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園長の日記

すいすい組との「お別れ会」

2021/03/18

このところ、目頭が熱くなってしまうことが多くて困ります。今日18日は年長の「すいすい組」との「お別れ会」が開かれました。3月末までの生活は、土曜日を除けば、今日からちょうど残り10日です。お別れ会には2歳以上が参加して、これまでの生活の楽しかったことを思い出し、プレゼントを交換しました。もうすぐ年長さんと一緒に遊べなくなるんだということを、子どもなりに、しかも1人ずつ違う思いを抱きながら、受けとめている姿に、職員は心の中で惜別の涙を流していました。

すいすいとの過去2年間の生活をスライドショーで振り返りました。一枚一枚の写真に、食い入るように見入るすいすいさんたち。そこに写っている自分や友達が映ると、その名まえを言い、その場面を思い出しては「あ、おいもほり楽しかった」とか、面白い顔や表情には笑い声が響き、「あはは、イェ〜イ!」などと、とっても楽しそうです。

一瞬一瞬の映像が子どもの中の記憶を呼び起こし、その再現される場面が、どうしてこんなに嬉しそうで、前のめりなんだろう? 確かなことは、この生き生きとした反応に、子どもたちの力強い生きる力を感じることです。それは何を意味するのでしょうか? 子どもたちは、一緒でなければ経験できなかった「楽しさ」を味わっています。「一緒にいたこと」が楽しかったのだろうと感じます。名前を呼びあい、楽しかったことを確認しているように、見入っているからです。

一方、昔の写真から最近の写真に近づいてくるにつれて、この2年間の時の流れを感じます。と同時に、最近のバス遠足の写真が最後です。その後の写真は? きっとそれを想像した時に、その後の写真を一緒に見ることはもうないのだということを察知したのでしょう。スライドショーが終わると、ある男の子は1人泣き出してしまいました。

その後、行事は楽しい出し物です。「これはどこでしょう?」と「これは誰でしょう?」の2種類のクイズです。手洗い場の蛇口の拡大写真でも、年長さんは当ててしまいました。どうしてわかったのかというと、丸いステンレスの表面に写っている掲示物が3階のどこそこの手洗い場のものだから、などと見抜いてしまいます。子どもたちの生きてきた舞台は、大人が想像する以上に、保育園の隅々にまで行き渡っていたことに気づかされました。

最後に、らんらん組からすいすい組へのプレゼント。小学校へいって使ってもらいたい「時間割」表です。枠の周りの絵はらんらんさんが描いた絵です。すいすいさんからのプレゼントは、歌「ありがとう」です。エルマーの冒険の劇中歌の替え歌です。

4歳児クラスのらんらんさんにとって、3歳児クラスのわいわいさんとして一緒に入園した、一つ上でしかない「お兄さん、お姉さん」だったのが、急に大きな歳の差を感じているのかもしれません。年長さんだけで過ごす時間も増えていったので、どんどん離れていってしまうような関係になっていく寂しさを感じているかもしれません。そこへのケアも大切な時期。どんどん前のめりになっていくすいすいさんと、なんとなく残されてしまうような感じに寂しさを感じている子もいるらんらんさん。

この揺れ動く気持ちの安全基地として、私たち大人は、不安定な子どもたちの気持ちを、しっかりと受け止めていくことが大切な時期でもあります。

3歳児の「見て見て」の意味

2021/03/17

3階の「パズルゾーン」で遊んでいるにこにこ組の子どもたちから「ねえ、見て見て」と朝よく言われます。小さな三角形のピースを並べて作るコマ型のパズルです。並べ方によって無限の組み合わせがあるので、綺麗な模様ができると、誰かにみて欲しくなるのでしょう。このパズルに限らず、塗り絵ができたり、パズルができたりすると、「見て見て」のリクエストがやってきます。

私は子どもたちから「みてみて」と言われたら、必ず応じるようにしています。この見てほしいという欲求は、広い意味での「認めてほしい」と言う承認欲求の一種です。承認欲求は人間のもつ、とても強い社会的欲求の一つです。子どもだけではなく、大人も持っています。しかも一生ついて回る相当強い欲求です。ある有名な哲学者は「人生とは承認欲求の闘争である」とさえ言いました。人生は他者から認めてもらうための競争であると言うのです。

