MENU CLOSE
TEL

東京すくわく(保育アーカイブ)

東京すくわくプログラムの求めるもの

2024/06/27

東京すくわくプログラムの話の続きです。この図を見てもわかるように、すくすく成長する部分と、わくわく探究する部分の二つのことがあるように感じます。説明会の動画を拝見しても、一人での成長のことと協同性のことがピアジェとヴィゴツキーの名前を出して説明されています。私たち保育関係者にはお馴染みの遠藤利彦先生による解説です。

さて、この二つのすくすくとわくわくですが、実践事例を見ると、この二つのことは一体なものとして捉えることが大事だということがよくわかるのですが、その一方で、実践事例を見る限り、わくわくする探究場面が前面に出ているように見えます。そこで、すくすくの方を前面に出す養護的な実践も提案してみたいものです。子どもの自分自身へのケアリングのような側面、とでも言えばいいでしょうか。

また秋田喜代美先生がわざわざアトリエを例に出して「ただコーナーを用意すればいい」というものではない、ということを強調されているのですが、その話は昔、コーナー保育が流行った時代に、ただ子どもをコーナーで遊ばせておけばいいというものではない、と批判されたことを思い出します。

この話は私の法人の藤森平司理事長が現在の新宿せいが子ども園で、コーナーという呼び方と併せて、子どもが遊び込んでいる姿を、スポーツ選手などが「ゾーンに入っている」と言われることを喩えにあげて、ゾーンと呼ぶようになったことと似ているなあ、と思い出しました。

遊び混んでいるとき、子どもは自分でちょっと先の目的を達成したくて、一生懸命、考えたり、試したり、工夫したり、しています。それはそれは熱心な取り組みようで、これと同じような感じで学校でも学びが続くといいのに、と思います。そのように考えると、東京すくわくプログラムは、子どもたちがゾーンに入ったかのように遊んでいる、その試行錯誤している問題解決過程のようなプロセス部分を、丁寧に読み取って、可視化して、子ども一人が何に気づき、何を思っているのかを、明らかにしてほしい、というプログラムだと理解していいかもしれません。

さらにそのプロセスには、子どもの主体性に重心はあるにしても、先生が子どもの姿を見て、さらにうまく発展できるように支え発展させていく援助として対話や示唆やモデル提示などなどがあってよく、同時に子ども同士の対話や協働がおきながら、探究が深まっていくような環境の再構成との関係を明らかにしていこう、そういう提案なんでしょう。

 

遊び・学び・探究の関係は?〜とうきょうすくわく〜

2024/06/26

前までは頭の中に円(サークル)が3つありました。大きな円は遊び性が充満した生活です。その中に学びという円があります。そして、3番目の、この円はどこに位置づくのだろう?と思っていた言葉があります。探究です。保育所保育指針には満1歳以上の5領域「環境」に探究心という言葉が出てきます。赤ちゃんの頃から探究はしているということなのでしょう。(ちなみに探究なのか探求なのか、あたりも昔、散々調べたことがあって、指針や要領は探究心が使われているので、迷った時は「探究」にしていますが、当然、少し意味が違うので使い分けています)

話を戻すと、東京都が今年度から「東京すくわくプログラム」というプロジェクトを立ち上げて、乳幼児の成長発達に資する活動に補助することになったのです。その条件というのが色々あって、私なりに突き詰めると「子どもが探究しているか」ということになりそうです。

遊びでもあり、学びでもありさらに「探究」ということに絞ってきた経緯は想像がつきます。

学びには広さや深さの違いあるという前提にたてば「主体的で対話的で深い学び」を目指そうということになります。学びには主体的であるか、協力したり対話したりしているか、そうやって深い学びである探究になっているか、ということでしょう。

そこで冒頭のベン図で考えると、遊びという大きな円の内側に探究という学びが含まれているということになるのでしょうか。でも私はそういう静的な単純なものではなくて、もっと入り組んだ関係、本人からすると生成変化のプロセス過程で生じる、とりあえずそう見えてくる一区切りの位置付け直し、のように思えます。ここからここまでの活動が探究で、それ以外の時間や活動はそうではない、みたいなものではないでしょうから。

今年度2回目の園内研修は「子どもの探究」〜とうきょうすくわく〜

2024/05/14

今日は今年度2回目の園内研修を夕方から行いました。研修にはいろんな方法がありますが、子どもや保育の見方を学び、子ども育ちや自らの保育を振り返り、面白さや素晴らしさに気づき、そのよさを味わうことが基本になります。個人でやる場合も、集まって語り合うことも両方必要です。実際の保育事例をもとに書かれたものや、写真や動画も使います。

今回のテーマは、今年度の研修の進め方と保育の中に一貫して流れている「子どもの探究」です。大人が子どもを探究するというよりも、子どもが自らの世界を探究する方にウェイトがあります。その方法として、千代田区が採用した研修プログラムを受講しながら、併せて様々な「子どもの探究」の報告事例を集団で学びながら、進めることになりました。

