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保育アーカイブ

千代田せいが保育園のカリキュラム

2020/02/02

先週は保護者会でいろいろな話ができて、楽しい時間を共にできました。参加していただき、ありがとうございました。この数ヶ月間、子ども(赤ちゃんも)が自分づくり(自分探し)をしている姿に感動したり、夜の睡眠がとても大切なことだと再認識したり、そして鬼ごっこのように規則のある遊び(ゲーム)を含む創造性が発揮されやすい遊び(プレイ)を増やしたりと、いろいろな保育実践を積み重ねてきた成果を、保護者会という機会に少し確認できた気がします。2月は、これまでの成長の軌跡を振り返る行事「成長展」があります(29日)。そこで今月は、子どもの成長の読み取り方を意識してみます。

◆子どもの育ちを見る目を持つ

子どもの成長や育ちを表す言葉は、英語では二つあります。一つはグロースです。「一年で随分と大きくなったね」と言う時に使います。身長や体重など身体的な成長を指すことが多いですね。経済学の「経済成長」はエコノミック・グロースです。もう一つが、デベロップメントで発達と訳されますが、こちらは精神的な側面も含むので、保育で発達というと心身両面の育ちを意味します。心の発達という言い方をします。

私たち保育士は、この発達を理解することが、専門性の中心に位置づきます。ただし、お医者さんのように健康かどうか、病気や障害かどうを診断する視点ではなく、教育(5領域)と養護(生命の保持・情緒の安定)の視点から捉えます。この教育と養護は世界中、同じです。英語ではエデュケーション・アンド・ケアです。略してECと言います。

ちなみに「保育」のことを、乳幼児を意味するアーリー・チャイルドフッド(EC)をつけて、Early Childhood Education and Careと呼びますので、略してECECと書くことが多いです。これが世界的には保育の意味です。英語では、とても長い言葉になりますが、日本では「保育」という言葉が、これを意味するので便利ですね。でも、保育には教育が入っていないと誤解されやすいという欠点もありますが、私たち保育者は、保育とは「養護と教育が一体となっている」と理解しているのです。

◆小学校以降は教科カリキュラム

教育の視点は幼稚園もこども園も全く同じですし、教育内容も全く同じです。保育園だから教育がないと誤解されている方が多いのですが、そんなことはありません。全く同じ目標や内容で実践しているのです。違って見えるのは、幼稚園が4時間、保育園は8時間ですから、日本の幼稚園は制度的には「学校」ですから、大人が決めた活動が時間割で活動が並ぶ「教科カリキュラム」的な園が、私立を中心に多くなります。就学準備型、と分類されることもあります。

この方の特徴は、世界的に読み書き計算の基礎(知識・技術)の育成に力を注ぐので、遊びという形式(手段)を通しての文字や数や体力などの習得を目指します。ですから厳密な意味での自由遊びではありません。遊びが手段になっているので、子どもの「自発的な活動としての遊び」(本来の遊び)にならないことが多いのです。現在の日本の幼稚園教育要領はこのやり方を否定しています。

ただし、公立幼稚園は幼稚園教育要領をよく理解しているし、それに準拠していることが多いので、子ども主体の自由遊びの時間を多く設けています。ただ、私が知っている年配の経験豊かな保育者によると、昔の活動内容としての5領域(あるいは6領域時代)の方法の影響と、どうしても一人担任や乳児の担当制になるために、以下に説明するオープン保育に移行できない壁があるようです。

◆乳幼児期に目指したいオープンカリキュラム

一方、千代田せいがのような、世界が目指し始めた保育、OECDが推奨している保育は、一人ひとりの子どもが決めた(あるいは選んだ、創っていく)生活と遊びなので、その内容を時間割で並べることができません。もちろん室内遊び、散歩・戸外探索、食事、休憩、午睡などの大まかな区切りはあります。こちらは「オープン(経験)カリキュラム」あるいは「生活基盤型」となります。知識・技術がしっかりと身につくように、その基盤(根っことか土台とよく言いますよね)となる、子どもの自信や意欲や人間関係力など非認知的能力を大切にします。土台をしっかりしていないと、その上に建つ建物がしっかり立たないからです。毎日の生活の中で、子どもが気づいたことが出発点になります。園庭がないから、「地域全体を園庭に」という発想は、学びの対象を実社会におき(教科書やドリルやお稽古教室ではなく)、地域や保護者の方も一緒に、子どもの経験を豊かにするために協力しましょう、というカリキュラムなのです。

では、この違いはどちらが、<教育的に効果が高い>と思いますか?

