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保育アーカイブ

すいすいの「こどもかいぎ」

2022/06/20

すいすい組がミーティングを続けています。年長による「こどもかいぎ」です。何かのテーマについて自分の考えや思いを口にしてみる、伝えてみる、受け止めてもらう、そして場合によってはみんなの考えになっていく・・・そんなプロセスを経て、ある物事が決まっていく。年長組という小さな社会での意思決定プロセスにも立派な民主的手続きが芽生えています。

最近、目に見える形で「すいすい殿の10人」が決めたものは、今週の散歩でどこにいくか、何をするか、でした。その結果、すいすい組の今日の戸外活動先は「秋葉原練塀公園」に、先週のうちから決まっていたのです。

週案をこどもたちが決めていく。生活や学びをプランニングしていく試みが、年長さんたちから始まっています。

3〜5歳の部屋は3階ですが、朝のお集まりは2階のダイニングで開かれます。すいすい組の部分的週案をもとに、らんらん(4歳児クラス)、わいわい(3歳児クラス)のこどもたちも、外に行くか室内で過ごすか、考えながら選んでいました。

選ぶときに「行ったことがないから、どんなところか行ってみようかな」とか「あそこに行って、こんなことしてみたい」とか「お部屋で園長ライオンしたい」とか、いろんなプランを思い浮かべていることがわかります。この見通しをもつ、計画を思い描くことが大事です。この「思考」のところが、まさしく非認知的スキルの育成の瞬間なのですが、ポイントは見通しや思い描くための「材料」を、一人ひとりの子どもが持っているか、です。

一度行ったことがあれば、その体験に基づいて「また行ってみたい」「もっとやってみたい」ということになるのですが、やったことのない場所や活動については、選択対象に入ってこないので、自分でこれまでやってきた体験から選ぶことになってしまいます。

そこで新しい体験をこども自身が選ぶことは難しい、という前提に立って、誘う、導く、試すといったことが必要になります。これが教育界でよく使われる言葉「動機づけ」です。私たち保育の中では、子どもに見えるようにすることで、子どもたちが最初から持って生まれてくる好奇心や利他性などに働きかけます。

子どもは本来「新しいもの好き」なので、その新規性の刺激を与えて、触ってみたい!やってみたい!に点火します。手にとってやってみる、行ってみる、試してみる・・その世界を広げていくことが環境を通した保育の動機づけの部分になります。晴れた日に出かける公園をどこにするか。それも子どものが生活を作り上げていく参画になっていくのです。

すいすい組が初めて「しながわ水族館」へ

2022/06/17

本物に触れるというのは、やっぱりいいものです。そばでよく見る、しかも普段はまず見ることができないものの姿をよく見ることができるだけで、いい体験になることを実感しました。

今日17日は、年長組(すいすい組)と一緒に、しながわ水族館へ行ってきました。今の年長さんはここへ行くのは初めてなので、どれもこれも新鮮で楽しかったようです。川や海に棲んでいる、いろいろな生き物を見ることができました。

実際のところ、地上で暮らす私たちは川の中、海の中にそう簡単に生き物を見に行くことはできません。その点、博物館の一つである「水族館」は海と森林に囲まれて暮らす私たち日本人がもっと力を入れていい文化教育施設でしょう。

年長さんは今回が「水族館デビュー」なので、オーソドックスな巡回ルートを回ってきました。この水族館は地上1階、地下2階だて。

1階が「海面フロア」で、玄関から入るとすぐ左手の観覧通路中央にミズナラの巨木が配され「木は森をつくり、森は川をつくり、川は豊かな海をつくる」という本来の自然が再現されています。

東京湾に注ぐ川に住むイワナなどの川魚やカニなどが気持ちよく泳いでいます。3月にきたときはいなかったカルガモも2羽仲良く「水掻き」を見せてくれます。けがをしていた自然のカルガモが保護されたそうです。

海辺や磯にすむ生き物がいかに多様なのか、大人も楽しめる展示になっています。イソギンチャクやクラゲなども展示されています。

奥の方へ移動すると、そこは大人気のイルカとペンギンがいます。3年前に生まれたイルカの「バニラちゃん」は、もうすっかり大人になっているはず。今日は2頭がステージに飛び乗ったり水中に潜ったりを繰り返していました。演技の練習だったのでしょうか? それがバニラだったかどうか分かりませんでしたが、二頭はとても元気そうでした。アクリリボード越しに目の前を通り過ぎるイルカは大迫力です。

