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保育アーカイブ

生き物の不思議

2021/06/07

アリの巣をじっくり観察している子どもたちは、いろいろな気づきを教えてくれます。

自分の体よりも大きな石をくわえて運んでいる様子を「ほら、みて。あごでこんなに強いんだよ」と。

そのアゴをどうにかしてよく見ようとして、拡大鏡を当てて、覗き込んでいます。

また、アゲハ蝶になるのを楽しみ待っている子は「もうすぐかなあ」と、聞くのであと1週間ぐらいかな?と話しています。

私も同じようによく見たいものが見つかって、スマホのカメラを拡大鏡の代わりにして探しました。神宮司さんに教えてもらったのですが、玄関の稲の水の中に「ホウネンエビ」がいました。

小さな小さなビオロープができていたのです。卵が土の中にいたのでしょう。稲を植えた水の中が、居心地のいい場所になっているようです。

 

6月の最初の週を振り返る

2021/06/05

この日記を読んでくださっている方は、時々、週末の日記がその週の反省になっていることに気づかれていると思います。反省といっても「ごめんなさい」ではなくて、ああしたけど、本当はこうした方がよかったかなあ、とか、ああ言ってしまったけど、本当はこう言った方が良かったかなあ、とか反省しているわけです。それは週末に改めてやっているというよりも、その直後やその日に思ったり、感じたりしているのですが、それを改めて思い巡らす時間がやってくるのです。

疲れていると、それさえも億劫になってしまいます。反省も元気な時でないと人はできないものです。子どもが叱られて「反省しているの!」と言われることありますが、そんな時、子どもも反省していません。そう言われるから「はい」と言っているだけのことが多くて、本当の反省は、自分から「これこれこうだったから、これからはこうしなくっちゃ」決められた時です。ましてや気持ちが凹んでいる時は、できるものではありません。「だって、こうだったんだもん」が胸いっぱいだったり、思わず「イラッとしてやってしまった」自分への情けなさや、不甲斐なさや、怒られていること事態が心を硬くしてしまっていることもあります。

反省も前へ一歩進めて考えること、気持ちを自分で前へ動かすことですから、いい悪いの判断が「理解」できても、心と体が前向きによくしようと動き出すとは限りません。ちょっと脱線しますが、多くの人は心と体は別物だと思っているのですが、違います。多くの人は体を目に見える部分だと思っています。あるいは感じ取れる部分だと思っています。目に見えない部分や感じ取れない部分は、説明されないとそこも体だと思っていません。

心はみんな「ある」と思っているのですが、どこにあるのですか?と聞かれたら、まともに答えられる人はあまりいません。胸に手を当てたり、頭の中の脳だという人もいます。でもよく考えてみて欲しいのですが、私たちの心身は、私たちがデザインして作ったものではなくて、大いなる自然からの贈り物です。体も心も自然に属しているということを認めてもらえると思います。そしてその心身は、物として見えたり実感できる部分を「からだ」とよび、目に見えない心身の部分を「こころ」と区別してしまっているのです。本来は、精子と卵子が受精して受精卵が分裂を始めて以来ずっと、心身は同じ物であり、分かれていないものでした。

と、道草はここまでで、話に戻ってくると、反省して自分で考えも行動も動き出すには、この心身共々が一緒に動き出すことなのです。心の方だけを「理解」させて正しい行動をさせようとしても、からだの方が納得していない、ということが多いのです。からだの方というのは、カッとなりやすい、気が散る、落ち着きがない、寝不足である、睡眠リズムが乱れている、動物性タンパク質の過剰摂取が感情の不調をもたらしている・・・いろいろなトラブルを抱えていたりして、からだの方のコンデションが悪くて、心が憂鬱になったり、気分が滅入ってしまったり、我慢強さが発揮できなかったりします。

頭で理解できたからと言って、心身がバラバラだとうまくいかないのです。心身はもともと同じ物です。ちょうど、子どもが言葉を獲得する頃に、自分というものを認識できるようになっていくのですが、なぜが人間だけが自分を自分だと(客観視して)認識できる「自我」を持つので、こうやって私も反省ができるのです。

そして、それを精神というのですが、それが心だと勘違いしている人がとても多い。今思ったり、考えたりしていることは精神がやっているのですが、実際に鬱症状になったり、人に会いたくなかったり、人にあたり散らかしたり、世の中を恨んだり、理由もなく人生に焦ったりしているのは、本来は一体である心身の不調かもしれません。

