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保育アーカイブ

自立の姿(その8)身近なものの扱い

2022/03/08

「身近なものの扱い」の自立の姿は「社会の変化で変わる生活スキルの基礎を模倣を通じて学ぶこと」ということになります。

ちょっとだけ、人間と環境の関係の本質について説明しておきます。

人間は周りの環境世界から、自分にとって気に入るもの、自分を惹きつけるもの、有用なものを取り入れようとします。世界は自分にとってどうあるのかこそ、生存を左右しかねないテーマになるからです。そういう意味では、発達というのは、子どもが事物を見たり触ったりしながら、自分にとって気に入った心地よいもの、有用なものを引き寄せながら、自分の生活圏の中に「あるもの」を取り込んでいくことでもあります。

事物は子どもにとって、どのような姿を見せてくれるのでしょうか。それを探り当てながら、その事物そのものが伝えてくるものを、子どもは受け取っています。心地よいこと自体に意味があるのではなく、それを与えるにふさわしい性格がその事物に備わっていると言う事が大事なのです。

また、身の回りの「もの」のそれぞれについて、子どもはその用途や目的を理解することで、その扱い方を覚えます。その用途の目的と「もの」の概念はセットです。例えば、ここにコップがあります。初めてコップを見た子どもは、その用途をまだ知りませんから、触って倒したり、持って口に持っていって舐めたり、場合によっては手を離して落としたり、転がしたり、半ば偶然に任せていろんなことをします。毎日の生活の中でそれにお茶やミルクが注がれて、飲むという場面でコップが現れるので、それを口へ持っていって傾けて飲むものであることを認識するようになっていきます。また使われるたびに、「はいコップどうぞ」だとか「コップはこっちね」など、繰り返し聞こえてくるコップのところが、どうも「コップ」というものらしいと気づき始めます。言葉の獲得も「もの」の扱いを促します。

子どもはいつもの使われ方と意味される概念を結びつけて自分のものとします。こうして子どもは教えてもらわなくても、見る力、聞く力で、その対象のものの扱いを習得していくのです。そうではければ、身の回りの物の扱い方を、まるで自動車教習所で車の運転を学ぶかのように、いちいち一つずつ教えなければならないことになります。以上をまとめると、子どもは世界から意味のある対象を選び取るのですが、そこには他の人が使っている意図と方法をセットで模倣し、自分のものにしていきます。

このイミテーション学習を、ざっくりと「模倣」と呼びます。真似ることが学ぶことになっていきます。その中にものの扱いも含まれるのですが、人間は手順を覚えるというよりは、その目的を先に理解してしまうので、その目的に適った方法を自分で編み出します。前置きが随分と長くなりましたが、この物の扱い方は、そのものの用途にあった扱い方をモデルを通じて身につけていくので、上手な扱い方を見せることが、上手な扱い方を真似するようになります。実は挨拶も同じ原理なのですが、それは次回の最終回で説明します。

さて、本題に戻りましょう。生活上のものの扱いというと、衣食住の中に見られるものは全てです。衣類と食事はお話ししましたが、住むということの中には、居住空間の中にあるものですが、現代はかなり電化製品が代わりをしてくれるようになり、昔は子どもの頃から習得する必要のあった掃除や洗濯、裁縫、水汲みや灯り、火を起こしたり灯りを灯したりといったことも、生活技術の中から消えてしまいました。家庭生活の中に残っているものの扱いは、どんな取扱説明書があるかが象徴的です。

当園では、あえて昔からある生活技術の中から、ほうきとちり取り、雑巾掛け、モップなどの掃除スキルは体験しています。お米とぎや野菜の栽培、金魚や生き物への餌やり、生花なども生活の中のスキルです。現代は学問優先の学校教育になってしまいましたが、高等教育を受けても、現代社会を生きるための生活技術がすっぽりと抜け落ちているので、恋愛や子育て、経済や保険など、すぐに必要な基礎スキルを持たずに社会に放り出されている若者が多い気がして、とても気の毒です。やっと英語やプログラミングや金融を学校で学べるようになりましたが、教える先生が足りないという状況です。

こんなにあからさまに抜け抜けと戦争が勃発する社会を突きつけられると、きちんと政治と平和を教える国際的カリキュラムが不可欠なようです。核やロケットや武器を身近なものとして、大人もその扱い方を1から学び直してもらう必要があるようです。

 

 

自立の姿(その7)危険回避力

2022/03/07

危険を回避する力は、生きていく上で、どうしても必要な基本スキルです。どこで何をどうしたら危ないのか? 何をやってよく、何をしたら危ないのか?この判断力と行動力は、どうやったら身につくのか?ーーここに大きな保育のテーマがあります。この危険回避力の自立の姿は、どういうものでしょう?

