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2021年 3月

涙雨の卒園式

2021/03/21

この子らのどもまでも「まっすぐな心」がたまりません。その心との交流がもうすぐ終わるんだと思うと、だめでした。担任が私の目の前で卒園児の名前を呼ぶのですが、その声が震えるたびに、保育証書に書かれた名前を読み上げる私の声までもが震えてしまいました。人は思わぬ時に、自分の中に埋もれていた感情と出くわすものなんだと、改めて身をもってわかりました。そんなことはわかっていたし、気持ちを紛らわすように気をつけていたのに、それは不意にやってきて私を困らせます。それにしても、どうしてこの気持ちはこんなに込み上げてくるんでしょう。この切なさは、この子らが卒園していなくなることの寂しさもありますが、それに加えて、大人はなくしてもしまっている、まっすぐな心に打たれるからです。

誰にでも心を配り、ある状態をもっとよくするには「こうしたら?」と真剣に考えてくれるKくん。友達のことが好きで優しいから、きっとこう感じているにちながいないと話してくれるUくん。楽しそうなことに目がないから、どうやったらそれができるか知りたがる好奇心旺盛なSくん。優しい性格から生まれる優しい言葉と気遣いが、大人にも子どもたちにも魅力的なTくん。いろんなことをよく知ろうとする博識で自分の世界を持っていて、物事のナイーブな感覚を大切にしているTくん。なんでもやってみたいと挑戦して、いろんな工夫をすることを楽しめるTくん。愛嬌たっぷりの人懐っこい性格で体を動かすことと楽しい話が大好きなNくん。いろんなことを知ることが楽しいのでしっかりと考える力で自己主張できるNくん。体を動かして遊ぶことが大好きでものすごくピアノが上手いSさん。キラキラした世界とクスッと笑えるようなユーモアが大好きなYさん。この10人が卒園します。

この子らのことを誰もがよく知っており、とても大事にしている人だけが今日は集まることになりました。気心の知れた仲間だけで作り上げた空間になりました。来賓のいない卒園式は、私は初めてでしたが、実際に子育てをした者だけが集うのはいいものです。それぞれが今の「夢」を語ってくれました。その夢を叶えられるように、職員からは嵐の「カイト」を歌いました。Tくんのお父様、お祝いのお言葉、心に沁みました。ありがとうございました。私たちは何を大事に生きていったらいいのかを、教えてくれるのは子どもたちだなあと思います。子どもたちのまっすぐな心に接するたびに、大人の私たちは「もっと良かれ」を考え続けようと思います。

 

卒園式の「呼びかけ」について

2021/03/19

毎月1回の会計士との打ち合わせで、今年度の決算見通しを出しました。ちょうどその時間に、明後日に控えた卒園式の2回目の練習と、今年度最後のZOOMでの睡眠講座マムズサロンがありました。私は昼食を早く済ませて、池袋と浅草へ買い物へ出かけてきました。警戒宣言中とは全く思えない人出です。以前と違うのはみんなマスクをしていること。他は昔と変わりません。午後には職員の卒園式の最終打ち合わせ、夕方からは会場設営でした。

卒園式は初めてなので(昨年度は卒園児がいませんでした)式次第も、会場設営も装飾も、なんでも初めてです。卒園式は保育証書の授与の他に、「呼びかけ」という、卒園する子どもたちと、職員双方からの、それぞれの「思い」を抒情詩的に、まさしく「呼びかける」というものがあります。この表現形式は、人間の文化史の中で重要な地位を占めるものであり、言葉と音楽(歌)がセットになっているのが特徴です。どんな国や地域も、その地理と歴史の特徴を持って維持されてきました。太古の人間は神との交信(交流)が、その精神世界の中心だったので、その頃の人間の内面は、言葉と音楽が一体だったのだろうと、私は想像しています。今では言葉と音楽が別物のように思われていますが、源は一緒だったのだろうと感じます。現代では、人の「思い」は音楽の中の歌詞の方が、ダイレクトに人の心に響くのでしょう。

