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園長の日記

自分らしさを取り戻すために

2021/04/16

私は子どもたちが覆っている目に見えない殻を取り去ってあげています。そんなふうに感じる時があります。じゃれあって笑い転げて、お腹が捻れるくらいに、腹の底から声を出してみるような体験です。そんな時に気づきます。この子たちは、自分でも知らない間に、目に見えない被り物の中で生きている時があるんだなあ、と。

すると、ほら、出てきた、出てきた、本物の自分が。被り物を捨て去ってみると、そこにムクムクと出てきます。その子の素顔が出てきます。子どもと一緒にいると、こんな感覚になることがあるんです。そうだよ、そこを出しちゃっていいんだよと。

この子たちは私たちが死んだ後の時代を生きていきます。次の時代の担い手だからこそ、「子どもは未来」だとじんわりと思います。だから、その未来の時代は今よりももっといい時代になっていて欲しい。でも、その前にこの子たちは現在(いま)を最もよく生きていてほしい。現在を最もよく生きながら、しかも望ましい未来を作り出す力の基礎も育ててあげたい。確かに、こういう趣旨のことが、保育所保育の原理、保育の目標になっています。でも言うのは簡単ですが、こんなに都合のいい話を実現できるほど、私たち大人は賢いとも思えません。

目の前の子どもが、まだ言葉で表せない思いを抱えていたりします。それは決して同じ思いではありません。それぞれが異なっているし、異なっている今を生きています。こうしたい、ああしたいといういろんな気持ちを抱えている子どもたちが目の前で、笑ったり、泣いたり、怒ったり、怖がったり、いろいろです。その様々な思いは、いろいろな形と色いあいを持っていて、聞こえてくる音色もそれぞれです。

しかし、違う形や色合いや音色であっても、どこ子にも同じエネルギーを放っています。それはこの世に宿った生命の躍動から発しているものです。この子どもの「一途なもの」をもっと愛しみたいという想いにかられます。

子どもが自分でも忘れてしまうことさえある、一途な心への共感を子育ての真ん中に、揺るがぬように据えてしっかりと見守っていたい。子どもは必ず自分で歩き始めます。本当に「自分で」歩き始めるということを信じましょう。そうでないと、いつの間にか「いい子の仮面」をかぶって生きていることになってしまうからです。

存在を喜び合うちっち・ぐんぐんの朝の会

2021/04/15

「◯◯ちゃ〜ん」、と子どもの名前を呼ぶと、ちょうど1歳になるKちゃんが、嬉しそうに「は〜い」と手をあげてパチパチします。周りの子たちもパチパチしています。ほんの半月前までは「集団」を知らなかったはずの子が、ちゃんとご返事ができる、ということに先生たちの間に温かい歓声があがりました。名前を呼び合う間柄になるということは、あなたがそこにいることだけで、私たちは嬉しいということを確認していることになっています。

0歳の子たちにとって、気持ちが通じ合うということは大切な「社会的発達」の経験になっています。1歳ごろと言えば、自分と相手と世界の3つが「表象」によってつながり合っていく時期です。自分が先生から「◯◯ちゃ〜ん」と呼ばれることも、自分についての「◯◯ちゃ〜ん」という自己イメージをもてていることになります。「は〜い」と応答できているということは、自分についての自己イメージ(表象)と「◯◯ちゃ〜ん」と声を自分に結びつけるという三項関係が成立しており、言葉がで始める前の発達の条件が整っていることがわかります。

このことは家庭でも起きることですが、集団があると、このように「声」をかけてくれる他者の存在があり、そばに模倣したくなる対象がたくさんあることになります。そのやり取りの中で、それを喜んでくれたり、嬉しがってくれたりすることで「気持ちが通じ合う」という社会的な発達の経験になっているのです。楽しい体験はまたやりたい、また僕のこと、私のことを呼んで!認めて!という存在自体への承認欲求が満たされていくことになります。

朝のお集まりは、今日も元気にいるね!という、お互いの存在を確認し合うことになっています。出席をとるということの本来の目的です。そこに存在すること自体の重要性を感じあっています。これは自信の育ちにも関わっています。無条件の自信が他者と信頼し合う関係に育ちます。1歳ごろまでに気持ちを通じ合わせる中で「人と関わること」そものもが発達の経験になっているのです。

利他性が発揮されている毎日

2021/04/14

今週4月12日(月)から、東京でコロナ感染の蔓延防止対策が始まったわけですが、「春に三日の晴れなし」と言われるように、春は意外とカラリと腫れた日が少ないもの。ちょっとでも晴れていたら「外遊び」を取り入れたいと考えています。今日14日は雨だったので、室内やベランダでの様子がクラスブログで紹介されています。

