返ると言う事は、そのおもちゃ箱の中から私だけが知っているおもちゃを、もう一度手に取って、その数個のおもちゃをめぐる子どもの内面世界を追想することに似ています。まだ5日しか経っていないのに、もうこんなにたくさんのおもちゃが積み上がってしまった。もう、全てを紹介することを不可能です!毎日1冊の本が書けそうな位ですが、残念ながら1日は24時間しかありません。本当に残念です。
【だんだん子どもらしさを発揮】
「だんだんその子らしさを発揮してきましたね」「本当はこんなことやりたがってるんだよね、やっぱり」。日を重ねるごとに、そんな先生たちの会話が聞こえてきます。
ママやパパと別れて、1人で過ごした寂しさを、たった1日で乗り越えた赤ちゃんがいました。「たった1日で、けろりと泣きやんで。あんなに泣いてたのに」と今朝、ちっち組の先生が教えてくれました。君はどうしてそんなことができたのと、聞いてみたい。その子がもし話すことができたら何と言ってくれるんだろう。「ママと別れるのは嫌だけど、別れちゃったあとは忘れてた。だって、こんな面白いことがいっぱいあるんだもん。泣いてる暇はないわ」とでも言ってくれそうな気がします。
私はこういう子どもたちの姿の中に、本来の子どもらしさを見出します。心理学者だったら、順応性が高いとか、レジリエンスが高いなどと言うのでしょうが、私には、「子どもは複数でいて初めて子どもであり得る」と思えて仕方がありません。だから先人は「子」ではなく「子ども」と複数形で表したのでしょう。英語のchildrenも複数形ですね。
【制止を振り切ってでもやりたい欲求の強さ】
また1歳児クラスの中だけでは飽きたらず、とにかくいろんな場所を探索してみたいと言う子もいます。その、やってみたいと言う意欲の強いこと、強いこと。まさしく子どもらしい子どもです。私はその姿を、おおらかに肯定します。大げさな話ではなく、真実の話として、この「新しいものへのあくなき欲求」という、持って生まれた資質があるからこそ、アフリカではなく日本と言うこの極東の地にまで、私たちホモ・サピエンスの先祖がたどり着けたのです。「そっちには行かないでね」「それはやらないでね」と言う制止言葉を振り切って、人類は地球上に広がっていきました。
【好奇心いっぱいの子どもたち】
その子もまた、移動できるようになってこの数ヶ月の間に、同じような制止言葉をもう何十回も聞いてきたはずです。それは顔を見たらわかります。その子はその言葉を聞く前から、「この人もまたきっと、私に向けて、やっちゃダメとか、そっちに行かないでとか、そんなことを言うだろう」と、もう想像がついている顔をしています。ものすごく賢くて、そんなことを言いに私に近づいて来てるんだろうなと、空気を読みきっています。子どもにとっては、全てが新しいことの発見の連続だから、その面白さ、楽しさに比べたら、「それを我慢してやらないでおくなんてできないわ」と言う表情をしています。
【ちょっと想像してみよう】
私たちはその欲求の強さをどうやったらリアルに想像できるでしょうか。大人の場合に置き換えて想像してみるとしたら、こんなのはどうでしょう。例えば、その欲求の強さは、ディズニーランドのアトラクションに2時間並んだ後で「今日はもうこれで終わりです」と言われて入れなかったときの気持ちぐらい悔しいと想像してみてください。そんなことになったら、ブーイングの嵐ではありませんか。私にはまだ子どもの方が素直だと思います。まだ生まれて2年も経っていないのに、とても我慢強く物事に接しています。それに比べて大人の方が切れやすく短気です。
だから、たいていの保育園は、最初からそんな面白い情報に接しないように、そんな習慣をつけないように、管理保育を行うことになっていくのです。
社会的なルールを身に付けて、自分の気持ちをコントロールできるようになるのはもう少し先です。ですからこの時期を大人から見たら何でも抵抗するように見えるので「いやいや期」などと名づけましたが、これは現代社会の環境がそういう名前をホモ・サピエンスに貼り付けただけです。子どもたちの中には、何でもやりたがるキュリアス・ジョージ(好奇心いっぱいのジョージ。日本語訳はおさるのジョージ)がたくさんいるのです。