といったこともあって、お祝いには、それにふさわしい歌(歌詞)が選ばれるのですが、当園の場合はその年に国民に親しまれた曲の中から選びます。誰もが知っている、聞いたことがあるものを歌うことで、「ああ、あの時の卒園なんだな」と、その時代を思い出しやすくするためでもあります。その生伴奏は職員で行いますが、その最後の音合わせも今夜行いました。

コロナ禍での卒園式。多くの方々に集まっていただき、一緒に子どもたちの門出をお祝いしたいのに、それが制限されてしまうことが残念です。小学校やこども園、保育園の関係者、そして近隣の関係者の方には、その旨をお伝えすべく挨拶して回りました。卒園児の保護者の皆さんにも、ご協力をいただくことになりました。その代わり、ZOOMでのライブ中継をします(その案内は卒園児保護者の方へコドモンでお知らせしました)

日曜日は雨の予報です。傘と同時に、ハンカチもお忘れなく。

すいすい組との「お別れ会」

2021/03/18

このところ、目頭が熱くなってしまうことが多くて困ります。今日18日は年長の「すいすい組」との「お別れ会」が開かれました。3月末までの生活は、土曜日を除けば、今日からちょうど残り10日です。お別れ会には2歳以上が参加して、これまでの生活の楽しかったことを思い出し、プレゼントを交換しました。もうすぐ年長さんと一緒に遊べなくなるんだということを、子どもなりに、しかも1人ずつ違う思いを抱きながら、受けとめている姿に、職員は心の中で惜別の涙を流していました。

すいすいとの過去2年間の生活をスライドショーで振り返りました。一枚一枚の写真に、食い入るように見入るすいすいさんたち。そこに写っている自分や友達が映ると、その名まえを言い、その場面を思い出しては「あ、おいもほり楽しかった」とか、面白い顔や表情には笑い声が響き、「あはは、イェ〜イ!」などと、とっても楽しそうです。

一瞬一瞬の映像が子どもの中の記憶を呼び起こし、その再現される場面が、どうしてこんなに嬉しそうで、前のめりなんだろう? 確かなことは、この生き生きとした反応に、子どもたちの力強い生きる力を感じることです。それは何を意味するのでしょうか? 子どもたちは、一緒でなければ経験できなかった「楽しさ」を味わっています。「一緒にいたこと」が楽しかったのだろうと感じます。名前を呼びあい、楽しかったことを確認しているように、見入っているからです。

一方、昔の写真から最近の写真に近づいてくるにつれて、この2年間の時の流れを感じます。と同時に、最近のバス遠足の写真が最後です。その後の写真は? きっとそれを想像した時に、その後の写真を一緒に見ることはもうないのだということを察知したのでしょう。スライドショーが終わると、ある男の子は1人泣き出してしまいました。

その後、行事は楽しい出し物です。「これはどこでしょう?」と「これは誰でしょう?」の2種類のクイズです。手洗い場の蛇口の拡大写真でも、年長さんは当ててしまいました。どうしてわかったのかというと、丸いステンレスの表面に写っている掲示物が3階のどこそこの手洗い場のものだから、などと見抜いてしまいます。子どもたちの生きてきた舞台は、大人が想像する以上に、保育園の隅々にまで行き渡っていたことに気づかされました。

最後に、らんらん組からすいすい組へのプレゼント。小学校へいって使ってもらいたい「時間割」表です。枠の周りの絵はらんらんさんが描いた絵です。すいすいさんからのプレゼントは、歌「ありがとう」です。エルマーの冒険の劇中歌の替え歌です。

4歳児クラスのらんらんさんにとって、3歳児クラスのわいわいさんとして一緒に入園した、一つ上でしかない「お兄さん、お姉さん」だったのが、急に大きな歳の差を感じているのかもしれません。年長さんだけで過ごす時間も増えていったので、どんどん離れていってしまうような関係になっていく寂しさを感じているかもしれません。そこへのケアも大切な時期。どんどん前のめりになっていくすいすいさんと、なんとなく残されてしまうような感じに寂しさを感じている子もいるらんらんさん。

