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園長の日記

マルクスと保育の交差点

2021/01/22

午後のおやつの時間に「園長先生!」と後ろから声をかけられました。調乳室から事務室へ戻ろうとした時です。<ん?誰だっけ?>と、ちょっとびっくりしました。<ここは、ちっち(0歳児)とぐんぐん(1歳児)なんだけどなぁ、こんなにはっきりと、「 エンチョウセンセイ!」と言えるのは、<あ、そうか、お手伝いに誰か来ていたのか>と思いながら振り返ると、そこにいたのは、ぐんぐんのYちゃんではありませんか。「え?今、園長先生って言ったの、Yちゃん?こんなにはっきりと言われたのは初めてだなあ」と応えました。こんな時、子どもの成長を感じます。すごいなあ、と思いました。

そしてこんなことに気付かされます。これが人間の最も基本的な挨拶というものなんだろう。園長先生と声をかけたくなった気持ちがあったから名前をよぶ。それがまっすくぐに伝わってきます。別に声をかけて、何か特別に伝えたかったことがあるわけではなく(あったかもしれませんが)、名前を呼び合うということの中に、通わせたい気持ちがあるのは間違いないのです。この感触をお伝えするのに、わかりやすい話はないかなあと考えると、そう、あれです。好きになったもの同士が、相手と自分の名前の呼び方を共有し合いたいという気持ちになる、あれです。

「なんて呼んでほしい?」「・・・◯○ちゃん」

「わかった。◯◯ちゃん・・・」「・・・・❤️」

いえ、別にこんな話まで持ち出さなくてもいいのですが、気持ちを通わせるということの原型があるという話をしたくなったのです。もっというなら、名前も言葉もいらないかもしれません。目と目だけでも、気持ちを通わせることができます。一緒にいるだけでいい、ということが人間の欲求の根底にはあるでしょう。そういうものの育ちの姿を微笑ましく感じる瞬間というものが、私を呼んだYちゃんの声には感じられた、という話です。この気持ちの流れ合いを家族の中にもちづづけてもらいたい。ちゃんと挨拶ができる、ちゃんと何かができるという以前の、もっと大切な気持ちの息遣いを感じ合うアンテナを育てましょう。

午前中には、Kくんと一緒にいる時間がかなりありました。彼が大好きなYくんと気持ちの行き違いが生じて、辛い気持ちになり、彼の話をずっと聞いてあげていました。彼がいうには「Yくんに、あそこで2回、きらいって言われたの」と涙をこぼします。「それが嫌だったんだね」「うん」。そして同じフレーズを繰り返します。Yくんは「(Kくんが)怒ったのが嫌いだった」のですが、Kくんにとっては「きらい」と言われたこと自体がショックだったようで、ここに気持ちのすれ違いが生まれていました。いわれたKくんには、その違いが届いておらず心が傷つてしまいました。担任にそれを伝えると「ガラスのハートだから」と同情していました。どっちが悪いとか、こうすればよかった、とかいう話でもありません。人間である限り、このような行き違いやすれ違いをなくすことは不可能です。それがないように、繊細な神経を張り巡らして生きていくことも無理です。またもっと図太い神経を持つようにと願うのも違うような気がします。

私は切ない思いを感じた彼の気持ちがどのように育っていくのか、どんな歩みを見せてくれるのか、それをそっと待ちたいと思います。上手に折り合いをつけるだとか、挫けずに強くなれだとか、もっと優しく言おうだとか、いろんな「よかれ」を思いつき、言葉にしてしまうものでもあります。それもまた仕方がないことも分かります。しかし、です。この気持ちそのものを、もっとジックリと、しっかりと見つめてあげましょう。すぐに行動を促すのではなくて、その感情と認識の近さとか、鼓動の音とか、涙が溢れる瞬間と言葉の関係とか、そこにとても豊かな心情が息づいていることの素晴らしさを、もっと認めてあげたいものです。保育とマルクスの交差点もここにあるはずなのです。

就学を目前にした年長さんの育ち

2021/01/20

二十四節気でいう大寒の今日1月20日(水)、感心する子どもたちの姿を目撃しました。3階の幼児フロアで朝のお集まりが始まろうとしているときのことです。私が運動遊びを見守った後で、お集まりが始まろうとしていたとき、年長のKくんが年少のSくんに「Sくんはお当番だよ、お集まりが始まるよ」と声をかけていました。すると高い塔がまだ完成していないSくんは「もうちょっと、待って。これをやったら・・・」ともう少し遊びを続けます。それを受けてSくんはKくんの積み木づくりを手伝います。その手伝い方に感心したのです。

