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保育アーカイブ

発達に必要な子ども同士の体験

2019/10/21

◆お手伝いって、楽しい

10月になって、わいわい組(3歳)とらんらん組(4歳)の子が、ちっち組(0歳)やぐんぐん組(1歳)で一緒に生活する時間が増えています。今日もらんらんのTAくんが夕方、事務室にいる私に「お手伝いしているんだよ」と嬉しそうに教えてくれます。「楽しい?」と聞くと、「うん」と笑顔で答えてくれます。自分でそれを選んで過ごしています。

その様子が、ここ数日、ぐんぐん組(18日素敵な時間)、わらす組(20日自分の生活を作ってみる)、ちっち組(21日お手伝い保育へようこそ)のブログで報告されています。「お手伝い保育」という言葉は、私たち省我会の保育園で古くから使っている言葉です。子どもが先生の保育のお手伝いをしている、という意味ではなく、小さい子どものやりたいことを手伝ってあげるという、「子どもの、子どものための、子どもによるサポート」のことを指します。まさしく子ども同士の関係です。

◆やってもらう、やってあげる

小さい子どもが大きな子どもに「やってもらう」「教えてもらう」「分けてもらう」といったことを「してらもう」わけですが、満1〜2歳と4〜5歳の差があると、その関係が逆転することはまずありません。兄弟関係はだいたいこのくらいの差があることが多いでしょう。子ども同士の関係ですが、同等の関係(水平方向)ではなく、まさしく兄弟姉妹のような関係(上下関係)が生活の中に生まれることになります。

ただ、小林先生が20日のブログで、この活動が「生活を作る」活動になっていることを指摘しているように、この活動は、ちっち組やぐんぐん組での活動とだけとらえるのではなく、園全体から俯瞰すると、自分が過ごしたい場所を選択して過ごすことができる「オープン保育」という保育形態になっていることも見逃せません。

 

また、この活動は21日のちっち組のブログにあるように「年上の子どもたちの姿そのものが、知らず知らずのうちに “成長や学びの『お手伝い』”にもなっている」のです。発達が少し上の子どものやることは、子どもにとっては、やってみたい!と思えるちょうどいい刺激になります。

 

◆発達がちょっと上か下か

この場合、ちょっと上、ちょっと先であること大切で、それ以上の離れた大きな発達の差になってしまうと、小さい子どもにとっては「遠い存在」でしかありません。視野に入ってこないでしょう。

子どもの思いを想像すると<あ、やってみたい。どうやったら、ああなるんだろいう。僕はこうしていたけど、ああしたら、こんなこともできちゃうのか、ああ、やってみたい!>という感じでしょうか。

こうしたことを「異年齢児保育」と呼ぶことがありますが、この言葉は誤解を招きやすいので、あまり使いたくありません。「学年」を跨ぐか跨がないかの違いしかないからです。12ヶ月離れている同学年の4月生まれと3月生まれが一緒にいても「同年齢保育」と呼ばれ、1ヶ月しか離れていない学年の違う3月生まれと4月生まれが一緒にいると「異年齢保育」と呼ばれます。ですから、学年が混ざるか混ざらないかで言い方が変わるような言葉は誤解を生みやすいのです。

 

◆発達が豊かになる関係

そんなことよりも、「発達の差が大きい子ども同士の関係」で起きる関わりや刺激、「発達の差があまりない関係」で起きる関わりや刺激が、どの子にも必要ですね、という話です。それが経験に幅がある生活、豊かな生活に繋がるからです。生活の幅が豊かになるのです。

実生活を考えてみてください。同じ学年だけの人間だけで生活なんかしていません。家族も会社も地域も年齢が異なるのが当たり前です。それが不自然になってしまうのが、日本の学校空間だけです。学年で仕切られます。実は人が何かを学び、それを分かち合い、共有していくことが人間本来の営みです。しかし学校は個人をバラバラにしておいて、しかも、お節介なことに、それぞれの能力を一定の「ものさし」で評価しようとします。産業革命以降に雇用労働者が発明されてから、学校は個人の能力を一元的に測定する役割をもっぱら担うことになってしまいました。

 

◆大人はまだよく知らないかもしれない、子ども同士の関係

お手伝い保育。その名称はともかく、大事なことは、人間は誰でも差別されず持って生まれたかけがえのない生命を発揮しながら生きる権利があること。その人が生きている周りには、多様な人がいるからこそ、その中でそれぞれの人が輝くこと。輝き方はそれぞれでいい。輝く必要もないかもしれない。そいうことが起きているのが、実は子ども同士の関係だということ。大人はまだまだ、子ども同士の関係の面白さを知らないのではないでしょうか。

せいがの森こども園でらんらんが交流体験

2019/10/17

今日10月17日(木)も思い出に残る記念すべき1日になりました。私が3月まで勤めていた八王子市にある「せいがの森こども園」に、らんらん組(年中組)9名全員で行ってきました。姉妹園との初めての交流です。今年は、千代田せいが保育園には年長さんがいないので、主にせいがの森の年長さんと遊んできました。

この姉妹園との交流活動は4月の保護者会などでも「あるといいですね」と保護者の皆さんから期待されていたものです。

バスで1時間以上かかるので、それに慣れるまでにちょっと時間がかかりましたが、それがやっと実現できました。とても意味のある活動になったので、子どもにとってのその意義を中心にお伝えします。ちょっと長くなりますが、気長にお付き合いください。

◆せいがの森で何したい?

