MENU CLOSE
TEL

保育アーカイブ

生きづらさへのジブリからの返事

2019/05/12

■神田祭とジブリの世界
神田明神の文化交流館で今日まで「鈴木敏夫とジブリ展」が開かれていました。これはスタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫の”言葉”に注目した展覧会でした。
■生きづらさについて考える
日本の課題になっているテーマの一つで、私が教育や子育てに大いに関係するなぁ、と思うのは「生きづらさ」をめぐるテーマです。それは、うすうす大人も気づいているのですが、この同じ生きづらさについて、この展覧会を企画した博報堂ディレクターの小松季弘さんが、はっきりと「生きづらい」といっています。生きづらさの中身は子育てではなくて仕事ですが、時代感覚は、共通じゃないかと思います。こう書いてありました。
■小松氏の感じている「生きづらい時代」
【いまの時代、男女にかかわらず、人は生きることに困っている。ぼくも例外じゃない。
なぜこんなに困っているのだろう? と考えると、「現代」という時代のせいのように思えてくる。あらゆるものごとのスピードが速くなり、モノも情報も瞬時に消費され、昨日までの常識は明日には通用しなくなる。そんな世界で働いていると、日々自信を失い、思い悩むことになる。
そうやって戸惑い、困ったとき、ぼくは鈴木さんの隠れ家「れんが屋」へ駆け込む。いい年をして独身で、仕事のうだつもあがらず、ままならない人生をおくるぼくの話を、鈴木さんは胡座をかいて、じっくり聞いてくれる。そして、ひととおり聞き終えると、ぼくの混乱した頭の中を整理するように、明確な言葉にして返してくれる。
(省略)
でも、考えてみれば、鈴木さんの言葉を直接聞くようになる前から、同じ経験をしてきたことに気づく。学生の頃からスタジオジブリの作品を観るたびに、生きるヒントをもらってきたのだ。ジブリの映画、そして鈴木さんの言葉から「生きる力」をもらうことで、ぼくはここまでやってこられた。・・・】
■今日は三鷹の森ジブリ美術館へ
この「生きづらさ」の謎解きの旅は、今日、午前中に私がいた井の頭公園の「三鷹の森ジブリ美術館」に繋がっています。ちょうど保育園の前をながれている神田川を上流へ遡っていくと、飯田橋、高田馬場、中野富士見、高井戸、久我山と続き、源流は井の頭公園になります。
今朝、ジブリ美術館にいたのは、この三月に卒園した家族と一緒の小旅行だったからです。総勢27人、小型バスを貸し切ってのオリジナルツアーです。バスは南大沢から多摩、稲城、調布、三鷹と走りました。神田祭か卒園児保護者か。悩んだ末の選択でしたが、これを読んでくださっている方も、保護者優先には同意していただけると嬉しいです。
■ジブリ・アニメが子どもたちに与えた影響
日本の子どもたちにとって、スタジオジブリのアニメが果たした役割は想像以上に大きいものがありました。風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ、となりのトトロ、魔女の宅急便、おもひでぽろぽろ、紅の豚、平成狸合戦ぽんぽこ、耳をすませば、もののけ姫、千と千尋の神隠し、ハウルの動く城、崖の上のポニョ、借りぐらしのアリエッティ、コクリコ坂から、風立ちぬ・・・
誰もが知っている映画タイトルでもあり、ヒット曲が同時に聞こえてきて、そして子どもたちもその歌を歌い、映像に見入ってきた時間があります。
■ジブリのアニメに流れる時間の意味
宮崎駿は、この美術館によって、アニメーションが 1枚1枚の絵からできていること、その2次元の絵が動いて見える仕掛けがどんなものであるかということ、その驚きをリアルに伝えようとしています。美術館に来た人が、思い思いの発見ができるような美術館にしよう。その思いが詰まった空間になっています。それを保育園に当てはめることができます。質の良い保育園は、子供が思い思いの発見ができる空間になっていなければなりません。
それからもう一つ。ジブリ・アニメについて感じるのは、小松氏がそうだったと言うように、一つ一つの作品が今の時代に対峙するメッセージを持っていることです。そして今日気づいたのは、常設展示室「映画の生まれる場所」の壁に描かれた絵です。その絵は、アニメーターの仕事をしている「作画室」の様子が描かれているのですが、なんとも「昭和的」な雰囲気の職場です。(以下の写真は、図録から。この風景は「作画室」ではありません。美術館の壁に描かれていて、ここではお見せできません)
こんな手書きの文が添えてあります。
⭐️
日本が貧乏だった頃のスタジオ風景です。アニメーターがお金持ちになる心配は全くなかった分、みんなどこかで健康で希望を持っていました。ラジオも持ち込まなかったし、まして、ヘッドホンなどなく、代わりに歌を歌い、よくしゃべりをしつつ仕事をしていました。
アニメーターに長時間労働がつきものです。アニメーターが長時間労働を案外平気で続けているには理由があります。机に向かっている時、アニメーターは自分の世界の中にいるのです。いわゆるサラリーマン的な気配りは全然しなくて済むのです。
■じっくり、じっくり、じっくり、と
作品を作っている人たちの持っている時間と、作品自体が放つ時間が一致しているような気がします。このことは、「子どもの時間」を考える上で、保育上の重要なテーマのような気がしてなりません。子どもたちには、じっくりとじっくりと、取り組んでいい時間を、存分に用意してあげたいものです。

