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保育アーカイブ

子どもたちにとっての納涼会

2021/08/13

コロナ禍で軒並み中止になってしまった夏の風物詩の数々。大人にとっては懐かしいと感じるお祭りの屋台や盆踊り。

そうであっても、未曾有の感染爆発真っ只中にあるからこそ、彼岸から現世を心配されているご先祖さまをお迎えするのがお盆の礼儀というもの。地域でそれらを準備して、実施していく大人をみながら、子どもは育っていくのです。その光景を無きものにしてしまうことが、現代の残酷さでもあります。

子どもたちは「納涼会プロジェクト」をはじめました。というとなんだか凄そうですが(笑)、要するに「お店屋さんごっこ」です。

納涼会はやることにしました。それに向けて7月上旬から、幼児組の子どもたちは、お祭りの屋台に並ぶ「美味しいもの」を作ろうと話し合っていました。

室内にちょうちんを飾った今日13日(金)。制作ゾーンを覗くと、お寿司を握っていました。

まぐろやしゃけ、玉子焼きなどができていました。屋台でお寿司はあまり見かけませんが、それはまあ、いいとして・・

これまでにも作ってきた様子を主任が玄関に張り出してくれました。焼きそば、たこ焼き、ドーナツなど、どれもおいそう・・・ぜひご覧ください。

咲いた朝顔の花

2021/08/12

子どもたちが種から育てた「朝顔」が玄関で咲きました。

先生に抱っこしてもらって、花の中を覗き込むと・・・

「オシベみたいなのが、4つあった」「キラキラしてた」

すいすい(年長)ともなると、雄蕊って言葉を知っているんですね。

ほんとに綺麗でした。

春に植えた稲も穂が実っています。

玄関周りの緑には、すいすいの子たちが、毎日のように水やりを続けてきました。

 

お手伝いが大好きなすいすい組のお世話のおかげで、さいた朝顔。

いろいろなことを伝え合い、話し合う姿が頼もしいすいすい組の子どもたち。

最近のすいすいさんの成長ぶりを表しているかのようです。

真夏のダンスの向こうに江戸情緒を感じよう

2021/08/03

今日は7月に続き、今年2回目となるダンスの日。青木さんと芝田さんがいらっしゃって、乳児から幼児まで全クラスで体を動かして遊びました。

いま「ダンスの日」と言いましたが、実は青木さんは「ダンスと言うと、その言葉のイメージに引っ張られてしまって、意味が狭くなってしまうよね」と話されています。青木さんの活動は、ダンスの枠を超えて「身体」そのものの可能性を、いろいろな世界に切り開くような営みを探究されています。園の生活の中では「楽しく体を動かす」としかいいようがありませんが、でも、ただ動かすというのではありません。動き全体をデザインしつつ、子どもから生まれてくる創造力を上手に引き出していきます。

例えば今回もいくつかの新しい試みがあったのですが、その一つは「わらべうた」の導入でした。わらべうたは、日本に昔から伝わる児童文化財です。「い・れ・て」「い・い・よ」もわらべうたなのですが、「い・れ・て」(ソ・ファ・ソ)「い・い・よ」(ソ・ファ・ソ)のように、シンプルな音階と休符からなり、会話と音楽を繋ぐような位置にあるのですが、併せて身体遊びと密接に結びついています。

今日の「にこにこ」(2歳)で見られたのは、「おふねがぎっちらこ」です。大人が膝を伸ばした両足の上に、子どもが向かい合ってまたがって座ります。そして、手を持ち合って「ぎっちらこ、ぎっちらこ、おふねがぎっちらこ」と、前後に体を揺らします。最後にブルブルと膝を揺らして揺さぶってあげると、子どもは大喜びです。

