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保育アーカイブ

親子遠足で「屋形船&地域」を楽しむ

2023/05/20

地域の方々と創り上げていく保育。それは日々の保育が最も大事なのですが、ある意味で、今日のような親子遠足もわかりやすい例かもしれません。屋形船から見えた風景はいかがでしたか? 船から見える保育園、すぐそこに見えた神田川の川面、和泉橋や美倉橋の裏側、立ち並ぶ船宿、隅田川の流水の迫力、上部が雲に隠れた東京スカイツリー、隅田川テラス・・・保育園の前の防災船着場から屋形船に乗って浜町公園まで、短い時間ですが、普段と違う景色がおもしろかったですね。

第一便の皆さんには、乗船前にご紹介しましたが、今回の屋形船の行事ができたのは、多くの方のご協力の賜物です。

まずは「ちよだの水辺を魅力ある都市空間に再生する会」(略称:ちよだ水辺のNPO)の理事長、岡田邦男さん。開園当初の親子遠足で、屋形船を手配してくださって依頼の足掛け5年のお付き合い。この会の支援がなければ、一般開放していない防災船着場を使って、乗船することはできません。

https://www.chiyoda-rs.net

船宿は三浦屋さん。ちよだ水辺のNPOの大切な主役です。このイベントもご好意で成り立っています。

その間を取り持ち具体的なイベントプランニングを立ててもらっているのが、スリークロストラベルの堀内さん。旅行企画、とくに観光クルーズのバリエーションが豊富です。

https://www.threextravel.com/about-3

ちよだ水辺のNPOは、神田川、日本橋川、皇居の内堀、千鳥ヶ淵などの「水辺」を綺麗な魅力ある景観にするための特別非営利活動法人で、町会連合会の会長をはじめ、行政、区議会、観光協会など地元のまちづくりの主役が区の条例に基づいて活動しています。その一環に、保育園の行事「親子遠足」も、位置づけさせてもらっているわけです。

防災船着場の前には和泉橋出張所がありますが、ここに移転する前は当園がいまある場所に建っていました。この春から所長に異動された宮原智紀さんも朝から駆けつけてくださり、ご挨拶いただきました。桟橋の前の階段のある空間は、実や「佐久間橋児童遊園」という公園でもあり、園児はいつもここでも遊ばせてもらっています。出張所のすぐ裏、神田川川です。

ここの花壇の花植え(アダプト)が年2回ありますが、ちよだ水辺のNPOが、お茶の水ロータリークラブと佐久間橋一丁目町会と協力して実施しており、当園も参加させてもらっています。花植えは5月と10月の土曜日です、その都度、ご案内しますので、ぜひ親子でご参加ください。

ゆくゆくは浅草や竹橋のような水上バスの乗り場になれば、秋葉原からお台場や、浜離宮あたりまで、保育園の日常の水上バス遠足を実現させたいと思っています。区の条例ができるように、皆さん応援よろしくお願いします。

今回は、このようなルートでしたが、親子遠足は私たちの住む街を知り、住む街への愛着を深めようということを大切にしています。いろんな場所に行ってみましょう。同時にご家族同士の親睦も深めてもらう機会になってもらえたらと実施しました。第3便の到着がお昼頃になってしまいましたが、みんなで輪になってミニレク「ここはせいがのひろば」を楽しんでもらいましたが、いかがだったでしょうか。

気になる場所や団体、応援したい活動など、ぜひご参加ください。どんなテーでも、皆さんの小さな支えが大きな動きになっていく源です。興味があったら気軽にお声掛けください。お互いの関係と世界を「いい感じ」で気持ちよく広げていきましょう。

午後は、晴れ間も増えて、保護者の方が主催した第3回春のピクニックも、のんびりした懇談の時間となってよかったですね。卒園した子どもたちと一緒に遊ぶ姿を見ていると、いろんな意味で「いい感じだなあ」と本当に嬉しく、最後までお邪魔させてもらいました。ありがとうございました。いろん方とおしゃべりができて、楽しかったです。また、ぜひ続けましょう。雨模様の時や乳児の親子には保育園も使ってくださいね。