そこで見られる姿は、面白いことに子どもたちが元々もっている「利他性」が発揮されていることです。利他的という言葉はちょっと難しい言い回しですが、「利己的」の反対です。自分にとっては直接メリットがなく他人のために役立つような行為です。そうした「態度」は、お手伝いをやりたがる、率先して掃除や片付けを手伝う、お友達の気持ちに気づいて優しく接する、楽しそうな遊びをお友達にも伝える・・・そうした姿の中に見出されます。

千代田せいが保育園の保育が何を目指しているのかというと、色々な言い方ができるのですが、子どもの育ちゆく姿としては「保育目標」というものがあります。学校だったら教室の前に額縁に入れて掲げてある「教育目標」と同じ位置付けのものです。保育園も幼稚園も学校も、それは子どもを主語に書かれています。例えば和泉小学校は「人にやさしく 自分につよく 明るく 元気な 和泉の子」です。省略してありますが、主語が「子どもは」になっているでしょ。社会性、克己心、内面性、健康などの要素が盛り込まれていますね。注目して欲しいのは、トップに「人にやさしく」と利他性を含む人間性が掲げられているということです。

千代田せいが保育園の場合は「自分らしく、意欲的で、思いやりのある子ども」です。思いやりというのは、他人への「共感」の育ちがベースになるのですが、その育ちの基盤は持って生まれたもの(つまり教えて学んだものではなく、生得的に持って生まれるもの)と言われる模倣の力です。じっと見て真似をするという力が、相手の心の動きを想像しながらなぞるようにイミテーションできる力のことです。

したがって、心をなぞりたい!、一緒になりたい!と愛着を持てる対象がそばにいなければ、模倣する対象をもてませんし、共感体験が生じません。ちっちやぐんぐんやにこにこの頃から、その体験を積み重ねていく中で、他人への信頼感を獲得しながら、言葉も獲得し、やさしさを育て、思いやりという心の姿勢を形作ることができるようになっていくのです。この育ちのまとまりを利他性の発達と言います。SDGsなど持続可能な社会を実現できるかどうかは、保育のテーマとして捉えなおせば、この心の姿勢を育てることに他ならないのです。

令和3年度 保育カリキュラム

2021/04/01

令和3年度の保育カリキュラムは次の通りです。

令和3年度 全体的な計画(教育課程含む)(千代田せいが保育園)

重点目標は次の通り

•○ 都市型の保育 → 音環境・プライバシー・交通安全
•○感染症対策・自然災害(水害)対策 → 新型コロナウイルス感染症長期化対策
•○ 園庭の3要素(運動・自然・開放感)→ 地域を園庭として利用する 地域連携
•○ 子どもの発達の連続性(学年で区切らない保育)→ オープン保育
•○ 家庭と園生活の連続性(アロペアレンティング)→ 保育の協働性 信頼と対話
•○ 保護者と共に子どもにとって豊かな生活を創り出す → 身体・睡眠・アート・STEM保育

 

はるがきた〜0号認定制度を目指そう

2021/03/24

小学校や幼稚園は「春休み」になります。保育園には、春休みはなく毎日楽しい日々が続きます。生活に「休業」がないように、保育園には年末年始を除き「休業」はありません。でも、大人の休業によって子どもが登園や登校をしないで家で過ごすということは同じなので、親のお仕事がお休みにならない限り、保育園の生活は続くわけです。大人の過ごし方が先に決まっていて、その後で子どもの生活する場所が決まってくる、という順番になっています。でも、本当にそれでいいのでしょうか?

乳児の頃から子どもには子ども同士の関係が必要なのではないかと思います。親が働いていなくても乳児の頃から集団の中で過ごす時間があることを保証すること。つまり0号認定制度の創設です。(わかりやすくいうと、1号は3歳以上の幼稚園児、2号は3歳以上の保育園児、3号は3歳未満の保育園児です。0号というのは、まだなくて、3歳未満の幼稚園児です。つまり「専業主婦」でも0歳の時から園で過ごせる制度です)

昨春のコロナ禍では、保育園の休園によって、大人も子どもの大きな影響を受けました。子どもも大人も、本来の「居場所」とは、どんなところなのか、どんな親子関係がなりたつ空間でなければならないのか、そんなことを、「そもそも」から考え直したのが、この1年だったような気がします。

