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保育アーカイブ

やりたがるロープの登り降り

2019/08/14

「これを見せたら、可能性は無限大だよって言われました」。小林先生がうれしそうに、話してくれました。「これ」とは、ネットが張られた運動ゾーンの写真です。「無限大だよ」と評価してくださった方は、運動教室の先生です。この環境は、やり方次第では、子どもの力がどんどん引き出されるので、ぜひそうでありたいと思います。

◆ぶら下がりたいという欲求
今朝は新しい運動を、子どもが取り入れました。「子どもが」というのは、こういうことです。みんな「布地の緑のスイング遊具」をクルクル回すのが好きですが、中には、よじれた部分をロープのようによじ登ろうとする子がいます。「そうか、よじ登りたいのか」と気づいたので、こぶをつけたロープを2本垂らしました。すると「やりたい!やりたい!」と列ができました。これは、懸垂力を伸ばすチャンスだと思いました。子どもが「あること」をやりたいときに、それをやることで使う能力が伸びようとしているのです。この欲求もまた、じゃれあい遊びと同じように、動物とも共通の、古い小脳の欲求だからです。

◆ネットとロープの組み合わせ
垂らした一本は登り用、もう一本は降り用にして、一方通行にしたところ、どんどんやります。まだ登ることはできませんが、コアラのように、ロープにしがみつくことはできました。ネットを登りきった所から垂らした「降り用」への、安全な移り方を教えると、できました。らんらんのAくんやJくんは、10回以上続けてやっています。わいわいのSくんやKくんも、私の助けを借りながらネットの穴からロープへうまく移りました。


お盆で休みが多かったのですが、しばらくはこの「ネットとロープの組み合わせ」にしておいて、手足の協応や平衡感覚、手で体重を支える支持力、両手で自分の体重をぶら下げることができる懸垂力、そして全身の体幹を育てたいと思います。毎朝、30〜60分の運動ですが「継続は力なり」です。半年経ったら凄いことになっているでしょう。

日本人の心理的な総括を経ていない終戦

2019/08/13

保育士は子どもと毎日心を通わせます。今日はこんな気持ちのやり取りをしたなぁ、と実感します。それがないと保育ではなくなります。そして「あ、あの時、こうした方が良かったかもしれないなぁ、ああするべきだったかなぁ」と毎日、振り返って反省します。
◆犠牲から学んだ人類の知恵
今日はベランダで収穫したゴーヤが熟れすぎて、食べるのを諦めたのですが、見た目だけなら、色鮮やかだったので「先生、食べてみようかな」というと、HSくんに「食べちゃいけないんだよ」と注意されました。担任の先生たちの判断で「今日はこれは食べない」と決まったあとの私の呟きだったので、子どもたちにとって私は「決まったことを守らない人」になっていたのでしょう。子どもは「食べる、食べないのルール」を厳しく守ろうとします。そしてルール違反者には厳しく接します。これはきっと、遺伝的なものがそうさせているのかな?とさえ思います。ホモ・サピエンスは自らの生存のために、先祖の犠牲の上に、毒を「食べない/食べさせない知恵」と「伝達力」を発達させて来たに違いないからです。苦いものには要注意、と。
◆動機がすべての判断基準に
ところが、味覚と違って「心」については、まだまだ学習が足りないようです。例えば、心が動かされることが、無条件にいいこととは限りません。感動を与えるものなら何でもいいとは限らないのです。そんな当たり前のことなのに、意外と騙されてしまうのが「世論」というものなのでしょう。これはほんとに、怖いです。全体のためなら例外的に個が犠牲にされることを受け入れてしまいます。『天気の子』では「人柱」という犠牲を、『アルキメデスの大戦』では「戦艦ヤマト」という犠牲を、世論は求めるのです。犠牲の美学が「理」さえも飲み込んでしまう恐ろしさ。「動機よければすべてよし」になっていまう怖さ。
◆長崎出身の私が夏に毎年思うこと
毎年この時期になると日本が真珠湾攻撃して長崎に2発目の原爆が落ちるまでのことを考えます。俳優で歌手の菅田将暉が映画『アルキメデスの大戦』で「数字は騙されない、数字こそ真実を語る」と叫びながらも、昔舞踏家で今俳優の田中泯に「それは表面的な真実に過ぎぬ。現実はもっと深い真実で動く」と静かに反論されます。理と情の戦いで、日本は情に負けたのでしょう。情は空気と言っても構いません。戦後の心理学的な総括が終わっていない終戦記念日は明後日です。