神幸祭の大行列で祓い清まる108町

2019/05/11

 ■お神輿の行列を見物

昭和通りに面した保育園でよかったと思えることが今日ありました。そうです、お察しの通り、子どもたちが、お神輿の大行列を眼前で目にすることができました。
今日は神幸祭。三柱(だいこく様、えびす様、まさかど様)の神様が、絢爛豪華な三基の鳳輦と神輿に乗って、神田明神から108町を一日中、祓い清めるために練り歩きます。
保育園の前は11時45分ごろから、約1000人、500メートルの大行列が、鳴り物と一緒に通り過ぎていきます。玄関に椅子を並べて「映画館のような客席」などと言って、なんだか「特別な感じ」の気分を味わっていましたが、途中からもっとよく見えるようにと「客席」は2階のベランダに変更しました。
「お神輿見たよ。園長先生、みた?」と興奮気味に、その様子を話してくれました。
岩本町3丁目町会のお神輿も、保育園の前で一本締めを賜り、お祓いお清めをいただきました。感謝。
明日は、町会のお神輿の列に加わって、子ども神輿を担ぐお友達もいます。神田祭りは、明日、最高潮を迎えますね。
■夕刻の美しき着輦祭
 
私は仕事をして、午後7時前、神田明神へ着輦祭に出かけました。大勢の見物客がスマホを高く掲げる中、一の宮鳳輦、二の宮神輿、三の宮鳳輦と鳥居を潜っていきます。
「木遣り」の歌声が夕刻の坂道に響きわたります。これだけの人が集まっているのに、行列の周りは静かです。昼間の賑わいとは違う、そして明日の神輿宮入りとは、また違う抑制された都市祭礼の美を垣間見た気がしました。

氏子町会の神輿に御神霊を遷す

2019/05/10

■お神輿に御神霊を遷して「神田祭」スタート

神田明神の宮司が、小さな声で降神詔を唱えています。参会者には、ただ「かしこみかしこみ〜」といった声しか聞こえません。神道ではそれを明かさないというのがルールだからです。仏教だと逆に大きな声で唱えます。そのあいだ、参会者は頭をたれて「儀式」に臨んでいます。今日は神田祭の「氏子町会神輿御神霊入れ」でした。夕方から氏子108町会が大小合わせて200基といわれる神輿に、明神様の御神霊を遷す神事です。保育園のある神田岩本町は、岩本町三丁目町会のお神輿です。山崎パン本社前のお神酒所に御仮屋を設けて執り行われました。
■大事な園としてのスタンス
神田祭は、宗教行事ですので、当園は正式に参加することはしません。町会など行事への協力はしますが、特定の宗教や特定の政治団体を支持することはでないからです。千代田区など自治体も宗教行事である神田祭に直接関わることができません。それと同じです。昨年私はねぶた祭りを見ましたが、青森県庁や青森市役所の職員が「ねぶた」を作って出ていました。ねぶた祭りは特定の宗教とはみなされていないのです。それはともかく、都会のど真ん中で、伝統行事が日常生活の中に脈々と息づいていることを実感することができました。保護者の皆さんも、明日からの神幸祭に参加される方も多いことでしょう。どうぞ楽しんで下さい。

