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見守る保育(保育アーカイブ)

多様な動きと体験が生じるような生活へ

2024/05/13

今日は朝から雨。雨でも傘や雨カッパを着て散歩することも可能なのですが、今日は全園児が保育園で過ごします。私はぐるぐると園内を動き回って、遊びをみたり一部参加して子どもと過ごしました。

どの部屋でも運動をよくしていました。いろんな運動遊びが展開しているのですが、例えば幼児では運動ゾーンで野球をやっていました。

バットも手作り、Yくんが好きな巨人軍の応援団のBGMも流れて、本格的な雰囲気です^_^。(写真の手前には、女子の応援団がずらり!だったそうです笑顔)

2階に降りて、今ちょうど、2歳児クラスで午前中の「運動遊び」が終わったところです。組み立て式のソフトブロックをマジックテープで繋いで階段や凸凹道を作り、テーブルにマットを掛けて安全にして、不意の怪我が起きないように周囲も保護します。

すると、K先生のお見本を見せると、すぐにそこに引き寄せられるかのように子どもたちは登って歩き始めます。子どもはあっちからも、こっちからもそこへ登りたがるので、先生が方向づけをします。「こっちから、向こうへ回ろうか」というように。そこに本人たちはそうじゃダメ、という子もおらず、すんなりと集団の動きの流れができるのですが、それは今日が初めてではなくて、過去何度もやってきた経験も影響しているでしょう。

子どもたちはブロックの上を落ちないように歩く、バランスをとって歩く、よじ登る、飛び降りる、両足と両手をつく(時々尻もちもつく)・・・。全体的に見ると、そういう体を動かす流れができていくのですが、全部を満遍なくやっていくというより、よりやりたいところに集中する姿が見られます。それは今日は机から飛び降りるという動きでした。

一度に同じ場所に集中すると危ないので、「人気の遊び」を分散させるためにもの、ちょうどその反対側に蛇腹のトンネルをおくと、今度はそちらにも集まります。しばらくするとバランスが取れていきます。そしてどれもある程度「やり尽くす」と少し飽きてきて、動きがそれぞれバラバラにほぐれていくという感じになっていきます。そこでもそれぞれの子どもの「思いつき」が発生しているようで、マットの上を寝転がったり、蛇腹のトンネルを逆走し出したり、そこで二人だけの鬼ごっこが始まったり。

中には組み立て式のマットをもう一つ長く繋ごうとする子もいたり、蛇腹のトンネルから出てくるときに「ばあ」と出てくることが面白くて、そこを保育者に期待している子もいたり。ジャンプの着地点に四角の枠ができると、そこを目掛けて跳び降りて「立つ」というわかりやすい目標ができてきたりするのです。

確かに子どもはいろんなことをしています。その「いろんなこと」は、こうありたいと本人が察知していることもあれば、本人もよくわかっていないことも多く、遊びの中で楽しい!面白い!ということが、どんどん変化しながら現れては消え、また別の場で生じて、ということが発生しています。

そんな発生の繰り返しの運動遊びが、たくさん起きる生活と、そういうことが起きない生活とどっちがいいか?と考えると、やっぱりいろんな動きを楽しめる方がいい、ということになりますよね。その時に、限られた運動でしかないにしても、その中でさえ、子どもによって生じている、いろんな方向の思いや動きが失われないようにしたいと思います。

大谷翔平の<主体~他人・もの>の関係

2024/05/09

大谷選手が週間MVPに!というニュースを聞いて、保育に関係することで2つのことを思い出しました。一つは自尊感情に関することです。日本の青少年は国際比較調査で他の国にくらべて自己肯定感が低いとよく言われてきのです。それについてNHK白熱教室で有名になったマイケル・サンデル教授が、こんなことを言っているのです。

「よく『日本人は自己肯定感が低い」と指摘する意見がありますが、それは日本人には『自分の成功は自分自身の力ではなく、周りの人々の支えがあったおかげだ』とという認識があるからです。そして、成功者であっても常に謙虚な気持ちを忘れることはありません。こうした考えから、彼の能力が数年で衰えるとは考えられず、ますます活躍できると確信しています」

