MENU CLOSE
TEL

保育アーカイブ

ちょっといい話

2021/07/09

例によって朝の運動遊びのことでした。

やったー、園長ライオン、やろう!とはしゃいでいる子たち。上履きと靴下を脱いで、手を洗って、とせっせと準備をはじめました。

やっていい?という声に「どうぞ」というと、ネットやクライミングやトランポリンに一目散です。これ低くして!と、ネットを低くして欲しいという要望にもはいはい、と答えていたら・・

内線電話で「園長先生、お客さんです・・」。

わっ、このタイミングか・・どうしようかな、というわけでみんなに声をかけます。

「みんな、ちょっと大事な話があるから聞いてくれるかな」と言っても、始まったばかりの運動に夢中で通じません。そこで急いでいたので、少し大きな声を出して「強く言いたくないから、ちゃんと聞いてほしい」というと、遊びをやめて私の周りに集まります。シーンとしています。

えらい!内心「すごいね、みんな、やる気満々だから、聞くべき時はちゃんと話を聞くことができるようになったんだなあ」と感心していたら、その時です。

シーンとしている輪の中へ、経緯を知らないKちゃんが鼻歌まじりに、無邪気にらんらん気分で入ってきて遊び始めたので、一瞬「ん!」となったのですが、Kちゃんが自分が場違いなのに気づいた様子がおかしくて、みんな笑い出したのでした。

こんなことあると、ほのぼのとして幸せな気分になります。

映画のワンショットにしたいような出来事でした。

子どもがペープサートで七夕のお話

2021/07/07

織姫と彦星の七夕のお話もまた、現実にはない世界ですが、虚構と現実の境目のない子どもたちにとっては、どれをとっても心動かされる物語です。今日はその話を、年長組すいすいの子どもが紙人形劇で演じました。ペーパー・パペット・シアターを短縮した和製英語で「ペープサート」と呼ばれるようになったのは1970年代以降の話。日本は戦前に紙芝居が誕生する前まで、俳優が演じる劇を人形が代わりに行う人形劇が主流だった時代が長いので、新しく見えるペープサートは、名前が新しいだけで、やっていることはずいぶん古い歴史があります。

表と裏の絵柄を変えることで、軸を指でくるりと回して、変化をもたらすことができます。人形の一種ですから、手使い人形や指人形、操り人形などと同じように、複数の登場人物の動きと合わせてセリフを語り、物語るのですが、大人がやっているのをみて、それをまた子どもがやりたい!という意欲から、子どもが演じて子どもに見せるということが模倣、再現欲求をかなえた表現活動ということになります。

このような遊びには、演じるという意味で、セリフがあるので、絵本や紙芝居を子どもが読み聞かせるのとの違いは、そのあたりの俳優らしさ、独立したセリフを人形に言わせるという、声のある見立て遊びにもなっているのです。多様な言葉の体験にもなっています。

 

 

 

東京ビエンナーレ2020/2021 もうすぐ開催

2021/07/06

東京から世界へ〜国際芸術祭が7月10日(土)から始まります。2年に一度の芸術祭ですがコロナで1年延期になったイベントです。テーマは「見なれぬ景色へ」。江戸時代、柳原通りは服のリサイクル通りでした。

美術家の西尾美也(にしお・よしなり)さんは、戦前から反物を扱っていた海老原商店をイベント会場に選び、ここで「着がえる」ということをテーマとした展示やワークショップを開きます。開催は9月5日(日)まで。

20210706 東京ビエンナーレ2020:2021

 

野井真吾・日体大教授の提案「光・暗闇・外遊び」

2021/07/06

当園が「早寝・早起き・朝ごはん」や朝の運動遊び、じゃれつき遊びを大切にしていることは、みなさんご存知だと思います。このテーマについての研修が保育者向けに今年1月に開かれました。主催は東京都社会福祉協議会(東社協)の「保育士会」です。その研修内容が会報「保育部会通信」に掲載されたので、ここに掲載します。

20210706 野井真吾「子どものからだのおかしさを科学する」

子どもの睡眠や園生活リズムの考え方の基本を確認できますので、ぜひお読みください。

ごっこ遊びは「勉強であり復習である!」

2021/07/05

遊びの中には、物を何かに「見立て」たり、自分が何かになった「つもり」になったりと、「ごっこ遊び」がたくさんみられます。積み木が自動車に見立てられたり、その子がウルトラマンになったりしています。その時、子どもたちの頭の中にはその自動車がウルトラマンのイメージが躍動しているのですが、その再現をになっている積み木や子ども自身は、実物の自動車でもウルトラマンでもない「代役」です。これを「表象」といいます。「実物〜イメージ〜表象」の三項関係です。この表象のところには「言葉」でもいいのです。言葉も実物の代わりに指し示す表象なのです。