 

「さまざまな状況の中で、自ら安全な生活をを作り出す力を身につけること」

これがリスクを回避できる自立の姿です。ここでのポイントは、リスク判断なのです。どうやったら、こうしたら危ないと予想して予め回避できるようになるでしょう。自立にはその発達の過程があります。赤ちゃんの頃からここでできる、年長さんになったらここまでできる、そんな身体的、精神的な発達の段階があります。

発達というのは自分で関われる世界、自分の中に取り込める世界が「広がっていく過程」だとも言えます。そばにある物が触ってもいい物なのかどうかは、大人でも分かりません。山菜取りで食べていいキノコと毒キノコの違いは、体験で学ぶことは危ないことになります。人間にはその判断力は本能や遺伝の中に組み込まれていないからです。しかし山に棲む熊は、その差を間違うことはありません。それを破断できる感覚の器官を持っているからです。

手に取って口に持っていって、舐めて確かめる赤ちゃんにとって、その物に毒や病原体がついているかどうかは判断できません。目に見えないもの、匂いで判断できないもの、音を聞いて区別できるもの、そういうものは、外界を捉える感覚器の感度や力によって異なるからです。

子どものことを話しているので、人間の感覚の感度と判断力の限界を知っておけば、学ばなくても自分で判断できる危険と学習すべき危険を分けることができます。研究によると、人の場合は学習しないと判断できないことの方が多いそうです。これは能力が劣っているということではなく、環境への適応力を高めるために、つまり環境が変わっても生きていけるように柔軟に適応できる仕組みを持っていると、言い換えることができます。動物の本能は学びが少なくても適応できますが、個体の一生の間に変わってしまう環境へのリスク回避はできません。レジ袋を海藻と間違えて食べてしまうウミガメのように。

寝返りもできない頃の赤ちゃんを坂道に寝せると転がってしまいます。自分で回避できません。しかし、はいはいができるぐらいになった赤ちゃんは、断崖の前に座らせると、それ以上進むことを躊躇するそうです。これ以上やっていいの?という警戒心が育っていることになります。9ヶ月ごろをすぎると、周りの人は「意図」を持っていることを理解できるようになるので、「ここ、どうなのよ、行ってもいいの?」と大人の表情から、いい、悪いのサインを読み取るようになっていきます。社会的なサインを参照しようとし出すのです。

複雑なものや場所になると、もっと詳しく「どうやったら安全か」を学ぶ必要があります。これは体験の積み重ねからの学習がものをいうので、小さいことから危険回避の学習機会を多く用意しておく必要があります。この考え方に基づいて、ヨーロッパの「乳児の」多くの保育園では、芝生にした園庭にわざわざ大きな岩を置き、アスファルトで舗装した歩道をあえて土と石の歩道に作り替え、あえて段差を設けています。なんでも滑らかにしてしまうユニバーサルデザインとは異なる発想です。

階段は手すりを持つことで転びにくくなること、花瓶は倒れたら水がこぼれること、お茶碗は落とすと割れること、高いところから落ちると勢いがつくこと、器の水はそっと運ばないとこぼすこと、人の体は転ぶときに咄嗟に手で支える必要があること、このようなことを「体験しながら」子どもたちは身につけていきます。走ると急には止まれないこと、手すりから体を乗り出すと思わず前転してしまうこと、通れそうな細道も壁に体が当たって通れないこと、前むにき入れた頭も振り返ることができないこと(頭は楕円形なので)、目が痒くなっても汚れた手で目を擦ってはいけないこと・・・こんな数えきれないほどたくさんのことを、子どもたちは生活の中で、その都度身につけています。

馬の水飲み場の木登り、和泉公園の木登りを怪我をしないように丈夫に登れるようになるには、これらの力がうまく組み合わさっています。子どもの生活圏を、危なくないように何もないようにすることは、かえって危険です。自分で危険を回避する判断力と適応力、応用力を育てるチャンスを失うからです。安全の自立というのは、子どもが転ばないようにガードしたり、転んでも怪我をしないようにクッションを用意することだけは足りません。転んでも自分で手をつけること、転ばないような歩き方、走り方ができる能力を育てることが必要です。

幼稚園教育要領や保育所保育指針には、教育の「健康」領域に、こう書いてあります。

「健康な心と体を育て、自ら健康で安全な生活を作り出す力を養う」

子ども自らが、安全な生活を作り出せるようにしましょう、というのです。大人がただ安全な生活を与えるのではないのです。

 

自立の姿(その5)衣服の脱ぎ着

2022/03/05

(90度が4か所あるのが、お分かりでしょうか)

 