この中の「彼」とは、大谷翔平のことです。

この説明をきいて、そういう見方をしたことがなかったなあ、なるほど、と思ったのです。確かに高校野球でもプロスポーツの選手でも、監督やスタッフやファンやチームメートへの感謝を口にすることが多いですよね。このことと力の発揮が関係するとしたら、共主体(co-agency)の見方に通じるんじゃないだろうか、と思ったのです。

そしてもう一つ思い出すのは、あるスポーツ番組で大谷選手がインタビューに答えて、なぜそんなにホームランを打てるのかという質問に「バントでボールに当てる感覚でバットを振っている」といったような説明をしていたのです。これはアフォーダンスの感覚を説明していることになっているんじゃないかと思ったのです。「ボールが止まってみえる」とか「サッカーボールぐらい大きく見える」といった話も聞きますが、この知覚と行為の結びつきを説明することばには、このように感じている主観の世界が垣間見える気がします。

 

他者を受け入れていく、いく通りもの姿

2024/05/03

20240503 巻頭言5月号(印刷用)

園だより5月号「巻頭言」より

ある署名な人類学者が、こんな言葉で第1章を書き始めていました。「私たちはどのように生きるべきか?間違いなく、人間はその問いを考え続けてきた。おそらく、その問いを考えることこそが、私たちを人間にする」(ティム・インゴルド『人類学とは何か』)。

この4月1ヶ月の様子をクラスの記録から拾ってみると、先生たちは子ども同士の関わり方の育ちに着目しています。それぞれの保育ドキュメンテーションやクラスブログをぜひお読みください。赤ちゃんから幼児まで、それぞれの発達に相応しく「他者を受け入れている姿」が共通していました。

1歳児のぐんぐん組(5月3日のブログより)では、「ちっちさん(0歳児)という後輩が入ってきて、新しい先生との生活も始まって、はじめはまだ、状況がまだ分からないような様子もありましたが、今では、その後輩たちを”いいこいいこ”となでたり、ミルクをあげるお手伝いをしたり、同じ目線で顔をのぞきこんだり…すこしお兄さんやお姉さんらしい、頼もしい様子が見られるようになりました。」と、心温まる事例がいくつも紹介されています。

2歳児のにこにこ組は、連日の日誌で微笑ましいやりとりの報告が続いていますね。例えば4月30日の振り返り。「いずみこどもプラザからの帰り道、Rくんの「かくれんぼしよう」をきっかけにK先生やS先生と一緒に隠れることを楽しんでいる子ども達。そんな風に楽しいことを積み重ねていく中で、「おはよう」と挨拶のようにぎゅ~っと先生の所へ駆けてきたり、絵本読んでほしいと持ってきたり、少しずつ先生やお友達との距離が近づいてきています。」

3歳以上のわいらんすい組では、5月1日のブログにあるように、3歳の子の「やりたい」を大目に見てあげる4歳児のさりげない気配りや優しさを紹介しています。「このクラスで過ごし始めて1ヶ月がたち、子どもたち自身も互いにそれぞれを理解し始めてきているようで、初めの頃は「それはずるだよ〜」「つまんないよ〜」となる場面もありましたが、それぞれの個性を受け入れ、フォローしあうそんな姿に感心、感動した瞬間でした」。本当にそうですね。

このような子どもたちの姿をたくさん見ていると、私たち大人が見習った方がいいと思うようなことがいろいろありますね。他人と一緒にいることが嬉しいという感情。やりたいことを提案して受け入れてもらえ、一緒に楽しめる体験。自分だけではなくてお友達のできた!やった!を喜んでいる様子。このような心情が生活空間に広がり、子どもも大人もそれを共に心地よく感じる時間が増えるといいですね。

冒頭の本でインゴルドは「世界は戦争、貧富の格差、環境問題など多難を抱え、すでに臨界点に達している」といいます。それでも「私たちは皆で一緒に世界を築いていきたい」と思います。他者とともに学び、それを伝え合いながら。子育てはその長い道のりの第一歩です。