園長による絵本タイムを設けてもらう

2023/05/19

今年も園長による絵本の読み聞かせタイムを設けてもらいました。子どもと接する時間を持ちたくて、毎週1回金曜日、夕方の時間に、子どもたちに絵本を読んであげます。絵本は子どもがどんな風に受け止めているのかがわかって楽しい。できるだけいろんな種類の絵本を選んで、想像の世界を広げてあげたい。

今日選んだのは、こどものとも「ケロケロきょうだい」。もうすぐ、水遊びの準備を始めるので、7人のカエルが冬眠から覚めて気持ちのいい池を探すお話から。年中向きぐらいの新作。同じく、どろんこの沼を愛するこぶたのお話アーノルド・ローベルの名作「どろんこぶた」。

こちらは1971年学校法人文化学園からの発行。ローベルのこぶりのお話シリーズは、現代に置いてけぼりを食らった感があって、影が薄くなっているけど、お話というもののバリエーションを感じてほしくて。ちっちゃい面白さ、とでもいうのか、子どもによって時々ここが面白いんだ!の発見がたまにある。どろんこぶたをはじめ、絵本は<居場所探し>のモチーフがけっこうある。

3冊目は、日本の昔話から「きつねのおきゃくさま」。このような、ちょっと意外性のある結末に、子どもは「え!」「どうして?」という表情で見入っていた。こういう絵本は、あまり解説をわたしは入れないことにしています。最後は気分を変えて、明るく石井聖岳(きよたか)「かえうた かえうた こいのぼり」。こういう言葉あそびも子どもたちは大好き。ゲラゲラ笑って、おしま〜い!

「社会と共に子どもの睡眠を守る会」で再出発

2023/05/18

当園の園医さん、瀬川小児神経学クリニックの星野恭子医院長から、次のようなお知らせがあります。「子どもの早起きをすすめる会」が、「社会と共に子どもの睡眠を守る会」に7月に変わるそうです。その新しいホームページでの趣旨説明を以下に、またそれを記念して開かれるキックオフイベントの案内も併せて紹介します。

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http://www.hayaoki.jp/


20年前、私が瀬川小児神経学クリニックに勤務始めた時、世界的に著名な瀬川昌也先生が、21時までに寝るように、子どもと保護者に話しているのを聞き、「目が飛び出るほど」驚いたのを覚えています。「そんなことできるわけがない!」と。私が特別に小児科医として無知だったのかも知れません。
そんな私が、子ども達の睡眠の重要性に目覚め、以前から睡眠医療に尽力されていた神山潤先生、鈴木みゆき先生と一緒に2001年「社会と共に子どもの睡眠を守る会」を結成し「子どもの睡眠啓発」を始めました。文科省の「早寝早起き朝ごはん」国民運動が始まり、この20年で、子どもの睡眠の重要性に対する意識は格段に進歩したような印象を持ちます。
「子どもは21時には寝る」に「目が飛び出るほど驚く小児科医」は少ないと思います。今や誰もが専門家のように「子どもの睡眠」を語り、数多の情報が出ています。よく内容をみると、情報源は私達のこともあり、早起きサイトの主旨は浸透したのだな、と実感します。

「子どもの睡眠」は脳神経のみの問題でなく「子ども全てにかかわる」「大人の生活にも深くかかわる」こと、すなわち「大人の社会」の問題にも立ち向かって考えることなのです。

新たな会を立ち上げる理由は3つあります。

1.この約20年間で積み上げてきたエビデンスと培ってきたノウハウを後世に伝えたい、今まで同じ志を持って歩んできた大切な多くの仲間の絆を再度確認し、さらに新しい若い仲間につながりたい。「睡眠」を通して子どもの育ちを真剣に考えるあらゆる分野の先生方、医学、教育、保育、心理、社会学等、そして世代を超えて、時には国を超えて繋がりたい。
2.今子育てをしている世代、今子育てを支援している、子ども達に携わっている先生方に信頼性のある情報を提供したい。私達の会を通して、色々な専門家に出会ってほしい。「睡眠」を通して子どもの育ちの学ぶ機会を提供したい。
3.子ども達の眠りが疎かにされがちな昨今「子どもの眠りを守る」ための「同志」とともに、社会に働きかけたい
どうぞよろしくお願い申し上げます。
(文責 星野恭子)

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キックオフイベント

http://www.hayaoki.jp/event.pdf

STAM教育の芽生え(わらす)

