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保育アーカイブ

自分の感情をしり相手の感情にも気づく

2022/10/03

この図は、脳のセンシィティビティ、つまり脳の感受性(敏感性)が年齢とともにどう変化するかを表したグラフです。藤森先生はこの8年ぐらい、何度も何度もこのグラフの重要性を説いてきました。今の保育所保育指針で乳児が重要視されることになったことのエビデンスの一つです。いろんな線がありますが、ほとんどが満3歳までにピークを迎えていることに、ご注目ください。そのテーマの力が身につくには、その時期に体験することが望ましいことを意味します。

例えば白は視力ですが、誕生時にすでに最も高い感受性を持っています。ですから、生まれてすぐに光に当たること(ものを見ること)が必要だということがわかります。もし目に光をあてないで塞いだままで数年過ごすと、失明します。その時期をすぎて光を当てても、視力は回復しません。ものを見る力が発達せずに失われてしまいます。聞くことも、同様に生まれる前から聞こえていることがわかります。その力を基盤にして、言語の発達も、黄色の曲線のように初語を発する満1歳ごろがピークなのです。このような時期を臨界期ともいいます。人類は長い進化の過程でこのような脳の発達の特徴を得たわけですが、この特徴の中に、人類の生活の姿、子育ての姿を読み取ることができます。

さて、ここでピンク色の「エモーショナル・コントロール」、つまり「感情を制御する力」が最も敏感なのは、1歳半ごろだということも注目に値します。感情は、人との関係がなければ、あまり生まれないものだからです。喜怒哀楽の感情は、人間関係の多様性があって初めて豊かになるものだからです。

どんなに豊かな感情体験をしているのかは、1歳児クラスのブログをご覧ください。特に今日3日の内容は、この感情体験の重要性がよくわかる内容になっています。当園では1歳児クラスの子どもたちが、いろんな関わりを体験しながら生活しています。中でも、好きな先生に自分が感じている感情について「楽しいね」とか「悲しいね」と、言葉で表現してもらいながら、先生は子どもの気持ちに「偽りのない共感」を寄せてあげています。これは極めて重要なケアでありエデュケーションです。まさしく質の高い「エデュケア」(保育という意味)になっているのです。ここに教育におけるケアがいかに重要かということが、見事に描写されています。この描写は、幼稚園や学校の教育者が噛みしめていただきたい教育原理を示しています。

ところで、なぜ、感情コントロールの敏感期がこんなに早い時期なのでしょうか? ここに極めて重要は示唆が含まれています。乳児の担当制がよくない理由もここにあります。人間の子育ては、村を単位にしていました。子育ては共同保育だったのです。核家族で子育てをしてきたことはないのです。毎年子どもを産む多産が人類の特徴であり、脳が大きくなった人類は未熟なうちに出産し(ポルトマンの生理的早産)、一人の子どもが育つには村中の人が必要(人類発祥の地であるアフリカの諺)だったのです。その人的環境が、赤ちゃんの脳の感受性の特徴に現れているのです。

0歳の時から、赤ちゃん同士の体験が必要です。満1歳になる頃までに、豊かな人間関係を体験することが大事です。保育園を見学に来られる方と仲良くなると、お母さんに抱かれていた赤ちゃんは私に抱っこされても平気です。「お母さんが警戒していない人だから、抱っこされても大丈夫だな」と、赤ちゃんはすでに感情的な判断をしています。いろんな人に抱っこされる経験が、赤ちゃんには大切なのです。そして、子ども同士の関わりがたくさんある人的環境が、乳児保育には必要です。だから、全ての赤ちゃんが数時間でも保育園で過ごすことが大事なことなのです。

それは子どもの発達を保障するだけではなく、子育てのつらさを軽減して児童虐待を防ぐ、子育て支援の本道であり、子育てのコミュニティづくりに貢献します。その延長上に、その子らしく生きる子どもたちの学びと自治力(自信を持って他者と共存していく力、共生と貢献の力)が育っていくのです。

「夢みる小学校」と南アルプス子どもの村

2022/10/01

9月30日金曜日の夜、オオタヴィン監督の映画「夢見る小学校」を千代田区半蔵門のいきいきプラザで開かれた自主上映会で、やっと観ることができました。今年2月に上映されて話題になっていた映画だったので、ずっと観たいと思っていたのです。この映画は、山梨県南アルプス市の小学校を舞台にしたドキュメンタリー映画で、こんな小学校が近くにあったら、子どもたちは幸せだろうなぁと思えてくるものでした。多くの人にぜひ見てほしいと思いました。保育園でも自主上映会を開きたいと思います。

