MENU CLOSE
TEL

STEM保育(保育アーカイブ)

カブトムシを手に乗せて

2021/07/02

6月下旬に土から出てきたカブトムシですが、わいらんすい(3〜5歳)の観察技術が向上しています。「手についている汚れがついちゃダメだから、手袋してからだよ」とか「引っ張ると痛いから棒に乗せてあげるんだよ」などと、教えてくれます。どの子も触りたくてしょうがないようで、手のひらに乗せて「ほら、見て」と嬉しそうです。

雄のツノの部分を摘んで、持っているときは自慢気です。じっとしていたり、のそのそ動き出したり、カブトムシの動きをじっと見つめながら、その感触を確かめています。棒の端まで来て、少し羽を広げようとすると、「あ、飛んじゃう」「逃げちゃうよ」「大丈夫だよ」「ダメだよ、飛んじゃう、飛んじゃう」「大丈夫だって、こっちに入れて」と、興奮する時もあるのですが、それもカブトムシへの愛着からでしょう。

こうして子どもたちは、カブトムシについて詳しくなっていきます。からだの表面に生毛のようなものがうっすらと生えていることや、足にトゲトゲがあって、それで「痛い」ってなることや、しがみついている時に無理にとろうとすると、引っかかって取れないこととか、色々なことを感じたり、気づいたり、試したりしています。棒から手にうつそうとしているのですが、なかなか思うようにいきません。上に登っていくので、棒の先に棒を継ぎ足してうつさせることに気づいている子もいました。知識を使って工夫しています。その過程で思考力が育まれているのです。

優しく手に乗せて、じっとしているカブトムシをまるでペットでも飼っているかのように、うっとりしている女子もいます。虫をとりたい、観たい、育てたい、触りたい、という関わりから、愛でたい、育てたい、大切にしたい・・と子どもたちの心も成長しているのですね。どうやったらいいのか、自分軸からカブトムシ軸へと関わり方が変化しています。よりよい生活を営もうとする学びに向かう力や人間性の育ちがみられます。こんな「生き物」との触れ合いを通して、いたわったり、大切にしたりする気持ちも育っているようです。

 

ブランコでのコミュニケーション

2021/06/18

朝、運動ゾーンで「ブランコ」を楽しみました。園庭がない保育園ですが、運動ゾーンでは取り外しのできる遊具が何種類かあって、今年度からブランコもやっています。今日の朝の運動は、ネット、クライミング、トランポリンの他に、このブランコとスイングボール(大きな赤い球)、それから子どもたちが「豆ちゃん」と呼んでいる緑色の袋状のものを天井から吊るしました。

人気のある遊具は「次は◯◯ちゃん(自分の名前)」「ちがうよ、◯◯くん(自分の名前)だよ」と、順番争いが起きることがよくあります。そんな時、今朝は3歳児わいわい組の3人の女子たちだったのですが「じゃあ、ジャンケンね」と言って自分たちで決めようとしていました。大人が差配してしまうのではなくて、どうするかそばで見守っていたのですが、ここまで成長したんだなあ、と感心です。と言っても、負けた子が納得できなくて「嫌だ〜」とはいって、一旦は不満を口にしていましたが、それでも渋々、その次は自分の番だと待つ事ができました。

しばらくブランコに乗っていて、なかなか終わらないと、今度は「代わってくれない」と不満を訴えてきます。そんな時は「代わって」って頼めばいいんだよと教えてきました。言われた方も「黙っていないで、もうちょっと待って、とかあと少しとか、ちゃんと返事をしよう」と教えます。こうして、言葉のキャッチボールの仕方を伝えています。「もう少し待ってて」と言われたら「じゃあ、あとどれくらい?」と聞けばいいんだよ、とか、そう言われたら「あと10数えるまで」とか、自分で考えて返事しようね、という具合です。

