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保育アーカイブ

オムニバスドラマのワンシーンからの想像

2023/09/21

保育の1日を振り返ることは、子どもたち一人ひとりのその時の姿や表情を思い出すことになるのですが、その振り返りは、まるで終わりのない連続ドラマを毎日、一話ごとに短い「ダイジェスト版」を作っているように感じる時があります。しかも、その今日のダイジェストは保育者によって異なっていて、クローズアップされるエピソードも、保育者が出会ったものから選ばれるで、内容は違ってきます。

それぞれが主人公のオムニバスドラマになっているはずの生活全体について、実は全てを把握している人など存在しません。それでも物語の「あらすじ」は、当たらずとも遠からず、だいたい成立しているように感じるのも、面白いものです。そこはさすが担任、いつも一緒に生活している彼ら彼女らが残す毎日の日誌やドキュメンテーションを読み解きあっていく中で、それぞれの子どもの成長の物語が見えてくるのです。

例えば、3歳の担任が先週、模造紙に写真を拡大して廊下に掲示していました。それには小さなダンゴムシが写っているのですが、その大きさがクイズになっている保護者向けの掲示でした。

答えの写真には十円玉が添えられていて、いかにそのダンゴムシが小さいか?が、その掲示で伝えたかったことのようです。

そこまで驚く担任の心理が最初、私は正直言ってピンと来なかったのですが、そんな小さなダンゴムシを公園で見つけてしまうことに、先生は感激したのだそうです。そこを私たちが共感できるかどうかも、それまでの子どもの変化を具にそばで見届けてきたから気づく子どもの姿なのでしょう。

あるいはこんなこともあります。3歳の子どもたちが仲良く集まって絵本を見ているのですが、実はお友達がやっているお絵描きをそばで待っている光景だったのです。そこに新しい仲間意識の誕生を感じ、一連の写真入りコメントが数日間並んでいます。とびとびに拾い上げられていた同様の姿を並べてみて、なるほどと気づく協同性の動向です。

あるいは、数日前に数人が製作遊びに没頭しているな、と思っていたら、明日22日に「こども縁日」を開くそうで、そのために密かに準備に勤しんでいた子どもたちだったことを今日、記録を読んで知りました。

屋上に置いていたみかんの木に、また八匹のアゲハの幼虫がいたのですが、年中のMくんが「どうして鳥のフンみたいなの?」というので、「鳥もフンだと思ったら、食べようと思わないでしょ。食べられないように、こんななんだって」と説明したのですが、<そっか、といいこと聞いた>というような顔をしてくれたので、ホッとしました。それがこれから、またあの青虫になるなると思うと、私も説明しておきながら不思議なもんだなあ、と思います。

その奥には、ベランダに設けた砂場があります。夏は暑すぎて遊べなかったので、また砂を入れて遊べるようにしていくのですが、ザルを持ち出して遊びたいような様子だったので、バケツに入っていた水槽用の砂利砂で少しだけ遊びました。

スコップで救い出して容器に入れたり、手で掴んでアイスを作り始めたり、小一時間遊びましたが、そにいたメンバーの意味については、その前後にまた別の物語があったりすることを、これまた後で私は教えてもらうことになるのです。

 

食べているお米に近づく過程

2023/09/16

栽培や飼育という活動は、食育や自然との関わり・生命尊重のテーマとして、生活の中に位置づいています。以下の記録は、5月から始まった長い活動が、一つの節目にきたことを取り上げています。12日月曜日に年長さん9人がやった稲刈りの様子です。収穫が終わると、これから白米に至るまでのプロセスを丹念に体験していく活動が始まります。

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5月末にそれぞれのバケツに植えた稲🌾

 

 

・・・😳

こんなに大きくなりました..!

