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2019年 5月

日本保育学会を振り返る

2019/05/06

今日で大型連休も終わります。明日からの生活に備えて、今日はゆっくりと家で過ごされた方も多いでしょう。また、家庭と園の共同生活が始まります、よろしくお願いします。

■日本保育学会に参加して

昨日、一昨日と、日本保育学会に参加してきて、それぞれの研究者や保育者の人たちのものの見方や考え方が〈いかに多様であるか〉ということがわかります。でも、考え方が違っていても、保育や研究のアプローチの仕方が違っていても、そこに〈共通する大きなエネルギー〉を感じました。それは〈今よりもより良くしようとする人間の営み〉です。休みだと言うのに全国から研究者や実践者が集まって、発表や議論や研鑽の歩みを分かち合おうとするエネルギーは、明らかに人間だけが持っている特徴です。この学会で聞こえてきた学者の名前を使って、キーワードで遊ぶとしたら、このエネルギーは「社会性」(アリストテレス)であり、「協力性」(マイケル・トマセロ)であり、「善さへの志向」(村井実)であると思えます。
■目指している保育理念によって子どもの見え方が変わる
この2日間の私の「園長の日記」は、おおざっぱに言うと「子ども理解とは何か」という、保育や教育のスタート地点に立つための準備のような話でした。ただ、この「スタート地点に立つこと」が、実は簡単には立てない、ということを、よくよく理解することが極めて大切だと思っています。なぜなら「子どもがそうするのは、きっとこうだからだろう」とか「こうすることが子どもには大切だ」といった判断は、その人の子ども観や発達観がそう思わせているからです。
■保育理念の構築が大事
今回の学会で、そのことについてはっきりと明言されたのは、日本保育学会会長で、白梅学園大学の汐見稔幸教授でした。「保育の質は目指す理念の構築が重要である」ということを強調していました。目指す保育理念によって、子どもの姿に対する評価ががらりと変わるからです。
■民主的な社会をつくる構成員として
人が100歳まで生きるなら、保育園の子どもたちは、22世紀を生きます。つい「未来」と言いたくなる大人の感覚で考えては、いけないのでしょうね。子どもたちにとっては、現実にやって来る「将来」のことだからです。その時、間違いなく大事なのは、民主的な社会の構成員になるための資質や能力を備えておくことです。(国連の『持続可能な開発目標(SDGs)』を参照してみてください)
■赤ちゃんの頃から保障したいこと
民主的な社会の構成員になるための資質や能力を備えておくことが大事だということになると、今度は次のようなことが大切になります。
・赤ちゃんの時から個人の考えが尊重される経験を持つこと。
・何をして過ごすかは、子どもの意見(意向)も反映されること。
・子どもが参画できること。
・自分で考え判断できる主体性が育つこと。
・さまざまな欲求が満たされた上で落ち着いた生活ができること。
・興味を持ったことを探求できる環境が用意されていること。
■学会が課題にしているテーマ
日本保育学会は、何十年にもわたってその見方を支える理論の構築に向けて議論してきました。その流れの中で、今回学会が企画したシンポジウムが2つありました。その1つは「実践者による主観を生かした研究の可能性を考える」というもので、今だにこの議論を続けていることに「保育研究の道遠し」の感を強く覚えました。
実践者から見える現象から、保育理論を構築していこうという研究アプローチそのものは時代にかなったもので、今後も探求すべき方向性なのですが、保育の現場で生起する「現象が起こる環境要因の質」には、あまり触れないと言う恨みがあります。保育界には教材論がまだ浸透していないのだなぁ、と言う感想を持たざるをえませんでした。子ども同士の関係の質や相互作用を捉えるための研究手法を早く編み出すべきです。

もう一つが、認定こども園の保育の質を考えるシンポジウムでした。こちらも乳児同士の関係を捉える研究は皆無でした。

■子ども観と保育観の転換を提案

その中で唯一、最近の脳科学や、進化人類学の知見を活かし、新しい子ども観と保育観を保育実践を通して提案してきたのが藤森先生です。私たちの仲間が、昨日、「乳児のかかわりー乳児におけるブリコラージュ 10の姿に向いての出発点」と題して自主シンポジウムを開きました。「10の姿」とは、小学校に入る前ぐらいまでにそのような姿になっていってほしいという子どもの姿で、国が作ったものです。
■子ども観、保育観の転換を提案
私たちのグループは、2保育園、1こども園それぞれの園の子どもの姿を観察したことろ、赤ちゃんの頃から、自主性や協同性、道徳性の芽生えなどがあることに気づきました。また、満1歳になる頃までに脳の機能が発達していることから次のような子ども観・教育観に転換すべきであると提案しました。つまり「子どもは、まだ何もできない白紙の状態だから大人が教えて力をつける」のではなく「既に備えている力を消さないように、使い続けることができる環境を用意すること」への転換です。
■日本赤ちゃん学会の今年テーマ
このように日本保育学会では、あまり新しい進展はなかったのですが、7月の日本赤ちゃん学会は今年、人類の進化と共同保育をテーマにしています。時代の要請にかなった課題意識だと言えるでしょう。私たちが気付いている問題意識を共有できるかもしれません。