両国にぎわい祭り

2019/04/29

4月29日
【連休の過ごし方】
〈安政6年の両国橋〉
大型連休を皆さんはどのようにお過ごしでしょう。28日の昨日「両国にぎわい祭り」に行ってきました。
昨年から下町に足を運ぶことが増えましたが、きのう両国駅でその大きさに思わず見入ってしまったものが手形です。
子どもたちの手形でこいのぼりを作った時も、並んだ大人の手の大きさを感じましたが、横綱の手は、その比ではありません。
〈横綱佐田の山の手形〉
ちなみに、色紙に手形やサインができるのは十両以上の関取だけです。わたしは長崎出身なので「佐田の山」のを紹介します。東京出身の横綱は4人、東富士、栃錦、若乃花、貴乃花でした。
5月12日から5月場所が始まります。毎場所築く土俵はまだありませんでした。
〈両国国技館〉
江戸東京博物館(藤森照信館長)では、江戸時代の神田祭りの様子の絵を見つけました。幕府公式の祭礼の、当時のお神輿や山車の様子が分かります。「天下祭」と言われていました。
5月になったのは明治25年(1892年)からで、それまでは9月でした。大正になると「神輿渡御祭」に、昭和になると「神幸祭」と名称が変わります。平成になって、東京藝術大学学生制作の曳き物が加わりました。令和時代の神田祭は、どう変わっていくのでしょうか。
【平成の日ができる?】
今日は平成最後の「昭和の日」です。昭和天皇の誕生日です。この日は「平成」が始まる1989年から2006年まで「みどりの日」でした。2007年から「昭和の日」となり、それまでの「みどりの日」は5月4日に変わりました。
では令和になると「昭和の日」に代わって、あるいはそれとは別に12月23日が「平成の日」として休日になるかもしれませんね。国民の祝日がなかった12月に、平成を振り返ると言うのは、良いことだと思うのですが、どうでしょうか。ただ、明治天皇の誕生日だった11月3日が「文化の日」となったように、皇室と国民の休日の関係を歴史的に振り返る事は欠かせませんが。

タンポポの綿毛

2019/04/23

4月23日その2

【たんぽぽ】
先週、歩道橋を渡って柳原通りを散歩していた時、街路樹の根元にタンポポを見つけた話は、先週お伝えしました。その時、Aくんが、しゃがみ込んでにっこり微笑んで、綿毛を見つめていました。私はその食い入るように見ている姿から、それを保育園でもじっくり観察できるようにしてあげたい、そう強く思ったのです。 この私のモチベーションは、目の前の子どもの姿から動き出すものであり、指導案から動き出すものではありません。どの子にも体験させたいカリキュラムが先にあるのではなく、一人ひとりのその子にとって、切実な課題やテーマから動き出すものです。私が考えていることに誘導するのではなく、子どもが見つめているその先に、私の興味も向けるのです。具体的には、たんぽぽの綿毛です。
【選択】
朝早く、近所の公園から、花の状態のものや、これから綿毛になろうとしているものなどを採取してきました。本来なら、散歩先から保育園に持ち帰ってくればいいだけのことですが、それがままならない環境にあるから、ちょっと工夫が必要です。たんぽぽの綿毛をドライフラワーにして、透明な瓶の中に入れれば、いつまでもじっくりと観察できます。今日はそのやり方を見てもらいました。ゾーン遊びの一つとして、私の絵本による説明と綿毛観察を、やってみたい子だけが選択しました。
【綿毛が開いた!そして・・・?】
お昼寝から目覚めた頃、ビンの中で綿毛が大きく開いていました。それを発見したAくんの喜び様といったらありません。絵本と見比べながら、この綿毛がどうやったらまた黄色いタンポポの花になるのか、彼の興味は今日、そこにたどり着きました。綿毛はたんぽぽの種の集まりです。そこからどのように根が出て芽が出るのでしょうか。私もそれを見てみたいと思います。(ひらがなのたんぽぽ、カタカナのタンポポ、どちらも捨てがたいので両方使わせてもらいます)