少し前の研修方法とずいぶん変わったと感じるのは、インターネットで研修動画を使うことができるようになったことです。学ぶ側も、関心の向いた内容の選択がオンデマンドによって可能になりました。

この研修の学びが保育中の意識に流れ込み、子どもの見方や捉え方、受け止め方、かかわり方の変容を引き起こし、リアルな発見や喜びを見出せる循環が起きるといいですね。

東京都のすくわくプログラムも始まります。学びから探究へ、子どもの姿を進化させたいものです。

 

遊びの最初にありそうな「探すこと」といつまでも続く「探究」〜とうきょうすくわく〜

2024/04/16

そもそもの話の続きです。今年の保育の年間目標の一つに「自分の好きなものを見つけて、それを深めていく」というのがあります。発見と探究です。

環境からどの情報を取り出すのかは子どもによって異なりそうです。子どもにとっては情報が飛び込んできやすい環境だったり、反対に見えにくい環境だったりするかもしれません。そういう意味で遊びやすい環境というものがあるでしょう。

そこで今日は「探す」ということを子どもはよくやるので、どうしてだろうという話です。保護者の皆さんは、必ず入園の見学をされたはずです。その時、子どもと一緒に来られた方は、子どもが自然と遊び始めた姿をご覧になったと思います。環境に吸い寄せられるように始まる遊びの姿です。子どもにはあらかじめ何も言葉では説明を受けてはいませんし、説明してもわからない赤ちゃんだったりしたわけで、それでも親の手から離れて、子どもは自分で遊び始めます。その遊びの最初には「これはなんだろう」といった探索のような段階があるはずで、そこからが、きっともう「遊び」なのでしょう。

ちょっと突飛な話に聞こえるかもしれませんが、こんなことを思い浮かべています。

もし、子どもが新しいものを面白そう!と興味を持ち、遊びの最初に何かを「探す」という行為が生まれやすいのだとすると、それは人類の特徴の一つではないだろうか、と思います。食べ物を探すとか、危険を察知するとか、敵と仲間を見分けるとか、何かを「探す」というのは、生存に不可欠だったのではないでしょうか。

地球の歴史の専門書によると、カンブリア紀以降の生物が過酷な生存競争にさらされて生き残ってきたそうです。その機能を環境との関係の中で身につけているとすると、私たちもそうしたセンサーのようなものを発揮しやすいのかもしれません。リサーチして何かを得たり、あるいは避けるなどの機能は、それは生死に直結する機能だったのかもしれません。

さらに、自然からある意味ではみ出してしまったように見える人間は、人間が作り出す物は社会の中で、あとでどうなるか予想がつかないことが多いので、いろんな問題を引き起こしているように見えます。自然になかった人工物(例えばビニール)を(海藻と)間違えて食べて死んでしまう海洋生物のように。原子爆弾を作ってしまって人類絶滅までのカウントダウンが真剣に議論されてきたように。

人間は自分でいろんなことができるようになるまで、大人が守ってあげないと一人では生存できない生物です。脳と身体が発達して大人になるまでに相当の時間を必要とします。ちょっと前に思春期が18歳から22歳までに延びたという研究が話題にあったことありました。本当かどうか知りませんが、18歳としてもその後の青年期も含めると、相当長い間、極端にいうと「一人前」じゃないということなのでしょうか?

こういうことと遊びが関係するのでしょうか? 遊びは環境への適応のために進化の中で得たものだとすると、きっと教えなくても世界を探し始める、目新しいものに無意識に手を伸ばすような行為が、脳と身体を作っていくのでしょうか。好奇心とか興味や関心などと名づけられているようなことが、探究のはじまり、として不可欠だからでしょう。

それにしても人間は探究が好きですね。いつまでも学び続けるとか、探究は終わらないとか、動物ではありえないことをし続けるようになっていることが、ある意味で不思議です。はい、もう終わり、ここで終了です!というのはないのですね。

どんな場所であろうと、それがあれば移動して未知の世界に行こうとする衝動に突き動かされているのでしょうか。地球上のありとあらゆるところに進出してしまう人間。探究し続けましょう!という文句で終わる文章もよく見ます。それだけ課題が山積ということなのでしょうか。

実は、それだけではなく、きっと「世界」はそれだけ謎に満ちていて、いいことが待っていると思いたい。その探究のパスポートを人間だけが手にしている、ということかもしれません。そうだとすると、すごいですね。また不思議です。

絵本の「おさるのジョージ」の原題は「キュリアス・ジョージ」好奇心いっぱいのジョージでした。そして、そこから始まる経験を自分で制御する力を発達させるために脳が大きくなっていったのかもしれません。色々な場所やものを見つけて探究を始められるように、保育でも子どもにとってのその環境とはどんなものかの、その探究は続くのです!

top