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見守る保育(保育アーカイブ)

プールが砂場のような水場に

2023/08/04

「ねー水、出てる?」「でてるよー」

3歳時クラスの子どもたちが、プールの中で、ホースをウレタンの柔らかい筒にさしこんで、水を流し込んで遊んでいます。砂場で見かける雨どいを使った水流しの遊びのように、プールが「水場」がとても呼びたいような場所として使われています。

2人が入り口のところを、別の2人が出口のところを、そして2本のウレタンホースのつなぎ目を1人が持っています。つなぎ目のところが離れると、出口から水が出ません。子どもたちは、その違いに気づき、そこが離れないように声をかけています。

ウレタンのホースは、水に浮くので、うまく水平に保つことができ、床や砂場などで行うよりも取り扱いやすそうです。雨どいで遊ぶものとちょっと違うのは、傾斜を使って水が流れるのではなく、水道から出るホースの水の勢いがそのまま水を押し出してくるので、傾斜や斜めにすることで、水が流れると言う事とは違います。それでも入れたところとは違う、離れた場所からまた水が出てくるということが面白いようです。

ただ、雨どい等と違って、ホースなので、噴水のように垂直に立てても水が吹き出てくるのが面白く、垂直に立てて、上の方から吹き出そうとさせていました。でも、うまくパラソルの屋根の方まで水が届かず「でな〜い!」と言って遊んでいました。^_^

ジレンマに耐えながら自分を信じること

2023/08/03

先生たちと保育のことや仕事のことを話し合うと、ある種のジレンマ、葛藤、矛盾した感情などがテーマになることがあります。それは結構おもたい話なのですが、それがつきものなのが保育という仕事かもしれません。この仕事について、すっきりと秋の青空のようにスカッと晴れ上がり、はればれとした爽快感に溢れたような時間が、一体どれくらいあるものなのでしょうか?そういう時間が多いに越したことはないでしょう。また単純に明るく楽しいという喜びを感じることも大事でしょう。それはもちろん人ぞれぞれかもしれませんし、園によって違うかもしれません。

それでも、この仕事には、これで「終わり」というものが、時間的にも質的にもなく、ずっと続いていきます。その過程には園児とのその家族が入園と退園を繰り返し、先生たちも一人の人生の大きな要素を園生活あるいは保育という仕事で占めていくことになります。保育というものは幾重にも重なりあう人生が出会い、合流し、混ざり合い、影響しあって一つの流れをなしている川のようなものかもしれません。いつも長閑な春の小川のようにサラサラといくとは限らず、たまには豪雨に見舞われて、ごうごうと濁流をなして波打つときもあるからです。保育はある意味で色々なジレンマを抱えて行うもの、というのが私の結論です。それは向上心と楽観的姿勢につながるものだからです。

この川のたとえは、一人個人の内面にも当てはまるかもしれません。保育に壁や行き詰まりを覚えたり、うまくいかないことに落ち込んでしまうこともあるからです。私もひどくナーバスになってしまった経験があって、しばらく精神的に参ってしまったことをリアルに覚えています。いまこうして仕事を続けていられるのは、私の上司が大らかに見守ってくださっているからなのですが、さらにいうと信頼してくださっていることが心の大きな支えになっています。

この「信」ということは、自分へも返っていくものです。それは迷ったり自信をなくしたりしたときに、それでも大丈夫だからついていらっしゃいというメッセージが伝わってくる関係のありようを「見守る」というのではないでしょうか。それは私が他者を信じることへ導きます。そこには暗黙の太い心の通い合いが成立している関係です。これを他者との間に作り上げていくことが、人生という川の流れのなかに残すことができたら、とても幸せなことだろうと思います。私はそんな気持ちでうちの先生たちを見守りたいと思います。ジレンマは付き物、大雨も必ず晴れるし、きっといつもの春の小川に戻るから、と。

ゼミ生たちと実践を語り合う

2023/08/02

今日はある大学の先生と保育所を目指しているゼミ生4人が見学にいらっしゃいました。午前中見学をしていただいた後、午後、主任を交えてディスカッションをしました。学生さん達をいろんなところに見学に連れていかれているそうです。

保育を見て感じたことを話し合う。他者の考えに触れ、自分の考えを振り返る。子どもの姿、園の環境、保育者の様子、子どもとの接し方、そこに流れている考え方、いろんなことが話題になりました。それは私にとっても勉強になる時間です。

目の前に展開されている光景の中から、どんな事例を拾い出して話し合うことになるのでしょう。それは、そこに集う、当事者たちの関心や印象的な出来事が話題の輪郭を作り上げていくことになります。

例えば園のパンフレットには「保育目標」として、子どもの姿が4つ書いてあるのですが、3つ目には「自分を好きになれる子ども(自尊感情を持てる子ども)」とかいてあります。