レモンの木

2019/04/23

【レモン】
まずは昨日、月曜日の話から。土曜日に持ち込んでベランダに置いておいたレモンの木を、園児全員に見せました。幼児もレモンは知っていても、レモンの木は、 誰も見たことないようでした。目を輝かせて、私の話を聞いています。
「レモンって、こんな風に、木になってるんだね。面白いね。今ちょうど食べごろだから、今から切るよ。こうすると、栄養が葉っぱのほうに行くようになって、芽が出て花が咲いてそしてまたレモンの実がなるんだよ。また、レモンがなるように大事に育てようね」と話すと、「うん、やる、やる!」といった意欲満々の表情が返ってきました。
【数を数える】
今度は私はレモンの木には「いくつ実がなっているかなぁ、数えてみようか。いち、にい、さん、し、ご。5だね。5個もレモンがなっているね」と、数に注目して話しました。
わい、らんの子どもたちは難なく5まで数を声に出して「数える」ことができそうです。これをカウンティングといいます。この、私との会話の中で子どもたちは、小学校以降に学ぶ「算数」の数の単元を学んでいることになります。実物のレモンに対して1、2、3と言う数詞が対応することを、順番に声に出して空で言えるようになること。こういうことがとても好きな時期です。今日はそのレモンを輪切りにして、中を見ました。
【季節感】
暖かくなると、ちょうど摘果の時期が来る果実といえば、ミカンなどの柑橘系の果物です。確かにレモンも柑橘系ですが、この時期だったっけ?と、ピンと来ませんでした。そこで調べてみると、レモンは秋から冬を通り越して春まで出回っていて、あまり季節感がない理由ががわかりました。
園庭がなくても、近くに公園がなくても、なんとか季節感あふれる生活にしたい。そう思って、土曜日に用意したものがあります。それは透明なビンとシリカゲルと絵本です。保育は大人が経験させたいと思う方へ子どもを誘導するのではなく、子どもが興味を持ってやりたがっている事を実現させる中に、発達を保障できるように環境を用意することです。(つづく)