 

 

遊びのなかに生まれる思いとすれ違いの行方

2024/04/25

ある子どもに「靴下がない」と相談をうけて探しているうちに「ブーメランをやりたい」と誘われて、運動ゾーンでしばらく遊んでいました。しばらくして屋上で遊び終わった子どもたちが一人二人と加わっていき、最後はワニのいるアマゾン川をターザンロープで飛び越えるという遊びに10数人の行列ができるサーキット運動になっていきました。

その約1時間ぐらいの間に、いろいろな面白い発見がありました。最初の数人の関わりのところまでを振り返ってみます。

年少のTAくんが一歳上の年中のNRさんとブランコを交代して遊ぶことが楽しいようで、3分の砂時計を待ちきれずにすぐにひっくり返して、すぐ交代するのです。

そして「一緒に乗ろう」「うん」と仲良く跨って左右に揺らして楽しみます。

ブーメランやネットやクライミングをひとしきり楽しみました。

その二人に、もう一人年中のAIさんが加わると、遊びと関係がダイナミックに変化します。

AIさんはブランコを乗った後、すぐにTAくんに替わってあげました。でもTAくんは次のNRさんの番なのですが「どうしようかな?」という風に考えています。

さっきまではすぐに交代していた間柄なのに、なぜか態度が変わりました。そしてAIさんに交代を促されると、口を膨らませて「いやだ」という意思表示を示します。

そこで面白いのですが、自分の番である当のNRさんは「もう一回やったら替わってね」と砂時計をひっくり返しました。もう一回、やっていいよ、というわけです。そこが3人の思いの中心点です。気持ちの折り合いが取れたバランス点がありました。年中さん2人が年少さんを大目に見てあげた、という格好ではあるのですが、そこにいたるのは、それまでのお互いのことについての経験からくる思いが、いろいろあってのことです。

そのやりとりの最中に、ブーメランを取りに戻ってきた男の子が「(自分のを)取った?」と意気込んで問い詰めます。見ていてハラハラするのですが「ただもっていただけ」と言われると何も疑いもせずに「守っていてくれたの?」と聞きなおすのです。すると「うん」と言われると、さっきまでプンプン気味に見えたのに、素直に「ありがとう」と言って、行ってしまいました。まるでそこに立ち込めていた気持ちのモヤモヤを突風が吹きさらってしまったような印象です。私は見ていて、おかしくなったのですが。

子どものそれぞれの「思い」は相手の間を飛び交い、受け止められて心地よいキャッチボールのように行き来したり、時には壁にあたって跳ね返されてきたり、あるいは戸惑って宙に浮いたりしています。

「そんなつもりじゃなくて、本当はこうなんだけど」という小さな思いの堆積物がそこら中に転がっています。その小さな思いの中身は、誰にもわからないのですが、子ども同士でそこを感じ合ってつながり合っているように見えます。こういう生の経験が貴重なんだろうなぁと感じるのです。

そして、3人がダイナミックに笑いながら、ブランコを楽しむのでした。

活動の展開には、同じことは二度と起きないようなものとして動いています。そこで生まれ続けていることは、切り離せない連続の中にあり、子どもたちは自分の中に生まれてくる感情や思いに立ち向かいながらそれを糧にして、たくましくなっていくように見えます。

木場公園の大型遊具がリニューアル

2024/04/23

保育園は午前中に散歩に出かけることが多いのですが、今日、幼児はバスを使って木場公園まで出かけました。木場公園は広い原っぱの広場と、大型の遊具が配置された雑木林などがあるのですが、その遊具のリニューアルが済んで、ほとんどの遊具が新しいものに入れ替わっていました。

以下は幼児のドキュメンテーションでの説明です。写真はホームページのクラスブログにもの載せておきます。

「今日は木場公園の冒険広場で遊びました。しばらく工事中でしたが、今日はもう工事が終わっていて、遊具もほとんどが一新されていました。なので最初にみんなで遊具を見て回りましたが、みんな新しい遊具にウズウズ。我先にと駆け出していきました。日頃からも運動ゾーンや和泉公園で遊んでいるせいか、自分がこの遊具が出来るのかどうかの判断も含めて、みんな上手に遊びこなしていました。」