普遍性を持った主観について

2019/05/05

昨日に続いて、日本保育学会に来ています。話も昨日の続きです。私たちが「見ている子どもの姿は、主観的なものである」というと、「えっ、私が見ている姿ってちがうの?」と不安になる人がいるかもしれません。そうではなくて、私たちは誰であろうと何かを見るときに、すでにある「枠組み」「○○観」のようなものを持っているという意味です。

■生物としての認知の枠組み
生き物である私たちは、感覚器を通して世界の情報を知覚していますが、視力も聴力も味覚も嗅覚も触覚も、それぞれ他の生物よりも優れていたり劣っていたりします。その範囲でしか、世界を知覚するしかありません。生物学的にも認知の枠組みに縛られています。(生物学者のユクスキュル参照)
■文化的価値観としての認知の枠組み
さらに私たちは、社会や文化の価値観や考えを身に付けているので、無意識にその視点で物事を捉えています。夜の月をアートのように鑑賞したり、虫の音や風鈴に風情を感じたりするのは、日本の文化の影響です。カツオや昆布の出汁の『うまみ』を美味しく感じるのも、海産物に恵まれた和食の文化が生み出したものです。奈良時代にそれまで日本にはなかった『梅の花』について、和歌で心情を描写するときも、美の基準を創造しています。
このように人は、生物学的にも、社会学的にも、そして心理学的にもある種の視点、物事を見る枠組みといったものを通して世界を眺めているわけで、それを主観的と言っているのです。同じ対象を目の前にしたとしても、人によって、つまり持って生まれた特性やそれまでの経験の違いによっても、主観的な内容は異なってきます。
ただ、そこで見えているものは、独善的で、無秩序で、無用なものではなく、社会的・相互的で、首尾一貫しており、有効なものになっている主観です。恣意的にでたらめに作り上げた姿ではなく、説得力を持った見立てになっていることが多いのです。しかも、場合によっては、それは美しいものでさえあります。(村井実『善さの構造』)
■クラスのブログから
たとえば、ちっち組のブログに、4月の、子どもたちの、様子が描写されています。
「そしてお友だちとの様々なかかわりの中で、楽しい気持ち、嬉しい気持ち、悲しい気持ち、怒った気持ち…いろんな気持ちを共有しながら、いろんな体験をして大きくなっていくのだと思います。なんだかわくわくしますね!」
■子供同士の関わりの中で育つと言う発達観
この描写のなかにも、「見える」ための視点、フレームが無意識に活用されています。子ども同士の関わりの中でいろいろな気持ちが生まれ、共有される事は間違いがありません。またそのようなスタンスで、子どもたちを見守っていることも、わかります。子ども同士がかかわるの中でこそ、心が育っていくという、子ども観や発達観を持っていることも、想像してもらえるでしょうか。ただし、その子どもがその時、どんな気持ちだったかは推測するしかないのです。したがって主観的であると言うことになるのです。(続く)

保育におけるブリコラージュ

2019/05/04

■日本保育学会に参加

保育は○○である、と定義することが難しい。それほど意味深い。保育とは実践であり、研究であり、学問であり、人生道でもある。そんなことを1日中考える日でした。千代田区三番町にある大妻女子大学で、日本保育学会があり参加していました。
■保育におけるブリコラージュ
72回目を数える今大会のテーマは「『新しさ』とは何か〜保育におけるブリコラージュの視点」というものです。ブリコラージュと言うフランス語は「いろいろなものを寄せ集めて自分で作る」という意味で、アートの表現技法の1つであるコラージュもフランス語で「貼る」という意味。どちらも「すでにあるものを集めて新たな意味を創り出す」というところが共通です。
■コラージュでできた絵本
たとえばエリック・カールの絵本「はらぺこあおむし」は、見事なコラージュ作品です。保育も、すでにあるものが集まって新たな実践や研究が生まれている創造的な営みです。その「新しさ」を生み出していくプロセスをブリコラージュと言う視点で探求してみようと言うわけです。
私が参加したシンポジウムは「子どもが感じる世界を感じる〜保育における面白さの探求」がテーマで、『確かにそうだなぁと』と腑に落ちたことがありました。それは子どもが「おもしろい」と思うのは、自分が働きかけて変化する対象の世界に、没入しているときです。
たとえば、「ビー玉をおくと勝手に転がり始めて、木のレールを転がり落ちて右から左に、左から右に、行ったり来たりしながら最後はチンと音がしてとまるコト」の世界を、見入ることで探求しています。
■主観としての子どもの姿
その時、子どもによって、気づき心動かされたコトは異なっているはずで、その子なりに意味付けして主観的「世界」を作り出しています。その時、子どもの心で何が起きているのかを、周りにいる私たち保育者は推論するしかないので、その保育者の主観的にみえてくるものを、物語ることになります。自分が見えていると思っている子ども像は、絶対的なものではなく、あくまでも私の主観であると言う相対的なものだと言うことです。
私の見た子どもの姿、同僚の見た子どもの姿、親御さんが思っている子どもの姿は、それぞれの主観です。状況が異なれば、さらに姿は異なります。お互いに語り合ってそれらを集めてみたときに、豊かになっていく子どもの物語があるときしたら、大いにブリコラージュしていきたいものです。(続く)