イルカショーは時間が変わっていたので、見ることができませんでしたが、この水族館は老朽化で2027年度に建て替えが決まっていて、それを機にイルカはいなくなりますから、それまでにできるだけ見ておきたいと思います。

その隣のエリアには南アフリカに住むマゼランペンギンが群れをなしています。子どもたちが近寄ると、ペンギンたちも餌でももらえると思うからなのか、どっと群がってきます。いつもダラリとしていた(失礼)、ペンギンたちが興奮しているので「どうしてだろう」と思っていたら、すぐにわかりました。ちょうど給餌の時間だったのです。

「丸呑みしているね」「歯がないの?」「もぐもぐしないんだね」「魚の頭から食べているよ」「海の中を飛んでいるみたい」などと会話を楽しみながら、そこでしばらくペンギンたちをみたあとルートを戻り、大海原を上から見下ろすことができる場所へ移動。いろんな種類のタイの仲間やウミガメなどにしばらく目を奪われます。

そして、いよいよ海の中へ、エレベーターで降りて行きます。深海200メートルということになっているのですが、実際は地下1〜2階が「深海フロア」になっています。

30年前にできたとき、海の中に入って魚やウミガメを見ることができる「トンネル水槽」が大きな話題になったそうです。

その後、似たような作りの水族館が増えて珍しくなくなりました。そして、子どもたちは、魚やカメの腹側(はらがわ)や海の底で寝そべっているカメに、窓越しにトントンしたりして、釘付けになっていました。

このような体験をするときに、私たちが忘れてはならないのは、AI時代だからこそ心得ておきたい「五感を通した実体験」、それが「確かな認識」に至るという子育ての鉄則です。疑似体験、追体験でしかないテレビや図鑑で済ませずに、ホンモノを実際に体験することです。きっと子どもたちの体全体に染み込んでいくことでしょう。

【ウミガメ】

【タイ】

【熱帯魚】

【くらげ】

【タコ】

【カワウソ】

子どもにとっての「◯◯の赤ちゃん」

2022/05/31

保育園では幼児が赤ちゃんと触れ合うことができるので、接していると「赤ちゃん」という言葉に、子どもたちの親しみと優しさを感じます。見学に来た方が赤ちゃんを抱えていると、よくそばにやってきて「かわいい〜」と言って、頭を「いい子いい子」と撫でようとしたり、頬をそっと触れたりしようとします。赤ちゃんという存在は、園児たちにとって特別な、大事にしないといけない存在としてあります。

だからでしょうか。「◯◯の赤ちゃん」という言葉は、子どもたちにとって、説得力のあるインパクトを持つようです。それは人間に限らず、動植物に対しても「◯◯の赤ちゃんだよ」と言われると、その「◯◯」は格別の存在であり、特権的に大切にしてあげなければならないという響きさえ感じます。まるで水戸黄門の印籠のようです。

昨年秋、園内に綺麗な鳴き声を響かせてくれたスズムシは、その後卵をうんで、園内で冬を越し、この5月に「赤ちゃん」になりました。お知らせしているように、たくさん生まれたので「ご自宅に持って帰って飼いませんか」というシェア中です。そして一昨日、5月30日(月)の朝、事務所のカウンター棚の上のメダカも卵から「赤ちゃん」になっていました。「メダカが生まれたんだよ」と息を弾ませながら、私に教えてくれる子どもの姿に接すると、なんだか“素敵なことが起きたんだ”、という気持ちが伝わってきます。

メダカは栄養の詰まった袋を抱えて生まれるので、数日間はそのままでも生きていますが、明日あたりから餌が必要になります。金魚などとは、食べられてしまうので一緒には飼えません。別の飼育空間が必要になります。日本では流れのない池やたんぼに生息していますが、だんだんその数は減って、絶滅の危険がある種になっています。それでも、人工的に飼育できる生き物として、夏の涼をを感じさせる日本的な、小さい命ですね。

赤ちゃんにはまだ背ビレも尻ビレもなく尾ビレと一体になっているのですが、1ヶ月もすると、メダカらしい姿になっているでしょう。オスとメスは、お腹の下の方にある尻ビレの形で見分けます。オスは平行四辺形ですが、メスは尾に近いほうがやや細くなっている細長い台形です。流れに逆らって泳ぐ習性があります。昨年、3階の大きな水槽にいたときは、その様子をみることができました。子どもたちは、どんなことに気づき出すのか、楽しみです。