こうやって、いろんな公園に出かけるのですが、それぞれの公園にある遊具によって、その遊び方、関わり方が異なります。「我先にと駆け出して」いったように、やってみたいという意欲に溢れ、その遊びに取り組む過程で、いろんなことを学んでいます。面白そうな遊びを見つけてはいろんなことを感じたり、気づいたりして「どうやったらいいんだろう」と試したり工夫したりしていました。

どの公園にはこんな遊具があり、何ができるかという一覧を作成中です。

今週を振り返ると・・いろんな「気」が出入りしていました

2024/04/19

新年度も早いもので第3週が終わりました。半月が経ったということです。この半月を振り返ると、保護者会があった第1週。新入園児がだんだん保育園に慣れてきて、安心感と落ち着きが見られ、どんな性格でどんなことが好きで、どんなことをするのかがだんだん見えてきました。本人が気になること、気にいることがだんだんわかってきました。

日本語には気になる、とか気に入るという表現をよく使うのですが、改めてこの言葉はよくできているな、と思います。私たち保育者は環境との関わりという視点を大切にして、子どもが過ごす環境とどんな相互作用が起きているのかを見ようとするのですが、気になる、気にかかる、気に入るという時の「気」が、本人と環境との相互作用を表しているように感じられます。「気」は本人と環境とを行ったり来たりしていることを、日本語は感じ取っていたのでしょうか。

保育園に慣れていくというのは、世界を気に入っていくこと、好きになっていくこと、面白いところを発見していくこと、応えてくれる温和な大人がそばにいることが心地よいこと、そういう場が作られていく過程が見られます。

新しいクラスでの生活もすっかり軌道に乗ってきて、大胆にも4月1日から上野公園まで桜を見にいったりと、数年前までは考えられない始まり方ですが(笑)、それがそれほど大それたことでもないあたりに子どもたちの成長を感じます。早速いろんな遊びが展開していて、先生たちも子どもの姿から「じゃあこうしてみよう」という話し合いが毎日活発です。

保育園の新年度は保育をしながら、ちょっと先の計画も、常に子どもがそばにいる中で具体的に話し合ったり計画を立てたり、地域や外部の方々と連絡をとったりしながらという、同時並行の作業が色々と多いので、10分、15分単位の異なる作業を次々とやりこなしていく感じがあります。それもおおらかに、鷹揚にやっていくことが大事なのです。心に余裕がないと、すぐに子どもに見破られますし、大人が余裕がないと子どもも自由に遊び出すことができにくくなるのです。

そこはきっと親子関係でも同じではないでしょうか。僕の気持ち、私の気持ち、それがお父さんやお母さんに「わかってもらえている」という安心感が子どもには大事です。子どもも望んでいることが常に「かなえてもらえる」と期待しているわけではなくて、それはできることが3割しかなくても「気持ちは大体わかってくれている」というを望んでいるでしょう。

ちょっと脱線しましたが、子どもの仕草を見ると4歳ぐらいになると「あれ、なんかあるな」(なんか気持ちを隠してそうだな)ということがすぐにわかります。本人が自分のやっていることを「いいことと悪いこと」がわかっているからです。それを隠しているとまだ幼いのでバレます。3歳児クラスの保護者会ではそれは毎年お伝えしていますが、本人もやってはいけないと知っていて欲求に負けて葛藤を抱えているからこそ「隠す」「ウソをつく」ので、そこを「そんなに持っていきたかったんだね」という気持ちは大事にしてあげているのです。

