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保育アーカイブ

落語の絵本「じごくのそうべい」ほか

2023/06/30

いやあ、今日も面白かった。恒例となってきた「園長の絵本劇場」。今日の絵本は5歳児から渡された「じごくのそうべい」ほか2冊。いずれも子どものリクエストで決まりました。3歳児からは「ねこガム」4歳児からは「コッコさんのお店」。3歳、5歳、4歳の順にやりました。

ご存じ「じごくのそうべい」は落語が元ネタですから、面白くないわけがない。軽業師のそうべえは、綱渡りに失敗して落下、地獄に落ちてしまいます。火の車で三途の川にたどり着くと、山伏のふっかい、歯ぬき師のしかい、医者のちくあんと一緒に、えんま様に地獄行きを言い渡されたて、さあ大変。昔話風の奇想天外な話の展開に子どもたちは引き込まれていきました。迫力満点の絵は田島征彦。第1回絵本にっぽん賞受賞の絵本です。

私は落語家になったつもりで、テンポ良く「とざい、とうざい。かるわざしのそうべえ、一世一代のかるわざでござあい」と、臨場感あふれる、わかりやすい解説付きで話を進めていきました。

この手の本は、子どもによってハマると、その場面を何度も味わいたくて「また読んで!」となりがちなお話ですね。リクエストした子は、にこにこしながら笑っていました。

ねこガムは、ふうせんガムの風船が猫になって反対に吸い込まれそうになっていく、子どもが思いつきそうな瞬間芸的なナンセンスファンタジーで楽しい。この愉快さを子ども共有するのは、ちょっとした共犯関係ができていくみたいな面白さを感じます。落語にしても、この手の話にしても、絵本は堂々と日常からの逸脱を許してもらえるという意味で、精神衛生上も「ええもんですなあ」・・・。

ステム保育とマジックの不思議さとの混同は避けたい

2023/06/29

 

保育園の現場でマジックやトリックの面白さを、どう受け止めるといいのだろう? 今日は誕生会の出し物を見ていて考えました。私は子どもに自然が「呼びかけてくる」(無藤先生)ことへの応答力が「センス・オブ・ワンダー」として大事にしていくということでいいんじゃないかと思っています。そこには、いわゆる「マジック」の不思議さのようなものは持ち込みたくないと考えています。それはそれとして区別できれば良いのですが、子どもはそれを混乱してしまうからです。

親指を引っこ抜く格好をして引っ張って「あれ?ない!」ぐらいは、その場で種明かしができるからいいのですが、ただのスロトーと見せかけて、その中に試薬を混ぜてコカコーラを透明にしたりするのは、ちょっと違うと思います。それなら、紅茶にレモンを入れると色が変わる、とか、水栽培の紫陽花の花が、水に酢を加えて酸性にすると赤く変わるとか、自然界にある実際の化学変化を子どもにわかりやすく取り出してきてあげればいいんじゃないかと思っています。

例えば虫眼鏡で観察するかのように、人の五感を拡大するということ。小さいものは顕微鏡で見る、遠くのものは望遠鏡で見る、振動の伝わりは声なら糸電話で遊ぶ、といったようなものです。トリックは錯覚などの現象はいいと思います。斜めから見たら骸骨に見えるなんてのは、昔から有名な絵画にもあるし、野菜の「かご」かと思ったら逆さにすると人の顔に見えるとか、トリックアートという分野もあるくらい。

最も不思議なものは、私たち人間自身だと私は思うのですが、それは子どもにはもう少し先のお楽しみとして、自然とそうなっていくのを見守ってあげましょう、という言い方の変ですけど。でも自然の面白さ、不思議さを楽しむとか、もっと知りたいということが少ない気がします。なんだか科学技術立国ニッポンをどうする?みたいなこと(ちょっと古いか?)も大事なのですが、そのためにも、もう少し地に足のついた科学への興味関心をしっかりとさせたい。この分野の幼児期の「芽生え」をしっかり捉えたい。