そして今日10月1日土曜日、その映画の舞台となった小学校に来ています。南アルプスこどもの村小中学校です。この学園が主催する秋の教育講座に参加しました。話し手は、文化人類学者の辻信一さん。辻さんと言えば、スローライフ、シンプルライフを提唱されている方というイメージを待っていましたが、海老原商店で海老原さんに「ゆっくり小学校」の本を紹介してもらったり、青木さんが辻さんと対談したりして、地域的にも身近な存在になっていました。お目にかかって「これから必要な学校」の基礎固めになりそうな「てつがく」を聞くことができました。

子どもの感情に気づき、言葉を結びつけてあげること

2022/09/27

「自分の感情に気づく頃なので、Kちゃん、怒っているんだよね、って、言ってあげるようにしています。そしたら、自分で『もう、◯◯(自分の名前)、怒ってるの』と、言ってこうやって(怒っているという仕草)・・」。

実習生の反省会で、1歳児クラスのS先生が、保育の意図を説明してくれます。それを聞いていて、私は感動してしまいます。子どもの発達を理解しているからこそ、その時に必要な言語環境をデザインしているからです。1歳児クラスといえども、4月以降に誕生日を迎えている子どもたちはすでに満2歳になっており、言葉の爆発的な獲得期に入っています。質問期でもあり、何にでも「これは?」と聞いて、いろんな言葉を覚えていく頃でもあります。

そんな時期は、自分のことをもう一人の自分が客観的に眺めるような視点を獲得して、自分はこうなんだ、と他者に説明できるようにもなってきます。その時、自分が楽しいんだ、嬉しいんだ、怒っているんだ、悲しいんだ、辛いんだ、というような大まかな感情も「自己認知」できていることに、担任は気づき、冒頭のような言葉をかけているのです。あえて意識して、そうしてあげているのです。

実習生たちは、「保育の過程」というものを学びます。それは「子ども理解」に始まり、その子どもの姿にふさわしい「環境の(再)構成」を行うことで、子どもは新しい体験をします。その体験が発達を促したり、新たな学びになるので、その子どもの姿を予想する、ということをします。指導案の書類には「予想される子どもの姿」という欄が用意されています。

今回のケースでも、子どもの発達理解があって、言葉を変えている担任の判断の中には、このような「子ども理解」をもとにして担任という「人的環境」のあり方を変えている、という「保育の過程」を見てとることもできます。実際の保育というものは、そんな回りくどいことを、いちいち考えているわけではないのですが、いずれにしても大事なのは、子どもが何を感じてどう思っているのかを、敏感に感じ取る力が保育者には必要で、そのセンサーの感度が、子どもにふさわしい次の体験を用意していくことになる、ということでしょう。

そんなことを反省会では実習生に伝えています。そして伝えながら、私たち自身も自らの保育を振り返るのでした。

見守る保育は自然栽培に似ている

2022/09/26

「見守る保育は自然栽培と似ている」

そのことに、最近気づきました。

自然栽培はとても面白いです。いろいろと勉強していると、大自然の持つ神秘的で不思議な力を感じます。食の営みも本来なら、自然と調和した暮らしを取り戻すことだと気付かされるのです。この2ヶ月ほど「自然栽培全国普及会」の方の話を聞いているのですが、子どもたちも自然の一部なんだという、当たり前の事実に気づくのです。子どもだけではなく私たち人間は、大いなる生態系の中でこそ、人間らしくいられるのだろうと、思えてきます。

例えば、自然栽培では肥料を使いません。化学肥料だけではなく、有機肥料も基本的には使いません。また、いわゆる害虫が来ても農薬もかけません。それでも、辛抱強く、我慢強く、待っていると素晴らしい野菜が育つようになります。それは、まるで保育が、子どもたちとそれを見守る大人たちの関係にそっくりです。子どもが本来持っている育つ力を信じて、大人がおおらかに待ち、見守るような関わり方をすることに、とてもよく似ているのです。