野菜と一緒に毎日水をたっぷりあげ、月曜日、ついに!稲刈りをしました。

たくさんの葉っぱの中にある 稲 を探し出し、根本からハサミで切る作業は難しくもありましたが、神宮司先生に説明してもらうとすぐにコツをつかみ、器用に収穫していました。

 

今日は、この稲が食べられるようになるまで(みんなのご飯になるまで)の過程を、みんなで観察しながら共有しました。

(少し見えづらくてすみません.. )

「どの順番でお米になると思う〜?」と子どもたちに言ってみると、

じっくり観察しはじめました。

Yちゃんが少しずつ稲からお米に近づいている過程を発見し、みんなに伝えると、「ほんとだ〜〜!」とみんなも近くで見ながら発見!

稲刈り→乾燥→脱穀→もみすり→玄米→白米になって、みんなの食べているご飯になっているという過程を、実際に育て、収穫して体験しながら学んだ時間でした。

14日の「そうそう、そこそこ」子どもなりの世界の広げ方

2023/09/14

14日の「そうそう、そこそこ」は子ども理解のバリエーションです。1歳の子どもなりに自分の世界を広げていく様を取り上げています。

というか、よくもそこに着目できているなあ、すごいなあ、ということなんですけども。

エピソードは2つ、二人あったのですが、どちらも子ども同士の間に起きている発達の最近接領域のことといってもいいでしょう。二人とも1歳児クラス。担任は「ちょっと上」とか、「チャレンジ」という言い方で、子どもがそ〜っと踏み込んでいく自分の世界を捉え、保護者の皆さんに伝えようとしてくれています。

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<エピソード1>

ヨーグルトのおやつが出た日、Sくん、自分でフタをあけることにチャレンジしています。

配膳をしてくれた先生が、”ここからはできるかな?”と、ヨーグルトのフタを最初のちょっとだけを開けると、フタつきのまま渡していました。 全部開けてから子どもたちに配膳するほうが、失敗することも少ないし、すぐ食べられるけれど… そろそろ自分で開けることができるようになってきているかな?と、あえてつけたまま渡してくれています。 大人がさらにちょこっと手伝って、『ここを持ってめくるんだよ』と示すと、Sくんも真似をして、見事自分で開けることができました。

ほんの小さなことにも思えるのですが、昼食のバナナやオレンジでも同じようなことがあります。 最初は皮ごと食べようとしてしまったり、皮をむかずに中身をなんとかかじろうとしたりしますが、徐々に「皮をむこうとする」仕草が出てきて、手先がうまく使えるようになってくると自分でむいて食べるようになります。

そうした様々な発達のステップがあるので、私たちはそのステップに合わせて、大人がむいてあげたり、子どもが自分でやりやすいように途中までむいてあげたり、自分でむけるようになってきたらそのまま渡したり…と それぞれの子に合った関わりをしていきます。ついこの間までバナナの皮ごと食べようとしていた子が、皮をむいてみようとしているのを見て、嬉しくなったりもします。

『発達のステップに合った関わり』というのがまた面白いところだと思うのですが、その子にとって簡単にできすぎてしまうことは、「発達に合っている」とは言えないように感じます。「発達」には、いつでも少し、「チャレンジ」という要素が必要なのかもしれません。 自分ができることの少し上、をトライする中で、子どもたちは少しずつ少しずつ成長を重ねています。

時には、ちょっと道草したり、あと戻りしてみたり…ももちろんあるかと思いますが^^(きっと、そのくらいの『あそび』も大切な時間なのですね。)ヨーグルトのフタも、ぐんぐんさんたちにはちょっとしたチャレンジでした。でも、Sくんが ちょっと頑張って自分で開けてみたり、うまく開けられた子が、「できない〜」というお友だちのをさりげなく開けてあげたりする姿もあって、子どもたちの発達や成長を引き出していく要素は、色んなところに色んな形で起こりうるのだなぁということを実感します。

子どもたちの力や、いま伸びようとしている姿を存分に引き出していくには、それぞれの子どものことをよく理解していないといけないのだと感じます。私たちも、子どもたちと一緒に挑戦したり試行錯誤したり…を繰り返しながら、一人ひとりの子どもの姿をじっくりと捉えていきたいと思います。