「天気の子」をめぐる10代の心情

2019/08/12

ニュースで台風10号の進路を気にしながら、園の防災計画を確認しました。「豪雨や強風で送迎が危険と予想できるときは行政と連携して、送迎時刻の変更などの措置をとる」。今週水曜、木曜あたりは要注意ですね。天気になってほしいですね。
◆子どもにとっての切実さ
台風10号とは関係ないのですが、ちょうどテレビに映画『天気の子』の新海誠監督が出ていました。ぼんやりと、テレビを見ながら朝ごはんを食べていたら、語っている内容の重さにもかかわらず、平易に語るので、ちゃんと見てしまいました。
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「大人の目からみたら些細なことも、10代の子どもにとっては切実だった」
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・・・みたいなことを言っています。テレビのボリュームを上げます。そう言えば、昨日の同窓会でも20歳になったSY君が同じようなことを言っていました。大人は子どもに「正しいことと大事なこと」ばかりさせようとして、子どもにとっての「日常のリアル」を想像できなくなっているのが、私も含めて大人であると。
◆新海誠自身の体験からの視線
団塊ジュニア世代の新海世代が15歳だったころ「いちご世代」と呼ばれていて、私は彼らの文化を追ったルポルタージュを手掛けたことがあります。この世代は雑誌『ムー』創刊時の読者層でもあり、当時、他の世代と比べて神秘現象に高い関心を示していたことを思い出しました。彼は今9歳の子ども(子役の新津ちせ)がいるお父さん。彼が手掛ける表現の新しさが話題になっているので、観てきました。
◆10代に共感を呼ぶところ
映画の主題歌を歌うロックバンドのRADWIMPS(ラッドウィンプス)の歌詞もまた10代に届いています。
再生回数1700万回を超える主題歌「愛にできることはまだあるかい」にでてくる「荒野」という言葉に注目したい。
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「愛の歌も歌われ尽くした/
数多の映画で語られ尽くした/
そんな荒野に生まれ落ちた僕、君」
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と「失われた世代」でもある彼らの閉塞感を漂わせる心情。
「それでも/愛にできることはまだあるよ/僕にできることはまだあるよ」
と歌う。映画もここでグッときました。
◆10代が大河ドラマを見ない理由
「やり尽くされたあとで、まだやることがあるだろうか?」まだやったことのない時代なら、目指す目標は見つけやすかっただろう。大河ドラマが描く東京オリンピックも、朝ドラが描く北海道十勝の酪農やアニメも、その時代なら、まだ誰も踏み入れたことのない未知の大地が広がっていた。しかし現代は違う。何をやっても、きっと過去になされてしまっているだろうという「想像できる既視感」を感じる時代だからでしょうか。それでも「やれること」は愛であり、愛する者への祈りでした。新しく感じるのは自然現象のパワーと一体化している美しさです。
◆細部に潜む自然の美の描き方
長野育ちの新海監督は少年時代に朝暗いうちから凍った湖面でスケートをしていたそうで、日が昇ってくると、山の端から陽が差してきて、真っ暗で青かった湖面がだんだんと縁の方から銀色に輝き始めるのをみるのが好きだったらしい。この監督の映像が美しいのは、そんな感性があるからなのでしょう。