◆経験から自ら学ぶ力(learning to learn)が育つ

これは、すでに学術的にはっきりしていて国が強く求めいる「主体的・対話的で深い学び」(アクティブラーニング)が実現しやすいのは、後者です。前者は早く結果の姿が現れますが、小学校三年生で変わらなくなり、その後、後者に追い抜かれます。このスタイルは小学校以降の学びにはふさわしのですが、乳幼児期はまだ早いでしょう。後者は生活と遊びの中で、自分の切実なテーマ(発達のテーマ、課題)に沿って学ぶことができるので、学び方も学んでいます。これを昔から「単なる知識を教え授ける教育」ではなく、子どもが「経験から自ら学ぶ力(learning to learn)」を育てようといわれてきたものなのです。そう考えれば、後者が生涯学習時代の基礎になることや、変化の激しい時代、学ぶ内容がどんどん変わっていく時代にも対応しやすいというのは自然にご理解いただけるはずです。

後者の保育は、保育者の力量、園全体のマネジメントが難しのですが、千代田せいが保育園は、後者のノウハウ(保育理念〜保育方針〜保育方法)があることと、保護者の皆さんがこの保育を支持してくださっていることから成立しています。

 

 

 

他罰性の心理をめぐる考察

2020/02/01

◆免疫力や抵抗力も高めましょう

今日は電気に依存した機械が急に動かなくなったので、急いでその対策を講じることに追われました。このようなことが起きると、バップアップや代わりの手段を用意しておくことをシミュレーションしておきたくなります。新型コロナウイルスでWHO(世界保健機構)が緊急事態宣言を出すと、店頭からマスクがあっという間になくなりました。リスク回避能力は、経験と学習から育つものも多いのですが、病原体に関しては侵入を防ぐことですね。手洗いやうがいはもちろんのこと、子どもの心身の健康を維持増進するためのポイントは、大人にも通用します。また心が疲れていると病気になりやすくなります。栄養、腸内細菌、運動、睡眠、休息にも目を向けましょう。やはり自分の免疫力や抵抗力を高めておくことが大事だと感じます。

◆増え続ける煩雑な手続きが人間性を麻痺させる

保育の仕事をしていると、子どもの心の健康を考えることが多いのですが、この日記で以前、人類学者のデヴィッド・グレーバーの著書『官僚制のユートピア』を紹介したことがあります。この本のタイトルはもちろん皮肉です。官僚制賛美の本ではなく、現代社会の特徴として、ペーパーワーク的な仕事が増え、人間としてのシンプルな生活に専念できないというジレンマがなぜ生まれるのかを探求しているのです。人間の内面にまで官僚制が侵食してきていることに警鐘を鳴らしている本です。私はこの本を読んでいると、現代の社会がいかに心の健康に良くないかということに気づかされます。

◆私たちの人間性を振り返る

規制を緩和して自由競争を進める新自由主義社会になれば、煩雑で手続き的なルールに縛られなくなると思っていたら、現実はそれとは正反対になってしまいました。どの企業でも起きている書類や印鑑に象徴されるような煩雑な手続きをが増え続け、つい最近発明された企業の接客態度やクレーム処理をめぐる振る舞いなども、唯一の正解かのように思い込まされています。これらの行為を、私たちは当然視するようになってしまいました。

これら問題は、社会学で重要なテーマとして研究されています。人類が共生社会を維持するために、動物は力関係を権威と威圧と暴力で構築しました。しかし、ホモ・サピエンスはそこにとどまらず、協力と和解を生み出して進化させたのです。それが「笑顔」でした。生まれたばかりの赤ちゃんは生理的微笑という「笑顔」で親の養育を引き出します。

官僚的社会は、人が「生きる意味を考える」ことから遠ざけさせる、人間力の形式化、空洞化のテーマとして考察されてきました。これは自覚の可能性が問われている問題なので、共有することがとても難しいテーマにもなっています。

◆多様性から協働性へ

このような社会を変えること。それに気づく大人を増やすこと。これは生涯教育の大切なテーマなのですが、環境に適応することが上手な人間は、知らず知らずに、周りの環境を変えることが「自己実現」になると信じ、バラバラの価値観が多様化することに歯止めがかかりません。今年の新年会で藤森統括園長から頂いた色紙の言葉は「多様性から協働性へ」でした。

