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園長の日記

第4回 全国実践研究大会in仙台

2024/08/10

保育環境研究所ギビングツリー(藤森平司代表)の「全国大会」は、仙台市の「仙台見守る保育の会」(現在21の園が参加)が主催しました。年2回開催している全国大会は今回で早くも4回目です。初日の8月9日(金)は午前9時から8つの園が保育を公開し、たくさんの見学を受け入れてくださいました。参加園は北は青森から南は沖縄まで約80の園が参加する活気溢れる大会でした。

初日の午後は藤森代表の基調講演でしたが、話の前半は「やってみて確かめる」繰り返しの中で作り上げてきた保育実践を振り返りつつ、OECDの報告書などに触れながら、今後さらに乳幼児教育の質が問われる時代になっていくこと、そのために私たち乳幼児の保育の関わる者の役割が大きいことを話されました。

内外の最近の代表的な報告が紹介されましたが、そのうち、たとえば国が令和の教育改革で「個別最適な学びと協働的学び」を目指している中で、幼児教育がそのモデルになりうることに注目を促しました。また最近の国の子ども政策がどうしても子育て支援に偏っていることに懸念を示し、優れた実践を学び合い発信していく必要性に触れました。

記念講演は、自分らしく生きることを人権とダイバシティの観点からアーティストとして講演活動などもしている歌手の天童清貴さん。前半はお母さんも一緒に登壇いただいての座談会でした。ご自身のセクシャリティに悩んだ話とその葛藤を乗り越えて今の心境に至っている親子のストーリーを聞かせていただきました。後半は高校生と一緒に「ひまわりをさかせよう」など手話を交えてのライブ演奏を披露していただきました。どの歌もその歌詞も、その繊細さが身に沁みるものがありました。ぜひ皆さんも一度聞いてみてください。

こどもの情熱は生の軌道のズレ?

2024/08/09

遊びの情熱は「純粋持続」を生きようとする姿の表れなのだろうか? 私は勘違いしていたようだ。心揺さぶられるような経験をもう一度味わいたいと言う欲求が、表象になっているというより、世界よりも不完全でしかない表象の欠損部分をなんとかしようとして遊び出すようにも見えてきます。

思えば言葉もつねに言い尽くせぬものを抱え、同様に外界から受け取るイメージもまた部分でしかありません。世界を丸ごと認識することなどできないのに似て、子どもたちの再現欲求の強さは生の軌道からのブレの修正であり、否応なく現れてくる生きようとする力が、どうやってもはみ出してしまいながら、行動しようとしていることが遊びの姿の一部なのでしょう。

持って生まれてきたものと、短い間に経験したことの記憶を今に総動員しながら、あくなき一歩を前に進めようとしていること。確かに謎です。私たちの「生」が謎であるように。そのことを露わにしていながら気づかれないでいるかもしれない子どもたちです。

子どもたちがつくる納涼会

2024/07/26

8月3日土曜日に開く予定の納涼会は、子どもたちの意見が反映されたブースが色々とできますが、そのうちの「輪投げ」と「的当て」は、遊ぶ道具を子どもたち自身が作っています。

その発展していく様子のいきさつが写真入りで、3階の部屋の入り口にど張り出されています。同じ内容が、日々の保育ドキュメンテーションでスマホで見ていただいてきたものですが、同じ遊びのところだけこうしてつなげて展示してみると、遊びの発展の変化がよくわかります。

5月ごろに始まった輪投げの輪の装飾が、国旗のカラーになったり、その頃参加しなかった子が最近は加わるようになってきたり、輪投げの棒をどうやったら作れるか、地面に垂直に立てる方法をいろいろ考えたり、話し合ったり。

屋上で行う予定の的当ては、水鉄砲で的に当てるのですが、その的は「当たって倒れるもの」にしたいと言うことになったようで、紙コップだと水が当たると壊れやすいので、プラスチックのコップで作ろうと言うことになったようです。色をつけ始めると、ステンドガラスのように綺麗だと言うことに気づいたこともたちが、トカゲや怪獣やうさぎなどを作り始めています。

看板もたくさんできて、その「ことば」や飾りを子どもたちが「あいうえお表」を見ながらつくっています。

身体的コミュニケーションとしてのダンス〜「東京すくわくプログラム」〜

2024/07/11

今年は「東京すくわくプログラム」を始めています。保育園ではたくさんの活動が同時にいろいろ動いているのですが、大きくは三つのテーマにスポットを当てて、継続的に取り組んでいこうと考えています。その一つはこれまでも取り組んできたダンスです。ダンスというと、実に様々なものがあるわけですが、当園ではコンテンポラリーダンスを4年間続けてきたので、その強みを活かして、身体と環境(他者や空間や音楽も含む)の様々なかかわりの側面にスポットを当てます。