自分の思いや考えを言葉で伝えようとする、そんな姿を育てたいのですが、ブランコの場合は、「あといくつ」を数えやすい。漕ぐたびに、い〜ち、に〜い、さーん・・・と数えていました。生活の中で数を数えるという場面は、こんなところにもあります。人数が増えてきたところで、ストップウォッチをつかって1分交代にしたのですが、その時はスマホの画面に表れる秒数を1から60まで読み上げるのが楽しそうでした。

生き物の不思議

2021/06/07

アリの巣をじっくり観察している子どもたちは、いろいろな気づきを教えてくれます。

自分の体よりも大きな石をくわえて運んでいる様子を「ほら、みて。あごでこんなに強いんだよ」と。

そのアゴをどうにかしてよく見ようとして、拡大鏡を当てて、覗き込んでいます。

また、アゲハ蝶になるのを楽しみ待っている子は「もうすぐかなあ」と、聞くのであと1週間ぐらいかな?と話しています。

私も同じようによく見たいものが見つかって、スマホのカメラを拡大鏡の代わりにして探しました。神宮司さんに教えてもらったのですが、玄関の稲の水の中に「ホウネンエビ」がいました。

小さな小さなビオロープができていたのです。卵が土の中にいたのでしょう。稲を植えた水の中が、居心地のいい場所になっているようです。

 

あんびりばぼーって書いて!

2021/05/24

子どもの世界にそっと入らせてもらうと、そうか!という驚きを感じる時があります。今日の夕方のこと、年中らんらんのSくんが私に「アンビリバボーってかいて」と英語のスペリングをご所望されるのです(笑)。どうして、こんな言葉を、しかも英語で!と不思議に思いながらホワイトボードにunbelievableと書いてあげると、彼はUNBELIEVABLと真似して大きく書きます。この一文字だけでホワイトボードがいっぱいになります。次に「エクセレント」「ブリリアント」などの英語のスペルも求められます。スペルを間違えちゃいけないので、スマホで調べながら書いてあげました。これらの言葉にどんな関連があるんだろう?と思いながらやっていると、「あと、グッドとバードも」と言います。ん?鳥が出てくるのか?一体なんだろう?よくわからないまま、英語のスペリングを楽しんでいるから、別に止める必要もないので付き合っているところへ、ちょうどお父さんとお母さんのお迎えです。そして謎が解けました。

バードはバッド badだったのです。つまり何かをやると「すごい!」とか「素晴らしい!」とか「いいね」、とか、そんな反応が英語で返ってくるような遊びに夢中になっているようなのです。子どもには変な先入観がないので、こんな難しい英単語もハローやアップルと変わらないのです。これが子どもの強みだなあ、と感心した次第です。

さらに、そうか!と思ったのは、英語の方がもしかしたら褒め言葉が多いのかも!ということです。そのとき私はどうも最近good=善という発想の地平から抜け出ていなかったことに気づきました。ただ「いいこと」もあれば、「すっげ〜、信じらんねえ」の世界だってあっていい。これは文化の違いでしょうか。大谷翔平がホームランを打つ度に、英語の実況中継者の、あの大袈裟な反応を思い出しました。そんなリアクションが返ってくることが、Sくんには新鮮で魅力的だったのでしょう。それにしても、それが「書いて再現したい」の方へ行くのが面白い。表象の再現方法は、このように多様なんですね。改めて考えたくなります、保育材料というものについて。

アゲハの劇的な変化

2021/05/19

今日は感動的な事件が起きました。園のみかんの木で見つけた幼虫が、あおむしに変身したのです。朝はまだ茶色いフンのような姿だったそうですが、午後のお昼寝の頃には、鮮やかな緑色に変化していました。内線で教えてもらい、私は早速3階へ上がると、その変化を子どもたちが見逃すはずもなく、午睡の時間に起きている年長のすいすいさんたちを中心に、熱心な観察が続いていました。

