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保育アーカイブ

福田さんによる絵本の読みきかせ

2020/08/26

絵本の読み聞かせのボランティア活動を長らくされている福田旺子(あきこ)さんが、園児のために絵本を読んでくださいました。今日読んでくださった絵本は、4〜5歳には『くらやみこわいよ』と『まっくろネリノ』。2〜3歳には『まっくろネリノ』と『しゅっぱつしんこう』。子どもたちは、初めてお会いした福田さんのお話に、ちょっと改まった面持ちで見入っていました。そして「面白かった」「また読んで」と大好評でした。

福田さんは、25年にわたり、保育園や幼稚園、小学校の他、図書館やブックセンターなどで絵本の読み聞かせをなさってこられました。保育園のお近くにお住まいなので、今後も定期的に来ていただき「読み聞かせの会」を開いてくださることになりました。さらにお持ちの絵本を「千代田せいが文庫」に寄贈していただきました。いい絵本ばかりです。保護者の皆さんとも分かち合いたいと思います。

 

再現遊びとしてのダンス

2020/08/24

今年の運動会は「コンテンポラリーダンス」のテイストを含んだ「親子運動遊びの会」になります。10月24日(土)の午前中に、和泉小学校体育館(昨年度と同じ)をお借りして、完全入れ替えの2部制で実施します。親子運動遊びにダンスを取り入れることになった経緯は8月8日付のこの「園長の日記」でご紹介しましたが、今日24日(月)は、青木尚哉さんを含むダンサー4人に来園していただき、2歳児にこにこ組、3歳わいわい組、45歳らんすい組に分かれて、体を動かして遊びました。三密を避けるために、それぞれ30分、40分、50分ずつ、2階と3階を使っての運動です。ずっと録画しながら見ていて、次のような感想を持ちました。

私たちは「ダンス」というと、音楽やリズムに合わせて、予め決まっている振り付けに合わせて体を動かすというイメージがあります。型があって、それを真似して身につけ、正確に再現できると「上手」となるようなダンスです。体がその振り付けやリズムに合わないとダンスが「下手」ということになってしまいます。これでは、それが「できる」子どもでないと楽しくありません。

青木さんのグループが目指しているダンスは、その真逆です。例えば、身体をマネキンのような素材として動かしてみるという「ポイントワーク」は、10 カウントの間に「10回だけ動かしてみる」型はあっても、その制限の中で、その子なりの自由な発想や想像力が引き出されていくような楽しさがあります。紙が丸められたり、くしゃくしゃになっていくのに合わせて、体を小さく縮めてみたり捻じらしてみたりするのです。先にイメージが動いて、そのあとで体が動き出すという順番です。そのイメージの想起力がこのダンスの決め手です。この心の動きは「再現遊び」と同じですから、ごっこ運動といってもいいかもしれません。

これを「お絵かき」に例えると、描く対象物にそっくりで写実的なら「上手」と評価されるような絵ではなく、それぞれの心に思い描かれた像(イメージ)を形と色で自由に表現してみるような絵です。その描きたいという意欲を大切にしながら、思い浮かべたイメージの通りに描きたいというモチベーションが結果的に表現スキルも高めていくようなアプローチです。

このように、保育の原理と同じだなと感じたのは、子どもの身体の動きは心の動きと連動しているが故に、まず子どもの意欲や動機に働きかけることから始まることです。動物の絵を見たり、録音された動物の鳴き声を聞いて、動物の動きを真似してみることが「ダンス」になっていきます。NHKの「おかあさんといっしょ」の「ブンバ・ボーン!」や「からだ☆ダンダン」などの「体操」と何が違うのでしょう。きっと、それは「振り付け」をみてただ真似するよりも、個々が思い浮かべる「イメージ」の想起が、動きの起点(スタート地点)になっていることです。つまり表象としてダンスなのです。再現欲求に働きかけるようなダンスと言っていいでしょう。