といったことを大学で説明しているときに、あることに気づきました。子どもにとっての自由遊びは、ほとんとの時間が何かの再現遊びになっているので、実際にリアルな体験よりも、はるかに豊かな経験になっているということです。お店屋さんごっこ、キャンプごっこ、腹べこあおむしごっこ、歯医者さんごっこ・・・数え切れないほどの「ごっこ遊び」が至るところで毎日、繰り広げられています。そのごっこ遊びの最中に、子ども同士の対話もあって、言葉を使ってコミュニケーションをとったり、見立てているものを友達に説明したりと、多くの学びが発生しています。

ごっこ遊び(再現遊び)は、社会的経験の再現であり、縮図です。もし子どもたちが「ごっこ遊び」をしなかったら、社会性の獲得は覚束ないものなってしまうでしょう。例えば、買い物ごっこ、家族ごっこ、お医者さんごっこなどの様子を見ていると、そこでの子ども同士のやりとりは実に豊かで、あたかも実際に起きているかのようです。しかし実際に受診した時にしか体験できないとしたら、経験の量はほんの少ししかないはずです。ごっこ遊びは、限られた実体験を種にして、遊びの中でその体験を広げ、深め、発展させ、活用しているのです。その子どもは学んだこと、知ったことを話したがるし、色々な遊びで再現します。ある子は絵を描いたり、ある子は積み木で建造物を作ったり、そしてごっこ遊びになったりします。いずれの場合も表象活動、ブリコラージュしていることになるのです。

そう考えると、子どもの自由遊びは学んだことを復習しているとも言えます。再現することは学び直しであり、振り返りであり、勉強したことの復習をして知識を定着させていることになるのです。遊びは、学びであり、反芻であり、再現であり、復習にもなっているのです。遊びでありながら勉強の復習と同じだと思うと、もっと自由闊達に「ごっこ遊び」や「再現遊び」を楽しめるようにしてあげたいと思うのです。

青木尚哉さんのダンス公演を観て

2021/07/03

動作と演劇とダンスの境目って、どこなんだろう? 動きと静止を生むものは時間なのか光なのか? そんな思索に導くような刺激的な身体表現を観てきました。コンテンポラリー・ダンサー青木尚哉(あおき・なおや)さんが率いるダンスグループZer〇(ゼロ)の公演「Frasco!」のことです。暗闇から光が灯された瞬間から、観ている私の中に、色々な表象が動き出して、私の頭の中がフラスコの実験装置になったみたいに、色々な表象の化学反応が起きました。演じられたのは2作品。そして私の中に出来上がった化合物は、所作と速度が混ざり合ったものと、社会から視線だけを抜き出した動く身体標本のようなものでした。

演じた皆さんは、保育園で子どもたちにダンスを教えてくださっている方々です。昨年10月の「親子運動遊びの会」に来ていただいたので、ご存知の方も多いと思います。

(左が芝田和さん、右が木原萌花さん 昨年の運動会にて)

一つ目の作品「ひとごと」は、木原萌花(きはら・ももか)さんの振付です。そして、それを演じたのは青木さんと芝田和(しばた・いずみ)さん、もう一つの作品「Golconda」は坂田尚也(さかた・なおや)の振付・演出です。青木さん、芝田さんに常田萌絵さんも加わって、演劇のようなダンスを披露してくださいました。みなさんは、昨年2月から園児たちとの交流していただいています。

コンテンポラリーダンス、というと難しそうに聞こえるかもしれませんが、青木さんのダンスグループは、既存のダンスの要素を一旦解体して、身体そのものをテーマとした、全く新しい表現を再構築している、と言っていいのかもしれません。その活動分野は、舞踏に留まらず、音楽、映像、建築、医療、教育などに及びます。最後の教育、というのは小中学校や保育園にも活動の場が広がっています。千代田せいが保育園でやっていただいていることは、子どもが自由に体を動かして遊んでいる中に、子どもには、それとはあまり気づかれないように「ダンスのエッセンスが渾然と溶け込むように」楽しませてもらっていることでしょうか。

 

解体されているダンスのエレメントは、組み立て方によって、全く新しい創造になることを、今日は見せていただきました。この公演は昨日7月2日(金)から明日4日(日)まで3日間、小田急線・成城学園駅すぐの小劇場「アトリエ第Q芸術」で開かれています。興味ある方は、ぜひどうぞ。

<おまけ>

以下は私の頭の中で起きた印象の言葉によるスケッチです。パチパチと音を立てたり、光が走ったりしたのですが、それを言葉でお伝えするなんて、とてもできません。まして、どんな表現だったかということを、説明することなんてムリですから、結果、私の印象でしかありませんが、とにかく刺激的でした。ただ、これから観る方は、先に読まないでください。印象にネタバレはないはずですが、真っ白な状態の方がいいと思いますので。