それは完成させることを手伝いながらも自分で遊びを区切り方を促すかのように、塔の頂上に乗せる最後の三角の積み木は「これ」と渡してあげていました(上の写真)。まるで私たち保育士がよくやるのですが、最後の美味しいところは自分でやって達成感を感じるように援助するということと同じだったのです。

例えば「衣服の着脱」という自立を育てるとき、靴をはく、ズボンをはく、などまだ全部を自分でできない頃には、できないところは手伝っても、最後は自分で「やった」「やれた」という気持ちになるような援助を心がけます。できた!食べた!やれた!という気持ち(心情)を持って終えることで、また自分でやろう!という意欲につながっていくからです。

年下の子どもの気持ちに共感し、その気持ちを理解しながら、援助していました。特にあれこれと言葉で言うことはありません。これが「見守る保育」の基本です。このように年長さんの年下の子どもへのお手伝いの姿を見ると、家庭も含めてこれまでの異年齢生活の賜物だなあ、としみじみと思いました。子育てにおいて大人も見習ってほしいものです。

お集まりが始まって出席を取るときも感心することがありました。その日の「出欠をとる」のは、数を確認するのが目的ではありません。お休みのお友だちの顔を思い出し、その子のことを思い浮かべ「どうしているのかな」と想像することが「出欠をとる」ことの目的です。

各グループの年長さんが「誰と誰がお休みだから何人です」のような内容を報告するのですが、そのやりとりを見ていると「お楽しみ会」でやった劇遊びのセリフを思い出しました。劇遊びで培った集団の中で役割を持った会話パターンを、このような集まりの中に応用しているかのように見えました。

小学校ではこのような場面が増えます。「他人が喋っている時にはそれを聞くようにする」ということが必要になります。お集まりは年長さんのその様子を年中、年少のお友達も身近にする機会にもなっています。気づきにくい集団の育ちですが、とても大切な大きな成長です。

「心からのお願い」のココロは?

2021/01/19

「園長先生、先週のブログを読んであれは私のことでしょうかと、心配されている保護者の方がいらっしゃいますよ」と、先生から話がありました。14日(木)に書いた「園長の心からのお願い」に対するものです。実はそのように担任に相談された方に限らず、15日(金)の朝には「大丈夫ですか?読みましたよ。何かあったんですか」と声をかけてくださった方もいらっしゃいました。他にもあのブログの内容について、<つまり、あのココロは?>と思われた何人かの方と、立ち話をしました。「ごめんなさいね。ちょっと書きすぎました。何のことかわからなくなってしまったかもしれませんね」と申し上げました。改めて説明しておく必要がありそうです。

お願いの趣旨(ココロ)は・・・

「緊急事態宣言が出て、これまで以上に不安が募る保育現場の中で頑張っている保育園、及び保育者を守ってほしい、支えていただきたい」

ということです。

いま在園している保護者の方の誰かを念頭に置いたものではありません。そういう場合は直接、その方とやりとりすればいいだけです。他の皆さんに語りかける必要はありませんから。

しかし、あのタイミング(宣言発出から1週間後)で上記のお願いをしたのは、皆さんと、ある思いを共有しておきたかったからです。それは年明け1月2日のブログで書いた「労り合いの気持ち」です。今後の展開次第では、最悪の場合、保育園から陽性者がでて臨時休園になってもちっともおかしくありません。近隣の区でそういう事態がすでに実際に起きており、突然明日から保育園が閉まります、ということになるかもしれません。

その時、どんなことが起きているかというと、当事者(保護者や職員)が責任を感じてしまい、そのダメージは相当なものになっているのです。緊急事態宣言から発出されて1週間たったときでも、今は「緊急事態なんだ」という意識が世の中に薄く、私は「これはまずい」という危機感に襲われました。そのことは15日(土)のブログに述べた通りです。保育園の職員の意識と周りの方の意識のギャップです。