「先生、やって」「ああ、いいよ、向こう向いてごらん」

3月4日の子どもクッキングで、エプロンの腰紐を自分で後ろ手で結べないので、やってほしい、というのです。私は「ああ、いいよ」と、やってあげるモデルを見せるつもりで、そうしますが、先生によっては「お友達にお願いしてみて」と、子ども同士の助け合いの体験へ導くような返事をすることも多いです。

それはともかく、小学校中学年以降ぐらいになると、エプロンの紐を後ろで蝶結びできるようになるかもしれませんが、幼児では無理です。そこで大抵は、結ばずに済むようにゴムにしたり、マジックテープにしてもらっています。頭の三角巾も四角の状態から自分で被ることは、幼児ではまずできません。最初から三角形のゴム紐付きにしてもらっています。マスクも、どっちが上なのか「これでいい?」と聞いてくる子もいました。今のマスクは鼻を覆う方が少し窪んでいるデザインのものがあるのですが、その微妙な違いを見分けるのも、幼児では難しいのです。

衣服を着たり脱いだりすることができることは、衣服の着脱の自立といいます。昔、よく身辺自立といういい方で基本的生活習慣の自立のことを、そう呼んでいました。自分ものは自分で始末できる、というフレーズもよく使われました。身辺とか始末とか、けっこう強い語感の言葉が保育では使われていました。自分のことは自分で始末しなさい。生活力の鍛錬にも似て、訓練することが自立の秘訣かのように言われていました。身辺自立ができていないと幼稚園にはいけません。そんな雰囲気があった時代もあります。確かに、30人を一人担任で見るような教員配置の制度のままで(いい加減、無理な配置数はとっとと改善したらいいのに)、身の回りのことが自分でできないと、集団生活が成り立たない、そんな考えが保育の前提に横たわっていたのです。

人間が衣服を使うようになったのは、体を保護すること、体を清潔に保つこと、暑さや寒さの加減をすることなどの必要性からです。その目的を考えれば、現代では生活環境は安全なものになり、お風呂に毎日入ることができ、衣服も洗濯して常に清潔であり、部屋の温度も機械でコントロールできるようになり、衣服の役割は、この保護、清潔、保温などの役割を超えて、別の価値が付加されきました。

オリンピックの開会式などを見るのが、私は好きなのですが、何が面白いかというと民族衣装が登場する国や地域があるからです。でもウクライナのキエフの駅で戦火から逃れる人たちの報道を見ていると、怒りから胸が熱くなります。戦争は命も食糧も剥ぎ取り、衣服でさえままならない状態へおいこむ、惨たらしい卑劣な行為です。プーチンよ恥を知れ!

園児たちは、自分の服を見せてくれます。「ねえ、これ可愛いでしょ」と、今日はこれだよ、と見せてくれるのが朝の挨拶になっている子もいます。「うん、可愛いねえ」と心を通わせてにっこり。一度靴箱に入れた後で、通りかかった私に、わざわざ「待って」と声をかけて、買ってもらったばかりの靴を見せてくる男の子もいます。これらは最高の朝の挨拶ですね。このように装飾的服装つまり衣装の意匠の役割が大きくなりました。ミッキーやキティや鬼滅やシンカリオンが子どもたちの衣服に欠かせないものになっています。

そこで、話を衣服の着脱の自立の話に戻すと、これらを自分で着たり、脱いだりできることができやすいものにしていただきたいということです。頭の大きさに比べて首回りが小さいと子どもの力では頭が通らない、という光景を何度も見ます。体の大きさに比べてサイズが小さくて、右腕は通ったものの、左袖に左腕が通らない、ということもありました。夏の水着はぴっちりしすぎていて、ほとんどの子が自分では脱ぎ着できません(これは仕方ないかな)。

ボタンホールは大きめですか。窮屈だと、それだけて「できな〜い」に、なってします。

例えば、市川宏伸さんの著書にも、次のような説明がありました。

〈・・ぜひ育てていきたいもの。そのためには人との比較ではなく「自分としてはここまでできたから凄い」と思える「成功体験」が大切です。小さな事では、自分でボタンがかけられない子なら、ボタンホールの大きな服に変えて上手にボタンがかけられたならこれも1つの成功体験です。苦手な事は手伝って、1つでも成功体験を増やす丁寧な対応が必要です。・・〉

靴の脱ぎ着も、自分でできるようになるには、自分でやりたい!という時期がきたらチャンス到来です。時間がかかっても、じっと待ってあげられる、余裕を持った時間配分をお願いします。身支度の時間というものを、生活の流れの中に確保してあげてください。できないところは手伝ってあげても、最後の「美味しいところ」は自分でやれた!、履けた!という気になるような援助がいいでしょう。