さらに、自然栽培では、土をとても大切にします。その土は何年もかけて作り出されるものです。根気がいるので、ついたくさんの有機肥料を使ってしまいます。その方が早く大きく、立派な野菜になるからです。そこを辛抱強く自然のなす力に任せていくと、土は自ずと自然の生態系の営みの中で、なるべきものになっていくのです。それはまるで、子供にとって夢中になれる遊びの環境のようです。本当に健康で安全な野菜や果物などの農産物が「いい土」から育つように、子どもの発達を促す遊びも、「いい環境」から生み出されます。

自然栽培を成り立たせている自然の力を考えていると、数年前に観たドキュメンタリー映画「ビッグ・リトル・ファーム」を思い出しました。自然の持っている生態系の力を、とても美しく描いた物語です。こんなエコシステムの中に「子どもの領分」があるとしたら、私たちは「子どもの環境」について、もっと学び直す必要があると思えてきます。

0歳からの入園をお勧めします

2022/09/23

全ての赤ちゃんが、0歳児クラスに入園してほしい。育児休暇が長く取れるようになったから1歳児クラスからでいいと思わないで、0歳から子ども同士の関わりを体験してほしい。そう思うことが、保育園をやっていると、強く思います。その理由はいろいろあるのですが、最も大きい理由は、子どもの成長、発達には満1歳前後からの、子ども同士の関わりが、とても大切な体験になっているからです。それは脳の発達からも人類の進化からも、自然なことになっているからです。そのようなことの積み重ねを、小さいうちから行っていくことがいかに大切なことかを、日本全国の子育て家庭に強く訴えたいという衝動に駆られます。

たくさんあるエピソードの中で、昨日のちっち組(0歳児クラス)のエピソードは、それをよく表していますので、いかにそのまま載せたいと思います。名前はイニシャルに、写真はイラストに加工しました。

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タイトル「取り合いっこも大切な経験に」

Yくんが、鏡を手に入れて遊んでいると、Rちゃんがやってきて、鏡をのぞいています。

するとだんだん、ふたりとも鏡で遊びたくなって…

『ちょうだ〜い〜‼︎』

でも、Yくんもまだ使っているので、再びしっかりホールドしています。

ゲットできなかった悔しさで大人のひざに顔をうずめにくるRちゃんでした。

「Rちゃんも、ほしかったのねぇ。。」
最近のちっちさんは、こんなふうにお友だちと玩具を引っ張り合いっこしたり、取り合って怒ったり…という姿が見られるようになってきて、春のころの小さい”赤ちゃん”から、だんだんと、ぐんぐんさんらしい姿も出てきたなぁと成長を感じています。自分の気持ちを思い切り主張し合えるようになってきたようです。

これからきっと、もっともっとたくさんケンカして、怒って泣いて、悔しい思いをして葛藤して…といろんな体験をしていくでしょう。
そんなときに、まずは、お互いの子どもの気持ちを言葉にのせて伝えてあげることを大切にしています。大人がジャッジしたり解決したりしようとするのではなく、あくまで、子どもたち自身が自分の気持ちや相手の気持ちに少しずつ気付いていくことができるよう・・・そして、子ども同士の気持ちのやりとりの橋渡し役となれるよう、支えていきます。
大人が「良い、わるい」…を判断して押し付けなくても、ほんとうは、子ども自身がよく分かっているのではないかな、と感じます。
実は、この取り合いっこの場面でも、Rちゃん、もう少し引っ張ったら鏡を取ってしまうことができたと思うのです。でも、すぐ引っ張るのをやめて、手に入れられなかった悔しさを大人に受け止めてもらいにきました。
こうやって、子どもたち自身、自分なりに(どうしようか)と選んでいるんだなぁと感じました。

気持ちを受け止めてもらったり寄り添ってもらったりしながら、その経験を重ねていく中で、子どもたちは少しずつ友だち同士でやりとりしていくことを学んでいきます。それは、とても時間のかかることですが、一つ一つが ちっちさんの頃からの積み重ねなのだと考えています。
そう思うと、ちっちぐんぐんの時期は、お友だちとのやりとりや関係を学び築いていくための、最も大事な時期とも言えそうですね。

このあと、にこにこ組のAちゃんとRちゃんが、ふたりでおしゃべりしながら鏡を覗き込んでいました。


この場面はこの場面で なんだかほほえましい光景ですが、このふたりも、これまで何度も何度もケンカして気持ちをぶつけ合ったり気持ちを通わせたり…という経験をちっちさんの頃から繰り返してきたはずです。

