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保育アーカイブ

AIが回答した「見守る保育とは?」

2023/05/01

(園だより5月号 巻頭言より)

生成型の人工知能(AI)の一つ、chatGPTをよく使っています。どのようなものか、実際に使ってみようと思って始めたら、私にとっては、すぐに手放せなくなりそうなくらい便利なツールになっています。例えば次のように尋ねてみます。「藤森平司が唱えている見守る保育とはなんですか?」すると次のように回答してきました。

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見守る保育とは、保育者が子どもたちを徹底的に観察し、子どもたちの個性や特性を理解した上で、必要に応じて手を差し伸べることで、子どもたちの自主性や自己表現力、思考力などを育む保育の方法です。

従来の保育は、どちらかというと保育者が主体的に子どもたちに指導を行うことが多といわれ、子どもたちはそれに従うことが求められていました。しかし、見守る保育では、子どもたちの興味や関心に合わせて保育内容を調整し、子どもたちが自ら学ぶ力を育むことを目的としています。

また、見守る保育では、子どもたちの成長過程を共有することが重要視されており、保護者とのコミュニケーションも密に行われます。保育者は、子どもたちの成長について保護者と共に考え、協力してこどもたちを育てることが求められます。

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どうでしょうか。よくこんなに平気でわかったような断定ができるものだと感心します。ネット上にある情報を集めて瞬時に回答するのですから、大したものです。藤森先生も同じことをやって「下手な解説よりも、よっぽどいいんじゃない?」と、新宿せいが子ども園だよりにも、A Iの解説を載せて、本人が間違いないと言っているから、正しいです、とユーモアたっぷりに紹介したそうです。

一方で、使っていくと、このチャットの限界もわかります。回答について、さらに詳しく問い質していくと、行き詰まりが露呈します。例えば見守る保育と要領・指針との違いを聞くと、方法でアプローチが異なることがある、というので、さらにそれは具体的に何が違うかと問うと、最初の回答の言い方を変えたものに、いくつかの要素を新たに加えてきました。それはどこでもありうる保育方法でした。自信ありげに平気で嘘もつくのです。この辺りから、知らない世界のことだと、私も騙されるかもしれないと思いました。

こう言う意味での精度は、ユーザが使うほどデータ量も増え技術もあっというまに、どんどん進化していくでしょうから解決されていくのでしょう。人間が言葉や映像や記号や音など、デジタル化されうる表象は全てAIの独壇場となるのかもしれません。しかし、もちろん人間の物理的な身体性に由来するものはAIそのものでは代替できないでしょうが、倫理的問題は別にすれば、人工人体などとの融合技術は進むでしょう。それでも人間の内部で起きている事実と人間性の関係にどんな影響を与えていくのか、専門家はきっと、そこの周辺を真剣に議論していることでしょう。

ワールド・クラスルームヘようこそ

2023/04/29

ちょうど子どもの「言葉の獲得」について調べていたので、冒頭の展示から引き込まれた。本物のジャベルの左側に写真のシャベルが並び、右側には辞書のシャベルの定義が文章で書いてある。この3つが合わせて一つに作品になっている。

まさしく三項関係である。これがアートになっているのは、作者のジョセフ・スコースがアートの本質をコンセプトにあると考えているからだ。この3つの要素はどれも表象だが、そのどれ一つを欠いても、アートにならないとスコースは考えた。展示の解説も図録もそこまでしか書いてない。しかし次のようなことを考えると、保育がアートになる境目というか、関係性によって3つの要素が明らかな者にとって、それは作品となるだろう。以下はこの展示のスコー スの発想からインスパイアされた私のアート論である。

どんなアート作品でもいい、その作品Aが何かBを表しているとしよう。宗教画でも歴史画でも人物画でも風景画でもなんでもいい。これは絵画に限らない。彫刻でも建築でもなんでもよい。小説でも俳句でも映画でも音楽でもなんでも。物象化しているものならなんでもいい。どんな現代アートも含まれる。その時なんらかの説明に相当するCがあるから、アートはアートたりうるのだとスコースは考えたに違いない。