この揺れ動く気持ちの安全基地として、私たち大人は、不安定な子どもたちの気持ちを、しっかりと受け止めていくことが大切な時期でもあります。

3歳児の「見て見て」の意味

2021/03/17

3階の「パズルゾーン」で遊んでいるにこにこ組の子どもたちから「ねえ、見て見て」と朝よく言われます。小さな三角形のピースを並べて作るコマ型のパズルです。並べ方によって無限の組み合わせがあるので、綺麗な模様ができると、誰かにみて欲しくなるのでしょう。このパズルに限らず、塗り絵ができたり、パズルができたりすると、「見て見て」のリクエストがやってきます。

私は子どもたちから「みてみて」と言われたら、必ず応じるようにしています。この見てほしいという欲求は、広い意味での「認めてほしい」と言う承認欲求の一種です。承認欲求は人間のもつ、とても強い社会的欲求の一つです。子どもだけではなく、大人も持っています。しかも一生ついて回る相当強い欲求です。ある有名な哲学者は「人生とは承認欲求の闘争である」とさえ言いました。人生は他者から認めてもらうための競争であると言うのです。

承認欲求は、他の社会的欲求と大きく異なるのは、個人的な欲求を、社会的なものに位置付けていく欲求として特別な意味があるのです。例えば愛情や所属などの社会的欲求は、個人と個人の間や、家族の中で満たされていれば、それでもいいかもしれません。ところが承認欲求というのは、何かを認めてもらう欲求ですから、その何かには、いろんなものが入るのです。

子どもが持っているこの「みてほしい」と言う欲求は、個人の様々な欲求を社会的なものに広げる力を持っているものです。例えば男性と男性が結婚したとします。2人の間での愛情や所属が満たされているわけですが、これを社会が正式な夫婦であると「承認」されないと、その社会では生活しにくいと感じることもあります。なので今日のニュースのように裁判に訴えて社会が同性婚を認めてほしいと戦うことになるのです。

一方で、社会の方から見ると、多様性を承認する社会への変化になるので、これは現代社会の価値観に適したものになります。ダイバーシティはこれからの時代に必要は価値観だからです。そのように社会を変えていく力の源に、自分の何かを他者と共有して認めてもらいたいという欲求、承認欲求というものがあって、しかも小さい子どもが教えてもらわなくても、自ずと持っている社会的欲求なんだなと思います。

保育を受けたことを証します、の意味は?

2021/03/16

今日は卒園式の練習を初めてやってみました。子どもたちの練習ということもありますが、それよりも私たちの方が「ああしようか、こっちの方がいいかな」と試行錯誤の時間です。でも困ってはいません。できる範囲でできるだけのことをやるのは楽しいものです。できないことを願って悩むより、やりたことをやれるようにやるのが楽しいものです。(なんだが、言いたいことははっきりしているのに、日本語になっていない!)

卒園式のメインは「保育証書の授与」です。証書は既に出来上がっていますが、そこには卒園児の名前と生年月日、そして「あなたは本園にて◯年間保育を受けたことを証します」と書かれています。保育とは英語ではとても長い言葉です。Early Childhood Education and Careと言います。訳すと「乳幼児の教育と養護」です。保育は教育と養護からなることが、世界共通なのです。保育には「教育」が入っています。ですから、本当は「保育を受けたことを証します」を次のように言い換えることができます。「教育と養護を受けたことを証します」。

ちなみに養護というのは、「生命の保持」と「情緒の安定」からなります。さらについでに言うと、「情緒の安定」は「くつろいだ雰囲気の中でさまざまな欲求を満たすこと」で成し遂げられると定義されています。もっと付け加えると「さまざまな欲求」は生理的欲求と社会的欲求に別れ、社会的欲求には愛情、承認、所属、達成感、共感、愛着・・・など人との関係の中で満たされるようなものばかりです。