メダカの卵を観察してみると・・

2022/05/25

実感を伴った「からだ全体の体験」が「確かな認識」につながり、その中から「真のことば」が誕生する。最近、私が気にっている考え方です。今日もそれを考える出来事がありました。私の知り合いから、メダカの卵が届いたのです。ビニール袋に水が入っています。説明がないとタダの水だとしか思えないものでした。

しかし、よ〜く見ると、水の中に、小さい透明な丸い粒々があるのがわかります。年長さんたちに絵本を読んであげていたら、ちょっとくたびれたようだったので、気分転換に、卵を見せてあげました。

100均で買ってきた容器に移し替えて、スポイドで吸い上げて小さいシャーレに入れてみてもらいました。でも、あまり面白いと思わなかったようです。それはそうでしょう、動きもしない、ただの小さな粒々です。水槽をすいすいとおよぐメダカなら、みていても楽しいでしょうが、これでは、興味を持ってほしいと思っても、無理があります。

そこで、私のSTEM保育の方法論は、「むしめがね理論」です。虫眼鏡で拡大して見ると、よく見えて面白くなることが多いのですが、それと同じように、色々な感覚を拡大して体験してみる、という方法論です。見るもの、聞くもの、触るもの、匂いのするもの、味のするもの、五感を拡大することで、センスオブワンダー(驚きのセンス、心動かされる感覚)も大きくしようというわけです。お月様も、望遠鏡で見ると、また違った感動があるのと同じです。

そこで、四十倍の拡大レンズをスマホのカメラにつけて、顕微鏡のガラスの上に乗せた水滴を覗いてみると、大きな目玉がはっきりと見えました。また卵の中を、クルリと動くのが見えます。ただ、スマホの覗き窓から見るのでは、よくわからないので、この次は大きなスクリーンなどに映し出し出してみたいと思います。また、まだ動きが乏しいので、もう少し、活発に動き出したら、みてみると面白いでしょう。

それでも、このような観察の面白さは小学校以降の発達段階かなあ、と感じるのは、まだ「からだ全体の体験」になっていない気がします。生き物の神秘、不思議さには届いていません。その面白さを実感できた時に、初めて「確かな認識」と呼べるものになるのでしょう。「メダカの卵」というものから「メダカの赤ちゃん」になると、きっと変わってくることでしょう。色々と試してみたいと思います。

自主研修会で非認知的能力について学び直す

2022/04/22

<・・・他方、様々な研究成果の蓄積によって、乳幼児期における自尊心や自己制御、忍耐力といった社会情動的側面における育ちが、大人になってからの生活に影響を及びすことが明らかとなってきた。これらの知見に基づき、保育所において保育士等や子どもたちと関わる経験やその在り方は、乳幼児期以降も長期にわたって、様々な面で個人ひいては社会全体に大きな影響を与えるものとして、我が国はもとより国際的にもその重要性に対する認識が高まっている。・・・>

この文章は、平成30年3月に出された現行の「保育所保育指針」の「序章」に書かれている文章です。指針や要領は約10年ごとに改定されているのですが、改定する理由は時代が変わって新しい制度ができたり、子育てをめぐる課題が変化したり、それらの「大きな社会問題」に対応するためです。また、ここに紹介した文章のように、保育の質をめぐる学術的な新しい知見が登場し、保育のねらいや方法をよりよく改善していくことが求められるからです。

その一つが、「社会情動的な側面」をどのように育てるか、というテーマになります。この社会情動的能力とは、何かができたり分かったりする認知的な能力ではありません。認知的な学力は、これまでも学校教育が力を入れている教科学習の側面ですが、そうではなく自尊心とか自己制御とか忍耐力といった、非認知的な能力になります。私たち保育者が「生活と遊び」の中で、その教育のねらいとしてきた「心情・意欲・態度」がそれにあたります。このことを、今は「学びに向かう力、人間性等」と呼ぶことになっています。

こんな指針の理解について、何が改定の特徴だったのか、何が求められるようになってきたのかなどを、今日は「自主研究会」という形で改めて学び直しました。使った事例は最近の子どもたちの姿です。こんな「勉強会」を開く目的は、子どもたちが何がどのように成長したのか、何を身につけたのか、それを私たちが読み取る視点の中に、ここで取り上げた「非認知的スキル」の観点もしっかり位置付けたいというわけです。