運動会では親子でこれを楽しみましょう。練習は全く不要。必要なのは柔らかい頭の方かもしれませんね。ところで今日は全国各地で2学期が始まりました。短い夏休みを惜しむように、今夜、東京でも花火が上がりました。

 

処暑から振り返る1週間

2020/08/23

今日23日は厳しい暑さの峠を超えるとされる処暑です。暑さは確かに少し和らぎました。屋上のひまわりは最盛期を過ぎて夏の終わりを告げています。

さて、8月17日から今日までの1週間は、どんな7日間だったというとーー。お盆休みが終わり子どもたちの数もほぼ定員に戻り、しかも連日30度を超える暑さがつづく「まなつのほいくえん」でした。月曜と誕生会のあった木曜を除けば毎日プールでの水遊びを楽しみ、昨日は初めて「プール開放」もありました。以前も感じましたが、テラスと屋上で水遊びができることで、暑さから解放されます。

◆20日の誕生会から

8月生まれの園児を祝う誕生会では、シルエットクイズを楽しみました。驚くことが2つありました。1つは子どもは「わかったら答えを言わないで黙って手をあげてね」が難しいこと。ハイハイと手が上がると同時に「スイカ!」とか「ちょうちん」とか言っちゃうんですよね。これはしょうがない。

2つ目は、ピカチュウなどのキャラクターへの反応が凄いこと。その人気の根強さがわかります。

あと、もう1つありました。このシルエットを当ててしまうのです。みなさんわかりますか?答えは子どもに聞いてみてください。

◆すいすいの「筆アート」

「とても味がありますね」と保護者の方の感想です。3階に向かう階段の展示スペースに飾っている年長組すいすいさんたちの「習字作品」です。すべての「かたち」には、それが「図」だとしたら、その背景となる「地」が必要です。地によって図も見え方が変わりますが、ひらがなという「かたち」にも、余白とバランスが美を生むという体験を子どもたちに味わってもらうつもりです。これは感覚的に「いいな」という体験を積み上げておくことが大事。

この感覚をすべての生活圏に広げていったらどうなるか?・・そもそもそんなことが可能なのかどうか?面白いテーマだと思いませんか?

◆絵本の誕生と進化

旧石器時代からの口承文化から「文字」が生まれ、日本ではもっぱら墨と筆で記録され、近年になって紙に印刷されるようになり、そこへ挿絵が入り、雑誌や本が編纂され、神話や民間伝承から「昔話」が独立し(「昔話」という言葉は柳田国男が作った学術用語です)、編集者と児童文学者(物語作者)と画家による三位一体の造形作業としてつい最近になって「絵本」が成立しました。そして、その絵本の記念すべき到達点は、奈良美智の絵本「ベイビーレボリューション」だと思います。理由は文(詩)が浅井健一で、同名の名曲が先にあって、それが絵本になっているのです。今日はミュージシャン坪井コレクションから借りた「baby revolution」を聴きました。これまでにない絵本体験です。ザ・クワガターズの「ベイビーロード」に通じるものがありました。

さてさて・・

お泊まり会以降、どんな絵本を選んだらいいのかしらん?その問いの延長として、ここでは絵本を通じた保育を語ってきました。

◆子どもにとっての絵本の意味を探る営みはこれからも続く

凄い時代です、本当に。全体を見渡している人がいないくらいの広がりです。絵本のこの爆発的な膨張の只中で、つまり、同時に、文明社会の歪みを一気に「お母さん」に押し付けている事実に無自覚な「日本の子育て事情」の中で、どうやったら窒息しないで生き延びられるか?という<切羽詰まった感>が解消されないままの子育て事情の中で(何度も言い換えて申し訳ありませんが)、この1ヶ月ほど、その「剥き出しの生」が干からびないように、少しは<元気の出る絵本>を紹介してきたつもりです。

その歴史的到達点の「しるし」になっている代表作を並べてみたのですが、その背後には、もちろん無数の絵本があって、たまたま「あれが北斗七星だよ」というようなもので、その背景に広大な銀河が広がっています。そこにどう切り込むか、どんな天体望遠鏡を持ち込むか、福音館書店と相談することになっています。

◆誰も否定できない空論はいらない、もっと方法論を!