運動の中の「美」を体験する

2023/06/28

今年で4年目を迎えるコンテンポラリーダンス。今年もその遊びが始まりました。子どもたちに指導してくださるのは、子どもたちが大好きな青木尚哉(あおき・なおや)さん、芝田和(しばた・いづみ)さん、木原萌花(きはら・ももか)さん。ダンスと言っても何か決まった振り付けがあって、それを覚えて上手に踊る、というものではなく、自分の身体を気持ちよく動かす回路を開いていくようなものです。乳児から幼児まで、全てのクラスで楽しみました。

乳児の子どもたちとは、まずダンサーの方々と親しくなることから始めます。いつもの歌を歌ったり音楽に合わせて体を動かしたり。普段の遊びを一緒に楽しみました。この人たち、誰だろう?という感じから、すぐに慣れていってくれました。にこにこさん(2歳児)たちとは、膝の上にのってヒコーキになって跳んだり、ペンギンになって歩いたり。わいらんすい(345歳)になると、バリエーションが増えます。

じゃんけんのぐーやパーの形(格好)を顔や手や足や全身で表す「グーパー体操」。相手とてのひらを重ね合わせる「やさしくタッチ」。それを歩いたり走ったりゴロゴロ転がったりしてやります。タッチの代わりに「ぎゅー」になったり、「高いたかい」になったりと触れ合い方は様々に変化。これらは自分の身体が人と触れるという、関わり方のバリエーションの広さに改めて気づくことになっていきます。

青木さんのダンスの面白さは、それが「よくなること」が、自分の身体と周りとの接触の仕方や度合い、距離感というものに敏感になっていくこと、その感覚の解像後が高くなっていくことが「よさ」なのです。その運動の代表が「ポイントワーク」という青木さんが開発したメソッドです。例えば「マネキンとデザイナー」は、片方がマネキン(人形)役になって、もう片方がデザイナー役になります。そしてデザイナーがマネキン役の体をゆっくり優しく動かすのです。

子どもたちは身体の骨の模型を見せてもらっており、体には骨があって、関節のところで動くことを学びます。それ以外のところは動かないことを体感します。音楽に合わせて1、2、3・・・と数えながら、デザイナーはマネキンの手や指や腕や胴や脚や踵などを動かしていくのです。10まで数えたら、つまり10回手や足や頭の少しずつ動かして、最終的には「いい感じ」の格好を作り上げます、そして、その格好をデザイナーも真似ます。

ダンスのためのオリジナルわらべうた「鬼さん鬼さん何するの?」は、円陣を組んで鬼が「これするの」と応えると、みんなもそれと同じ動きを真似します。輪になって並んでいるので、順番に「これするの」をやる番が回ってきます。どんな動きをしようかなあと考えながら、思い切って動いてみると、どんなものであっても、それが表現として受け止められていきます。即興的に考える創造力、それをみんなが真似する面白さ。その中に、格好やポーズのかっこよさや美しさが垣間見あられるのです。慣れてくると、早く自分のところに来ないかなあというようになっていくのがわかります。

鬼ごっこやわらべうたでも、体を動かしますが、その関連を調べてみると面白いことがいろいろ見つかります。例えば「わらべうた」を「遊び方」と「隊形」で整理されているものと比べると、青木さんとやっている運動と重なり合ったり、独立している領域が見つかったりします。

やっていることは違うことだと思っていても、身体の関節が動いている運動であること、それと同時に起きている身体「感覚」の体験は、重なり合っているのです。

その運動の起点となっている前後の動機やイメージなどは、移り変わっていくのですが、その連続性の中に「美」がいたるところに見出されるのが、ただの運動ではなく、アーティストであるダンサーの作り出す運動の楽しさです。何度も楽しんできたものなのに、今回の「マネキンとデザイナー」の動きの中に、主任はいたく感動していました。「青木さんたちがデザイナーをやると、違う。10カウント目の最後の動かし方で、ドキッとするくらいよくなる」と。それはきっと子どもに伝わっています。あんなふうに自分も「やる、やる」と、デザイナーやりたいという顔にそれを感じます。