わらべうたは、簡単な音階とリズムなので、子どもは自然と覚えてしまいます。しかも、この種類のわらべうたは、体も一緒に動かすので、記憶に残りやすく、言葉、リズム、メロディ、体の動き、動感などが快感とセットになって、いわば身体に染み込むのです。皆さんも、なべなべそこぬけ、とか、ずいずいずっころばし、とか忘れずに覚えていることでしょう。実際のところ、これを「ダンス」と呼ぶよりも「わらべうた遊び」そのものです。しかし、この「わらべうた」がアートに変わっていく瞬間を目撃しました。それは、らんすい(4歳5歳)で「わらべうた」をやった時です。

今年はダンスにわらべうたを取り入れたい、と青木さんにリクエストしたのですが、早速、オリジナルのわらべうたを用意してくださいました。それが「鬼さん鬼さん、何するの?これするの、これするの」というものです。小学生向けのインプロ・キッズ(インプロビゼーションは即興の意味)を、幼児向けの「わらべうた」にアレンジした青木さんのオリジナルなのですが「これするの」のところで、即興的に体を動かしてみるのです。子どもたちはそれを見て、2回目の「これするの」の時に真似して一緒にやります。

この即興による身体表現の「瞬発力」は、自分の中に引き出しをたくさん用意して、それを再現する場合と、全く何も考えず(用意せず)に、その瞬間に何が飛び出してくるか、自分自身も楽しみなっていく場合があるようです。その表現の生み出し方はまさしくアートですね。そして、問いと答えという言葉の意味、身体で答える表現、語りのようなメロディとリズムと間(ま)。遊びの中で、子どもたちは知らない間に、四分音符と休符からなる日本的リズムという音楽的素養も身につけていきます。

こんなことをプロデュースしながら、幼児教育としての身体活動遊びを繰り返していくことで、子どもたちには「自然の営みとしての身体を取り戻していく表現者」に育っていってほしいと願っています。それは本当の健康や幸せに通じるからです。そして江戸情緒など、日本的な文化へ感覚も身近なものになってほしいと思います。

さて、今日はさらに、保育園に素敵なお客さんがやってきました。カナヘビくんとカマキリくんです。ある保護者の家で飼われていて、夏休み間しばらく保育園で過ごします。カナヘビくんは北の丸公園に棲んでいました。

好物は虫ですが、よく水を飲みます。そんなカナヘビくんのことを、まずよく知ろうと、小林先生が用意した動画を見ながら子どもたちは上手な飼い方を勉強です。観察ゾーンにやってきたカナヘビくん、どうぞよろしくね。

連日暑い日が続いています。夕方にはすいすい(年長)の子たちが玄関前の歩道で「打ち水」もしました。クーラーも冷蔵庫もない江戸時代、この柳原通りの夏は、打ち水や柳ごおりが「夏の涼」を演出していました。

 

イ・ローヌさんが誕生会をお祝いに

2021/07/29

今日は7月生まれ4人の子どもたちの誕生をお祝いしました。乳児は今月は3人(1人はお休みだったので別の日に祝います)で、年長の女子が一人でした。

毎月の誕生会は、感染症対策もあり各クラスで行っています。ご存知のように、登園は子ども同士の関係や対話を大切にしているので、誕生会でも子ども同士のやりとりがある「質問タイム」があります。

お祝いをするお友だちのことをよく知ろう、という意味で「好きな食べ物はなんですか?」「好きなおもちゃはなんですか?」などと、尋ねられています。年長のMさんのそれは「 メロン」や「制作遊び」でした。

お祝いの歌をみんなでうたい、先生たちの手作りの色紙や顔写真入りのバッチなどのプレゼントを贈ります。すると今日の誕生会の進行を担当していた小林先生に電話がかかってきて、お客さんがくる事になりました。小林先生のお友達でした。サプライズです。小林先生曰く「誕生会をお祝いしてくれるそうだよ。恥ずかしがり屋だから、優しく接してあげてください」と。みんな「はーい」と、ウキウキしてました。