「コロナ禍の影響」として教育実習生の受け入れ拒否問題が議論されました。マスコミは1つの事例をもって大上段に「差別しないように」などと精神論を展開しますが、これも空論に近いおかしな話です。現場をつぶさに取材していないことが多いですね。例えば保育者養成校のほとんどは、学生に発熱などがあればPCR検査をして陰性を確かめたあと、期間をおいてから送り出しています。

◆感染のピークは7月下旬だった

政府の専門家分科会は感染のピークは7月下旬だと分析しました。

この日記で7月24日に、その頃報道されていた「K値」(感染数の増加率)を紹介しましたが、その予想が大体当たったことを記しておきます(マスコミはある理由で無視していますが)。

問題は「どうして減少するのか」です。それを明らかにする手法が、政府と日本感染症学会から、まだ出てこないことが最大の課題です。その根本の問題は、サーベランスが足りないので(都のやっているモニタリングは、本当の意味でのモニタリングになっていない、ただの行政検査結果です)、第一波の時から今でも感染の全体像のデータが足りないので、肝心のところで議論が二分してしまうのでしょう。

◆私たちのそばに動物たちがいる意味は?

いまNHKの「Hot spot 最後の楽園」(ダイジェスト版)を見ながらこれを書いているのですが、地球上の生物のすごさには本当に目を見張るものがあります。これは、泳いでいるゾウです。

絵本の主役に動物が多いのは、そもそも「昔話」のジャンルとして「動物昔話」があることに遡ります。最後の楽園とは、人間が追い詰めた余白のことですが、それにしても、この映像から感じる「畏敬の念」を感じるように、古代の私たちの先祖も同じ畏怖の念を動物に感じていたに違いありません。

絵本を何度も繰り返しよむ意味

2020/08/21

「こたえ、いっちゃダメだよ。つまんなくなるから」と年長のSさんが言います。お友達が絵本のページを開くと、すかさず「これとこれと・・」と答えを言ってしまうからです。絵本を楽しむ流儀というものが、子どもたちなりにあって、ちゃんと楽しみたい、という感覚を求めていることが伝わってきた場面でした。

私は今日夕方、3階の絵本ゾーンの整理をしていたら、二人が私の両隣に座って「これよもう」と誘ってきたのですが、何冊目かの絵本が「トリックアートおばけやしき」だったのです。見開きページの左側に、クイズのように「○○はどこにあるでしょう?」のような「問い」があって、その問いにしたがって「だまし絵」や「錯覚図」など楽しむ絵本になっているのです。

私が、その絵本の文章を読み終わってから、Sさんは「髑髏(ドクロ)はここだよ」とか「コウモリはここ、とここ」とかやりたいのです。なのでSさんはフライング気味のお友達に「まだ、言っちゃダメだよ」と嗜めるのでした。

この言葉というか、その時の仕草や口調、雰囲気には「自分がやりたいんだから邪魔しないでほしい」という感じもあるのですが、それよりも「ちゃんと手順を踏んで楽しみたいんだから」というニュアンスの方が強いのです。二人とも何度も読んでいる絵本だけに、答えは9割がたわかっていても、面白いからまたやりたいという、その気持ち。ちゃんと最初からやりたいという感覚。これ、なんだから、よくわかります。この感覚は「きちんと」とか「ちゃんと」とかの言葉で表す何かなのですが、鑑賞や探究や学びの質と似ていてる、あるとても大切なプロセス感覚だと思います。そういう姿勢を育て、引き出す力があるのは、絵本がアートになっているゆえんでしょう。

何かをよく味わい尽くすとき、ある種の方法や手順が重視されるということがあります。例えばプロ棋士は将棋の勝負が終わると、感想戦というのをします。初手から巻き戻して、戦局の節目で「どっちが良かったのか」を指し直してみるのです。実践では頭の中で数十手先までシミュレーションした上で、最善手を選んでいくのですが、それが本当にそうだったのか、もう一度盤上で再現してみます。