14日の「お願い」では、子どもの保育が保護者に向けられるサービスに変質していった過程にまで遡って述べたことが分かりにくさの一因になったかもしれません。その過程を書いたのは私の中に「やってあげる丁寧な保育」の落とし穴と「危機の時でさえ、いつも現場丸投げ」の厚生労働省への不信があるからです。保育園を脆弱な構造のままに放置しておいて、児童福祉施設だから何があっても閉めない。そのアンバランスさへの憤懣です。もちろんコロナ対策の不作為への疑惑もそれに拍車をかけているわけですが。

アロペアレンティングが必要になったことと子どもの自立度の現状は、時代と社会構造の変化が原因であって、それをどうにかしてほしいと「お願い」しているのではありません。ただ、このような善意と奇特さに支えられている保育園の現状を理解しておいて欲しかったのです。先生たちの頑張りと不安感を前にして、悔しい気持ちを抑えられなくなったのです。そういう気持ちになるようなきっかけがあったのは事実ですが。ここが誤解されてしまったかもしれません。

月にのぼる者

2021/01/18

今朝、年長組のJ君が事務室にやってきて「園長先生、将棋やろう」というので3回ほど指しました。びっくりしたのは12月に初めたばかりの将棋を、もう立派に指しこなしていたのです。全てコマの動きを覚え、三手先(自分が指す手の後で、相手がきっとこう守るだろう)を考えています。大したものです。子どもの上達は早い。この学習速度は大人はかないません。こうして文化的実践力を身につけていくことは「豊かさ」に他ならないでしょう。将棋に限らず碁でも、チェスでもオセロでも構いません。体操でも英語でもバイオリンでも習字でも算盤でも、その文化的な共有資源につながっていくことは、その人が豊かになっていくことと言えます。

この遊びや保育の話を、昨日の話と繋げてみましょう。

豊かな保育とは何かを考えるヒントが、マルクスのいう「富」の考え方にありました。マルクスは富とは空気や水や公園や図書館やコミュニケーション能力などの例を挙げ、全てはお金にならない社会的な富であるとしました。自然の豊かさもそうでしょう。人間的豊かさも入れていいのでしょう。人が自然界のものを取り入れて、つまり食べたり飲んだり息をしたりして生きているわけですが、その結果がまた自然に戻っていくサイクルがあります。そのやり取りの過程に「お金」は介在しません。しかし市場(マーケット)が成立すると、なんでも「商品」に変わっていき、お金で手に入れることができるようになったのが近現代です。

富と商品は本来、別のものだということです。空気はまだ商品になっていません。水はすでに商品になってしまいました。なんでも商品になってくると、それを「買える」お金をたくさん持っている富豪が「豊かな人」だという錯覚に陥ります。本来の「富」は、お金で買えないものがたくさんあるのですが、それを手に入れようとする時に、お金で買うということで手に入れようとする態度に違和感を感じる原因はここにあります。富と商品の混同が生じているのです。

昨日17日のNHK「麒麟がくる」第41回「月にもぼる者」には、この「富は金に変えれない話」の例がたくさん出ていているように見えて興味が尽きませんでした。松永秀明が命の次に大切にしていた茶道具「平蜘蛛」を、光秀から譲られた織田信長が「なんとも厄介な平蜘蛛じゃなあ。いずれ今井宗久にでも申し付け、金に変えさせよう」と言い放つ場面。予想だにしなかった趣旨返しに光秀が驚愕しているのは、平蜘蛛を持つ者は「誇り高く、志を失わず、心美しき者であるべき」という富の話だったのですが、それを商品を扱うかのようにしたからです。

皆さんは空気が商品になったらどうしますか?それは困ると思いませんか。でもすでに土地は商品(不動産)になって久しいですし、水もペットボトルで買う経済にすっかり慣れてしまっています。地球資源がなくなれば、まだ誰のものでもない月も新しい植民地となるのでしょう、21世紀の帝国主義争奪戦がすでに始まっています。戦国時代はまだ、月を手に入れる話は寓話でしたが、今は現実になってしまいました。月も商品になる日が近いのです。昔から言われてきた「月に手を出すな」を言い換えると、「月を商品にするな」だったのですね。月を見て歌を詠んでいる豊かさの方が、本物の「富」ではないでしょうか。