承認欲求は、他の社会的欲求と大きく異なるのは、個人的な欲求を、社会的なものに位置付けていく欲求として特別な意味があるのです。例えば愛情や所属などの社会的欲求は、個人と個人の間や、家族の中で満たされていれば、それでもいいかもしれません。ところが承認欲求というのは、何かを認めてもらう欲求ですから、その何かには、いろんなものが入るのです。

子どもが持っているこの「みてほしい」と言う欲求は、個人の様々な欲求を社会的なものに広げる力を持っているものです。例えば男性と男性が結婚したとします。2人の間での愛情や所属が満たされているわけですが、これを社会が正式な夫婦であると「承認」されないと、その社会では生活しにくいと感じることもあります。なので今日のニュースのように裁判に訴えて社会が同性婚を認めてほしいと戦うことになるのです。

一方で、社会の方から見ると、多様性を承認する社会への変化になるので、これは現代社会の価値観に適したものになります。ダイバーシティはこれからの時代に必要は価値観だからです。そのように社会を変えていく力の源に、自分の何かを他者と共有して認めてもらいたいという欲求、承認欲求というものがあって、しかも小さい子どもが教えてもらわなくても、自ずと持っている社会的欲求なんだなと思います。

保育を受けたことを証します、の意味は?

2021/03/16

今日は卒園式の練習を初めてやってみました。子どもたちの練習ということもありますが、それよりも私たちの方が「ああしようか、こっちの方がいいかな」と試行錯誤の時間です。でも困ってはいません。できる範囲でできるだけのことをやるのは楽しいものです。できないことを願って悩むより、やりたことをやれるようにやるのが楽しいものです。(なんだが、言いたいことははっきりしているのに、日本語になっていない!)

卒園式のメインは「保育証書の授与」です。証書は既に出来上がっていますが、そこには卒園児の名前と生年月日、そして「あなたは本園にて◯年間保育を受けたことを証します」と書かれています。保育とは英語ではとても長い言葉です。Early Childhood Education and Careと言います。訳すと「乳幼児の教育と養護」です。保育は教育と養護からなることが、世界共通なのです。保育には「教育」が入っています。ですから、本当は「保育を受けたことを証します」を次のように言い換えることができます。「教育と養護を受けたことを証します」。

ちなみに養護というのは、「生命の保持」と「情緒の安定」からなります。さらについでに言うと、「情緒の安定」は「くつろいだ雰囲気の中でさまざまな欲求を満たすこと」で成し遂げられると定義されています。もっと付け加えると「さまざまな欲求」は生理的欲求と社会的欲求に別れ、社会的欲求には愛情、承認、所属、達成感、共感、愛着・・・など人との関係の中で満たされるようなものばかりです。

というような背景を抱えた「保育証書」ですから、大事な言葉なんです。その宣言を一人ひとり行います。このちょっぴり厳かなセレモニーをコアにしながら、呼びかけや歌で華やかな時間を演出したいと思います。どこにもない、世界にひとつしかない式にするつもりです。

みんなでお祝いしたいので、保育のない「休日」にします。全ての職員が参加できるからです。在園児の代表として年中組のお友達も参加するのですが、今年はコロナ対策のために諦めました。その代わり、皆さんに在園児の「似顔絵」を描いていただくようにお願いしました。これを会場に飾り、みんなが参加していることにします。

保護者の皆さん、心温まる素敵な似顔絵をお寄せいただき、本当にありがとうございました。これで式典の役者は揃いました。

 

オープン保育ならではのスムーズな移行保育

2021/03/15

今週から3月も後半になります。4月からの進級に向けて、張り切っている子どもたちですが、全てのクラスで4月から過ごす部屋での保育が本格化しています。たとえば1歳児クラスのぐんぐん組。4月からは2階での「にこにこ組」としての生活が始まるのですが、今日は朝のお集まりを1階で終えた後、「じゃあ、これから2階でおやつを食べよう!」と声をかけると、いそいそと楽しそうに2階へ移動しています。この写真はその時のおやつの時の様子です。2階ダイニングのテーブルに上手に座っています。