20歳の懐かしい再会

2019/08/11

今年成人式を迎えた11人と再会しました。2004年度にせいがの森を卒園した仲間たちです。保護者とはすぐにわかりますが、園児たちとは「誰だかわかりますか?」と、愉快な名前当てクイズになります。中学までは地域で会っていた子はすぐわかりますが、15年ぶりですぐには分からない子もいました。でも話せばすぐにわかるもので「変わらないね!」となって、楽しかったです。
保護者の皆さんとも当時のエピソードを語りあって、あっという間に時間が経ってしまいます。実に感慨深い日になりました。
 せっかく八王子まで行ったので、雑木林でカブトムシのツガイと、伐採した園庭の桜の枝をもらってきました。
カブトムシがまた、元気に卵を産んでくれるといいんですが。

探索基地の形成と学び

2019/08/10

心が安定すること、つまり「情緒の安定」は「学び」に直結します。それは、どういうことでしょうか。発達や学びの辞典に紹介されているような有名な仮説をもとにすると、こうなります。
(屋上で育てたスイカを収穫。翌日、食べました)
◆「興味・関心」が「生きる世界」の窓になる
9日金曜日の見学者の赤ちゃんは4か月で、案内中、ほとんどお母さんの胸の中で寝ていましたが、後半は目覚めると、話し声がする私の方へ首を振り、私の顔を見つめます。乳児は生後2ヶ月くらいから周りの人の目に視線を集中させるようになります。これは遺伝的基礎に基づきます。この赤ちゃんは私という「未知」の対象に関心を向けています。関心が向かわない限り「生きる世界」は広がりません。関心が生きる世界の窓になっています。私の声と聞き慣れた母親の声を区別し、時々、2人が笑う声に反応したりしていました。
◆子どもの探索基地
この赤ちゃんを眺めながら、私はこうお母さんに話しました。「あー、Aちゃん起きましたね。話を聞いてますね。しっかり私を見つめますね、知らないこのおじさん誰だろうって(笑)」と。この場合は赤ちゃんは「目線」だけですが、身体が自由になる状態なら、興味があるものに手を伸ばして触ろうとしたり、それを口に持っていって確かめようとするでしょう。
(ちっちの子どもたちも、先生が安全基地になっていろんなことをやって楽しんでいます)
そのようなことを盛んにする心理状態は情緒が安定している時です。不安だったり、お腹が減っていたり、眠かったりすると、泣いたりして、まずはお母さんという愛着対象に依存して安心を得ようとするでしょう。そして安心や安全が確保されるとまた「探索活動」が始まります。信頼する人を安全基地や探索基地にしながら、持って生まれた好奇心が世界への学びへと向かわせます。「情緒の安定」が「学び」に直結するとは、こういうことです。
(お友だちとの関わりも盛んです。ちっちのブログをご覧ください)
◆社会的スキルも学習
月齢が上がっても同じことがいえます。ハイハイして、あるいは歩いて目新しいもの、面白いものを求めて探索します。ちっちやぐんぐんの子たちも、探検家のように毎日が発見の連続です。
(にこにこ組の外の通りがよく見える場所。先日の模様替えで作りましたが、とても好評だそうです。子どもたちにとって新奇なものは、大好きだからです。ちなみに、通りからは子どもの顔があまり見えないように、フィルムが貼ってあります)
模様変えした、にこにこの子たちは道路側の観察コーナーが、車や人が見えて人気のようです。わいらんすいも仲間関係の学びがたくさん起きています。「入れて」「いいよ」などの社会的技能を身につけています。また遊びが目的志向的な遊びが見られるようになってきたり、感情のぶつかりあいを通して情動抑制も徐々に(小学校期も含めて)うまくなっていきます。
(スイカの白い種と黒い種があるのに気づいたJ君が、と「どっちも芽がでるのかな?」と疑問をもった。早速、白と黒に分けて土に蒔いてみることになった)
◆情緒の安定と学びは表裏一体
このように保育は家庭でも、この大人の愛情、保護、学びの要素から成り立っているのです。このような心理的機序があるからこそ、私たち保育士は「保育とは養護(生命の保持と情緒の安定)と教育が一体的におこなわれるもの」だということを大切にしているのです。

