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保育アーカイブ

自分で決めることを支えること

2023/10/07

頭で分かってはいるけど、行動に移すことができないこと。私にはしょっちゅうあります。できない理由はいろいろですが、案外自分でも「手強い」のは、納得できないで、もうもやしているのに、やらないといけない時です。頭でもよく納得できないでいるのでしょうね。でも立場上とか、言った手前とか、まあ、いろいろありますよね。

それは子どもだってあるでしょう。決めた時間に起きることや寝ること、好物の甘いものや炭水化物を食べすぎないこと、ケンカになって自分が悪いとわかているけど素直になれないこと。大人でも似たようなことありますよね。子どもの場合で、先週見かけたことは、どうしてもママに会いたいと朝から「お家に帰る」「ママに会いたい」と言って聞かないこと、それとは反対に好きな遊びを終わることがなかなかできず、お迎えの時間だけど「帰りたくない」と言ってお家の人を困らせること。また昼間でもありますが、遊びや遊具の交代は「わかっちゃいるけど、やめられない」の一つかもしれません。

今日は実習生の日誌を読み返して、総評をまとめていました。保育の理解の仕方の中には、そうはっきりと断言できるようなものは、意外と少なくて、例えば子どもが「自分でそうしよう」と決めているように見えていることも、いろんな要素や力が働いて、複雑な無意識の働きの結果、そうなっているのだろうということが多いと思います。その要素や働きの中に、保育者が支えるというによる影響も当然含まれます。それは、どういうことなのかを実習生にも理解してもらいたいと思うことがあるのです。

例えば10月2日(月)のことです。私はブランコに乗ってい3歳のIちゃんを後ろから押してあげていました。それが楽しいらしく何度も「もっと早く」とせがむので、押して大きく揺らしてあげていたのです。しばらく経ったとき、年長のHちゃんが「やりたい。代わって」と走ってきました。Iちゃんは黙っています。もうずいぶん乗っているので、代わってあげようという気になるのかな? どうするかなあ? と見ていたのですが、黙っているので「変わってほしいと言われていることはわかるけど、もっと乗っていたい」と思っていることがすぐわかりました。年長のHちゃんは、交代して遊ぶということを相手にも期待して「もう、代わって」と、強くもう一度言うのですが、だめだと諦めて別のところへ行きました。

そのいきさつを、ボランティアにきていた小学6年生のAさんもみていて「こういうとき(Iちゃんに)代わってあげるように言うの?」と私に聞くので「そうだね、Iちゃんはわかっているんだけど、そうしたくないんだよね。どうやったら自分で、いいよ、って気持ちになるのかな。大人が『代わってあげなさい』と、そうさせてしまうのではなくて、自分でそういう気持ちになるといいんだけどね」というと、小学生のAさんは「ブランコ、もっといっぱいやるといい」と言います。満足するまでブランコすれば、代わってあげようという気持ちになるだろう、と考えたようです。

年長のHちゃんは、乗るのを諦めましたが、乗りたい子が多いときは、また別の結果や違った行動になる場合もあります。ブランコに列ができるときもあります。そいうときは自分から交代することや、順番で遊ぶことなどを受け入れやすい状況だったりします。また相手によって自分のやりたいことを押し通せたり、自分が我慢しないといけなかったり、します。特に相手が知っているお友達だったり、その友達関係のあり方によっても、違ってきます。また援助している先生によっても変わるときもあります。また家でも、お父さんかお母さんかでも、子どもは自分の思いや気持ちの押し出し具体を変えることがあることに思い当たることでしょう。

このように自分から何かをしたり決めたりするのも、ある程度発達してきたからといって、いつも安定的に同じようにできるというものではなく、その資質や能力が発現しやすい環境や状況というものがあって、それと切り離せないようなかたちであらわれるということがあります。その繰り返しの中で、長い目で見た時に、成長を感じる時がきます。