もし作品Aが、誰がみてもそれとわかるシャベルじゃなくて、「無題」と題した何かの物体だとしよう。それでも、人によってはそこに何かを表象してしまう。つまりBがそこに存在してしまう。AとBの間の関係性はCが補完するとき、その時にAはアートになるのだ。なんでもないものがCの説明つまりコンセプトの生成がアートの条件ということになるだろう。それなら保育の風景の中に、それは無限に存在することになる。それは一見するに、アートらしいという私たちの概念とは全く異なるものだ。それらしいものに描かれたものが作品で、そうではないものが無視されてしまうだろう。私がみている風景の美しいと感じたものを写真にとりインスタにアップしているものも作品である。

極端なことを言えば、赤ちゃん自身がぼんやりとした風景の中に、母親の笑顔を見つけた瞬間の映像を、そのまま物象化することができれば、それもまた作品である。赤ちゃん本人にその意思がない限り、アート宣言はできないだろうが、保育者がその関係の中にコンセプトDを持ち込み、それがコンセプトC の代理であるといった展開なら可能なのかもしれない。保育では実際にそういうことをやっているのではないか? 子どもの描いたものは大人が描いたものよりもアート性があるとか、なんとか。

ということは、同じ風景であっても見る人によってそれは作品となりうるAとBの関係にCのコンセプトを意識できるかどうかにかかってくるということになるのだが、こういうことはすでにどこかできっと論じられていることだろう。なぜなら、このコンセプチャルアートは1960年代からあるものだから。それでも私はもっと深掘りしてみたいと思う。

ワールド・クラスルームは、こんな調子で国語・算数・理科・社会と続く。写真は理科のナフタリンで作った靴。展示ケースの中で揮発して再結晶化したもの。靴が再結晶していく過程がアートになっている。なんと美しい理科実験だろう。

環境との関わり方や意味に気づいていくプロセス

2023/04/24

私がぶらぶらと園の中を歩き回っていると「これからお店やさん、やるの!。これから準備するの」と2歳児クラスの女子二人が私にそう言って遊び始めました。「〜やるの!」のところで両足でピョンと飛び跳ねながら、抱きかかえたぬいぐるみを振り回しながら、足取りも軽やかにルンルンしています。自分がこれから始めることをそう言って始めるのは、それが楽しいことで、それを人に伝えたいコトになっているからでしょう。そこに気を許せる親しい人(私)が来たから、またそれはすでに知っている担任に言うのではなく、今ここに現れた私にいうのは漠然と「この人はそれを知らないだろうから」と意識したか、しないかはわかりませんが、とにかく私に教えてくれたのです。

子どもが言葉を獲得していく過程には、自分が伝えたいことがあって、それを親しい人や好きな人、特定の大人に伝えようとして、表現し始めるのでしょう。その時、私が現れなかったら「これからお店やさん、やるの!。これから準備するの」という言葉は発せられなかったかもしれません。彼女たちの表現にとって、私はそれを引き出すきっかけになったとわけです。私が現れただけで、彼女たちにとっての環境は変化し、言葉を引き出すリソース(資源)として働いた、と見ることもできるのでしょう。その子がそう言った時、多分あまり意識しているとは思えないので、無意識的なメカニズムが働いているように見えます。

そのような人と人、人ともの関係やかかわりに焦点を当てながら、その時のことを振り返ると、どうしてそういうことが起きたのかな、ということの理解の仕方が、変化することを実感できます。本人の特性にだけ還元して「気になること」をその子どもの原因として語るようなことではなく、そこで創発したことの複雑な要因のネットワークに視線を凝らすようなことが必要だと思えてきます。

人やものからその子どもに届く情報は、子どもにとってそれ見るだけで伝わってしまう意味が色々あって、それがその子どもの認識の変化を引き起こして、あることが気づかれたり、わかったり、できたりするように見えてきます。またそうやって発した言葉を聞いた私が「そう、お店屋さんやるの、いいね、何屋さんになるんだろうねえ」などと応えるものですから、より嬉しく思え、また楽しくなったりして、子どもが思ったことの注意の向かう仕方に影響を与えます。昨日までの話の続きに戻るなら、環境との関わり方や意味に気づいていくプロセスの一コマのようでもあります。

