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2020年 8月

プール開放します!8月22日、29日、9月5日

2020/08/11

 

土曜日プール開放 「親子でプール」チラシ.xls – 互換モード

暑い夏。コロナで帰省もできない都会の夏。子どもに水遊びさせたいけど、親水公園はコロナで閉まっているし・・。そこで保育園の屋上にあるプールを開放することにしました。でも職員が全部対応するのは難しい。そこで保護者の方に監視員などをしてもらいながら、人数制限と三密対策もやって、土曜日の午前中の3日間、親子で楽しんでください。

日時:8月22日(土)、29日(土)、9月5日(土)雨天中止

時間:(1回目) 9:00〜10:00

(2回目)10:15〜11:15  * 総入替の2部制

対象:全クラス 1部につき5家庭まで(参加状況により引率1名の場合もあり)

場所:屋上のプール&水遊び

申込方法:わいわい組の小林または事務所の職員までお声掛けください。

舞踏の思い出

2020/08/10

人の意識の中には、その人にとっての「伝説」のようなものがあるんじゃないかと思って、そんなことありませんか?と尋ねてみたいと思う相手と会うと、返ってそんなことを聞くのが怖くて、聞くのをやめてしまいます。お互いにガッカリしてしまうのが嫌で、それが通じそうな時が来るまで大切にしなきゃ、と思ってしまいます。そして、なんとなく、良かれと思って、お互いにそっとしておいて触れないままにしていると、大抵はそのままになってしまいます。

ただ今頃になって、きっとこの人なら、私が抱えている憧憬に似た喪失感を分かちあえるんじゃないかと思う人と出会うと、ちょっとドキドキします。そういう人は、ほとんどがアーティストです。これは昨日までのダンスの話の続きのつもりなのですが、私にとっての舞踏との出会いは、20代の学生時代に仲間が企画してキャンパスに招いた山海塾の公演でした。それを見た時でさえ、すでに私には極北の「伝説」となっていたのは土方巽であって、もちろんその暗黒舞踏を生で見たことはなく、それだけに、こんな燦々と明るくて、なんでもあからさまな時代になってしまうと、「伝説」どころか、さらに「伝説の彼方」になってしまっているようなイメージについて、正座しながら思い巡らしたくなったのでした。

石崎ひゅーいを聞いていたら、なぜか1960年代の眩しい昭和の時代(新幹線が走り東京オリンピックが開かれる高度経済成長時代)と「暗黒舞踏」という対比について考えてしまうのでした。「アーティストはものごとを斜めにみますから」。これは青木尚哉さんの言葉です。これは誰もが抱えている意識のコントラストなのでしょうが、子どもの方が本質的にこの暗さを抱え込んでいるので、す〜っと受け入れてくるものです。スポーツやアスリートの演技や肉体も美しいのですが、じっと目を凝らして息を呑むような身体の魅惑ということも、子どもはどこかで憧れているはずなのです。そういえば、お化け屋敷ごっこって、やらなくなったなあ。そういう経験ができないからかもしれないですね。夏の怪談話でもやりますか。

運動にとって美とは何か

2020/08/09

動物は行わないのに「人類だけが行うことを探り当てておくこと」が、どうして保育という仕事に必要なのかー。そのことをこれまで、この日記できちんと説明してきたかどうか定かではないのですが、保育を考える時には、何かにつけて、このことに触れていくことになります。動物と人間の、その境目なり起源なりに迫ることによって、人間としての特徴がはっきりしてくるからです。

◆人間がだけが行うこと アートも

例えば「二足歩行」「言葉」「火の使用」「共同保育」「共食」など、いろいろあります。「指さし」「意図込み模倣」などもそうです。これらは、本能なのか学習なのか、ずっと研究されてきたし、今でも探究され続けているのです。そこに「アート」も加わります。

今日、これから語ることは、昨日の続きなのですが、アートの中の「身体的な運動」についてです。体力をつけるための運動ではなく、運動における美とは何か、そんな話です。少し遠回りの話になります。