心が落ち着いていること

2019/08/09

◆「子どもが落ち着いていますね」

 
今日は2組の親子に入園の案内をしました。0歳と2歳です。「子どもたちが落ち着いてますね」。そう言われてみて、改めて思いめぐらしたことがあります。それは「心が落ち着いているとは、どういうことか」 ということです。
◆安定した気持ち
では、同じような意味をもつ表現を集めましょう。連想ゲーム、言葉遊びです。
・・・・・
心が満たされている。満足している。
やりたいことができている。
不安もない。
愛されている。
認められている。
目的が叶っている。
仲間がいる。
喜んでいる。
・・・

こんな気持ちでいられたら、それは幸せなことです。確かにそんな時、子どもは落ち着き、いい顔をしています。今日は「心の解放」と「安定した気持ち」の関係について考えます。

◆情緒の安定とは・・・
こんな状態を、私たち保育士は「情緒が安定している」といいます。先ほど述べた心の状態を別の言葉でいうなら、安心、愛情、承認、達成感、連帯、歓びでしょうか。これらに共通するのは、一人では得られない社会的なものだということです。人間関係の中で初めて、得られるものです。一人で得られるものではありません。社会性とは、人間関係を上手くやる力だと思って、ほぼ間違いありません。それなら人間性とは、豊かな社会性のことになります。
◆欲求が適切に満たされるから
さて、満たされるから満足するような心の動きを、「欲求」と言っていいなら、欲求が適切に満たされるから、情緒は安定するのです。もし気持ちが穏やかでないなら、その人は何かの欲求が満たされていないのかもしれませんね。
実は、子どもも同じことです。赤ちゃんの頃から、安心した気持ちでいること、愛されること、「見てみて」というとちゃんと応えてもらえること、「やったあ、できた、できたぁ」って嬉しがってもらえること、そばにいるのが親しい「お友だち」であること、そして友だちが楽しそうだと自分も嬉しく思うこと。
こんな生活が確かにあります。
◆心が解放されると心は落ち着く
この「情緒の安定」が図られことを、別の言葉でケアといいます。養護のこと、世話をする、配慮すると言った方がわかりやすいでしょうか。先生たちは、のびのびと心ゆくまで、やりたいことが出来るように、子どもたちの欲求に応えています。先生たちはどこまでも優しく穏やかで、寛いだ雰囲気を大事にしてくれています。だから、子どもたちは落ち着いているのでしょう。
◆心の解放も欲求の一つ
そうすると、欲求に応えてあげることは、心を解放することも含まれてることになりますね。
だだし、大切なことを忘れてはいけません。それは、家庭でもここで申し上げたことをやってくださっているからこその園生活だということです。家庭での落ち着いた生活があって初めて、落ち着いた園生活になるからです。
情緒の安定は、実り多き学びに直結するのですが、その話はまた明日。内発的動機が生じる仕組みについてです。

湧き上がってくる心を受け止めながら

2019/08/08

今週は子どもの「心の解放」がテーマになっています。子どもが「自分の生きたい自分」を生き始めたとき、こんなことをやりたかったんだね、と教えてもらうことがいっぱいあります。今日8日には私たち誰もが持っている「身体をもっと使いたいという衝動」が溢れ出てきた時間がありました。