いろんな「気」がいろんなところで出入りしている新年度の始まりです。

遊びは「こうしたらこうなる」の試行錯誤

2024/04/16

今日は朝早くは、乳児の部屋で、その後9時ごろから昼過ぎまで、ずっと2歳児クラス(にこにこ組)で、そして午後からは3階の幼児と一緒に過ごしました。

絵本を読んで、と持ってくる子、木製レールの上で電車を走らせる子、テーブルの上でパズルを始める子、ままごと遊びを始める子などが分散してそれぞれのゾーンで遊んでいます。

幼児ではスマホやテレビゲームのリモコンづくりが流行ってました。「こんな人いるよね」と、足を組んで、スマホとドリンクを持ったポーズも見せてくれました。リモコンはマグネットシートをうまく使って取り外しができるようになっていました。

子どもの遊びの特徴として共通するのは、とにかく感覚を使い、行動するという循環があるということです。いろんな循環の説明があると思いますが、遊びが学びであることをどう説明しようかと思うと、次のようなループの繰り返しのようにも見えてきます。

子どもは見たり触ったりしながら環境からの情報が身体(脳を含む)に入ってくると、また手を動かしたり、歩いたり、作ったりいろんな動きをするのですが、その動きがまた環境を変えるので「こうしたらこうなる」ということを学んでいます。環境への関わり方や意味に気づく、それを取り込もうとして試行錯誤して考えたりするようになるということです。

こんな言い換えはどうでしょうか。環境からの情報を何らかの形で身体が処理して、運動(行為)となって心も身体も動くのですが、動くのでまた環境からの情報が変化してそのフィードバックから関わり方や意味を習得しているように見えます。こうしたらこうなる。それを飽くことなく、精力的に繰り返していました。つまり学習が起きていると言っていいでしょう。これはアクティブラーニングと似ているかもしれません。

その使う感覚で圧倒的に多いのは見ることと触ることです。自然や生き物を含めて触っていいものがたくさんある方がいい。面白そうと思うもの、触って見たくなるもの、やってみたくなるものがないとつまらない。見ることと触ること(操作することなど)のその二つが一緒になって、さらに表象(言葉など)が絡んできます。

また環境に入れていいのかどうか、質がかなり違うのですが、他の子どもも絡んでくるので、対人関係の「こうしたらこうなる」の関わり方も、ずいぶんと学びながら遊んでいます。さらに「こうなるなら、こうしてみたい」と思いついたことが達成できると嬉しくて、とても楽しそうで、生き生きと熱中していきます。

 

それからもう一つ、感情もかなり激しく動くのです。「心が動く」と私たちはよく言うのですが、この心情も運動しているようなものなのでしょう。いろんな感情を表します。いい感情もあればその反対に「こうしてみたい」が制限されたり、他の子どものやろうとしていることとぶつかったりして思うようにいかないと、怒ったり、悲しくなったり、我慢しないといけなくなったりします。

全体的な印象としては、次から次へと遊びが移り変わっていくのですが、個人にしても集団にしても、同じ状態がずっと続くということはありません。遊びは動的なうねりのようなものを作りながら、展開されていきます。

入ってくる情報と出ていく運動。その無限で高速なループの繰り返し。生きることそのものようにも感じる繰り返し。遊びは本当に微細な「こうしたらこうなる」からダイナミックな「こうしたらこうなる」を繰り返しながら、ある方向へ向かって伸びていくようです。

 

遊びの最初にありそうな「探すこと」といつまでも続く「探究」〜とうきょうすくわく〜

2024/04/16

そもそもの話の続きです。今年の保育の年間目標の一つに「自分の好きなものを見つけて、それを深めていく」というのがあります。発見と探究です。

環境からどの情報を取り出すのかは子どもによって異なりそうです。子どもにとっては情報が飛び込んできやすい環境だったり、反対に見えにくい環境だったりするかもしれません。そういう意味で遊びやすい環境というものがあるでしょう。

そこで今日は「探す」ということを子どもはよくやるので、どうしてだろうという話です。保護者の皆さんは、必ず入園の見学をされたはずです。その時、子どもと一緒に来られた方は、子どもが自然と遊び始めた姿をご覧になったと思います。環境に吸い寄せられるように始まる遊びの姿です。子どもにはあらかじめ何も言葉では説明を受けてはいませんし、説明してもわからない赤ちゃんだったりしたわけで、それでも親の手から離れて、子どもは自分で遊び始めます。その遊びの最初には「これはなんだろう」といった探索のような段階があるはずで、そこからが、きっともう「遊び」なのでしょう。