2歳児にこにこ組は、4月からは3階での「わいわい組」の生活になるので、これまでの8人がいつも一緒、という集団から、4歳のらんらん、5歳のすいすいのお友達とも一緒になります。今日15日の朝のお集まりでは、5つのグループの中に混ざり合って座っています。お兄さん、お姉さんに囲まれて、仲間入りを果たしたことが、なんだか誇らしげです。この写真はその時の様子です。わいらんすいの朝のお集まりは2階のダイニングを使っています。

こうやって、少しずつ「進級」に向かって、新しい仲間との関係、人間関係の広がりが生じています。その様子を見ていると、頼もしさを感じるほど、子どもたちは前向きです。全く未知のものなら、知らないが故の躊躇が起きるかもしれませんが、きっとすでに見慣れた「もの」や憧れていた「人」や知っている「空間」なのでしょう、戸惑いもなく、新しい生活スタイルを難なく受け入れていきます。

4月から小学生になるすいすい組の昼食は、小学校の給食と同じ時刻に、にこにこ組の食事の場所で食べます。年長さんは、今週の卒園式を意識して、お集まりをするとき「卒園児のみなさん」という声かけをすると、「あ、僕達のことだよ」と、さっと起立して、「挨拶をしましょう、はい、礼」というと、ちゃんと揃ってお辞儀をしたりしています。このような「きちんと」という感覚も、新鮮に受け止めてくれています。素敵な小学生になりそうです。

こんなにスムーズなのは、当園が基本的にオープン保育だからなのでしょう。担任はいても、どの先生もどの子のことも理解しており、子どもの方も担任だけではなく、全ての先生との関わりを持っています。「他対他」のオープンな人間関係は、移行保育もやりやすいのです。

3階での生活が始まったにこにこ組 決まりについて

2021/03/11

2歳児クラスのにこにこ組が、3階で遊び始めました。この時期の「移行保育」で大切にしていることがあります。それは決まりを守ることを子どもなりに「納得する」ことです。私たちの生活には、いろいろな決まりがあります。そうした決まりに子どもが気づくとき、「あ、それは守らなくちゃ」と子どもなりに納得するような気づき方ができると理想的です。納得して決まりやルールを守ろうと思うようになるには、どうするといいのでしょうか。

決まりやルールには、「物」に関すること「事」に関すること、そして「人」に関するものがあります。

物に関するルールや決まりには、「ものを大切にする」「ものを壊さない」などの決まりがあります。それができるようになるには、その物への愛着から「なくなるとイヤだな」「壊れると可哀想」という気持ちから「大事にする」につながるといいでしょう。おもちゃや人形、絵本などを大事に扱うようになってほしいと大人は思います。

そのためには、まず「ものは壊れる」という事実を子どもが知ることが必要なのです。実は子どもはそこがわからないことが多いのです。大事にしよう、とか大切に扱おう、と伝えても「大事に」や「大切に」という言葉は抽象的すぎて、子どもにはわかりません。子どもは興味があると、それを触りますが、結構、手荒に扱います。本人はそれが「乱暴」であるとは思っていません。大好きはぬいぐるみを振りまわし、ちぎれてしまうこともあります。

ですから、壊れては困るようなものを子どもに与えておいて、壊されてしまって子どもを怒るようなことはしないようにしましょう。子どもは壊してしまうものだとまず思っておきましょう。

それでもある時期から、大事にする、大切にするという意味がわかるようになっていくのですが、その秘訣は子どもに「物の立場になってもらう」のです。ものへのケアです。子どもが物へ心を寄せるようなことができる中から、大切にしようという気持ちが育っていくでしょう。

もう1つの「事」への決まりやルールですが、これの秘訣は、それを守ることで「いいことがある」という期待が持てるといいでしょう。こんな話を満3歳ぐらいの子どもたちは理解できます。