ジャンバーのチャックは下の始まりのところが難しいことが多いです。手が届かないこともあります。水筒も襷にかけることができるようになってほしい。紐が外れると自分でつけることができないことも多いですね。紐の長さの調節はこの幼児で無理なようです。また後で物の取り扱いのところでも触れますが、押して開く栓が固くて、自分では開けられない、という場合もあります。購入するときには、子どもと一緒にやってみて、自分でできそうかどうかも試していただくといいかも知れません。

これは単純に自分でできるようになることが、周りの大人の手を借りずにできるようになるから、周りの大人が助かる、ということ以上に大事なことがあります。それは実は、自信がつくのです。それが明らかに伝わってくる瞬間というものがないだけに、本当?と思われるかもしれませんが、満2歳になっていく前後から、なんでも「自分で!」という時期がきます。この頃からの発達課題にとっても、やってみてできるようになることが、生きる力そのものを育てている面があります。そう思って、排泄や衣服の自立を気長に見守ってあげてください。

幼児になると、自分でできること、お願いすればいいことの判断がつくようになりますから、もう大丈夫ですが、そこに至るまでの「自分で!」の時期は、子育ての我慢比べになることもありえます。どうぞ、大人がおおらかさと心の余裕を確保することを、セットで用意しておきましょう。(余計な話かも知れませんが、細かいところに気づけないのがお父さんですが、この場合のお父さんはお母さんの話をちゃんと聞いてあげてくださいね。)

自立の姿(その4)排泄

2022/03/04

(写真は、今日の子どもクッキング「野菜の型抜き」から)

トイレに自分で行って排泄ができるようになることを排泄の自立、といいます。いわゆる「おむつが外れる」ということです。世の育児雑誌の三大テーマは、昔から食事、トイレ、イヤイヤ期と決まっていて、それだけ親御さんの関心が高い、あるいは困っていることがある、とも言えるのかもしれません。トイレットトレーニングが子育てメディアでは盛んなのですが、トイレの空間に興味を持たせるとか、怖がらないようにするとか、この夏紙パンツに挑戦!だとか、アレコレ、いろんなアイデアが紹介されています。オマルに慣れてから大人用の便器へ、だとか紙オムツよりも布の方が外れやすくなっただとか、情報が多すぎる気がします。

排泄の自立に欠かせないことは、私は次のように伝えてきました。これが排泄の自立の姿だからです。

〜自分で「あ、おしっこ!」と気づき、ちょっと我慢してトイレに行くことができる〜

「あ、うんち!」でも同じですが、この気づいて、我慢できるというところがポイントになります。何に気づくかというと尿意、であり便意というものですが、これに気づけるようになるのは、2歳から3歳と幅があります。サインが脳に届いても、それが便意だという意味になるのにも、知的な発達がある段階にまで育たないと認識できません。さらに「あ、おしっこ」と、したくなってから、トイレに行くまでにある時間がまんできないといけないので、こちらも自分の意思で尿道をふさぐ随意筋を動かすことができるまで、身体的な育ちがなされていないといけません。

他にも色々な身体的な育ち、神経系の育ちなどが相まって、排泄が自立していくようになります。でも、基本はこの二つのことが繋がって初めて排泄が自立できるのです。そしてこの発達には個人差が大きいので、いつはは必ず二つのことが繋がって、ある意味で突然、できるようになります。そうすると、この条件が揃っていない段階で、練習やトレーニングでそれが育つのかというと、それは無理です。知的発達と身体的発達が揃わないと排泄は自立しないので、どっちかができないと難しいということになります。

そこで、この自立の秘訣は、楽観的に待つこと。ただし、保育園の園児は有利です。なぜなら、その「あ、おしっこ」でトイレへ行く、という姿やモデルが周囲にふんだんにあるからです。またオムツをしている状態が普通なので、それに引け目を感じるという空気も皆無です。おむつが早く取れることが良い、と考える文化はありません。オムツはそのこのペースで、必ず取れる。ただそれを信じてあげているだけです。大人が気をつけることは、できもしない時期に無理にさせようとして、子どもにコンプレックスを持たせてしまうこと。できるはずのことが自分はできない、と思い込まされると劣等感から自信が持てなくなります。

食事や排泄は動物も行う自然な営みです。それを上手に、きれいに、という人間社会の文化的営みとしての「しつけ」に格上げしないといけないので、その文化的行為への適応には個人差が生じ、ただ「一人ひとり異なるから、それで良い」で落ち着けはいいのですが、情報化社会は、自分の子どもは遅いのかしら、とか大丈夫だろうか、と無用な心配をさせてしまうような環境になっていることが、困ったものです。

食べたら出る。当たり前です。あとはタイミングを自分で図ってできるようになること。そこにもリズムがあるので、特に大便のリズムは生活の中で作ってあげるようにしましょう。習慣にしてあげると体も意識も楽になりますから。

