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保育アーカイブ

第5回 全国実践研究大会in熊本(初日)

2025/01/31

この全国大会の企画は保育環境研究所ギビングツリー(略称GT・藤森平司代表)で、運営は各地のGT園が協力して開いています。午前中は熊本市内の保育園、幼稚園、こども園の見学で、午後からは「くまもと県民交流会館」のホールで2つの講演とトークセッションでした。

最初の藤森代表による基調講演は、私たちの保育が「要領や指針が求めているような主体的な子どもに育っているか?」を振り返りを求めるものでした。参考指標として例に挙げたものは、文部科学省・国立教育政策研究所が令和5年12月5日付でまとめた「OECD生徒の学習到達度調査〜PISA2022のポイント」です。それは以下のものです。

これはコロナ禍を経て15歳の義務教育課程修了の子どもたちの読解力、科学的リテラシー、数学的リテラシーの3分野を国際比較したもので、いずれも上位5位に入る「世界トップレベル」の学力を維持していることがわかりました。ところが気になるのは「自律学習を行う自信」(自律学習と自己効力感)は、OECD37カ国のうち34位だったことです。質問は「学校が再び休校になった場合に自律学習を行う自信があるか」を調べるために「日本の高校1年生に「今後、あなたの学校が再び休校した場合、以下のことを行う自信はどれほどありますか」と8項目を聞いたのです。

写真を参照ください。

レポートは次のように分析しています。

<感染症の流行・災害の発生といった非常時のみなら
ず、変化の激しい社会を生きる子供達が普段から自律
的に学んでいくことができるような経験を重ねること
は重要であり、主体的・対話的で深い学びの視点から
の授業改善の推進により、自ら思考し、判断・表現す
る機会を充実したり、児童生徒一人一人の学習進度や
興味・関心等に応じて教材学ぶ方法等を選択できる
ような環境を整えたりするなど、自立した学習者の育
成に向けた取組を進めていく必要がある。>

どうでしょうか?世界や日本が、このような学校教育
に変わっていくことが求めらている中で、私たちの乳
幼児教育は、どうあるべきなのでしょうか? 

学校教育がこのような方向に向かって変わろうとしていることを踏まえると、保育ではこの「選択できるような環境」をどう受け止め直し、乳幼児にふさわしい形でどう深めるか、という話と関係します。そこで「選択」「参画」「自己決定」などを乳幼児に相応しい形に吟味し直してきました。

一方で「教育基本法第1条(教育の目的)にある「〜平和で民主的な国家及び社会の形成者として〜」をどう育てるのかというように法令から参照していくときも、子どもの権利条約や子ども基本法、こども大綱、OECDのエイジェンシーなどを踏まえて、保育を進める必要があります。

そのときの鍵は「子どもが自分に関係する事柄について自らが影響を与える経験をすること」を保育でどう具体化するかということにつながっていきます。

つづく記念公演は熊本市教育長の遠藤洋路さんだったのですが、話はちょうど同じ文脈になりました。生成AIなどが将来の学校教育を変えるのか?学校の役割はどう変わるのか?教育はどう変わるのか?

次期学習指導要領ができる頃に、もしかしたらシンギュラリティが現実味を帯びているかもしれないほど急速に変化している時代に、大人も含め子どもの学びのビジョンをどう描くのか、極めて重大な時期に来ていることをわかりやすく説明していただきました。

そして令和5年12月22日に閣議決定された「こども大綱」について、「若者やこどもの意見をきいて施策に反映することや、若者やこどもの社会参画を進めること」には次の2つの意義があるとします。

(1)こどもや若者の状況やニーズをより的確に踏まえることができ、施策がより実効性のあるものになる。

(2)こどもや若者にとって、自らの意見が十分に聞かれ、自らによって社会になんらかの影響を与える、変化をもたらす経験は、自己肯定感や自己有用感、社会の一員としての主体性を高めることにつながる。ひいては民主主義の担い手の育成に資する。(赤文字と下線のあるところは遠藤教育長が強調されていたところです。)