「みんなは乗り物が好きだよね。自動車に乗るとね、いろんなところへ自由にいくことができるんだよ。いいでしょう。でもね、1つ守らないといけないことがあるんだよ。なんだと思う? それはね、信号を守るってことなんだ。信号を守らないと乗り物がぶつかって怪我をしてしまうんだ。みんな怪我するのはイヤでしょう。だから、車で自由にいろんなところにいくことができるように、信号を守るんだよ」

決まりを守ると、いいことがある。そういう体験をこの時期にはたくさんできるといいでしょう。決まりを守れば、手を洗って気持ち良くなる、食事の配膳をしてもらえる、外へ遊びへいくことができる、いろいろなルールは「楽しいこと」「嬉しいこと」につながっているんだ、と感じることです。

そして「人」への決まりは、相手が喜ぶということです。ルールを守ると相手が嬉しい感じ、それが自分も嬉しいと感じることができるといいのです。相手が困ることは自分もイヤだなという気持ちを育てることです。自分が良ければ他人のことはどうでもいいという心で止まってしまうと、決まりは生きたものになりません。

たとえば心がこもらない言葉は、ルールから心を奪ってしまいます。「ごめんね」を形だけで「言わせる」と、それを言えさえすれば、許してもらえる「魔法の言葉」になってしまいます。何か相手に悪いことをしたとします。条件反射的に「ごめん」と言います。それでは言われた方は、「いいよ」と許してあげたくなりません。するとまた「ごめんね」と言います。何度もごめんを繰り返すかもしれません。でも心のこもっていない「ごめん」は、「いいよ」になりにくいのです。

口ですぐに「ごめん」と言えることよりも「ああ、悪かったなあ」と思える心が先です。それがあれば、謝られた方も「いいよ」と許せるようになるのです。ここに心を通わせるという大切なものがあります。それがない社会的なルールは形だけのものになってしまうのです。

社会的な規範が成り立つのは、このように物、事、人との関係の中に、ケアリングと呼ばれる「心を配ること」ができる心の育ちが必要なのです。それがない社会の決まりは、形骸化したものでしかないでしょう。

移行保育の意味 発達の連続性を踏まえて

2021/03/10

年度が変わると、1つ上の学年へ進級するので、生活の場所が変更になります。4月1日から急に場所を変えてしまうと、慣れない場所での生活で戸惑ってしまうので、徐々に移行します。その時期の保育を「移行保育」と呼びます。年長児が午睡をなくしたり、1つ上のクラスへ遊びへ行ったりという「移行保育」は、1月ごろから徐々に目立つように進んできました。まず遊んでみる、食事をしてみる、そして寝てみるという3つを別々に経験していきます。そしてこの3月が最終的にこの3つを同時にやっていく最終段階になります。その後、4月に担任が変わり、新しい友達が入園してきて、移行は完成です。遊び、食事、睡眠、担任、新しい友達。この5つが時間差で新しくなっていくのです。

もう1つ、大切にしている考え方は、移行保育は一年中やっているというものです。どいうことかというと、それは「発達の連続性」というキーワードから導かれます。

園児は3月が最も年齢が高いのですが、4月になると最も低くなります。年長児が卒園していなくなり、0歳の赤ちゃんが入ってくるからです。こうして4月になると、どのクラスも1年若返ることになります。子どもたちは毎日毎日、少しずつ成長して、1年経つと1つ歳をとります。子どもの発達は、ゆっくりと進んでいきますが、一年でかなり大きく成長したことがわかります。この発達の過程に即した保育を「移行保育」と捉えることができるからです。

一年をかけて、その子の発達に合わせて、徐々に環境は変化し、子ども同士の関係も成長していきます。子どもの自立心も育っていきます。基本的な生活力も大きく伸びます。自分でできることもかなり増えます。たとえば、2歳児クラスは園児が6人に対して先生が1人の割合で配置されています。これを国の最低基準と言います。しかし3歳児クラスになると、一気に20対1という配置になります。それだけ、自分でできることが増えるからです。

したがって、注意しなければならないことがあります。それは、その都度の自立にふさわしいように援助を変えていくことです。いつまでも、幼いままの援助を続けてはいけないのです。大きくなっていくものにふさわしい大きな器を用意していく必要があります。その変化は、一年中実践しなければなりません。年度の切り替えの時だけ、急に変えるような保育では、子どもの実態にあった保育とは言えないものだからです。