また私が「Hちゃん、ブランコ、代わってくれないかな、だって」とHちゃんの気持ちをただ代弁したつもりで言ったとしても、Iちゃんにとっては、一緒に遊んでいた私がそれを口にすること自体が、別の意味を影響を生むことになります。自分でそうか!と気づいて行う、ちょっとした後押しになることもあれば、かえってIちゃんの気持ちを頑なにすることだってあるでしょう。

このように、どんな援助や声かけのようなものがいいのか、などをその状況判断を抜きに一般化することはできません。やはり個別具体的な判断とその振り返りの繰り返しの中で、その子どもにとっての、ある確からしいことが見えてくるのだろうと思います。その子どもが「代わって」と言われたことがわかり、どうしようかなと考えたり、どう言ったらいいのか工夫したり、表現することは、それぞれです。その過程で、内面で動いている心情は前向きな肯定的な気持ちや不快な否定的なものの間で揺らぎながら、自分なりに出口や光と思えるところを見つけていくでしょう。

思いつきで思わず手が出て、体が動いてやっている遊びが面白くなって没頭し、さらにこうしたいという目標が見えてきてそれをやろうと工夫します。自分だけではなくてお友達とのやりとりを通して、やりたいことや思いつくことも変わっていきます。その都度の積み重ねから、なぜかより善いことにつながっていくのでしょう。どうやってそこに至るのか、大人も子どもも、自分の中で無意識の仕組みの中で起きていることは見えようがありません。ただ、個別多様であっても、その2〜3年という長いスパンの中で成長していく筋道があります。その道筋はよりよい生活のありように向かって参加していくものになるといいのですが。

それだけに、わたしたち保育者は、いろいろ望ましい結果を生むように環境を考えますが、年中、年長ぐらいになる子どもにとっては「自分でやった」「自分で決めた」「それがよかった」という実感を生むようなプロセスを大事にしながら、他者のことも考えながら自分で決めたと思える行動に結びつくように思えるのが「幼児期にふさわしい生活」の一要素のように思えます。

砂場や池の魅力

2023/10/05

保育ドキュメンテーションでお伝えしているように、今週から外遊びができる気候になり、散歩先でちょっとしたドラマが展開中ですね。乳児は芝生の上でピクニックのような解放感を味わっているようです。

1歳児や2歳児は公園にある砂場での見立て遊びも盛り上がっていますね。

幼児は3階ベランダの木枠に子どもたちが砂を入れて砂場が出来ました。

一方、幼児たちは団地の公園に見つけた池にザリガニがあることを知り、釣るための道具を作って持っていったものの・・・。「釣りは禁止」の現実に直面した子どもたち。さあ、どうする!?

不安・勧善懲悪・好みの違い

2023/09/24

ちょっと古い絵本だからどうかな?と思ったけど、予想以上に子どもはシーンと話に引き込まれ、深い沈黙が続いた。しみずみちを作・山本まつ子絵『はじめてのおるるばん』。22日金曜日夕方の園長の絵本タイムのことです。

出版は1972年で、当時、岩崎書店が「母と子の絵本シリーズ」と題している絵本30冊のうちの冒頭に置いた1冊。「身近なドラマ、新しいファンタジー」と銘打っているシリーズの代表作のような扱いになっている。この絵本は3歳のみほちゃんが、一人でおるすばんするお話だが、読む前に「おるすばん、したことある?」と聞くと、6人ぐらいから手があがった。

ウェキペディアには、この絵本についてこう書いてあった。「別視点からは、日本の高度成長期に伴い構造的に変化した社会背景(核家族化、生活共同体の崩壊等)が作品を通して感じ取られ、絵本においてエポックを画した作品である」と。こども家庭庁ができ、こども基本法のもとに「こどもまんなか社会」を再構築しようとしている今、この視点から絵本を見ておくことは大事な気がします。