さて、その人が登場すると、子どもたちはその風貌に興味津々。にこにこ組(2歳)のN Mちゃんは、怖がって、そそくさと山口先生の膝の上に逃げます。名前はイ・ローヌという変わった名前で、年齢も性別も国籍もわかりません。変わった趣味の持ち主で、赤、青、黄の三原色の色水を混ぜたりして「これとこれを混ぜてみたら、どうなるかしら〜」と、メガネを指でつまんでヒクヒクさせながら、子どもたちに尋ねます。

色水実験は、ムラサキキャベツでできた色水と、食器洗い用の洗剤、手洗い石鹸、酢など混ぜてみると、赤くなったり、青くなったり「あら〜、不思議ねえ、ほ〜ら、色、かわったわねえ」と満足そうでした(笑)。みんなも、実験してみてね〜。やりた〜い!。幼児の実験心に火がついたようです。イ・ローヌさん、ありがとう。「また、きてねえ〜」

誕生会の日は、誕生児がフラワーアレンジメントもします。その様子は、それぞれのクラスのブログをどうぞご覧ください。

コロナが始まって、ますます、その意味が深まっている花の美しさ。それぞれは「世界で一つだけの花」ですが、組み合わせると、もっとそれぞれが輝き始めるんです。その体験がフラワーアレンジメント。子どもたちの世界と似ていますね。もちろん、色遊び、色との出会いの実験がこれと絡んでいそうです。

からだが嬉しがる運動

2021/07/27

私たちの体は色々なものを求めています。お腹が減って何か食べたい。ぐっすり眠りたい。疲れをとりたい。そして体を動かしたい。色々な欲求を満たしながら、生きているのですが、食欲、睡眠、休息、運動などは生理的欲求ですが、生きている限り不可欠なものになります。しかし食べて満腹になりたいだけではなく、「美味しいもの」を探したり、ただ寝るのではなく質の高い睡眠を願ったり、体の疲れだけではなく心身ともにリラックスできる癒しを求めたりします。

ダンサーの青木尚哉さんと芝田和さんによる、運動遊びが今日から始まりました。昨年から来ていただいているので、3歳以上の子ども達はよく覚えていて、みんなとても喜んでいました。一緒に体を動かして遊ぶことが楽しいからです。

ところで体を動かす、運動するといっても、これまた、それには「質」というものがあって、からだが嬉しい運動というものがあることに今日気づきました。昨年の親子運動遊びの会でもやりましたが、「グーパー体操」覚えていらっしゃいますか。じゃんけんの「ぐー」と「パー」を、にこにこ組(2歳)は手でやります。足でもちょっとできました。わいわい組(3歳)は、足をぐーで閉じ、パーで開くが楽しそうです。音楽に合わせて跳んで開いたり閉じたり。さらに顔でも「ぐー」と「パー」をします。この辺りの自由な発想が楽しい。

トンネルを作って通る遊びでも、いろんな形のトンネルができます。足と腕で2箇所のトンネルができたり、大人のトンネルを子どもが潜るだけではなく、反対に子どもにトンネルをつくらせて大人がその小さい穴を通り抜けます。わいわいまでは2階のダイニングでやったのですが、らんらん組(4歳)とすいすい組(5歳)は、3階の家具を移動して広くして、そこで、リズムに合わせて、歩く、片足で移動する、音楽が止まったら静止する、さらに片足で静止する、などだけでも、実に楽しそうです。

その次は2人ひと組になって、ポイントワーク(マネキンとデザイナー)です。体が動くこと、動く場所と動かない場所があることに気づき、なんとなくいい形を作っていきます。

できたマネキンの姿をデザイナーも真似してポーズ。交代したり、一度できた形を崩さずに続けたり、体を造形対象にしながら、「えーっと、どうしようかな」と頭もフル回転です。