移行保育は、3月の中旬から最終局面に入ってきました。

音楽と遊びの関係

2021/03/09

今日は噂の音楽隊(昨日のちっち・ぐんぐんのブログ)を見てみました。お昼ご飯が終わると、絵本や紙芝居を楽しむ時間があるのですが、お昼寝に入る前に歌を歌います。伴奏は先生のギター。その様子がとっても楽しそうです。子どもが歌を歌う動画が世界で人気ですが(先日も2歳11ヶ月の日本の女の子の「まいごのこねこちゃん」を歌う様子が可愛いと話題になっていました)、歌を歌ったり踊ったりするのは、これまた、とっても人間的な特徴の1つです。こんなに小さい頃から、音楽を楽しむことに、どんな意味があるのか、これまた議論が尽きないテーマになります。

歌を歌ったり、楽器を演奏しようとしたり、自然と体を動かしたりすることは、私たちは何も不思議に思いませんが、よくよく考えると、動物はそんなことはしないし、人間に最も近い霊長類もしませんから(似たようなことは一部しますが)、これも持って生まれたものだということになります。ただし歌や楽器などは経験的なものですが。そこで、音楽について保育との関係で考えられる意味は?と言えば、やはり「音楽」も典型的な「遊び」であるという話になります。

「ホモ・ルーデンス」を著したホイジンガは、その中で、「楽器を操る」という意味の言葉が、「遊ぶ」という言葉と同じ言語がいくつもあると紹介しています。ゲルマン言語やスラブ語、それからフランス語もそうだそうです。この本は遊びの文化的特徴をいくつも取り上げていますが、音楽は他の遊びの因子と同じものがいくつもあって、その1つが「リズム」や「ハーモニー」です。音楽が持っている遊びの要素に思いを回らし出すと、子どもにとっての遊びが心を育てる、心に響く遊びになっていることにも、納得します。

人間は太古の昔から、音楽とともにありました。音楽や踊りは目に見えず、石器や洞窟のように残らないので考古学的な研究が難しいと言われていますが、現代でも伝統的な生活を維持している民族で、音楽のない部族はありません。多くの哲学者や文学者が、この音楽の謎に迫りましたが、こんな小さな子どもたちがいろんな歌に夢中になって「楽団」のように遊んでいるなんて、とても稀なことかもしれませんよ。

お集まりと課題保育について

2021/03/08

保育園で子どもが生活している時間は、どのような時間的な流れで構成されているのか、少し説明します。今日8日は新年度へ向けた「移行保育」の一環として、3〜5歳の幼児クラス「わいらんすい」が、朝のお集まりを2階のダイニングで開きました。これから、この場所で続けます。

その様子を見ていて、「ああ、こんなに成長したのか」と実感したことが、いくつかありました。

(1)先生の方を全員が見ていること。今日は4人のお休みがあったので36人が集まっていたのですが、みんなよく先生の話を聞いていました。一斉保育と呼ばれる場面ですが、先生の話を聞くべき時は聞く、ということができています。

(2)年長のすいすい組の子が、リーダーシップを発揮していること。年少、年中、年長の3学年の子どもたちが、一緒に生活しているのですが、年長らしい育ちが明瞭です。3階から2階へ降りるために階段前での列の作り方を教えたり、グループ毎の移動で「こっちだよ」と伝えたりと、立派なモデルになっていました。

(3)目の目にゾーンがなくても、何をして遊ぶか決定できること。ここで生活してきた遊び方がよくわかっていて、自分がやりたいことを自覚できています。先生が文字で書いたゾーンプレートを説明するだけで、具体的な遊びをイメージできるようになっています。

(4)青、赤、黄、緑、ピンクの5色のグループに別れて座ったのですが、自分がどの色グループかで迷う子はいません。目標の色のポールがなくなっても、それで困る様子もありません。