◆豊かさと他罰性、貧しさと自己罰は結びつきやすい

さて、佐々木正美さんの講演をまとめた本「生き方の道標 エリクソンとの散歩」(子育て協会)の冒頭に、こんな話が語られます。引用します。

文化人類学の方面から人間ということを考えますと、地球上ほとんど至る所にいろいろな種族、民族、いろいろな人間が住んでいるわけではありますが、経済的、物質的に豊かな地域や文化圏に住んでいる人間ほど、外罰性とか他罰性という感性を強く持っていると言われます。外罰、他罰というのは、何か不愉快なことがありますと、自分以外の人を罰したくなる、そういう感情、感覚、感性のようなものであります。人のせいにしたくなるとでも言いましょうか。卑近な例を申しますと、仮に幼い子どもの手を引いて自分の家の周囲を歩いていて、ちょっと親が心の隙を作ったときに、子どもが親の手を振り払って、ちょろちょろって歩いて行って、転んで、運悪く道の端のドブ川へ落っこちたとします。この場合、「ああ、しまった、いけない」と思うだけで済ませれば、それは自己罰であり、内罰でありますが、同時にこのどぶ川の管理責任者は誰だろうという感情が湧き上がったとします。こういう人通りの多いところにどぶ川をオープンのままにしておくというのは許しがたい、この道とどぶの管理責任者は誰だ、という感情に自分が支配されたとしますと、この部分が外罰であり他罰であります。経済的に、あるいは物質的に恵まれない社会に住んでいる人の場合は、おそらくこんな時に、こんな外罰的な感情は湧き上がらないというわけであります。豊かさと外罰、他罰性、貧しさと内罰、自己罰という感情が結びつきやすい。これは人類としての特性だそうです。

・・・・・・・・・

私もこんな感情にとらわれることがあります。皆さんはどうでしょうか。この感情が湧き上がってくるとき、私の中に感謝する心が足りないな、と反省します。人間関係力を小さい時から育むことがいかに大事か、保育園の子どもたちの様子を見ていると、強く感じてしまいます。

 

 

自信を育て自分をつくり他者と協力できるように

2020/01/29

(園だより2月号 巻頭言より)

◆自信を持った子になってほしい

将来必要になるであろう、社会人の力について考えていると、保育園の頃に必要な体験が何かがはっきりしてきます。それはやはり「自律と貢献」です。まず自分というものがどうであるのかを探しながら、自信をもった子になってほしいと思います。そのためには「ちっち」の頃に、自分が望んだことを受け止めてくれる他者(ほとんどの場合は親です)がいることで、「周りは信じるに足る世界だ」という感覚を持てるようになります。これを基本的信頼感の獲得といってもいいのですが、これが人間関係の世界に入っていくための駆動装置(エンジンやモーター)なります。反対にこれがないと、世界に対する不信を学ぶことになり、人間がもともと持っている意欲や自発性がよく育ちません。

◆条件なしの自信を育てたい

0歳の赤ちゃんはまだ自分のことがわかりませんが、その頃に「呼べば応えてくれる他者」があると、自分への自信にもなります。応えてくれる世界が呼んだ自分を認める作用になるからです。世界への信頼が同時に自分への自信にもなる。そういう関係です。1歳をすぎる頃から、それが自分の有能感(やればできる)や万能感(なんでもできる)の基礎になっていきます。

注意してほしいのは、これは「何々ができたから褒められる」という経験から生まれる自信ではありません。そうした条件のつかない自信です。やった結果の反映として生まれる自信ではないのです。頑張って努力して達成できたからつく自信とは違います。それは小学校以降でいいのです。根拠のない自信といってもいいでしょう。そもそも存在していることだけで認めてもらえる自信といってもいいかもしれません。「あなたがいるだけでママ(パパ)は幸せよ」ということです。ある心理学者はこれを英語の「ある」という意味で「Beの自信」と呼びます。やった結果から生まれる方の自信が英語の「やる」という意味で「Doの自信」と、その研究者は命名しています。乳幼児期に大事なのは、もちろん「Beの自信」です。

◆世界を探求できる力を

もともと持って生まれてきた存在(あること)と意欲(しようとすること)に応答し、認めてあげることは人権の尊重そのものです(これをAIができるかどうか)。ここが育つことができれば、あとは駆動装置が自分を導きます。そして自律というテーマが浮上してきます。他者(社会)との関係のなかで、目的に向けて自分を自分でコントロールする力です。他者とモノとの関係の中で展開されるドラマの始まりですね。自分づくり、自分探しの始まりです。あのイヤイヤ期です。世界との折り合いを学び(目的や目当ての発見)、自分の心と身体を世界にフィットさせていく。満3歳ごろまでそれが続き、世界の歩き方がわかると、4歳以降、生活と遊びの中で「自分で探求できる」ようになっていくのです。