にこにこ組(2歳児クラス)の頃になると、こんな風にお友だち同士の関係もますます深まって、一緒に使ったり、取り合いになっても相談し合ったりできるような姿も見られます。
それは、ちっち組のみんなの数年後の姿でもあるのかもしれないですね。そんなことを考えながら、いまこの時期を、丁寧に大切に過ごしていきたいなぁ、と改めて思ったのでした。

子どもは自然栽培の味噌の「おいしさ」がわかる

2022/09/22

今日の給食のお味噌汁は、自然栽培で作った味噌を使いました。すると、ある子どもが「おいしい」と言って、おかわりをしました。どうも子どもは、この「おいしさ」の違いがわかるようなのです。子どもの身体はまだ自然に近いので、この違いをキャッチするセンサーがあるのでしょうか。この辺りの人体をめぐる科学は、非常に遅れており、身体についてはわかっていないことが、山ほどあります。この今日22日(金)のエピソードを聞いて、次のような話を思い出しました。自然栽培で作られた作物やその発酵食品(この場合は味噌)は、私たちの人体を自然の生態系の一部に戻してくれるという話です。ちょっと長くなりますが、人体と自然との関係を考えると、うちなる自然環境は、実は胃や腸だという話に遡ることになります。

私たちの体の<内部>はどこか?というと、胃や腸は<外部>であって、内部でないと考えることができます。口から肛門までは筒になっていて、外の環境に開かれています。口から物を食べて、肛門から排泄する。その途中で色々なものを体内に取り込んで、体内から不要なものを外の出すわけですが、この通り道の筒は、体の内部ではなく外部だと考えることができます。私たちの人体を大きな一つの筒、トイレットペーパーやサランラップの芯のようは円筒だと思ってください。

その人体の円筒模型は、もっぺらぼうではなくて、ビオトープのような生態系になっています。口と肛門という蓋がつているので、空洞部分の中身は、私たちの意志で開けたり閉めたりできます。ただその円筒の途中にも、幾つも開け閉めできる門があって、その部屋は閉じられています。口腔、胃、小腸、大腸、直腸などの部屋に分かれていると思ってください。その生態系は、例えると、口腔は石畳の庭の入り口のようなもので、食道は草むらの細長い道のようなもので、その先の胃は、洞窟になっていて中はうねるような林です。

さらにその後の小腸はまるで密林のようです。その中には、色々な液体が雨のように降っているジャングルのように湿っており、いろんな生き物が棲んでいます。乳酸菌やフェカリス菌、アシドフィルス菌、ビフィズス菌など、有名なものから、聞いたこともないような不思議な菌類がいっぱい棲んでいます。

私たちは自分の胃や腸を内部だと思っているので、ちょっと見当はずれなことをたくさんしてしまっています。私たちの本当の内部から見たら、この外部である胃や腸の中を、もっといい環境にしてあげる必要があるのです。それは棲んでいる部屋の空間をよくするのと同じように、外部である胃や腸の中をよくすることが大切なのです。最近、よく言われるようになった腸内環境を良くしようというのは、このことです。

すると、腸には口から入れても実は胃のところで強酸で分解されてしまうので、ほとんどの菌はそこで死んでしまいます。先ほどの羅列した菌たちは、腸のビオトープまでは辿り着けません。では、どうやったら腸内環境が良くなるのかというと、腸内環境を含めた円筒模型の中身を、自然の生態系に戻すことが必要になります。そのために、私たちは筒の中だけを問題にするのではなくて、筒の厚さの部分、つまり私たちの肉体、身体そのものを、内側から自然なるものに作り替えていく必要があります。その方法は、自然栽培の世界と私たちの身体を繋いでいくことなのです。

 

風であそぼう

2022/09/13

保育園では毎年、年間テーマを設けています。今年度は「風と光と・・・」というもので、生活の中の風や光に少し興味を持って、子どもの体験が深まったり広がったりすることにつながるといいな、と思っています。たとえば、13日(火)の2歳児クラスをのぞいてみると、うちわで風船を扇いだり、牛乳パックで作ったものを扇いで倒したりして遊んでいました。この遊びは実習生が考えた「風遊び」ですが、このアイデアは、10日(土)に開いた「納涼会」で遊んだ風の実験からつながっているものです。

この「風の実験」は、机の下から噴きあげるサーキュレーターの上に、筒を置いて、その上にいろんなものを「浮かべてみる」という遊びです。風船やスカーフやカップラーメンの容器とか、「こんなものが本当に浮かぶかな?」というものまで浮かんでしまうので、大人が見ても面白い実験装置です。でも大人が面白いと思うことと、子どもが思うものとは違うかもしれません。