その子たちの遊びは、その後、延々と展開されていきました。このようにちょっとした「一コマ」をあえて虫眼鏡で拡大するかのように取り出しているのは、環境と子どもの間に起きている相互作用と言われているものの姿をよく理解し直したいからです。なぜなら、子どもにとっての経験のあり方をどう捉えるのかということについて、私たちの方が見方を変える必要性を感じているからでもあります。それは無藤隆先生の導きが大きいのですが、併せていま私が面白がっているのは佐々木正人さんの説明しているアフォーダンスと、鈴木宏昭さんの認知科学の知見、そして戸田山和久さんの知識論になります。

令和5年度 睡眠講座「赤ちゃんのねんね講座」

2023/04/21

令和5年度の睡眠講座の日程が決まりました。

9月12日は15日に変更になりました。

2023年度 開催案内ポスター20230718 

いずれも午前10時から11時までの1時間。無料

全てリモート(ZOOM)で参加できます。

参加されたい方は、以下までメールをください。

招待メールを送ります。

c.seiga@chiyodaseiga.ed.jp

1 5月12日
2 5月26日
3 6月9日
4 6月23日
5 7月21日
6 8月22日
7 9月15日
8 9月30日
9 10月10日
10 10月27日
11 11月10日
12 11月25日
13 12月12日
14 1月12日
15 1月23日
16 2月9日
17 2月20日
18 3月8日

シャボン玉〜とんだ〜♪

2023/04/20

まつるくんが先週からやりた〜い!と言っていた巨大シャボン玉づくり 本日、行いました!

ワイヤーを好きな形に曲げ、包帯をぐるぐる回りにまいていきます。

 

つくったあとは、屋上にあがって実践..!

シャボン液作りの配合が絶妙に難しく苦戦したのですが..

・・・できた!!

それぞれ、色々な不思議に出会っているようでした!

またやりたいと思います!

春の教育講座からの学び

2023/04/08

chatGTPのようなツールが日常化してきたように、私たちの「情報編集環境」が急速に変わってきました。知識や記憶や思考のための人間の表象操作ツールが格段に便利になっていくと、社会はどう変化していくのか。今の子どもたちが大人になっていくときの社会を思い浮かべた時に、今の保育はどうあるべきなのか? そんな問題提起から始まったのが今日の「春の教育講座〜藤森先生の講義」でした。保護者の方が18人、職員や他園の先生方などのリモートを含めて36人弱の参加がありました。ご参加ありがとうございました。

 

講演を私なりに要約するとこうなります。(chatGTPではありません・・)

視野に入れておきたい代表的な社会変化を4つ(少子社会、人工知能、グローバル化、ダイバシティ)を取り上げました。子ども家庭庁ができたり、異次元の子育て対策とか、保育士配置改善が議論されたりしていますが、これまでと何を大きく変えるのかが、よくわからない。スローガンだけがまた踊って、本当に現場の保育が変わるか疑問。子育て支援はあっても、子どもにとってどんな保育や教育にすべきかがよくわからない、だから保育はあまり変わらないままになるんじゃないか、という危惧を持つ。だから地道に実践を積み上げて交流していこう。

人工知能などの技術革新は大人の働き方や生活を大きく変える。なくなる仕事もある。新しい仕事が生まれるかもしれない。過去もそうだったが、その変化は過去のはあまり参考にならない。その変化を前提とした時に必要なものとしてOECDが提案している3つのコンピテンシーなどがある。世界は教育をこんな風に変えようとしている。例えば中国は小学校の先取り幼児教育を禁止したことなど。IQと同時にEQの重視や非認知的なものが注目されるようになった経緯も。実際に15の非認知的スキルについて「自己チェックしてみましょう」と一つずつ解説。

日本の教育改革はこんなことを目指している。日本の大学入試改革も変わってきた。このままでは日本の若者の世界での競争に太刀打ちできないかも。そんな危機感も強まっているように見える。産業界からは文系にも数学は必要な社会になったとか、文理が分かれている日本の高等教育は大丈夫か、とか。英語は大前提で、世界的に見ればそれは学力以前のもの。いくらAIが出てきてもそこはどうなるか?語学を超えた先の力が勝負。それは何か。最低は好奇心や探究心だろう。協同性やクリティカルシンキングも。例の「3つのC」も。