あと数個なっていたピーマンを屋上から収穫してきて、みんなに匂いを嗅いでもらう。さくらともこ作・中村景児絵の「グリーンマントのピーマンマン」。ジェンダーによる差別には敏感なつもりなのですが、こういう話は男の子の反応がいい。バイキンをやっつける格闘シーンには、笑いが溢れた。この手のお話は、ウルトラマンやアンパンマンのように子どもたちにウケがいいのですが、我らが正義の味方が悪を懲らしめる、という、いささか「子どもだからって、こんな単純でいいのか?」と思わないではない。たぶん、子どもなりにすでに「嘘っこの世界」として割り切れる力が働いているのでしょう。

3冊目はマリー・ホール・エッツ。といえば「わたしとあそんで」が有名だと思うけど、『モーモーまきばのおきゃくさま』というのもある。他人に喜んでもらいたくてやったけど、相手は気に入ってくれなかった。そういう経験は子どもにもあるはず。誰でも大事にしていることや好みは違う。保育園の保育目標は「自分らしく、意欲的で、思いやりのある子ども」だけど、「自分らしく」は、みんな違っていい、ということ。それを確かめ合うことも大事だろう。

この絵本を読み終わった時、キョトンとして「ぜんぜん、面白くない」と不満げだった男の子もいました。「そうか、ごめんね」と私。お話が期待していたことと違ったね。それも子どもなりのダイバーシティ。いいと言われている絵本がみんなにとっていいとは、もちろん限らないからね。

 

私は前の園で映画「こどもかいぎ」を撮影してもらった時に、状況を変えることで引き出されてくる「思っていることや考えていること」が変わるという経験をたくさん見出しました。それは当の子どもたちもそうで、いつも一緒に遊んでいるのに「こんなに考えが違うとは思わなかった」といった趣旨のことを言った子がいたのです。それを思い出しました。

最後は、これ。ハッチンスの『せかい一わるいかいじゅう」。弟くんが生まれて周りの大人の注目が集まることに、お姉ちゃんとしてはさびしい。一番を競うのも、注目を浴びたいのも、親の愛情を獲得するのも、子どもには競争になってしまう時もあるんですよね。

令和5年度 睡眠講座「赤ちゃんねんね」下半期

2023/09/22

令和5年度の睡眠講座

下半期の日程が少し変更になっています。

11月はいずれも土曜日になりました。

いずれも午前10時から11時までの1時間。無料

全てリモート(ZOOM)で参加できます。

参加されたい方は、以下までメールをください。

招待メールを送ります。

c.seiga@chiyodaseiga.ed.jp

1 5月12日
2 5月26日
3 6月9日
4 6月23日
5 7月21日
6 8月22日
7 9月15日
8 9月30日
9 10月10日
10 10月27日
11 11月11日
12 11月18日
13 12月12日
14 1月12日
15 1月23日
16 2月9日
17 2月20日
18 3月8日

オムニバスドラマのワンシーンからの想像

2023/09/21

保育の1日を振り返ることは、子どもたち一人ひとりのその時の姿や表情を思い出すことになるのですが、その振り返りは、まるで終わりのない連続ドラマを毎日、一話ごとに短い「ダイジェスト版」を作っているように感じる時があります。しかも、その今日のダイジェストは保育者によって異なっていて、クローズアップされるエピソードも、保育者が出会ったものから選ばれるで、内容は違ってきます。

それぞれが主人公のオムニバスドラマになっているはずの生活全体について、実は全てを把握している人など存在しません。それでも物語の「あらすじ」は、当たらずとも遠からず、だいたい成立しているように感じるのも、面白いものです。そこはさすが担任、いつも一緒に生活している彼ら彼女らが残す毎日の日誌やドキュメンテーションを読み解きあっていく中で、それぞれの子どもの成長の物語が見えてくるのです。

例えば、3歳の担任が先週、模造紙に写真を拡大して廊下に掲示していました。それには小さなダンゴムシが写っているのですが、その大きさがクイズになっている保護者向けの掲示でした。