というような背景を抱えた「保育証書」ですから、大事な言葉なんです。その宣言を一人ひとり行います。このちょっぴり厳かなセレモニーをコアにしながら、呼びかけや歌で華やかな時間を演出したいと思います。どこにもない、世界にひとつしかない式にするつもりです。

みんなでお祝いしたいので、保育のない「休日」にします。全ての職員が参加できるからです。在園児の代表として年中組のお友達も参加するのですが、今年はコロナ対策のために諦めました。その代わり、皆さんに在園児の「似顔絵」を描いていただくようにお願いしました。これを会場に飾り、みんなが参加していることにします。

保護者の皆さん、心温まる素敵な似顔絵をお寄せいただき、本当にありがとうございました。これで式典の役者は揃いました。

 

オープン保育ならではのスムーズな移行保育

2021/03/15

今週から3月も後半になります。4月からの進級に向けて、張り切っている子どもたちですが、全てのクラスで4月から過ごす部屋での保育が本格化しています。たとえば1歳児クラスのぐんぐん組。4月からは2階での「にこにこ組」としての生活が始まるのですが、今日は朝のお集まりを1階で終えた後、「じゃあ、これから2階でおやつを食べよう!」と声をかけると、いそいそと楽しそうに2階へ移動しています。この写真はその時のおやつの時の様子です。2階ダイニングのテーブルに上手に座っています。

2歳児にこにこ組は、4月からは3階での「わいわい組」の生活になるので、これまでの8人がいつも一緒、という集団から、4歳のらんらん、5歳のすいすいのお友達とも一緒になります。今日15日の朝のお集まりでは、5つのグループの中に混ざり合って座っています。お兄さん、お姉さんに囲まれて、仲間入りを果たしたことが、なんだか誇らしげです。この写真はその時の様子です。わいらんすいの朝のお集まりは2階のダイニングを使っています。

こうやって、少しずつ「進級」に向かって、新しい仲間との関係、人間関係の広がりが生じています。その様子を見ていると、頼もしさを感じるほど、子どもたちは前向きです。全く未知のものなら、知らないが故の躊躇が起きるかもしれませんが、きっとすでに見慣れた「もの」や憧れていた「人」や知っている「空間」なのでしょう、戸惑いもなく、新しい生活スタイルを難なく受け入れていきます。

4月から小学生になるすいすい組の昼食は、小学校の給食と同じ時刻に、にこにこ組の食事の場所で食べます。年長さんは、今週の卒園式を意識して、お集まりをするとき「卒園児のみなさん」という声かけをすると、「あ、僕達のことだよ」と、さっと起立して、「挨拶をしましょう、はい、礼」というと、ちゃんと揃ってお辞儀をしたりしています。このような「きちんと」という感覚も、新鮮に受け止めてくれています。素敵な小学生になりそうです。

こんなにスムーズなのは、当園が基本的にオープン保育だからなのでしょう。担任はいても、どの先生もどの子のことも理解しており、子どもの方も担任だけではなく、全ての先生との関わりを持っています。「他対他」のオープンな人間関係は、移行保育もやりやすいのです。

東京は桜が開花

2021/03/14

今日3月14日(日)、気象庁は東京の桜の開花を宣言しました。靖国神社のソメイヨシノの票木林に5つ以上の花びらが咲いたら「開花」です。ニュースによると昨年と同じ日で、観測以来最も早い開花だそうです。春です。

 