神田祭がもうすぐ

2019/04/17

【神田祭りのざわつき】

この町らしさを感じ始めたのは、今年2月「今年は神田祭りが表だから」という言い方に接した時です。そのやや興奮気味の、待ちに待ったものが姿を現してくるときの感興を、その口調の中にのぞかせていたからです。もちろん神田祭を一度でも見れば、誰もが日本の「祭りらしさ」のイメージを代表していることに、また、それが祭りの本流の一つだと言うことに、気づかされます。
でも町会に入らないと、このワクワクしてくる感じは味わえないんだろうな、と今日、わかりました。今日何があったかというと、神田岩本町にお住まいの町会役員で、第57期議長も努められた石渡伸幸・元区議会議員から神田祭り用の、さらし一枚の日本手ぬぐいを頂いたからです。それは「宮鍵」と書かれた、粋な手ぬぐいです。あまりにカッコいいので、野暮は承知で早速、玄関に飾りました。
「宮鍵」をネットで検索してみると、次のような説明がありました。
【「宮鍵講」は神社の神輿庫の鍵を預かり、神職すら許されない神輿の出入を唯一奉仕できる講社でした。今日でも奉安殿の鍵を開ける時には必ず「御鍵渡しの儀」を奉仕しています。また、神田祭に使用した祭器具や調度品を取り扱ったとも言われています。】
千代田せいが保育園は、お祭りを支えている方々のど真ん中へ、一気にお招きいただくことになったのです。お招きくださったのは、宮鍵の石渡さん。神田祭初日の前日、5月10日金曜日の夕方4時、山崎パン本社でお神輿に魂(お御神霊)を入れる儀式がとり行われますが、そこに参会せていただくことになりました。
【わいわい組も散歩へ】
今日は初めて、3歳時クラスわいわい組もらんらん組と一緒に散歩に、夕方出かけました。子どもたちは、和泉橋を渡って佐久間橋児童遊園で遊びました。また、にこにこ組もオレンジ色の散歩カー(避難車)に乗って和泉橋から、佐久間橋児童遊園、万世橋警察署、万世橋、柳原通り、柳森神社、海老原商店というルートを巡ってきました。
海老原商店のイベントスペースから、聞こえてきた「音楽」に導かれて中へ入って行くと、にこにこさんたちのために、アーチストの方が演奏してくださいました。
【神田はデザインの専門街でもあった】
神田祭の、町のざわめきは、周辺を散歩する時も感じることができます。神田祭のポスターは、町会ごとに異なります。そのセンス、デザイン性、バリエーションの豊かさはどれも目を見張るものがあります。すべてのポスターを全部集めてみたいと言う願望に駆られます。神田の街の歴史に、印刷出版デザインと言う江戸時代から続く伝統を感じたからです。そのセンスを保育環境に持ち込みたい、この祭りのざわめきを子供たちと共有したい。散歩の目的が新たに見出された日になりました。

ゾーンの紹介 ごっこゾーン

2019/04/15

ごっこゾーンは、今は生活に慣れたお家をイメージして設定しました。その中で自然とお店屋さんをする姿もあり、少しずつ必要なものを増やしています。子どもたちのやってみたい、なりきりたい思いを表現するゾーンなので、今後はお姫様?王子様?コックさん?などなど中身は子どもたちが広げ、変化していくゾーンです。

最初は冷蔵庫とレンジが大人気!家では出来ないからこそ、やってみたい気持ち(意欲)が体験できて大好きなゾーンの1つになりました。

平成31年度の保育カリキュラム

2019/04/15

平成31年度の保育カリキュラムは次の通りです。

平成31年度 全体的な計画(教育課程含む)(千代田せいが保育園)

重点目標は次の通り

•○ 都市型の保育→ 音環境・プライバシー・交通安全
•○ 園庭の3要素(運動・自然・開放感)→ 地域を園庭として利用する
•○ 子どもの発達の連続性(学年で区切らない保育)→ オープン保育
•○ 家庭と園生活の連続性(アロペアレンティング)→ 保育の協働性 信頼と対話
•○ 保護者と共に子どもにとって豊かな生活を創り出す → 身体・睡眠・アート・科学

 

都立木場公園に実踏へ

2019/04/14

【区のバスを借ります】

今日は木場公園へ下見に行きました。何の下見かというと、戸外活動先としてどんな活動ができるかについての下見です。(映画などの制作ならロケハンでしょうが、私たちの教育界ではこれを「実踏」(じっとう)と呼びます。)
千代田区は、私たちの園のように、園庭を持たない保育園のために、バスを無料で提供してくれます。その1回目の利用を5月に実施します。その行き先に、いくつかの候補の中から「都立木場公園」を選んでみました。
【都立木場公園とは】
東京都公園協会のサイト「公園に行こう」( https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/about020.html)によると、〈木場は、江戸から昭和にかけて、江戸・東京へ材木を供給し「材木のまち」として栄えてきました。
昭和44年には、江東再開発構想のなかの防災拠点の一つとして位置づけられ、木材関連業者が現在の新木場へ移転したのを機に、水と緑の森林公園として整備されました。〉
南北に長いこの公園、とても広くて、バスの駐車場もあります。そこから、降りてすぐの所に、広々とした原っぱの「ふれあい広場」が広がっていて、ここなら、思いっきり走り回っても大丈夫です。
top