目で見える体の方は、物に還元して治療を試みる近代医学(漢方も含む)に任せるとして、もう一つの目に見えない身体である心の方も、治療としてもメンタルケアが必要なのです。その二つがセットで健康であることが、人生に前向きな態度を生むことになるのでしょう。心の不調の方は、目に見えにくいので、発熱のような症状にならない限り、正しく受け止めてもらえにくいという事情があります。あたかも反抗的だとか、決まりを守らないとか、甘えているとか、誤った判断になってしまうこともありうるのです。

と、また脱線してしまったのですが、子どもの「心身=こころとからだ」が求めているものに感度よく傾聴しながら、大人は子どもにとって心の避難場所であり安全基地でありたいと思います。

運動「はらぺこあおむし遊び」の環境構成

2021/06/04

国が示している保育の基本には「環境を通した保育」という考え方があります。これは、普段私たちが生活している中で行っている「いって聞かせてさせること」と、真反対、180度異なります。

子どもの方が自ら環境に働きかけて、そこで受ける経験が発達を促す、と考えるのです。子どもが環境に働きかけるのです。大人が子どもに働きかけるのではありません。子どもの方が、思わず遊びたくなるような環境にします。そんな環境を通して保育をしてくださいというのです。

これは、幼稚園教育要領も保育所保育指針も、幼保連携型認定こども園教育・保育要領にも、その冒頭で強調しています。

この「環境を通した保育」は、千代田せいが保育園の最大の特徴です。空間も物も人も、子どもの方から働きかけてくるようにしているからです。子どもにとって、通いたくなるような、遊びたくなるような、自分の居場所になるような空間、物、人をデザインします。

昨日は朝の運動遊びで「園長ライオン」をしましたが、これは「環境を通した保育」のなかの人的環境が「園長ライオン」であるということです。それを用意してくれ!というのが子どもからのリクエストでした。

今日6月4日は、私の方で空間と物を用意してみました。それは「はらぺこあおむし遊び」です。いつものネットやクライミングだと、入りにくい子どももいるので、誰でもやりたくなるようにしました。ちっち組からトンネルを借りてきて、そこをくぐり抜けると、あおむしになります。

続く緑の3枚のマットが、みかんの葉っぱです。これを四つん這いになって、むしゃむしゃ食べながら行くと、あおむしは大きくなって、さなぎになります。そしてちょうになったら、トランポリンで飛び跳ねます。

さなぎになる場所は、ネットの上でも、クライミングウォールでも構いません。そこから降りる時が、ちょうになる時です。

こんなシチュエーションを用意してあげると、どの子もにこにこ楽しそうです。その気になって、つまり自分があおむしやさなぎやちょうになっているのです。

この「つもり遊び」は、強力です。遊びの中心には模倣、つまり再現欲求が強力に働いているとしか考えられません。その欲求を空間と物が引き出すのです。

何を引き出すのかというと象徴作用であり子どもの身体としての表象力です。「環境を通した保育」は、子どもが思わず遊びたくなるような環境を用意しなければならないわけですが、その要素の一つは、子どもがイメージしやすいものを再現するような遊びの場を作り出すことでしょう。今日はそのことを強く感じました。

東社協保育部会の保育研究大会

2021/06/03

今日6月3日は、午後から東京都社会福祉協議会の保育部会が開催している「保育研究大会」に参加しました。参加といってもオンラインでの参加です。当園からは「いま改めて「早寝早起き」の習慣づくリ〜赤ちゃんの睡眠リズムを中心に〜」の実践を報告しました。参加者は5月11日から公開されている発表動画を事前に視聴してから今日のライブ協議に参加します。今日はそのライブ分科会が開かれたのです。

5月の日本保育学会でも感じたのですが、事前収録を視聴できる形のリモート開催は、事前にじっくりと内容を理解できるので、とてもいいと思います。ライブ参加だけの時は、聞き逃したらそれで終わり。視聴し直しができません。それに引き換え、録画されているものなら、都合のいい時間に視聴できるので、とても勝手がいいのです。

一方でライブでのグループ討議もあるので、リアルな話し合いの感覚も体験できます。参加者もリモート方式に慣れているのか、それほど違和感も感じません。一年前に比べるとかなり馴染んできたという感じでした。

さて、実践内容の方ですが、当園は開園して2年が経ちましたが、生活リズムづくりは、この間1年半に渡って取り組んできましたが、いま見えてきた風景は、子どもにとって何がいいのか、保護者のみなさんと一緒にじっくりと考えていこうという、長い道のりの風景です。その道は、それぞれの子どもの実際に合わせて歩んでいく道です。今日の話し合いではその長い道の歩み方は多様であることを確認できた気がします。今年の睡眠講座は6月15日から始めます。