気持ちを言葉でなぞってあげられるように・・・

2021/03/13

◆気持ちを言葉でなぞってあげられるように

最近の子どもたちの成長ぶりが、いろいろな場面で感じられて、また子どもに教えてもらうことも多くて、「頼もしいなあ」とか「すごいなあ」とか「こんなことまで!」とか、いろいろです。そんな成長に気づいている先生たちは、子どものちょっとした姿から見えてくる育ちや心の動きをいつも語り合っています。その一部がブログで紹介されているわけですが、それを読んでいると、子ども同士の関わりの中で育ちあう瞬間を目撃できる仕事が保育士なのかもしれないと思えてきます。型入れ遊びで「もういっかい」という言葉で感じ合っている、相手の気持ちへの想像力とか、身体測定を再現して、ペンギンの身長を図っているレゴについて「ペンギンさんが“おおきくなったかな”してるとこ」と表現できてしまう力とか、ほんとに面白いし愉快です。そして私たちは、子どもの姿から、その心の動きを「言葉でなぞってあげられるように」と思えるような子どもへの迫りかた(よく見守ること)への必要感を覚えるのでしょう。この感覚が大人に増えるなら、子どもたちはもっと幸せになることでしょう。

◆緊急事態宣言の解除の日が卒園式

姉妹園で卒園式がありました。明日もあります。来週21日はいよいよ千代田の番になります。昨日12日にすいすい組の保護者の方へ「卒園式のお知らせ」を配りました。今年は何かと節目の日に行事が重なります。21日は再延長されている緊急事態宣言の最終日にあたります。政府首脳は「よっぽどのことがない限り解除」の方針だそうですが、やはりリバウンドと変異種の広がりが気になります。「なぞりたい気持ちの相手」は、コロナで毎日なくなっていく方とその家族の方々です。もちろん震災や原発事故もそうです。そのためには、事実をよく知る必要があるのですが、遠いです。

◆俯仰天地に愧じず

(以下は妄想)それにしても毎日、これだけの死者の数が報道されているのに、もし700円ぐらいのイベルメクチンを飲んでいたら、この数がもっと減っていたのだろうか。海外の実態をルポするジャーナリストもいないのだろうか。そのためにクラウドファンディングでもなんでも、皆保険制度の外側に「薬の自主ルートをつくる会」でも立ち上げて、早く治療薬を届けるルートを作るような出光佐三は現れないのだろうか。北里大学の研究グループが厚労省の認可を得るために必要な費用が4億とかで足りないのなら、300億とか使ってでも第三層の治験データを集められないのかしらん。変異株蔓延の前に承認できないのでしょうか。

◆「薬の神じゃない」のチョン・ヨン(程勇)はいないだろうか

(これは願望)昨年の中国映画に「薬の神じゃない」という、格安のジェネリック医薬品をインドから輸入する話を思い出しました。密輸なので違法になるけれども白血病の患者を救う話だった。似たような英雄談を日本人は好むはずなのに。そもそも儲からないから、どの製薬会社も治験をやろうとしないのなら、ここでこそ「医療原則」に立ち返って、市場価値原理から使用価値原理への転換を「福祉」の観点から乗り越えてもらいたい。有事ではなく、福祉の観点から市場原理に任せないでほしい。死んでいく国民を前にして、効く薬があるかもしれないのに、使えないという仕組みは「どうにかしているとしか思えない」という感覚を、学校の道徳ではぜひ教えてもらいたいものです。

 

すいすい組の「お別れ遠足」

2021/03/12

今日11日は、卒園する子どもたちに楽しい思い出になってもたいたくて、バス遠足先としては2大人気スポットだった「しながわ水族館」へ午前中、「木場公園」へ午後出かけるという、ちょっと贅沢な「お別れ遠足」の日となりました。「午後から雨かも」という予報だった天気も味方してくれました。ただ、緊急事態宣言の再延長のため、都立公園である木場公園での「飲食」が禁止されたために、お弁当は保育園まで戻ってきて屋上で食べました。これもまた、楽しい思い出になりました。

◆しながわ水族館

午前中の「しながわ水族館」は、建物の周囲の改修工事が終わって、綺麗に完成していました。9時30分に出発して高速道路を使って25分で到着すると、水族館の玄関まで歩く途中で「記念写真」を撮り、すいすい10人と先生3人で、館内を順路に沿って見てまわりました。