自立の姿(その2)睡眠と食事

2022/03/02

生活の自立を考えるとき、よく眠って気力が回復した朝は、お腹が減るものです。夜更かしして寝る前に何かを食べたりすると、夜の睡眠中にも消化が行われていて、朝はなんだかお腹が重い感じがして、食欲も湧かない、という経験は誰にでもあることでしょう。

(お昼寝をしないで、瞑想タイムで体を休めている子どもたちも)

 

目覚めは脳も体も起きないといけないので、朝の食事をとらないと、午前中の活動がうまく始まりません。そこで生活リズムを整えるための最も大切な標語が「早寝早起き」で終わらずに「朝ごはん」がついていることになります。

日本では、子どもの夜の生活が楽しすぎて(?)寝る時間が遅れ気味になると、それが翌日にまで尾をひいてしまいがちです。日本の子ども向けのメディア文化は海外でも人気ですが、それが夜ふかしを助長さしているとしたら、看過できません。そうなってしまいがちな最も大きな要因は、テレビ、ゲーム、タブレット、スマホだと、言われています。

テレビ、ゲーム、タブレット、スマホとの付き合い方は、現代の子育てで、とても悩ましい問題になっています。乳幼児の時にテレビの視聴時間にケジメができないと、その後、小学校でゲーム、中学校でスマホの付き合い方がルーズになってしまいます。最初が肝心です。赤ちゃんの時から子育ての環境にテレビはない方がいいのですが(保育園でテレビを見ることはありません)、現実はそうもいきません。でも、知っておいてほしいのは、世界の小児科学会は2歳まではテレビは見せないというのが大切な常識になっていることです。

https://www.jpa-web.org/about/organization_chart/cm_committee.html

https://www.jpa-web.org/dcms_media/other/media2008_poster02.pdf

夜の睡眠までの時間の使い方は、最大の秘訣は、早いうちからの習慣化、です。

帰宅して家でやりたい好きな遊びがあり、テレビをつけたとしても食事の時は消します。そしてお風呂(夕食とお風呂の順番はどっちでもいいのですが、日によって変えない変えない方がいい)の後、絵本でもなんでもいいので、だらだら寛ぐ時間を作って、眠る前のこの時間を大切にします。はい、もう寝なさい、と言って、はいはい、と眠れるものではないからです。そこで眠気を誘うためのポイントがいくつかあります。食事やお風呂が終わったら部屋のライトは暖色系で暗めにして、青や白は避けること。またお風呂で温まった体が覚めていく時に、人は眠くなりますから、そのチャンスを生かすのもいいです。一旦、うとうとさせてしまうと、また寝るのは難しくなりがちです。

永持さんの「赤ちゃんねんね講座」では、この流れを作るときに「逆算マネジメント」という発想を提案されています。布団に入るタイミングを8時とか8時半とかに決めておきます。本当に眠る時刻は、ずれることが多いので、布団やベッドに入るタイミングを決める方がいいでしょう。その時刻から、遡って7時半にお風呂、7時に夕食などと決めていきます。夕食を作る間だけ、うまくひとり遊びができるような工夫が必要ですが、この場合の秘訣は夕食を作る時間を、ウ〜ンと短くしてしまうことです。

夕食はお腹がいっぱいになればよし!と考えることです。保育園の食事は1日に必要は栄養とカロリーの半分以上になるように計算されています。朝ごはんと晩ごはんで半日分がとれれば大丈夫です。冷食や作り置き、電子レンジの上手な活用など、色々な手があります。

6時にお迎えだとして、8時に布団に入るとすると、2時間ですが、これが短いと感じるか長いと感じるか?ここがポイントです。2時間もある!と思えるようなルーティンを作り出せるといいですね。多くの方が夕食の準備と食事時間に多くを取られてしまっているようです。ここを短時間にすることが、睡眠から食事の自立を作り出すためのポイントになりそうです。そして、この時間を過ごすことが楽しい!という時間になることを優先することです。

だらだらタイムのコツがあります。それは親の方が他愛のない話をしてあげることです。子どもから保育園の話を聞き出そうとせずに、寝る前の時間は「今日ママね、買い物でいいもの見つけちゃった〜」ぐらいの、お話です。子どもになったつもりで、ポア〜ンとした時間にしましょう。イメージは「お猿さんの親子が毛繕いしているような、あのダラダラした感じ」(永持さん)です。どうぞ試してみてください。

自分らしさを再確認してもらう成長展

2022/02/26

当園の成長展は、クイズ形式になっていて、「はて? これがうちの子だろう?」と、いろんなものを当ててもらうようになっています。手型はどれかな?足型は?身長は?体重は?と、自分のお子さんのことをどれくらい当てられるか、コーナーを回っていきながら、お子さんの成長のあれこれを理解してもらいます。一人ひとりの成長の記録が個別のファイルになっており、在園中の育ちが個別のポートフォリオのアルバムになっていく仕掛けです。