<エピソード2>

ところで、子どもたちがそうやって”一歩踏み出す”ための環境や関わりは、遊びの中にもたくさんあります。 お友だちの運動遊びをずっと隣の部屋から眺めていたIくん。一緒にやる?と聞いても『ううん』と首を振りますが、眺めているのは楽しそうです。楽しげな友だちの姿につられて、Iくんも時々にこっとしながら見ています。 そこからしばらくお友だちの姿を眺めるうち、だんだん近くへやってきて… Cちゃんにツン♩そのあとは、お友だちが遊んでいるマットをめくってみたり、こちょっとくすぐってみたり。

ほかのお友だちと一緒になってマットの上に寝転んで遊んでいたわけではないけれど、お友だちの遊びの楽しさをしっかりと一緒に感じながら同じ世界を楽しむ姿に、『こんな参加の仕方も良いなぁ』と小さな感動を覚えました。

とくに最初のうちは、パッと見ただけでは、「一緒に遊んでいる」ようには見えなかったかもしれないけれど、その時の Iくんの表情や姿を見ていると、たしかに、お友だちと同じ面白さを感じ同じ世界を一緒に楽しんでいるように見えました。

こんな風に、それぞれの子のタイミングや楽しみ方、味わい方があって、一人ひとりの世界の広げ方があります。それをいかに一緒に感じとり、支えていけるかが、「発達」や「成長」にとっても、大切なことなのかなぁと感じています。

・・・・・・・・ここまで・・・・・・

このように、本当に何気ないシーンなんですけれど、これまでの積み重ねから育っていきつつある姿を切り取ってくれていて、私は嬉しくなるのでした。

受動的な気づきから自覚的な気づきへ

2023/09/11

こういうことが、STEAMの基本なんだろうな、と思います。あれ、色が変わっていく、面白いな、という感じだったらしい。4歳児クラスの男の子。10月で5歳になる。こういうところに注意が向くようになってきたんですね。

私たちが「もの」の世界の法則(物理や化学や地学など)を理解していく学びは、本人がその世界が面白い!と感じながら、その世界に入り込んでいけるといいな、と思います。

いろんな刺激を受動的に受け止めていた乳児のころ。水や色で遊んできた体験のなかから、彼なりに、慣れ(馴れ)親しんできたとこ(現象)とは違うこと(新奇性)に気づいた(発見)したようです。それまでのこととは違う、新しいと感じることと同じような体験を重ねることで、ある種の規則(法則)を気づくのかもしれません。

以下は、9日の先生のブログです。8日の出来事です。

・・・

絵の具遊びでスポイトを使っているうちに、だんだん水分が増えて「色水」になってきたので、そのまま水道台へお引越し。色水遊びになりました。

色水に、水道水が足されていくと、だんだん透明になっていく様子に気が付いた らんらん組のRくん。


「色がなくなった!」と、実験を繰り返していました。

(蛇口の下のカップの、水の色の変化に注目!)

 

真剣なまなざしです。

にこにこ組のAくんは、さまざまな色を作って、きれいに並べていました。

 


Rくんが、「これ、凍らせてみたい」とのことで、遊び終わったあと、冷凍庫へ。週明け、どんなふうに固まっているでしょう…!?カラフルな氷ができるかな?と大人もちょっと楽しみです。

大人が模造紙にクレヨンで絵を描くと、その上を絵の具で塗ってみる すいすい組(5歳クラス)のYちゃん。

「あれ?!塗れない〜!」と、クレヨンが絵の具をはじくことを不思議そうに発見していました。


Rくんも、同じように試してみます。

遊びの中でさまざまなことを発見し、不思議がり、試し、繰り返してみる子どもたちです。その子なりの世界の広がり方が面白いです。

選択力も発達していきそうだ

2023/09/09

大人になることは物事への適切な判断や決定が下せるようになることだとも言えるだろう。それが発達するのだとしたら、大人もずっと「こども」なのかも知れません。(という「こども基本法の話ではなくて)選択することもある種のスキルであるなら、拙い段階から洗練されていくレベルまであるかも知れません。もちろん何かをさっさと選べることがいいのではありません。イヤイヤ期の子どもを見ていると、大人がどの選択肢を示してもうまくいかないという光景がよくあります。