2023/05/17

時が流れるのは早いものです。子どもたちが進級してから、あっというまでした!子どもたちみな、お兄さん、お姉さんになる喜びを噛みしめながら、先月、進級を祝う会から一か月です。

さて、今回は、今注目されている、STAM教育の芽生えを紹介したいと思います!一般的には、STEAMですが…

それはさておき、理工系の教育に力を注ぐことで、現代社会に対応できる人材を育てるこの教育ですが、そもそもSTAM教育とは、単に知識を身につけることを目的としているわけでなく、科学、IT技術といった世界共通の言語を身につけること過程で、自分の興味の方向性を知ったり、発想力を育むことが、この乳幼児教育には大事とされています。子どもの「好き」を育てる。これこそが、昨今話題になっている。

非認知能力の育成とも言えるのではないでしょうか?

幼児教育に欠かせないのが、おもちゃです!!このおもちゃを取り入れて、子どもの好奇心、探求心を助長させていく事が、STAMの芽生えだと思います。

子どものおもちゃとの付き合いの中で、遊び方が個々にあります。保護者の方々も、家庭でこう遊んでほしいのに、こう遊ぶべきなのにと考えた事は、多々あると思います。

しかし、子どもが意図して遊ばない場面に遭遇したことがあるのではないでしょうか??

子どもは遊び方に決まりといったことはなく。自由な発想をもって、時には大人を驚かせることがたくさんあります。

おもちゃは、手先の巧緻性の発達を促したりしてくれる側面もあります。まずは先入観を捨てて、どう、遊ぶのかを見守るのも一つだと考える今日この頃です。

そういう風な場面に出会ったその時が、子どもが主体的に遊んでるいるということにもなるのかとおもいます。

前置きが長くなりましたが、わらすの子どもたちに、私たち大人が理科の授業で使った、おもちゃの、試験管!ビーカー、フラスコ、メスシリンダーのようなものを渡してみました!

(このバケツの水どのくらい入ってるのかな??の実験!小さい、試験管、ビーカーを使って!)

から始まりました!何度も小さいビーカー、試験管を使って、バケツの水からすくっていきます!

ここで、こんな声が!このバケツ一杯にたまるのはどのくらいなんだろ??小さい入れ物感覚で使っていただろう物に対して、この表現から読み取れるものは、「mathematics」数学的表現です。体積。何杯いれたらたくさんになるのだろうということですね。乳幼児教育では、この好奇心、探求心がSTAMと言えます。幾何学の部分にも通じてくるのではないでしょうか?次に…

(たくさんの物をいれている理由とは?)

水の浮力です!科学ですね!なんで、これは水に浮くのにこれは浮かないのだろう??この疑問が子どもの気づきで、乳幼児教育のSTAMに至って大事な要素だと思います!

このとき子どもたちから、このような表現が、先生!!これ使っていい??ままごとに使っている、スプーン等色んな物を持ってきます!

正直、保育者からしたら、あーあーという場面でもありましたが、子どものやりたいを尊重していきます。何が、水に浮くのだろう??ちなみに積み木、鋳型ブロックも浮かべてみました(笑)

積み木は浮かない。鋳型は浮く。スプーンも浮く!これも、これも!とたくさんのアイテムをもってきます!興味、関心が凄いです…

子どもの心を育むおもちゃとの付き合い方を、STAMを通して感じた時間になりました!

好奇心が物凄く、さまざまな体験をする事が、非常に重要で、色んな物に対しての世界を知るきっかけになるのも、乳幼児教育の醍醐味なのだと感じさせてもらった一瞬でした!

補足で、幼児クラスだからということではありません。私が一歳児の散歩にいった場面です。この時に子どもたちが行った行動が、、、

(保育園周辺散歩において、近くのホテルの駐車場に向けて声をあげる)

普段歩いている、散歩道。保護者の方もたくさんの地域を歩いていると思います。その一場面です。ホテルの前を通りかかりました。その時です!子どもたちが、いっせいに「あーあー」と叫びました!そうすると、音の反響ですね!声が壁にぶつかり音が反射した現象なのでしょうか。大人ならわかる事象ですが、こういう小さな所からも、学んでいます!!

これからも、子どもの好奇心を駆り立てるような日々の保育を模索していきたいと思います!!