ちょっと突飛な話に聞こえるかもしれませんが、こんなことを思い浮かべています。

もし、子どもが新しいものを面白そう!と興味を持ち、遊びの最初に何かを「探す」という行為が生まれやすいのだとすると、それは人類の特徴の一つではないだろうか、と思います。食べ物を探すとか、危険を察知するとか、敵と仲間を見分けるとか、何かを「探す」というのは、生存に不可欠だったのではないでしょうか。

地球の歴史の専門書によると、カンブリア紀以降の生物が過酷な生存競争にさらされて生き残ってきたそうです。その機能を環境との関係の中で身につけているとすると、私たちもそうしたセンサーのようなものを発揮しやすいのかもしれません。リサーチして何かを得たり、あるいは避けるなどの機能は、それは生死に直結する機能だったのかもしれません。

さらに、自然からある意味ではみ出してしまったように見える人間は、人間が作り出す物は社会の中で、あとでどうなるか予想がつかないことが多いので、いろんな問題を引き起こしているように見えます。自然になかった人工物(例えばビニール)を(海藻と)間違えて食べて死んでしまう海洋生物のように。原子爆弾を作ってしまって人類絶滅までのカウントダウンが真剣に議論されてきたように。

人間は自分でいろんなことができるようになるまで、大人が守ってあげないと一人では生存できない生物です。脳と身体が発達して大人になるまでに相当の時間を必要とします。ちょっと前に思春期が18歳から22歳までに延びたという研究が話題にあったことありました。本当かどうか知りませんが、18歳としてもその後の青年期も含めると、相当長い間、極端にいうと「一人前」じゃないということなのでしょうか?

こういうことと遊びが関係するのでしょうか? 遊びは環境への適応のために進化の中で得たものだとすると、きっと教えなくても世界を探し始める、目新しいものに無意識に手を伸ばすような行為が、脳と身体を作っていくのでしょうか。好奇心とか興味や関心などと名づけられているようなことが、探究のはじまり、として不可欠だからでしょう。

それにしても人間は探究が好きですね。いつまでも学び続けるとか、探究は終わらないとか、動物ではありえないことをし続けるようになっていることが、ある意味で不思議です。はい、もう終わり、ここで終了です!というのはないのですね。

どんな場所であろうと、それがあれば移動して未知の世界に行こうとする衝動に突き動かされているのでしょうか。地球上のありとあらゆるところに進出してしまう人間。探究し続けましょう!という文句で終わる文章もよく見ます。それだけ課題が山積ということなのでしょうか。

実は、それだけではなく、きっと「世界」はそれだけ謎に満ちていて、いいことが待っていると思いたい。その探究のパスポートを人間だけが手にしている、ということかもしれません。そうだとすると、すごいですね。また不思議です。

絵本の「おさるのジョージ」の原題は「キュリアス・ジョージ」好奇心いっぱいのジョージでした。そして、そこから始まる経験を自分で制御する力を発達させるために脳が大きくなっていったのかもしれません。色々な場所やものを見つけて探究を始められるように、保育でも子どもにとってのその環境とはどんなものかの、その探究は続くのです!

子どもに聞こえる「面白い」もの

2024/04/15

子どもは新しいものが好きなので、大人から見るといつも見えている世界の「正面」よりも、「先端や裏側や異物や意外なもの」に目をつけてきます。もちろん大人だってハッとすることもありますが、子どもが注目するものは「面白い」ものなのでしょう。今日は午前中に幼児20人と一緒に公園で過ごしたのですが、大人なら聞こえないような物からの「呼びかけ」が子どもたちには聞こえるようです。