答えの写真には十円玉が添えられていて、いかにそのダンゴムシが小さいか?が、その掲示で伝えたかったことのようです。

そこまで驚く担任の心理が最初、私は正直言ってピンと来なかったのですが、そんな小さなダンゴムシを公園で見つけてしまうことに、先生は感激したのだそうです。そこを私たちが共感できるかどうかも、それまでの子どもの変化を具にそばで見届けてきたから気づく子どもの姿なのでしょう。

あるいはこんなこともあります。3歳の子どもたちが仲良く集まって絵本を見ているのですが、実はお友達がやっているお絵描きをそばで待っている光景だったのです。そこに新しい仲間意識の誕生を感じ、一連の写真入りコメントが数日間並んでいます。とびとびに拾い上げられていた同様の姿を並べてみて、なるほどと気づく協同性の動向です。

あるいは、数日前に数人が製作遊びに没頭しているな、と思っていたら、明日22日に「こども縁日」を開くそうで、そのために密かに準備に勤しんでいた子どもたちだったことを今日、記録を読んで知りました。

屋上に置いていたみかんの木に、また八匹のアゲハの幼虫がいたのですが、年中のMくんが「どうして鳥のフンみたいなの?」というので、「鳥もフンだと思ったら、食べようと思わないでしょ。食べられないように、こんななんだって」と説明したのですが、<そっか、といいこと聞いた>というような顔をしてくれたので、ホッとしました。それがこれから、またあの青虫になるなると思うと、私も説明しておきながら不思議なもんだなあ、と思います。

その奥には、ベランダに設けた砂場があります。夏は暑すぎて遊べなかったので、また砂を入れて遊べるようにしていくのですが、ザルを持ち出して遊びたいような様子だったので、バケツに入っていた水槽用の砂利砂で少しだけ遊びました。

スコップで救い出して容器に入れたり、手で掴んでアイスを作り始めたり、小一時間遊びましたが、そにいたメンバーの意味については、その前後にまた別の物語があったりすることを、これまた後で私は教えてもらうことになるのです。

 

食べているお米に近づく過程

2023/09/16

栽培や飼育という活動は、食育や自然との関わり・生命尊重のテーマとして、生活の中に位置づいています。以下の記録は、5月から始まった長い活動が、一つの節目にきたことを取り上げています。12日月曜日に年長さん9人がやった稲刈りの様子です。収穫が終わると、これから白米に至るまでのプロセスを丹念に体験していく活動が始まります。

・・・・・・・・・・・

5月末にそれぞれのバケツに植えた稲🌾

 

 

・・・😳

こんなに大きくなりました..!

野菜と一緒に毎日水をたっぷりあげ、月曜日、ついに!稲刈りをしました。

たくさんの葉っぱの中にある 稲 を探し出し、根本からハサミで切る作業は難しくもありましたが、神宮司先生に説明してもらうとすぐにコツをつかみ、器用に収穫していました。

 

今日は、この稲が食べられるようになるまで(みんなのご飯になるまで)の過程を、みんなで観察しながら共有しました。

(少し見えづらくてすみません.. )

「どの順番でお米になると思う〜?」と子どもたちに言ってみると、

じっくり観察しはじめました。

Yちゃんが少しずつ稲からお米に近づいている過程を発見し、みんなに伝えると、「ほんとだ〜〜!」とみんなも近くで見ながら発見!

稲刈り→乾燥→脱穀→もみすり→玄米→白米になって、みんなの食べているご飯になっているという過程を、実際に育て、収穫して体験しながら学んだ時間でした。

14日の「そうそう、そこそこ」子どもなりの世界の広げ方

2023/09/14

14日の「そうそう、そこそこ」は子ども理解のバリエーションです。1歳の子どもなりに自分の世界を広げていく様を取り上げています。

というか、よくもそこに着目できているなあ、すごいなあ、ということなんですけども。

エピソードは2つ、二人あったのですが、どちらも子ども同士の間に起きている発達の最近接領域のことといってもいいでしょう。二人とも1歳児クラス。担任は「ちょっと上」とか、「チャレンジ」という言い方で、子どもがそ〜っと踏み込んでいく自分の世界を捉え、保護者の皆さんに伝えようとしてくれています。