◆クロマニョン人の芸術

地球137億年の歴史を24時間にすると、約5万年前は1秒前になるのですが、道具が飛躍的に発達する「大躍進」の時代が始まります。クロマニョン人はその頃から動物の骨や牙や角を使って、ネックレスやペンダントの装飾品や、骨を細く削りって先端に穴を開けた縫針、あるいは動物の脂肪を燃やすオイルランプなどを作っています。

中でも2万4000年前と言われるオーストリアの「ヴィレンドルフのヴィーナス」(写真)は、実りと多産の象徴と言われ、美術史の中でも初期の芸術として紹介されます。スペインのアルタミラ近くの洞窟には、2万年前と言われる野牛(バイソン)の壁画が描かれています。これが現在わかっている世界最古の絵画ですが、同じ頃のフランスのラスコーの壁画と並んで「美術」は、氷河期の狩猟採集生活の中から生まれました。

しかし、何万年もの間、遺跡として残るのは、風雪に耐える石や硬い骨や洞窟だけであり、歌や音楽や踊りは「物」として残らないので、その頃にあったのか、なかったのかがはっきりしません。しかし8万年前から1万年前までいたネアンデルタール人の研究者の中には、笛を吹いていたとか、歌を歌っていたと想像している人もいます。

◆ネアンデルタール人類も踊っていたか?

イラクのシャニダール洞穴の遺跡からは、ネアンデルタール人のお墓から「ムスカリ」や「矢車菊」の花粉(おしべの一部である葯)の塊が発見され、1974年に後世の混入ではないことがわかりました(奈良貴史『ネアンデルタール人類の謎』岩波ジュニア新書)。

死者に花をたむけ、そこで歌や踊りもあっただろうと私は想像しています。前の保育園時代の卒園式の挨拶でこの話をしたことがありますが、この心優しきネアンデルタール人の話は、この春のコロナ自粛のときに実施したフラワープロジェクトの時にも、再び蘇りました。いかに人間は花に惹きつけられるのか。絵画や音楽で花は欠かせない対象であり続けています。子どもも素直に花の持つ美しさを感じます。

◆身体の美しさを描いてきた美術の歴史

ここで、やっと昨日からの話に戻るのですが、美術やアートの歴史の中で「身体の美しさ」は、エジプトの壁画から始まってギリシャ彫刻やローマ芸術、それ以降の変遷は省略しますが、モダンアートに拡散していく直前まで、すなわち印象派が登場するちょっと前まで、ヨーロッパの美術史の軸の1つにキリスト教の影響を受けた宗教画や歴史画における制約の中での探求が続きました。美しい身体をそのまま再現しようとすると、タブーになるために、真・善・美のシンボルとしての「身体」しか描くことが許されなかったのです。

◆日本の身体と表現

ところが近代以降の表象は、一気に世界の再現から個人の自己表現へと多様化しています。一方で、日本での身体の表象は仏像が多いのですが、江戸時代の浮世絵や美人画にその身体表現の美が捉えられていきました。そこに動きを伴う身体表現は、日本では宮廷や武家での神仏の舞いや地域の祭りや郷土芸能に、舞台芸術としては能、歌舞伎、人形浄瑠璃などに収まっていくのですが、その日本的な「舞踏」の面白さが、既存の芸術ではあまり広く継承されないまま、ポップカルチャーの大波の中で埋もれてしまっているような状況かもしれません。

◆表象文化研究とのであい

こんな時代状況の中で、乳幼児の身体と舞踏の関係を、どう考えたらいいのでしょうか。誰にも、どこにも相談することができないので、10年ほど前、一人、放送大学の「表象文化研究」を受講したところ、そこにヒントがたくさんありました。小林康夫、石田英敬、渡辺保の豪華3人が講師で、主だったアート領域を15回にわたって講義するのですが、いかに文化が表象から成り立っているのかが、見事に切り開かれていきます。