さらに「なるほど」と思う感想を主任からもらいました。「これって、感覚統合からみると、とてもいい運動になっていると思う。そして主体性ということでは、マネキンの方がやらしてあげていて、デザイナーと対等じゃないか」と解説してくれました。自分の身体が教材や環境になっていく協同的活動としての遊び、とでもいうのでしょうか。

屋上を都会のオアシスに

2023/06/28

昨日に続き、今日は屋上の日除けや目隠しのネットを張ってくださいました。プールの上にパラソルも出して、暑〜い夏に備えます。お父さんたちに少し早くお迎えにきていただき、夕方5時過ぎ頃から6時ごろまで、小一時間で完成。本当に助かりました。これで屋上の空間も色々なことに使えそう。

プール開放は例年通り実施しますが、それ以外にも使い道があるといいですね。子育ての仲間が増えるほど、子育ても楽しくなり、子どもたちにもいいことが増えることでしょう。屋上が都会のオアシスですね、と先日SNSで言われましたが、本格的なオアシスにしていきたいですね。

梅ジュース作り

2023/06/27

保育園でよく行われるのが梅ジュース作り。梅のヘタを取り、氷砂糖と混ぜるだけで半月から1ヵ月位で、簡単にジュースができるので、季節感を感じることができる楽しみな活動です。

6月27日、年長が、栄養士と行いました。梅を触り、匂いをかぎ、氷砂糖が手で割れるかどうか、その硬さを確かめたりしながら、2つを瓶に入れて行きます。お泊まり会の頃に飲むことができると思います。それまで何回も瓶を揺らして混ぜたりしながらその変化を楽しむつもりです。

「これぐらいなら、まあいいか」が要注意

2023/06/24

6月23日は第4回目の睡眠講座でした。参加者は2組。おひと方はご兄弟がいる場合の「ねんねのこつ」の話にもなり、それは結構な知恵が必要なことがわかってきます。一人だけならできることも、二人目になると難しい場面が出てきます。お互いに影響しあうこともあります。

運動と健康はたいていセットなので、そこにタイミングや時刻という、いつ何をやるかという生活リズムが付いて回ります。地球は自転している、どうしても24時間というサイクルと切り離せないんですよね。朝昼晩、それぞれに体内で働いているものが環境と相互作用しているので。朝日をあびて食べて体を動かしてから始まる一日の生活。夕方から眠るまでの光と安心や満足の心理状態との関係。夕食やお風呂、体温の変化。ぜんぶがつながっている。

でも、いろいろあっても、最終的にみつかる習慣はできてしまえばシンプル極まりないことなのですが、それがちょっとずつ、ずれていくのでしたね。睡眠サイクルは地球の自転より3分ぐらい遅れています。「遅れる」ということは、放っておくと朝寝坊しやすいし、夜更かししやすいということ。この毎日のズレは、積み重なると大きい。そこで毎朝、リセットしているんでしたね。

毎回、睡眠睡眠講座をやっていて思うのは「これぐらいはみんなやっているから大丈夫だよね」が、じつば身体(脳ももちろんふくまれますが)に合ってない、ということ。それがどれくらい影響するのかというと、生活習慣病と同じくらいと考えていいんじゃないだろうか。もう少し「はっ!」としてほしいのですが、怪我や虐待とちがって、ヒヤッとしたりハッとしたりしないから、生活リズムからくるダメージの大きさを表す何かが必要かもしれませんね。たとえば睡眠サイクルの乱れを表すハインリッヒの法則のようなもの。

話は脱線しますが、学生たちの居眠り、社会人の電車の中の居眠り、海外の人たちからはどう見えているのだろう? 何かの病気か何かに見えているかも?そんな話もどこかで聞きました。先日ある小学校の授業を参観しましたが、午後1時からでしたが、眠そうな子いますね。4年生でしたけど。でもタブレットやノートなどを使い、前に出てきて説明したりしているので、まだいいのでしょうね。今の大学生にノートをとらせない授業をやってしまうと、午後の時間は難しいかもしれませんね。