小さなアーティストたち~表現の前の居場所をめぐって~

2023/05/04

この時期は、新しく入園した子どもたちが慣れてきたかな、と考えることが多い。親御さんもそうですよね。すっかり先生たちに抱かれて「あっち」とか「これは?」とか周囲に目を向けて世界を広げている赤ちゃんたち。私を目を合わせるとにっこりして手足を動かしてくれる子も。乳児にかぎらず幼児の子たちも、友達と一緒に遊ぶのが楽しそうです。

わたしたちはよく、慣れていく話の中に、そこが子どもにとっての「居場所になる」という言い方をよくします。居場所になるといういい方は、ちょっと大事なニュアンスを含んでいるように感じます。人によっては「居場所づくり」のような、何かスローガン的な使われ方をすることもありますし、そうなっていなことがとても大事なものを失っていることを示しているようです。

子どもたちが園生活に慣れていくこと、馴染んでいくことと、その子たちにとっての居場所になることとは同じなのでしょうか。違うのでしょうか? 居場所になる場というものは、空間とはちがうのでしょうか?物が置かれている空間やスペースとはどうちがうのでしょうか?

このGW期間に帰省されている方も多いでしょう。そこはご自身やご家族にとって故郷だったり生まれ育った場所だったりするかもしれませんね。懐かしさというものはその場所に行けば、あるいは思い浮かべるだけですぐに感じるなにかですよね。それほど私たち一人ひとりにとって、ある場所とそうでない場所は、はっきりと異なりますよね。物理的に見れば同じ空間であっても、人によって意味が違ってきます。

それと同じ連想で家庭と保育園の空間が、それぞれ愛着ある場所になっていくとき、好きな場所にかわっていくとき、そこがその子どもにとっての居場所になっていくのかもしれません。昨日の画家もそうですが、その画家にかぎらず多くの芸術家は、活動の拠点を探して変えています。モネなどはセーヌ川の水を引き込んだ池まで作りました。その池にかかる太鼓橋は、日本の浮世絵にでてくる風景からの影響だといわれています。

私が20代の頃、あるレストランを一緒に取材したカメラマンは店主に「ベストシナリーはどこか?」と必ず聞いていました。カメラマンからの風景と、店からの「ここです」は、たいてい一致しました。そしてそこに座る客にとっても、そこからの眺めが心地よいこととも通じていました。限られた雑誌のページに、店の特徴や店内の雰囲気をもっともよく表す一枚と料理を撮影するのに相当の時間を要しました。

保育園ができたとき、設計した建築家は、2階のガラス窓から外の風景を展望できる一角が、「子どもにとって、ここが人気の場所になるはず」と言っていました。確かにそこは、ここに子どもは基地づくりはおうちごっこをしたがる場所です。狭いこと、隅っこであることもありますが、景色を含めた「居心地のよさ」というものは、子どもに多くの意味を伝えているのでしょう。

ギリシャ語で「場」のことをトポスといい、物の本によると、その言葉の使われ方は、記憶などの何かを喚起させる場所のことで「いつでも使える何かが埋まっている可能的なプレイス」という説明がされていることもあります。私はアキハバラ近くの万世橋を歩くと、ある夏のシーンをリアルに思い出すことがあります。不思議なことですが、そこを歩きながら聞いていたポッドキャストの内容や音楽まで蘇ります。いつもとは限りません。ある情感とセットでよみがえる、ある種の質感(クオリア)です。

それとはちょっと違うのですが、安定的に定着している子どもの頃の思い出は、トピックスになって場面として映像的に記憶されています。こちらは大人になってから、本当にそうなのか怪しいものだと疑いながらの思い出です、というのも聞かされた話と混ざってしまっているからです。

この思い出したり、意味に気づいたりすることを駆動させているものを、ちゃんと調べたり考え抜かれてきた哲学的な歴史があること(アリストテレスから現代に至るまでの思考方法の開拓者たちによる)に気づき、それは修辞学的には「トピカ」と呼ばれてきたもので、場(トポス)に働きかけて引き出す働きを担っているという。そういう見方ができるのなら、トポスとトピカの相互共役的に働くありかたは、芸術家が場所からインスピレーションを得ているありかたとそっくりだと思います。