このようなお集まりができるようになったことは、子どもたちの成長を表しているのですが、今日から早速、お集まりで「課題保育」を子どもたちが「選択」する流れがスタートしました。今日の課題保育は、新しくなった「制作ゾーン」の使い方を学ぶ、というものです。グループごとにそれを学んだのですが、それ以外の時間は、ゾーンの自由選択で過ごしました。課題保育で学んだことが、自由遊びの中で生かされます。課題保育での体験が楽しかったら、それをまた繰り返して遊ぼうとしたり、課題保育で身につけたスキルを他の時間で使ったりします。

このように、先生たちは、子どもたちの様子から課題やテーマを見出し、課題保育の中でふさわしい経験ができるように設定します。子どもたちは課題保育を経ることで、他の時間が充実し、より良い発達を促すことになっていくのです。

人類は共同保育の中で食べ物を分け合って進化した

2021/03/07

さあ、一体いつ頃から食事が「一人の方が気が楽だなあ」と思うような大人が増えてきたのでしょう。「こしょく」という言葉には、いくつか漢字があります。もっとも多く使われるのは「孤食」です。1人で食べる食事のことです。「個食」というのは1人ずつに分けられている配膳のことで、別々に食べることです。「小食」となると、少食のことです。少ししか食べない。「子食」はあまり使われないのですが子どもの食事のこと。そのほかにも「こしょく」はありそうですが、保育園の食事でとても大切にしているのが、共食です。一緒に食べること、家族でも友達でも誰かと一緒に食べた方が美味しいよね、という体験を大切にします。これこそ「孤食」の反対です。

今日の幼児クラス「わいらんすい」のブログで、友達と一緒の食べたい、隣に座りたいという子どもの様子が報告されています。このような気持ちが育てっていることに嬉しくなります。どこでも席が空いていれば、そこで1人で黙々と食べるからいいや、というのではなく、誰かと一緒に食べたいという欲求が自然と湧き上がるということが望ましいと思います。食事を美味しくいただくためには、「温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに」ということがありますが、それよりも、多少、冷めてしまっても、生温かくなっても、それよりも一緒に食べる方がいい、という心情が育ってほしいのです。

どうして「共食」にこだわるのか、というと、そこには「人間らしさ」の原点があるからです。人間が動物ではなく、人間らしくなっていった条件は、いろいろあります。二足歩行、火の使用、道具の使用、言葉の獲得、色々なことが言われていますが、進化人類学では「食べ物を分け合ったこと」と「共同保育」が人間らしさの決め手になったと考えられているからです。単純なことのようですが、実はヒト以外の霊長類は、食べ物は独り占めしますし、オスは自分の子ども以外は育てようとしません。人だけが家族を超えて村単位の共同体の中で食べ物を分かち合い、他人の子どもも育てあってきたのです。そこには共食とアロペアレンティングがあったのです。動物はできません。

ところが、食べ物を分かち合ったりせずに別々に食べるようになってきたのが、各家族が基本になった現代の都市生活者たちです。さらに戦後広まった3歳児神話が子育てから社会的親を排除してしまいました。そこで何が起きたかというと、人間関係の弾力性を育てる機会が失われていったのです。人間関係の弾力性というのは私の造語ですが「人間関係の希薄化」の反対の意味です。伝統的な社会では、食べ物が豊かではありません。基本的にひもじい思いをしていたのですが、それでも食べ物を分かち合ってきました。多くの兄弟姉妹が食べ物の奪い合いや、分かち合いの中で、喜怒哀楽の感情コントロールの体験が発生していたのです。

人間は生理的早産といって、脳の巨大化と引き換えに産道が通れるくらいの間に未熟児を多く産む進化を遂げました。その代わり父親の子育て参加が必須条件となりました。未熟児多産の戦略ですから、年子が多くなり、上の子は下の子が生まれると親から抱っこされなくなるので、そのころに脳は母親とのスキンシップによる愛情を我慢をしなければならない状態に置かれるのです。それが精神のたくましいレジリエンス(復元力)の獲得に繋がり、濃密な人間関係の中で育っていったのです。

下のグラフは脳の感受性(敏感性)の発達を表したものですが、ほとんどが発達のピークが1歳頃から始まっています。人との関わりの中で育つ「エモーショナル・コントロール」(感情コントロール)はピンク色の曲線ですが、ちょうど1歳半ごろに人間関係の体験があることが望ましいことが読み取れます。