和歌は万葉仮名だった

2019/05/03

【万葉集は、和歌の部分が万葉仮名だった】

万葉集は、基本的に漢文で書かれていて和歌の部分は万葉仮名になっていることがわかりました。元号「令和」の典拠は和歌ではなく、その解説にあたる序文のところなので、「漢文」で書かれています。当時の貴族や役人たちは、漢文で書いていましたから、説明文は漢文が自然だったのです。しかし、五七五の韻を踏む和歌は、声に出している音そのものを、文字として定着させるには、表音漢字として使うという方法を編み出していったのだと思います。これは私の勝手な想像ですが。私は謎が解けて気分スッキリです。32種の和歌の中には「梅花の宴」の主催者である大伴旅人(後に万葉集を編纂したと言われる大伴家持の父)の歌もあります。

それを万葉仮名、現在の漢字、口語訳の順に並べてみましょう。
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和何則能尓  宇米能波奈知流  比佐可多能  阿米欲里由吉能  那何列久流加母
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わが園に梅の花散る   ひさかたの天より雪の流れくるかも
🔸
わが家の梅の花が散っている
天空の果てから
雪が流れて来るかのように
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私たちが使っている日本語の話し言葉は、まだ文字に書かれていなかった時代、推古朝時代の遣隋使や奈良時代の遣唐使などの使節団が、中国から持ち帰ってきた書物はすべて漢字でしたから、その音だけを代用して書き言葉として使っていたのが万葉仮名でした。
🔸
【ひらがなの誕生】
そこから、ひらがなが誕生していくわけで、子供たちがひらがなを学ぶときに、漢字を崩して教えていくことが難しいと言うテーマに直面します。例えばシュタイナー教育なら、エポック授業の中でローマ字のFを教えるときに、フィッシュの【ふ】と言う発音と【さかなの形】を、一緒に伝えていきます。日本語のひらがなは、象形文字ではなく、漢字を崩したので、それができにくいのです。
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ちなみに、和紙に墨で縦に書く漢字から、ひらがなができたおかげで、日本語は世界に類を見ない、縦でも横でも文字を並べることができる特徴を持つことになりました。

休日の過ごし方

2019/05/02

(写真:鳳輦。ほうれん。江戸時代1817年、119代光格天皇の譲位の際の行幸。桜町殿行幸図)

 

【天皇制と人間性】

天気が悪かったこともあり一日中家にいて、本や雑誌や映画を見たりして過ごしました。屈託のない祝賀ムードの中で、天皇制の歴史と象徴天皇の行く末について、ぼんやりと考えていました。「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」。私たちはきっと、この言葉の重みを、これから噛みしめて行かざるを得なくなるのかもしれません。