学生さんの1人から「どうやったらそうなるのか」と聞かれました。この保育目標を作ったのは私ですが、さぁ、改めて聞かれるとどう説明するか。私の代わりに主任がエピソードを交えて説明してくれました。それを聞いていて「なるほど」と感心しました。このような会話は、いつもいる園のメンバーだけではなかなか生じません。見学をしあったり、公開保育を行ったりすると、このようなことがよく起きます。

今週は屋上でのプールの入り方を変更しています。基本はカニやラッコ、イルカなど、いわば「習熟度別」に子どもが選択するのですが、今週は子どもの姿から3歳児だけクラスで入るようにしたのです。水遊びやプールが好きなはずの子どもが入りたがらないのを不思議に思ったからだというのです。これは、ざっくり言うと、子どもの姿に基づく環境の再構成です。

その話を聞いていて、人間関係の再構築ために選択の方法を変更したことになるのだなと想像していたのですが、主任の話は、もっと柔軟で微妙な広がりのある話し方をしていました。そこに、生き生きとした実践の深さのようなものが脈打っているのです。

それでも、言葉で語ることを放棄せず、実践に迫り続ける語りを積み重ねあうことの大切さを確認できた時間になりました。ありがたいことです。

行事について

2023/07/24

わらす(3〜5歳)のクラスブログは、先週の「お泊まり会」の内容を振り返って、連載でお伝えしています。当園の行事は大きく4つのねらいがあります。一つ目は子どもにとって、普段体験できないことをやることで、経験の幅を広げるということ。今回のお泊まり会もそれにあたります。そのほかにも、バスや電車を使って遠くの山や海に行ってみるとか、いつもとは異なる生活や遊びをやってみるということを主眼に置きます。

二つ目は伝統行事です。日本には季節に応じて様々なものがあるので、それを体験できるようにします。都会での生活に限らず、意識しないと季節を感じない生活になりがちなので、そういう行事は大切にします。こどもの日、七夕、お月見、餅つき、お正月、節分、雛人形・・などなど。それに合わせて四季折々の食事も味わいます。行事食と呼んでいます。

三つ目は保護者参加のイベントです。春の親子遠足。地域を親子で散策します。今週末の夏の納涼会。内容は保護者の皆さんと一緒に考えて企画します。秋の親子運動遊びの会は、和泉小学校の体育館をお借りして、親子で体を動かして楽しみます。冬のお楽しみ会は、劇遊びや歌、音楽を楽しみます。そして年度末の成長展。これは1年間の一人ひとりの成長・発達を5領域に分けて作品やドキュメンテーションを掲示して、自分の子どもはどれだろう?とクイズ形式で当ててもらいます。

四つ目は親子の関係、親同士の関係づくり、地域との関係を大切にしたものです。個人面談、保護者会、保育参観や保育参加、パパ先生やママ先生の体験。他の行事とも重なり合うこともあります。3つ目の行事が、子どもの育ちを伝えて一緒にそれを喜び合う、発達を伝えるということが趣旨ですが、同時に親子での遊びの提案になっていたりします。親子遠足や納涼会、親子運動遊びの会などは、その要素も濃いですよね。また保護者主催の催しなども保護者同士がつながり合う機会になって、ありがたいことです。さらに今年は保護者主体の「しずくの会」もできて、子どもを支え合う仕組みが増えて、保育園も嬉しく思っています。

これら4種類の行事や活動は、いろいろと影響しあっています。日常の生活や遊びにも、家庭生活にも、地域との連携にも、小学校以降の生活や学びにも。そのうち、学校のPTAや保護者会も縦に繋がっていくといいですね。いずれにしても、子どもと家族がハッピーであることを最優先していきます。その中で育まれていくものも大きいのだろうと思います。

また行事は、英語ではイベント、でしょうけれど、日本の保育における行事はもう少し広がりのある語感がある気がします。さらに気になるのは、出来栄えを保護者に見せる行事、準備が大変、普段の保育より優先れている、あるいは別になっているということをよく聞きます。それは望ましくないと考えています。最も大事なのは毎日のさりげない瞬間です。

にちよう開放 しずくの会

2023/07/23

今日は「にちよう開放」。しずくの会が開いてくださいました。

今回はすべてのフロアを開放して、乳児から幼児まですべてのクラスで過ごしてもらいました。

私は建築設備検査の立ち合いがあるので、ついでに開放したのですが、卒園児の親子とも久しぶりに再会できて、一緒に昼食を食べたりして楽しい時間になりました。

これは「しずくの会」作成の案内。毎回、素敵なデザインです。

どのクラスの子どもも園全体が生活の場です

2023/07/13

保育園という生活空間は、家庭がそうであるように、そこにいてはいけない場所というものはありません。どこにいてもいいし、保育園のすべての場所が子どもにとっての居場所となります。