ドキドキ・冷や汗・絵本で涼をとる

2023/06/23

私が「せいが文庫」の本棚でバーコード入力していると「何しているの?」とよく聞かれます。「スマホでね、保育園にある絵本のリストを作ってるんだよ」というと、「ふ〜ん」とよく分かんないけど、生返事をくれます。やってみる?というと即「うん!」。まったく便利な時代なりました。絵本についているバーコードにスマホを掲げるだけで、蔵書ができるアプリがあるのです。保護者の方にアプリのダウンロードから使い方まで手取り足取り教えてもらいました。現在250冊ほどを、この2週間ほどの間に、セッセと登録。時々、何してるの?という子どもには手伝ってもらいました。

そんな時「これ面白いよ」と「これ好き」とか、教えてくれます。たいてい、そこで「読んで」と頼まれることになるのですが、そうか、この子はこれが好きなんだ、とわかって楽しいのです。というわけで、今日の絵本タイムは「子どもたち推し」の4冊。

まずは『えんそくごいっしょに』。泥棒たちが、それとは知らない刑事たちから、一緒に遊ぼうと誘われて、泥棒たちが冷や汗をかきながら付き合わされるというお話なのですが、あの遊びがまた、刑事が得意な「かくれんぼ」や「鬼ごっこ」という設定が面白いのです。すぐに見つかるし、捕まるのです。ドキドキ感が楽しみ、蒸し暑い夏に冷や汗をかきたい時にオススメ?。

こちらは子どもが「それ、怖いよ」と教えてくれた一冊。

屋上の野菜が毎日のように採れています。新鮮なうちに野菜は食べようね。でないと、野菜たちがこんなになったらかわいそう。カボチャの頭の裏側が黒くなっている場面が出てくるのですが、そういうのを見たことあるかなあ?と思って聞いてみたら、何人かから「腐ってるんだよ、それ」「黒いのはカビ」と知ってましたね。お話のラストは、実際にそうしてみるといいんですよね。食べられなくなっても、土に戻るとまた芽が出てくるということを体験してみる。

(最近はそれができないように品種改良された種が増えているので、その比較をやってみるのも面白い)

3冊目の「どろだんご」は、ビー玉のようにピカピカで固いどろだんごをどうやって作るか、子どもたちの「どろんご魂」に火をつけるために役立つ一冊。この本を薦めてくれた男子も、改めて「そうだったのか」という顔つき。こちらも泥水遊びで冷んやり感も。

最後はご存じ「かぐやひめ」。なんとなく知ってる!という子が多いのですが、5人の求婚を退けていくあたりの冒険譚は子どもは飽きるのですが、月に戻っていくときのお別れの場面は見入っていました。七夕がもうすぐですが、月にまつわるお話ではこちらも欠かせない一つでしょうね。

絵本は読んであげると「知ってる〜」と言っていた子たちが、また改めて手にしてめくっていたりする姿も。面白いですね。

養成校の学生が見学に来て

2023/06/22

今日は二つの養成校(専門学校)から学生が見学と保育体験に来ました。学生といっても昨年まで高校生だった1年生もいれば、子どもが4人いるという40代の方も。それぞれ「保育士」を目指して就職先を探しています。最近の傾向として大規模な保育園は避けたい、小規模の方がいいという傾向が見られます。どこがいい保育園かわからない、就職してみないとわからない、だから派遣が選択肢になる人もいます。養成校には卒業生から就職先の情報が入るので、その情報が最も確実なのかもしれません。

ある大手株式会社は保育士を何千人(あるところは4000人だそうです)も抱えているので、一年中、大量の採用と退職が繰り返されているそうです。毎年ある程度の採用者を確保していく必要があるので、内定を出すタイミングが早い。この6月にも来年度の採用者が決まっていく場合もあります。当園のような小さな法人も、今ごろから来年度の採用数を決定していかないと間に合わない時代になっています。保育団体が主催する就職フェアもこの時期。昔は青田買いという言葉がありましたが、あまり聞かなくなりました。4月採用にこだわらないし、どの時期が早い遅いがわからなくなってきた、ということもあるからでしょう。