また、社会情動的な能力や非認知的なスキルの他にも、感じたり、気付いたり、分かったり、できたりする「知識や技能」、それから、それらを使って考えたり、試したり、工夫したり、表現したりする「思考力、判断力、表現力」などもあります。これら3つを合わせて「資質・能力」という言葉で、乳幼児期から高校まで、一貫して捉えることになっています。

この保育園を卒園したら、小学校での学びと生活が始まるわけですが、そこでもずっと、この「3つの資質・能力」の育成が継続されていくのです。この3つの観点で評価されたことが「通信簿」に反映されます。では、小学校以降の学びの中で、生きて働くように、保育園時代にやっておかなければならないことはなんでしょうか。そう考えた時にはっきりするのが、「生きる力」の源になってくる、いわばエンジンのような非認知的スキル、社会情動的スキルの習得ということになってきます。

先日16日(土)の藤森先生の講演では、これからの時代に必要な力は「会話する力」「協力する力」「実行機能」の3つである、という話もあったわけですが、これも大事な非認知的能力に他なりません。そしてこれらの力は、相手や仲間や集団の中で育つものばかりです。家庭では育てたくても、なかなかそういう体験が起きるような人的環境がありません。人間の「人間らしさ」の基礎的な力は、人類が集団の中で獲得してきたものが多いからです。自主研修会では、動画を見ながら話し合ったのですが、私たちが園生活の中で当たり前と思っている人的環境は、今の時代の発達課題を考えると、とても貴重な場になっていることが見えてくるのです。

自尊心、自己制御、忍耐力という言葉で代表される非認知的な力は、現在の研究では11項目に整理されています。これらの力がどんな場面で子どもにとって学ぶ機会になっているのか、それを一つずつご紹介していきたいと思います。そして、この「学びに向かう力」をしっかりと身につけることで、小学校以降の人生が豊かになるように、幸せになるように、していきたいと思います。

思い出の場所をこの仲間で「お別れ遠足」へ

2022/03/25

年長さんの最後のイベントは「お別れ遠足」。今日25日(金)に弁当を持ってバスで出かけたのは、木場公園としながわ水族館です。どちらも年少の時から何度も出かけた場所。木場公園でこの3年間で春夏秋冬、四季折々の自然とふれあいながら、大型遊具で思いっきり体を動かして遊んできたところ。また、しながわ水族館も、イルカの赤ちゃんが生まれた直後から出かけてきた思い出の場所。子どもたちが最後に行きたい場所として選んだのも頷けます。

10児ごろ着いた木場公園では、冒険広場という大型遊具があるエリアで遊びました。

春らしい暖かい日差しの中で、遊び慣れた遊具に向かって一目散。

一通りやると、手を繋いで滑り台を何度も滑ったり、数人が仲間に声を掛け合って鬼ごっこを始めたり、ひび割れた樹木の間に虫を見つけたり、思い思いの遊びを繰り広げています。

遊び疲れると、登り遊具に登って一休み。ちょっと高いので展望を楽しむように話を弾ませていました。

お弁当を持っていく遠足は、気分もルンルンで、木場公園につくなり「お腹減ったあ、早く食べたい」という子もいました。11時30分になった頃、そろそろお弁当にしよう!と声をかけると、遊び込んで満足なのでしょう、すぐに集まってきます。

保育園時代、最後の木場公園ですが、そんな感傷を感じる暇もなく、空腹と手作り弁当が子どもたちをランチタイムに誘ってくれました。美味しそうにおにぎりを頬張っている様子は、わいらんすいのブログをご覧ください。

しながわ水族館に着いたのは13時20分。だいたいどこに何がいるのかを知っているで、それぞれのコーナーをじっくりと観察していました。

今回は午後からだったので、時間もたっぷり2時間もあり、オットセイ、アザラシ、イルカのそれぞれのショーも、ペンギンの食事の様子も観ることができました。

わいわいの頃の水族館の楽しみ方と今日とでは、こんなにも着目するものが違うのか、と成長を感じます。興味のあるものを繰り返し体験することで、いろいろなものがよく見えたりしているのでしょう。それぞれの子どもたちの心の世界の中に入ってみたいと思いました。

「しながわ水族館、さようなら〜、また小学生になったらくるね〜」。そんな言葉が自然と出てくるあたりが、年長さん。なんだか、よくわかっているんだなあ、としみじみ思うのでした。

