MENU CLOSE
TEL

保育アーカイブ

自信を育て自分をつくり他者と協力できるように

2020/01/29

(園だより2月号 巻頭言より)

◆自信を持った子になってほしい

将来必要になるであろう、社会人の力について考えていると、保育園の頃に必要な体験が何かがはっきりしてきます。それはやはり「自律と貢献」です。まず自分というものがどうであるのかを探しながら、自信をもった子になってほしいと思います。そのためには「ちっち」の頃に、自分が望んだことを受け止めてくれる他者(ほとんどの場合は親です)がいることで、「周りは信じるに足る世界だ」という感覚を持てるようになります。これを基本的信頼感の獲得といってもいいのですが、これが人間関係の世界に入っていくための駆動装置(エンジンやモーター)なります。反対にこれがないと、世界に対する不信を学ぶことになり、人間がもともと持っている意欲や自発性がよく育ちません。

◆条件なしの自信を育てたい

0歳の赤ちゃんはまだ自分のことがわかりませんが、その頃に「呼べば応えてくれる他者」があると、自分への自信にもなります。応えてくれる世界が呼んだ自分を認める作用になるからです。世界への信頼が同時に自分への自信にもなる。そういう関係です。1歳をすぎる頃から、それが自分の有能感(やればできる)や万能感(なんでもできる)の基礎になっていきます。

注意してほしいのは、これは「何々ができたから褒められる」という経験から生まれる自信ではありません。そうした条件のつかない自信です。やった結果の反映として生まれる自信ではないのです。頑張って努力して達成できたからつく自信とは違います。それは小学校以降でいいのです。根拠のない自信といってもいいでしょう。そもそも存在していることだけで認めてもらえる自信といってもいいかもしれません。「あなたがいるだけでママ(パパ)は幸せよ」ということです。ある心理学者はこれを英語の「ある」という意味で「Beの自信」と呼びます。やった結果から生まれる方の自信が英語の「やる」という意味で「Doの自信」と、その研究者は命名しています。乳幼児期に大事なのは、もちろん「Beの自信」です。

◆世界を探求できる力を

もともと持って生まれてきた存在(あること)と意欲(しようとすること)に応答し、認めてあげることは人権の尊重そのものです(これをAIができるかどうか)。ここが育つことができれば、あとは駆動装置が自分を導きます。そして自律というテーマが浮上してきます。他者(社会)との関係のなかで、目的に向けて自分を自分でコントロールする力です。他者とモノとの関係の中で展開されるドラマの始まりですね。自分づくり、自分探しの始まりです。あのイヤイヤ期です。世界との折り合いを学び(目的や目当ての発見)、自分の心と身体を世界にフィットさせていく。満3歳ごろまでそれが続き、世界の歩き方がわかると、4歳以降、生活と遊びの中で「自分で探求できる」ようになっていくのです。

◆他人と協力できるように

この自発的な活動としての遊びは、自由遊びのことです。自分の心身を自発的に使うとき、その力は育ちます。能力は使わないと育たないのですが、使って育つような環境を選べるように用意するとき、その環境は歴史的にも国際的にも、そして将来性からも正当性のある活動になるようにしたいのです。切実な自分づくりと、それが将来から見ても困らないようなものです。自信を持ち、自分をつくり、5歳以降は他者と力を合わせられる力を育んでいきましょう。

新宿せいがの保護者が集いの企画1月19日「地域の子どもの居場所と育ち」

2020/01/08

姉妹園の「新宿せいが子ども園」の保護者が、地域に子ども(小学生以上)の居場所を作るために話し合う機会を作るそうです。題して「地域の子どもの居場所と育ち〜見守る保育から考える〜」。同園は開園のとき学童クラブがあったのですが、定員が増えたときに学童がなくなり、落合第四小学校区域の学童クラブに移動になりました。

関心のある方はぜひご参加くださいと、お誘いをいただきましたので、ご案内します。私も出かける予定です。

日時:1月19日(日)10:00〜12:00

場所:新宿せいが子ども園

20200119地域の子どもの居場所と育ち(ポスター)