◆潜在的に持っている力

私がお昼寝マットを胴体に巻いてサンドバック役になってみたら、6人ぐらいの子どもたちが叩く、蹴る、頭突く、押す、剥がす、潜り込む、ぶら下がる・・など、必死で私に向かって「あらん限りの力」を出し切ろうとします。よーし、いいぞ、いいぞ、もっとかかってこい!と思いながら、どうなっていくのかやってみました。
きっかけはJ君が緑の布地の揺れる遊具を丸めて叩いて遊び始めたからで、それなら「園長先生がサンドバックになってあげよう」と試してみたのです。いろんな生活シーンや遊びの中で「やめてー」と叫ぶ子どもが多いのですが、どんな時に叫んでるのか、よーく観察すると、ほんの些細なことが我慢できないので、すぐに他人のせいにしています。まだ3〜4歳の自己中心性を脱していません。そんな彼らの発達心理的な意味を理解しながら、その子一人ひとりの心もちに応えていきました。
15分ぐらいでしょうか、しばらく続きましたが、私はあえて負けてあげなかったので、彼らには達成感はなかったでしょう。そうしたのには、理由があります。
◆私の実体験
私も4歳の頃、大人にこうして遊んでもらったことがあります。思いっきり押しても叩いてもビクともしない、圧倒的な強さの壁。そのときに味わった感情をよく覚えています。自分のなかにある攻撃性や闘争心に火がつく感じ、しかし、いくらやっても力では叶わない相手。やがて悟らされる軽い屈辱感。決してスカッとした爽快感ではありませんでした。もちろん当時こんな分析ができたわけではありません。でも、なぜか何度もやっていましたが、いつしかつまらなくなってやらなくなりました。相手が負けてくれていたら、もっとやっていたかもしれません。それはわかりません。
◆自分のいろんな気持ちに出会ってほしい
彼らもまた、ビクともしない私の身体を相手に、いろんな顔や声や気持ちを見せてくれました。びくともしないことに「アレッ」と意外に思う反応、単純に体を動かすのが楽しいと言う笑顔、タックルして自分がひっくり返ることの面白さ。よーし今度こそ、という気持ちと気合のギアチェンジ、助走を長くして走ってみる工夫、私も想定外なのは、胴体に巻いているお昼寝マットを剥がしにかかる作戦に出てくる子がいて「それもアリなんだ⁈」と、彼の意外なアプローチに彼らしさを感じました。
◆体験の意味について
保育の意味について、何に説得性を感じるかは、科学者でも違いますが、戦いごっこを好むのは「もっと強くなりたい!」という願いの表れということがいわれることがあります。もっと踏み込んで「自信をつけたいから」という深層心理と結びつけることもあります。人間なら誰もが持っている、闘争心や攻撃性、それらと関係もあるでしょう。
でも、そのような一般的な言説が、一人一人の子どものその時々の心理に当てはまるとは限りません。家庭での体験も影響するでしょう。複雑で、変化に富んだ心の動きを、一面的に切り取って解釈しても、真実とは似て非なるものだろうからです。
◆善さに向かう育ちを信じる
そこで私はこう考えています。私の実体験とも一致しているからですが、私は「人はなぜか自らより善き事へ向かって、調整していく力を持っている」(村井実/佐伯胖)という発達観を信じています、というか慣れ親しんでいます。
ですから、こう思います。
まずは子どもたちに、他人との関わりの中でしか噴き出て来ない感情を味わってほしい。お友だちとの関係の中で、息づいている感情と向かいあってほしい。
◆気持ちの調整には時間がかかります
そして、できればこう考えてあげてほしいのです。自分の感情を知りコントロールできるようになるのは、ゆっくりだということ。感情を子どもなりに整理して消化するには、時間がかかります。そのとき、大人から期待された行動がすぐにとれない心理状態というものがあって、自分を守るために、「なにもしない」「いやだ」という時間が必要な場合も多いのです。
家庭や地域には、子どもの同士の関わりの中で学ぶ機会がありません。園生活では、家庭では体験できない社会性を学んでいます。