・・・・・・・・

<エピソード1>

ヨーグルトのおやつが出た日、Sくん、自分でフタをあけることにチャレンジしています。

配膳をしてくれた先生が、”ここからはできるかな?”と、ヨーグルトのフタを最初のちょっとだけを開けると、フタつきのまま渡していました。 全部開けてから子どもたちに配膳するほうが、失敗することも少ないし、すぐ食べられるけれど… そろそろ自分で開けることができるようになってきているかな?と、あえてつけたまま渡してくれています。 大人がさらにちょこっと手伝って、『ここを持ってめくるんだよ』と示すと、Sくんも真似をして、見事自分で開けることができました。

ほんの小さなことにも思えるのですが、昼食のバナナやオレンジでも同じようなことがあります。 最初は皮ごと食べようとしてしまったり、皮をむかずに中身をなんとかかじろうとしたりしますが、徐々に「皮をむこうとする」仕草が出てきて、手先がうまく使えるようになってくると自分でむいて食べるようになります。

そうした様々な発達のステップがあるので、私たちはそのステップに合わせて、大人がむいてあげたり、子どもが自分でやりやすいように途中までむいてあげたり、自分でむけるようになってきたらそのまま渡したり…と それぞれの子に合った関わりをしていきます。ついこの間までバナナの皮ごと食べようとしていた子が、皮をむいてみようとしているのを見て、嬉しくなったりもします。

『発達のステップに合った関わり』というのがまた面白いところだと思うのですが、その子にとって簡単にできすぎてしまうことは、「発達に合っている」とは言えないように感じます。「発達」には、いつでも少し、「チャレンジ」という要素が必要なのかもしれません。 自分ができることの少し上、をトライする中で、子どもたちは少しずつ少しずつ成長を重ねています。

時には、ちょっと道草したり、あと戻りしてみたり…ももちろんあるかと思いますが^^(きっと、そのくらいの『あそび』も大切な時間なのですね。)ヨーグルトのフタも、ぐんぐんさんたちにはちょっとしたチャレンジでした。でも、Sくんが ちょっと頑張って自分で開けてみたり、うまく開けられた子が、「できない〜」というお友だちのをさりげなく開けてあげたりする姿もあって、子どもたちの発達や成長を引き出していく要素は、色んなところに色んな形で起こりうるのだなぁということを実感します。

子どもたちの力や、いま伸びようとしている姿を存分に引き出していくには、それぞれの子どものことをよく理解していないといけないのだと感じます。私たちも、子どもたちと一緒に挑戦したり試行錯誤したり…を繰り返しながら、一人ひとりの子どもの姿をじっくりと捉えていきたいと思います。

<エピソード2>

ところで、子どもたちがそうやって”一歩踏み出す”ための環境や関わりは、遊びの中にもたくさんあります。 お友だちの運動遊びをずっと隣の部屋から眺めていたIくん。一緒にやる?と聞いても『ううん』と首を振りますが、眺めているのは楽しそうです。楽しげな友だちの姿につられて、Iくんも時々にこっとしながら見ています。 そこからしばらくお友だちの姿を眺めるうち、だんだん近くへやってきて… Cちゃんにツン♩そのあとは、お友だちが遊んでいるマットをめくってみたり、こちょっとくすぐってみたり。

ほかのお友だちと一緒になってマットの上に寝転んで遊んでいたわけではないけれど、お友だちの遊びの楽しさをしっかりと一緒に感じながら同じ世界を楽しむ姿に、『こんな参加の仕方も良いなぁ』と小さな感動を覚えました。

とくに最初のうちは、パッと見ただけでは、「一緒に遊んでいる」ようには見えなかったかもしれないけれど、その時の Iくんの表情や姿を見ていると、たしかに、お友だちと同じ面白さを感じ同じ世界を一緒に楽しんでいるように見えました。