せいがの森こども園に行くことは、古野先生がクラスで写真を見せたりして事前に説明していたので、バスの中で古野先生が何をして遊びたいかを一人ずつに聞くと「すべり台」「三輪車」「ブランコ」「ラグビー」など、いろいろな<遊びたい>が元気よく、声になっていました。友だちの意見を聞いて、どれが一つに決められない子は「全部!」という子も(笑)。

◆「どうして森というの?」

私や古野先生が千代田せいが保育園の前まで働いていた園だと説明しましたが、どこまでイメージできているのかは「・・・」です。園の名前に興味を持った子が「どうして森なの?」というので、バスがだんだん近づいていった時に「みてごらん、バスが坂道を登っているのがわかるでしょ。この辺りは昔ね、山だったんだよ。今みたいに家や道路もなくて、木がいっぱいある森のようになっていて、タヌキやイノシシをとるための落とし穴が見つかっているんだ」という古代の話をしました。「だから昔むかし、森だったところだから、せいがの森、っていうの」。

◆バスで1時間15分の旅でした

野猿街道を走るバスが別所1丁目に差し掛かる頃、そのあたりを昔流れていた別所川の源流が「長池」であり、その傍に「せいがの森」(以下、森と略します)はあります。そんな話をしているうちに1時間15分ぐらいで到着しました。今のらんらん組は、これくらいのバス旅行は、「へっちゃら」です。車に酔う子もいません。

ところで森は実際に、多摩ニュータウンの一角にある園なので、最近までタヌキがいたるところにいたのですが、スタジオジブリの高畑監督の映画「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台になった場所なんです。

◆歓迎レセプションは跳び箱の披露から!

園に着くと「歓迎レセプション」が用意されていました。まず最初が年長さんの跳び箱の披露。台風19号で11月に延期なってしまった運動会で「見てもらいたい」と練習してきたもので、さすが年長さんですね、5段を軽くヒョイと跳び越えていきます。

そして今日のメインの遊びは、森の年長さんと一緒に遊ぶ「鬼ごっこ」のスペシャルバージョンでした。担任の柿澤先生が進行役です。お互いに挨拶をした後、早速ゲーム開始です。

◆ウェルカム・ゲームは「巨人と小人と宝物」

人喰い巨人が「不思議な力を持つダイヤ」を探しにきました。そのダイヤは小人が住んでいる家に隠されています。小人は動いていると巨人に見つかり食べられてしまいます。でも小人は動かないでじっとしていると食べられなくて済みます。

森の子どもたちは、慣れているのでキャッキャ、キャッキャと楽しそうですが、千代田の子たちは、柿澤先生の巨人がちょっと怖くて、古野先生の後ろに隠れてしまいます。そこで本当に怖くならないように、ちょっと「心優しい巨人」バージョンで今日は演じてくれました。

森の子たちは、音楽が止まると、面白い格好をして自ら楽しんでいます。両足を空中に浮かせたまま静止した格好や、走っている格好など、それを楽しんでいます。柿澤先生とは「だるまさんがころんだ」を散々やっているので、「変な格好をして止まる」楽しさを知っているからです。ところで、「だるまさんがころんだ」も鬼ごっこの一種です。鬼がいて、何かをすると捕まる、そして仲間に救出される。これが鬼ごっこ普遍の要素です。

◆この鬼ごっこは、「鬼ごっこ」プラス「ごっこ」

音楽が止まると小人は凍って、巨人に見つからないで済みます。その結果、宝物を手にすることができた小人たちは、ダイヤの宝物が放つ光によって「なりたいものになれる」という遊びに発展していきます。ホールには天井にボーダーライトがあって、赤、緑、青のライトがつきます。そこで宝物が光を出すと「みんな、何になりたい?」という先生の問いに赤は「りんご」、緑は「葉っぱ」、そして青は「海」になりました。それぞれが好きなりんごや葉っぱや海になって体を動かします。ライトの色が変わるたびに、なりたいものをイメージして、なったつもりで体を動かしていきます。