その講義の中では、幼児の表現などは何も語られないのですが、子どもがやっている模倣も、実は全てrepresentation(表象)だとわかってしまえば、人間だけが行っている表象行動が、一度体験したことの再現行動だと捉え直せると合点したのです。私には衝撃が走り、子どもの姿の見え方が一気に変わりました。ミッシェル・フーコーの「言葉と物」の最大の意味は、私にはここにあります。

◆子どもの再現遊びは表象である

そこでわかったのですが、子どもの身体表現であるダンスを楽しむには、まず自身の身体を自分で先に体験することが必要なのです。赤ちゃんが自分の手を自分の手で確かめるように触る時期があるのですが、いったん、自己の認識が始まると、自らの意図で行った身体的な行為の奇跡を辿ること自体が、すでに身体表象になっていくことがあるのです。

その再現が、心地良くて、なんか非日常的でいいな、と感じるものなら、それはアートだと言っていいのです。わかりますか。例えば1歳クラスのぐんぐんの子が、ハンコを手に持って、絵具で画用紙にぺたん、ぺたんと色を付けてみたとします。その形跡に何かを感じて(面白い!何か色がついた!)、もう一回やってみようとしてやったとしたら、そのことが表象行為なのです。その自由画はアート作品ですよね。

◆表象の中のアートとは

では、なんでも表象=再現行動がアートになるのでしょうか。

ここが大問題でして、その人がそう感じればアートです。第三者からの答えはありません。本人が「なんかいい」と感じること。「こっちがかっこいい」「これきれい!」「なんかいい」・・・とにかく、その身体表現のその感性、感覚のその部分の判断です。そうとしか言いようがない、感じがいいと思うところです。

多分、みなさんがやっているのは、デザインセンスといった方がわかりやすいかもしれません。何がおしゃれなのか、ファッションセンス、コーディネートのセンスがいい人は、アート感覚もいいです。インスタ映えするものを言葉で説明することができないからこそ、いいな、と思うものを写真にとるのだと思いますが、そのとき、とらえているイメージが表象です。カメラやインターネットの無かった時代は、絵にしていたんだと思うと、本当にすごい時代になったものです。

◆身体の動き=運動の中のアートとは

語ることができないけれども、そこにいいものがあるという、そのよさ。感覚、まさしく感性の領域ですが、それが「体を動かすということの中にもある」とわかってもらいたいのです。その探求が、保育園の中で始まっていると思ってくださると嬉しいです。絵を描いたり、製作あそびをしたり、歌を歌ったり、ごっこ遊びをしたりする中にある「美」と同じように、体を動かす遊びの中に、きっと美に相当するものがあるのです。

昨日、青木尚哉さんは、こうおしゃいまいした。

「心と身体が一致している時は美しいな」

ここに大きなヒントをいただきました。

今年の運動会はコンテンポラリーダンス

2020/08/08

10月24日(土)の今年の「親子運動遊びの会(運動会)」ではコンテンポラリーダンスを楽しもうと計画しています。つまり、体を動かすことをアート的にやってみようというわけです。昨年は「鬼ごっこ」と「相撲」を取り入れましたが、今年は「ダンス」でやってみようと思います。昨日7日(金)に、それを先生たちに説明しました。

皆さんはご自身の体について、どんなイメージを持っていますか? 私は身体、からだという言葉からは、健康やスポーツに関するものをたくさん思い浮かべてしまいます。しかしヒトの身体は、もっと広く捉えたいと思っています。特に乳幼児にとっての運動は、心と体が同時に動くものなので、体だけを動かすことは難しいものです。学校でもダンスや踊りが取り入られていますが、それが苦手な子どもにとって、新しい跳び箱や鉄棒になってはなりません。それは楽しいものであって欲しいのです。

