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2021年 1月

見晴らしのいい場所を探して(保育プランのために)

2021/01/27

◆保育を見渡せる場所とは

いい保育をするために、どれだけ見晴らしのいい場所に行けばいいんだろう。全体を俯瞰するということは大事なことです。それはわかっていたのですが、どこにもっと見晴らしのいい場所があるのか迷っていたところがありました。コロナがもたらしたものは、ろくなものはないのですが、あえて逆にプラス志向で考えれば、視界が悪くなった分だけ、世の中のステイクホルダーの人たちが、世界全体をもっとよく見ようとするようになったような気がします。まるで、曲がりくねった夜の山道をヘッドライトもつけずにスピードを上げていた車が、やっとヘッドライトをつけないと危ないと思い直したかのようです。

コロナは危機を露わにしたという言い方がよくされていますが、すでに進行していた危機をやり過ごしてきたツケが、こんな形で人類に露わになって見えてきたのでしょう。でも多くの人が思っている危機よりも、かなり深刻な危機なのですが、それは見晴らしのいい場所へ行かないと見通せません。

◆アントロポセンから見える保育

その危機の全体像を把握するために、今最も見晴らしのいい場所は「人新世」(アントロポセン)に関する論点を理解することです。いろいろなガイダンスがありますが、ある日本の知の巨人によるとクリストフ・ポヌイユ&ジャン=バティスト・フレソズによる大部『人新世とは何か』(青土社)がベストのようです。まだ読んでいませんが、その内容を詳しく解説したものを見ると、子どもたちの将来の世界で何が待ち受けているかを知ることができそうです。

明日配布する園だより2月号の巻頭言で、1月号に続き「人新世」時代の保育をスケッチしました。今年は折につけ、このかなり巨視的な視野で保育を語ることが増えると思います。保育実践はかすかな変化となって現れるものでしかないかもしれませんが、ワニの口のように、小さな角度であっても時間が経てば大きな開きになってしまうものですから、その僅かな差は侮れないものです。

地球環境の変化はじわじわと迫ってくるものなので、子どもたちに模倣されても恥ずかしくない行動を選んでいこうと思います。探求したいのは、自然の一部である子どもが持ってうまれた資質に対して、これからの社会で求められる資質・能力を身につけるプロセス、つまり保育の過程に変更が必要となるかどうかです。

人間が地質学的な規模で地球に変化を加えているその力の源泉は、生物としての人間というよりも、それが編み出した技術や生活様式、つまり文明の力ですから、その質の転換が目指すものになります。共有の社会資源を新しい自治組織(アソシエーション)が管理するコミュニティを育てたい。非営利団体、たとえば町会や生協の活動に近いものに、どうしても千代田区が絡んでもらう必要があり、そこには区長の元に次世代の戦略室が機能するといいのでしょう。そんな地域活動プランを話し合う中で千代田区の保育の形が見えてくると楽しいのですが。

 

1月27日 昼食

2021/01/27

ミートソースパスタ

オニオンサラダ

コンソメスープ

いちご

麦茶

本当は何をしたいんだろう?

2021/01/26

 

昨日の日記の続きですが、私が「小説が無性に読みたい!」と思っている<自分の本音>との出会い方は、子どもたちが<夢を持つこと>と同じところがあります。本当は何をしたいんだろう?という問いは、自分にも他者にも向けることが大切だからです。自分に向ければ、私が唱えている幸せの第一条件と重なるものになり、子どもに向ければ、保育のプロセスの起点(スタート地点)に立つことになるからです。

◆「本当は何をしたいんだろう?」

この問いを自分にちゃんと向けるために私は瞑想することが好きです。自分に向かってくる様々な刺激、情報に振り回されないように、自分に自分で作用させることができるようになっていくからです。昼間の起きている時に受け取った刺激に、自分がどのように反応したか。その自分の中で起きている心の中の経緯を観照するのです。そうすると自分の人格特性が見えてきます。大抵、人間は周りのことに振り回されて生きています。それは自分が選んでいると思っていながら、実は周りの情報(たとえばコマーシャルや流行やブランド)に騙されていたり、唆されていたりします。それを自覚していればまだいいのですが、その自覚がないままに生きていくのは「不自由」な状態だと言えるでしょう。