こんな風に、それぞれの子のタイミングや楽しみ方、味わい方があって、一人ひとりの世界の広げ方があります。それをいかに一緒に感じとり、支えていけるかが、「発達」や「成長」にとっても、大切なことなのかなぁと感じています。

・・・・・・・・ここまで・・・・・・

このように、本当に何気ないシーンなんですけれど、これまでの積み重ねから育っていきつつある姿を切り取ってくれていて、私は嬉しくなるのでした。

受動的な気づきから自覚的な気づきへ

2023/09/11

こういうことが、STEAMの基本なんだろうな、と思います。あれ、色が変わっていく、面白いな、という感じだったらしい。4歳児クラスの男の子。10月で5歳になる。こういうところに注意が向くようになってきたんですね。

私たちが「もの」の世界の法則(物理や化学や地学など)を理解していく学びは、本人がその世界が面白い!と感じながら、その世界に入り込んでいけるといいな、と思います。

いろんな刺激を受動的に受け止めていた乳児のころ。水や色で遊んできた体験のなかから、彼なりに、慣れ(馴れ)親しんできたとこ(現象)とは違うこと(新奇性)に気づいた(発見)したようです。それまでのこととは違う、新しいと感じることと同じような体験を重ねることで、ある種の規則(法則)を気づくのかもしれません。

以下は、9日の先生のブログです。8日の出来事です。

・・・

絵の具遊びでスポイトを使っているうちに、だんだん水分が増えて「色水」になってきたので、そのまま水道台へお引越し。色水遊びになりました。

色水に、水道水が足されていくと、だんだん透明になっていく様子に気が付いた らんらん組のRくん。


「色がなくなった!」と、実験を繰り返していました。

(蛇口の下のカップの、水の色の変化に注目!)

 

真剣なまなざしです。

にこにこ組のAくんは、さまざまな色を作って、きれいに並べていました。

 


Rくんが、「これ、凍らせてみたい」とのことで、遊び終わったあと、冷凍庫へ。週明け、どんなふうに固まっているでしょう…!?カラフルな氷ができるかな?と大人もちょっと楽しみです。

大人が模造紙にクレヨンで絵を描くと、その上を絵の具で塗ってみる すいすい組(5歳クラス)のYちゃん。

「あれ?!塗れない〜!」と、クレヨンが絵の具をはじくことを不思議そうに発見していました。


Rくんも、同じように試してみます。

遊びの中でさまざまなことを発見し、不思議がり、試し、繰り返してみる子どもたちです。その子なりの世界の広がり方が面白いです。

選択力も発達していきそうだ

2023/09/09

大人になることは物事への適切な判断や決定が下せるようになることだとも言えるだろう。それが発達するのだとしたら、大人もずっと「こども」なのかも知れません。(という「こども基本法の話ではなくて)選択することもある種のスキルであるなら、拙い段階から洗練されていくレベルまであるかも知れません。もちろん何かをさっさと選べることがいいのではありません。イヤイヤ期の子どもを見ていると、大人がどの選択肢を示してもうまくいかないという光景がよくあります。

今週5日のセミナーで、子どもは小さいうちから選ぶということをやっていくと、色々考えた上で自分で決めることができるようになるのではないか、ということが話題になりました。ランドセルのメーカーが子どもに調査をしたそうです。その色に決めたのはどうしてか?すると多くの子どもが本当に自分の好きな色で選んだのではなく、親がそれを望んでいたから、と答えたというのです。確かに最近のランドセル選びは「祖父母からのプレゼント」になっていることが多いそうで、子どもなりの配慮、忖度、遠慮という気遣い?が働いているのでしょう。それも納得してぎれば立派な選択なんでしょう。気に入らない色だったのに、我慢してそれにした、ということでなければいいのですが。