今週5日のセミナーで、子どもは小さいうちから選ぶということをやっていくと、色々考えた上で自分で決めることができるようになるのではないか、ということが話題になりました。ランドセルのメーカーが子どもに調査をしたそうです。その色に決めたのはどうしてか?すると多くの子どもが本当に自分の好きな色で選んだのではなく、親がそれを望んでいたから、と答えたというのです。確かに最近のランドセル選びは「祖父母からのプレゼント」になっていることが多いそうで、子どもなりの配慮、忖度、遠慮という気遣い?が働いているのでしょう。それも納得してぎれば立派な選択なんでしょう。気に入らない色だったのに、我慢してそれにした、ということでなければいいのですが。

研修会では、どっちを選ぼうがあまり影響のないようなことも、小さいうちから選ぶようにしている事例が色々紹介されました。ジャム付きのパンをあまり食べないことがあって、ジャム付きとただのパンのどっち?と変えたら1歳児が躊躇なく選んでいく様子の動画がありました。面白いことに、どっちもジャム付きなのに「こっちのジャム付きにする、こっちのにする」と聞くと、子どもは選ぶんですね。「選ぶ」という行為を好むようなのです。やっていること、手に入れることは同じものなのに。シーナ・アイエンガーの本『選択の科学』にも、その事例が出ています。自分で決めた、選んだということ自体が重要だと。そして自分で決めるということは生得的なことじゃないか、と。

あるいは何かを「決める」というとき、大抵はそう白黒はっきりしたものではなく、積極的な肯定から消極的妥協まで、その幅は色々ありそうです。選ぶための情報が足りない、選択肢がない、我慢できない、恋に落ちた・・・まあ、色々です。でもその選択がずっと後々まで影響を与える場合もあります。昔、文部省時代ですが、キャリア教育や職業選択に関して「中学の時に将来なりたい職業が何回か変わるくらいでないと、それを調べたり学んだりしたことにならないでしょう」と担当課長Tさんから聞いたことを思い出しました。今はAIの時代。もっと違う<選択力>が必要かも知れません。科学としてその概要を知っておくといいと思うのですが。

しかも主体性の文化差ということも絡みそうです。選ぶのが「私」なのか、それとも「他者」や「集団」なのか。アイエンガーさんは、その本の中で、京都で砂糖入りのお茶を頼んだら丁寧に断られたというエピソードを披露しています。諦めてコーヒーを頼んだそうですが。自由な選択が許される幅が国や文化で違います。

それがアジア的と言っていいのかどうかわかりませんが、「他の人がしているかそうする」というのはジョークのネタにもなっているくらいですから個人主義の文化に比べると、個の弱い「あいまいな日本人」だったりするのでしょう。昨日の夜、ニューヨークなど海外で長く働いている方と夕食が一緒だったのですが、この「個人の押し出し具合の差」の話になりました。文化や背景との調和や、周りの空気を重んじて、自分の判断や意見や言わない、あっても一歩引くという感じが明らかにマイナスになるケースを色々教えてくれました。親や周りに合わせる選択や適応は、幼児後半あたりには影響を受けている気もします。

文化の差だとしたら、それ自体はいい悪いの話ではなく、そう自覚して対応していくとになりますが、子どもが小さい頃から「じゃあ、どうしようか?」と一緒に選択場面を考えてあげたり、一旦自分で「どう思う?」「いる?いらない?」とか、相手に聞いてから「やってあげる」ことや、子ども自身が「考える」プロセスを大切にしてあげるのは大事な気がします。それも子どもは頭だけで考えないでしょうから、手も体を動きながら、やってみながら後戻ったり、そうじゃないと気付いたりしながら。