自分がどんな欲求を抱えていて、それによって自分がどのように振り回されているがわかってくると、大抵は恥ずかしい自分が見えてくるので、それを克服したいと思うようになります。そこに自発的な自由意志が芽生えるといっていいでしょう。その時から人は本当の意味で自由に生き始めると言っていいでしょう。

これは精神を自由に保つためにとても大切な認知スキルだと思っています。誰が言ったのか忘れましたが、高校生の時に座右の銘にしていたフレーズが「感情は認識の窓である」というものです。「もっと落ち着かんば、そげんイライラしとったらいかんばい」とか「あわてんでよかけん。ゆっくりせんね」などという言葉が好きでした(長崎弁です、すみません)。情緒の安定というのは、欲求が満たされると生じる心の状態ですが、欲求には自由意志というものも含まれるのです。生理的な欲求を満たしても、愛や承認や達成感や絆など社会的な欲求が満たされないと心は落ち着きません。その社会的な欲求、つまり人間関係の欲求の中でも自由の欲求は気付きにくく、曖昧な対人関係の間に生きる日本人には、〈精神の自由〉をイメージするのは難しいようです。

のちに、高橋巌さんが行っていた勉強会でルドフル・シュタイナーの思想と出会い「いかにして超感覚的認識を獲得するか」が20代前半からの私のバイブルになりました。思考と感情と意志を自分に正当に自分に作用させることの重要性を学びました。心に静かで深い湖をたたえた人間になりたいと思うようになっていったのです。

◆「自分は、本当は何をしたいんだろう?」

そして、その問いに対する回答が納得できるものであれば、よく理解できるものであれば、心に大きな共感を呼び起こします。自分の心にあるものに気づき、そうか!そうだったんだ!と分かれば嬉しいものです。これを保育用語で説明するなら、認知的な営みが、同時に喜びや意欲を掻き立てる非認知的な情動をもたらすからです。認知も非認知も本当は常にセットなんですよね。それなのに我慢強さや最後までやりぬく意欲などの非認知的なものだけを切り離して大切にしましょうという保育論が、まことしやかに流布されるのは困ったものです。もし我慢強さや粘り強さが育つとしたら、何かをやりたいという強い意欲に先立つ認識(知ることやわかること)があったはずなのです。それは、その対象への心配りやケアリングも起きていて、その結果として、それが面白い!や楽しい!の心情となっていったはずなのです。将棋を楽しんでいる子どもたちを見ていると、その世界のルールや方法をよく理解できればできるほど、楽しいと思えるようになっていっています。

そこでやっと子ども理解の方の話になります。

◆「子どもは、本当は何をしたいんだろう?」

常にこの視線を持って子どもと関わっていたいものです。こう見えるけど、本当は? 一見ああしているみたいだけど、本当は? この眼差しを忘れないようによーく見てあげよう、それが保育の第一歩。そのために、文化的な実践の窓を美しく用意してあげたい。あ、面白そう!と興味を持って接近していけるように。色々なゾーンを用意して、環境を用意して、色々な人が関わって、そして目に見えない歌や遊び方や生活の方法やアート的なセンスと出逢わせてあげたい。園の中だけではなく、地域にも世界にも視野を広げながら。

その世界との相互作用によって引き出される子ども一人ひとりの個性の中に、「ああ、こんなことをやりたかったのかもしれないね」が見えてくるものです。本人だって、何をやりたいのかなんて、まだわからないからです。何やりたい?「楽しいこと!」これが子どもなのでしょう。そのうち「夢」が豊かなものに成長していくことでしょう。

あっ!壊れているよ!

2021/01/26

月曜日の朝、すいすい組のさえちゃんが手作りビー玉コースのキャップが1つ取れていることに気が付きました。その時に発した言葉です。

さえちゃんは、それを私のところに持ってきてくれて教えてくれました。

先生『本当だ!これ直せるかな?』と言うと、『出きるよ!えっと。ボンドが必要』とのことで、ボンドを渡してあげました。さえちゃんは、手慣れた手付きでビー玉コースを修理してくれました。

『まだ、乾かしているから触らないでね!』

さえちゃんの、修理の様子を見ていた周りの子に声をかけて棚の上に持っていっていました!!