◆他人と協力できるように

この自発的な活動としての遊びは、自由遊びのことです。自分の心身を自発的に使うとき、その力は育ちます。能力は使わないと育たないのですが、使って育つような環境を選べるように用意するとき、その環境は歴史的にも国際的にも、そして将来性からも正当性のある活動になるようにしたいのです。切実な自分づくりと、それが将来から見ても困らないようなものです。自信を持ち、自分をつくり、5歳以降は他者と力を合わせられる力を育んでいきましょう。

新宿せいがの保護者が集いの企画1月19日「地域の子どもの居場所と育ち」

2020/01/08

姉妹園の「新宿せいが子ども園」の保護者が、地域に子ども(小学生以上)の居場所を作るために話し合う機会を作るそうです。題して「地域の子どもの居場所と育ち〜見守る保育から考える〜」。同園は開園のとき学童クラブがあったのですが、定員が増えたときに学童がなくなり、落合第四小学校区域の学童クラブに移動になりました。

関心のある方はぜひご参加くださいと、お誘いをいただきましたので、ご案内します。私も出かける予定です。

日時:1月19日(日)10:00〜12:00

場所:新宿せいが子ども園

20200119地域の子どもの居場所と育ち(ポスター)

 

 

質の高い教育をみんなに (SDGSその4)

2020/01/04

園だより1月号 巻頭言より

あけましておめでとうございます。今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります。皆さんに一人ひとりにとってどんな一年になるか、わくわくする一年ですね。この一年でさえ、どんな年になるのかわからないのですが、10年後の2030年がどうなっているのか、見通すのは難しいです。それでも、きっとこんな社会になりそうだから、こんな資質・能力が必要だという「未来からの視点」を見つけながら保育を創っていきたいと思います。そこで参考にしている指標の一つが、国連の「17の持続可能な開発目標」(SDGS)です。その一つが「質の高い教育をみんなに」です。

質の高い保育は、「その子にとっての経験の質」の高さと言い換えられます。同じ活動を、同じ時間、同じ場所で「させる」のではなく、「いつ、何を、どうやってやるか」の最適値を各自に保障することが大切になります。すると、それは対象もタイミングも「選択」が必要であり、複数の選択肢のある環境を用意せざるを得ません。育ちの支え方も、一人ひとり異なってくるので、子どもの周りにはタイプの違う他人や必要です。(オープン保育)

もう一つのキーワードが「自覚」です。子ども自身が考え、自分は何をやりたいのか自問自答できる力。自分は何が好きなのか、得意なのか、自分が生かされる環境を探し求める力がこれからの時代に最も必要な探求の方向だと思います。これは非認知的能力です。自分の社会の中での「志」を明確にしていく生き方、と言ってもいいでしょう。私は生物学者の「相川先生」を演じる高橋一生主演のドラマ『僕たちは奇跡でできている』のあるシーンが印象に残っています。自分の生き方に迷っている大学生に、小林薫扮する大学教授が「こんな風に考えるのはどうかな」と語ります。

「アイスの木のスプーン。普通はただのゴミだよね。でも相川先生がやっているのは、それを、どう生かしきるか、ってことだと思う。フィールドワークでは、ちょっとしたことに役に立つ。種や苗を植えた時の目印にしたり、魚を釣る時の浮きに使ったり。スプーンは他の何かにならなくても、色々と生かされる。スプーンが他のものと比べて何ができるとか、できないとかじゃない。ただそのものを生かしきること」

そこから学生たちは、「自分の道」を歩き始めるのですが、そこでの「自覚」の仕方は、その時代の「環境の選択肢」が見えることが大事です。多分、保護者の方がピアノや英語や体操や空手の教室に通わせてみようとするとき、「この子は何に向いているのかな」と考えるのと似ています。そこで保育園で計画しているのが「5歳のハローワーク」です。プロとして働いているお父さん、お母さんの出番です。子どもたちに今の仕事を伝える機会を作りますので、子ども向けに教えてください。子どもたちの「生きる道」を一緒に作り上げましょう。