子どもの育ちは、日本では教育の5領域で捉えることになっています。健康、人間関係、環境、言葉、表現です。そこで成長展でもこの5つの視点でまとめてあります。例えば領域「健康」では、身体的な育ちを手形、足型、身長、体重の4種類です。

領域「人間関係」では、動画によって「コミュニケーション」をご覧いただき、展示ではクラスのお友達の名前を当ててもらいました。

領域「環境」は、子どもが好きな遊びの種類は、好きな公園を知っているかどうか。

そして領域「言葉」は、私たちが「シルエット」と呼んでいる影絵での物語作りの掲示物で、自分のお子さんの作品を選んでもらいます。

領域「表現」では、画用紙に描いた「ぬりえ」「人物画」「自由画」の3種類の子どもの作品です。この作品は、シルエットもそうですが、一年のうちで3回描いてもらい、その変化を辿ることもできます。

先生からのメッセージは、子ども一人ひとりの個性を文章でまとめてあります。私もやってみると、当たり前ですが大体当たりました。この子はどの子か、その子らしさが描かれています。

自由画や人物画、ぬりえにもその子の世界、興味関心のあるものなどが現れていて、ここでも「その子らしさ」が現れています。

この成長展は、クイズになっているので、自分の子どもの作品だけではなく、他のお子さんの作品も見ることになるので、「あ、これはきっと◯◯さんだね」などと、個性の幅広さを知ってもらう機会にもなります。

私たちの保育園は、どの子どもも、その子らしく生きていくこと、自分らしくいられることを最も大切にしています。

それは入園のための見学案内の時からお伝えしてきたことでもありますが、日々の生活でも、このような行事でも、そのことは変わりません。

他の人やものと比べて、良し悪しや優劣をつけるような世界とは無縁です。かけがえのない一人ひとりの存在が、そのままでいい、みんな違っていていい、という大きな肯定が、私たちの保育園の最大のメッセージです。

行事のたびに、とても凝った食事が出るのですが、その行事食の様子も、全て展示されました。好評だった食事のレシピも、紹介しました。

成長展でお伝えしたい子どもの育ちとは?

2022/02/23

(動画はIDパスワードが必要な「お知らせ」からどうぞ。2月26日から)

子どもの育ちを伝えたい。そういう趣旨の「成長展」が今週末の26日(土)に開かれます。日本の保育園や幼稚園は、子どもの育ちを5つの視点で捉えることになっています。それは、健康、人間関係、環境、言葉、表現の5領域というものです。この話をすると、何か専門的な感じがして難しく思う方がいらっしゃるかもしれませんが、こう考えると、わかりやすいかもしれません。

私たちは人間です。人間とは?と解説したものはたくさんありますが、そこで共通なのは、ヒトは社会的存在だということです。お母さんのお腹の中にいた時から、母子の間でコミュニケーションをとっていて、そのやり取りは心理的にも身体的にも、重要なやりとりをしながら、初声をあげます。人間は人間に育てられないと育たない存在だということです。

ヒトは動物と共通なものを持っています。確かに動物にも家族があり社会があり集団を持っていますが、人間の社会の場合は、その「関係」の質が育ちそのものに大きな影響を与えるような関係だということが、動物とは異なります。アリストテレスの「人間は社会的(ポリス的)動物である」という有名な言葉がありますが、それです。

その集団の在り方が、子どもの成長にとってはとても大切だということは、言い方を変えると、人間関係が育ちに大きな影響をもつ、ということになります。そこで、今年の成長展は人間関係をテーマにしました。つまりコミュニケーションです。この人との間に心を通わせる、気持ちをやりとりする、その様子から育ちの姿を動画でご覧ください。

この人間関係の発達がどんな状況で行われるのか、と考えるために「環境」を捉えることが保育になります。この環境には大きく分けると自然環境と人工的環境があるのですが、人工的環境というのは、人間が作り出す物やことは全てこの環境のことです。ですから言葉も表現もここに含まれるのです。教育の5領域というのは、健康に人間関係が育つことなのですが、それを捉えるのは環境との関係で考えましょう、ということです。そして環境の中でも、人間だけが獲得した表象としての言葉と、言葉以外でも表すことができる表現に注目しましょう、ということになっているのです。

人間の心身の育ちは、健康であることは必須条件のようなものであり、人との関わりの中で育つ社会的存在ですから、子ども同士の中で使われる関わる力、言葉の力、表現の力を見ていくことにしましょう。関わる力は動画でじっくりご覧ください。そして言葉はシルエットを使った物語の想像力を通して、そしてぬりえ、自由画、人物画でどのように変化してきたかを感じとってみてください。