収録録画は以下から見ることができます。

https://eqm.page.link/68po

子どもの早寝早起きをすすめる会

http://www.hayaoki.jp/video_qa.cfm

 

 

久しぶりの園長ライオン

2021/06/03

今日6月3日は久しぶりに朝の運動タイムは「園長ライオン」で遊びました。何度かこの遊びは紹介しているので、ご存知の方が多いと思いますが、いくつかの大切な保育のねらいがあって、61歳の園長がライオンになって遊んであげているのですから、なんとも「見守らない保育」の最たるものだと、自覚しているわけですが、それでもやった方がいいという判断なのですから、それなりのねらいがあるわけです。

この遊びは、いってみれば、子どものセロトニン増産活動です。朝起きて光を浴びて目覚めた体が、じゃれ遊びによって活性化されます。朝、この時間があると夜の睡眠タイムに向けて起床後16時間後のメラトニン産生へと加速されます。まず、この生活リズムづくりが一つ。

次に「じゃれ遊び」であること。スキンシップの効果によって、人と人のふれあいが深まること。「抱っこ」をお願いしなくても、ライオンに捕まると抱っこされるので、それが嬉しいようです。人間も動物ですから、この皮膚と皮膚の触れ合いは極めて重要です。

3つ目は「ドキドキ感」です。捕まりたくないから逃げるという鬼ごっこと同じスリル感がたまらないようです。このドキドキ感は、前頭葉を発達させます。ワクワクとドキドキは実行機能を高める前頭葉を育てることがわかっているので、子どもが鬼ごっこや、追いかけっこをしたがるのは、その脳の機能を使いたがっていると言えます。

ちょっと脱線しますが、何かをやりたがることは大事なことが含まれているという目線で理解できることが大事なのですが、それは「自発的利用の原理」と同じです。一般になんでも能力は「使わないと伸びない」ものだからです。追いかけっこごっこが好きなのは、そのドキドキ感が脳のその部分を使っていることに他なりません。どう使っているのかというと、ドキドキして興奮させていることが、気持ちと体のエンジンをアクセルを全開にして使っているのです。

すると、今度はアクセルをふかしっぱなしではなくて、抑えないといけないタイミングがやってきます。ブレーキをかける必要が出てきます。「さあ、あと5分でおしまいの時間になるよ。あと一回やったら終わりにしよう」と必ず言います。もうすぐ終わりなんだな、と子どもたちは、ブレーキペダルを意識します。

5分が経ちました。「さあ、終わりの時間になったね。楽しかった人?」と言います。すると「は〜い」と全員が手をあげて、おしまいになっていきます。どの子も「楽しかった」と満足げです。この興奮と抑制が4つ目のねらいです。この興奮と抑制のリズムを毎朝、体験すること。これがその後の時間の過ごし方に、精神の集中と発散のリズムをもたらすのです。

取り立てて難しい遊びではなくて、ふりあそびの世界に子どもが没頭している間に、身体的な力も身につきます。バランス力、懸垂力、支持力、跳躍力(ライオンに食べらると、トランポリンを10回とぶのがルールなのです)など、いろんな力が育つことになります。この身体機能の育ちがねらいの5番目です。

まとめると、睡眠サイクル、スキンシップ効果、興奮と鎮静の脳機能、模倣遊びによる想像力、身体機能の育成、とでもなるでしょうか。他にもある気がします。色々な言葉の発達、コミュニケーション能力の育成、チームワークの育ち。たった30分ですが、面白くて意味のある30分でした。

 

園長の絵本タイム

2021/06/02

毎週水曜日のおやつが終わった後、福田さんによる絵本の読み聞かせが、今はコロナでできないので、5月26日から園長による絵本タイムを始めました。今日はロバート・マックロスキーの『かもさんおとおり』とアーノルド・ローベルの『おはなしばんざい』の2冊です。

4時ごろから40分ほどかけて、プロジェクターに映し出して読んであげたのですが、集まってきたのが、わいわいさんとらんらんさんだったので、語りは「私の絵付き素話」になりました。絵本に書いてある通りに読んでは、ちょっと難しいからです。絵本は文字を読まなくても、絵だけでも内容がわかるようなものがいいのですが、それが見事になりたちました。この2冊をほとんどの3歳、4歳の子たちが飽きることなく、食い入るようにお話の世界に入り込んでいたのですから、いかに子どもというのは想像の世界を楽しむことが好きか、よーくわかりました。教育に物語が果たす役割の大きさを感じました。