これまでの経緯を少し説明します。昨年8月25日(日)、屋形船に乗った翌日ですが、ダンサーの青木尚哉さんと小学校の図画工作の先生がコラボレーションしたイベントを海老原商店で開いていました。その様子は「園長の日記」に記してありますが、青木さんは「身体」を図工の素材のようにして作品を表現するということをしていました。その時は気づけなかった身体表現の面白さを、今でははっきりと説明できます。というのは、その後今年2月から3月にかけてアーティストである青木尚哉さんとその仲間のダンサーの方々に保育園に来てもらい、子どもたちと一緒に体を動かす遊びをたくさんやってもらったからです。そこではっきりとわかったのは、子どもは青木さんのアプローチが、子どもたちには大人気でした。

 

昨日の説明会では、その時の様子の一部を動画で見てもらいました。アーティストである青木さんは、正確にいうと「コンテンポラリーダンサー」の第一人者であると同時に、振付師でもあります。インタビュー記事があるので読んでいただきたいのですが、青木さんはクラシックバレエのダンサーとしての活躍後、そのダンスを成り立たせている「身体そのもの」と「舞踏」の関係を探求していきます。そこで生まれたアートが「ポイントワーク」という身体表現でした。子どもたちが「マネキン」と言っているアレです。

http://dancerssupport.com/interview/2886/

手や足には骨と関節があって、それをゆっくりと1つずつ動かしてみるというものです。4秒おきぐらいに「ワン」、「ツー」、「スリー」という英語音声のテンポに合わせて、「テン」まで、即興的に動かしていきます。変化していく身体の形を作り上げていくとき、子どもたちは「こうしたらどうかな。あ、こっちがいいかな」という「自分なりの思いつき、アイデア」が動き出します。交代して友達に自分の体を動かしてもらうと、自分の身体の動きを体験します。どんな格好をしているのかを想像しながら、自分ではやったことのない姿勢や格好が生まれ、その身体感覚を体験します。よく「身体との対話」といったことが言われます。実はこれがダンスの基本であることがとてもよくわかります。

日本の幼稚園や保育園には、スイスの作曲家ダルクローズが作り上げた「リトミック」が輸入されて盛んに行われていますが、青木さんは「本物のリトミックを子どもたちに教えるときは、丁寧に身体とリズムの関係を体験していくプロセスを大切にするんですよ」と言います。「どんなダンスをするにしても、こういうことが基本になります」と。実は昨日の運動会会議には、青木さんにも参加していただきました。ダンスにおける「美」とは何かについても語っていただいたので、それは明日のブログでお伝えします。今年の運動会は、青木さんにインストラクターとして参加していただき、親子でダンスを楽しみましょう。

美の時間

2020/08/07

1日24時間の中には、労働時間と私的時間があります。きっと誰にでもあるでしょう。人によっては働くこととそうでない時間になるかもしれませんし、他人に貢献する時間と自分のための時間に区分できるのかもしれません。この2つに時間以外に、必ず、誰にでもあるもう1つの時間として「睡眠の時間」があります。これも仕事柄、睡眠そのものについては、健康とか習慣とかの話として意識することが多いのですが、睡眠というものは、それ以外にも、夢の時間とか無意識の活動時間とか、意識が宇宙に戻っている時間とか、人生の土台を作っている時間とか、いろいろな言い方ができる時間でもあります。子どもにとっての労働とか仕事とかは遊びになるのかもしれませんが、どの時間もそんなに明確に分かれていないのが「子どもの時間」であるかもしれません。

今日の午前中は、健康に関する睡眠、つまり質の高い睡眠を考える時間がありました。永持伸子さんの講師によるオンライン「Mam’s Salon」です。4家庭5人の父母が参加してくださいました。Zoomによる開催は今年度で4回目になりますが、もっとも多い参加をいただきました。すべて地域の方です。