大型のアスレティック遊具やブランコ、砂場などもあるので、もちろんそれで遊んだり、広い原っぱでかっけっこや鬼ごっこ、かくれんぼもやったりします。私が鬼のタガメになって逃げ回るおたまじゃくしたちを追い回すというひと時もありました。それはそれで楽しいのですが、こんな姿もたくさんありました。

「こっち」と私の手を強く弾くので、引っ張られていくと、歩道の欄干を歩きながら手でなぞり始めます。地面の上を枝を手にして車のワイパーのように左右に動かしているので、なんだろうと思ったら、地面の上を履くようにすると現れてくる小さな石。それを拾ってポケットに詰め込んでいます。

何かの葉っぱを口につけて「ピー」と音を鳴らしたり、花壇の縁を上手に落ちないように渡って歩いたりしています。丸太を模したベンチは飛び石の遊びになり、根本から別れた樹木の枝は木登りに使われています。

アリを見つけてはそれを追いながら、自分の持っている枝に登らせようとしている子もいます。手にした紙コップには、枯葉と何かの幼虫が入っていました。数人の女の子が輪になって座り込んでいるのでなんだろうと思うと、公園の水道メーターの蓋を開けてその中にいるダンゴムシを捕まえては、また元に戻してあげたりしています。

子どもたちは、大人がここで遊んでほしいとデザインした物や空間ではないところも、自由に関わりを求め、探索をしたり、それらの世界に出あおうとしているようです。

(ここで紹介したような写真があまりなくてすみません。写真を撮るのを忘れてしまうぐらい、めだたない遊びなんですよね)

選ぶこと・ものの性質に興味を深めること

2024/04/13

「園長の日記」では、年度の初めなど新入園児の方が入っていらっしゃるので、「そもそもの話」をすることが多くなります。例えば、なぜ子どもの直接的な体験が大切なのかとか、どうして遊びを大切にするのか、あるいは当園の保育目標に関連してなどです。そういう基本に立ち返って保育を振り返ると、私自身も改めて気づくことが出てきます。

この二日ほど幼児の「剣づくり」をクラスブログから紹介しましたが、そこに当園の保育として意識的に大切にしていることがあります。なぜ剣を作りたい!になったのかはわかりませんが、(今度Yちゃんに聞いてみますが。聞いて分かるとも限りませんが)作った後でやる経験が、何か一緒にやる遊びの一つのツールとして使われていくのか、とか、一人で黙々と作ることも大事なのですが、それ(剣)を一緒に作り上げたり、作り方を教えたり教えてもらったりすることも大切にしています。子ども同士の関わりです。

そこまでの一連の活動の流れの中で大切にしていることをいくつか取り出してみましょう。まずは、子どもがやりたいことを決めて選ぶことができることです。その時間、その場所で何をするかを自己決定するということです。今日はその、そもそものところをお伝えしておきます。

生活のある時間と場所で、何かをすることになっているとします。起きる時間、朝食の時間、登園する時間などを思うかべてください。その「することになっている」状態に参加するかどうかは、本来は自由なのかもしれません。登園するかどうか、何時に登園するかも自由、というわけです。でも私たちは生活のリズムを大切にしたいし、朝食も食べて欲しいわけです。それを「しない」選択は選んで欲しくないわけです。生命の保持と情緒の安定に関することや基本的な生活の習慣のようなことです。そういう「望ましいこと」を選択できるように育って欲しいと私たちは考えています。何が望ましいことかの話は、結構複雑なので、またの機会にします。

また「登園するかどうか」にまで本人に委ねてもいいのですが、そこはお家にいたい!となると働いている親御さんは困るので、「なんとか登園してほしい」と思ってもらいたいわけで、そこは「保育園が面白い!保育園に行きたい!」という選択になるように、保育園は目指していることになります。そういう消極的な意味ではないのですが、まずは保育園に行きたいという気持ちになることを大事にしています。積極的な意味については、9日の日記に書いたつもりです。