さなぎの中を想像してみるように・・

2021/06/01

今日から6月ですが、大人が作り上げた生活習慣とは別の原理で、子どもの成長は止まることがありません。私たちは社会に住んでいますが、その当の私たち人間は自然界に属しています。子どももそうです。このことを、私たちは忘れがちなのですが、紛れもなく自然界の法則に従って成長(私は老化!)しています。

そんなことを思い出させたのは、年中のらんらんさんたちが見せてくれる、ある種の落ち着きです。

昨日のあの蛹は、静かにその中で、うごめいているのですが、ちょうど今、幼虫だったあおむしの頃の姿は全くなくなり、一旦、どろどろになっているのがちょうど今頃です。外から見てもその変化はわからないのですが、あと10日もすれば、あのアゲハ蝶になって蛹を破って出てきます。NHKのサイトに、もんしろちょうですが、サナギの中がどのように変化しているかの動画があります。(NHK  for School )

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005301640_00000

 

その間の変化は、まさにミラクルなのですが、それと似たような大変化を、らんらんさんが日々行っていると思えてきたからです。わいわいの頃のあの幼い幼児の面影が、だんだん少年少女のようになっていく変化を、日々の言動から少しずつ感じます。

目に見えない変化は、実は大きな変化であって、ある時、びっくりするような姿を見えるようにしてくれます。その内面の揺れうごき、精神性の育ちは、相当に大きいもので、大きな変化を遂げるためには、蛹のような殻が必要なのかもしれません。

目には見えない、その殻の役割を言葉で表すと「そっとしておく」という役割です。関心を持って見守りますが、動かしてはいけません。人間がドロドロの状態にまでなるわけではありませんが、もしかすると、自分の中から湧き上がってくるままに楽しい、面白いと手を出しては触り、なんでも確かめていた子たちが、じっと物事を見つめ、考え始めました。周りの人と物をもう一度、確かめ直しているかのように、あるいは自分の中に位置付け直しているかのように、らんらんの子たちが、小さな哲学者のように、何やら思索的な面持ちを醸し出しているではありませんか。確実に、大いなる変化を遂げようとしているのです。

さて今月は、保育参観があります。らんらんに限らず、その年齢らしい、その子らしい育ちの姿を垣間見て欲しいと思います。園には家庭とは違う子どもたちの姿があるでしょう。違うのは当たり前です。環境が違えば見えてくる子どもの姿も変わります。そこが面白いところでもあります。参観といっても、コロナ対策のための、距離をとっていただくことになるので、思うような参観とはいきませんが、お子さんの成長ぶりを感じていただけたら嬉しいです。

第55回保育環境セミナー

2021/05/29

私たちの保育園は年間を通じて、職員の専門性を高めるための研修を実施しています。専門性の向上は、プロの保育者として欠かせない営みなのですが、大事にしていることは研修で学んだことが実践に生かされるということです。日々の生活は生活、研修は研修と繋がっていないなら、それは意味がありません。学んだことが日々の保育に生かされた初めて研修の意味があります。

そこで私たちはいくつかの工夫をしていることがあります。それはまず、誰から、あるいはどんな団体から、何を学ぶか、どんな組織からどんな内容を学ぶかというコンテンツに関わる精選の話がまず一つ。それから、学び手が学びたいという動機や意欲、何を学びたいのかという学び手の置かれている状況や文脈に即した学び方や学ぶタイミングという話があります。この二つがマッチしないと、本当にいきた豊かな研修にはならないものなのです。

この二つの学びの条件をクリアするために、私の上司の社会福祉法人省我会の理事長、藤森平司は、目指す保育理念が一致するものが集まって研修内容を作り上げることが必要であると考え、17年前に全国組織の保育環境研究所ギビングツリー(略称G T、会の名前は福祉的貢献を意味する「与える木」という題名の絵本の「ビギングツリー」から)を立ち上げました。毎年3種類の研修を計6回開催してきました。

3種類というのは、主に保育士が学ぶ入門的な位置付けになっている「保育環境セミナー」年3回、主任クラスが学ぶ「保育リーダー研修」年1回、看護師や調理員が学ぶ「職域別セミナー」年1回、そして園長や理事長が学ぶ「G Tサミット」年1会です。北海道から沖縄まで、全国に約250園の法人会員がいますが、どの園も子ども主体の保育を目指している保育園、幼稚園、こども園ばかりで、国が目指している保育を具現化している保育になっています。