すいすいさんがホタルの幼虫を放流体験

2022/03/23

今日はホタルの幼虫が好物の巻貝カワニナを食べるところを、私は初めて見ました。貝の殻の中に頭を突っ込んで、消化液を出して溶かして食べるということも教えてもらいました。

しばらく水中で過ごし、やがて地上に這い上ってきて土に潜ります。そして2ヶ月後の5月ごろには、ホタルの成虫になっているそうです。

この生態系なら屋上に作ることができるかもしれないと感じました。成虫になっている頃、今日、連れて行ったすいすい組の子たちは小学生になっているので、GWの頃にまた見に行って欲しいと思いました。

今日のイベントは、一般社団法人 大丸有環境共生型まちづくり推進協会(エコッツェリア協会)が開いたもの。この協会は、今日お会いした同協会プロユーサーの北村真志さんによると「大手町・丸の内・有楽町地区及び周辺地区を中心に、乳幼児等の快適性について、保育施設と調査研究・イベントプログラムを実施している」そうです。

これからの活動に当園も加えてもらうことになりました。その活動の一つに、「大丸有エリアまち育プロジェクト」の活動というものがあって、その一つが今日のイベントです。

【ご案内】ホタル飼育体験プログラム_フライヤー_220322

本来は昨日22日の予定だったのですが、雨のため1日順延され、本日23日(水)になったものです。都会の真ん中でホタル?と思ったのですが、実証実験的なプロジェクトになっていて、生態系に詳しい専門家が説明してくれるので、田舎でホタルがとび交う様子を見てきた私にとっても冒頭のように「初めて」の体験で面白いものでした。

その分野に詳しい方が、クイズ形式のパネルを使って、ホタルについて説明してくださり、子どもたちは現地に着くなり一気にホタルの世界に引き込まれてしまいました。

子ども一人ずつに容器に入った数匹のホタルの幼虫が手渡され、実際に手のひらにのせて触ることができて、子どもたちは満足そう。好物の巻貝カワニナも触って観察です。

その後、人工的に作られたせせらぎへ放流しました。と言っても、大きな細長い水路のような生け簀に、移し替えてあげる感じです。

水が澄んでいるので、底に沈んだ幼虫が歩き始め、さっそくカワニナの中へ入っていく様子を見ることができました。

9時半から10時には終了。その後、千代田小学校の前の公園で40分遊んでから園に戻りました。

「ああ、面白かったあ」との感想がもれてきて、嬉しくなりました。

 

社会見学の下見/柳原通りで「どこでもダンス」

2022/03/21

卒園式に合わせてくれたかのように昨日20日(日)、東京の桜が開花宣言され、近所の桜もきれい咲いています。今日21日(月)は、その桜の下で、贅沢にもプロのバイオリニストとクラリネット奏者の曲にあわせて、ダンスを楽しみました。

また保育園の屋上でも、スケッチ大会を開催。いろいろな人たちと春の訪れをアートで楽しみました。ダンサーの青木さんがプロデュースしている年間プロジェクト「ダンスのある風景」のイベントです。保育園の園児とお母さん4家庭も参加してくださいました。

午前11時から始まったこのプロジェクトですが、楽器の音色に合わせて踊るダンサーの方々の、音楽にあった体の動きを見ていると、体を動かしかくなってくるから面白いです。

つい私も引き込まれてしまいました。そして、商店を出て、保育園の前を通って、歩道橋も渡り、桜の木の下で、気持ちいい青空を胸いっぱいに吸い込んでいたのでした。

海老原商店の中では、お絵描き、かくれんぼ、楽器遊びなどで自由に遊び、また歩道にはチョークでの落書きを、子どもはダイナミックに、大人は、ノスタルジックに心の中のちょっと深いところにある快感を探り当てていたようです。

午後は1時から保育園の屋上が、野外アトリエになり、モデルを囲んだ写生大会が開かれました。

身体というものを耳で受け止めて体に共鳴させるのか、それとも目で受け止めて2次元の真っ白な平面に、そのイメージを投影させるのか。身体のもつ感覚的な世界との対話は、まったく自由。

その自由さに気づきにくいことに気づく時、私たちが縛り付けているものは、私たち自身の思い込みだったりすることにも気づくのでした。

さて、季節が暖かくなってきたこともありますが、東京の蔓延防止対策も終わったので、少し地域で活動しやすくなります。

今週は25日の金曜日に年長児の「お別れ遠足」があるのですが、それとは別に、早速ですが明日22日(火)、都会の中でのちょっとした自然体験をしにいきます。大手町・鎌倉橋の隣にある「エコミュージアム」です。