この話は、基調講演でスウェーデンの民主主義教育が紹介されたので、そこでピッタリとつながりました。

会場を移動してトークセッションには哲学者の苫野一徳・熊本大学准教授を交えて3人による<これからの教育・保育に必要なこと>について語り合っていただきました。苫野さんは熊本市の教育委員でもあり遠藤教育長とは何年も話し込んでいる間柄です。3人とも「そもそもところが大事」というところが共通でした。

苫野さんは「教育とは子どもが自由に生きたいように生きていくための力を身につけること」とだとし、その自由とは「自由の相互承認」という表現で人類がその実現を目指してきたもの、といいます。教育に必要なことは「子どもを信じて、任せて、待って、支えること」。それは誰もが当たり前のことと感じているはずなのに、それが十分にできなくなっているのは、システムがそうすることを阻んでいるからではないか。そういう意味でも150年経った日本の学校教育も構造転換が必要で、考え方は250年の積み重ねを経てできているから、それを実装する時期にきているとし、それに必要なのは次の3つではないかと提案されました。

構造転換の柱を項目だけ紹介すると①「学びの個別化・協同化・プロジェクト化」をすすめ②「探究をカリキュラムの中核にして自分たちで対話を通して学び」さらに③「学校を多様性がごちゃ混ぜのラーニングセンター」にしていこう、といった話でした。「これらは各地で、すでに始まっています。10年後は明るい」と話されました。

 

みんな「楽しかった」という千代田小訪問

2025/01/28

担任が「小学校、どうだった?」と聞くと、7人全員が「楽しかった!」と手を挙げました。今日は年長の7人で千代田小学校を訪問したのです。

9時25分からの2時間目。1年生が英語と図工、2年生が算数でした。まず最初の英語が、楽しそうでした。スクリーンの映像をみながら、体を動かしながら歌うように英語を口にしていました。

隣のクラスは図工で、画用紙で箱型のカエル人形を作っていました。手元がスクリーンに映し出され、それを見ながら製作しています。

算数をやっていたクラスは「どうぞ入っていいのよ」と誘われて教室へ入ると、担任の先生から、いわゆる「百ます計算」のようなプリントを全員にいただきました。

実はこれをもらった子たちは、やりたい!と保育園で計算を始めたのです。すごく意欲的でびっくりしました。

教室で先生から直接いただいたプリントは、宝物のようなのでしょう。この子達にとっては、たぶんプリキュアの塗り絵のように輝いていることでしょう。

こういうきっかけから、算数の足し算に親しむことができるのもアリだろうと思いました。

授業参観がおわると、ちょうど中休み。2年生3年生4年生になっいてる卒園児との再会もできて、校庭でバスケットや雲梯、鉄棒などを楽しんで帰ってきました。

 

睡眠講座「赤ちゃんねんね」は4人の職員が受講

2025/01/25

今回はうちの先生たちが永持伸子先生の睡眠講座を受講しました。保育上の疑問を出してもらい、その後、いつもの講座内容を節めしてもらい、その上で疑問質問に答えていだだくという流れでした。永持先生によると最近の傾向として感じることとして、多くの母親が「赤ちゃんは夜2〜3度、起きてしまうのは仕方ない、そんなもんだろう」と思っているらしく、本当は、赤ちゃんは夜、そんなに起きたり泣いたりせずに、ぐっすり眠ることができるということを知らないそうです。

そんな話から講座はスタート。夜の睡眠が大事だとは知っているけど、実際にどうしたらぐっすりねんねできるのか、その方法は案外知らないままなんです。というわけで、今日はそのコツを先生たちに勉強してもらいました。

幼児の誕生会で野菜の浮き沈みを確かめる

2025/01/23

最近の誕生会などの行事は、午前中に外遊びを優先したいので、午後の間食後に実施しました。担当は持ち回り方式で今日の先生の出し物は「野菜の浮く沈む」でした。

随分前に私もやってことがありますが、トマトが沈んだり、にんじんが、茶柱のように、縦に浮いたりするのが、大人も意外に面白いところです。

ではクイズです。縦に置いたにんじんを真ん中から半分に切ったらどうなると思いますか?