 

 

質の高い教育をみんなに (SDGSその4)

2020/01/04

園だより1月号 巻頭言より

あけましておめでとうございます。今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります。皆さんに一人ひとりにとってどんな一年になるか、わくわくする一年ですね。この一年でさえ、どんな年になるのかわからないのですが、10年後の2030年がどうなっているのか、見通すのは難しいです。それでも、きっとこんな社会になりそうだから、こんな資質・能力が必要だという「未来からの視点」を見つけながら保育を創っていきたいと思います。そこで参考にしている指標の一つが、国連の「17の持続可能な開発目標」(SDGS)です。その一つが「質の高い教育をみんなに」です。

質の高い保育は、「その子にとっての経験の質」の高さと言い換えられます。同じ活動を、同じ時間、同じ場所で「させる」のではなく、「いつ、何を、どうやってやるか」の最適値を各自に保障することが大切になります。すると、それは対象もタイミングも「選択」が必要であり、複数の選択肢のある環境を用意せざるを得ません。育ちの支え方も、一人ひとり異なってくるので、子どもの周りにはタイプの違う他人や必要です。(オープン保育)

もう一つのキーワードが「自覚」です。子ども自身が考え、自分は何をやりたいのか自問自答できる力。自分は何が好きなのか、得意なのか、自分が生かされる環境を探し求める力がこれからの時代に最も必要な探求の方向だと思います。これは非認知的能力です。自分の社会の中での「志」を明確にしていく生き方、と言ってもいいでしょう。私は生物学者の「相川先生」を演じる高橋一生主演のドラマ『僕たちは奇跡でできている』のあるシーンが印象に残っています。自分の生き方に迷っている大学生に、小林薫扮する大学教授が「こんな風に考えるのはどうかな」と語ります。

「アイスの木のスプーン。普通はただのゴミだよね。でも相川先生がやっているのは、それを、どう生かしきるか、ってことだと思う。フィールドワークでは、ちょっとしたことに役に立つ。種や苗を植えた時の目印にしたり、魚を釣る時の浮きに使ったり。スプーンは他の何かにならなくても、色々と生かされる。スプーンが他のものと比べて何ができるとか、できないとかじゃない。ただそのものを生かしきること」

そこから学生たちは、「自分の道」を歩き始めるのですが、そこでの「自覚」の仕方は、その時代の「環境の選択肢」が見えることが大事です。多分、保護者の方がピアノや英語や体操や空手の教室に通わせてみようとするとき、「この子は何に向いているのかな」と考えるのと似ています。そこで保育園で計画しているのが「5歳のハローワーク」です。プロとして働いているお父さん、お母さんの出番です。子どもたちに今の仕事を伝える機会を作りますので、子ども向けに教えてください。子どもたちの「生きる道」を一緒に作り上げましょう。

子どもの経験の質を環境の選択肢から考える。その一歩を進めたいと思います。

むかし話に学ぶシンプルな価値観

2019/12/30

テレビやマスコミがなかった頃、それぞれの村には「ただの毎日」が続いていただけでした。昔の日本人にとって、日々の時間は、太陽の動きを拠り所として、生活を営み、ただ今日が何日だろうとあまりにきしていません。その時代の生活は「安全」で「食べ物」があれば、幸せだったのです。現代のように、テレビやSNSによる情報社会では、世界中の出来事をあっという間に共有してしまいます。先ほど今年の日本レコード大賞が、フーリンの「パプリカ」に決まりました。それを観ていて、園の子どもたちも大好きな歌だということに併せて、これだけ同じ人間が同じ歌を短期間に共有してしまうことに、改めて現代の情報社会は「すごいことかも」と思ったのでした。

せわしなく過ぎていく現代社会の時間。私のように物心ついたときにテレビがない時代を知っている者は、テレビやラジオが常に何かの情報を流している場所は苦手です。静かに瞑想しながら、自分の思いと向かい合う時間が好きです。常にイヤホンで何かを聞いている若者たちの生活スタイルを見ると、全く別の人たちのように思えてきます。情報が多すぎると、なんでも受け身の頭になってしまい、自分で考えることができなくなってしまうのではないかと心配になります。多過ぎる情報を処理しなければならない時、生きていく上で「本当に大事なこと」だけに専念できたら幸せだろうなあと思う時があります。その大事なことを思い出させてくれるのが「むかし話」です。