未来の社会を創り出す

2021/01/17

◆2つの自由

先日、NHKの「100分で名著」に斎藤幸平さんが出ていました。マルクスの「資本論」を解説していたので、思わず見入ってしまいました。そして、そうか!と思ったこと。それは、なぜ、どんなに豊かになっても労働が楽にならないのか?なぜ人は働き続けなければならないのか?なぜ労働時間は短くならないのか?その理由を、マルクスはすでに資本主義の中の2つの自由に見出していたそうです。

◆生産手段の喪失

それは「強制労働からの自由」と「生産手段からの自由」です。なるほど、と感心しました。と同時にドキッとしました。生産手段からの自由というのは、それは「生産手段の喪失」ということです。私たちは、生きていくために必要な衣類も、食べ物も、住む場所も、全部手に入れる手段としての「生産」を奪われている社会なのだということです。働いてお金を稼いて購入しないと手に入りません。自給自足の生活はできません。

◆強制労働からの自由

強制労働からの自由というのは、奴隷のような労働からは解放されているということです。私たちはある程度、自分で職業を選択しています。番組でも「労働者は自分の労働力を誰に売るか、あくまで自発的に決めることができます」と説明します。しかし、生きていくためには労働力を売り、賃金を得なければなりません。マルクスは資本論でこう書いています。

「自由な労働者は、自分の必要に駆られて労働する。自由な自己決定、すなわち自由の意識やそれと結びついている責任の感情は、自由な労働者を奴隷よりも遥かに優れた労働者にする」。

仕事を失ったら生きていけないとい恐怖、自発的に選んだという自負、職責を全うしなければいけないという責任感。労働者を過酷な労働に縛りつけるのは2つの自由だったというのです。このカラクリから抜け出せないのは、資本とお金の仕組みからきます。

◆母なるガイアから締め出された私たち

この話を聞きながら、私はこう思います。私たちはそもそも地球で発生した生命の子孫なのですが、その母なるガイア(地球)に生息するために家賃を払わなければならなくなった先祖は、つい最近のことなのです。どこかに住むために、資産家でもない限り、みんな家賃を払うために働いています。そうなってしまっているのは、公的空間だった地球という場を、つまり誰のものでもなかった自然の土地が、近代国家の成立の過程で、誰かの私有地か国家のものとして「囲われていった」からで、私たちのどのかの先祖が、そこから追い出されたのです。私たちは国家権力から土地を奪われた先祖の末裔でしかありません。

そうして、生まれついた時から、それが当たり前だと思い込まされているので、自然の土地が、売買できる誰かの私有財産としての価値に置き換えられていったので、生命の保持のために住むところでさえ、労働を売って得た賃金で購入、ないし借りなければ生活できなくなってしまったのです。これって、本当はおかしな話なんだと理解してから、でも歴史的にそうなってしまった経緯を理解しておくことは重要だと思います。

◆不安定は仕組みである資本主義

そう考えてみれば、資本主義という社会はとても不安定な社会だとわかります。生産手段を奪われ、奴隷よりも自発的にせっせと働く勤勉で優秀な労働者。資本家にとってはこんな都合のいい仕組みはありません。確かにコロナ禍でまさか「マスク」も「アルコール」も手に入らなくなるとは思っていませんでした。地震や火事に備えて私たちは「防災訓練」をしているのに、「感染症対策訓練」はやってきませんでした。保育園でも毎月、腸内検査をしてそれが陰性でないと調乳や調理はできません。検査会社は自由に保育園が選びます。食中毒の予防からです。コロナ感染対策も同様にすればいいだけの話です。もっと現場から知恵をあげて、それにみあった法律の中で対処するべきです。ことを大袈裟にしておきながら肝心な対策をしないように見えてしょうがないです。話を戻しましょう。

生産手段を民主的に取りもどす

そうすると、将来の持続可能な社会のためには「生産手段」を民主的に取り戻し管理することが必要となります。政府や大企業だけに、その方針を任せておくわけにはいきません。経済を回すために「価値」を生み出すための経済のあり方を見直する必要が出てきました。本当に生活に必要な「使用価値」だけを生産する働き方に変えないといけません。

使用価値を生む仕事とは、起こりうる危機に備えたものを優先させます。例えばコロナ禍で言えば「新しい生活様式」に必要なものになります。そこにはもちろん医療の充実も含まれます。仕事はエッセンシャルワークを柱にすえます。創造的な仕事になるように分業的な働き方を求めません。生産性の向上による競争をやめるために、環境保護のアジェンダと連動させた大胆な政策を導入します。そして衣食住に必要な生産と暮らしの場をできるだけ接近させることにアイデアを出しましょう。