こんなことが楽しめるのは、イマジネーションが豊かで頭と体が分離していない幼児ならではの、発達の特徴であり、かつ「幼児の特権」だと言っていいでしょう。知識がいっぱいの頭でっかちの大人になるとできなくなってしまいます。

◆氷鬼で思いっきり体を動かして遊ぶ

さて、次にやった遊びは「氷鬼」でした。千代田の子と森の子が混ざって2チームに分かれました。だれが鬼をやるのかは、子どもだけで決めます。まず、これがすんなりできるあたりが、森の子たちです。何度もやって遊んでいることがわかります。千代田の子たちは、まだ自分たちで一人の鬼を決めることができません。一人の鬼を決めることができる集団の育ちというものがあるのです。僕がやる、私がやる、と言い張って喧嘩になって始まらないという段階から、やり方を知るとそれに倣ってやっていくうちに、自分の番の必ずくるという経験を経て、その時は待つ、ということができるようになっていきます。

◆氷鬼のルール解説

ところで「鬼ごっこ」は、10月26日の「親子運動遊びの会」でもやるので、ルールをご存じない方のために、少し詳しく「実況中継」しておきます。

鬼が目をつむって10を数え終わると追いかけ始めます。タッチされると氷になるので、そこで凍り、動けなくなります。(ですから本当は「凍り鬼」なんでしょうが、みんな氷鬼と思っていますし、そう書かれていることが多いですね)でも、また友だちにタッチされると溶けて、解放されます。捕まえても、捕まえても、すぐに仲間にタッチしてもらって「救出」されるので、なかなか鬼がみんなを凍らせることはできないのが幼児の氷鬼です。

今日も実際、そうなりました。知恵を使えば、鬼は凍らせた子どものそばにいて、助けにタッチにくる子をタッチしながら氷を増やしていく、といったことをするといいのですが、そうした戦略を思いつきません。今日も最後まで追いかけ回すことが楽しい鬼ごっこでした。

◆鬼ごっこは人生のアレゴリー(寓意)

そのあと、手つなぎ鬼や、ハンカチ落としを楽しみました。これらも「鬼ごっこ」のバリエーションです。ハンカチ落としは運動会でもやる予定です。

鬼ごっこは、人生のアレゴリーではないかとさえ、私は考えています。善と悪があって悪に負けるがまた善に再生する。人間は心の成長に「鬼」を必要とする存在なのでしょう。鬼に魂を食べられないように心を守る強さも必要で、それは克己心と言われているものに近い。そして他人を助けることで鬼に負けない協調性や協力することを学ぶ。鬼ごっこの世界は深いと思います。

◆ゾーン遊び

2階のホールで体を動かして遊んだ後、お昼の時間まで「わらす」のゾーンで過ごしました。制作、絵本、塗り絵、パズル、ごっこなど、好きなゾーンに行って、森のお友だちに使い方を教えてもらいながら遊びました。

◆お昼ご飯を一緒のテーブルで

昼食は森の給食を、森の子どもたちと一緒に食べました。いろんなことが同じです。食べられそうな量をよそってもらう配膳の方法もセミ・バイキングで同じ方法ですし、好きな場所に座って食べる場所選びも同じ。そして今日はお食事の歌は、古野先生のピアノ伴奏で歌いました。お代わりの時間まで待ったり、それぞれ「ごちそうさま」をして終わるのも、千代田と同じです。戸惑うこともなく、森の子どもたちと交じって楽しく、美味しく食べました。

◆午後は、園庭で遊ぶ

森に行ったら、あれをして遊びたい!あんなこともしたい! そう言っていた遊びの時間がきました。午前中は森の子どもたちとの交流でしたが、午後は森の子どもたちは午睡の時間ですから園庭には出ません。千代田の子たちだけが園庭の貸切状態。思う存分、好きなだけ遊ぶことができます。

見ていると、最も人気があったのは三輪車でした。園庭の真ん中には楕円形の芝生があるのですが、その周りを右回りに漕いで回ります。友達と一緒に漕いだり、後ろに友達を乗せたり。かなりの時間を三輪車で遊んでいる子どもが多かったと思います。

そのほかには、バスケットボール、滑り台、揺れる吊り橋、波型遊具、アメンボがいたビオトープ散策、ロープ登りなど、一通り遊んでいました。2時ごろから雨が降ってきたので室内に戻って、早めの「おやつ」(小豆つきカルカン)をいただき、そのあとは、絵本を見たり、お絵かき、紐通し、線路つなぎなどをして遊んでいました。

◆今後も続けたい交流

今回の姉妹園交流をやってみて、まず第一に良かったのは、年長児と触れ合えたことです。千代田のらんらんさんに直接、聞いたわけではありませんが、一年上の「すいすい」の子どもたちのお兄さん、お姉さんに接することができたことは、大きな刺激になったと思います。