子どもが選択するように見える時、昨日の日記にも付け加えましたが、選べない、選びたくない、あるいはどうしようと困ると言ったことが往々にしてあります。また、選択場面に見えないような、何か新しい世界へ一歩足を踏み入れていくときのように、どうしようかなあ、とちょっと逡巡して決めかねているような状態から、ちょっとやってみようと始めるとき、ある種の試行錯誤が起きているのですが、私が尊敬する先生が、それをこんなふうに表現してくださいました。

「何かを選んでいるように見えるとき、どういう意味で選択なのか。しばしば根拠がなんとなくで、選択肢もなんとなくで、衝動とも見えて、そのやってみて後から考えるというのが試行錯誤なのではないでしょうか。いいこと思いついた、というのは、具体的にこれからするアイディアが浮かんだわけですが、それもおそらくぼんやり何か面白くできないかなと思いつつ、試すことをイメージとして思いつく。で、やってみる。」

主体性や選択などの「ビッグワード」で語ることで終わらせず、このような場面をつぶさに拾いながら、子どもの姿から実際にどんな経験が起きているのか、そこの意味を探るようにしたいと思いました。

何もしないという選択も「あり」

2023/09/08

何もしない。これも立派な選択である。「これにする? あれにする?」って言われたって「どっちでもないんだけどなぁ」ということだってあり得る。

だから、何もしないという場所の保証するし、常にその他と言う選択肢を用意した方が良い。判断保留。何もしない。ぼーっとしておく。あるいは「ほっといておくれ」。これだってオッケーだ。

「いまやりたい」も選択である!

2023/09/07

今日の幼児のブログを読んでいたら、だれも選択だと思っていない出来事のなかに、選択と同じようなことが起きているのかもしれないと気づきました。

コードの不具合で電源が入らなかった電子ピアノが「乾電池で鳴るかも」と気づいた年長のMちゃん。発端は鍵盤ハーモニカをやりはじめたお友達に触発されたからですが、突発的に「やりたい」が盛り上がるのも子どもたちです。やりたいことをやる、ということを人は選択とはいいません。何かと何かから選んだと思わないからです。

でも「今やるか後でやるか、今でしょ!」ということなら選択したということができます。電源が入らないからあきらめていたのに、なんとかならないかと調べてみたら電池を入れる場所をみつけ、そのいきさつを知らずに私はMちゃんを連れてコンビニへ電池を買いに行ったのです。たまたま単三の電池が6本、園になかったのです。

子どものやりたいこをなんとか実現させてあげようとしたに過ぎないのですが、もし友達が鍵盤ハーモニカを弾かなかったら、先生とその子たちがやりたいと思わなかったら、もし私が電池を買いに行かなかったら・・・いくつもの「もし」という物語があり得ました。

なんでも後回しにしてしまう判断もありえました。子どもの「やりたい」に気づかない場合。気づいてもスルーしてしまう場合。どうせ大した差はないさ、と違う結果を予想する場合。いろいろな瞬間に大人の判断が働いています。それがチーム保育として成立するのは、保育に一つのゴールイメージを私たちが共有しているからです。先生たちの間で、子ども主体の保育が面白いと思えるから、できるだけ「今でしょ!」が選択されているようです。

 

選択から参画へ 脇道、戻り道、休憩所

2023/09/06

人生は選択の連続です。何をして働くか、誰と家庭を持つか、子どもを産むか、どの保育園に預けるか。みなさんは必ずこの岐路を選択してきたはずです。今日のご飯は何にするか、パンはどっちにするか、お迎えはどちらがいくか、延長保育は間食か夕食か。子どもたちも今日、電車で十指公園にいくか室内で遊ぶかを選び、幼児は結果的に全員電車で外遊びに出かけることを選びました。そして私は見学者を案内しながら、子どもたちが、何をどうするか、常に選択しながら生活している姿を追いかけていました。