その働きかけをアルス(アートと言われる元の言葉)といってきたのだから、子どもが無自覚に突き動かされているのかもしれない遊びのなかにあるものも、芸術家が場所をかえて作品を創り出そうとしていることと、同じような何かかもしれませんね。子どもの姿を捉えて「小さな科学者」ということがありますが、室内をうろうろしたり、遠くを眺めてぼ~っとしているときにも「小さなアーティスト」たちが活動しているのかもしれません。そんなときは、大事なアルス・コンビナトリア(と、いうらしい。アート的な表象の結合術ということ)の最中かもしれませんよ。

線と色の葛藤のはてに

2023/05/03

多くの人が自分の時間に新しい意味を見出したいと思っているんじゃないだろうか。どうして休みになると出かけたがるのだろう。家にいるのがつまらないわけでもないだろうけど、新しいことをしたがるようにみえる。人々を動かしているそのエネルギーは植物の繁殖力とはちがう。人間の自由に関わる精神的な運動の在り方だろうか。

そこには、それは大人らしい好奇心と、プラスアルファの何かは人によって異なるものがありそう。私は家族と都内の美術館に出掛けてみた。有名なフランス人の画家の大規模な展示会で、新しい発見があって面白かった。芸術家もまた比類なき探求者で、その変化は絵画の時代的革新に関する要請に自覚的な、じつに敏感な意識的な変化であり、印象派が臨んでいたデッサンと色の葛藤を彼もまた抱えていた。線と色。実際に没頭して試みて、離れていく。筆色分割も散々やってみた挙句に次へと。

その変遷がよくわかる展示になっていて興味深いものだった。彼は大きな転換点には彫像に取り組んでいる。スタイルが変わるのは探し求めている自分に合った表現方法をみつけるためだということがよくわかった。デッサンという組本に同じテーマで異なるバリエーションをいくつも描いている。そこから何かをつかみ取ろうとしている。いくつもいくつもやってみて、そこから得る次の展開へ。この順番。そして体が不自由になると切絵にたどり着く。へえ~!コラージュなんだ。私はびっくりした。彼は色そのものを自由に扱える感覚があったそうで、そこに自己と表現が一致していくものを感じ取ったらしい。ああ、これも愛と知の循環だ。

こうやって、いつも思うのは芸術は繰り返し楽しむことができるということ。そこに立ち戻ることが目的と手段に分離しないこと。子どもの遊びに似ているように思う。そこにある創造と休息は命のリズムそのものであって、仕事と休暇ではない。そんな風な時間がいいなと思いながら、疲れてロビーのソファーにしばし座った。そうか、リフレクションは子どももやっている。振り返りはお集まりの時間じゃなくてもいいし、ソファーにごろごろしながら、大事なことを思い出したりしている。堀真一郎さんも同じことを言っていたことを思い出した。教室にはソファも必要だ。

絵が人の肘掛け椅子のようなものであったらという(先の世界大戦中の中での話ですが)、こんな探求もあると思うと、人間のやっていることが、他人のことなのに、なんだか人生がいとおしくなってくる。

「怖いけど、やりたい!」を助けてあげる子どもたち

2023/05/02

さてさて、今日を振り返ってみると、子どもの数は、GWのはざまの平日なので、昨日と同じく普段の3分の2ぐらい。比較的のんびりと過ごしました。5月に新しく入園したお友達に遊び方を教えてあげたり、絵を描くのも室内と屋上を行き来して使い分けたり、先生と一緒に食べる食事のときに、みんなで同じ話題を楽しんだり・・・ちょっと人数が減るだけで生活の流れ方がこうも違うものかと思う場面もありました。

子どもは友達になる名人です。昨日から園に来始めた年中の女の子。登園初日から数人の女な子たちと一緒にドレスに着飾って、ごっこ遊びを楽しんでいます。人形の赤ちゃんをベビーカーに乗せて、室内をお散歩です。ときどき、ソファのある絵本ゾーンにきて、赤ちゃんと一緒に寝転がり、くつろいでいます。

今日は幼児のクラスブログにあるように、運動ゾーンで微笑ましい子どもの助け合い、というか協力し合う場面がありました。ちょっと紹介します。

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今日の運動ゾーンでのエピソードです。
この5月からの新しいお友だち、らんらん組のKちゃんが、ネットの遊具に挑戦してみたい!と やってきました。