インクルージョンの話。男女差、LGBTQ、年齢、障がいなど。個人と環境の関係でみる視点を社会がもっと理解して取り入れないと。日本はそこで足踏みしているように見える。乳幼児期からの人間観を開かれたものにして保育をする。課題はその具体的な保育の姿。

問題に気づき始めた海外の保育関係たちは、乳幼児のコエイジェンシーが関係性の中で発揮されてくる方法として見守るアプローチを参照し始めている。例えばシンガポールでは個と他者の関わりの中で解決の姿として、中庸の視点を取り入れたりしながら。世界の平和維持に果たす日本の役割がこの辺りにあるのではないか、そんな話とも繋がっていくものでした。

 

 

バンドネオンとダンス

2023/03/11

今週を振り返ると、大学との連携に関することがいろいろありました。保育実習生が来ていることもありますし、栄養士になるための保育体験も受け入れたり、大学へ出かけて外国の保育者養成校の学生と交流したりもしました。そして今日は美大でダンスと映画に取り組んでいる学生と話も出来ました。この二人は、当園のダンス指導に来てもらっているコンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんの教え子で、海老原商店での今日のイベントに来ていた方です。

今日のイベントは、青木さんが主催している「EBILAB」の26回目で「バンドネオンとダンス」と題し、珍しい楽器バンドネオンの演奏に合わせて即興ダンスをするというコラボレーションでした。10代から80代まで、20人ぐらいの幅広い年齢層の人たちが、音楽と踊りを楽しみました。

バンドネオンの調べは、どこか懐かしく、国籍を超えたノスタルジックな色調を帯びるから不思議です。それが日本の伝統的「看板建築」の海老原商店とよくあうのです。バンドネオンの音が伝統空間の中で光と音と時間を融合させ、それを青木さんのダンスがさらに「意識を見えるもの」にしていきます。何が見えたのか? もちろんそれは人ぞれぞれですが、私には歴史の時間が見えました。

キリストのチャーチ(教会)を持てなくても讃美歌を歌たいたいという民衆の力が、この楽器を産んだと言います。信仰から必要とされてドイツで生まれた楽器が、南米に渡って受け継がれ、それが日本にたどり着いて、この空間で奏でられているという文化伝承のつながりの中に、楽器がたどってきた歴史を感じました。そしていかにも「昭和な」建物の中の「ネオン」に照らされて、私たちが忘れている意識のどこかを、この楽器は呼び覚ましてくるのです。その呼び覚まされる意識に導かれながら、青木さんの身体が空間を刻んでいくのです。

https://www.instagram.com/stories/nao_ya.aoki/3057988809170839114/

このタイムトリップしたかのような場。それを日常のように思えるのは大いなる勘違いでしょう。なぜなら、難解な演奏スキルを必要とされ、そこから悪魔的楽器という異名をとるバンドネオンが実際に目の前で生演奏されていることさえ、至って稀有なことなのに、建物自体が伝説のような空間で、コンテンポラリーダサーの青木さんの身体が舞うのですから。こんな贅沢な一回きりのどこにも残らないアート作品。そう、人生の生きる時間はどこにも残らないものなのでした。

 

栄養士を目指す学生が保育体験に

2023/03/10

千代田区にきて4年、区内の大学との連携を進めているのですが、コロナで思うように進まなかったのが実習や交流です。やっとその一環として栄養士を目指している学生さんが保育園のボランティア体験に来ました。8日と10日の二日、それぞれ2名ずつです。保育園の調理業務、食事の提供の実際などを説明し、見学してもらいました。ほとんどの保育園は自分の園の中に調理室を持っているのですが、例外的に外部で作った「弁当」を持ち込む園があります。当園も園の中に厨房があって、直接雇用した栄養士3名(うち1名は非常勤)が、午前のおやつ、昼食、午後のおやつ、延長保育があるときは夕食(あるいは夕方のおやつ)を提供しています。