労働時間の短縮を大胆に進める

ちょうどフィンランドが労働時間を週30時間に短縮しようとしています。日本でもその選択制を導入しようという議論が始まりました。私の考えは、EUが追求しているように、子育てと仕事を両立させるために、週30時間だけ保育園に預けるぐらいがいいでしょう。保育者も週30時間勤務に変えます。都市部の職住分離をテレワークが補いながら、勤務時間を削減します。人流の少ない地方はコロナ禍のリスクも低いので、自動運転革命によって、高齢になって都市回帰を求めなくてもニュータウンに住み続けることが可能になるようにします。

都市と農地が接近し地産地消の割合を増進させる

社会を再生可能で持続可能なエネルギー構造に転換させる必要がありますが、大規模な分配方式ではなくて、自立した地域を多元化させます。ローカルな場所から実践する。政府や大企業を動かそうとしないで、市民が小さなモデルを勝手に作り始めるといいんです。小さくても数が増えること、政党がこうした未来型の政策を取り入れるようになるでしょう、きっと環境問題がそれを後押しするようになると思います。

「幸せのエプロン」へ

2021/01/10

 

わたしたちの生活のなかでも一番大切なベースの部分。それはちっち組、ぐんぐん組の子どもたちが思い出させてくれること。「一枚のエプロン」をめぐる子どもたちの関わり合いの中に、自分の気持ちと相手の気持ちを推し量ることができるようになっていく絶妙な距離感を学んでいる。そんな心が育っているようだ、という「ちっち・ぐんぐんのブログ」の描写を読むと、私たち大人がやっていることに気恥ずかしさを覚えてしまいます。明日は「成人の日」。成長するとか、大人になるとか「何がどういいことなんだろう」と考えてしまいます。

先だってここの日記に幸せの3条件の話を書きましたが、上記の乳児の中に見出す姿は、この3条件を学んでいるようにも見えます。3条件を短く要約すると「①やりたいことができて、②それが利他的であり、③心地よい関係を作る」と幸せですね、いうことです。子どもたちは「一枚のエプロン」が「幸せのエプロン」になる方法を学んでいるかのようです。まぁ、幸せだなんて滅多に口に出来るものではないんですが、映画広告のサブタイトルみたいに「原題のまま無い方がいいのに」と思うアレだとご理解ください。

「エプロンをつける」ことは、自分で自分につけることも相手につけてあげることも、どっちにしても①の「やりたいこと」なのですが、相手につけてあげる場合は、それが利他的であるか、ただの我儘でしかないかを、相手の気持ちを察しながら判断していくところが大事な育ちになります。なので②と③がセットになっているのがミソですね。そこに体験の価値が見出せます。

自分もやりたいことができた!同時に相手も喜んでくれている!ね、よかってね!この3つが揃って初めてハッピーですからね。

ところが、やりたいことはやれた、でも相手が嫌がっている、それじゃだめだよね。そうやって相手のことを感じている。これを感じあって判断している。そんな子たちの姿から先生は「ひとはもともと助け合おうとする力を持っているのだということを思い出し」ています。だから「お互いに補完しあって協力していくこと」が生活の中でも一番大切なベースの部分になっていると感じるのでしょう。

物事に何を付け加えたらもっとよくなるだろうか。足りないものがあるとしたらそれは何だろうか。相手が求めているものは何だろうか。地球が困っていることは何だろうか。・・こうした「他者のこと」から始まって自分のやりたいことを考えるのがケアの本質(メイヤロフ)であり、養護の営み(鯨岡)であり、情緒を大切にする日本文化(岡潔)に通じるはずです。

教育的な側面があるとしたら、先生が書いているように「相手がどう感じているかな?ということにも目を向けていけるように関わって」きているところになります。そんな関わりが起きやすいような人や物や空間の環境デザイン(藤森)とセットになったときに、いわゆる「見守る保育」になっていくのです。いわゆる、と言ったのは実はこれが本来の「保育」そのものなのでした。