保育園にいると、その生活が当たり前のように過ぎていくのですが、この核家族ではない、もう一つのホームがおうちの外のあることは、家族にとっても、子どもにとっても、過ごしやすい居場所になっていると思います。移行保育や卒園に向けた悲喜交々(ひきこもごも)が、そこかしこで起きるこの時期、その舞台は子ども同士の関係が繰り広げられる園生活になります。

「子ども同士」「子ども集団」があるのは、園生活でしかないからです。この事実は、ものすごく大きな事実です。家庭のビリングの延長に、預け先として、保育園という、もう少し広い場所があるようにしか見えるかもしれませんが、子どもの居場所としては、家庭の環境と子ども同士の関係が豊かにある園の環境とでは、その次元も機能も全く違います。

子どもは「子ども同士」の中で育ちます。親子関係を起点にしながら、その人的ネットワークを広げていきます。そこには年齢の異なる様々な子どもや大人がいて、生活を展開しています。保育園は、子どもの発達を促進させるために最もふさわしい生活の場でありたいと思っています。

今週は朝のお集まりで「はるがきた」を歌っています。「きた」と「さく」が繰り返されるシンプルでわかりやすい歌詞です。春がくると花が咲く、山や里や野で。でも、そばにそれがない環境であっても、はるはきました。

すいすいさんと物語

2021/03/24

ここのところ、年長すいすい組の話が続きますが、園生活もあと7日ですからお許しを。今日の園長のすいすいタイムは『大どろぼうホッツェンプロッツ』を読み終えました。200ページを超える小学校中学年向けのお話だけに、さすがの年長さんも、ちょっと難しい言葉や言い回しが出てくると、その都度、通じる言葉に言いかえながら読み進めました。ストーリーは簡単なのですが、プロットからプロットまでの間にある説明の面白さはまだよくわからないので、そこは、私の独り言説明が入ります。「へえ、魔法使いなんだんって。すごいな、ここの四角の中に持ち物を置いて呪文を言うと、その持ち物の人が、現れるんだって。すごいね。たとえば◯◯くんの水筒をここに置いて、魔法の言葉を言うとね、◯◯くんがどこにいたって、ここから出てくるんだよ」みたいな、私の長〜い独り言が入るわけです。

・・・ここにも発達段階の特徴と、それにあったサポートというテーマがあるのですが、それはともかく、実践的には子育ては「通じる」「わかる」「おもしろい」という状態になるにはどうするといいか、ということであり、直感的にそれができれば、しめたもの、ということでしょう。

これまで読んだ絵本でもう一回読んでほしいリクエストがあれば、それを今度は読もうか?というと、やっぱり何人かが「エルマー」を一番に挙げましたが、「長いから一回じゃ終わらないよ」とか、NUくんが『もりのへなそうる』の方がいいと、面白い箇所を話始めます。楽しいお話に目のないNくんらしい提案の仕方でした。『どこんこぶた』がいい、という子もいます。その子が選ぶ絵本には、その子らしい。いろんな絵本の中から、自分のお気に入りが決まっていくように、人生の選択が始まっているんだなあと思いました。

私の願いは、絵本や本やお話が好きになってほしいということに尽きます。物語ではなくてもいいのですが、たとえば主人公になったつもりで、いろんな体験をするようなものが、感情体験を豊かにしてくれます。擬似体験だとはいっても、子どもの頃はそれが実体験と同じくらいに没入できるので、その体験の質は実際と同じくらいに、もしかするとそれ以上に、リアルな体験になっている気がします。本の世界ほ現実よりも広くて深いのです。

保育園では、その世界を単純にたくさん楽しんできました。これからも、もっともっと、想像と物語の世界へ旅立ってほしいと願っています。

すいすい組との「お別れ会」

2021/03/18

このところ、目頭が熱くなってしまうことが多くて困ります。今日18日は年長の「すいすい組」との「お別れ会」が開かれました。3月末までの生活は、土曜日を除けば、今日からちょうど残り10日です。お別れ会には2歳以上が参加して、これまでの生活の楽しかったことを思い出し、プレゼントを交換しました。もうすぐ年長さんと一緒に遊べなくなるんだということを、子どもなりに、しかも1人ずつ違う思いを抱きながら、受けとめている姿に、職員は心の中で惜別の涙を流していました。

すいすいとの過去2年間の生活をスライドショーで振り返りました。一枚一枚の写真に、食い入るように見入るすいすいさんたち。そこに写っている自分や友達が映ると、その名まえを言い、その場面を思い出しては「あ、おいもほり楽しかった」とか、面白い顔や表情には笑い声が響き、「あはは、イェ〜イ!」などと、とっても楽しそうです。