現代は子どもの数は少なく、赤ちゃんの頃の人間関係の葛藤はあまりありません。満3歳から集団での体験が始まるので伝統的社会の人間関係の経験と比べれば、ずいぶんと遅い体験の開始になるのかもしれません。それでも保育園は人類が進化してきた人的環境に近いので、そこで育まれる友達との友情や喧嘩や仲直りや葛藤は、貴重な経験だと思います。そのワンシーンが食事の時にもみられるのです。

乳幼児はアクティブラーナーである

2021/03/06

人は一生、何かを感じ、考え、学び続けています。赤ちゃんから大人まで例外はありません。ただし学んでそれを身につけるとき、それがよく身につくためには、それを実際にやってみることが一番です。小学校以降の学習には、国が定めた学習指導要領があって、そこに学ぶ内容が教科と特別活動ごとに系統的に整理されています。文字を読めるようになったり書けるようになったり、九九を言えるようになったり、足し算や引き算ができるようになったり、いろいろな基礎・基本の学習が待っています。

その時、授業で教えてもらったことがよく身につくようにするには、知識だったらその知識を他の人に説明できるまで理解すること、技能だったら使ってみること、どうしてだろうという疑問だったら誰かと一緒に話し合ったり考えをわかり合ったりするといいのです。このような学習の方法を、「対話的で深い学び」と言われているのですが、いわゆるアクティブラーニングのことです。

年長のすいすい組10人は、あと1か月すると、小学校の学習で今いったような学習が始まります。保育園で行ってきた学びと何が違うのかというと、実はこの「対話的で深い学び」こそ、保育園で行っている遊びの中の学びそのものなのです。しかも、それは赤ちゃんからやっているのです。例を挙げてみましょう。

つい先日、すいすいタイムの様子がわらすのブログで紹介されています。みかんの缶詰ができるまでについて、子どもが「どうやって大きさの違いを分けているんだろう」と考えてみたり、きっとこうじゃないか、ああじゃないかと、語り合ったに違いありません。これは小学校でのグループ討議のようなものです。そして「そうか!」とわかったことを、子どもたちは誰かに話したがります。おうちの人に「ねえねえ、あのね、みかんの缶詰ってね」と話してくれたのではないでしょうか。学んだことを言葉で人に教えることは、人類が延々と営んできた最も得意な知識共有の手段でした。

学んだことを人に教えることは、知識の定着度が最も高いと言われています。その次に高いものが「自分でやる」というものです。これも赤ちゃんの頃から、乳幼児の独壇場です。なんでも自分でやりたがります。先生がちょっとでも面白そうなことをやった見せたりすると、僕もやる!と大騒ぎになります。私のすいすいタイムでも「わくわく実験」でもそうです。つい先日も、こんな光景をみました。

玄関先で自分の靴が靴箱から出ないので、お母さんが出してあげると、その子は<自分でやりたかったのに〜>と抗議の声を上げたのです。お母さんは、すぐにその気持ちがわかって「ああ、自分でやりたかったのね、ごめんごめん」と靴を戻してあげていました。子どものことをよくご覧になっているお母さんの、その応答的な対応は、まさしく子どもの自発性を損なわないで見守っていらっしゃいました。子どものことだからと、軽くみてはならないのであって、靴箱から自分の靴を自分で出して自分ではく、と言う意欲と態度は、学校での学習場面に置き換えるなら、自発的学習そのものです。

ヒトの脳は、何万年もの間、なすことを通じて学んできました。これはジョン・デューイが提唱した教育方法に極めて近いものなのです。彼の代表作『民主主義と教育』で「教育は、経験の意味を増加させ、引き続く経験の進路を方向づける能力を高めるような形での、経験の再構成または再組織化なのである」と述べていますが、この箇所は保育士試験に引用されています。

グループ討議、自分でやってみる、人に教える。この3つは学びの定着度が高い3方法だと言われています。私も聞いたり読んだり考えたりしたことを、こうして自分の書き言葉に置き換えるとき、知識の再構成や再文脈化が起きています。

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