今年の一文字は「快」を抱負に

2021/01/05

4歳になったばかりの男の子から、たくさんのことを教えてもらいました。その子の持っているその知識は私のものを超えていて、「興味のあることはこんなに世界をキラキラと輝かせるものなんだなあ」と羨ましいほどです。人には興味の先に気づきや発見が待っていて、そこから世界が広がっていくのです。その広がり方は、知識だけではなく、実際に行ってみたい、見てみたいという行動も促します。これは強い。実体験を伴いながら広がっていく世界。みんながこのように生きていけたら、素晴らしいだろうと思いました。

私は今年の抱負を漢字で「快」という一文字にしました。子どもも保護者の方も、そして先生たちも一人ひとりが心地よく過ごせるようにという意味です。快い気持ちでいることを平凡と受け止めるか、それとも、それを抱負とせざるをなない逆説と捉えるか、あるいはもっと哲学的にエピクロスが唱えたようなアタラクシアの境地を目指す意味なのか、受け止め方はさまざまかもしれません。でも私は、自分で名付けた「幸福の3条件」の前提だと思っているのです。

今日5日の新年会で、この意味を説明しました。新年会と言っても午後の休憩時間に職員が5〜6名ぐらい20分ぐらい集まって開いた慎ましやかな茶話会でしかありません。それぞれが今年の抱負を漢字一文字で表して述べ合う時間です。私は常々、人が幸せに生きるには、3つのことが必要だと考えています。それを幸福の3条件としているのですが、それは次の3つです。

まず自分のやりたことができることが第1の条件だと考えています。それは仕事であろうと趣味であろうと関係ありません。好きでもないことをやり続けてもそれは満足できないからです。その欲求の強さについては、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスから学びました。人は死に直面して自分の人生を振り返るとき、多くの人が「本当は、こんなことをしたかった」と後悔するそうです。

幸せの第2の条件は、好きで選んだ仕事や活動が、他者にとっても意味のある何かになっていることです。利他性があること、あるいは自分のやっていることに社会的な意味を感じること、もっと平たくいうと社会の中で「やりがい」や「手応え」を感じることです。起業家は「志」がなければ、その実現に向けた努力を支えることもできません。金銭的成功や社会的な名誉欲などを得ても、虚しさを拭い去ることができないものだからです。人は社会的な動物なのです。やりたいことが人のためであるような仕事につけたら幸せです。エッセンシャルワークもそのような仕事としては、わかりやすいものです。

そして幸せの第三の条件が、身近な人々との心地よく過ごせることです。家族や友人、会社や地域の人々と心を通わせ、愉快な時間が共有できることです。この3番目のことはとても大切です。一番目の自分の夢、2番目の社会的貢献、それぞれを夢中で追いかけることはいいのですが、そのプロセスで3番目を軽んじる人と会うと、その独善性に嫌気が指します。社会的に本当に一流の人とは、第3の条件から見てもおおらかでユーモアに満ち、一緒にいることが快いものだからです。

実は、子どもは生まれながらにして、この3番目の達人かもしれないと思う時があります。面白いことが好きで、楽しいことに目がなく、喧嘩をしても根に持ちません。喜怒哀楽がはっきりとわかりやすく、心根がまっすぐです。このまま、真っ直ぐに社会性を身につけてくれたら、どんなにいいだろと思います。大人になるというのは、この子どもの心を失わずに社会性を身につけることが理想だなと思います。子どもたちと心を通わせていると、己の心情をもっと磨きたくなります。子どもは大人を謙虚にさせてくれます。

元旦に考えるこれからの保育の価値

2021/01/01

2021年元旦。21世紀も5分の1が終わり、新しい10年が始まりました。昨日の大晦日に全国で4515人、東京で1337人の新規感染者を記録した新型コロナウイルス第三波の真っ只中で迎えることになった新年初日は、家で静かにスタートです。年末に済ませた幸先詣というのも、初めての体験です。大晦日と元旦の時間の違いから感じた違和感がありました。それは無事に一年が終えられることへの感謝の参拝と、年が明けておめでたいという気分で行う参拝との違いです。でも神と対話する窓口とチャンスはどちらでも同じでした、少なくとも私には。多分自然のあらゆるところに神を感じる汎神論の日本人にとって、多くの人がどちらも受け入れるのではないでしょうか。