講師は皆さんご存知の青木尚哉さんです。赤ちゃんから年長さんまで、発達に応じたプログラムを開発してくださってきたので、これをさらに良くしていきながら、進めていきます。今日は昨日10日に行った活動を、青木さんを交えて振り返りました。昨日のダンスは動画や写真で記録しているのですが、これを元にできるだけ全職員で共有していきたいので、今後の進め方も含めてクラスごとに話し合いました。

今日の振り返りの目的は大きく二つありました。一つは「子どもの経験している意味」について、保育士からみえていることと、ダンサーの青木さんからみえていることを交流し合うことです。

子どもの気づきや試行錯誤の様子をどのように捉えたか、それを出し合うことで、子ども理解を深め、次の活動の手立てや方向性を明確にできます。今日はいろいろな視点が交わされたのですが、やはりもっと掘り下げてみたいのは「身体的コミュニケーション」とでも言ってよさそうなところです。

青木さんの言葉では「関係性遊び」という表現をされていました。「マネキンとデザイナー」は、一方がマネキンになってデザイナーが10回のカウントのリズムに合わせて、手足を1箇所ずつ動かしていく遊びです。手や頭や腰や足をゆっくりと優しく動かすのですが、その時に、動かしてもらうマネキン役も動かすデザイナー役も、相互に協働して動かしているのです。能動的に動かす方と受動的に動かされる方という区分ではなく、そこに身体を通じたコミュニケーションがあって、「こっちに動かしてみよう」「あ、そっちなのね、いいよ」という了解し合う意思疎通が生じています。

園生活には多くの身体的な接触があります。抱っこやおんぶ。膝に座ったり側にいたり。じゃれあい遊びや鬼ごっこのタッチや手繋ぎ。いろんな場面でいろんな接触があるのですが、幼児なら改めて自分やお友達の「からだ」にもっと意識的になってみること。手で腕を「触る」ということと「掴む」ことと「押す」ことは違う、そういうことも含めて体験していく遊びになっています。

乳児の場合は、先生や友達との心理的な距離や大人が醸し出す雰囲気、また好きな歌やダンス、なりきり遊びの種類などによって様々な体の動きが生じています。

もう一つ、どのクラスでも話題になったのは、これまでもそうだったのですが子どもによって「あ、それ面白そう」と思ってやることが異なっていること。この活動には赤ちゃんから年長さんまで、実に多くの動きや身体的接触のバリエーションがあるので、子どもから見た時の「面白そうだからやってみたい」と意欲的になるものと、そうでないものが含まれています。その選択は基本的に自由にしています。そばで見ている、別場所で遊んでいる、でもその時だけは参加する、といったことができることが前提です。

そこで、「もっとやりたい、今度はこうしてみたい」という子どもたちが多いので、その機会を増やして深まっていくように、活動プランを少し練り直すことになるかもしれません。例えば、その時の子どもの意欲を見て、小グループでの選択活動が週案に入ってくるイメージです。

また関わり方とその意味を深めるために、青木さんからまとまった時間を使って研修会を開きたいと思います。これには保護者の方も興味がある方は一緒に参加してもらおうと思います。できれば、小学校の先生もご招待したい。

そしてこれらの活動の振り返りは、資質・能力の三つの柱で子どもの姿を捉え直していくことになるのですが、非認知的能力でもある「学びに向かう力」の、いわばエンジンになるところがパワーアップしていくようになるといいな、と思います。探究の意欲が、いわば「身体的な関わりの美に向かう活動」の一つになっていくように。

かるたづくりで、ことば遊び 【10の姿 8数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚】

2024/07/09

幼児クラスでなぜか先週から始まったカルタ作り。まず絵が完成。

そして、今週は読み札を作りはじめ、月曜と火曜で完成したようです。

「とけいはいろんなすうじがあるよ」「わたあめはくちのなかでふわふわする」「すいかわり じょうとそうまがわったよ」「たこはにんげんをまきつけちゃう」「そうめんはおとまりかいにたべるよ」・・

この活動を紹介している担任のコメント。

「Fちゃんが読み札作りをしているのを見て、Yくんもやりたいとやってきました。初めは、文字を書くことが難しく、大人が書いていたのですが、しばらくすると。

・・ひらがな表を見ながら挑戦。読み札は、その子らしさが出ている表現が多く、とてもほっこりしました。」

あの赤ちゃんだったこの子たちが、いつの間にか話せるようになり、絵本や紙芝居を読むようになり、そして今はひらがなを書き始めています。聞いて話して読んで書く。聞いたり話したりは、現在に現れて、すぐにに消えていきますが、読み札を読んでいると、文字は時空を超えた世界の出入り口になっているように思えますね。