こんな体の使い方を小さい時から体験しているのとしないとでは、何かが大きく違ってきそうです。体が嬉しいと感じる運動のバリエーションが増えるからです。

運動学では、この体の感覚を「動感」と言います。いわゆる五感の中には、近いものに触感がありますが、体全身の感覚ですから、姿勢や身のこなしや運動やスポーツなど、ありとあらゆる身体の動きを、この「動感」が記憶していくセンサーのような役目をはたしています。体の動きを司どるセンサーの感度を高めておくには、それが快感であるような(つまり体が喜ぶような)経験をたくさんしておくといいわけです。

青木さんとは今朝、こんな話になりました。ダンスというからそのイメージに囚われてしまうけど、実はいろんな分野で同じようなことが求められています。芸術だけではなく、スポーツや医療や教育や建築やランドスケープデザインでも、色々なところで身体そのものの動きについての「善さ」の探究が始まっているそうです。面白いですね。

身近な環境を生活に取り入れる

2021/07/26

自分たちで作ったもので部屋を飾ること。大人になると、買ってきたものを飾ることが多くなるような気がしますが、子どもの頃から、何かの材料を変化させて、あるまとまった形にしていき、あるところで何かが「できた!」と「完成」するというのは、どんなことなのでしょうか。

ブロックや積み木は完成すると、一旦壊してなくなります。大抵は毎週金曜日にそうしているのですが、制作ゾーンで作ったものは、部屋に飾ったり、持って帰ったり、別の遊びで使ったりと、生活の中に取り込まれていきます。

ちなみに教育の五領域「環境」のねらいは「周囲の様々な環境に好奇心や探究心をもって関わり、それらを生活に取り入れていこうとする力を養う」となっています。

どのように生活に取り入れていくのでしょうか。生物なら観察したり、飼育したり、栽培したり、料理に使ったり。物ならちぎったり、切ったり、折ったり、貼ったり、繋いだり、色をつけたり、あるいは膨らませたり。

こうしたことをやりながら、ある物へ加工していく、造形していくことで、最後は何かに使える道具だったり、装飾物だったり、遊具だったり、集めるものだったりします。

今日はらんらんのSさんが家から石を持ってきてくれました。1階玄関の水槽で漂っている海藻が、底で繋ぎ止めておくために「石が欲しいなあ」と話したら、早速持ってきてくれたのです。さて、これをどう使うか。こんなこと、私たちの生活の中に、色々ありますよね。

私は何か材料を探すときに、100円ショップに立ち寄ります。これ何かに使えないかな?とよく考えることがあります。それと似たような思考は、様々な身近な環境の中らか何かを選んで、収納のインテリアを考えたりするときと似ています。

子ども達の「できた!」の世界は色々ありそうです。アートになったり、エンジニアリングになったり、何かのつもりや再現が、今度は他人から見られて「すごい!」や「面白い!」や「きれい!」になるように作ってみる意識も芽生えてきているように感じます。

 

「ハリーがちょっと可哀想だった」

2021/07/21

私たちは子どもに対して、他人に優しい子になってほしいと願うことが多いわけですが、どうやったらそうなるのかと考えると、他人の気持ちを想像できることや、他人の立場になって考えることができるようになることだと、心理学では述べています。では、どんな時にそんな気持ちを想像したり、考えたりするかというと、他人のはずの相手が親しみを感じるような存在になった場合です。実生活の中では、家族や友達ということなのですが、人との繋がりが少ない幼児期には、実生活だけで親しい他者を多く保つことは難しいものです。

そこで威力を発揮するものが良質な絵本です。今日の「園長の絵本タイム」では、嬉しい感想が飛び出しました。4歳のAさんが「ハリーがちょっとかわいそうだったなあ」というのです。そうです、「どろんこハリー」が真っ黒になって、家族の誰からもハリーだと気づいてもらえないからです。ハリーは「ねえ、僕だよ、ハリーだよ」と伝えたくて、健気にもいろんな芸をするのですが、家族はおかしな犬だなあ、と行ってしまいます。そこに子どもたちは「ハリーが可哀想だった」と思うのです。