サロンの進行役をやりながら、「面白いなあ」と感じることがあります。それは子どもにとっての質のいい睡眠とは、もちろん、単に時間の長さではなく(例えば昼寝の時間と夜の時間を足して何時間だから大丈夫、などのようなものではなく)、生き物である私たちを包み込んでいる大いなる生態的リズムにどうしたら合わせられるか、とか、そのズレにどうやったら気付けるか、とか、あるいは入眠の前の意識として「これから寝よう」という自覚や、睡眠への安心や信頼が睡眠の深さに影響するといった、いわば「生態学的心理学」のような話になっていることです。それでも、睡眠や自己意識は「見えない」ので、形のあるアフォーダンスのような話とは思えないのですが、でも「睡眠のコツ」の話を聞いていると、まるで「良質な睡眠」という目に見えない「型」があって、それにどうやったらフィットしていけるか、そういう時間のマネジメント術のような話になっていくのです。それが面白かった。心と身体が一致するための秘訣になってもいます。

午後は、今年の運動会をどういうものにするか、私から先生たちへのプレゼンテーションをしました。その話は明日のグログで詳しく紹介するとして、千代田せいが保育園のカリキュラムは、一貫して子どもと家庭の実態から必要なことを計画していくものなのです。ちょうど東大先端研の児玉龍彦さんが先ほどテレビで「走りながら考える」と語っていましが、全く同感です。情報は研究室ではなく社会にある、指標(数値)に振り回されないといった話にも共感しました。ウイルスの特性を正確に理解することからしか、適切な方法を編み出せないことがよくわかります。

この物事への行動様式は、アートと同じです。今年の運動会はそうするつもりなのですが、その先生たちへのプレゼンのあと、海老原商店の海老原さんから、来年に延期された「東京ビエンナーレ」への協力要請を受けました。今月末に海老原商店の外観(駐車場側)が、ちょっと面白いことになります。私たちは自分自身のことも、あまりよくわかっていないのですから、わかったような気になって他人が自分とは異なる行動をしているからといって、否定するのではなく、見えていないものを、もっとよく見ようとした方がいいと思います。今日は全部、「美」について語ったつもりなのですが、その心は明日説明します。

 

8月6日と8月9日と

2020/08/06

 

私が通った中学校は長崎の浦上天主堂から1キロぐらいのところにあります。爆風で崩れたマリア像は、私にとって戦争の象徴です。今日6日はヒロシマに原爆が投下された日ですが、ナガサキは9日です。私は約10万年の人類のグレートジャーニーが辿り着いた長い長い物語の1つの結末は、ナガサキだと思っています。人類って、なんと愚かなんでしょうか。地球に住んでいる80億の人口のうち、その99%は、その途方もない愚かさを知らないままでしょう。今後はもっと知らないままになるのでしょう。

ヒロシマ・ナガサキは、人類が実際に行った一切の過去の歴史の中で、規模においても手段においても、短期間に本当に実行されてしまった最大で最悪の集団殺戮です。それを実行した国が、世界の民主主義と人権のリーダーだというのも歴史を見れば真っ赤な嘘ですが、その「事実」について、日本人はこの75年間、ぼんやりと霧がかかったような目でしか見ることができませんでした。今でもそうかもしれません。それは日本が行った戦争犯罪への罪悪感によって帳消しにされてきたからでしょう。1つ1つの事実の酷さを冷静に受け止めることがいかに困難なことか。私たち人間の認識は「物語」に沿ってその立場から眺めることしかできないのでしょうか。語り続ける困難さ以上に、どう語るかも合わせて困難な戦後75年を迎えます。

 

意図込み模倣

2020/08/06

もちろん、この半年、3ヶ月、そういった期間によって成長しているのは年長児だけではありません。ちっち・ぐんぐんの今日のクラスブログには、乳児が協力したり、手伝ったり、教えたりする姿が報告されています。お友達がやっていたこと、やってもらったことを「真似て」やり始めているのですが、考えれば考えるほど、不思議な乳児の力だと思えてきます。今日は、この乳児の模倣力について、ちょっと深く考えてみましょう。