⑧数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚

 

 

カブトムシをA保育園へお届けに

2024/06/19

保育園で生まれたカブトムシをアイグラン保育園東神田にプレゼント。気温が上がらないうちに、子どもたちと届けに行きました。

とても喜んでもらえたようです。届けに行った、喜んでもらえた。そんな満足感があったようで、帰り道は足取りも軽かったようです。

これまで公園で出会うことはありましたが、保育園の中には入れてもらったのは初めて。こんど一緒に遊ぼうと約束してました。和泉小学校で一緒になる子もいて、就学に向けて仲良くなれるといいですね。

バットの音の違いを面白がる子どもたち

2024/06/17

今日もいろんな遊びの姿が報告されています。写真付きの説明でだいたいのことは想像がつきます。乳児から幼児までそれをみていると、子どもの躍動的な姿を生み出している仕組みのようなものを、どう汲み取って表現したらいいんだろうと考えます。とくに活動のうねりのような中で見せてくれる、ちょっとした道草のような遊びの楽しみ方、遊びの中に垣間見えるひねりのような面白さを、ちょっと拾ってみましょう。

 

きっかけは「探究」という言葉で指し示すことができることを探しています。すると遊びそのもののなかに、あの課題解決プロセスに似たところは探究と呼んでもよさそうだと思えてきます。たとえば幼児クラスの日誌には「運動ゾーンではらんすいを中心に「音」に注目が集まり、バットを色々な物で試してみる姿がありました。」と、次のように写真とコメントが書かれています。

・・・・・・・・・・・

いつもはサランラップの芯をバットにしているのですが、ボールが真ん中にあたると、「いい音がする!」とRくん。

色々な物をバットに見立て、どんな音がするのかの探求が始まりました..!お部屋の中を探し回り、バットになりそうなものを見つけ始めました。

「ペットボトルは音が当たると大きい音がする!」

「カーンって音がする!」

「あれ?音がならない?!」

「これはどうかな?」

「みんな静かに~耳を澄ませて~」とLちゃん。色々な音の違いを楽しんでいました。“音“との出会いですね。

・・・・・・・

野球ごっこは、このところ、かなり長く期間続いている遊びなのですが、日によって変化してきています。面白いことが、変わっていくのです。それはきっと好奇心というものの、特性でしょうか。それまでとは違うもの、新しいものを面白いと思い、それを取り込んで変化していくのでしょうが、今日はバットに玉が当たるときの「音」の違いを面白いと感じて、それを何人もが共有しているというのですから、ここには同じものを共にして楽しんでいるという、仲間意識も感じます。また同じ面白さを共有しているという暗黙の静かな探究心の交流のような空気も感じます。野球の遊びで、そんなところに興味が向かうものなんだ、面白いもんだなあと思います。

子どもの自己発揮を充実させる保育をつくる

2024/06/11

昨日と今日は全国の園の主任クラスが集まって学び合う研修会でした。

参加する前に、各園の課題を出してもらい、それを大まかに分類すると「リーダーのあり方」「人材育成・研修の方法、理念の浸透」「チーム保育」がスリートップで、1月に開催した時と同じ傾向でした。

研修会は子どもの権利条約、子ども観の変化、子どもの主体性を大切にした保育についての講義を受けて、その後、実践発表を聞いてグループディスカッション。活発な議論が交わされた充実した二日間でした。

子ども文化の知を経験すること

2024/06/10

今日からギビングツリーの「リーダー研修」が始まりました。その参加者が5人見学にいらして「子どもたちが自分たちでどんな風に生活をつくっていっているのかをみたいです」とのこと。子どもの「意見表明」「参画」が乳幼児の場合はどういうことになるのか、そうしたテーマが今回の研修になっているからです。半分冗談で「カブトムシの意見も子どもが尊重してますよ」「カブトムシもエイジェンシーなんですよ」と言いながら、園内を案内しました。

自然界の知覚と行為のシステムのなかに、人間の表象やシンボル体系がどう位置づくのか、この1年ほどでしょうか、時々その疑問を思い出すことがあります。私たちは日常生活のかなで「物の世界と精神の世界」を二分して使い分けるということを、何の疑問も持たずによく活用しています。デカルト的二元論。物と心。また、それと近い問題意識として子ども集団、子ども同士の関わりのなかに蓄積されている知というものがあって、子どもたちは取り出して活用しているといってもいいんじゃないか、ということを考えたりしています。