「むかし話」には、ある種の物語のパターンがあリます。正直者が幸せになり、欲深い者は幸せになれません。その典型が「ねずみ浄土」でしょう。おじいさんが山でおむすびを落として転がって落ちた穴には、ねずみが住んでいて、おむすびのお礼におじいさんを歓待して、歌を歌ったり、餅をついてご馳走を振舞ったりします。帰りにはねずみの宝の打ち出の小槌まで贈ります。それを知った欲深い隣のじいさんも穴に入っていきますが、にゃーお、と猫の鳴き声で驚かしたりするので、ねずみはいなくなり、真っ暗な中を土を掘って外に出ようとして、欲深い爺さんはモグラになってしまうのです。

これと似た話はたくさんあって、どれも幸せは「身の安全」と「富」。それに「結婚」して幸せに暮らしましたとさ、といった話が共通しています。昔の人たちが大切にしていた生活の中の幸せです。そうしたことを思い出しながら、年の瀬の情報に触れていると、色々なことが多すぎて疲れてしまいます。

もっとシンプルに、自分で感じ、自分で考え、自分で想像する時間を持つこと。資本主義社会である限り、消費行動を誘引する情報に満ち溢れています。それに受動的に巻き込まれるままにするのではなく、どこかで「線引きする力」がどうしても必要です。そのためも、自分一人になって、染み付いてしまっている、無意識に働いている行動や考え方に気づくことも大事です。自分にどんな傾向があるのかを自己認識することにもつながります。精神性を開発する時間を意識的に作り出しましょう。それが除夜の鐘の意義に通じるはずだからです。

年の瀬と「美」の極め方

2019/12/29

生活の中に「美」があるとすると、年の瀬はそれに拘りたいという意識が鮮明になる気がします。それはこうするもんだんだよ、という日本の「伝統的作法」を目撃することが増えます。日本ならではのカウントダウン、といってもいいのでしょうが、その時の刻み方の中に、なが〜い時間をかけて濾過したり、純化したりした技が覗きます。

それは例えば、食事がわかりやすいかもしれません。年の瀬になると、ふだんとは違って、色々な調理の仕方を再認識することが多くないでしょうか。帰省すると子どもの頃食べた味と再会できたり、味覚が幼少の記憶を蘇らせたり、思わずその味がエピソードを思い起こさせたりしますよね。美味しいものを食べたくなるとき、味のルーツを求めたがる自分がいます。

そんなことから、久しぶりに会った親戚と「せっかくだから」と今日は神田の老舗店で「なべ」を食べたのですが、そこには海の幸、山の幸がそれぞれ「どうぞ召し上がれ。どう、美味しいでしょ」と迫ってきました。長い間、多くの人がこの味を美味しいと賞賛してきたことを思うと、ちょっと大げさかもしれませんが、味を通じて、その世代を超えた江戸文化のコミュニティに参画している、といっていいのでしょう。伝統の味を体験するというのは、きっとそいういう時間軸を感じながら味わうことなのでしょう。帰省されているみなさんも、故郷の味に、懐かしさの時間を感じていらっしゃるのではないでしょうか。

もう一つ、美味しさには「産地」「仕入れ」のこだわりもあります。日本の食文化を「持続可能な社会」にするためにも、そのこだわりの価値を共有することが大事だと思います。特に海外の人にも説明できることが間違いなく必要な時代になります。どうやったらこんな味になるのか、そこは老舗ならではの秘伝の技が隠されているわけですが、その要素の主役は、やはり「ネタ」でしょう。それを美味しいと感じるように、作りあげてきた伝統の作法は、無条件に受け入れ賞味したいと思えます。