そこで今日は朝からその場所へ下見に行ってきました。すいすいとホタルの放流を体験します。都会でホタル?さて、どんなことになっているのか、こちらも楽しみです。

 

自立の姿(その10)遊び

2022/03/10

今回で「自立の姿」の短期連載は終わりです。これまで生活の中から、食事、睡眠、排泄、衣服の着脱、清潔、危険回避、身近なものの扱い、あいさつについて「自分でそうなる」ような自立の意味やポイントや述べてきました。最後は、子どもたちの本分ともいえる「遊び」です。遊びの自立というのは、どう考えたらいいのでしょうか。

子どもに好きなようにしていいよ、という状態を与えると、誰に言われなくても、自分からやり出すことがあります。それが遊びです。勾配のある場所に水を垂らすと、水は低い方へ流れます。それと同じように子どもは遊び始めます。私が保育の仕事を始めた四半世紀前、研修で聞いた話が忘れられません。それは幼稚園で「お絵描き遊び」をしていた時の話です。遠足にいった思い出を描いていたそうです。きっと楽しかったことを、それぞれの子どもが絵にしたのでしょう。研修の先生は「実は、このお絵描き遊びは、遊びではありませんでした」というのです。私はどういう意味だろうと思いました。話はこうでした。このお絵描き遊びが終わった子どもが、先生に所にやってきて、こう言ったらしいのです。

「先生、お絵描き終わったから、遊んでいい?」

子どもたちにとって、お絵描き遊びは、遊びではなかったのです。子どもは自分がやっていることが、遊びかどうかをわかっています。遊びというものは、自分でやりたいことをやり始めます。人にやらされることは遊びになりません。

一見、いかにも楽しそうに見えたり、大人から見て、やっている活動に意味のあるものに見えれば見えるほど、大人にとって、それが遊びなのか、そうでないのかの見分けが難しくなるかもしれません。でも見分け方は、簡単なんです。遊びは水が低い方へ流れるように、本当に自然に始まるものなのです。「さあ、これからお絵描きをします」。とって始まるお絵描きは、それをやりたかったならいいのですが、やりたくない子にとっては苦痛なものになります。

遊びの自立とは、まずこの条件が満たされることです。まずは、その遊びが遊びであること、です。

そうでなければ、「遊びもどき」の活動は遊びではないので、自分からやろうという気になりませんし、熱中しませんし、継続しません。基本的に「できればやりたくないなあ」という気分モードなので、やめるきっかけがあれば、さっさとやめます。

それに引き換え、本来の遊びは、自発的なものです。ですから、最近の保育所指針や幼稚園教育要領には、「遊び」と書かずにわざわざ「自発的な遊び」と書いているのです。遊びは本来、自発的なものなのですが、そうでない遊びが混ざり込んできやすいからです。「遊びは自発的なものですよ、大人がさせる遊びは慎んで下さいね」というのが国の方針です。本物の遊びでなければ、子どもは育ちません。本当の学びになりません。必要はものは子どもがやりたがる遊びの中で身につけるのです。その時、遊びの中で何を学んでいるのかを見極める力が、プロの保育士の力です。

これは他の生活の活動では、迷うことはないでしょう。食事は食事ですし、排泄は排泄です。それか食事なのか、排泄なのか、遊びなのか迷うことはないでしょう。ところが遊びの場合は、自然とそうなる傾向を持っているので、寝る時間だから寝せとうと思っても遊びが終わらない、とか、最後まで食べてほしいと思っても遊び食べになる、とか、あるいは手を洗っていたと思ったら水遊びになっていた・・・こんなことの連続ではないでしょうか。

ここではっきりすることがあります。それは、遊びは子どもにとって自然と「始まる」ものであり、自発的なものでなければならず、そうでない遊びは強制的な遊びか、自分で選び始めていない誘導された活動です。したがって、本物の遊びの自立を考えると「お終い」にすることが、課題になってきます。そこで遊びの自立の姿とは、「自分で遊び始め、自分でお終いにできる」ということになります。遊びは終わることが難しいものなのです。そこで自分で遊びをお終いにできる、区切りをつけることができる、一旦やめることができることが、現実的な生活の中では「自立のテーマ」になってくるのです。