たとえば今、ある子どもたちにとってカブトムシが保育室のなかにある環境知として大きな意味を占めているのですが、その意味は子ども集団によって蓄積されていく違いや変化があります。私が八王子にいたとき、歩いて行ける場所にカブトムシがいたので、毎年捕まえてきては子どもたちが観察したり育てたりしていました。ある朝、3歳児クラスの子たちがカブトムシの入ったケースのふたをあけてさわっているとき、蓋をしないとにげてしまうと主張する子がいて、蓋をする、しないでもめていたのです。

すると担任はその様子をみながら、そばで別のことをしている年長のRくんに、カブトムシ騒動の方へ注意を向けさせると、Rくんはすぐに先生の意図を察して近付いて行き「昼間はにげないよ」と教えてあげたのです。すると「(へえ、そうなんだ)」という風に、いざこざは静まったのです。カブトムシは夜によく活動するから、昼間は飛んでいったりしない、ということを知っているのです。

そのようなことが毎年繰り返されている異学年が混ざって暮らす集団には、そのような子ども文化が伝承されていくもので、その知恵たるや広範囲に及びます。実に様々な知恵がつもり、成長していったように感じます。起きている子がうるさいと寝ている子が起きるから「しずかにして!」と子どもが子どもに伝えていましたし、食事のセミバイキングもよそってあげるのは当番の年長の子どもでしたが、食べ始めるタイミングをめぐる話し合いでは、当番の子どもたちの意見が尊重されていました。それに引き換え、いまの千代田せいが保育園は、まだその子ども文化の伝承があさく、新しい知恵をスポンジのようにぐんぐん吸収しているように感じます。

昨日の話の続きをすると、精神間機能から精神内機能への2つのルートには、子ども同士、子ども集団がつくり出す場についてのルートはどれくらい想定されているんだろう? そんなことを考えながら、この研修に参加しています。大局的な議論と緻密な議論を組み合わせたいという思いで。

 

退院してきたお友達を迎えて

2024/06/01

(園だより「巻頭言」6月号より)

「ねえ、一緒に遊ぼう!」「遊ぼう、遊ぼう」ー。歩行用の装具を右足に取りつける彼を取り囲んでいます。口々に言っているのが、この言葉でした。着いたよ、の一言で3階から駆け降りてきた子どもたちです。歓迎の気持ちがそんな言葉と行動に現れていました。

何人もの「遊ぼう。遊ぼう」の言葉に前に省略されているものをあえて想像で補足すると(やっとこの日が来たね。ZOOMで約束したように)「一緒に遊ぼう」とでも言っていいでしょう。昨日の「職員室だより」でお知らせしましたが、彼はある病気の治療のために入院して治療を受けていました。面会ができないので、病室と園内をオンラインで繋いで子ども同士のかかわりを持っていたのです。

親御さんと一緒にこの姿に接して、いろんな意味で「よかったあ」と胸が熱くなりました。自分だけどうしてこんな目に遭わなければならないのかと悲しく悔しい思いもあったでしょうし、友達とあったりするとかえってその気持ちを強くしてしまわないかも心配しました。でも親御さんが本人の気持ちを確認しながらZOOMで繋いだ時も、先日の親子遠足で参加した時も、それが前向きな気持ちを産んで、張り切ってリハビリに取り組んだそうです。

そして、退院というこの日を迎えることができました。黙々と装具をつけたり外したり、どんどん自分だけで室内を歩いていく姿を目にしてすごい、と思いました。私の予想をはるかに超えた先を彼は歩んでいます。心配したことを見事に打ち破ってくれました。私でさえそう思うので、ご両親にとってはひとしおでしょう。この病気では退院までの最短記録だそうです。

さらにもう一つ、子どもたちの再会を喜ぶ姿も私たちは嬉しかったのです。しかも「一緒に遊ぼう」という言葉になるところが、いい。やっぱり、遊びです。そして一緒に遊ぼうという、その一緒に、のところ。彼はずっと黙っていましたが、どう感じていたでしょうね。仲良しのRくんとはふざけて叩き合いごっこのようなことを長い時間やっていました。立ったり座ったの動作も自分で椅子や机の使い方を工夫しています。それを周りで手伝う子もいます。

昼食を2階のダイニングで食べるとき、ある子二人がテーブルを寄せて大きくして、彼を囲んで食べるようにしたのです。彼らの中から生まれたアイデアです。座る椅子が足りなくなると、お盆を詰めて寄せ合っていました。お父さんはちょっと離れたテーブルで見守って食べています。園生活の大事なところは子どもたち自身がつっているということを実感します。

 

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