何人もの幼児クラスの子どもたちが、よく見ようとして懐中電灯を当てて眺めています。しばらく見ていたすいすい組のYHさんは「やっぱり、これ死んだふりしている」と言います。繰り返し「園長先生、これ死んだふり」と笑って、そう言います。私が「怖がっているんじゃないのかな。カゴを揺すられて動くから」というと、「だってずっと動かないんだもん、死んだふり」と笑顔で楽しそうに言うのです。

その時、そうか、と気づいたのです。YHさんはその時、虫になっているのです。虫になってみたら、ずっと動かないのは「死んだふりをしているから」ということがわかったのです。虫の方が教えてくれたのであってYHさんが勝手に想像しているとはちょっと違うのです。この対象から語りかけてくるような「世界の開示」は、これまで子どもが模倣する「ごっこ」とは違います。YHさんが死んだふりをしているのではなく、ちょうが死んだふりをしているというのですから。自分が一旦ちょう(幼虫)の立場になって、そのちょうが「死んだふり」をしているという、2重性があります。

このようなことは、対象への心配りがあってこそ生じるのではないでしょうか。蝶への関心の深さがあってこその共感に基づく対象との対話です。これは大人の例で言うと、世界の真実や神の声を聞いた聖人の言葉や、世界の真善美を描いた画家、あるいは漢字の成り立ちを甲骨文字をなぞり続けて解明した白川静と同じアプローチに思えます。物事の学ぶプロセスにこのような、対象のものに「なってみる」という学び方があるとすると、何かを「感じ、気づき、わかり、できる」という分かり方とは違うものを感じるのですが、どうでしょうか。

見ている幼虫が、あの「はらぺこあおむし」であることを、子どもたちはみんな知っていることを付け加えておきましょう。茶色いうんちのような姿の幼虫と、綺麗な黄緑色のそれとは、子どもの共感力が違うだろうことも確かだからです。

 

自然を身近なものに

2021/05/03

今日は屋上のプランターにひまわりの種を神宮司さんが蒔きました。昨年の夏は和泉橋からよく見えました。園の周りには、できるだけ分かりやすい季節の花を親しめるようにしたいのです。春はタンポポ、桜、チューリップ、菜の花、梅雨は紫陽花、夏はひまわりや朝顔、秋は菊やコスモス、冬はツバキやサザンカ、ナンテンなど。童謡に歌われているような花や木を実際に触ったり匂ったりしたいものです。

八王子の姉妹園から園だより5月号が届き、啄木鳥が木をドラミングする音が聞こえているといいます。ちょうど鳥のさえずりが夏を迎えているのが想像できます。園庭の藤棚もちょうど見どころでしょう。その場所は近くの池にカワセミがいるほどの自然が残っている場所なので、この千代田とは比べることはできません。

ところが、目を凝らすと千代田区にも季節を感じる自然が色々見つかります。ひまわりの種を蒔いた土の中から、カナブンの幼虫が出てきました。この土は買った黒土だったので、有機物があまり含まれていなかったのですが、だんだん土の中に微生物が繁殖し、小さな生態系が生まれようとしています。土の中から鳥が捕まえた獲物と思われる肉が出てきたそうです。「たぶん、カラスじゃないかな」と神宮司さん。三階建ての屋上にも、土があればそこを住処にする生き物がやってきます。昨年はバッタがたくさんいましたから、今年はそれがどう変わってくるか、新しい食物連鎖が生まれるはずです。

子どもの目線に合った実験づくり

2021/04/22

え〜、どうして? フライパンが浮いたことに、驚きの声をあげたのは、年長のKMさん。

22日(木)の幼児クラスわいらんすいの誕生会では、先生の出し物として「うく?しずむ?」の実験がありました。身近なものを水の入った水槽に入れてみて、浮くか、沈むかを確かめる実験です。やる前に、「浮くと思う人?」「沈むと思う人?」と先生が聞くのですが、それを見ていて「子どもらしいなあ」と感じるのは、「どうしてそうなるのか」ということよりも、「当たった!やったあ!」の方が嬉しいということです。