少し、足をかけて登ってみるけれど、まだロープがゆらゆら揺れるのが怖いみたい…。
「こわい〜〜」と半泣きになりながらも、降りるのはイヤ!と、挑戦してみたい気持ちはあるようです。諦めずにチャレンジするKちゃんです。

はじめのうちは、まわりにいたお友だちもおかまいなくネットによじ登ったり、となりのブランコに乗ったりして遊んでいたのですが…
ふとJくんが、「Kちゃん、揺れると怖いんだって!だから、みんな乗らないで!」と、Kちゃんのことを下から支えながらまわりのみんなに伝え始めました。

すると、そこから少しずつ、一緒に遊んでいたHちゃん やMくん も、 Kちゃんのためにロープが揺れないよう押さえたり、怖くないように下に立って支えようとしてあげたり、協力しながらのお手伝いが始まりました。

Jくんを筆頭に、「じゃあ、こっちを押さえといたら良いんじゃない!?」と案を出したり、あとから何も知らずにやってきたお友だちに「Kちゃん 揺れるのイヤだから、いま(ネットに)乗っちゃダメ〜!」と伝えたり…。
そして、後半から加わったRちゃんも 一緒にお手伝い。

↑赤い玉が揺れるとネットも揺れてしまうと気がついた子どもたち。みんなで押さえています!

頼もしいチームワークのわらすさんでした。

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人間は「人への関心」や「利他性を持って生まれてくる」と言われます。協力することがヒトの特性だという説もあります。そう考えれは子ども同士がすぐに仲良くなったり、協力しあったりするのも当然といえば当然かもしれません。それでも、他人が困っていたら助けようとする心が動き出すのは、子ども同士の中に気持ちの通い合いがあることや、その遊びの面白さを知っているからこそ、Kちゃんの「怖いけどやりたい」気持ちが分かる、という同じ体験に基づく共有された心情もあるからでしょう。そういう要素が重なり合って「わかった、そうだよね」が受け入れられて、伝播していったと言えるのかもしれません。

優しさや思いやり、お友達が喜ぶことが嬉しい、困っていたら助けてあげたいという心情の育ち。それは確かにその子の「資質・能力」としての育ちになっていってほしいものなのですが、このような姿を生む要因を個人の資質・能力だけに限定した見方をせず、やりたいと思うネットという遊具(もの)や、お友達(人)などの存在(環境)が影響しています。その場に創発している、とも言えるのでしょう。

さらにこのことを、幼児教育の「見方・考え方」から捉えると、Kちゃんはネットでの遊び方、つまり環境との関わり方と、こうしたらこうなるという意味に気づき、それを自分に取り入れようとして試行錯誤しながら、どうやったら上手く登れるようになるのかを、自分の身体と会話しながら、思い巡らしているように見えます。自分と物と人との関わりが同時に起きているわけで、身体的、精神的、社会的な関わりが、乳児に限らず生じています。

もちろん同時に、そこにお友達も助け合う過程で、助け方や声のかけ合い方などの関わり方や意味に気づき、それぞれがそれを学び取っていきます。行動の起点は困っているKちゃんへのJ くんの気づきと共感から始まったことですが、それが力強く広がっていった事実の中に、人が世界に関わっていく力強さの芽生えさえ感じます。

気づいてできるように「なっていき」、その手応えとしての世界の変化を感じとりながら、新しく遊びに加わってくるお友達に「〜なんだよ」と教えたりして協力を求めたり「しようとしています」。ここには、共感や見通す力などの非認知的なものを合わさって、考えることも判断することも表現することも含まれています。

より善いことをしようとしていると信じており、また、お互いの自由を認めながら、共にそれが実現できるようにすること、つまり公正さ(ジャスティス=正義)を実現させようとしているようにも見えます。これをきっと、よりよい社会をつくり出すための、学びに向かう力、人間性の陶冶と呼んでいいのかもしれません。こうした小さな積み重ねが大きな変化を生み出していくのではないでしょうか。

 

AIが回答した「見守る保育とは?」

2023/05/01

(園だより5月号 巻頭言より)

生成型の人工知能(AI)の一つ、chatGPTをよく使っています。どのようなものか、実際に使ってみようと思って始めたら、私にとっては、すぐに手放せなくなりそうなくらい便利なツールになっています。例えば次のように尋ねてみます。「藤森平司が唱えている見守る保育とはなんですか?」すると次のように回答してきました。