この模倣する力は、人類の親戚であるゴリラ、チンパンジー、オランウータン、ボノボといった霊長類も持っています。親や兄弟がやっている姿を見て、真似をして自分もできるようになっていきます。ところが、真似ると言っても、人類しかしない真似の仕方があります。それは他の霊長類にはできません。どんな真似かというと私が「意図込みの模倣」と呼んでいるものです。表面的に同じ行動や仕草をまねることをよく「猿真似」と言いますが、そうではなく、何の目的でそうしているかを、ごっそりとその目的や意味もまるまる理解した上で真似をしていく模倣です。これは人間しかできません。目的や意図を理解しているので、そのための手段をアレンジできるのが人間の模倣なのです。

エプロンをつける、おしぼりをおく、汚れ物を袋にいれる。こうした行動の意味を、1歳半ぐらいから理解できます。ですから「エプロンをつけてもらう」ことも「おしぼりをもらう」ことも、何かやってもらったことは、その目的と手段をセットで真似ができます。やってもらったことをやることは簡単なのです。

こんな有名な実験があります。大人がスイッチを手で押すと電気がつきます。それを見せると、赤ちゃんは真似をして手でスイッチを押して電気をつけます。ところが大人が手に荷物を持っていて手が塞がっているときに、「頭」でスイッチを入れると、赤ちゃんは「手が使えないから頭でやったんだな」と判断して、自分は手でスイッチをつけます。ところが、手が塞がっていないのに、大人が頭でスイッチを押すと、「わざとやったんだな」と理解でき、赤ちゃんも頭でスイッチを押すのです。あるいは大人が手が塞がっていて、ものを取ろうとしていると「察する」と、代わりに赤ちゃんがものをとってあげることをします。「困っているんだな」とわかるのです。

このように、他人が「〜をしようとしている」という意図を理解したり、「〜に関心があるんだな」と注意対象に注目できたり、意図や目的をなし遂げるための方法を変えてみたり、そういうことを2歳前後にはできてしまうのです。どうしてそんなことができるようになるのか、という理由の説明は、人類の進化論からの説明や、脳内の神経ネットワークの特徴などから説明が試みられていますが、私たち保育の実践者が心得ておきたいポイントは、こうした行動の背景にある他者への信頼と共感力の育ちです。その情緒的な心の通い合いがある仲間意識という集団の育ちがあって初めて、このような意図込み模倣は成立するということです。赤の他人の間で、このような姿を見ることはありません。

 

すいすいの成長

2020/08/05

2階のダイニングで昼食をとっていたとき、ふと、年長組すいすいの成長を感じた瞬間がありました。これは言葉で説明するのは、とても難しいのですが、かと言って、それでは動画だったらそれで理解してもらえるというものでもありません。2階から階段を降りながら「すいすいさん、なんか成長したよね」と主任に告げると「う〜ん、ほんとに。変わりましたね」と、同じ変化に気づいていました。

それを感じた時はこんな時です。昼食を久しぶりに子どもたちと一緒にとろうと、空いている席に座りました。すると、大抵、複数の子どたちは「ここにきて!」と開いているテーブルのスペースへの勧誘合戦が始まります。今日もHくんとJくんから誘われたのですが、「そこだと密になりすぎるから」と言って断ると、すんなりと受け入れたのです。これまでの彼らとは、ちょっと違いました。「へー、そんなに簡単に受け入れるんだ」と意外に感じ、その時は「密にならないようにする」ことを子どもたちなりに受け入れているんだな、と理解したのです。

しかし、その時、彼らの態度に少しだけ、自信のようなものを感じたのです。「それなら、しょうがないよね。まあ、いいか」という心の動きなのですが、「もう、それくらいのことには拘らないよ」という心の余裕もあるんです。食事は、一人ひとりが「ごちそうさま」をして、自分で食器を片付けて3階へ戻っていくのですが、その振る舞いにも、頼もしさを感じます。

年長さんだから、当然といえば当然なのですが、なんと言っていいのか、物事を落ち着いて終えていく姿を、お互いに見通しを感じあっていると言った様子で見守りあっているのです。Jくんが「いちばん最後はRくんだな」みたいな事を言っています。Sさんも、茶碗に残っていたご飯粒をきれいに最後まで食べよう、という促しにすんなりと応えて、そうしています。