子どもの経験の質を環境の選択肢から考える。その一歩を進めたいと思います。

むかし話に学ぶシンプルな価値観

2019/12/30

テレビやマスコミがなかった頃、それぞれの村には「ただの毎日」が続いていただけでした。昔の日本人にとって、日々の時間は、太陽の動きを拠り所として、生活を営み、ただ今日が何日だろうとあまりにきしていません。その時代の生活は「安全」で「食べ物」があれば、幸せだったのです。現代のように、テレビやSNSによる情報社会では、世界中の出来事をあっという間に共有してしまいます。先ほど今年の日本レコード大賞が、フーリンの「パプリカ」に決まりました。それを観ていて、園の子どもたちも大好きな歌だということに併せて、これだけ同じ人間が同じ歌を短期間に共有してしまうことに、改めて現代の情報社会は「すごいことかも」と思ったのでした。

せわしなく過ぎていく現代社会の時間。私のように物心ついたときにテレビがない時代を知っている者は、テレビやラジオが常に何かの情報を流している場所は苦手です。静かに瞑想しながら、自分の思いと向かい合う時間が好きです。常にイヤホンで何かを聞いている若者たちの生活スタイルを見ると、全く別の人たちのように思えてきます。情報が多すぎると、なんでも受け身の頭になってしまい、自分で考えることができなくなってしまうのではないかと心配になります。多過ぎる情報を処理しなければならない時、生きていく上で「本当に大事なこと」だけに専念できたら幸せだろうなあと思う時があります。その大事なことを思い出させてくれるのが「むかし話」です。

「むかし話」には、ある種の物語のパターンがあリます。正直者が幸せになり、欲深い者は幸せになれません。その典型が「ねずみ浄土」でしょう。おじいさんが山でおむすびを落として転がって落ちた穴には、ねずみが住んでいて、おむすびのお礼におじいさんを歓待して、歌を歌ったり、餅をついてご馳走を振舞ったりします。帰りにはねずみの宝の打ち出の小槌まで贈ります。それを知った欲深い隣のじいさんも穴に入っていきますが、にゃーお、と猫の鳴き声で驚かしたりするので、ねずみはいなくなり、真っ暗な中を土を掘って外に出ようとして、欲深い爺さんはモグラになってしまうのです。

これと似た話はたくさんあって、どれも幸せは「身の安全」と「富」。それに「結婚」して幸せに暮らしましたとさ、といった話が共通しています。昔の人たちが大切にしていた生活の中の幸せです。そうしたことを思い出しながら、年の瀬の情報に触れていると、色々なことが多すぎて疲れてしまいます。

もっとシンプルに、自分で感じ、自分で考え、自分で想像する時間を持つこと。資本主義社会である限り、消費行動を誘引する情報に満ち溢れています。それに受動的に巻き込まれるままにするのではなく、どこかで「線引きする力」がどうしても必要です。そのためも、自分一人になって、染み付いてしまっている、無意識に働いている行動や考え方に気づくことも大事です。自分にどんな傾向があるのかを自己認識することにもつながります。精神性を開発する時間を意識的に作り出しましょう。それが除夜の鐘の意義に通じるはずだからです。

年の瀬と「美」の極め方

2019/12/29

生活の中に「美」があるとすると、年の瀬はそれに拘りたいという意識が鮮明になる気がします。それはこうするもんだんだよ、という日本の「伝統的作法」を目撃することが増えます。日本ならではのカウントダウン、といってもいいのでしょうが、その時の刻み方の中に、なが〜い時間をかけて濾過したり、純化したりした技が覗きます。

それは例えば、食事がわかりやすいかもしれません。年の瀬になると、ふだんとは違って、色々な調理の仕方を再認識することが多くないでしょうか。帰省すると子どもの頃食べた味と再会できたり、味覚が幼少の記憶を蘇らせたり、思わずその味がエピソードを思い起こさせたりしますよね。美味しいものを食べたくなるとき、味のルーツを求めたがる自分がいます。

そんなことから、久しぶりに会った親戚と「せっかくだから」と今日は神田の老舗店で「なべ」を食べたのですが、そこには海の幸、山の幸がそれぞれ「どうぞ召し上がれ。どう、美味しいでしょ」と迫ってきました。長い間、多くの人がこの味を美味しいと賞賛してきたことを思うと、ちょっと大げさかもしれませんが、味を通じて、その世代を超えた江戸文化のコミュニティに参画している、といっていいのでしょう。伝統の味を体験するというのは、きっとそいういう時間軸を感じながら味わうことなのでしょう。帰省されているみなさんも、故郷の味に、懐かしさの時間を感じていらっしゃるのではないでしょうか。