それでも、さすがに最初は沈んだフライパンが、そっと載せると船のように水に浮いたことに、素直な「びっくり感」が表れていました。でもそれは年長さんぐらいにならないと、「あれ、どうして、不思議だな」という感じになりません。多くの子たちは、答えが外れたことの方が「え〜外れた、残念」という感じであって、関心が不思議さの方にはあまり向きません。

そんな様子を見ていたら、最後にいくつかの石を入れてみると、ふんわり浮いたり、スーッと沈んだり、ふわふわと漂ったりする石があって、それは「あれ!」「え!」という意外さを表していました。そうした子どもの心の動きが見えてくると、どんな実験が、この時期の子どもたちにとって「心動かされる体験」になっていくのかが、見当をつけていくことができそうです。いろいろな実験を通して、見せてくれる乳幼児の姿から、子どもに目線に合った実験をやっていきたいと考えています。

わくわくユリイカ!(STEM保育)うく?しずむ?

2020/10/30

明日31日のハロウィーンを前に、かぼちゃを使った科学実験をわいらんすい(3〜5歳)の子どもたちと楽しみました。題して「うく?しずむ?」です。

使った材料は、実験をした順番に並べると(写真)バナナ、にんじん、きゅうり、まつぼっくり(乾燥したもの、濡れたもの)、かき、たまねぎ、かぼちゃのおもちゃ、ピーマン、みかん、さつまいも、トマト ミニトマト、りんご、卵、かぼちゃです。

1つずつ「うくかな?しずむかな?」と尋ねながら、水槽にそっと入れていきます。やっていて楽しかったのは、その理由についての子どもの発想です。

一番最初に取り上げたバナナですが、3本がつながったままだったのですが、うきました。すると「しむず」に手をあげていた年長のJくんが「(うくのは)きっと曲がっているからだよ」というのです。「お、面白い考えが出たぞ」と思い、みんなに「今、聞いた。Jくんはとても面白いことを言ったよ。曲がっているから浮いだんだ、って」。

できるだけ、起きている現象についての理由について、子どもの「考え=仮説」を大事にしながら進めました。曲がっていないバナナがなかったので、仕方がないので、形のにている人参やきゅうりをやってみることにしました。

表にしながら、「浮いた!」「沈んだ!」を楽しんだのですが、大人も意外だったのがトマトは浮いて、ミニトマトは沈んだ時でした。

最後にかぼちゃをやったんですが、流石にそのずっしりとした大きさからか、「しずむ」に手をあげた子どもたちが多かったのですが、実際は浮きました。最後に、私がちょっと捻った問題を出してみました。「じゃあ、浮いたかぼちゃに、沈んださつまいもを乗せたらどうなるだろう」をやってみたのです。ガムテープでくくりつけて、そ〜っと浮かべると、水の中で「クルリ」とひっくり返りました。

その様子をみて喜んでいた子どもたちでしたが、その中から、わいわい組のHくんが、自分ならもっと上手にやれる、ひっくり返らないように浮かべることができる、というのでやってもらいました。静かにそっと水面に浮かべようとしていました。彼はやり方によっては、ひっくり返らずに、かぼちゃの上にさつまいもが乗るだろう、という仮説を持っているのです。

実験が終わった後、ちょうど千代田区から部長さんと課長さんが視察に来られたのですが、実験をしたことを説明してい時、すいすいのAくんが、かぼちゃ+さつまいもがひっくり返って浮いたことについて、「さつまいもが沈んだでしょ、だから重い方が下にクルって、なったんだよ」という考えを披露してくれました。同行していた区の教育部長が驚いていました。

 