今朝、親の腕からある先生の腕へ渡る時も、赤ちゃんは先生を選んでいます。ある遊具を棚から選び、絵本を手に取り、完成したパズルを棚に戻して新しいパズルセットを選びます。昼食をどのテーブルで誰と一緒に食べるのか、ご飯やおかずをどれくらいよそってもらうのか、おかわりをするかどうか、量はいっぱいかちょっとか。お昼寝をするかしないか、午後からは何をして遊ぶか。子どもが何かをしているとき、それは意識している、していないに関わらず「選ぶ」という行為が働いています。

そこにあるのは自分で決めることです。その決めた結果は自分と周りに影響を与えます。その結果が自分と他者にとっていい場合とそうでない場合があって、そのフィードバックをだんだん予想して決定していくようになっていきます。見通しと判断、実施とその被った結果への振り返り。それが選択という行動の中身、と言えるかもしれません。もしそうなら子どもは結果がすぐに返ってくる判断から、ちょっと先まで考えて下す判断まで、いろいろな選択をおこなっていることになります。最低限言えそうなのは、自分で自発的に決定したことがある影響を与える効力を自覚するので、それが自分がやったことという意味で自分を肯定することになるでしょう。

さらにその結果が自分に返ってきたとき、それに直面した自分が、そうなったのは自分がやったからだ、という自覚が生じる場合があるでしょう。その結果が賞賛されたら「またやろう」「もっとやろう」という再現したい、繰り返したいという意欲になるでしょうし、その積み重ねがアティテュードという態度、心構えが作られていくでしょう。

反対にダメだったら「あっちにしておけばよかった」という判断の修正が起こり、望ましい選択ができる方向へ自分を制御していく力になるでしょう。しかし選択肢が限られていると「やらなければよかった」に近くなり、肯定的な別の行動に気づく機会が生まれにくくなるでしょう。もしさらにマイナスの行き詰まりが続くと、諦めや無気力、無関心、自暴自棄、どうせダメだろうという自信のなさ、ひにくれた態度などが形成されてしまいます。

そう考えると、選択肢を枝分かれした道や迷路に喩えると、行き止まりになっても、戻ってこれることが大事。脇道から本線に戻れるルートがあることが大事でしょう。そこに試行錯誤が生まれ、できた時に自信が生まれ、自分が選んだ行為で他者が喜んだり嬉しそうにしていると、自分のおかげという効力感を感じてさらにそうしてあげたいという循環が生じるのではないでしょうか。

何をすればいいのかが決まっていることを率先してやる姿は自発的、自主的な、と言っていいでしょう。しかし、その動機が自分の選択から、自分の自己決定から始まることが欠かせない気がします。同じような行動に見えても、そこに至る過程に大事な宝物がいっぱい詰まっているのです。そのことが相互にぶつかり合って合意形成を作り上げていくこと、一緒に協力して何かを成し遂げようとしていく時に、さらに新しい自分づくりのプロセスが生じます。社会性、関係性の中での自分を作り上げていく過程がそこにはあります。選択から参画へ、という意思決定の高度化が予想されます。

ダンスで多様な体の動きを楽しむ

2023/08/30

保育の質を高めるためのアプローチの一つに、外部の専門家との協働があります。近所の海老原商店はアーティストの活動拠点になっていますが、そこで出会ったコンテンポラリーダンスの第一人者、青木尚哉さんのおかげで、保育にダンスを通じた活動が増えました。子どもは基本的に、体を動かすことが好きです。子どもたちが「十分に体を動かす楽しさを気持ちよさを体験し、自ら体を動かそうとする意欲が育つように」(要領・指針の「内容の取り扱い」)してあげたいと思います。

今年も7月から青木さんのダンスグループZERO(ゼロ)のメンバーが、来てくださり、全てのクラスで「多様な動きを経験する中で、体の動きを調整するようにすること」(同上)に広がりをもたらしてくれています。何よりも、私が感じるのは、プロの体の動かし方、なめらかな美しい身のこなしは、子どもたちにも伝わっていく気がします。今日は身体的なふれあいと併せて、赤ちゃんと見つめあったり、心のふれあいも楽しみました。今日のドキュメンテーションを、以下に紹介しましょう。