一瞬一瞬の映像が子どもの中の記憶を呼び起こし、その再現される場面が、どうしてこんなに嬉しそうで、前のめりなんだろう? 確かなことは、この生き生きとした反応に、子どもたちの力強い生きる力を感じることです。それは何を意味するのでしょうか? 子どもたちは、一緒でなければ経験できなかった「楽しさ」を味わっています。「一緒にいたこと」が楽しかったのだろうと感じます。名前を呼びあい、楽しかったことを確認しているように、見入っているからです。

一方、昔の写真から最近の写真に近づいてくるにつれて、この2年間の時の流れを感じます。と同時に、最近のバス遠足の写真が最後です。その後の写真は? きっとそれを想像した時に、その後の写真を一緒に見ることはもうないのだということを察知したのでしょう。スライドショーが終わると、ある男の子は1人泣き出してしまいました。

その後、行事は楽しい出し物です。「これはどこでしょう?」と「これは誰でしょう?」の2種類のクイズです。手洗い場の蛇口の拡大写真でも、年長さんは当ててしまいました。どうしてわかったのかというと、丸いステンレスの表面に写っている掲示物が3階のどこそこの手洗い場のものだから、などと見抜いてしまいます。子どもたちの生きてきた舞台は、大人が想像する以上に、保育園の隅々にまで行き渡っていたことに気づかされました。

最後に、らんらん組からすいすい組へのプレゼント。小学校へいって使ってもらいたい「時間割」表です。枠の周りの絵はらんらんさんが描いた絵です。すいすいさんからのプレゼントは、歌「ありがとう」です。エルマーの冒険の劇中歌の替え歌です。

4歳児クラスのらんらんさんにとって、3歳児クラスのわいわいさんとして一緒に入園した、一つ上でしかない「お兄さん、お姉さん」だったのが、急に大きな歳の差を感じているのかもしれません。年長さんだけで過ごす時間も増えていったので、どんどん離れていってしまうような関係になっていく寂しさを感じているかもしれません。そこへのケアも大切な時期。どんどん前のめりになっていくすいすいさんと、なんとなく残されてしまうような感じに寂しさを感じている子もいるらんらんさん。

この揺れ動く気持ちの安全基地として、私たち大人は、不安定な子どもたちの気持ちを、しっかりと受け止めていくことが大切な時期でもあります。

3歳児の「見て見て」の意味

2021/03/17

3階の「パズルゾーン」で遊んでいるにこにこ組の子どもたちから「ねえ、見て見て」と朝よく言われます。小さな三角形のピースを並べて作るコマ型のパズルです。並べ方によって無限の組み合わせがあるので、綺麗な模様ができると、誰かにみて欲しくなるのでしょう。このパズルに限らず、塗り絵ができたり、パズルができたりすると、「見て見て」のリクエストがやってきます。

私は子どもたちから「みてみて」と言われたら、必ず応じるようにしています。この見てほしいという欲求は、広い意味での「認めてほしい」と言う承認欲求の一種です。承認欲求は人間のもつ、とても強い社会的欲求の一つです。子どもだけではなく、大人も持っています。しかも一生ついて回る相当強い欲求です。ある有名な哲学者は「人生とは承認欲求の闘争である」とさえ言いました。人生は他者から認めてもらうための競争であると言うのです。

承認欲求は、他の社会的欲求と大きく異なるのは、個人的な欲求を、社会的なものに位置付けていく欲求として特別な意味があるのです。例えば愛情や所属などの社会的欲求は、個人と個人の間や、家族の中で満たされていれば、それでもいいかもしれません。ところが承認欲求というのは、何かを認めてもらう欲求ですから、その何かには、いろんなものが入るのです。

子どもが持っているこの「みてほしい」と言う欲求は、個人の様々な欲求を社会的なものに広げる力を持っているものです。例えば男性と男性が結婚したとします。2人の間での愛情や所属が満たされているわけですが、これを社会が正式な夫婦であると「承認」されないと、その社会では生活しにくいと感じることもあります。なので今日のニュースのように裁判に訴えて社会が同性婚を認めてほしいと戦うことになるのです。

一方で、社会の方から見ると、多様性を承認する社会への変化になるので、これは現代社会の価値観に適したものになります。ダイバーシティはこれからの時代に必要は価値観だからです。そのように社会を変えていく力の源に、自分の何かを他者と共有して認めてもらいたいという欲求、承認欲求というものがあって、しかも小さい子どもが教えてもらわなくても、自ずと持っている社会的欲求なんだなと思います。

保育を受けたことを証します、の意味は?