個人の育ちと集団の育ち

2022/02/09

子ども集団が育つ、というと、皆さんはどんな場面を思い浮かべるでしょうか。それでわかりやすいのは、お楽しみ会などでお伝えした「劇遊び」などかもしれません。年齢別に劇を続けて観ると、その育ちがはっきりわかりますよね。保育では個人と集団の、どちらの育ちも大切にしています。この「園長の日記」では、教育の営みについて、主体者個人と環境の関係からいろいろと説明してきましたが、こんどは主体者が「集団」になった場合を考えてみましょう。

集団の育ちというのは個人の育ちがベースになるのですが、面白いのは個人が集団の育ちに影響を与える方向と、集団が個人の育ちに影響を与える両方向があることです。お互いに影響をしあっている複雑な関係になっています。

たとえば、今日の夕方のお集まりは、年長のHSくんが司会をしていました。どのゾーンを開けますか?と聞くと、「はい、はい」と、たくさん手が挙がります。司会者は「ちゃんとみている人にあてよう」というと、司会者の方に顔を向けます。でも司会者がなかなか指名しないのでKMさんが「早くやって。時間のムダ」といいます。すると指名されたKSくんが「ゲーム・パズル」と言います。さらに司会者が「他にどこがいいですか?」と聞くと、THくんが「みんなが制作遊ぶと思うから制作」という言い方をしたのです。

それを聞いていた年少のKAさんが「THくんばっかりでつまんない」というのですが、THくんはこう反論します。「え、だって、今のはみなんが制作で遊ぶから・・・」と。

このように夕方のゾーンを、どこを開けて遊ぶかを、そこにいる子どもたちが話し合って決めていくのですが、自分のことだけではなくてみんなのもそれをやりたいだろうから、それにする、という言い方が生まれています。これも集団ならではでしょう。これを少し大袈裟に考えると、自分の1票が他の人たちの意思も汲んだ結果の1票だ、というわけです。単純に自分がやりたい遊びを主張するだけではなく、他の人の意向も踏まえた意見だというわけです。自分の意見に説得力を持たせる、という意図ももちろんありそうです。

 

それにしても多数決で決するということではなくて、話し合いを通じて、集団としての意思決定に辿り着くことができるようになっているのです。このような集団の育ちは、集団の中で、色々な人間関係を体験してきたことから生まれてくる個人の力です。個性が発揮されるような集団の在り方としても、これからの時代の持続可能な社会に必要な資質だと言えます。

 

子育ては子どもを支えること

2022/02/07

子育てとは、本人が自立するまでに必要な援助です。子どもが大人になれば、なんでも自分できるようになり、援助がいらなくなります。自立すると言うことです。そして今度は自分が子育てをする側に回ります。子どもは大きくなるにつれて自立していき、援助する側になっていくことが大人になる、と言うことになります。すると、子育ては自立に向かって支えることですから、大人がさせてしまっては自立する機会を奪うことになります。本人の代わりになんでもやってあげてしまったら、自分で伸びようとする力を使うチャンスを失うことになります。これを過保護、と言います。

一方で、子どもの体験は、初めてのことが多いので、最初からうまくいくことはあまりありません。繰り返しやっていくうちに、身についたり、覚えたり、できるようになっていきます。その過程には「自分で考えて試す」ということが含まれてきます。いわゆる試行錯誤の過程です。自分でやってみようとしたり、挑戦してみたり、できるかな、でもちょっと怖いな、どうしようかな・・といった過程で、子どもは自分自身と向き合い、自分のことを振り返ります。決断して前に進むか、助けてと援助を依頼してくるか。このプロセスがとても重要な自立の過程になります。失敗を繰り返しながらも、試行錯誤しながらなんとかゴールに辿り着くと、達成感と共に自分への自信を持てるようになっていきます。

ところが、このプロセスがない子育てがあります。それは子ども自身に考える時間、試してみる時間、自分で創意工夫する時間がないような子育てです。ことある度に「ああしたら」「こうしたら」と指示を出し、言ってさせようとします。これを過干渉と言います。大人はできるだけ本人が困ったときだけ、援助してあげるようにします。「手伝って」「助けて」と言われたら支えてあげればいい、と言うことになります。

過保護は自立の機会を奪い、過干渉は考える機会を奪います。いずれも受け身な姿勢になって、自分からこうしたい、ああしたい、という意欲や自発性が損なわれてしまい、自信のない子どもになってしまいます。本来子どもは好奇心旺盛な心を持ってこの世に生を受けるのですが、過保護にされてしまうと、努力しないで目標に辿り着けるので、依存的な子どもになってしまいます。また過干渉にさらされると、本来自分で決めたい、自分で判断したい、という欲求があるので、自分なりの理屈や方法を編み出そうとして、反抗的になりがちです。