跳び箱を軽々と跳びこえたり、鬼ごっこの俊敏な動きを目の当たりにしたり、そんな姿が、私たち大人の目から見えた「年長さん」らしさでしたが、らんらんさんたちにとって、森の「年長さん」はどんな風に映ったでしょうか。色々な、ちょっとした行動や、言葉遣い、振る舞いからも、きっと心にいろんな印象を与えたに違いありません。

◆千代田にはない新鮮味

思いっきり走り回れる園庭。全力を出し切って走っても行き止まり感のない広さ。千代田にはない運動遊具の数々。それらに接した後で、明日以降、らんらんさんは、千代田の環境をどう思うでしょうか。

子どもの感性は、常に前向きです。大人のように振り返ることはしません。目の前のことを、プラスに変えていくような楽観性を、子どもは持っています。何かを子どもと一緒に創り上げていくプロセスが明日から待っています。千代田の環境を好条件に転換させる創意工夫。これを編み出していくチャレンジ精神。私はワクワクしてくるのですが、それを子どもたちと一緒に体験していきたいと思います。

◆次回のお楽しみ

今日は園のそばにある「長池公園」には、雨が降ってきたので行けませんでしたが、また訪問する機会を作りたいものです。

来月はもう一つの新宿の姉妹園、新宿せいが子ども園へいきます。こちらは規模が大きいとはいえ、やはり千代田と同じように基準となる広さの園庭がありません。それでもすぐ隣に「おとめ山公園」という、新宿区屈指の自然の多い公園があります。また別の体験ができます。こちらも楽しみです。

アンガー(怒り)のコントロール

2019/08/20

わいわいとらんらんの遊びの様子を見ていると、こんなことに気づきます。以下は特定の子ではありません。どの子にも当てはまる特徴だと思ってください。

◆謝りたくない気持ちとは?

例えばAくんの手がぶつかって「イタッ」と思ったBくんが「痛い」と相手Aくんに訴えます。ぶつけた方のAくんが、その訴えに気づいて「ごめん」と謝ってBくんが「いいよ」となれば、仲直り成立で、また遊び始めます。ところが、Bくんが「痛い」と訴えても、Aくんが謝ってくれないときがあります。Aくんがそれに気づかないときもありますが、知っていても、ぶつけたことは「自分が悪くない」と考えて謝らないこともあります。その言い分をよーく聞くと、大抵は次の2つの「論理」がみられます。

そんなとき、ぶつけたAくんのような立場の子がいう理由でよく聞くのは「先にBくんが◯◯したから」というものや「わざとじゃない」というものです。話は長く複雑ですが、核心を要約するとそうなります。
◆先にやったのは自分じゃない
これは典型的な2つの正当化理論といえます。最初の理屈は「先に痛い目にあったのは僕の方で、そのときは見逃してあげたんだから、君だって文句言わず、それくらい我慢しなよ」という考え方です。「被害はお互い様なんだから、僕だけ謝ったら不公平だ」という気持ちがあります。この被った害の量が同じなら公正であるという感覚が、子どもたちには歴然とあります。やられたから、やり返すというのは動物もやります。
◆いまさら言われても・・
しかし、やっかいなのは、いま「痛かった、無視しないで、ちゃんと謝ってよ」と訴えるBくんにとっては、最初のことは自覚がないか、もう過去のこととして終わっている場合があって、「いまさら、そんなこと蒸し返されても」と感じる場合と「ああ、確かにそうかも」と思い出す場合があります。ただ、大抵は「今のこの痛さをなんとかしてよ」の気持ちの方が切実なので、素直にイーブンであると受け入れることは、まずありません。
◆わざとやったんじゃない
2つ目の理由「わざとじゃない」も、強力な理論です。子どもは9ヶ月ごろから人は「意図」をもつ存在であることが分かるようになります。意図してやったことは、より悪いとわかっています。なので「わざとじゃないもん」が、「自分は悪くない」とほぼ同じように使われてしまいます。意図したことか、それとも過失なのかで罪の軽重が変わるのは、大人社会の罪と罰の関係も同じです。
◆ハムリンの実験
最初の「先にやったのは自分じゃない」という憤慨は「よくないのはこっち」という判断に基づいており、1歳未満の赤ちゃんもできることが、わかっています。このホモ・サピエンスの強力な倫理観は先天的なのもです。この分野の研究で先鞭をつけた有名な研究者がハムリンです。次の動画をご覧ください。ちょっと脇道にそれますが、面白いのでみてください。協力的であることへ、赤ちゃんは共感します。
◆アンガー・マネジメント
 このような感情の噴出と鎮静を繰り返しながら、この子たちは、良心との葛藤を経ながら、倫理を学んでいます。どのように言えば、分かってもらえるか、どのように言われたら許そうと思えるか、そのような経験を子ども同士の中で繰り返しながら、感情のコントロールを学び続けています。とくに子ども同士のけんかは、怒り(アンガー)をコントロールする練習です。その正義の怒りを、自分の中の暴力に転化させず、ほかのエネルギーに昇華させることを学んでいく必要があります。この感情に負ける大人の犯罪が増えているのは、幼児期の自由遊びが足りなかったのでしょう。人は生まれたときから道徳的ですが、現代の社会では、子ども同士の関係がなくなり、子ども社会で育つ機会が奪われてしまっているのです。
◆私たちがやるべきこと
私たち保育士は、いざこざの中でどっちがいいか悪いかをジャッジして、謝らせることを優先しません。お互いの気持ちがすれ違っていて、子ども同士のやりとりだけでは手が出てしまうようなときは止めに入ります。気持ちや、考えをわかり合うためのサポートが必要なときは例えば「ホントはこうしたかったんだって」などと、お互いの気持ちや考えを代弁します。また言葉で伝え合う力があるなら、ピーステーブルに促したりして、考えを伝え合う機会を保障します。子どもが自分の感情を味わい、自らの内面からそれに打ち克つ時間を待つ必要があります。そして必要な時間は、個人差があります。
◆自律を育てる
できないところは助け、できるところは自分でやれるように援助します。自分でできるようにと言うのは、言われて謝れるのではなく、自分から悪かったなぁと思えるような心を育てることです。「ごめんね」と形だけ言えることではなく、仮にバツが悪くて言えなくとも心から「ああ、悪かったな」と思えることが大事です。形だけの行動よりも、相手をいたわったり、優しい心情が豊かなら、行動はついてくるものだからです。無理に謝らせても、自分から謝罪できる勇気や気概も育ちようがありません。反対に、いろいろなことを言って外からの働きかけでそのタイミングで「させて」いると、その働きかけがなくなると、やらなくなります。それは自律ではなく他律だからです。