風は見えないし、手で触ることもできないので、どういうものかというイメージも持ちにくいはずです。直接さわったり持ったりできないものだけに、それを感じる場面をいろいろ体験して、子どもは、そこから「風」に要素を抽出してくるのだろうと思います。その時の表現(言葉など)は、その子の感じたリアルな感覚なので、誰一人として他の人と同じものにはなりません。いろんな感じ方や表現になることでしょう。

納涼会では、風車を扇風機に当てて、クルクルと回すという遊びもしました。これらの遊びは、風を使ったものですが、普段の生活の中の風体験とどこかでつながって、いろんな気づきを生んでいるのだろうと想像します。暑いときに扇子やうちわで扇ぐと涼しく感じたり、蝋燭の火をふっと吹いて消す時も、それは同じものと思うことがあるのかどうかわかりません。

ジェット機に乗っている時、私たち乗客は外の風を感じることはありません。台風の最大瞬間風速が50メートルと言われても、きっとそれを実感することはできません。子どもの世界で感じる「風」の世界を、たくさん探して集めたりすることで、見えてくる「風」というものがあるのかもしれません。それは子どもなりに、新しい風の体験になっていくかもしれません。そうしたいろいろな経験を重ねる中で、きっといろいろなものを気づき、子どもなりの好奇心が躍動していくのだろうと思います。

コンテンポラリーダンス「ZER○」の青木尚哉さん

2022/09/03

10月22日(土)の「親子運動遊びの会」(運動会)は、昨年、一昨年と同じように、コンテンポラリーダンサー青木尚哉さんとのコラボレーションで実施します。青木さんは「ZER〇」(ゼロ)という名前のダンスグループを創って活躍されている方です。身体と表現の関係から運動を捉え直していことで、子どもの発達にとって本当に必要な運動や環境とはどういうことかを探究していく活動になっています。今年は7月下旬から月2回ほどのペースで園に来てくださり、子どもとダンスを通じた体験を積み重ねています。運動会では、親子でその醍醐味を味わえたらと思っています。「ZER〇」のダンサーで、青木さんと一緒に園に来てくださっている芝田いづみさんも、丸3年のお付き合いです。子どもたちはお二人が大好きです。「大きくなったらダンサーになりたいです」という子どもたちが、出てこないかなあ、と思ったり。連絡アプリでお伝えした、お二人の自己紹介の動画、ぜひご覧ください。

 

 

これからの教育に必要な3つの特徴

2022/09/02

私たち保育者が日頃考えていることは、子どものことご家族のこともそうですが、私たちを取り巻く人間関係、規制やルール、自然や教育のことなど社会全体のシステムも同時に考えながら仕事をしています。目に映るものや見えている景色にとどまらず、そのような「目に見えない社会の仕組み」から、私たちは精神的にも身体的にも大きな影響を受けているからです。その目に見えない仕組みの中で、私たちに大きな影響を与え続けているものが「教育制度」です。

今日2日(金)は、その社会システム「教育制度」の中でも、これから必要になる教育について考える機会がありました。まだできていないけれども、これから必要になる教育とは、どんなものなのでしょうか? それは保育者がこれまで受けてきた教育、あるいは、いま受けている教育(ちょうど大学から保育実習生が今、園に来ていますが)と、何が異なるのしょうか?

それにはいくつかの特徴がある気がするのですが、一つは、教育や学習で身につける<中身の変化>です。時代の変化が早いとき、個人が身につけて活用できる知識や技術(技能)=いわゆるスキルは、常に新しいものに置き換えていくことが必要になります。スキルのアップデートは社会人ほど不可欠な時代になりました。たとえば私はネット社会に必要なIT技術を学び直しています。しかも、そのスキルは、他者との協働の中で使う比重が増えました。一人でできることなんて、たかが知れいているからです。ほとんどの仕事がチームです。

専門性にコミュニケーション力、発信力、共感力、ファシリテート力などが不可欠になってきたのです。教師も知識や技術(技能)を教えるティーチングよりも、学習者が意欲的に学べるように導くコーチングのほうが重要になります。またコンテンツを直接教えるよりも、どうしたらそのコンテンツにたどり着けて自分で自分のものにしていくか、その学び方を教えることの方が大切になります。これが変化していく<中身>の話です。