研修会では、どっちを選ぼうがあまり影響のないようなことも、小さいうちから選ぶようにしている事例が色々紹介されました。ジャム付きのパンをあまり食べないことがあって、ジャム付きとただのパンのどっち?と変えたら1歳児が躊躇なく選んでいく様子の動画がありました。面白いことに、どっちもジャム付きなのに「こっちのジャム付きにする、こっちのにする」と聞くと、子どもは選ぶんですね。「選ぶ」という行為を好むようなのです。やっていること、手に入れることは同じものなのに。シーナ・アイエンガーの本『選択の科学』にも、その事例が出ています。自分で決めた、選んだということ自体が重要だと。そして自分で決めるということは生得的なことじゃないか、と。

あるいは何かを「決める」というとき、大抵はそう白黒はっきりしたものではなく、積極的な肯定から消極的妥協まで、その幅は色々ありそうです。選ぶための情報が足りない、選択肢がない、我慢できない、恋に落ちた・・・まあ、色々です。でもその選択がずっと後々まで影響を与える場合もあります。昔、文部省時代ですが、キャリア教育や職業選択に関して「中学の時に将来なりたい職業が何回か変わるくらいでないと、それを調べたり学んだりしたことにならないでしょう」と担当課長Tさんから聞いたことを思い出しました。今はAIの時代。もっと違う<選択力>が必要かも知れません。科学としてその概要を知っておくといいと思うのですが。

しかも主体性の文化差ということも絡みそうです。選ぶのが「私」なのか、それとも「他者」や「集団」なのか。アイエンガーさんは、その本の中で、京都で砂糖入りのお茶を頼んだら丁寧に断られたというエピソードを披露しています。諦めてコーヒーを頼んだそうですが。自由な選択が許される幅が国や文化で違います。

それがアジア的と言っていいのかどうかわかりませんが、「他の人がしているかそうする」というのはジョークのネタにもなっているくらいですから個人主義の文化に比べると、個の弱い「あいまいな日本人」だったりするのでしょう。昨日の夜、ニューヨークなど海外で長く働いている方と夕食が一緒だったのですが、この「個人の押し出し具合の差」の話になりました。文化や背景との調和や、周りの空気を重んじて、自分の判断や意見や言わない、あっても一歩引くという感じが明らかにマイナスになるケースを色々教えてくれました。親や周りに合わせる選択や適応は、幼児後半あたりには影響を受けている気もします。

文化の差だとしたら、それ自体はいい悪いの話ではなく、そう自覚して対応していくとになりますが、子どもが小さい頃から「じゃあ、どうしようか?」と一緒に選択場面を考えてあげたり、一旦自分で「どう思う?」「いる?いらない?」とか、相手に聞いてから「やってあげる」ことや、子ども自身が「考える」プロセスを大切にしてあげるのは大事な気がします。それも子どもは頭だけで考えないでしょうから、手も体を動きながら、やってみながら後戻ったり、そうじゃないと気付いたりしながら。

子どもが選択するように見える時、昨日の日記にも付け加えましたが、選べない、選びたくない、あるいはどうしようと困ると言ったことが往々にしてあります。また、選択場面に見えないような、何か新しい世界へ一歩足を踏み入れていくときのように、どうしようかなあ、とちょっと逡巡して決めかねているような状態から、ちょっとやってみようと始めるとき、ある種の試行錯誤が起きているのですが、私が尊敬する先生が、それをこんなふうに表現してくださいました。

「何かを選んでいるように見えるとき、どういう意味で選択なのか。しばしば根拠がなんとなくで、選択肢もなんとなくで、衝動とも見えて、そのやってみて後から考えるというのが試行錯誤なのではないでしょうか。いいこと思いついた、というのは、具体的にこれからするアイディアが浮かんだわけですが、それもおそらくぼんやり何か面白くできないかなと思いつつ、試すことをイメージとして思いつく。で、やってみる。」

主体性や選択などの「ビッグワード」で語ることで終わらせず、このような場面をつぶさに拾いながら、子どもの姿から実際にどんな経験が起きているのか、そこの意味を探るようにしたいと思いました。

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