これが本来のアートです!

2019/08/19

◆1分で意気投合
「この通りをアートあふれる空間にしたいんですよ」。今日の昼過ぎに、アポなしでチラシを持ってこられた方と1分の立ち話で意気投合しました。こういうこともあるんですね。アートについては保育を考える上で避けて通れない大事なテーマです。美の創造プロセスについて「美術」と訳してしまった不幸が、学校教育の中で未だに誤った位置づけのままです。アートが美術や図工、音楽あるいは技術・家庭科や体育という名前で、五教科の外で付け足しのような位置づけになっていることが、そもそも誤りです。そのことに気づくことがとても複雑で困難な状況になってしまいました。
◆アートは人が生きていく上で必要なもの
そうしたいきさつもあって、アートについて誤解されていることが多いのですが、本来は子どもが感じ受け止めるプロセスの質に、本質としてアートがなければなりません。人間がよりよく生きていく上でアートは不可欠なのです。
昨年11月、千代田せいが保育園の開設説明会で、「園長先生は、保育の質についてどのように考えていますか」と言う質問を受けました。私は感動しました。なんと本質的な質問をする保護者の方がいるんだろうと。その時説明したエピソードは、味覚の体験と色と出会う体験について説明したのですが、それと同じレベルでアートを実践している方と今日出会ったのです。今週の土曜と日曜日にその実践を園のそばで体験できます。屋形船の納涼会の午後あるいは翌日です。時間に余裕があって興味ある方は、ぜひ参加してみてください。そのチラシをアップします。(ちょっとシワだらけになったチラシでごめんなさい!)
◆ダンサーと小学校の図工の先生がコラボ
ただし、対象年齢が「5歳になってますが、3歳でもそれなりに、楽しめるはず」と、主宰者で、振付家・ダンサーの青木尚哉さんはおっしゃっていました。場所は、保育園斜め向かい古民家ギャラリー「海老原商店」です。グループワークは1階でやり、保護者は2階で寛げるそうです。土日で合計4回あります。

そもそも屋形船って?

2019/08/18

(雑誌『散歩の達人』278号より)
今週末はいよいよ屋形船納涼会です。そこで「屋形船」の歴史などをおさらいしておきましょう。いか、クイズ形式です。答えは「屋形船東京都協同組合」のホームページで、どうぞ。
【問題1】
屋形船のルーツは、何時代に遡るでしょうか。
(1)明治時代(2)江戸時代(3)平安時代
【問題2】
現在のように一般の庶民が楽しむようになった頃の小型の船をなんと呼んでいたでしょうか。
(1)小型舟(2)江戸っ子舟(3)屋根船
【問題3】
今の屋形船には、便利ないろいろな設備があります。次のうち無い物はどれでしょう?
(1)エアコン、(2)水洗トイレ、(3)カラオケ、(4)自動販売機
  