私は保育園の中に調理室があり、子どもも保育士も一緒に「食を営む生活」が展開されることが大事だと思っています。たとえば、園生活の中で料理をつくるプロセスを子どもたちが見て、色々なことに気づき、その活動の一部(下ごしらえを手伝ったり、お米を研いだり)を共有できること。そこで働く栄養士さんや調理員さんたちと一緒に食事をすること(コロナ感染対策時はできないのですが)。保育士だけではなく栄養士も喫食状況を把握して次の献立に活かすこと。子どもも知っている先生が作ってくれている料理であるという、日常的な会話や心の交流があること。子どもが簡単な料理をするときに、その指導をしてもらえること。プランターで育った野菜を収穫したらすぐに調理に生かしてもらえること。そうしたことが実現しやすいからです。

管理栄養士が各園の子どもの実態を把握しないで自治体単位の統一献立で給食を提供することは、今述べたようなことがやりにくいだろうと想像しています。離乳食ひとつ考えも、月齢はあくまでも目安であって、離乳の進み具合、咀嚼や嚥下の状態、家庭で食べたことのある食材の種類、食事の時間と生活リズムや体調から生まれる食欲などが違います。これは保育と同じで、一人ひとり家庭での過ごし方を含めた生活の連続性、24時間のサイクルのつながり具合を大切にします。

食べ具合を見ながら、どんなメニューや食材、調理法なら食が進むだろうかと考えながら、毎月の献立を見直しています。そうやってできた料理も、その日の個々のコンディションによって、子どもの喫食の様子は違います。そこで配膳は子ども一人ひとりに応じて、その都度の適量が変わってきます。まずは子どもの方からこれぐらいでいい、という考えを言えるようにしてあげて、それに応じて盛り付けてあげます。その日々の変化から大人は子ども理解が深まります。

また今日の学生ボランティアには、当園の栄養士がそうしているように、保育にも入ってもらい、子どもと一緒に遊んでもらいました。子どもと直に触れ合って、子どものことを知って、その子どもたちの食べるものを良くしたい、美味しいといって食べてもらいたい、そういう気持ちから食事を提供していく動機が育っていくと思うからです。

 

保育実習生を受け入れながら

2023/03/09

保育園や幼稚園、こども園などでは、「先生」が働いています。保育士や幼稚園教諭です。それぞれの専門性を養成している「学校」があって、私たちは一般にそれを養成校、といいます。当園のようは保育園で働くには保育士の国家資格を取得する必要があるのですが、その保育士養成課程(カリキュラム)の中には、養成校で学ぶだけではなく、保育現場に行って実際に保育を体験する「実習」も含まれていて、それが養成課程の核になるといわれているほど、大切なものです。したがって、実習を受け入れる保育現場は、学生の養成課程の一部を担っているので、私は養成校でなにをどう教えているのかをできるだけ知ろうとして、大学や短大、専門学校の先生方との交流を続けてきました。

日本保育学会でも続けて実践提案をしてきた時期があったのですが、保育現場が妖精の一翼を担っているという意識と仕組みがどこまで進展してきているのか?と不安になります。というのも学生が実習に行って、かえって保育者になる意欲を失った、という話が養成校の先生から聞こえてくるからです。実際のところ園長会や養成校がもっと組織と組織とのつながりを持って、保育の質についてまず最低限の合意を取りながら、その上で保育者の質につなげてもらいたい。

この数年、コロナ禍の影響で実習の受け入れが中止になったり延期になったりして、養成校は大変でした。学生も然るべきタイミングで実習ができなかったり、本人も体調を崩したり、受け入れる園の方も外部からの出入りがあるとヒヤヒヤだったり、この3年間、本来の養成課程とは違う綱渡りのようなことをやってきた気がします。昨年秋から話題になった保育園の職員による体罰問題なども、養成課程への影響というところまでは、あまり話題にならなかった気もします。

ちょうど3月6日から、大学の実習生3年生が一人きているのですが、当園は2回目の実習Ⅱになります。幼児クラスに連続して入り、今日9日に「責任実習」を終えました。この責任実習という概念や位置付けも見直さないといけないと思ってきた課題の一つです。色々なことが実習を巡って課題が多いと思うのですが、あまり自治体関係者の方は課題の内容をご存知なく、話題にすらのぼらない時期もあったのですが、最近はどうなってきているのかな、と思います。

 

 

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