答えは、こうなりました。

葉っぱがついていた太いほうは浮き、細長い方が沈みました。面白いですね。

2歳児が「かぶ」を食べ比べる

2025/01/22

今日は「そら先生だよ(が来るよ)」というと、美味しいものが食べられると思ったようで、「子どもたちは朝からウキウキしていました」と2歳児クラスにこにこ組の先生。今日は野菜の「かぶ」なのですが、とても意欲的です。

普通によく見かけるのが「小かぶ」ですが、これに今日はピンク色の「桃かぶ」と、うっすらと赤い「あやめかぶ」、そして全体が黄色の「黄かぶ」の4種類が用意されました。

例によって、まず、かぶの輪郭を描いた絵をみて、かぶの色を想像してみます。白、ピンク、レインボーなど「こうじゃないかな?」と思い思いの色の言葉が出てきました。そして実際に4種類の「かぶ」を見せると・・・色とりどりの株の種類に、R君がわぁ〜、と声をあげました。Yくんは黄色のかぶを見て「柿だあ」。

昨年8月から始まった「味覚の探究」は、これまでなす(8月)、たけのこ(9月)、たけのこピザ(10月)、れんこん(11月)、ロースロチキン(12月)と続き、今回で6回目です。

そのたびに、野菜のおいしさを体験してきた子どもたちは「野菜=おいしい」という認識が強まっているのかもしれません。シェフの江口さんは、このことについて、振り返りの中で面白い表現をしていました。

「食べるたびにおいしいと言う経験を積み重ねていくと、それがおいしい脳になっていくんです」と。「おいしいの脳」。「わー、おいしいのう」と、私がダジャレを言うと、忘れられない表現になりました。

毎回2階の入り口に掲示していますが、個人情報が入っているので、ホームページにこにこのブログに載せておきます。どうぞご覧ください。

 

 

モノがたり ワークショップ(2月23日)

2025/01/18

20250117 モノがたりワークショップ

保育園に「演劇」の楽しさを運びにきてくださっている宮野祥子さん(桜美林大学の演劇学の先生)が、2月23日(日)に近所の海老原商店で「モノがたり」というワークショップを開きます。物語ではなく「モノがたり」。どんな内容かというと・・

かたちのある「モノ」、ない「モノ」を、参加者がもちより、そのモノについて「かたり」、一人ひとりの「かたり」を重ね合わせて、「ものがたり」をつくりだし演劇にする、ワークショップ。

・・だそうです。参加者も2月21日(金)まで募集中です(8名まで)

最後には19時ごろから、出来上がった(?)「モノがたり」の発表会を開きます。

保育園でも「エンゲキ」を楽しんでいます。興味ある方はぜひ、どうぞ。

なぜかカッコつけて<アボカッ・ベイべーッ!>

2024/12/28

4回も続けて同じ絵本を読んだのは初めてでした。「もう一回!」という強い要求から、そうなったのですが、どんなところがそんなに魅力的だったのだろうと読みながら、感じ取ろうとして、それを今でも考えています。あの時空はたしかにちょっと特別でした。

お昼ご飯は子どもと一緒に食べることがあるのですが、その時、ある先生の赤ちゃんが生まれた話になって、そこから、たしか「じゃあ、元気な赤ちゃんの話がいいね」となったのでした。ジョン・バーニンガムの『アボカド・ベイビー』。「あるものを食べたら、すっごく元気なる赤ちゃんの話なんだ」とかなんとか言って、ご馳走さまをして、何人かと一緒に3階の「ゴロゴロするところ」へ向かったのでした。

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、物語は、家族みんなが心配するほど、食欲もなく病弱な赤ちゃんが、なぜかアボカドだけは好きで、それを食べはじめたらとても元気になって、力持ちになって・・・(わざと抽象的に書きますが)悪い奴も懲らしめてしまうという、痛快なお話です。絵本には奇想天外なところがあって、そこが物語の面白さでもあるのでしょうけれど、私が「面白いだろうから読んであげたいな」という気持ちがなければ、この絵本は選ばれなかったわけですが、そもそも私が、たくさんあるバーニンガムの絵本から、これを思いついたのは、最近、ある大学生と絵本の話をしていて「気になる絵本の一つ」に挙げていたことを思い出したからでもあります。