もう一つ、美味しさには「産地」「仕入れ」のこだわりもあります。日本の食文化を「持続可能な社会」にするためにも、そのこだわりの価値を共有することが大事だと思います。特に海外の人にも説明できることが間違いなく必要な時代になります。どうやったらこんな味になるのか、そこは老舗ならではの秘伝の技が隠されているわけですが、その要素の主役は、やはり「ネタ」でしょう。それを美味しいと感じるように、作りあげてきた伝統の作法は、無条件に受け入れ賞味したいと思えます。

日本食は餅をついたり、魚を焼いたり、根菜を煮たり、茶碗ごと蒸したりしますが、そうした調理方法と食具を編み出して、味を極めようとする営みは、人間だけが持つ好奇心のなせる技です。大人が「美味しい」と食べるとき、その側に子どもがいること。子どもは、風景としてそれをよく覚えているものです。それが食卓を家族で囲むことの大切な意味の一つです。

納会と挨拶回り

2019/12/27

(新しいパンフレット)

 

世間一般は今日が仕事納め。役所が今日だから、それにならう会社も多いのかもしれません。保育園は働く家族のためにあるので、仕事から帰って来る方々をお待ちしてから私たちの仕事も終えることができるのですが、もちろん明日も仕事がある方もいらっしゃいますし、実は年末年始こそ、忙しくなる仕事が結構あります。当園は年末年始の保育はありませんが、それを切実に必要とされている方もいます。

今日は、色々な方と年末の挨拶をしましたが、当園の警備会社の担当の方は、「年末年始が本番ですよ」と言います。イベントの警備がこれから始まるのだそうです。またマスコミ関係の方とお話しすると、はやり年末年始の休みはないに等しいほどの忙しさ。仕事の分野や当番にもよりますが、なかなか休めないそうです。

神田ふれあい橋を渡っていると、会社の納会でしょう、食料をたくさん抱えたスーツ姿の一群と出会いました。私の前勤めていた会社では、社長が各局を回って来ていましたが、大抵午後3時か4時には仕事は終えて、会食が始まります。それが終わると外へ出て宴会、というのが多かったパターンでしたが、最近の会社のことはわかりません。色々と変わっていることでしょう。

何より、子どものいる家庭にとっては、会社の都合が優先されると家庭が回りませんから、子育てに優しい会社の習慣に変えてもらいたいものです。酒の席を利用した懇親という昭和の発想では、平成生まれ感性にマッチしないこともありそうです。何をどのように共有するか。組織のワンチームの作り方とも関係しそうな仕事の納め方です。

こうして毎日日記を書いていると、オフラインの世界では「良いお年を」と挨拶させてもらいましたが、ネットの世界では大晦日まで年末が続きます。

サンタという物語

2019/12/24

クリスマスの本来の意義から遠く離れて、日本のクリスマスは独自の文化的な道を歩んできました。キリスト教徒にとっての今夜は静かに祈る時間です。子どもへの文化的継承をその仕事にしている幼児教育関係者の多くは、このクリスマスをサンタクロースと結びつけて迎えることに、ほとんど違和感すら持たずに、それが当たり前のことのように習慣づけられているように思えます。この子たちが、幾つになるまでサンタクロースという存在を信じるのでしょうか。この時期になると毎年そう思います。そして子どもたちは、サンタクロースがもって来てくれるプレゼントを本当に楽しみにしています。

今日は「あわてんぼうのサンタクロース」からのお手紙も最後でした。それによると、明日のクリスマス会に来ると書いてありました。そこでエントランスの金魚がいるあたりに、クリスマスツリーに見立てた手形ページェントを飾りました。みんなで成長をお祝いしたい、みんなでサンタをお迎えしよう。そんな意味を込めた装飾です。

私たちはこの時期に、毎年新しいおもちゃを加えるのですが、それはサンタクロースがもって来てくれます。またご家庭へもって帰って家族で遊んでもらいたいプレゼントもあります。今年はお楽しみ会で「神田囃子」に触れたので、獅子舞をモチーフにした制作キットです。親子遊びのひと時に使ってみてください。

 

小中高校生の保育園体験はじめます

2019/12/21

 

小学生や中学生、高校生の保育園体験を始めます。保育園に興味のある方は体験してみてください。園児のお兄さんやお姉さんも大歓迎です。過ごしてみたいクラスや活動を選べますので、相談しながら体験できます。気軽にご相談ください。

小中高校生の保育所体験

 

(注意)後日、ホームページの「子どものいる家庭」のカテゴリーに新たに「保育園体験」を設ける予定です。

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