シンカリオンを見てみる

2019/08/07

「子どもが興味や関心を持っているものは、大人も見たり体験してみよう」。私は保育士養成校で学生によくこう言っていました。「子どもがなぜ、それが好きなのか、どういう感じでそれを楽しんでいるのか、実際に感じてみよう!」と。
そこで今朝、シンカリオンを見てみました。一部の男子に人気のテレビ番組です。新幹線がロボットに変形して大怪獣と戦うのです。いまや日本アニメの代表として世界的に有名な「マジンガーZ」と同じタイプの操縦ロボものです。「E5はやぶさ」「E6こまち」「E7かがやき」「E3つばさ」「N700Aのぞみ」など、実際の新幹線の名前がついたロボットを、小学4年生から中学1年生の男女が操縦します。
今朝は「ブラックシンカリオン」が味方のピンチを救うストーリーでした。「ブラック新幹線なんて実際にはないけど・・・?」と思って番組サイトを検索したら、「10年前突如現われた正体不明の謎の新幹線」でした。うまくできてる!
ブラックシンカリオンが、大きな怪獣を押さえている間に、他のシンカリオンがでかい手裏剣のようなものを振り回してやっつけた!と思ったら、「さっきのは影武者だ」とかなんとか言って、また戦うことを約束して次回に続く・・。また次を見たくなるようなところで終るあたり、まぁ、そこも昔と同じでした。
◆男子が好きなツボを押さえた作り
男子が好きな要素を上手に取り込んでいます。変身、鉄道、怪獣、収集、小学生、忍者、戦い。本当の新幹線の系統番号などと同じで、走っている場所の都道府県が出身地になっていたり、女子のキャラクターも配置していたり、あまり過激な表現もないなど、親を敵に回さないための配慮が明瞭です。スポンサーはプラレールやトミカの(株)タカラトミーです。
◆テレビは表層イメージを共有しやすいのが強み
ごっこ遊びは「再現遊び」なのですが、登場するキャラクターを共有していれば、その名前を言うだけで相手にも伝わります。シンカリオンはそれぞれが得意技を持っていて、それを繰り出して戦うときに「フミキリシュリケン!」とか「ビームライフル!」とか、口癖の「ぶちおもしれえ」とか言って遊べるわけです。
運動ゾーンのネット遊びの中で飛び交っていた「言葉」の世界は、きっと、そんな感じだったのでしょう。テレビ映像を思い浮かべて少し想像できます。

◆子どもは手と足で感じて考える

昨日はこの「園長の日記」で、「週1回ぐらいのテレビの影響に負けたくない!」という趣旨を書きましたが、実はこの番組は毎日やっていました。火曜~金曜 の朝7:00~8:00に、2話ずつ放送しています。毎日見られるのです。これは、ちょっと「手強い相手」かもしれませんね。

でも大丈夫です。子どもは身体ぜんぶが感覚です。あくまでも例えですが「子どもは頭と手足で一緒に考える生き物」です。テレビは所詮テレビです。リアルに五感が揺さぶられるような遊びの魅力には、到底及ばないのです。

テレビ番組のシンカリオンよ、千代田せいがは「センス・オブ・ワンダー」な体験で、「しょーぶだぁ!」。

(カブトムシを幼虫の頃から育て、孵化するときも観察し、ジェリーの餌を与えて、飛ぼうとするとき羽を広げるところをみたり、カブトムシを持てるようになったり、こうやって、それを見せてくれたりしています。でも、先日、飼っている虫かごに、カブトムシは湿り気がある方がいいという話を勘違いして、ドボドボと水を入れてしまい、溺れて死んでいましました。そんな痛恨の失敗が起きるのも、実体験の詰まった生活です)

戦いごっこの是非

2019/08/07

今日は先月7月9日と同じく日本橋でギビングツリー主催の研修会がありました。その中で、いろんな保育の話をしましたが、自由遊びについては、偶然、男子の「戦いごっこ」が話題になりました。研修会から、その部分だけご紹介します。ちょうど、昨日までの続きになります。
◆役割交代のある遊びを
戦いごっこは、基本的に武器を使い、暴力で相手を負かすものなので、ヨーロッパのドイツやフランスでは遊びとしては推奨されていません。ただ、自由遊びの種類として、一定許容されているのは、役割交代のある場合です。

例えば、いわゆるヒーローものには、正義の味方や悪者役を演じ合うロールプレイになることが多いので、自由遊びの「条件」に当てはまるようです。女子なら「お姫様もの」が該当します。