さて、子どもの自己決定の及ぶ範囲の話をしているのですが、当園した後もできるだけすぐに遊び始めることができるようにしているのですが、それでも子どもの数によって出勤してくる先生の数も増やすようにシフト勤務をしているので、開園したばかりの朝の7時半から8時半ごろまでは1階の部屋での合同保育です。どの年齢の子どももそこで遊びます。遊ぶ内容によって、制限が生じます。すぐに散歩には行けないし、すぐに屋上で縄跳びもできません。でも短剣作りなら場所はあまり問わないので登園するなり始めることはできます。

そうすると、ある程度先生が揃ってから、製作ならその材料が色々揃っている場所でできる時間になったら「選べる」という条件付きの選択をやっていることになります。その時間までは待てるとか、お昼ご飯の時間になったら一時的に中止できるとか、そういう活動の「切り替え」というものが時間と場所の制約の中で求められることになります。「こわさないで、とちゅう」などと紙に書いて(カードや印を置く、ことも)別の活動に移ることをよくやっています。ここで文字を書くという経験にもなっています。

その次の分岐点が室内で過ごすか、戸外で過ごすか、です。当園の場合は園庭がないのですが、ベランダや屋上は戸外に似た要素があります。ベランダの砂場で泥団子を作るという活動場面に限るなら、園庭や公園の砂場よりも面白い活動になるかもしれません。この室内か戸外かも選択出来ます。ただ「食わず嫌い」を作らないような配慮が大切です。

短剣作りの遊びの話に戻ると、大事なのはその製作過程でわからないことやできないことは教えてもらったりしながら、「やっているのは自分」「自分がやっている」という主導権は本人であることです。他人にやってもらっているのではない。やらされているのでもない、ということです。教えてもらう、というのは本来の活動が自分でできるようになるまでの支え、サポートであったり、高すぎる階段を自分で登るための踏み台、スモールステップに例えるといいでしょうか?階段を登るのはあくまでも本人、子どもです。短剣を作るのはあくまでも子どもです。

ここで無藤先生に教えていただいた遊びの定義を思い出します。あ、短剣作りたい!という思いつきから目標設定が始まって、どんな形だったっけ?になったでしょうから、そこにも本人が以前見た映像のイメージはあっても具体的な形にすることは難しいので「教えてもらう」「見本をみる」など映像的な手がかり得る過程が生まれるでしょう。そこも、どこまで先生や大人が提供するかという判断もあるでしょう。できるだけ、本人が作りたい目標に向けて、自分で考えて試行錯誤してもらいたいからです。ここに仮説を立ててやってみるといった課題解決プロセスが生じます。そしてできた!という達成感。なんとも嬉しそうです。

あの遊びが学びになっているのは、その形を実体化する方法の素材がダンボールと折り紙でしたが「切る」と「貼る」という、行為がまれていたことです。ものを「分ける」と「つなぐ」で新しい創造になっている過程があって、そこにいろんな道具が使われています。「分ける」は破る、ちぎる、切る、砕く、つぶす、溶かす、蒸発させるなどの方法が色々ありそうです(料理はそれが多い)。「つなぐ」の方は、貼る、結ぶ、かく(書くも描くも)なども、何かと何かをつっつけて新しい形にしていきます。二つ以上のものが一つなります。このような遊びの中で、色々な物の性質に気づき関心を深めていくことできるでしょう。

ちなみに造形には粘土のように可塑性や弾力性のあるもの変形させるという面白さもあります。小麦粉粘土など2歳ぐらいからでも「分ける」と「つなぐ」がすぐにできて、感覚的にも面白いのでしょうね。また思わずある形があるものに思えてきたり、また変わってしまうこと、それを自分の関わり方一つで変化する面白さがありそうです。

そして試行錯誤が目立ってわかりやすいのが剣の修理というか補強に取り組んでいる姿でした。振り回しているうちに剣が曲がったり折れたりして頑丈にするという方法を見出していました。使い捨て文化を見直すなら、大人も修理して使い続ける姿を子どもにもっと見せたいものです。素材の折れやすさは、自分が負けるという戦いには致命的な素材の弱点だから、どうやったら強くなるかが、強い動機になっているようにも思えて面白いのでした。

 

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