絵本も何度も何度も読んでいる時、子どもにとって初読と再読と再々読と・・そのたびに深まっていったり、別の観点に着目していたり、新たな発見があったりしていて、概ねその多面的な探索を経て味わい尽くしたら、いったん「おしまい」になるのかもしれません。そして数年経って、同じ絵本を見てみると、きっとまた新しい発見があるものなのです。

ただ、この時期の子どもたちの最大の特徴は、ここで何度も繰り返してきたことになってしまいますが、棋士の感想戦と同じように、遊びとして再現すること、つまり模倣遊びやごっこ遊びとして繰り返されるということです。絵本を何度も読みたいということが、模倣遊びの衝動と同じだということです。ですから、ごっこ遊びもまた、「きちんと」「ちゃんと」再現されていくことが楽しいのでしょう。

進め!子どもたち。

2020/08/20

子育ての長い旅の途中には、思いもよらない出来事があるものです。例えば、今日も遊んでいるときに、子どもが列を作って並んでいました。子どもたちは、早くそれをやりたいから、順番を競ってケンカになったり、涙さえ流します。またある時は、大人の目から見たら、とるに足らないような小さなことなのですが、当事者にしてみれば、絶対に譲れない大事なことなんだろうと想像できることがありました。

子どもたちのこの「切実さ」たるや、大人には決して「かなわないな」と思えます。その時は私は「もう勘弁してよ」と降参気味だったり、あるいは「ハア、どうして、そうなちゃうのかな」と諦めモードになったり。でも、こうやって今振り返ると「子どもって凄なあ」と本気で感心していまうことだらけです。私たち保育者も、個人差はありますが、そういう感情の揺れ動きを味わいながら、自分とも向き合って子どもと接していることになります。

ただ、どんな大人にも、こんな幼少の頃の時間があったに違いなく、みんな自分のことは、きれいさっぱり忘れてしまっているだけでしょう。自分の過去のことは棚に上げておいて、大人が生きている世界の価値観やら、待ってくれない刻まれていく生活の流れの中で、子どもの行動の結果を問題にしてしまいます。昔からきっとそんなことが繰り返されてきたのでしょうね。それにしても、子どもの切実な願いは、どうやったら理解できるのでしょうか。

ただ泣くばかりの子どもを相手にしている時は、なおさらでしょう。その状況の中に放り込まれたら、誰だって平常心ではいられません。今日も私は、そんな出来事の連続の中で、自己との対話を繰り返しています。というと、ちょっとかっこいいですが、要するに、今日も悩んだり困ったりしていました。しかし、それをなくそうとも思わないし、またそうあることが自然なことでもあるのです。

私はこう思うようにしています。子育ての大前提としての心構えは、こうです。

「子どもはまだ数年しか生きていない。だから、自己中心的だし、失敗もするし、他人のいうことなんか聞けない。それが当たり前なんだ。これを裏返せば、こんなに自分というものをしっかり持ち、伸び代がいっぱいあって、はっきりとやりたいことを自己主張できる。最高じゃないか!」

「もし、これが反対だったら、もっと困ることになる。まだ数年しか生きていないから、自分というものがなく、何事も興味がなくて挑戦もせず、相手のことばかり優先して自分を抑えていい子になっている。こうなったら大変だ!」

時代は止まってくれません。忙しいこの世界の中で、未来の可能性をどこに見出すことができるでしょう。それはやっぱり子どもたちなのでしょう。子どもたちのパワーがどこから来るのか。その「しるし」を表しているなあと思うのが奈良美智の描くベイビーです。8月15日に取り上げようと思っていた絵本ですが、これは大人向け絵本でもあるので、こんな文脈の日記での紹介となりました。進め!子どもたち。