毎日ように派遣や紹介の会社から電話が入ります。養成校も生き残りをかけて学生の確保と養成と就職に必死です。人口減社会に入ってきた日本。働き手が色々なところで足りなくなると聞きます。保育園もそうなるかもしれません。その前兆はすでに見えています。このテーマが別々に見える事柄がつながって見えてくるのも時間の問題のように感じます。別々の島だったものが、水がひくと山脈だったことに気づくように。

小学校が授業公開し保幼小の先生が語り合う

2023/06/21

やっと実現しました。千代田区教育委員会主催の保・幼・小合同研修会。それぞれの先生が午後1時から45分の公開授業・保育(公立小学校6学年全部と付属幼稚園3学年)を参観したあと、体育館に集まって、その実践報告をきき、グループ協議に参加し、講演(青山学院大学の福元真由美先生)で学びました。私は初めて参加したのですが、毎年行っていた公立のみの幼小合同研修会から、今年度から保育園(公立だけではなく私立も)も加わったことと、グループ協議の時間を持ったことが新しいそうだ。

研修会のテーマは「幼児期の学びとその学びを生かした小学校の学び」。公開された授業と保育のすべての指導案に「10の姿」との関連が記載されている。私が参観したのは年長の「好きな遊び」(制作・鬼ごっこ)、1年生と2年生が合同の「生活科」(なかよし会~学校たんけん~」。遊びや活動のなかに見られる子どもの姿を10の姿でとらえ、そのつながり具合を協議会で語り合った。私も近隣小学校区のグループに参加し、卒園児がいたのでその子どもたちの姿の成長、変化を伝えました。

生活科のなかよし会は、1,2年生で4~5人のグループをつくり、1年生が学校たんけんで発見したことを言葉で伝え、2年生は用意した学校クイズを出して楽しむもの。会を進めるための「これから始めます。いいですか」など、あらかじめ決まったセリフもあれば、タブレットでの見せ合いが始まると2年生が1年生に「こっち向けて」と普段の口調で話している。いわばオフィシャルな会話(二次的会話)と日常会話がこうやって使い分けられていく。状況に応じて言葉を選んでいる。そのような芽生えは保育園のお集まりやお帰りの会などで、同じような区別は始めっている。協議会ではその様子を説明した。

4年生の算数の時間も参観した。いい授業だった。単元は「少数のしくみ」。「水がポットに1.75ℓ、やかんに2.64ℓ入っています。水はあわせて何ℓありますか。この課題を解決するために自力解決と相互交流をやっていたのですが、ノートに書いたものをタブレットで映し、電子黒板に映し出し、それを自分のブレットでもみながら、発表内容を交流しやすいようになっていた。このようにお互いの考えを共有しやすくなっているのか、と感心した。

このような先生同士の話し合いはありがたい。定期的に積み重ねていきたいものだ。架け橋プランを作るための会合ではないが、これでその前段階に入ったといえるだろう。

グーカラ・グー カラ・チョーカラ!表象が繋がっていく契機をデザインするには?

2023/06/20

「グーカラグーカラ」というジャンケンが流行っています。グーで勝ったら「グーカラグーカラ」と言って、次に「チョーカラ」と言ってチョキを出したりする遊びです。バーを出すならパーカラです。あいこになったら先に「水」というと勝ちです。私も懐かしくてやってみたら、先に水と言われて負け続けました。子ども(年長)の方が、まぁ早い早い。

そのことの意味を考えていました。言葉の獲得にまつわる話として。言葉は文脈に即して獲得しやすいという話と、この遊びにようにグリコやしりとりのように、あるいはナンセンスな言葉遊びのように、それは言葉自体の、意味の文脈からちょっと離れた音そのものが主導する意味の世界で、独立的、あるいは自立的な発展みたいなこともあるということを考えていました。

ところが、さっきスマホにメールのアカウントを追加するために、備忘録を見ながらパスワード(記号でもあり言葉でもある)を打ち込んでいる時、突然、そうか!と閃き、この文章を打っています。その操作をしている時、過去にもこれと似たようなことをしていた、その情景が思い出されたのです。それとは違うでしょうが、その記憶の再現というようなことを子どもが毎日やっているのですが、どんな時にそれが再現されるのかという話です。