ですから、私もタイトルの読み方からして、『アボカド・ベイビー』とは読まず「これはね、英語で書いてあるでしょ、英語の発音はね、<アボカッ・ベイべーッ>というんだよ」と、右手を銃の形にしてイェーイ!とカッコつけて、<アボカッ・ベイべーッ>とやってあげました。もちろん「もう一回やって」を何度か繰り返して、子どもたちも真似してましたけど。そういう空気感の中での、『アボカド・ベイビー』です。

ということもあって、この機会が生まれたわけですが、ちょっと前までこれを読んであげようという詳細なプランがあったわけでもなく、食後に絵本を楽しむという大枠の計画はあるのですが、そこで何をどう読んで過ごすかは、それまでの子どもたち、担任たち、私、その場所、その時間、その他の絵本、ジョン・バーニンガムの絵本への思い、担任の赤ちゃんの話題、私が大学生と話題にした過去の記憶の甦りなどと、それらは数え上げれば、それぞれの主体に無数にあって、それがあの時の空間に結晶化したとでもいうようなことではあります。どんな出来事だって、縁のないものはないので、そのつながりの中に、人は大切だと思えるラインを引き直しているのかもしれません。

でも、その中でも「こうこうことが起きるからいいんだよなあ」というのがあります。その空間で、子どもにとっては初めての予期せぬ物語に引き込まれ、「もう一回」のカーテンコールが4回続いたのです。これは滅多にない。それもそれで面白さの度合いが違う何かがあったのでしょう。話は奇想天外で痛快で、こんな感じ自分でも味わいたいという、何か胸のすく解放感が感じられ、絵本の中だから許される経験が疑似体験できるから、もう一回!と反復しながら、子どもたちの時間が生きられたのではないかと思います。そういう快感を求めたいほどの状況を生きている子どもたちだった、とも言えるかもしれません(じゃあ、どういう状況を生きているのか?と気になりますが)。

 

今週は3回、絵本を読んであげる機会がったのですが、上記のことは2回目のことです。1回ずつ、出来事として違いました。同じ絵本の読み聞かせという時間(園長の絵本タイム)であっても、その機会そのものとしても、おそらく個々の子どもたちにとっても毎回違います。まあ、当たり前ですが。それでも今週は3回あった絵本タイムのそれぞれが、違った味わいに彩られていくことが、とっても楽しいのです。

睡眠は「安心と満足」から

2024/12/21

今年最後の睡眠講座「赤ちゃんねんね」には、ご夫婦でリモート参加されました。毎回聞いていると何かしら気づきがあるのですが、今回はよく知っているはずの「安心と満足」の「安心」について、なるほど、そうか!ということがありました。赤ちゃんにとって、寝ることはもともと不安なことかもしれない、ということです。

というのは、赤ちゃんは眠りが浅くなった時、うっすらと目を開けて周りに異常がないか、みていることがあると言われています。そのとき、記憶力がついてくる4〜5ヶ月ぐらいから、寝る前の状態と違っていると不安になって泣くことがあります。それが多くの場合夜泣きの原因になります。

寝ることが自体に不安要素があるというのは、睡眠時は無防備になるので、警戒させているのでしょう。そこで本人が寝ることを知らないで寝かせてしまうのではなく、「ねんねしようね」「おやすみなさい、だね」などの一言が大事になります。赤ちゃんだから言葉は通じないだろうなどと思わないでください。赤ちゃんは、人の声をちゃんと聞いています。

オニツカ家に赤ちゃん誕生〜年長児が編み出していく「ごっこ空間」〜

2024/12/20

年長さんの女子3人が家族ごっこをしています。赤ちゃんとうさぎのペットの5人暮らしです。

母親「じゃぁ、(子どもの)Rっちが誘って、私たちにあげるんだよ。私たちにちょうだい。3個ずつよ。6個あるから」。

転がっているボールは何か意味があるようです。

父親「あそこ、青いマットの下(にあるよ)」

母親と父親が3個ずつボールを受け取ると、母親が

「ちょっと買ってくるから。ちょっとお父さん、子どもとやっといて。私、行くから!」

といって、飛び出して行きます。一体どこ行くんでしょう? すると、子どもが「赤ちゃん泣いたよ」と教えると、母親が「あぁ泣いちゃった」と、部屋に戻ってきます。

私がそこから「トントンごめんください」と中に入れてもらうと、母親が「赤ちゃんです」と抱えて見せてくれます。名前を聞くと、まだなかったみたいで、ちょっと考えて「ななちゃん」といいます。

すると、子ども役のRちゃんが「ななみは?」とお母さんに提案。母親は「じゃあ、苗字は、おにつかななみ、ね」。(なんでオニツカなんだ?)