日本食は餅をついたり、魚を焼いたり、根菜を煮たり、茶碗ごと蒸したりしますが、そうした調理方法と食具を編み出して、味を極めようとする営みは、人間だけが持つ好奇心のなせる技です。大人が「美味しい」と食べるとき、その側に子どもがいること。子どもは、風景としてそれをよく覚えているものです。それが食卓を家族で囲むことの大切な意味の一つです。

納会と挨拶回り

2019/12/27

(新しいパンフレット)

 

世間一般は今日が仕事納め。役所が今日だから、それにならう会社も多いのかもしれません。保育園は働く家族のためにあるので、仕事から帰って来る方々をお待ちしてから私たちの仕事も終えることができるのですが、もちろん明日も仕事がある方もいらっしゃいますし、実は年末年始こそ、忙しくなる仕事が結構あります。当園は年末年始の保育はありませんが、それを切実に必要とされている方もいます。

今日は、色々な方と年末の挨拶をしましたが、当園の警備会社の担当の方は、「年末年始が本番ですよ」と言います。イベントの警備がこれから始まるのだそうです。またマスコミ関係の方とお話しすると、はやり年末年始の休みはないに等しいほどの忙しさ。仕事の分野や当番にもよりますが、なかなか休めないそうです。

神田ふれあい橋を渡っていると、会社の納会でしょう、食料をたくさん抱えたスーツ姿の一群と出会いました。私の前勤めていた会社では、社長が各局を回って来ていましたが、大抵午後3時か4時には仕事は終えて、会食が始まります。それが終わると外へ出て宴会、というのが多かったパターンでしたが、最近の会社のことはわかりません。色々と変わっていることでしょう。

何より、子どものいる家庭にとっては、会社の都合が優先されると家庭が回りませんから、子育てに優しい会社の習慣に変えてもらいたいものです。酒の席を利用した懇親という昭和の発想では、平成生まれ感性にマッチしないこともありそうです。何をどのように共有するか。組織のワンチームの作り方とも関係しそうな仕事の納め方です。

こうして毎日日記を書いていると、オフラインの世界では「良いお年を」と挨拶させてもらいましたが、ネットの世界では大晦日まで年末が続きます。

サンタという物語

2019/12/24

クリスマスの本来の意義から遠く離れて、日本のクリスマスは独自の文化的な道を歩んできました。キリスト教徒にとっての今夜は静かに祈る時間です。子どもへの文化的継承をその仕事にしている幼児教育関係者の多くは、このクリスマスをサンタクロースと結びつけて迎えることに、ほとんど違和感すら持たずに、それが当たり前のことのように習慣づけられているように思えます。この子たちが、幾つになるまでサンタクロースという存在を信じるのでしょうか。この時期になると毎年そう思います。そして子どもたちは、サンタクロースがもって来てくれるプレゼントを本当に楽しみにしています。

今日は「あわてんぼうのサンタクロース」からのお手紙も最後でした。それによると、明日のクリスマス会に来ると書いてありました。そこでエントランスの金魚がいるあたりに、クリスマスツリーに見立てた手形ページェントを飾りました。みんなで成長をお祝いしたい、みんなでサンタをお迎えしよう。そんな意味を込めた装飾です。

私たちはこの時期に、毎年新しいおもちゃを加えるのですが、それはサンタクロースがもって来てくれます。またご家庭へもって帰って家族で遊んでもらいたいプレゼントもあります。今年はお楽しみ会で「神田囃子」に触れたので、獅子舞をモチーフにした制作キットです。親子遊びのひと時に使ってみてください。

 

小中高校生の保育園体験はじめます

2019/12/21

 

小学生や中学生、高校生の保育園体験を始めます。保育園に興味のある方は体験してみてください。園児のお兄さんやお姉さんも大歓迎です。過ごしてみたいクラスや活動を選べますので、相談しながら体験できます。気軽にご相談ください。

小中高校生の保育所体験

 

(注意)後日、ホームページの「子どものいる家庭」のカテゴリーに新たに「保育園体験」を設ける予定です。

お祭りの起源、そして子どもの「ハレとケ」

2019/12/18

「お祭りなんだから、さあさあ、呑んで呑んで!」

(17日の科学博物館で)