そのヒントは次のようなものです。

(1)遊びは中断してもまた「続きができる」ことを納得できるようにすることです。これは発達が未熟なうちはできません。「一旦、おしまいにしてお食事にしよう」ができるようになるのが、これもまた見通し力が育つ満3歳のころなのです。2歳の頃からまた後でできる、という体験を積み重ねることで、それができるようになっていきます。

自分で決めることにこだわる時期に「すぐにやめる」カードと「あと1回」のカード2枚、3枚などを選ぶという方法もあります。選択肢の中で選ぶことで、自分が決めてそれに従いやすくなる時期があるものです。その段階を過ぎると「まだ途中です」とカードや札や目印を自分で置いたり示したりして、一旦おしまい、ができるようになります。

(2)質の高い遊びは、継続性が見られます。1日から2日は当たり前で、1週間ずっと続いたり、1ヶ月2ヶ月と続くことだってあり得ます。このような遊びは、同じような遊びをしているように見えて、実にさまざまな体験が含まれており、それを縦横無尽に使い切っていたりします。このように長い遊びは、一旦区切る、一旦おしまいにするということが何度もできており、遊びが自立していると言えます。

(3)もっと長い遊びがあります。それは実は人生です。私たちは本当に真剣に仕事に打ち込み、何かを成し遂げ、探求したり協力したり、何かを発明したり、社会に貢献したりしながら生きているわけですが、その本質は本物の遊びに似ています。人生にとって遊びの区切りをつけるということは、人生における本当の自由な生き方の選択に似ているなあと、私は思っているのですが、それはまた別の機会に。それはともかく、熱中して遊び込んでいる子どもの姿は、子どもの人生の熱中度を表しています。子どもが本当に生きている時間を過ごすには、本当の遊びを保障することです。そうやって遊ぶことが、その後の生活の基本を作っているのです。

自立の姿(その9)あいさつ

2022/03/09

本来のあいさつというものは、心のこもった言葉が交わされる繋がりを、浮き彫りにしたり、ないと困る心情なのに、本当はそうではないのにあることにするためだったり、あからさまにしないための方便であったりと、人間が編み出したうまい知恵のように思えます。ただ、好ましい挨拶は、それが嬉しくてその気持ちを再確認するような心の働きをもつ場合でしょう。

次のエピソードは、一度話したことがあるのですが、藤森統括園長が誕生日のお祝いに、園児から紙で作った紅白饅頭をもらった時の話です。「わあ、ありがとう」とお礼を言ったそうですが、その園児はしばらくして戻ってきて「あれ、嬉しかった?」ともう一度聴きに来たそうです。「ああ、そりゃ、嬉しかったよ」と藤森先生は答えたそうです。

このエピソードは私にとって、忘れられない、いい話だと思います。私はこのように感じています。その子は、最初に藤森先生に「ありがとう」と言われて、嬉しかったのでしょう。プレゼントはもらったら嬉しいわけですが、この場合「ありがとう」と言われたことが「嬉しかった」のではないでしょうか。ですから、その子は、自分に沸き起こった「嬉しさ」を感じていて、プレゼントをもらった藤森先生にも、その気持ちを確かめたくなった、のではないでしょうか。この心の通いあいを確かめたい、味わいたいという子どもの心の動きが生まれたは、とても大切な体験だと思うのです。

私は次のような話を毎年学生に必ず話します。「ごめんねは魔法の言葉」という話です。どうして「ごめんね」が魔法の言葉かというと、それを言って謝ると「いいよ」って許してもらえるからです。よくないことをしたら、ごめんなさい、と自分の子どもは素直に謝れる子どもになってほしいと、多くの親は願うでしょう。それなので、大人は子どもが悪かったら「ごめんねは?」と謝らせるのでしょう。

しかし、この話の次に、こういうのです。「ごめんは魔法の言葉にしてはいけません」と。悪いことをしたら「ごめんねを言いなさい」と、やり続けると、こんなことが起きかねません。実際にあったことですが、友達が作った積み木を間違えて壊してしまい、その子はすぐに「ごめん」と謝りました。しかし、やられた方はいいよ、と許せません。せっかく作ったものが台無しになったからです。すると「ごめん」が何度も繰り返されて、最後には謝っていた方が「なんで、いいよって言わないんだよ」と怒り出しました。