うんとこしょ、どっこいしょ

2020/08/19

今日は朝から大根3本、サツマイモ4本、ゴボウ2本を引き抜きました。とても大きく育っていて、なかなか抜けないので「うんとこしょ、どっこいしょ。それでも、ゴボウは抜けません」と、何回かやって、やっと抜けるのでした。抜けた野菜はその場で洗って、生のまま「むしゃむしゃ、美味しいなあ」といって、いただきました。根菜は洗われるときも、食べられる時も、ケラケラ、ぎゃあぎゃ笑って幸せそうでした。

朝9時ごろから3階で運動遊びをしていると、いつの間にか子どもたちは野菜になっていて、私に「引っ張って」(抜いて)というのです。うつ伏せになって、床のマットの端を両手でしっかり握って、私が両足を持って引っ張るという「野菜抜き遊び」なのですが、抜かれるもんか!と必死でしがみついているので、最初はなかなか抜けないフリをしてあげるのですが、徐々に力を入れて「うんとこしょ」とやると、スコーンと抜ける時、子どもたちは、それが嬉しいのです。もう一回!といって、またうつ伏せに寝転がります。

「うんとこしょ、どっこいしょ」

何気なく、調子のいいリズムで、それでもかぶは抜けません。とやっているのですが、もちろん、そうさせているのは1962年発行の『おおきなかぶ』があったからです。私たち保育者と子どもたちは、知らず知らずのうちに、日本ならではのこの児童文化に浸っているという事実に気づきます。さらにトルストイのおかげかもしれませんが。

このロシア民話を訳したのは、1928年東京生まれの内田梨紗子さん。私が前いた保育園ができた年の1997年に亡くなられていたことを後で知ります。早稲田大学露文科を卒業しているので、さすがロシア・東欧の児童文学にすこぶる詳しい方で、東欧の昔話や民話を日本に多数く翻訳して紹介してくださいました。ロシア語では、なんと発音するのか分かりませんが、よくぞ「うんとこしょ、どっこいしょ、それでも〜」と訳されたものです。この『おおきなかぶ』をはじめ『てぶくろ』や『ちいさなヒッポ』そして『しずくのぼうけん』も、内田さんです。

さて「うんとこしょ」が終わると、子どもたちは今度は野菜から動物になっていました。というより、私がエンチョウライオンにさせられていたのですが、ライオンは高いところに登れないから、小猿たちが枝振りのいい大きな木(ネットやクライミングウォール)に登って「ここなら捕まらないよ〜」とか「ここまでおいで!」などと囃立てるのです。私はライオンだったりワニだったりして、見守る保育どころか、まだ遊びの相手をしているのですが、どうやったら子どもたち同士で遊びへと発展していくのか、その見通しを想像すると楽しくなります。

そうなるには、子ども同士が再現したいと思う「物語」を共有することが必要なのです。子どもたちが再現したがるお話が、まあテレビのアニメやレンジャーものであってもいいのですが、そこには繰り返し味わえる心情やリズムが乏しい。呼吸を合わせて、ハラハラドキドキできるような物語、例えば北欧民話『三びきのやぎのがらがらどん』(1959年)のような世界を楽しみたい。私がトロルをやらされている時、きっと子ども同士での遊びが作られていくことでしょう。

「がらがらどん」は、これを手掛けたのは日本の児童文学の大御所である瀬田貞二。あのトールキンの指輪物語を訳した人です。「こどものとも」でも、ダントツに多いのですが、福音館書店の絵本をホームページでざっと拾い上げてみると、「あふりかのたいこ」「かさじぞう」「 ねずみじょうど」「三びきのこぶた」「ふるやのもり」「おんちょろちょろ」「お父さんのラッパばなし」「きょうはなんのひ?」など、よく知られるものばかりですね。岩波書店の「わらしべ長者」も瀬田貞二の再話です。

子ども同士の遊びの中でも、年中、年長ぐらいになると、登場人物を演じ合う<物語遊び>を楽しめるようになっていくのですが、そのためにも絵本による物語が大きな力を持っていることになります。内容が楽しく、それを再現したいという衝動をもたらすアート性、つまりごっこ遊びが表象になるということですが、これは「こどものとも」が発刊される頃にはびこっていた「童心主義」の絵本では、できなかった遊びなのです。