3人は私をリビングに案内してくれて、お父さんが「こっちにはすごいソファーがある」と説明してくれました。そしてお母さんが私に「写真撮ってもらいましょう」と言って、3人でポーズ。

「赤ちゃんちょっと泣いちゃったね」と、段ボールと布てきたベッドに寝かせます。お客さんである私に「ここは気にしないでください」と、ベッドが壊れ、かけてでもいたのが気になったのか「ここは違いますから。うさちゃんのベッド」と、お客さんに気を遣ってくれます。

すると、子供がペットのうさぎを連れてきて、ベッドに寝かせます。

「うさちゃん、おやすみ。ここでね。」お父さんが「2段ベッド」。

子どもが「うさちゃんのミルク」とミルクを飲ませます。私がお礼を言って帰ろうとすると、「じゃあ玄関開けなきゃ」とお父さんがドアを開けてくれます。

お母さんも走ってきて「ここはみんなの庭なんですけれど、ここは赤ちゃんのお庭なんです」と離れを見せてくれました。

・・・

私がお邪魔したのは、ほんの5分位ですが、こんな家族ごっこが1時間以上続いていたと思います。犬の散歩に出かけたり、野球をやったり、買い物に行ったり、ごっこ遊びといっても、オニツカ家は大忙しでした。

このように、遊びは単なる模倣に止まらず、そこに持ち込まれる道具としての物と、表現的な要素が流動的に影響しあい、新しい関係性や意味が生成される創造的な場であると言えそうです。

運動ゾーンで展開されるごっこ遊びの空間に入り込んでみると、既存の遊具が新しい道具として使われていることに気づきます。既存の何々ゾーンと言うラベリングを壊していく力を子どもたちの遊びは持っているようです。

絵を見ないで話してあげるお話の世界<ケ言葉による伝え合い>

2024/12/19

絵の少ない物語を読んであげていると、子どもがじっと想像していることがよくわかります。お昼ご飯を食べた後で、エルマーの冒険の話になって、「どこまでいったけ?」「ねずみがでてくるところまで」というので、3階のクッションの上で読み始めました。食後はゆっくりしたいので、子どもたちは「ごろごろタイム」と呼んで、自分たちで絵本をもってきて見たりしています。

想像するというのは、目の前にないものを思い浮かべるということだとすると、じっと目をつぶって、頭の中に絵を描くことに似ています。それがちょっと難しい時は、私は「ここだよ」と地図などを広げてあげます。

「今ここだよね」などと地図を指差しながら、次々と出会う動物たちから食べられずに、うまく逃げていくエルマーの足取りをなぞっています。また所々に入っている最低限の挿絵が、状況を「思う浮かべる」手助けにもなっています。

話の途中で「どうして?」と聞かれることがあって、その理由がその次に書いてあったりするのですが、そこを読んであげると面白そうに納得しています。今日のメンバーは「りゅうがあばれたら、ゴリラにほうこくすること」という箇所で、大笑いになりました。子どもによって面白いと思う箇所が違うので、それも読み聞かせをするたびに、面白いと感じるところです。

あまり絵に頼らずに、言葉を聞くだけで情景を思い浮かべながら、お話を楽しむというのは、今の時代にあまりない体験のような気がします。私の読んであげる言葉に、じっと耳を澄ませています。

このような体験をたくさんすることは、考える力に影響する気がしますが、どうなのでしょうか? 映像にあふれている時代だからこそ、もっと必要なことかもしれません。

<ケ言葉による伝え合い>

保育士や友達と心を通わせる中で、絵本や物語などに親しみながら、豊かな言葉や表現を身に付け、経験したことや考えたことなどを言葉で伝えたり、相手の話を注意して聞いたりし、言葉による伝え合いを楽しむようになる。

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