実はどろんこハリーの前に、先に「うみべのハリー」を読んであげたのですが、ハリーが最後に家族と一緒に大きなパラソルに入ることができるまでに、海藻まみれになってハリーと気づかれないどころか「お化けが出たあ」と怖がられたり、カゴで捕まられそうになってしまったりと、可哀想な目に合うのは「どろんこ」と同じです。気の毒な目にあっても最後は家族に暖かく迎えられるというハッピーエンドも同じなのです。このような物語を通して、他者への優しさが育つのだとしたら、絵本の力は大きいと感じざるを得ませんね。

光・見守る・スクリプト

2021/07/20

人は色々なことにベスト3とかベスト5などを作りたがるのはどうしてでしょう。古くは「三種の神器」やキリスト教の「三位一体」に仏教の「仏法僧」、江戸時代の「御三家」や戦後の「3大財閥」など、何かと3つ揃って初めて何事かが成立するというような<3要素>を発明してきました。相撲でも三役揃い踏み、が土俵の華になります。実は私も3大要素なるものを見出しました。それは夜の睡眠の質についてです。

今日は第4回目の「睡眠講座in千代田せいが保育園」をズームで開きました。参加者は3名で、千代田区からも2人のオブザーバー参加がありました。これまで何度も聞いてきた内容なのですが、良質な睡眠を子どもに保障するには、いくつかの3大要素があるような気がしました。一つは「光と闇」です。私たち人間が地球上の生物として進化してきた必然性からくるものです。特に光とホルモンの関係を良くすることです。具体的には朝日とともに起きて日没と共に眠る。朝に光を浴びてセレトニンを生み出し、それが夜の睡眠を誘うメラトニンの材料になります。また睡眠時間は長さもさることながら、時間帯が大事といった、人間が生き物であり地球の自転という生態系の中で生きてきたことによります。体内時計もそうやってできました。

二つ目は「睡眠も見守る」ということです。親子関係の要素です。たとえば、まだ夜にまとまって寝続けられない数ヶ月の赤ちゃんの時期、夜に何度かよる目覚めてしまう時に、「赤ちゃんは寝たがっている」と思ってあげて、安心させるだけにする。自分でまた眠りにつく力があると信じて、おっぱいなどのご褒美はあげない。夜の授乳欲求と睡眠欲求を分けて対応すること。これを一緒にくっつけてしまうと、ご褒美がないと寝ないことになってしまいます。欲求は満たしてあげることで情緒は安定するので、必要な養護=ケアなのでですが、肝心なのは、睡眠欲求と食欲をまぜこぜにしないことです。助産師さんたちのアドバイスとちょっと違うかもしれませんが、お母さんの健康を保つためにも、そうした方がいいでしょう。

三つ目は、体の習慣化。本人がその気になることから、何も考えなくても体がそうなっていくようにしてあげること。よく「スクリプト」と言いますが、それが出来上がると子育ては楽で楽しくなります。これには、夜遅く帰ってくるお父さんが混乱させているケースが多々あります。ぜひ、ご夫婦で夕方から夜の過ごし方を「子どもにとって」という視点で見直すことが大切です。例えばですが、夜ご飯はさっと軽く済ませてテレビは消して、お風呂に入り、上がったらダウンライトになっていて絵本タイム。だらだら楽しいお話タイムで他愛のない安心と満足の時間を5分でも10分でも作る。毎日同じ順番にして体が次を予想してそうしていくようになっていきます。赤ちゃんの頃から、そうしげあげると子どもも親もとても楽に生体リズムを作りやすくなります。この習慣は一生の宝物です。