【大学入試改革】
テレビを見ていたら、私が理事を務めている団体の外部役員で教育評論家の尾木直樹さんが、「大学入試は、これまでで最も大きな改革になる」と話していました。その大改革の背景にあるのは、将来の人工知能社会に備えよう、という意味もあります。
保育園も今は幼児教育の場となりました。保育園も幼稚園もどちらで生活しても、同じように質の高い学びがなされなければなりません。また小学校以降の学習も大きく変わろうとしています。
よく「どのように変わるのか」と聞かれます。文部科学省が作ったキーワードは「主体的で対話的な深い学び」という言い方をしています。アクティブラーニングのことを、学習指導要領の中でそのように言い換えました。でも具体的にはどんな学力に変わるのでしょうか。
ある大手の大学受験会社のホームページには、こう書いてあります。
「知識から正解を素早く出すことよりも、解決すべき課題を発見する力がとても大切な時代になってきます」
ジャーナリストの仕事と言うのは、その力がなければ成り立ちません。例えば「政教分離と天皇の象徴性について、5月1日の出来事についてあなたの考えを述べなさい」といった大学入試問題に変わるわけです。
それは、これまでも言われてきたことですが、あらかじめ決まっている正解をただ覚えておくような力の必要性は、小さくなっていくでしょう。それはコンピューターに代わりにやってもらえば良いからです。
私の提案はこうでした。問題は学力の方ではなく評価方法の方だと。例え話として極端な言い方をすると、試験であっても、手元に教科書や参考書やインターネットにつながったコンピューターや何でも全て使ってよいと言う状態で実施すればいいのですと。本当に必要な「問い」を生む力が、仕事でも研究でも日常生活でも子育てでも政治でも有効なはずです。その事はみんな直感的にわかっているはずでしょう、と。
【ほんとうに、そうだろか?】
人工知能やコンピューターにもできないのは、不思議だなぁと思ったり、どうしてだろうと他人と協力して調べたり、まだ答えのない課題を見つけて探求するような力です。
そこで、私たち教育関係者は、児童や生徒に学び続ける強い意志や、協働により課題解決の道すじを切り拓く力を、育もうとしています。いまの子どもたちは、その時代の真っ只中で生きることになります。
でも、これまで10年後の社会を正しく予想できた事はあまりありませんでした。科学技術の進展は、そのスピードを増しています。海外で不法に行われているクローン実験や、軍事技術の最先端技術を垣間見ると、1つの国の中だけで倫理的な規制を強化するのは限界があるように思えて仕方がありません。
ネタバレしないように説明するのが難しいので、ほとんどの人が知っていることを前提とさせていただきますが、名作映画「2001年宇宙の旅」で、それこそ人工知能のHALが、自らの生存のために意志を持った自己判断を遂行します。ディープ・ラーニングができる人工知能は、自己保身にしても自己犠牲にしても、ある価値を巡って思考し、最善の判断をするようにプログラムする事は可能なように思います。
しかし今でもできないように思われているのが、AIが感情を持つことです。フィリップ・K・ディック原作の映画「ブレードランナー」にはレプリカント、つまり人工知能を持った美しいクローン人間であるアンドロイドが登場しますが、彼女は一見、人間と全く区別がつかず、しかも人間性をめぐって苦悩し涙します。AIとクローン技術が発達すれば、このような宗教的思索の夢さえ見るような人間的存在が、誕生しないとも限りません。
サイエンス・フィクションが、サイエンス・ノンフィクションに思えるような時代が、すぐそこまで来ています。

美しく和む時代を願って

2019/05/01

5月1日
令和の初日。ゴールデンウィークの最中に、お正月が来たような気分を味わえると言うのは、全く想像していませんでした。働いている方には申し訳ありませんが。
そこで、改めて「令和」の典拠とされている歌集『万葉集』の解説を手にとってみました。「梅花の歌」は三十二首集められていて、その「序文」にそれはあるそうです。
『万葉集』は、ご存知の通り漢字だけが並んだ文章ですが、漢字本来の意味とは離れた表音文字を「万葉仮名」と呼ぶようになったのは、万葉集が主にその漢字で構成されているから。私はそう理解していました。
ところが、読み下し文になっている「序文」を見てみると、意味を表さない表音文字どころか、漢字本来の意味を持つ表意文字の方が多いことに気づきました。
この事は、また別の機会に探求することとして、今日は令和が「清らかで美しく和むこと」であることが表れているとされている歌の解釈を楽しみました。外務省は令和を「ビューティフル・ハーモニー」と訳しています。

太宰府の坂本八幡神社は、岩波書店の新日本古典文学大系の訳をパンフレットに採用しています。

初春の月にして(しょしゅんのれいげつにして)、
気淑く風ぎ(きよくかぜやわらぎ)、
梅は鏡前の粉を披き(うめはきょうぜんのこをひらき)、
蘭は珮後の香を薫ず(らんははいごのこうをくんず)。
どのように漢字を訓読みするかは、その人の想像力に基づくセンスが問われるところがあって、そこに日本語の面白さがあります。
たとえば「薫」は、「くんず」と読んだり、「かおらす」と読んだりされています。それぞれの良さがあって、その多様性が保たれているところに、言葉におけるダイバシティーといったハーモニーも感じるところです。
漢和辞典で「令月」をみると、旧暦で2月のことを指します。しかし「梅花の宴」は、天平2年正月13日と日付が入っていますから、2月の事ではなく、清く美しい月、麗しい月、何をするにしてもめでたい月、の意味となるのでしょう。
白梅は白くおしろいをした美しい女性の顔が鏡に映っているというのですから、一体どんな状況でしょう。また、珮後とは、香袋のことだそうです。蘭の香りは、実を飾った衣に香りを移したような匂いがしているのだと。
いろいろな想像しながら、謎解きのように解釈できるから楽しいと言うことがわかります。絵画を見る楽しさと似てますね。
大伴旅人が開いたと言う宴の様子を、博多人形で再現した模型が、太宰府展示館にあります。これは見ないほうが、いいかもしれません。見てしまうと、言葉だけで妄想たくましくシメージできなくなるかもしれません。
 
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