6月からの園再開から3週間が経ちます。新しい生活様式の中での保育を考えるとき、子ども同士の関係が分断されないかと心配でしたが、乳幼児の感染リスクが少ないことがわかって、これまで大切にしてきた保育スタイルを大きく変更することなく、継続できることにほっとしています。写真は、幼児クラスで、朝、何をして過ごそうかな?と遊びのゾーンを選んでいるところですが、「何もしなくない」というのを「選ぶ」こともできます。あるいは、既存のゾーンだけでは収まらない活動ももちろんあるので、そういう発展的な活動を提案してくる子供もいます。そうした主張は意思決定力であり、他者との関わりのなかで育っていく大切な能力です。
当園の保育方針は「自分らしく意欲的で思いやりのある子ども」です。前半の「自分らしく意欲的で」というのは自由意志を育むテーマであるともいえます。また後半の「思いやりのある」というのは責任のテーマでもあります。その営みは、数日前の日記でお伝えしたように、赤ちゃんの頃から自由な選択行動や他者への配慮が見られます。このような関係発達が人の発達の基盤にあることをいかに守り抜くか、それがこれからの「新しい生活様式」の中での、日本の保育界、教育界の大きな課題だと考えています。
数日前の日記で、意識していないのに思わず真似をしながら遊んでいる中で、周りの文化を取り入れているものがあることを書きました。何でもやりたがる「自分で」という意志が強まる2歳ごろ、そして「僕はね」「私がね」と一人称を使い始め、自意識がはっきりしていく幼児の頃、そして小学生、中学生となっていく過程で、もう一度自分のアイデンティティーを確立しようとする時期がきます。思春期です。その頃の基盤が乳幼児の時期の経験が大切だということは、発達を学ぶと必ず出てくるものです。
教育や保育の勉強すると、最初の頃に「発達の意味」を考える科目と出合います。成長とか発達には、どんな価値があるかというテーマです。発達に良いとか悪いとかがあるのか。何を持ってそう判断できるのか。かなり重いテーマです。ですから議論はすぐに教育哲学のテーマになります。その中で必ず検討することになるのが、「自由」をめぐる価値判断です。簡単にいうと「赤ちゃんは自由が不自由か?あなたはどう思うか?」というものです。
人はどんな生き方をしても、それは確かに自由なのですが、自由の一般的な定義は、自分の意思でそれを決める、という自己決定の原理です。哲学の議論を遡ると、自由に決めたと本人が思っていても、それは生理的・社会的な欲求に突き動かされているだけであり、決して自分で決めたのではないのではないか、という決定論を乗り越えてきた歴史があります。したがって赤ちゃんは幼少の頃はまだ自分が本当に望んでいることを自由に決定しているのではないから、大人に比べて自由が少ないと考えられています。
そうだとしたら、いつ頃から「自分で決めること」が「自由に生きること」と一致してくるのでしょうか。それは「望ましいことを選べる自由選択の力」を獲得できるまでです。その社会が求めてきます。いわゆる「人に迷惑をかけないことを判断できる力」です。よく自由と責任の話になります。その発達の境目が「子ども」と「大人」の違いだとすると、児童福祉法は18歳ですし、選挙権を持つのも18歳になりました。自分がとった行動に社会的責任が発生するという形で、民主主義社会の法治国家は、そのバランスに一貫性を持たせています。
しかし、大人になって、その自由意思に基づいて行動していると本人も思っていても、実は幼少の頃の経験が、その後の可能性に大きな制約をもたらしていることも事実なのです。保育は子どもが大人になっていくスタート時点に関わるので、その子どもに待っている潜在的な力が十分に発揮できるような環境にしておくことを、私たちは意識して大切にしています。