頼もしい素敵な姿でした。

1月26日 昼食

2021/01/26

ごはん

スタミナ炒め

きゅうりのダイナミック漬け

豆腐の味噌汁

バナナ

麦茶

無性に小説が読みたい!

2021/01/25

今日はすいすいの子どもたちが漢字で「夢」という字を書きました(上の写真)。夢は昼に見る夢と夜に見る夢がありますが、子どもはどちらの夢も見ているのではないかと感じます。昼に見る夢というと、大人は希望としての夢を想像するでしょう。キング牧師の「アイ・ハヴ・アドリーム・・」の夢です。

でも、その夢ではなくて、私は子どもは昼間にも夢の中で生きているのだと思っています。それがどんな感じなのかを想像してみるために、大人の私は自分の無意識にまで降りていく必要があります。大人は自分が何を抱え込んでいるかも、忘れていますからね。というよりも、抱え込んでいることを忘れて生きられるのが大人ってことかもしれません。

ちょっと前の映画に「海の上のピアニスト」という名作があって、昼間に夢を見ることをやめない主人公のお話に、涙が止まりませんでした。そうやって、普段は隠れていて意識していないものが、自分の情動の成り行きに委ねておくと、無意識の底から自然と立ち上がってくる意識というものに出会うことができます。嘘だと思うなら、寝る前に色々思い浮かべることをイメージして見てください。子どもは昼間もそうやって生きているんですから。

こんな話は「園長の日記」というよりも、極めて個人的日記になってしまうのですが、それでも、かなり多くのことが仕事と関係のあるモチーフが含まれていることに自分ながら呆れてしまいます。リラックスして意識を解放しておくと、まずは気になっていることの輪郭がはっきりとしてきます。「こんなことが気になっていたのか」ということに気づくことができます。ある社会福祉法人から依頼されている講演会や本の書評、春からの講義のシラバンスづくりをどうするか。その中にケアリングについての自分の仮説があって、それを言葉にしようとしている自分が見えてきます。いただいた論文の感想に書こうと思っているケアリングのイメージが広がってきました。でもそれを言葉にしようとすると、湧き上がってきていたものが止まってしまうので、言葉にするのはやめて、またボーッと瞑想に戻ります。

頭の中であれこれと浮かんでくるイメージはシャボン玉のように消えていってしまうので、そのイメージを残しておきたくて、頭にセットしておけば後で絵巻物のような記録が自動的に残るといいのになあ、といつも思います。今読んでいる小説の成り行きが気になってしまうと、瞑想は中断になってしまいます。改めてまたこの意識状態に戻れるコンディションはいつになることか。そしてこんな風に、シャボン玉が出てきては弾けて消えていくのです。疲れていたら、大抵は寝てしまいますが。実際に昨日24日(日)は寝てしまって、「園長の日記」は日付を跨いでしまいました。次は昨日と今日の瞑想の中に現れてくる私の夢の一部です。

・・千住博が描いた高野山金剛峯寺大主殿の襖絵の完成プロセスにも彼と作品(空海)との間にあるケアリング関係があるんじゃないか。・・・あのアートの営みにこそ、人間の営みの根幹がある・・・そう、その彼方への想像の翼こそ夢にふさわしい・・・それは澁澤龍彦が病床で書いた最後の小説「高丘親王航海記」の天竺とも重なっていく。・・・世阿弥が「融」を創作した時に見出した伊勢物語の第81段。在原業平が翁の面を被って「塩釜にいつか来にけむ 朝凪に釣りする舟はここに寄らなん」と詠んだ心情は、髙樹のぶ子の解釈と同じなんだろうか? ・・・じゃあ山折が書いていた神と翁の関係はどうなのか? ・・・それにしても伊勢物語は誰が書いたんだろう。高丘親王の父親は、業平の祖父にあたる平城帝・・紫式部の光源氏は源融をモデルだけど、ケアリングだらけの日本文学なのに誰も言及しないのはどうしてだろう?・・・