ちっち組(0歳児クラス)。二人のダンサー「いづみさんとももかさんの温かな関わりに心を許した様子の子どもたち。タッチしたり、どうぞをしてあげたり、ぎゅっと手を握り返したり…触れ合いを通して、心を通わせていました。」

ぐんぐん組(1歳児クラス)。「いづみさん達のダンスは決まった形や表現があるのではなく、子ども達が音楽と触れ合い、お友達や大人との関わりの中で自然と身体から溢れ出てくる表現を周りにいる人と共感しながら・・体を動かすことの楽しさを感じていけたらと思います」。

2歳児クラスのにこにこ組。「今日はいづみ先生とももか先生が来て下さり、ダンス表現遊びを楽しみました。 グーパー体操、ペンギン歩き、トンネル遊び、飛行機、お馬さん、走って抱っこ、ゴロゴロ遊びと、いろいろなメニューを楽しみました。少し緊張気味の子も、その様子を一緒に見たりしながら参加することができました。」

3歳児クラスのわいわい組の日誌には「Sくんは朝登園すると「ダンスやだ」と言っていたが、「やらなくてもいいよ、一緒にみてよう」と誘うと前向きにダンスに向かっていた。Rくん・Sさん・Lくんは「やりたくない」と初めは階段の所で見ており、その後はお部屋の中で見ている、端の方で参加してみる、と少しずつ近くで参加していた。Yくんは初めてのダンスだったが、前でやることを希望する等、積極的に参加しており、「合体トンネル」という新しい遊びを生み出した」とあります。

4歳らんらん組・5歳すいすい組の日誌。「今日は、いずみさん、ももかさんがきてくれて、らん・すいさんでダンスを楽しむ。気持ちが高揚していたのでダンスが始まる前は、わらすみんなでイス取りゲームを楽しむ。イスの取り合いでらんすいさんたちが、ヒートアップする場面もあったがリズムに合わせて存分に身体を動かせていた。ダンスでは、二人にリクエストする、らんすいさんが「マネキンやりたいー!トンネルやりたいー!」とやれる喜びを感じていた。」

子どもたちの運動はできるだけ毎日、全身的で、偏りのないバランスのとれた動きを大切にしています。ダンサーの方々との運動は、音楽やリズムも心地よく、頭から足先まで、美的なセンスも配慮した動きになっているのが子供たちにとっても魅力的なようです。

遊具や装飾作りのお手伝い

2023/08/29

毎週火曜日は、年長すいすい組の「お手伝い保育」でした。事務所担当の私は、来月から使い始める天体望遠鏡を棚から降ろして、その使い方を説明しました。それだけでは面白くないので、玄関からレンズ越しに遠くの建物を見せました。カレー屋の看板や道路の交通標識などが「見えた!」「でっか!」など、はしゃいでいました。

もっといろんなところを見たいと言うので、3人を園外に連れ出して、隣のビルの1階から神田川を挟んで、北側の和泉橋やヨドバシカメラなどの方面を観察してみました。

続いて先週から作り始めた光遊び用の「色セロファン」での形カードづくり。前のチームは三角と四角を切ったので、今日のチーム3人は「丸」と「好きな形」にしました。

「好きな形」となると「ハート(マーク)がいい」というのですが、ハサミではうまくその形になりません。そこで二つに折って「つ」の字に切るとハート形になる切り方を教えました。切る線をマジックで書いてあげ、その線に沿って切ってもらいました。そしてラミネートをして、ライトボックスの上に乗せて、色の変化を楽しんでいました。

こんなことをしていると、体を動かしくなったので、散歩に行くことになりました。でも今日も外は暑いので運動ができません。そこで神田川を挟んで向かい側に立つ和泉橋出張所の中を探検した後、その隣の書店に入って絵本コーナーを見てきました。

最後に、水鉢に浮かべていたほおずきを洗って浮かべ直しました。もうすぐ葉脈だけになった「透かしほおずき」ができそうです。

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