今週は「神田川、隅田川」に因んだ話題をできるだけ、拾ってみたいです。
この街は、歴史があるので、調べ甲斐があって楽しいですね。

学校の「当たり前」をやめた

2019/08/17

保育園は子どもたちが社会でよりよく生きていくためにあります。そのためには、その子の発達をきちんと保障する必要があります。一人ひとりのよさを十分に引き出せるように現在を最もよく生きること、それが望ましい未来を創り出す力になっていくからです。
◆学校の「当たり前」をやめた
こうした発達と教育のセオリーを現実のものにしてしくことが、私の仕事ですが、中学校でそれを実現させている校長先生がいます。その実践のエッセンスを書き下ろした本は皆さんにも推薦したくなります。タイトルは『学校の「当たり前」をやめた。生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革』(時事通信社)です。著者は千代田区立麹町中学校の工藤勇一さん。私と同じ歳でマスコミでも、よく取り上げられて全国で講演をされています。私も6月に夏のGT研修会での講演を依頼しましたが「この夏は30回の講演があるんですよ。その日は前日まで熊本にいて・・」と、残念ながら「次回にまた」ということになりました。
◆自律する力を身に付けること
この本の内容は、藤森統括園長が毎日書いているブログで詳しく紹介しています。http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2019/07/当たり前.html
この本の「はじめに」から、少し引用します。
ーーーーーー
今、日本の学校で行われている教育活動の多くは、学校が担うべき、本来の目的を見失っているように感じます。加えてその事実に多くの教育関係者が気づいていないことに驚きます。
(省略)
学校はなんのためにあるのかーー。
学校は子どもたちが、「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにあると私は考えます。
そのためには、「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身に付けさせていく必要があります。社会がますます目まぐるしく変化する今だからこそ、私はこの「教育の原点」に立ち帰らないといけないと考えています。
ーーーーーー
どうでしょうか。共感することがありませんか。千代田区で一緒にできることを相談したいと思います。「千代田せいが」がオセロのどの駒になるべきか、次の一手について。

くつろぎと安心のゾーンを新設

2019/08/16

昨日15日から3階の幼児空間に「くつろぎゾーン」を設けました。家庭のリビングが、ゆったりとくつろぐ場所であるなら、子どもの生活にもそれは必要です。
「くつろぐ」という言葉は子どもには難しいので、のんびり、ゆったり、といった気持ちをイメージしやすいイラストも近くに掲示しました。
こんな空間が、子どもに必要だろうかと、思う方がいるかもしれません。また空間に余裕があるなら用意してもいいぐらいに考えるかもしれません。しかし、そうではないのです。もっと積極的な意味があります。
◆海外では当たり前にある場所
(マレーシアの保育園)
くつろぐ場所を園内に用意するのは、海外では当たり前です。日本の学校にはプールがあることで驚かれますが、ダイニングやくつろぐ場所がないことにも驚かれます。くつろぐ場所が、いかに当たり前の空間かを表すものとして、海外でよく使われている有名な「保育環境評価スケール」を紹介します。43ある項目のうち、3番目に「くつろぎと安らぎのための家具」があります。
◆「とてもよい」環境を目指して
この保育環境評価で「よい」の評価をえるには、次の3つのことが、揃っていなければなりません。
・1日の相当の時間を、くつろぎの場で過ごすことができる。
・くつろぎの場は、体を動かす遊びのためには使われない。
・柔らかな家具はおおむね清潔で手入れがよく行き届いている。
さらに「とてもよい」のためには、さらに次の2つのことを満たす必要があります。
・くつろぎの場以外にも子どもが使える柔らかい家具がある。
・子どもが使える柔らかくて清潔なおもちゃがたくさんある。
◆リビングは寛ぎの居間
こうした保育の専門的な視点を持ち出さなくても「寛ぎ」が大事だと思い直すことができないでしょうか。子どもは寝ている時間以外は、生活と遊びのなかで学び続けています。そのエネルギー効率は凄まじく、これと同じことを大人は真似できません。くつろぎと安心が得られる空間は、住宅表記では「◯LDK」と表すときのリビング(L)に当たります。生きる、生活するメインとなる空間です。ダイニング(D)やキッチン(K)と併せて、必須の場所として最初に書いてあるように、くつろぐ場所は大切な生活空間でなくてはなりません。
◆くつろぎは養護の条件
人間の生活には「衣食住」が必要です。「住む」ところは「寝る」ところでもあります。そして子どもには「遊ぶ」がなければなりません。すると確かに「子どもの生活」は「遊ぶ」「食べる」「寝る」の3つが時間的にも空間的にも、重要な要素になっています。この3要素を満たすことは、最近、このブログで説明してきた「養護」(生命の保持、情緒の安定)を満たすことでもあります。
生活空間も、最初からその3つのエリアを用意しておけば、園生活はスムーズに運びます。さらに私たちは生活空間を静的なエリアと動的なエリアを対照的に配置することで、生活動線のコンフリクトを避けています。
◆日本の最低基準はサイテー!
ちなみに日本では幼児教育施設が養護を重視した「生活」ではなく、狭い意味の教育でしかない「学校」を前提として基準ができてしまっているので、年齢別の「教室」しか作られません。「生活」という発想がないので、リビングやダイニングや寝室が、建築設計から完全に抜け落ちています。子ども一人当たりに必要な最低面積が1.98㎡しかないのは、一人分の机と椅子を置いたときの面積だからです。ひどい話です。これではとても、ゾーンどころではありませんね。