これを機に、働き方も休暇の取り方も分散化したらどうでしょう。大打撃の旅行業界のためにも、GWだとかCWだとか繁忙期と閑散期が周期的にやってくる旅行のシーズン化はやめにして、移動の平準化を、経団連かどこかが旗を振ったらどうなんでしょうか。マイクロツーリズムのアイデアもうまく機能しなかったのももったいないことでした。都道府県のガバナンス力を今よりも遥かに向上させないとうまくいかないこともわかりました。

新型コロナの問題は、回答のない試験問題だと考えると、同じ問いを世界中に問いかけていることになります。これは学校が育成する「学力」が最も苦手な問題です。この試験問題は、制限時間がありません。ただし時間がかかると生存が脅かされます。カンニングも話し合いも投資も全てOKなのですが、こうした課題を解決できるかどうか。それは私たちのこれまでの「生きる力」や「教育の成果」や「知性全般」が試されています。学問や科学や哲学や政治の本当の力が問われています。

昨年は「不要不急の用」とは何かをよく考えました。ほとんどのことが不要不急かもしれないと思えました。同じように感じている人が増えたのでしょう、市場や資本主義を問い直す議論も増えました。これはいいことです。人類の持続可能性と気候問題の視点から、資本主義と経済成長を問い直す生き方の模索も若い人たちの間で始まっています。そういう意味では、エッセンシャルワークである保育は、市場サービスという交換価値にしてしまってはいけないのです。保育は必要だからあるという使用価値そのものだということを明確にし、その理解を行政担当者を含めて関係者が共有することが大切なのでしょう。

保育とは、子どもたちに正統な文化的実践を見せていくこと、その体験ができるようにしてあげること、そういう実践に興味や関心を持てるような環境や生活を用意することです。それらとの出会いの架け橋役が保育者です。ですから私たち保育者は、何が望ましい生活なのかという価値判断の専門家である必要もあります。そのために未来にふさわしいものを探し出し、実践したいと思います。

今年を振り返るとしたら

2020/12/31

毎年、年末になると一年を振り返りながら、なぜか何かに「感謝」したい気持ちになります。また仕事から離れて、家族と一緒にいる時間がたっぷりとあるのはいいものでしょう。でも子育てをしている頃は、ある意味で何をするにも自分のことは後回しになることが多いので、親の勤めを果たすことで「いっぱい、いっぱい」だっとような気もします。常にやることがあって待ってくれない時間の連続ですからね。じっくり何かを考えるなんてこともなかなか出来ません。

一昨日、27歳になった子どもに「どうしてあの園を選んだのか?」と聞かれて「その頃は、まだお父さんの園がなかったからだよ」と答えました。でも、いろいろ考えました。私も若い頃の考えと今とはかなり違います。その園がとても研修に力を入れていたことを思い出しました。でも本人は園生活のことをほとんど覚えていないらしく、親から話して聞かされたことが園生活の記憶になっていると言います。そういうものかもしれないと思います。

しかし、本人が覚えていなくても、確実に大切な体験というものがあって、それが後々にまで影響を与えることは間違いありません。他人や社会への信頼感、自分への肯定感、自信、他者との心の交流で育つ様々な心情。センス・オブ・ワンダーを伴うような物事への興味や関心の広がりなど、乳幼児からの体験の質の違いは、育ちに影響します。

同じ観葉植物でも植木鉢を大きくすると、大きく育ちます。それに似ているかもしれません。その根っこの部分は本人が知らなくてもよくて、それに見合った幹や葉っぱや花や実になるのかもしれません。その根っこの部分というのは、人間の場合、脳や体幹など心身の基盤と言われているものになるのでしょう。そんな根っこの部分を本人が覚えていないのは当たり前でしょう。脳が自分の育ちを意識化できようになる前の育ちなのですから。

人には思い出したくても思い出せない無意識の領域というものがあって、きっと一年をどんなに具に振り返っても、思い出したくないものは意識できないようになっているのかもしれません。その方が健康にいいということもあります。また思い出せないからといって、たっぷり時間をかければ思い出せるかというと、そういうものでもありません。それは何年経っても思い出せないものは思い出せないものなのでしょう。

さらに絶対に思い出せないことがあります。それは元々、気づかれていない物事です。もともと再生される対象にすらなっていません。思い出したい「思い出」になっていないことは、無かったことと同じです。体験がないことは無と同じです。人は体験すること、つまり育つ部分を使うことで発達します。その体験がないなら育ちようがないのです。思い出すかどうかということの以前の問題なのです。