もう一つの特徴は、必要とされる知識や学び方それ自体を支える価値判断のスキルです。何が本当に必要なスキルなのか、なぜそのスキルが大事なのか、その理念や目的、個人の考えや思想、生き方、幸福感などは、今後ますます多様で複雑になっていくでしょう。<中身>の方で共同性が重視されるとき、協働する相手の価値を認め、大切にし合いながら、しかも、共通の価値=コモンを創造していく活動を創り出していくことになります。

すると、理念や目的、個人の考え方や生き方、幸福感などが個人や地域や国などによって異なってくることを前提にしながら、地球環境という限られた資源を持続可能に保っていくためのコモンのあり方を見つけ出しながら、目の前の経済社会の動的平衡の中でバランスをとりながら現状も維持して、ソフトランディング(あるいはソフトランチャー)していくことの両立を図らなければなりません。「この農薬散布は良くないけど、すぐにやめるわけにはいかない」といったジレンマの中での、よりよいものへの粘り強いシフトが必要なのです。

その時、たぶんこれまで以上に重視されるようになるのは「対話力」です。こどもかいぎ、のようなことがとても大切なことになっていくのです。しかも、その中で自分づくりが営まれるのです。自己と他者という永遠の哲学的テーマも、新しい時代にふさわしい形で、再認識されることになるでしょう。すでに、その兆候が見えていますけれども・・。

新しい時代に必要な教育のあり方とは、このような中身、方法、より良い価値へのビジョンの3つの側面を具体化するものでなければなりません。保育者にとってもそれが必要で、それはこんなものだということを、今日は確認したのでした。

 

「保育の過程」の2つの語り口

2022/08/29

当園の保育の特徴は、子どもの発達をとらえる「視点の広さ」にあるかもしれません。子どもの姿を多様な視点でとらえることは、保育の質を語るときに欠かせないものです。同じ子どもであっても、どんな視点でとらえるかによって、姿は異なってくるからです。その子ども理解を保育の起点(スタート)とし、そこから「こうあってほしい」という保育者の願いが保育計画や、次の保育の展開の機動力になっていくというのは事実だし、その流れを「保育の過程」と考えることが、今の保育の定説になっています。

しかし、その起点が動かない、保育が展開しない、という事実が多いのも現実であることを考えると、保育者の理解度、願いやねらい設定といった、保育者側のことで、子どもの体験が制限されてしまうとしたら、そこを乗り越えるためにも、子どもに任せる、子どもの思いや考えを「聞く」、そして子どもに生活プランの推進のチャンスを保証する、そういう範囲を増やすことが大事になっていると思えます。

今日29日(月)から保育実習生が一人きています。同じ子どもたちについて、私の見え方と実習生の見え方は違います。それはきっと、誰でも「そうだろうなあ」と認めてくださることでしょう。同じように私の見え方と保護者の見え方も違います。子どもと先生という関係と、親子関係とでは、違って見えて当たり前でしょう。園と家庭では、実際に行動パターンが異なるでしょう。人によって見え方が違えば、保育の起点や展開も変わるでしょう。

今日、こんなことがありました。朝、3階で久しぶりに「園長ライオン」をやりました。これまで何度も同じ遊びを積み重ねてきた子どもたちですが、やってみると子どもの成長を感じます。2年前と今、1年前と今では、この同じ遊びであっても「面白がり方」が、落ち着いているとでもいうのでしょうか、慣れている遊びの習熟度を感じます。弾むような興奮ではなく、気持ちが「熟成している高揚感」とでも言っていいかもしれません。ワクワク、ドキドキが楽しいという部分はあるのですが、それぞれに余裕があるのです。そんな違いはきっと私にか感じない「子ども理解」であり保育の「起点」です。

でも、今日はその子たちがその後、「和泉公園」に出かけて、トンボを捕まえてきました。もう自然界は秋です。そのプランは、主任や担任の「子ども理解」から始まったものですが、鍵になったのは、子どもがどうしたいのかを「聞いた」からです。トンボについて関心を持っていた子どもたちがいたことをキャッチし、さらにトンボを探して捕まえたい、という子どもの願いやプランを優先して、それを叶えてあげたい、と先生たちが工夫したからです。

保育者を主語にした保育の語り、そして子どもが主体となる生活づくりの語り。同じ出来事の連なりを、どちらで語るか、あるいは両方を共に語り比べることで、「新しい気づき」が生まれるのか、そんなことを試してみたいと考えています。

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