このように書くと、あたかも何か連想している流れがあるかのように見えますが、順番は全くごちゃ混ぜに現れては消え、また現れて、という泡ぶくのようなイメージのシャボン玉です。この通りではなくて、あっちいったり、こっちいったりの出鱈目です。ケアリングのテーマが多いのは、大学の先生からケアリングの論文をいただいてその感想を考えていたからです。それでも不思議なのは、何かを思い出すこと事態がすでにイメージの再現ですから、子どもの模倣と全く同じことを無意識はいつも行っていて、それが脳の中で起きていると思うと摩訶不思議な気がしてきます。

こんな欲求が現れてくるのは、きっと世の中の言葉が病んでいて、取り繕う言葉ばかりが張り付いているからでしょう。正しいことかどうかばかりを競い合う言葉が、抑圧されてしまう弱い意識への優しさに欠けるので、文学を引き寄せたくなるんだと思います。ああ、無性に小説が読みたい!(子どもなら「ああ、早く遊びたい!」です)

 

もう、すぐだ!!!

2021/01/25

夕方保育では、17時45分を片付けを始めて帰りの支度をします。

先週、17時35分ころでしょうか、らんらん組のこうき君が「もう すぐだ」と荷物を持って並び始めていました。 ちょうど制作ゾーンでの自分の遊びが終わった時のことです。

あと10分あるけれども、その時間で遊び終える物がなかったのか、また途中になるからと考えたのか、どちらでもないにしろ見通しをもって「帰りの準備をする」選択をしていました。

このような姿は、自分たちが保育園の生活を作る上で大切な力だなと感じるのです。

昨日はわいわい組のはなのちゃんが、お当番活動が嬉しくてたまらない様子でした。登園から待ち望んでいて、公園からの帰り道は足取りが軽くて力強く、保育園につくと支度を済ませてデザートを配っていました!

 

成長展に向けて、一人一人の子どもの1年を振り返りながら今の姿を想像すると、成長や一人一人に自慢できる良いものを沢山持っている事に気付かされます。

ただ、保育園は社会です。善い事柄に目を向けてしまいがちですが、子どもであるので思ってもいなかった間違いもあります。時には、人を傷つけるような言葉や態度をとってしまうことがあります。小さい頃だからこそ、大切な時ですね。

子どもたちと色々な体験を通して、美しい物、素晴らしい出来事を増やしていきたいと思います!

1月25日 昼食

2021/01/25

親子丼

青梗菜のマヨ和え

しいたけのすまし汁

みかん

麦茶

下膳を始めました

2021/01/24

今週から昼食後の下膳を始めました。

最近は、自分の食べられる物・量が自分で分かるようになり、完食することが増えてきました!

おかわりぶんを完食すること(あとどれくらい食べられるか)はまだ難しい子もまだいますが、残菜がぐんと減りました。

今までは食べられなかったもの(特に野菜)も量を減らすことで、挑戦しようとする姿が見られ、以前に比べ食べられる野菜が増えた子がとても多いです。食べる量もここ最近でぐんと増えました。

私はしみじみ、「いっぱいちょっと」の選択方式は素晴らしいなと感じています。

野菜を全く食べないと、体のことも考えつい無理にでも食べさせがちですが、「食べてみよう」という気持ちを奪ってしまったり、もっと野菜が嫌になったり、かえって遠回りになってしまうように感じます。

園では苦手なものでも、少量はお皿にのせるようにしています。

お皿に少量のせ、楽しい食事の雰囲気の中でお友だちや大人が美味しそうに食べている姿を見たり、「食べなさい」ではなく、「食べれそうだったら食べてみてね」「ぺろっとおあじみしてごらん」などの声かけを続けることで、”食べてみたらおいしかった!” と食べられる野菜が増えていったように感じます。

子どもたちはどうしても「見た目」で判断しがちですが、「食べてみたら美味しかった!」という経験を引き出すことがすごく大切だと実感しています。

 

今週は面談、ありがとうございました。

ご家庭での様子と園の様子を共有でき、成長を喜び合えてとても嬉しかったです。

また何かあればいつでも担任までご相談下さい!

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