金魚とめだか

2019/08/15

直撃は避けられたとはいえ、台風10号の影響で時々、激しい雨、風に見舞われましたが、みなさんは大丈夫だったでしょうか。昼食を食べている頃、東の空に積乱雲が現れて「夏らしい雲だね。入道雲だよ」と天気が話題になりました。二十四節気では8日が立秋でしたが、残暑というよりこれから大暑といった趣きです。子どもたちには、いろいろな「涼のとり方」があることを伝えたいので、今日から金魚とめだかを飼うことにしました。

◆「夏はプール」は日本独特
保育園にプールがあるのは世界的には珍しいことです。海外の保育施設でプールはみたことがありません。学童に親水エリアを設けている施設はありました。先月視察したシンガポールにもありませんでした。日本は学校にプールがあるので幼児施設もその影響を受けて「夏はプール」というのが常識かのようになっていますが、この意識はちょっと「修正」しておきたいところがあります。それは「今日はプールに入れてよかったね。入れなくて残念だったね」という考えです。つい、私たちもそんな感覚になりがちですが、意識しておきたい大事なポイントじゃないかな、と先生たちと話し合ったりしています。夏の涼の取り方の一つが「水遊び」です。それも、いろいろあります。その一つが「プールの中での水遊び」です。
◆水を自分のものにしていく
一方で「泳ぎ方」を教えることは、ねらいにもなっていないのです。それよりも、全身で水と親しむことを通じて、水は滑りやすいとか、顔に水がかかっても平気になるとか、溺れないように泳ぐとか、安全な方法を学ぶことを大切にします。水と仲良くなり「水との付き合いが楽しくなる」ことが一番です。そのためには「プールに入る」のは、その一部分でしかありません。水を自分のものにしていくこと、といったらいいでしょうか。
◆涼の取り方の知恵を学びたい
私たち日本は四季に恵まれています。日本人は、この自然環境を生活の中に上手に取り入れてきました。保育でも同じです。「周囲の様々な環境に好奇心や探究心を持って関わり、それらを生活に取り入れていこうとする力を養う」(領域「環境」)ことが保育の大切なねらいになっています。自然の恵みや文化の知恵を学びたいのです。
また「自ら健康で安全な生活を作り出す力」(領域「健康」)も育てたいので、暑い夏には汗をかいて体温を下げることができる健康な身体を育みたいですし、自分から水分補給をする習慣も身につけてあげたいと願っています。
◆日本の夏の過ごし方は
ジメジメして湿気の多い日本は、通りに打ち水をして気化熱で地面の温度を下げ、風通しの良い家の間取りにして外気を取り入れ、陽が射す場所には葦簀(よしず)やつる植物の葉で日陰をつくり、浴衣など発汗しやすい綿や麻の薄物を身につけて、扇子や団扇で柔らかい風を肌に流し当て、風鈴の音色が涼しげな風情を演出していたのです。こうした「涼む」「涼をとる」といった生活を営んできました。食べものも、そうめん流しや冷麦など、口当たりのいい食感と食べ方にまで工夫を凝らしてきました。
確かに、大抵の集落は近くに川のある場所が選ばれたので、夏は川や池や海で泳ぐこともあったでしょう。しかし、それは「入れてよかった」などと評価されるようなのもでは、ありません。たまに川で遊んだ、といった程度のものです。幼児施設で、ほぼ毎日プールの中に入ることが、前面に突進してくるのは、最近のことなのです。
◆金魚もめだかも季語は夏
金魚は尾ひれを翻して泳ぐ様が涼しげであるところから、夏の季語とされています。それならば、涼しげに泳ぐ姿がよく見えないといけません。そこで、今日は「金魚鉢」を求めてきました。
同じく、めだか(目高)も涼を求めて鑑賞することから、季語は夏です。そこで「水鉢」に放してあげました。
午後のお集まりでは、私が「やりたいことがあるから、手伝ってちょうだい」と言って、金魚とめだかを大事に飼ってもらうように子どもたちに、頼みました。観察ゾーンのクワガタとカブトムシに、水中生物の仲間が加わりました。
新しくできた寛ぎゾーンも今日から人気の場所になっています。こちらの様子はまた明日、報告しましょう。