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見守る保育とは、保育者が子どもたちを徹底的に観察し、子どもたちの個性や特性を理解した上で、必要に応じて手を差し伸べることで、子どもたちの自主性や自己表現力、思考力などを育む保育の方法です。

従来の保育は、どちらかというと保育者が主体的に子どもたちに指導を行うことが多といわれ、子どもたちはそれに従うことが求められていました。しかし、見守る保育では、子どもたちの興味や関心に合わせて保育内容を調整し、子どもたちが自ら学ぶ力を育むことを目的としています。

また、見守る保育では、子どもたちの成長過程を共有することが重要視されており、保護者とのコミュニケーションも密に行われます。保育者は、子どもたちの成長について保護者と共に考え、協力してこどもたちを育てることが求められます。

・・・・・・

どうでしょうか。よくこんなに平気でわかったような断定ができるものだと感心します。ネット上にある情報を集めて瞬時に回答するのですから、大したものです。藤森先生も同じことをやって「下手な解説よりも、よっぽどいいんじゃない?」と、新宿せいが子ども園だよりにも、A Iの解説を載せて、本人が間違いないと言っているから、正しいです、とユーモアたっぷりに紹介したそうです。

一方で、使っていくと、このチャットの限界もわかります。回答について、さらに詳しく問い質していくと、行き詰まりが露呈します。例えば見守る保育と要領・指針との違いを聞くと、方法でアプローチが異なることがある、というので、さらにそれは具体的に何が違うかと問うと、最初の回答の言い方を変えたものに、いくつかの要素を新たに加えてきました。それはどこでもありうる保育方法でした。自信ありげに平気で嘘もつくのです。この辺りから、知らない世界のことだと、私も騙されるかもしれないと思いました。

こう言う意味での精度は、ユーザが使うほどデータ量も増え技術もあっというまに、どんどん進化していくでしょうから解決されていくのでしょう。人間が言葉や映像や記号や音など、デジタル化されうる表象は全てAIの独壇場となるのかもしれません。しかし、もちろん人間の物理的な身体性に由来するものはAIそのものでは代替できないでしょうが、倫理的問題は別にすれば、人工人体などとの融合技術は進むでしょう。それでも人間の内部で起きている事実と人間性の関係にどんな影響を与えていくのか、専門家はきっと、そこの周辺を真剣に議論していることでしょう。

ワールド・クラスルームヘようこそ

2023/04/29

ちょうど子どもの「言葉の獲得」について調べていたので、冒頭の展示から引き込まれた。本物のジャベルの左側に写真のシャベルが並び、右側には辞書のシャベルの定義が文章で書いてある。この3つが合わせて一つに作品になっている。

まさしく三項関係である。これがアートになっているのは、作者のジョセフ・スコースがアートの本質をコンセプトにあると考えているからだ。この3つの要素はどれも表象だが、そのどれ一つを欠いても、アートにならないとスコースは考えた。展示の解説も図録もそこまでしか書いてない。しかし次のようなことを考えると、保育がアートになる境目というか、関係性によって3つの要素が明らかな者にとって、それは作品となるだろう。以下はこの展示のスコー スの発想からインスパイアされた私のアート論である。

どんなアート作品でもいい、その作品Aが何かBを表しているとしよう。宗教画でも歴史画でも人物画でも風景画でもなんでもいい。これは絵画に限らない。彫刻でも建築でもなんでもよい。小説でも俳句でも映画でも音楽でもなんでも。物象化しているものならなんでもいい。どんな現代アートも含まれる。その時なんらかの説明に相当するCがあるから、アートはアートたりうるのだとスコースは考えたに違いない。

もし作品Aが、誰がみてもそれとわかるシャベルじゃなくて、「無題」と題した何かの物体だとしよう。それでも、人によってはそこに何かを表象してしまう。つまりBがそこに存在してしまう。AとBの間の関係性はCが補完するとき、その時にAはアートになるのだ。なんでもないものがCの説明つまりコンセプトの生成がアートの条件ということになるだろう。それなら保育の風景の中に、それは無限に存在することになる。それは一見するに、アートらしいという私たちの概念とは全く異なるものだ。それらしいものに描かれたものが作品で、そうではないものが無視されてしまうだろう。私がみている風景の美しいと感じたものを写真にとりインスタにアップしているものも作品である。