たとえば、保育園の中に内と外の区別はありません。それも家庭と同じですね。家庭の中に、ここからは内でここからは外、というものはないと思います。それと同じです。

あるいは、その子にふさわしい場所は所属するクラスのなかだけとは限りません。その年齢の発達にあったものは、多くはそのクラスにあるようにしていますが、入園してすぐの時期や進級するまえの移行の時期などは、その幅をひろくとる必要がでてきます。

当園はそんな「外」にあたるような場所をなくしたくて、子どもがいてはいけない場所がどこにもないようにしています。園内を全てコーナーやゾーン化して、つまり遊びや生活に必要なリソース(資源)を分類して、子どもにアクセスしやすいように配列して可視化してあります。すると、子どもはきちんと自分にあった(必要だったり好きだったり)選択をします。

そのゾーンと同じ意味で、廊下も階段も、それぞれに子どもが居ていい居場所としての意味があります。例えば階段は上り下りの運動になりますし、歩行の確立期にある乳児には格好の運動遊具です。階段の蹴上の部分には数字のステッカーが貼ってありますが、登る時に1,2,3,4とカウンティングしたり、数字への関心や感覚に親しんだり、リズムのある上り下りができたりします。

月の満ち欠けの写真が貼ってあるのも、そういう意図があります。またちっちぐんぐん(0〜1歳)の前の赤いスペースにも、絵本の棚をおき、ザラザラ、チクチク、スベスベなどの触覚遊びができる手作りボードが掲げてあります。

実は1階の扉の前の空間は、赤いマットを敷いて赤い机と椅子をおき、絵本を貸し出せる「千代田せいが文庫」の空間にしていた時期があります。親子で絵本を読んで帰っていい場所にしたのですが、食事のワゴンを運んだりして、物理的に狭いことから「文庫」は2階に引っ越すことになったのです。

つまり、あまり廊下っぽくしたくなくて、手触り遊びのボードを置いたり、そこで絵本を選んだりできる空間にしてあるのです。今年度からロッカーが並び、お支度のスペースにもなっています。実際に保育中は廊下から階段に至るスペースも、生活や遊び使えるようにしています。したがって内と外になってしまうような仕切りは、できるだけつけていないのです。

さらにクラスという空間の考え方も、柔軟に考えています。確かに01歳児クラスがここで、2歳児クラスはここ、345歳児クラスがここ、というのはあるのですが、実際の生活の空間は、玄関から屋上まで保育園内の全ての場所が生活空間になっています。

実際に他のクラスで過ごすことがあるし、子どもがその場所を好んでいたいからいるということも大いにあります。各クラスには、基本的にはその年齢に合ったものが置かれていて、発達に合った遊びができるように色々な遊具や絵本や運動用具などが配置されています。それでも、子どもはその標準的な幅を超えて過ごしたりします。他の遊具を望んでそこへ行くこともありますし、他の場所はどうなっているんだろうという興味から、探索したり、遊びに行ったりすることもあります。

また、物や空間だけではなく、人的環境としても乳児から幼児まで、全ての子どもが全ての子どもと接することができるようにしています。例えば乳児が幼児クラスを訪ねていくと、幼児の子がすぐに「Sちゃん、かわいい」と声をかけてくれます。子どもたちは、クラスを超えてよく知っている間柄なのです。乳児に年長がお世話をしにくることもあります。新しく入園した子どもが、クラスの仲間関係ができるまで、朝夕はきょうだいのいる部屋で過ごしたり、午睡の時間に幼児のクラスで寝るよりも乳児の部屋で寝る方を好むこともあるのです。

子どもの主体性を尊重することは、それぞれの子どもの幸せな過ごし方を実現させ、自己が発揮できるようにすることに通じると思います。また、それらのことは、それぞれの子どもの人権を守ることにもなります。所属するクラスの集団が、そのクラスの中だけで過ごさなければならないというのは、一見常識のように思っていますが、じつは偏った考え方かもしれません。豊かな体験のためにも生活空間を広く考えることは大切なことだと思います。

ちなみに職員の態勢にも触れておくと、各クラスの担任がいて、そのクラスの子どものことは担任が一番よく理解しているわけですが、ご存知のように朝の早い時間や夕方の遅い時間は、シフト勤務のために担任以外の先生が保育することもあります。そこで全職員が全ての子どものことを、ある程度知っており、全体でチーム保育をしていることになります。クラス以外の子どもがそこで遊んだり生活していても、その対応に困ることはありません。職員間での意思疎通と情報共有はできているので、子どもの生活や保育計画の連続性に支障をきたすこともはありません。