ごめん、と謝ればいいんだという方法だけが、その子どもには習慣になってしまったのでしょう。呪文のようの唱えることがごめん、という使われ方になったのです。ここで立ち返りたいのは、謝るというのは、本当に「ああ、悪かったなあ」という気持ちがこもっているかどうかが問題なのです。心のこもった「ごめんね」かどうか。それが「許し」を促すからです。これを心の通いあい、というのです。謝罪における心の通わせ方の基本です。これは最初のお礼「ありがとう」にしても、感謝の「ありがとう」にしても、言われた方が、心が温かくなります。

つい今さっき、和泉小学校へ4月に入学する子どもたちを連れて行ったのですが、昼食の時にTHくんから「今日楽しかった、ありがとう」と言われました。卒園した1年生が5人いるのですが、再会できたからです。その子は、その言葉が自然に出てくるようになっているので、素晴らしいと思います。そばで聞いていた千代田小にいく予定の子たちは「えー、いいなあ」と、本当に羨ましいようでした。その一言を聞くと別の機会に連れて行ってあげたいと思ったのでした。

人は人と関わり合うことを本質に持っている生き物です。面白いのは、かかわりあいや、一緒にいることや助け合うこと、心を通わせることをこんなに真剣に求めあう存在なのに、その一方では、一人ひとりが全く異なるものを携えて生きてきたし、生きていく存在だという、この2面性があることです。分かりあうことを真剣に求めていながら、分かり合えないこともあることを認めなければならないような、そんな矛盾した世界の中で、誰もが真剣に生きています。

社会的な生き物でありながら、人間だけがもつ個人の奥深さという、この2面性の中で、その接点を常に確認し合う営みが「あいさつ」なのです。ですから、挨拶というのは、挨拶を必要とする関係から挨拶を必要としない関係まで、実に幅広い人間的繋がりのスペクトラムの帯の中で、それにふさわしい形というものを取ります。挨拶にこれが正解というものはなく、そこに込められた心情や気持ちを大切にする中から、生まれた知恵のようなものでしょう。

出会いの挨拶、別れの挨拶、セレモニーの挨拶、政治家の挨拶、市井の人々の日常の挨拶、いろいろな挨拶というものがありますね。それぞれに意味や歴史や彩りが異なり、それぞれに期待されている役割があります。小さい子どもたちにとって、大切にしたいことは、あくまでも気持ちの通いあいが「嬉しい」と思えるような体験になることです。

毎日、その都度、必要な時に使うもの挨拶です。いま、外遊びから帰ってきた子どもたちが「ただいま〜」と元気な声で<楽しかったあ〜>という気持ちを伝えてくれます。誰もいないのかな、と思っていた場所で「ばあ〜」と私を驚かして喜ぶような朝の挨拶もあります。あるいは「私がここにいるよ、気づいて」というサインのような挨拶もあれば、いつまでも深々と頭を上げずに、そこにはこぼれた涙しか跡に残さないような挨拶もあるでしょう。

あいさつは「こんにちは」「おはようございます」と挨拶することで、私はあなたに心を開いていますよ、身近な人だと思っていますよ、という確認なのでしょう。挨拶をしたい相手や場面や状況に応じて、あいさつが生まれたり、なくなったりします。挨拶というのは、それによって相手との関係が見えてくるものだからです。

その判断は多様な経験の中で、ふさわしい形を編み出した方がいいのですが、学校や町会などが行う「あいさつ運動」という場合の、あいさつは「ここには自然発生的に生まれる挨拶がないので、することにします」と宣言しているように見えます。いかに心を通わせる空気がなくなってしまったのか証明しているように見えます。あれをやってしまうと、挨拶がもつ本来の多様性や歴史や意味あいが漂白されてしまいます。人間関係が希薄になって心を通わせることが難しくなった時代を自ら覆い隠すために行っているということさえ、気づけない鈍感な人間関係を蔓延させてしまうのです。

子育てで大事な挨拶の姿は、大人同士が気持ち良く心を通わせているかどうかです。クレーマーにはきっと挨拶がありません。一方的ですから。大人同士が楽しそうに心を通わせている関係を見ると、その空気の中で子どもは安心して心を許し、素敵な挨拶を示してくれるようになります。やらされている挨拶は痛々しい。そのさせる力がなくなったら、きっとしなくなるものだからです。先にあるのは心と心のつながりなのです。保育はそれを守り、育てる営みです。

 

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