もう一つ、やってはいけない子育てが「放任」です。ネグレクト、育児放棄です。大人は子どもをしっかりみて理解し、子どもが困ったときに駆け込める避難場所、安全基地になってあげる必要があります。愛着(アタッチメント)というのは、この安全基地に大人がなるということです。不安になったり、困ったりしたときに、あそこに行けば助けてもらえるという見通しを持てる位置に、大人はどっしりと構えてあげるといいのです。エネルギーを補給に来たら補ってあげてください。気持ちをうけとめてあげて、しっかり応答しましょう。しっかりと抱きしめてげましょう。そうすると、子どもは回復してまた元気に遊び始めるでしょう。自分から離れます。大人は手を離すだけです。これを「ハンドオフ」するといい、日本語では「見守ること」に相当します。

自ら考えて判断する力、失敗しても挫けずに立ち直る力、自分で目標を立ててそれに打ち込む力、こういった力を使う機会を保障しましょう。すると、結果的に、その子育ての姿は「見守る保育」という姿になります。しかし、見守ることができるためには、いくつかの条件が必要になります。その一つが、自分らしさを発揮できる生活であること、一人ひとり異なる欲求が満たされるようなことを選べる環境になっていること、そして、子ども同士の豊かな関係があることです。この3条件が揃って初めて、見守ることができます。ただ3つ目の条件は家庭では難しいかもしれません。家庭には子ども同士で何かをして遊んだり、協力して何かを生み出したりできる環境に乏しいからです。

自分と相手の間にコミュニケーションを取りながら生活を作り出す当事者になること。これを生活への「参画」と言うのですが、昔、倉橋惣三はこれを「生活を生活で生活へ」と言いました。今では「環境を通した保育」と「子ども主体の保育」を併せて「社会生活者の一員として責任を持って、よりよい生活づくりに参画する」という意味になります。

コップの水としてのエージェンシー(主体性)

2022/02/02

屋上で遊んできた子たちが玄関に戻ってきました。年長のTくんが私に鬼ごっこで遊んだことを説明してくれます。ん、すごい!面白い!と感じたのは(成長を感じたのは)、彼の話の中には「楽しかったこと」もありますが、集団として思い通りにいかないことへの不満が含まれていることです。自分のことだけではなく、年長組すいすいとして期待されていることがうまくいくことを望んでいることがわかります。子どもの成長は自分ができたことへの喜びだけではなく、自分も含めて、その集団が目指している目的が達成されることへの喜びへと発達してきていることがわかります。

このような個人の成長は、個人の「自立」であると同時に、仲間意識が色濃い集団の中でしか望めない「協同性」の育ちと言えます。自分が所属している小さな社会(ここでは、年長組)が、よりよくなることを望み、その一員としての自分と他者を振り返ることができるようになっているのです。この子は友達の行為について、目的を達成するための行いとして捉えています。このような主体性は、これからも時代に必要な力の中で、ますます重視されいくものになっていくでしょう。

こんなこともありました。3階の積み木ゾーンに、新しい遊具が導入されて、ビー玉がジグザグに転がってきて、ポトンと落ちる受け皿として、まだ箱に入って出されていないパーツを使いたい、というのです。ところが、私が出してあげようとすると「まだ◯◯先生がいいと言ってないから」と、合意を得るプロセスを優先させようとします。「小さな社会」の中で決まっているルールを変更するためには、ある種の手続きがあって、そのプロセスにこだわるあたりにも「協同性」を感じます。

ここで、あえて「これからの時代に必要な力」という言い方をしたのは、昨日までの話で出てきた外から中に注ぎ込まれる「コップの水」だということに、着目して欲しいからです。ここで紹介したよう子どもの主体性をエージェンシー(Agency)といいます。OECDの「エデュケーション2030」プロジェクトで、最重要なキーワードになっています。その定義は「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する力」のことで、行為主体、とか行為主体性、などと訳されているようです。

しかし、一方でこの水は、社会の中でこそ発揮される力でもあるのですが、ポイントはその社会がよりよくなるために、そのメンバーである個人が責任感を感じながら目標を達成させようとする自発性が育っているかどうかにあります。つまり「コップの中の水」が引き出される側面もあるのです。自発性が発揮される場面は、子ども同士という集団が生み出す活動(鬼ごっこ)や目的(より楽しい活動など)であるのでしょう。主体性という育ちは、外からとも、内からとも区切られない「水」だと言えます。社会性の育ちは個人と集団の両立の中に見られます。

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