童心主義とは子どもの感性を絶対視して子どもの世界を理想化するような傾向のある、一種、センチメンタルな物語です。これらの絵本は教育臭くて子どもが再現したいという衝動になりにくいのでした。

幼少期の実体験が心を豊かに

2020/08/18

今日も一冊の絵本を4歳の男の子とよんだ。いわむらかずおの「ねずみのかいすいよく」。いま大きめの書店にいくと「夏の絵本特集」をやっていて、1986年に発行されたこの絵本も並んでいるから、かなりのロングセラーだろう。いわむらかずおといえば、「14ひき」の方を思い浮かべるはずですが、ねずみの7つ子シリーズの方も、あの自然と家族をあったかく描いていて、同じ世界が展開されています。

彼の絵本は、見開きの絵を、じっくりと味わえるのが楽しい。1匹ずつのやっていることを、確かめながら、次の展開をワクワクしながら進んでいく。先にお話があって、それに理解を促すために挿絵が付いているようなものとは次元が違うんです。絵のクオリティがすごい。一枚一枚の絵とその世界が深い。本人も雑木林に住み、農作業をしたり、丹念に取材して生き物を深く理解していないと描けない世界だから、ずっと大切にしておきたいと思える絵本ですね。

ところで、彼の描くどうぶつは、みんな純粋でいい人(動物)ばかりで、野ネズミたちが、自然界の厳しい現実や生活の知恵に目を見張る姿に、こちらまで共感してしまって、大人も心を動かされるのですよね。それにしても、このねずみたちが驚いたり、心配したり、ほっとしたりしている気持ちを、7ひきにしても14ひきにしても個性的に描ききる表現力はすごいですね。点で描いた目があんなに豊かな表情を描き出すというのは、見事です。

1939年生まれの本名、岩村和朗が、どうやって絵本作家になっいったのか、そこで何を大切にしてきたのか、どうして美術館の活動をしているのか、そうした経緯を辿っていくと、ちょっと話は長くなるのでやめますが、ただ保育と絵本の関係を考えるとき、彼が大切にしている1つの信念を紹介しておきましょう。実に平凡な結論なのですが「自然の体験が心を豊かにするもとになる」ということです。

「絵本だけではなく、自然の実体験をたくさんもつことは、心を豊かにするもとなると思うんです。音楽を聞いたり、絵本や小説を読んだときでも、そこに描かれたことが心を揺さぶるのは、そういう自然の体験がもとになっていると思うんです。ふーっと風に吹かれた時の感覚が、ある表現と接した時によみがえるような、何かそういう体験をたくさん持っているといいんじゃないかなあ」(「別冊太陽〜絵本の作家たちⅢ」2005年)

 

 

どうぶつたちのいるところ

2020/08/17

もう少し絵本の話を続けましょう。絵本には洋の東西を問わず決まって動物が出てきます。改めて考えてみると不思議なことですが、動物の出てこない絵本の方が珍しい。子どもは人間だと生々しくて想像の翼を広げにくいいのでしょう。動物だったら、どんなことだってできそうだし、突然、現れたり、いなくなったりしてもおかしくありません。ワニの尻尾にキャンディーを結びつけたり、ノネズミが大きな卵焼きを焼いたり、お風呂の中から動物たちがたくさん出てきて鬼ごっこを始めても、ちっともおかしくありません。どうも子どもというのは、もともとそんな世界の中に住んでいたのに、まちがえて人間の子どもの格好をしているんじゃないかしらん、と思えるほどです。

これは絵本を読んでいる時に限りません。今日17日も朝、緑の島から緑の島へ、ターザンロープにぶら下がって飛び移るという遊びを始めたので、私が「ここはジャングルだよ。青いマットはアマゾン川だから、落ちたらエンチョウワニが食べちゃうからね」と、大きな口を開けて、ガブっ〜とやっていたら、クライミングやらネットやらトランポリンやら、バイク乗りごっこやらをやっていた子どもたちが、あっという間に、列を作ってしまったのでした。いま思うに、これは「ごっこ力」のなせる技であり、地球のような「引力」じゃなくて、その代わりに「想像力」が働く「子ども星」に住む彼らは、動物たちと自然に心を通わせることができるのでしょう。きっと、そうに違いありません。ガブ〜。