2021/03/16

今日は卒園式の練習を初めてやってみました。子どもたちの練習ということもありますが、それよりも私たちの方が「ああしようか、こっちの方がいいかな」と試行錯誤の時間です。でも困ってはいません。できる範囲でできるだけのことをやるのは楽しいものです。できないことを願って悩むより、やりたことをやれるようにやるのが楽しいものです。(なんだが、言いたいことははっきりしているのに、日本語になっていない!)

卒園式のメインは「保育証書の授与」です。証書は既に出来上がっていますが、そこには卒園児の名前と生年月日、そして「あなたは本園にて◯年間保育を受けたことを証します」と書かれています。保育とは英語ではとても長い言葉です。Early Childhood Education and Careと言います。訳すと「乳幼児の教育と養護」です。保育は教育と養護からなることが、世界共通なのです。保育には「教育」が入っています。ですから、本当は「保育を受けたことを証します」を次のように言い換えることができます。「教育と養護を受けたことを証します」。

ちなみに養護というのは、「生命の保持」と「情緒の安定」からなります。さらについでに言うと、「情緒の安定」は「くつろいだ雰囲気の中でさまざまな欲求を満たすこと」で成し遂げられると定義されています。もっと付け加えると「さまざまな欲求」は生理的欲求と社会的欲求に別れ、社会的欲求には愛情、承認、所属、達成感、共感、愛着・・・など人との関係の中で満たされるようなものばかりです。

というような背景を抱えた「保育証書」ですから、大事な言葉なんです。その宣言を一人ひとり行います。このちょっぴり厳かなセレモニーをコアにしながら、呼びかけや歌で華やかな時間を演出したいと思います。どこにもない、世界にひとつしかない式にするつもりです。

みんなでお祝いしたいので、保育のない「休日」にします。全ての職員が参加できるからです。在園児の代表として年中組のお友達も参加するのですが、今年はコロナ対策のために諦めました。その代わり、皆さんに在園児の「似顔絵」を描いていただくようにお願いしました。これを会場に飾り、みんなが参加していることにします。

保護者の皆さん、心温まる素敵な似顔絵をお寄せいただき、本当にありがとうございました。これで式典の役者は揃いました。

 

オープン保育ならではのスムーズな移行保育

2021/03/15

今週から3月も後半になります。4月からの進級に向けて、張り切っている子どもたちですが、全てのクラスで4月から過ごす部屋での保育が本格化しています。たとえば1歳児クラスのぐんぐん組。4月からは2階での「にこにこ組」としての生活が始まるのですが、今日は朝のお集まりを1階で終えた後、「じゃあ、これから2階でおやつを食べよう!」と声をかけると、いそいそと楽しそうに2階へ移動しています。この写真はその時のおやつの時の様子です。2階ダイニングのテーブルに上手に座っています。

2歳児にこにこ組は、4月からは3階での「わいわい組」の生活になるので、これまでの8人がいつも一緒、という集団から、4歳のらんらん、5歳のすいすいのお友達とも一緒になります。今日15日の朝のお集まりでは、5つのグループの中に混ざり合って座っています。お兄さん、お姉さんに囲まれて、仲間入りを果たしたことが、なんだか誇らしげです。この写真はその時の様子です。わいらんすいの朝のお集まりは2階のダイニングを使っています。

こうやって、少しずつ「進級」に向かって、新しい仲間との関係、人間関係の広がりが生じています。その様子を見ていると、頼もしさを感じるほど、子どもたちは前向きです。全く未知のものなら、知らないが故の躊躇が起きるかもしれませんが、きっとすでに見慣れた「もの」や憧れていた「人」や知っている「空間」なのでしょう、戸惑いもなく、新しい生活スタイルを難なく受け入れていきます。

4月から小学生になるすいすい組の昼食は、小学校の給食と同じ時刻に、にこにこ組の食事の場所で食べます。年長さんは、今週の卒園式を意識して、お集まりをするとき「卒園児のみなさん」という声かけをすると、「あ、僕達のことだよ」と、さっと起立して、「挨拶をしましょう、はい、礼」というと、ちゃんと揃ってお辞儀をしたりしています。このような「きちんと」という感覚も、新鮮に受け止めてくれています。素敵な小学生になりそうです。

こんなにスムーズなのは、当園が基本的にオープン保育だからなのでしょう。担任はいても、どの先生もどの子のことも理解しており、子どもの方も担任だけではなく、全ての先生との関わりを持っています。「他対他」のオープンな人間関係は、移行保育もやりやすいのです。

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