今年5月の神田祭の神輿神霊入れの座で、石渡さんにお神酒を勧められたことを思い出しました、「せっかくだから奥の席に座って」と。それは有り難いお誘いでありながら、こんな時間から飲むわけもいかないので、その旨を言い訳にすると「お祭りなんだから、無礼講でいいんだから」とその方はおっしゃいます。

嬉しいやら困ったらやらで、曖昧で煮え切らない、いかにも無粋な様子だったのでしょう、そばから「園長先生はまだこれから仕事なんだから、無理にすすめちゃダメだって」と救いの手を出してくださったのが、ちよだリバーサイドプロジェクトの岡田さんでした。まだ夕方の4時過ぎだったので無礼を詫びて園に戻ったのです。

忘年会やら懇親会やらの時期になりました。会社勤めの私たちには、こちらの方が「祭り」の気分を味わう機会かもしれません。ちょっとだけ「無礼講」の要素がありますよね。ちょっと寄り道します。

社会科学の学問によると、お祭りは定住社会になってから生まれました。その社会が生み出した言葉と法の中で毎日を過ごしていると、それは本来的に不自然なものなので、徐々に生命力が枯渇していきます。日本では「気=生命力」が枯れるという意味から「ケガレ」ることとみなされます。

そこで、日常世界の外側、人的社会の外側への接点を求めて、そこから生命力を呼び込んで回復しようとします。そこに聖なるもの、大いなる異質なるもの(自然や神や被差別社会)を呼び込み、穢れを晴す「ハレ」なる祭りを企てるのです。その時は、平時のルールは破られるので無礼講というわけです。「お酒の席ですからお許しを」というのも、似たような起源でしょう。

1960年生まれの私などは、その掟を破ってもいいという感覚、お祭りのキワドサの消息を皮膚感覚で知っています。私の小6の担任の先生は「おくんち」というお祭りに連れて行ってくれたのですが、その時、先生らしからぬ、普段は見せないある行動をしました。それはここでは言えませんが、私は小学生ながら「お祭りだと、それくらいは許されるんだ」ということを学びました。

ハレとケの世界を行き来することは、とても危険なことだったので、そこには心を鎮めるための儀式を必要としました。それが神輿だったり、お囃子だったりするのです。こんな経緯を抱えているのが、文化的歴史の中で生きている私たちの「心」なのです。

さて、寄り道から戻ると、本来子どもは、自然そのものです。異質な存在です。養老孟司さんに言わせると「子どもは自然だってことを、大人は忘れている。自然はいいなりにならないものと心得たほうがいい。デコボコの山道で転んで山に文句を言う人はいないでしょ。都市の平らなアスファルトの道を歩くことと同じように、子どもの安心、安全にばかり気を使い、言うことを聞く子にしたがっている」ということになります。

私には子どもは、赤ちゃんの頃から危険を回避する力を持っていて、大人をハレに導く力さえ持っているような気がします。大人が子どもの危険回避能力を奪っているのではないでしょうか。

昨日17日は、わいわい、らんらんの子どもたちが上野の科学博物館にバス遠足に行っています。その様子は「クラスブログ」で紹介されています。私は行けなったのですが、自然の存在である子どもが博物館で何に共振するのかということに興味があります。その私なりの「目撃」は次回に持ち越しです。

私は保育園を子どもたちのための「遊びのミュージアム」にしたいと思っています。子どもたちが、科博で何に着目しているのか、どんな印象を持ったのか、知りたいところです。子どもたちにとっても「ハレ」を感じる何かがあるんじゃないかと。

 

絵本ゾーンが1階に

2019/12/16

お待たせしました!やっと絵本コーナーができました。カーペットは1階のテーマカラーである赤に合わせ、本棚は壁と同じ白にしました。早速、利用していただき嬉しいです。これから絵本を充実させていきます。もし、ご家庭で寄付してくださる絵本があったら大歓迎です。絵本が増えてきたら、貸し出しも始めます。藤森平司ライブラリーもどこかに設ける予定です。もうしばらくお待ちください。

top