いまの70歳前後の団塊世代なら「月光仮面」、「怪傑ハリマオ」その下の60歳前後世代なら「マグマ大使」「ウルトラマン」などのヒーローと悪者役で遊んでいます。その後は「仮面ライダー」シリーズが長い間、他に人気を譲らず、90年代からは「◯◯レンジャー」がテレビの特撮ヒーローの座を占めてきました。
◆テレビに負けるな、遊び!
ところが、今の子どもたちの「ヒーローごっこは、ちょっと心配です」と藤森統括園長はいいます。
「見ていると、悪者役がいません。力任せに強い方が勝ちです。それぞれが、自分が一番!という強さだけを競うヒーローになってしまっています」
テレビの影響が大きいとはいえ、たった週30分程度の番組が子どもたちの心を掴んでしまうことに、私たちは負けるわけにはいきません。そんなものよりももっと夢中にさせるものを用意しようと思います。

心の解放と自由遊び

2019/08/05

人は心が解放されると嬉しいと感じます。精神性の自由は、人間性の根幹だからです。空想の羽を伸ばし、自由な発想で自分らしく生きる時間を満喫出来ること。これこそ人権の核心です。だから現代の憲法もその自由を保障します。日本国憲法も同じです。国家は個人の心を縛ってはならないのです。それが「基本的人権の尊重」の意味です。

子どもは心が解放された状態のとき、自由に遊んでいることが多いものです。そのことは昨日お話しました。今日はその続きです。テーマは「自由遊び」についてです。自由遊びが人権の尊重と結びついていることを、私たちは深く理解する必要があります。
◆遊びという切実な要求
こんな文章があります。別冊日経サイエンス『心の成長と発達』から引用します。サイエンスライターのM・ウェンナーは2009年、米国の科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」に掲載されたレポート「遊びはシリアスなニーズ」で、次のように書いています。
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「子どもの頃、ルールのない、空想力に任せた遊びをしたことがないと周囲に適応した幸せな大人に育ちにくい」。
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そして、こう続けます。
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「科学者は、そうした遊びを『自由遊び』と呼んでいるが、社会の中でうまくやっていき、ストレスに対処し、問題解決などの知的スキルを身につけるには、そうした自由遊びが極めて重要だ」
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この結論に至るまで、アメリカの精神科医スチュアート・ブラウンは42年の歳月をかけて6000人から幼年期の話を聞いてデータを集めています。
◆ネットの上での自由遊び
園生活の中で、今日もそんな「自由遊び」を楽しんでいる場面がありました。私が担当している「園長による朝の運動遊び」のときです。ネットへのよじ登りがひと段落すると、ネットに乗ったまま、わいわい、らんらんの男子たちの井戸端が始まりました。
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「ハヤトのシンカリオンだ」「オレはハヤブサ」「じゃあオレはかがやき」「怪物がやってくるぞー」「いまだ、ツバサ!いくぞ!」・・・。
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運動遊びを見守っていたら、子ども同士の戦隊ごっこになっていたのです。ただ、ことばだけですが。その会話遊びは、ゲームなどのルールのある遊びではなく、自分たちで「面白い」「楽しい」と感じる中で思いつくことを友だちに伝えあい、共有していく遊びであり、まさしく「自由遊び」です。
例えば普段、無口なKくんの饒舌なことと言ったらありません。シンカリオンの役割を演じているとき、彼らはコミュニケーション能力、他者理解、自己主張、感情コントロールなどの力を駆使しています。自由遊び、おそるべし!
◆シンカリオンというヒーローたち
私は彼らが何を語っているのか、全くわからないので、こういうときに頼りになるHくんに「シンカリオンってなぁに?」と聞くと明瞭な回答が返ってきました。「新幹線が変身してロボットのシンカリオンになるの」。なるほど、新幹線が変身して新幹線ロボットになる戦隊アニメーションもので、テレビでやっているらしいのです。彼らの心のなかではテレビのヒーローが躍動していたのでした。
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