一つ目の作品「ひとごと」。

開演すると会場は真っ暗になり、明かりがつくとまっすぐ立っている和さんと、うつ伏せに倒れている青木さんの姿が目に飛び込んできます。立っている和さんがバタンと上半身を崩す動きを見ていると、「あ、まるで操り人形のよう」と気づきます。見えない糸が背中や肘や膝を引き上げたり、急に緩めたりされているのですが、それだけでも「こんな体の動かし方ができるなんて!」と、体の柔らかさや敏捷さ、体幹の強さなど、日頃から身体をメンテして練習しているからこそできるんだなあと、まずそこに驚きました。

そのうち、その乱暴に操られる人形の動きが、正確に繰り返されていることに気づきます。最初はランダムに動いているのかと思ったら、違うんです、2度3度と繰り返されて初めて、そこにワンセットの動きの周期を発見します。すると、その形式に意味を見出したくなるから不思議です。さらに、人形の動きがだんだん早くなっていくのですが、あるタイミングからダンスのようになっていきます。その境目があるということは、私が持っているダンスの刷り込みイメージなのだなあと振り返り、でも身体の動きの多様な変化に見惚れてしまいます。

一方で、倒れていた青木さんが、ゆっくりと四つん這いで起き上がり、後ろ向きに椅子に座るのですが、それも上から吊るされている人形のように見えます。ところが、和さんの動きと違うのは、まるで普通の人のように振る舞います。劇が始まったのか、と思います。それはある意味で正しくて、青木さんがセリフを語り出すのです。「二つの出来事があって、それが一つになって・・」みたいなことを、客席に語りかけるようにも見えなくもなく。そのうちに、ボタンを押して移動して何かを手にして一旦躊躇して、引き出しから何か四角い枠状のものを取り出して水に浸して揺すって戻して蓋をして、クルリと移動してまた立ち上がり、そしてまた見えない空中のボタンを押して・・・を繰り返していくのですが、だんだん、それが速度をましていくのです。すると日常の動作が、ある地点から踊りのように見えてきます。加速されて早回しのフィルムに、サイボーグの自動人形が写っているかのよう。・・・・

二つ目の作品「Golconda」

坂田さんの振付・演出です。背を向けた4人がバラバラに生活しています。赤の他人なんでしょう。片目でみたり、足を触ったり、さすったり、踵を振り返ったり、いろんな仕草が切り取られ、空間が動く所作でできたコラージュになっていきます。所作同士の距離やバランスが面白いというか心地よいのです。しかし青木さんが手のひらにリンゴを乗せてゆっくりと空間を横切って歩き出すと、不意にそのリンゴが床に落ちて、音を立てて転がります。重力の所作まで加わって、人の動きの中に、自然の働きが違和感をもたらすのです。いつしか、個人が視線によってまとまっていくような予感を見るものに与えます。何によって集団はできるのでしょう。4人が着ている青白いシャツは、誰でもない、匿名の代名詞。でも助け合いながら生活している生活者たち。自己の軸が4人の軸になって連動して動き出すと、ソ連邦時代の映画のよう。社会には希望と絶望の間でできていて、その自立と共生が危うことを、立てても立てても崩れ落ちてしまうから、それでも、がむしゃらに支えようとする若き青年の痛ましさ。・・・古代から現在までの歴史を身体にしたらこうなるのかもしれないという、ダンスによる現代批評になっているのでした。シュールリアリズムの旗手だった同名の絵画がタイトルなので、私たちの無意識が何を語り出すか、その発光や発酵が面白いですよ。

カブトムシを手に乗せて

2021/07/02

6月下旬に土から出てきたカブトムシですが、わいらんすい(3〜5歳)の観察技術が向上しています。「手についている汚れがついちゃダメだから、手袋してからだよ」とか「引っ張ると痛いから棒に乗せてあげるんだよ」などと、教えてくれます。どの子も触りたくてしょうがないようで、手のひらに乗せて「ほら、見て」と嬉しそうです。

雄のツノの部分を摘んで、持っているときは自慢気です。じっとしていたり、のそのそ動き出したり、カブトムシの動きをじっと見つめながら、その感触を確かめています。棒の端まで来て、少し羽を広げようとすると、「あ、飛んじゃう」「逃げちゃうよ」「大丈夫だよ」「ダメだよ、飛んじゃう、飛んじゃう」「大丈夫だって、こっちに入れて」と、興奮する時もあるのですが、それもカブトムシへの愛着からでしょう。

こうして子どもたちは、カブトムシについて詳しくなっていきます。からだの表面に生毛のようなものがうっすらと生えていることや、足にトゲトゲがあって、それで「痛い」ってなることや、しがみついている時に無理にとろうとすると、引っかかって取れないこととか、色々なことを感じたり、気づいたり、試したりしています。棒から手にうつそうとしているのですが、なかなか思うようにいきません。上に登っていくので、棒の先に棒を継ぎ足してうつさせることに気づいている子もいました。知識を使って工夫しています。その過程で思考力が育まれているのです。