やりたがるロープの登り降り

2019/08/14

「これを見せたら、可能性は無限大だよって言われました」。小林先生がうれしそうに、話してくれました。「これ」とは、ネットが張られた運動ゾーンの写真です。「無限大だよ」と評価してくださった方は、運動教室の先生です。この環境は、やり方次第では、子どもの力がどんどん引き出されるので、ぜひそうでありたいと思います。

◆ぶら下がりたいという欲求
今朝は新しい運動を、子どもが取り入れました。「子どもが」というのは、こういうことです。みんな「布地の緑のスイング遊具」をクルクル回すのが好きですが、中には、よじれた部分をロープのようによじ登ろうとする子がいます。「そうか、よじ登りたいのか」と気づいたので、こぶをつけたロープを2本垂らしました。すると「やりたい!やりたい!」と列ができました。これは、懸垂力を伸ばすチャンスだと思いました。子どもが「あること」をやりたいときに、それをやることで使う能力が伸びようとしているのです。この欲求もまた、じゃれあい遊びと同じように、動物とも共通の、古い小脳の欲求だからです。

◆ネットとロープの組み合わせ
垂らした一本は登り用、もう一本は降り用にして、一方通行にしたところ、どんどんやります。まだ登ることはできませんが、コアラのように、ロープにしがみつくことはできました。ネットを登りきった所から垂らした「降り用」への、安全な移り方を教えると、できました。らんらんのAくんやJくんは、10回以上続けてやっています。わいわいのSくんやKくんも、私の助けを借りながらネットの穴からロープへうまく移りました。


お盆で休みが多かったのですが、しばらくはこの「ネットとロープの組み合わせ」にしておいて、手足の協応や平衡感覚、手で体重を支える支持力、両手で自分の体重をぶら下げることができる懸垂力、そして全身の体幹を育てたいと思います。毎朝、30〜60分の運動ですが「継続は力なり」です。半年経ったら凄いことになっているでしょう。

日本人の心理的な総括を経ていない終戦

2019/08/13

保育士は子どもと毎日心を通わせます。今日はこんな気持ちのやり取りをしたなぁ、と実感します。それがないと保育ではなくなります。そして「あ、あの時、こうした方が良かったかもしれないなぁ、ああするべきだったかなぁ」と毎日、振り返って反省します。
◆犠牲から学んだ人類の知恵
今日はベランダで収穫したゴーヤが熟れすぎて、食べるのを諦めたのですが、見た目だけなら、色鮮やかだったので「先生、食べてみようかな」というと、HSくんに「食べちゃいけないんだよ」と注意されました。担任の先生たちの判断で「今日はこれは食べない」と決まったあとの私の呟きだったので、子どもたちにとって私は「決まったことを守らない人」になっていたのでしょう。子どもは「食べる、食べないのルール」を厳しく守ろうとします。そしてルール違反者には厳しく接します。これはきっと、遺伝的なものがそうさせているのかな?とさえ思います。ホモ・サピエンスは自らの生存のために、先祖の犠牲の上に、毒を「食べない/食べさせない知恵」と「伝達力」を発達させて来たに違いないからです。苦いものには要注意、と。
◆動機がすべての判断基準に
ところが、味覚と違って「心」については、まだまだ学習が足りないようです。例えば、心が動かされることが、無条件にいいこととは限りません。感動を与えるものなら何でもいいとは限らないのです。そんな当たり前のことなのに、意外と騙されてしまうのが「世論」というものなのでしょう。これはほんとに、怖いです。全体のためなら例外的に個が犠牲にされることを受け入れてしまいます。『天気の子』では「人柱」という犠牲を、『アルキメデスの大戦』では「戦艦ヤマト」という犠牲を、世論は求めるのです。犠牲の美学が「理」さえも飲み込んでしまう恐ろしさ。「動機よければすべてよし」になっていまう怖さ。
◆長崎出身の私が夏に毎年思うこと
毎年この時期になると日本が真珠湾攻撃して長崎に2発目の原爆が落ちるまでのことを考えます。俳優で歌手の菅田将暉が映画『アルキメデスの大戦』で「数字は騙されない、数字こそ真実を語る」と叫びながらも、昔舞踏家で今俳優の田中泯に「それは表面的な真実に過ぎぬ。現実はもっと深い真実で動く」と静かに反論されます。理と情の戦いで、日本は情に負けたのでしょう。情は空気と言っても構いません。戦後の心理学的な総括が終わっていない終戦記念日は明後日です。
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