ちょっとめんどくさい話なのですが、体験したことがこうして、感覚的な、たとえば映像的な記憶、言い換えると状況的な記憶が丸ごと残っているということ自体が面白いと思います。人間の脳(と身体)というのはよくもいろんなことを蓄積しているものだと不思議な気がします。

その時、そうか!と思ったのは、その記憶が思い出されるのは、つまり自分のなから引き出されてくるのは、当たり前なのかもしれませんが、その状況と似た状況の中に置かれた時だ、ということです。状況の相似や類似が、そにれにまつわるあれこれの情報を引き出してくる感覚をリアルに覚えたからです。勝手に向こうからやってくるのです。

子どもは、それと似たことをしょっちゅうやっているのではないか。模倣やごっこ遊びや子ども同士の会話の中で、体験の再現と再構築を繰り返しながら、体験したことを自分なりの文脈の中に位置づけなおし、つまり意味づけながら、広がりと深さを獲得しているのではないか。

まるで子どもの方が「だったらこうもアリだよね」と言葉で言うわけではないのですが、現状以上の何かに進んでいく。自発的に動かしていくようなこと。遊びがはみ出ることや多頭性という特徴を持つのは、子どもが自分の文脈を再現して遊ぶことで、新たに足りないものや空白部分のようなものに無意識に気づき、そこにダアーっと目掛けていくような動きやエネルギーを感じます。そういうことをしているのかもしれない。

そういう風にでも考えないと、あれだけ自発的に活動していくエネルギッシュな姿には、大人が教えて身につくものを遥に超えていくような、あるいは自分達でやりたいんだ、という、場合によっては反抗的とも思えるほど、あるいはルールを破ってでも面白いからやりたいんだという欲求の強さを感じます。いったい、この生命力は、どんな仕掛けから生まれてくるんだろう。思わず遊びたくなる、というその「思わず」の仕掛けのところ。

生まれてすぐの、少ないはずの経験からこんなに爆発的とも言えるほど、どうやって色々なことを取り入れていってしまうのか?赤ちゃんが1歳半ぐらいまでに徐々に大きくなっていくのは、まだ「徐々に」という感じなのですが、それから数年の間に、6歳ぐらいまでの数年間に「もう大人と同じだよね」というぐらいに立派になる感じがします。大抵のことはできますし、話も通じます。たとえば言葉なら5000語ぐらいは獲得しているというのですから、すごいスピードです。幼児期後半ぐらいになると一日10〜15語ぐらいは覚えていくという計算になるそうなので、とても大人は真似できませんよね。

そんなことを考えていたものですから、子どもたちが毎日飽くなく遊び続けながらやっていることについて、私が「そうか、このタイミングの連続がプロセスなのかも!」と思ったのです。体験で得た表象がつながり合って、つまり表象=リレゼンテーションの原義、改めて目の前にあらわにするという再現性が働くタイミングのことです。どんな時に再現されるのか。それは状況が似ている時。そして物や空間などの環境が働きかけてくるとき(アフォーダンス的な)。

それは現実の生活空間でも絵本の世界でも同じ。そこに類似や相似があれば、人間は易々とそこに飛躍できるということ。そう考えると、子ども自身の文脈の多様性を考えた環境は、想像の世界も入ってくることになるのでしょう。仮想の世界と言ってもいいのでしょうけど、子どもたちは、自分の中に、どんな表象の広がりと深さを身体と環境のかかわりとしての「知」として作っていっているでしょう。身体知と環境知というそうです。

それぞれの人がどうやっているのか見えませんが、大人もやっているなあ、と思います。それは「チョーカラ」であいこになって、子どものいう「水」の速さに感心したり、忘れたパスワードを思い出せない時などに私の身体知の衰えは棚に上げて、環境のせいにしながらですけど。それに比べて子どもは、なんとしなやかなんでしょう。たくましいと思います。

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