自己理解が育つような選択と判断

2023/07/12

今年の夏、初めてプールに水を溜めて遊びました。プールの中での遊び方は様々ですが、どの子も楽しく遊べるための目安は、顔に水がかかっても平気かどうかと言うあたりに、基準があります。そこで、水遊びに慣れてくると顔に水がかかっても平気になり、水に顔をつけたり潜ったりできるようになります。水に浮いたり泳いだりできるためには、どうしても、そこに一つのハードルがあるのです。

そこで、四半世紀にわたって当法人がやってきた方法が、そこを基準に遊びを3種類程度にわけて、子どもが選べるようにしてきました。顔に水がかからないように遊ぶグループを「カニ」グループ。潜ったりバシャバシャと水を掛け合ったりできるグループを「イルカ」グループ。その中間ぐらいを「ラッコ」グループとします。カニやラッコやイルカは、子どもにそのイメージが伝わりやすいので、そうしてきました。

すると、子どもたちは「楽しそう」と思う遊びをやりたいので、それに従って選ぶのです。この基準を水との関わり方の「習熟」と捉えることもできるし、バリエーションと捉えることもできますが、それは、その都度、子どもそれぞれが判断する内容は違うものでしょう。その日によって違うグループを選ぶようになるからです。

この選択と判断を繰り返していると、環境との関わり方、つまり、水との付き合い方のバリエーションが増え、結果的に自己理解が進むと考えています。水についてと自分のこと、水との関わり方への理解が深まっていくと同時に、もっとこうしたい、こうでありたいと言う意欲も強くなっていくのです。

また忘れてならないのは、結果的にその都度選ばれて作られるその集団は、年齢別クラスではないので、多様ざまな人間関係を体験することになり、人との関わり方も上手になっていくのです。

今年の保育環境セミナー開かれる

2023/07/11

今週は7月10日の月曜から3日間、保育環境研究所ギビングツリー(藤森平司代表)の研修会が開かれました。初日と3日目は都内周辺の保育園の見学ができるので、全国から160人を超える保育者の方々が参加され、オンライン参加も過去最高益の60施設を超えました。コロナ禍でできなかったことが今年からできるようになり、いい意味で活気が戻りました。

7月9月11月と年3回開かれる「保育環境セミナー」は、今年から3回セットの同じテーマを深めることになりました。今年は人の在り方です。今回は人的環境の中の「子ども同士・異年齢」についてです。次回は「主体性について」、その月が「チーム保育」と続きます。見学のない二日目が研修会で、藤森代表の講演のほか、実践報告、質疑応答(Q&A)の3セッションからなります。

今回は、私が司会進行だったのですが、この分野のテーマは実践が「異年齢交流」「思いやりを育てる」など、保育がパターン化されているきらいがあります。それに引き換え、今回は子ども一人ひとりに焦点を当てることで、多様な関わりが生まれるような「豊かな」人的環境のあり方を探究するものになりました。

水遊びにおける表出から表現へ

2023/07/06

水遊びは気持ちを解放させてくれる。その文章表現を見て、ちょっと考えることがありました。当園の夏の「保健だより」にそう書いてあります。今日は屋上やベランダで子どもたちが、バシャバシャと水をかけあってキャーと声をあげて遊んでいる姿を見ると、健康的ないい活動だなあと実感します。

そこで、そうか!と気づきました。水という媒体とのこの「かかわり方」を領域表現で大切にしているプロセスと重ねあわせてみると、気持ちが解放される子どものありようのこと、つまり表現以前のことと思われる中に、表現へとつながっていく何かがあるな、と気づいたのです。

確かに保健的な養護的な側面と、なぐりがきをしたり、新聞紙をちぎっては投げあげたり、かえ歌をある種デララメに歌って、繰り返し口ずさんだりしている教育的な保育内容的な姿との重なり合いです。

それは感覚的、感性的にうちから出てくるエネルギーがあって、それが表出されているのですが、それが一旦十分に楽しまれた後で、さあ、水ってこんな感触があって面白いね、と改めて向かい合っていきたいと思います。

水というのは固定されにくいので、ジョウロや色水遊びのように別の何か容器のようなものを介するか、雨や川や海のように自然にあるものを利用するか、あるいはコップや水筒や食事などの「飲む」という、もっと生活に密着したものもあるかもしれませんが、いずれにしてもを水を表現の媒体にはしにくいのですが、身体的なかかわり方の対象としての水を考えることは大事です。浮く、沈む、泳ぐという身体的な体験も領域健康としても、これから始まるわけですが。

それを造形や音楽や劇やダンスとは同じように扱えませんが、身体的な水遊びではしゃぐ姿を見ていると、領域環境では何か対象化されすぎているようにも思えてきます。色水遊びや絵本の楽しみ、水族館で見た生き物たちの水中での動きなどがつながっていくときに、子どもが自分の身体と水との間に何かしらのコミュニケーションがもっと起きていでしょうし、実際にすでに対話が繰り返されているだろうからです。

 

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