光、見守り、スクリプト。この三要素が良質な睡眠の要のようの思えてきました。

日体大教授の野井真吾さんは「光・暗闇・外遊び」を提唱しています。7月6日の「園からのニュース」(保育アーカイブ「早寝早起き」)も参考にしてみてください。

保育における物的環境も発達理解が基本に

2021/07/18

研修にはいくつか種類があります。形態で分けて分類すると、園の中で行う園内研修や外へ出かけて受ける研修があります。あるいは、仕事の中で受けるトレーニング(OJT=オン・ザ・ジョブ・トレーニング)と、職場を離れたトレーニング(OFF-JT=オフ・ザ・ジョブ・トレーニング)という言い方もします。いずれにしても研修で大切なことは、学んだことが保育実践に生かされることです。研修を受けて終わり、では受ける意味がありません。

そこで学んだことが生かされるためには、いくつかの条件がある気がします。最も大切なことは、たぶん動機です。学びたいという意欲があるかどうか。その意欲の原因はいろいろあって、保育実践の中で直面することが最も大きな動機になるでしょう。例えば、どうしたらいいか課題にぶつかっていたり、困っていたりすると、それを解決するために研修を受ける、学ぶということがあります。あるいは、保育所保育指針が改定されるなど、新しい保育内容ができて、知識や技術をアップデートしなければならない、ということもあります。

しかし、これらの理由は外部要因であって、その要因がなくなったら学ぶ動機が薄れてしまうでしょう。従って、最も強い学びへの動機は、学ぶこと自体が喜びであるようなものであったり、学んだことを活かして実践すると、いいことが起きることであったりする経験を持っている場合です。そうなると、学び続ける意欲が生まれてきます。最も良い研修とは、そのように一人ひとり職員が、学びたいから学ぶという、主体的な学びになることです。

昨日17日は、内部とも外部とも言い難い研修がありました。今年度3回目の第55回保育環境セミナー「物的機環境編」で、講師は藤森平司統括園長です。保育環境には空間や物や人などがあるのですが、今回は「物」のあり方を学びました。参加方法はリモート(zoom)です。保育室の物は家具にしても遊具にしても、掲示しているものにしても、全てそこには保育上の意図があるのですが、その意図は「子どもの発達から見てどうか」という視点から出来ています。そのポイントを0歳から6歳まで、発達過程ごとに復習しました。

藤森先生の講義を受けていると、頭が整理されます。整理されるというのは、自分が既に理解していることと、知らなかったことの境目がくっきりしてくる感じです。ここに未知の領域がある、ここに曖昧な部分がある、ここは確かにそうだった・・・というようなリアルな感触です。例えると丸いボールの球体のようなものをイメージしてもらうとすると、知っていることがボールの内部です。確かにそうだ、と根拠も含めて人に説明できるような部分がボールの核のところになります。ボールの表面に近づくと曖昧な感じになってきて、ボールの外側は未知の領域。そこには広大な空間が広がっている感じです。肝心なのは、このボールの表面ですが、既に知っていること(既知)とまだ知らないこと(未知)の境目になる部分です。

例えば、「子どもは発達にあったものを自分で選べる」という話は、私は根拠を持って説明できます。自発的使用の原理や、発達過程の概念を具体的な事例で説明できます。くるくるチャイムとテレビゲームを置いておけば、赤ちゃんでもくるくるチャイムを選ぶはずであり、歩行の確立期には坂道や細い道を歩きたがるといったことを説明できます。また関係性の発達の中でピア・ソーシャルスキルが発達するための敏感期が2歳ごろからピークを迎えるという最近の脳科学の知見を知っておけば、根拠を持って「平行遊びの新しい意味」や「2歳児クラスを丸いテーブルにする理由」を説明できます。

ところが、それなら睡眠についての脳の敏感期はいつ頃だろう?とか、思いやりの発達に必要な乳児の体験はどんなことだろう?といった疑問が次々と浮かんできます。ボールの中身(既知)が増えると、ボールの外側(新しい未知)が増えるのです。ちょうどボールの体積が増えると表面積が増えるのに似ています。知れば知るほど、わからないことも増えるのです。その学びが実践に生かされるような「実践知」なのか、それとも根拠を確かなものにする研究的な学問知なのかは、その人の関心の志向性で変わってくるでしょう。私は研究者ではないので、研究者の学びから学ぶことになります。