 

「生きている絵本」を子どもに

2020/08/16

絵本の歴史を遡っていくと、明治30年代中頃に成立したと考えられる「口演童話」にまで遡ります。その代表は児童文学者の巌谷小波(いわや・さざなみ)ですが、現代に伝わる日本民話を「童話」として再生させたました。

それが私たちが絵本で知っている「桃太郎」や「浦島太郎」です。江戸時代まで語り継がれていた伝説や民話はその地方の方言ですから、その語りを標準語化したものが、明治期になって盛んに「再話」されたことになります。

その具体的な本が私の手元にあります。ずいぶん前に古本屋で手に入れた平凡社の東洋文庫シリーズ220「日本お伽集」(昭和47年初版)があるのですが、これは培風館が大正13年に発行した「標準お伽文庫」全6巻の復刻版です。巻末の解説で、瀬田貞ニが、この文庫が正式に省みられず、なんら言及されないで放置されていたことがおかしいと書いています。それだけ、「子ども向け」はまだ、社会全体が重要視していなかったのかもしれません。

日本の創作児童文学の歴史が始まります。小川未明、浜田広介、坪田譲治、酒井朝彦らの作品です。ただ、これらはあまり読み継がれていないのは、どうしてでしょうか。上笙一郎と山崎朋子の「日本の幼稚園」(1964年理論社)はこのように書いています。

「日本の創作児童文学のほうをながめると、こちらは、どちらかというと子どもから背を向けられることが多かったーーーと言わなくてはなりません。発展してくるあいだに、芸術的には高度になったけれども、それと引きかえに、おもしろさをなくしてしまい、ために、読者たる子どもたちにそむかれてしまったのです。」

まだ誰も子どもの保育をしたことがない文学作家による高尚な文芸作品になっていったのかもしれません。

その一方で、古来から語り継がれてきた民話や伝説は、子ども向けの「お伽話」になっていく過程で、富国強兵と和魂洋才によって歪んでしまいます。時代は当時の幼稚園にも影響を与えています。

この「日本の幼稚園」という本には、口演童話家が創設した2つの幼稚園が紹介されているのですが、いずれも、桃太郎主義の保育(体育主義の訓練や鍛錬が「桃太郎は泣きません」という精神主義、団体主義に陥っている保育)になっていたと書いています。

そしてその記述は、最後にこう続きます。

「第二次世界大戦ののち二十年近くたった昨今(1964年)になって、日本の児童文学の世界には、いるい・とみこの「長い長いペンギンの話」や「北極のムーシカ・ミーシカ」、それに中川李枝子の「いやいいやえん」など、すぐれた幼年童話が誕生しました。・・これらの作品は、小波以来、分裂してしまってまじわることのなかった<芸術性>と<おもしろさ>との統一の端緒を、ようやくつかんだものということができます。・・・日本の創作児童文学の<子ども忘れ>を乗り越える幼年童話が、幼稚園や保育所に深いつながりを持つ作家によって書かれはじめたのは、決して偶然なことではなかったのです」

それでは、中川李枝子さん本人は、どんな絵本を目指していたのでしょうか。彼女が実際にいいと思った絵本101冊のリストとコメントの載った本があります。「絵本と私」(福音館書店、1996年)です。「てぶくろ」に始まって「あおい目のねこ」まで。保育で実際に読んだ時の反応なども書いてあって、私たち保育者には必携書です。この101冊も「ちよだせいが文庫」に揃える予定です。

最後に夫で画家の中川宗弥さんが、絵本の条件をこう書いています。

「絵本の表現でも文章の表現でも、そこにあるものが生きているようにかかれてるのではなく、生きていなければならないのです。つくりこごとであったら、子どもは絵本の世界のなかで喜んだり、恐れたり、悲しんだり、楽しんだりすることができません。それから、きたならしく、みにくく、まずしく、あわれな、そういう絵本のなかに子どもを連れこんではならないと思います」