極端なことを言えば、赤ちゃん自身がぼんやりとした風景の中に、母親の笑顔を見つけた瞬間の映像を、そのまま物象化することができれば、それもまた作品である。赤ちゃん本人にその意思がない限り、アート宣言はできないだろうが、保育者がその関係の中にコンセプトDを持ち込み、それがコンセプトC の代理であるといった展開なら可能なのかもしれない。保育では実際にそういうことをやっているのではないか? 子どもの描いたものは大人が描いたものよりもアート性があるとか、なんとか。

ということは、同じ風景であっても見る人によってそれは作品となりうるAとBの関係にCのコンセプトを意識できるかどうかにかかってくるということになるのだが、こういうことはすでにどこかできっと論じられていることだろう。なぜなら、このコンセプチャルアートは1960年代からあるものだから。それでも私はもっと深掘りしてみたいと思う。

ワールド・クラスルームは、こんな調子で国語・算数・理科・社会と続く。写真は理科のナフタリンで作った靴。展示ケースの中で揮発して再結晶化したもの。靴が再結晶していく過程がアートになっている。なんと美しい理科実験だろう。

環境との関わり方や意味に気づいていくプロセス

2023/04/24

私がぶらぶらと園の中を歩き回っていると「これからお店やさん、やるの!。これから準備するの」と2歳児クラスの女子二人が私にそう言って遊び始めました。「〜やるの!」のところで両足でピョンと飛び跳ねながら、抱きかかえたぬいぐるみを振り回しながら、足取りも軽やかにルンルンしています。自分がこれから始めることをそう言って始めるのは、それが楽しいことで、それを人に伝えたいコトになっているからでしょう。そこに気を許せる親しい人(私)が来たから、またそれはすでに知っている担任に言うのではなく、今ここに現れた私にいうのは漠然と「この人はそれを知らないだろうから」と意識したか、しないかはわかりませんが、とにかく私に教えてくれたのです。

子どもが言葉を獲得していく過程には、自分が伝えたいことがあって、それを親しい人や好きな人、特定の大人に伝えようとして、表現し始めるのでしょう。その時、私が現れなかったら「これからお店やさん、やるの!。これから準備するの」という言葉は発せられなかったかもしれません。彼女たちの表現にとって、私はそれを引き出すきっかけになったとわけです。私が現れただけで、彼女たちにとっての環境は変化し、言葉を引き出すリソース(資源)として働いた、と見ることもできるのでしょう。その子がそう言った時、多分あまり意識しているとは思えないので、無意識的なメカニズムが働いているように見えます。

そのような人と人、人ともの関係やかかわりに焦点を当てながら、その時のことを振り返ると、どうしてそういうことが起きたのかな、ということの理解の仕方が、変化することを実感できます。本人の特性にだけ還元して「気になること」をその子どもの原因として語るようなことではなく、そこで創発したことの複雑な要因のネットワークに視線を凝らすようなことが必要だと思えてきます。

人やものからその子どもに届く情報は、子どもにとってそれ見るだけで伝わってしまう意味が色々あって、それがその子どもの認識の変化を引き起こして、あることが気づかれたり、わかったり、できたりするように見えてきます。またそうやって発した言葉を聞いた私が「そう、お店屋さんやるの、いいね、何屋さんになるんだろうねえ」などと応えるものですから、より嬉しく思え、また楽しくなったりして、子どもが思ったことの注意の向かう仕方に影響を与えます。昨日までの話の続きに戻るなら、環境との関わり方や意味に気づいていくプロセスの一コマのようでもあります。

その子たちの遊びは、その後、延々と展開されていきました。このようにちょっとした「一コマ」をあえて虫眼鏡で拡大するかのように取り出しているのは、環境と子どもの間に起きている相互作用と言われているものの姿をよく理解し直したいからです。なぜなら、子どもにとっての経験のあり方をどう捉えるのかということについて、私たちの方が見方を変える必要性を感じているからでもあります。それは無藤隆先生の導きが大きいのですが、併せていま私が面白がっているのは佐々木正人さんの説明しているアフォーダンスと、鈴木宏昭さんの認知科学の知見、そして戸田山和久さんの知識論になります。

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