優しく手に乗せて、じっとしているカブトムシをまるでペットでも飼っているかのように、うっとりしている女子もいます。虫をとりたい、観たい、育てたい、触りたい、という関わりから、愛でたい、育てたい、大切にしたい・・と子どもたちの心も成長しているのですね。どうやったらいいのか、自分軸からカブトムシ軸へと関わり方が変化しています。よりよい生活を営もうとする学びに向かう力や人間性の育ちがみられます。こんな「生き物」との触れ合いを通して、いたわったり、大切にしたりする気持ちも育っているようです。

 

差し出された手に赤い色が点々と

2021/07/01

子どもが何かを気づいて、ちょうどそばにいた私にに「ほら、みて」って、差し出された手。「あ〜あ」と聞こえた、その時の声。ぐんぐんのKちゃんは何を私と共有したかったのでしょう。それはサインペンでお絵描きをした直後のことでした。「手についちゃったから、どうしよう?」のように見えるのですが、ちょっと違っていたような気がしたのです。

「お絵描き」といっても、まだ月齢21か月の赤ちゃんと呼んでもおかしくない子ですから、サインペン自体もどう持てばいいのかも試行錯誤といった感じです。「描く」ということも、なんとなくこうかな?と思いながら、いろんなことを試しています。紙の上に描くという前提もないので、テーブルやビニールクロスの上に、ペンを叩くように動かしたり、ペンと圧力の加減も知りません。紙の上に線らしきものが残ること、いろんな色があること、いろんなことが初めてかもしれません。

いつの間にか、赤い色だけが手についているところを見ると、赤が好きなだったのかな?と想像したりします。そして、それが手についたことも、面白い発見だったのではないでしょうか。だから「ほら、みて」というように、私に伝えたかったのかもしれません。すると、描かれた紙を持って「ほら、みて」と差し出されたら、ほとんどの大人は、きっと「あら、お絵描きしたのね。上手ねえ」なんて返事していたことでしょう。それが紙ではなく、たまたま手だったら、その手だって「あら、手にお絵描きできたのねえ」なんて返事してあげてもいいのかもしれませんね。私たちは、子どもの気づきや感動していることを、こうやって受け止めそこねていることがあるのかもしれません。

・・・

大人の思い込みを一旦外して、子どもの心の動きを想像してあげるためには、私たちの柔軟な発想が必要なようです。またそれは、見守る保育であり、保育者が行う養護(ケア)の働きだったり、子どもがモノをケアすることだったり、子どものアートの営みと同じであることを思い起こすことが大事だったのでした。

絵本の読み聞かせ「ケロケロきょうだい」「めっらもっきら どおん どん」

2021/06/30

物語のある生活には、同時に「想像力」が働く時間が増えていきます。教育のことが話題になるとき、創造力が求められることが多いのですが、実は、その前提にあるのは「想像力」の方なのです。そして、その想像力とは、言葉の定義からして「目に見えないものを思い浮かべることができる力」のことですから、それは子どもが得意とすることであって、どんな時にそれが起こっているかというと、物語の中で自由に心と体を動かしているような時なのです。そんな思いがあって、私は絵本の世界と時間を大切にしています。どんな読み聞かせ方がいいかとか、作者の意図がどうとか、そう言うことも大切なことは私も大学の授業で学生たちに説明しているのですが、しかし、いざ実践となると、そこは相手=子どもの実態があるわけで、ほとんどが定石通りにはなりません。

今日の絵本タイムは福音館書店の「こどものとも」から3冊を選んでみました。暑い夏を前に、池を探す冒険に出るカエル7人きょうだいのお話「ケロケロきょうだい」と、出鱈目な歌をうたうと、もんもんびゃっこ、しっかかもっかか、おたからまんちんのいる世界にワープしてしまう「めっきらもっきら どおんどん」です。どちらも、代表的な物語の特徴を踏まえており、こどもたちの心は、スーッと吸い込まれてしまうのでした。

人がどこからやってきて、どこへ行くのか、という人生のグレートクエッションは、それが永遠にわからない謎であるからこそ、人間の探究心をかき立ててやまないものです。いにしえの伝説にしても神話にしても、そして現代の絵本の物語にしても、底流にあるのはそうした謎をめぐる人生の何か、なのです。それを子どもたちは、子どもや動物の主人公になりきって、襲ってくる敵や妖怪や魔物との遭遇という形で、人生の暗喩を味わっているのです。

といった話は、こちらの醍醐味であって、子どもは単純にお話を楽しんでいます。でもその距離は大人が思っている以上に「近い」という感触をいつも感じるのは、面白い実践の味です。

top