ちょっとわかりづらい話になってしまいましたが、現在の絵本は、子どもにとって面白く、楽しいものになっているのは間違いありません。おとぎ話ぐらいしかなかった時代に比べれば、いかに恵まれていることか。

ただ返って、多すぎる絵本の中から、子どもたちは何を読んだらいいのか、子どもたちに何を手渡したらいいのか、その選択に悩む時代になったと言うことです。福音館書店のサイトには絵本の選び方が載っています。

https://www.fukuinkan.co.jp/pdf/ataekata.pdf

絵本はその世界に一緒にいるだけ

2020/08/15

今週は子どもと一緒に絵本を楽しんだ時間が多かった気がします。「これよんで」と持ってくるので、「どれどれ」と読み始めるだけ。お気に入りの絵本を私とわかり合いたいという気持ちでいるので、要するに絵本で一緒に遊ぼう、と誘われているのです。

その時はぐんぐんの子でした。読んであげていたら、お話の内容は知っているからなのか、私がまだ読み終わらないうちに、どんどん、次のページをめくりたがります。そしてお目当ての絵が出たら、指差して「これ」(ね!という気持ちなんですが)というので、私も「(そうだ)ね!」と、応えてあげます。

子どもの「お気に入り」は、絵本のお話の展開とは関係のないことが多くて、よんでいると「こっちはライオンいないんだよ」と教えてくれます。ピンク色のウサギが3羽出てくる絵本では、指を器用に広げて、三箇所を同時に指します。手が小さいので、やっとのことで指先が届くのですが、それをしないと気が済まないようです。

「こどものとも」創刊の編集者である福音館書店の松居直さんが雑誌「東京人」(2001年NO168)で、あの「おふろだいすき」の松岡享子さんと対談していて、絵と文のバランスについて語っています。絵本に向いている文とそうでない文があるというのです。

「原稿を読み終わったときに、私の中に絵本ができていたんです。あっ、絵本なる! 子どもが喜ぶと実感して、大村百合子さんのところに、絵を描いてくださいって、飛んで行きました」。どの絵本だと思いますか。最初は「たまご」という題だったそうです。そう、あの「ぐりとぐら」です。

1963年に出版されたこの大ロングセラー絵本「ぐりとぐら」は、日本では親子2代、あるいは3代に渡って親しまれているかもしれません。作者の中川李枝子さんは保母さんだったので、その前年のデビュー作「いやいやえん」は保育園で働きながら書いたそうで、同名の絵本には「ちゅーりっぷほいくえん」「くまのこぐちゃん」など7篇が収録されています。

挿絵はずっとペアで作り上げてきている、実の妹の大村百合子さん(のち結婚後は山脇百合子)です。今では、子どもをものおきに、忘れた約束を思い出しにいかせたりはできませんが、子どもの心の動きが生き生きと描かれていいます。

ちなみに「くじらとり」はスタジオジブリがアニメにしており、三鷹の森ジブリ美術館の上映作品リストに入っています。私はこちらの童話の方が、子どもの想像力=イマジネーション力がよく描かれていて大好きです。

教室にどんどん水が入ってきて、船が浮かび、出航する光景は子どもが想像している世界を、そのまま映像にしたような作品になっていて、大人が見ても心動かされました。その16分のアニメを見たとき、宮崎駿が子どもの「想像世界」を、さらに動くファンタジーに仕立てたいと思う気持ちがよくわかりました。

そういえば昨日14日、となりのトトロがテレビで放映されていましたが、「さんぽ」などの歌詞も中川さんです。

 

(今日は戦争ものの絵本について書こうかと思いましたが、それはまた別の機会しましょう。ただ戦争中は、戦意高揚の絵本がいろいろ出回ったのですが、その挿絵を拒否した画家の女性たちがいたことに触れておきたいと思います)

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