どれもこれも、あえて語ることのことでもない、ほんとに些細な事でしかないのですが、その些細なことが1つずつできることは、大きな成長のための、1つ1つなのだと思います。

私たちは子どもの成長を捉えるとき、個人の育ちと併せて、集団の育ちというものを捉えます。スポーツの団体競技に例えるなら、何に当たるのかわかりませんが、一種のチーム力の育ちに近いかもしれません。お互いのことを知り尽くしており、どうなっていくかの成り行きも了解しあっている仲間が増えていくと、次への見通しへ心の余裕を持って備えることができます。そんな落ち着き払ったような態度を感じました。

(写真は8月1日のお泊まり会のフィナーレより)

 

千代田区図書館からのお知らせ

2020/08/05

 

千代田区図書館からの情報です

vol.9千代田区読書振興センターからのお知らせ0805

Vol.9おはなしトレイン乳幼児版2020夏

「おはなしトレイン」は夏と冬の年 2 回発行しています。 千代田区立図書館ホームページでは、過去に発行した「おはなしトレイン」を 掲載していますので、ぜひこちらもご覧ください。

https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/kids/bookadvise/

100の言葉

2020/08/04

「園長先生、青と紫を混ぜたら何色になるか知ってる?」と、Kちゃんが聞いてきます。「そうだなあ、きっと濃い紫になるんじゃないかな?」と答えると「ううん、違うよ、青だよ、紫と青を混ぜると青になるんだよ」と教えてくれました。これがKちゃんの実験結果の報告です。とっても真剣です。どうしても、これを「色水遊び」などと、名前をつけて、彼らが取り組んでいることにレッテルを貼ってしまってはいけません。混ぜる量で色合いが変わることに彼はすでに気づいていて、その上での発見報告です。

 

またSくんは、昨日からハマっているある曲を振り付け付きで歌って教えてくれるのですが、何の歌なのか分からなかったのですが、今日お迎えのときにお母さんに伺って謎が解けました。Sくんの頭の中でなっている曲は、私にまではリアルにそのまま届きませんが、明らかに彼はその曲が聞こえていて、それを再現することがとても楽しそうです。

 

Kくんは、色と色が混ざると色が変化することはすでに知っていても、「今度はこの色とこの色を混ぜたらどうなるだろう」という予想や期待を持ってやっている遊びであり、それは科学実験と同じ「仮説―実験―結果」のプロセスが見られます。Sくんの表現は、テレビで見たコマーシャル映像を私に伝えたくて再現しており、模倣から自分なりのアレンジを経たアーティストの表現と同じ過程を踏んでいます。

 

この二人がやっている遊びは、ほとんどの子どもがやっている遊びと同じなのですが、やっていることの本質を描き直すと、小さな科学者や小さなアーティストだと言えるから面白いと思いませんか。このように、色を再現したり、曲&振り付けを再現したりする活動は、人間しか行わない「表象」の編集なのですが、なぜか、人はこうしたことを面白がることができる資質を持って生まれてきたようです。

こんな子どもたちの様子に接していると、ここに物事を理解する時の「測定の原基」があるように思えます。例えば・・・

日本はいま何色だろう。黄?赤?青?緑?それとも・・・絵本「カラーモンスター」は、感情マネジメントの導入教材としても最適ですが、この絵本には、もう1つの色が最後に登場し、あえて感情の名前は伏せてあります。子どもたちは「○○じゃない?」といろいろな言葉を見つけてくるのですが、それが楽しい。子どもたちには、やはり「100の言葉」があるのです。

私は成熟していく社会というものは、もっと多様な色が共存ずるイメージを持っていたのですが、どうも様子が違ってきているような空気を感じます。3階のテラスに並んでいるペットボトルの色水のように、人や国はもっと多様であっていい。覇権とどう戦うか。こっちもの話も、とても難しい時代です。

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