ところで今年を振り返って思い出すべきことはなんでしょう。それは未来に影響すること、これからの生活に影響することです。教訓として明記しておきたいものですが、その1つは新型コロナウイルスや気候変動が教えてくれたことです。自然と人間の関係に関するものです。私たち人間も自然であり、種として必ずDNAを残しながら個体は死にます。人間はその自然から飛び出した部分を持ってしまいました。それが理性であり自意識です。思い出もその1つです。

その理性というかロゴス(悟性)の部分が、地球上で持続可能な生存を脅かすほどに自然とのバランスを壊し尽くそうとしています。その現象の1つが埋もれた病原体を際限なく再生させたり、地球温暖化などで自然を破壊しているのです。こんな時代を地質学上の学名で「人新世」と言います。自然と理性とのバランスの回復を描いた物語は、例えば宮崎駿の「風の谷のナウシカ」です。ナウシカがやったことを、大人は真似しないといけない時代なのです。

そんな時代に突き進んでいく原動力となっているのが、経済成長を疑わない資本主義経済の暴走です。とにかく売れるものを作り出して経済を回すことを最優先させざるを得ない経済の仕組みです。これを変えるのは、とても困難なように思えますが、脱成長経済への大転換を早期に果たさないと「引き返せない地点」はもうすぐです。その地点とは、10年後、2030年ごろですから保育園を卒園する子たちが高校生になる頃です。

このことを身近な人の死を通して告発したのが今年という年でした。また脱成長経済を目指すべきだということを明確に説明してくれているのが斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』(集英社新書)でした。園だより1月号でも書きましたが今年の教訓は、どうしてもこのことの「気づき」から、物事を組み立て直していくしかないように思えます。

鬼滅の刃が大ブームになった年ですが、鬼は人間が作り出す格差社会だったりします。あのアニメから、今の時代に相応しい社会のテーマを導き出すのは難しい気がします。間違っても地政学的な敵を作ってそれを鬼扱いだけはしないようにと無用な心配をしてしまいました。

 

「人新世」時代の保育とは?

2020/12/25

園だより1月号 巻頭言より

 

昨年1月の巻頭言の書き出しで「今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります」と書いて、見事に外れました。その文章のすぐ後に「この一年でさえ、どんな年になるのかわからない」とも述べていますが、その数ヶ月後に「コロナ」でこんな一年になるとは、誰も想像していませんでした。何が起こるかわからない時代にすでになってしまっています。こんなとき、私たちは何を指針にして物事を考えるといいのでしょうか。

経済思想家の斎藤幸平さんは『人新世の「資本論」』(集英社新書)の中で、人間の今の経済活動のままでは地球環境を破壊してしまうと警鐘を鳴らしています。「人新世」というのは、これまで人類は大いなる自然から影響を受けて生きてきましたが、今の時代は人類が地球規模で自然を変えてしまっている時代になっているという意味です。このままではコロナ禍をはじめ気候変動や食糧危機などを招いてしまうので、なんとしても脱経済成長、脱成長コミュニズムへと転換する必要があると提唱しています。

この考え方には、何が成長なのか、何が進歩なのか、あるいは何が善きことなのかを考え直すことも含まれています。その価値転換が先にできないと、今の仕組みを回している大きなモーメントを「ずらす」ことはできないでしょう。例えば「経済の成長なくして財政再建なし」と言われれば、多くの人は「そうだよな」と思ってしまうからです。経済を成り立たせている下部構造(マルクス)の仕組みをどのように転換していくのか、その経済と暮らしを持続可能なように描き直す作業が、どうしても必要なようです。

でも、そんな大きな話と日々の暮らしをつなぐための「物語」が欲しいと思います。発想の転換という意味では、労働と余暇という区分けではなく、働くことが楽しみや喜びとなるような生活への転換、時間で測定される対価から、共感と貢献を実感できる価値社会への転換、そういった働き方や生き方への転換を考えていきたい。仕事がアートになったり、勤労が精神性の開発につながったり。あるいは生産結果の効率追求の競争から、生産プロセスの中に価値を見出せるような活動への転換です。

このことを「保育」という仕事で実践するとどうなるのか?きっと人新世の「保育論」が必要になるでしょう。その具体的な実践を面白いと思えるような一年になるといいのですが、どうでしょうか。

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