育ちを「支える」という意味

2021/07/17

子どもにとって自分からは言えないけど、大人に言ってもらえたことで、救われた思いになることってあるだろうなあ、と感じます。せいがの森保育園の頃なので、ずいぶん前のことですが、散歩から帰ってきた子どもたちの中に、玄関に一人立ちすくんでいた4歳の女の子がいました。泣いているだけで、部屋へ入ろうとしません。先生たちも「どうしたの?」と聞いてはいるのですが、泣くばかりで答えてくれないので、諦めて「お昼ご飯を食べに行こう」と誘ったり、気を紛らわしてあげようと、いろいろなことに注意を向けさせてあげようとしています。でも、大切なことを言ってあげていないと感じたので、私は次のように言いました。すると、その子は泣き止もうとして、私に気持ちを打ち明けてくれました。私はこう言ったのです。「部屋に入りたくないなら、入らなくていいよ」と言い、そして「困っていることをあったら言ってごらん、手伝ってあげるよ」と付け加えたのです。

その子は涙を堪えながら、玄関の方を振り向いて、今来た道の方をみて、ミミズを無くしたと話してくれました。どうしたらいいか分からなくなって泣いていたのです。私は一緒に探しについて行きました。ミミズは見つからなかったのですが、その子の気持ちは切り替わっていました。泣いていた時はきっと、自分がどうしたらよいのか、混乱していたことでしょう。でも人間には言葉があります。言葉は気持ちに形と安心を与えます。自分がどうしたかったのか、自分の気持ちが自分で見えるようになり、フリーズしていた気持ちがまた動き出したのです。

保育は「育ちを支える」という言い方をします。この「支える」というのは、何をどこまで支えるといいのでしょうか。それは「支える」のですから、代わりに全部やってあげるのではありません。主体は子ども自身です。子どもが自分でやるという主導権は持ちながら、それが叶えられるように、あるところまで支えてあげるということです。玄関に立ちすくんでいたその子にとって、「いま部屋に入らなくていいし、いなくなったミミズを一緒に探してもらえる!」と思えたら、そこから「自分で」やってみようという気持ちが生まれるでしょう。支えるのは、気持ちや思いを理解してあげたり、共感してあげるところまで、が大事なのです。

同じことが、今日の「ちっち・ぐんぐん」のブログにも書かれています。「タオルでふく?」と聞いてあげることは、案外できそうで、できないことかもしれません。大人の方が気持ちに余裕がなかったり、忙しく感じていたりしたら、そこまで歩み寄れないかもしれません。子どもが黙っているけど「自分もやってみたいなあ」と感じているように見えるとき、「タオルでふく?」と聞いてあげることは、子どもにとっては「やっていいよ」とほぼイコールに聞こえるはず。自分の気持ちがわかってもらえた、気持ちが通じた、私の気持ちに触ってもらえた、と感じたのと同じですから、質問形であっても、それは承認されたのも同然の、力強い後押しになったとこでしょう。あとは「うん」と答えやすいし、そこまで支えてもらえたら、もうすぐに行動に移ることが出来たことからも、それがわかります。

今日は土曜日で、登園した子は少なかったのですが、午後のおやつのあと運動ゾーンで2時間ほど遊びました。園長ライオンや、三びきのこぶた、警察と泥棒などのごっこ遊びと、円盤に乗っての宇宙旅行などを楽しみました。言葉の力は大きくて、子どもたちの心を、想像と物語の世界に連れて行き、そこで心の羽を存分に広げていました。そんな遊びに夢中になっている時、子どもの心のシワが伸びて、音を立てて根から水を吸い上げる樹木の芽のように、気持ちがふっくらと、ふくらんでいくことがわかります。こんな時間が絶対に子どもには必要なのです。子どもは、本当に心の底が躍動するような時間を求めているのです。

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