今年度の最初の保育環境セミナーが5月29日(土)に開かれました。主会場は新宿・高田馬場にある「新宿せいが子ども園」で、そこでは15名が参加し、そのほかはリモートで全国から約100園が参加しました。コロナ禍の研修はリモートが増えましたが、GT主催者代表の藤森は「抽象的な話が増えて、具体的な研修が減っている。コロナ禍であっても具体的にわかりやすい研修にしたい」と、理論的な背景と具体的な実践例をセットで語りました。

今回のテーマは「空間」です。子どもが主体的に生活するためには、子どもが自発的に関わる環境が良くなければならないのですが、幼稚園教育要領や保育所保育指針では、その環境はを「人、物、自然や事象などの場」と定義しており、保育者が意図してデザインできる環境としては「人、物、空間」ということになります。今回は、まず「空間」について学び直したわけです。次回6月は、その実践事例をG T会員園の実践事例から深めます。

子どもと遊び、子どもに学ぶ

2021/05/27

(園だより6月号 巻頭言より)

私が好きな言葉に、絵本作家かこさとし(加古里子)さんの「子どもと遊び、子どもに学ぶ」というのがあります。子どもと遊んでいると、子どもから教えられることがたくさんあります。なかでも、私が「これがオススメ」と思って選んだ絵本よりも「そうか、こっちなんだ」と、いい意味で裏切られるときがあって、そんな時は大事なことに気付かされることが結構あります。

実は昨日5月26日も、そんなことがありました。用意していた絵本は、寝る前に読んであげるのに最適な『どんなに きみがすきだか あててごらん』(サム・マクプラットニィ)だったのですが、リクエストされたのは、4月末の「こどもの日まつり」で読んであげた絵本『かえうた かえうた こいのぼり』でした。この2つの絵本は、ほのぼの系とユーモア系という、タイプが全く異なるので、比較しようがないのですが、どっちの反応が健康か?と、ちゃんと考えると、ユーモアを求める子どもの方が健全じゃないかと感じたのです。

大人は子どもに文学的な質のよさや、上品さへの感興といったものを期待しがちなのですが、これは大人の勝手な思い込みじゃないかと感じることがあります。子どもは、おばけ、怪獣、「ざんねんな生き物」など美しくないもの、どこか常識ハズレなもの、極端なものを好みます。ただ、そこには歴然と許されるものとダメなものがあって、排他的で差別的、悪趣味なものは認めるわけにはいきません。絵本『かえうた〜』は、「♪やねより高いこいのぼり〜」の歌詞を「♪いえよりでかい鯉のぼり〜」などと、虎の子ども三兄弟が替え歌にして、悪ノリしていくお話なのですが、その「おふざけ」ぶりを、それはそれとして楽しむ力があることを、子どもたちの笑顔が証明していました。

日本の絵本には、この系譜の絵本がちゃんと根付いていて、ユーモアの質が高い気がします。漫画、コミック、ゲーム、お笑い、落語、狂言・・日本文化の「笑い」は実に多様です。平安時代から<遊びをせんとや生れけむ/戯れせんとや生れけん/遊ぶ子どもの声聞けば/わが身さへこそゆるがるれ>(梁塵秘抄)と、後白河法皇も子どもの笑い声に自身を振り返っていました。

子どもが教えてくれるものは、大人の価値観との、ある種の「差」です。時々、現実を軽々と乗り越えていく生きる力をそこに感じてしまいます。私たち大人が、自分で自分たちを縛っているものにも気づかせてくれる時さえあります。本当に、子どもから学ぶことは多いものですね。

花を愛でるような気持ちで生活したい

2021/05/26

24年ぶりの皆既月食を見たかったのですが、残念ながら雲が遮ってまだ見えません。(下の写真はテレビニュースから)

さて、今日5月26日(水)はいよいよ「親子交流イベント」の最終盤となる「親子フラワーアレンジメント」用の花の配布を始めました。

昨年もちょういどこの時期、第一回目の緊急事態宣言下の閉園期間中に行った「親子フラワーアレンジメント」を思い出しますが、少しでも花の力を借りて私たちの生活に潤いを感じてもらえたら嬉しいです。

花は素朴に美しいと感じます。それは子どもも何も教えなくても「わあ、きれい」と感じています。綺麗なもの、美しいものを慈しむ心、大事にしたいという心が、生活に優しさをもたらしてくれます。

生活の中に花を楽しむ、ちょっと贅沢なものかもしれませんが、やっぱりいいものですね。穏やかな言葉、いいねと感じる賞賛のある生活、花を愛でるように人を愛でながら生活ができたら、世の中はきっと幸せになるはずと思えてきます。どこまでも単純な基準を生活の中で確認したい。そんなことを感じさせる力が花にはありますね。

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