ちなみにAくんは「どうやったらひっくり返らないように、さつまいもを載せることができるか、他の浮いたものを使ってできないか」を探求しています。

伝承遊び「あやとり」

2020/10/27

10月から始まった「伝承遊び」のうち、3歳児クラスのわいわい組の子どもたちから「やってえ〜」とか「見てて〜」と声をかけられると、あやとりの「ほうき」だったり「東京タワー」だったり。かなりのブームになっています。あやとりは手指を1つずつ動かすので、指のいい運動になります。

https://asoppa.com/asopparecipe/4189208 ホームページ「あそっぱ」より

それまでに「トントントントンひげじいさん」とか「グーチョキパーで何作ろう」とか、いろんな手遊びを楽しんできた子どもたち。その子たちが今度は中指だけを動かしたり、親指と薬指で摘むように糸を引いたりといった「指技」ができるようになってきたのです。私たち保育者は、こうした指先を使った遊びを「微細運動」と言ったりします。その反対は全身を使った運動で「粗大運動」と呼んだりしますが、微細と粗大を対比させる分類は、それこそ粗雑な分類のように思えます。

あやとりは、このように「運動」でありながら、つながった一本の「ひも」が色々な形を作ることができる幾何学遊びと捉えることもできます。また友達と交互に糸を指で取り合い、色々な立体図形を作り続ける造形遊びにもなっています。わいわい組のKくんは「ほうき」の最後の方で、左手の人差し指と中指と薬指の3本の指を紐の間に差し込んで、紐を手の甲の方へ裏返すようにするのですが、そこがどうしてもできなくて、地団駄を踏んでいます。

同じわいわい組のSくんが、そのやり方を根気強く教えてあげていました。こんなに「やりたい」「できるようになりたい」という強い気持ちがあれば「人生何とかなるよ」と心で太鼓判を押してあげました。たかがあやとり、されどあやとり。決して侮れない伝承遊びです。

月見で「見ているもの」「感じるもの」

2020/10/26

「お月様はお顔みたいだね」とその子は言いました。やっぱり、こんな感想を持つ子が可愛いと思ってしまいます。科学の視点でお月様を見るよりも、私たちはファンタジーに包まれたままでいたい。お月様にはウサギがお餅をついているねと、そんな絵本の世界のままにしておきたいと思う自分がいます。

数分もすると、望遠鏡の○の中から月は見えなくなります。大人はその事実を理解するために「地球が自転している」ことを思う浮かべます。子どもは月が東から南へ昇っていく(移動している)ことに、どのように気づくのでしょうか。月の形が変わっているのは、大抵の子どもは気づいているのですが、時と共に東から西へ夜空も動いていることを、子どもはどのように知るのでしょう?

紛れもなく見えているものは、かなり遠くの風景です。地球から月までの距離は38万キロもあります。時速200キロの新幹線だったら80日もかかります。秒速30万キロの光なら1秒とちょっとです。つまり、目に見えるお月様は1秒前の姿を見ているのですが、そんな遠くの景色を地球上で見ることができるでしょうか? 地上でいくら遠くを見ても、地球は丸いので、その先は見えません。私たちは、こんなに遠くのものを見ることは「月」ぐらいしかないのです。そのことに私たちはあまり気付いてもいません。

見ているその光は太陽光の反射なので、太陽まで遡ると8分以上前に発せられた光が私たちの目に届いていることになります。月は地球との引力で引っ張られながら、1秒間に1キロの猛スピードで地球を回っています。こんなに早く動いているものを眺めていることにも、気付いていません。そんなに早く動いているのに、それでも地球を一周するのに一月もかかるのですから、その宇宙フィールドのなんと大きいことでしょう。

大人になると、こんな話に「ユリイカ!」を感じるのですが、3歳や5歳の子どもが望遠鏡の中のお月様を見ることで何を思うのだろうと、そっちの方に興味があって、どんな感想を漏らすんだろうと、そばでピントを合わせてあげていました。科学的に何かを知ることが、いつだって何よりも大事だと主張するつもりはありません。私たちは生理的な感覚(五感)をさえ超えて、第六感や第七感を夢見る想像力も失いたくもないからです。

望遠鏡で月を眺めながら、何を見るかは自由でありながら、その自由であることの難しさもありますねと、月が物語っているようでもありました。

top