「これまでとなんか違うなあ、これも成長したからかな?」と感じたのは、どの子もパンフレットを欲しがるので、各自に渡すと、各自がそれを手にしながら、「今はだから次はここ」と、館内地図を使いこなしながら、率先して移動しようとします。どの場所の複数回きているので、イルカの「ミントいるかな?」などと話しています。

この水族館、何度来ても、また新しい発見があるので、きっと子どもにとってもそうなのでしょう。いろいろな川や海にすむ生き物は実に多様で、魚やえびやたこやクラゲなどが、大小の水槽で暮らしています。子どもたちは次から次へと、わくわくして珍しいものとの出会いに「あ!ほら、こっちきて!」と、生き生きしています。

イルカ、アザラシ、ペンギンが3大人気です。それぞれ別の「館」になっていて、子どもたちも、比較的長い時間、そこにとどまっていました。あいにく、餌やりやジャンプなどのショーのプログラムはありませんでしたが、オットセイがボール芸の練習をしていたり、イルカの親子がすく目の前まで寄ってきたりと、迫力満点でした。

文字が読める子どもが多いので、掲示物を見て名前をみて「デンキウナギだ、どうやったら電気出すの?」と知りたくなったり、「ねえ、見て、クラカケアザラシだって!」と私と同じ名前のアザラシを発見する子もいました。こういうところへ来ると、どの子も知りたがり屋さんや、教えたがり屋さんになるみたいで、幼児の知識欲に感心します。

予定よりも早く周り終わったので、「お腹減った、早くお弁当食べたい」という要望に合わせて、11時20分には水族館を後にしてお昼前には園に戻りました。おうちの人に作ってもらったお弁当は、どの子もとても楽しみにしていて、自分の家から持ってきたシートを敷いて屋上で揃って食べました。お弁当におうちの方との愛情での繋がりを強く感じました。

◆木場公園

午後は1時に保育園を出て1時半には公園につきました。早咲きの「大寒桜」が満開でした。白梅、紅梅も綺麗な花をつけていました。原っぱが広がる「ふれあい広場」で、思い思いの遊びをして過ごしました。かけっこ、縄跳び、サッカー、木登り、鬼ごっこ、宝探し、転がしドッチボール・・・かなりの運動量でも、午睡もしないで1日を元気に過ごせるようになっていることがよくわかりました。

都立公園はマスク着用が条件だったので、子どももそうしましたが、運動中はマスクなしで遊びました。売店では食べ物も普通に売っており、食事をしている家族グループもあったりと、電話で事前に確認したルールは、公園の中に入れば実際はそれほど厳しくありません。これの方が実態にあっていると感じました。

「また根っこ鬼ごっこしよう」と言われました。「そうだね、また来ようね」と行って公園を3時15分に後にしました。でも木場公園にすいすいと来るのは、今日が最後です。「今日で最後だよ」とは言えませんでした。

この2年間の間に、木場公園は蝶々を追いかけ、大型遊具を楽しみ、かくれんぼのような保育参観の舞台となり、秋の木の実を集めた思い出の場所です。卒園する子どもたちにとっても、広さ、匂い、笑い、身体感覚として体に染み込んでいることでしょう。

この子らの幼少期を生きた思い出の場所の1つとして、ここを訪れるたびに、楽しかったことを思い出してくれることを願っています。

 

3階での生活が始まったにこにこ組 決まりについて

2021/03/11

2歳児クラスのにこにこ組が、3階で遊び始めました。この時期の「移行保育」で大切にしていることがあります。それは決まりを守ることを子どもなりに「納得する」ことです。私たちの生活には、いろいろな決まりがあります。そうした決まりに子どもが気づくとき、「あ、それは守らなくちゃ」と子どもなりに納得するような気づき方ができると理想的です。納得して決まりやルールを守ろうと思うようになるには、どうするといいのでしょうか。

決まりやルールには、「物」に関すること「事」に関すること、そして「人」に関するものがあります。

物に関するルールや決まりには、「ものを大切にする」「ものを壊さない」などの決まりがあります。それができるようになるには、その物への愛着から「なくなるとイヤだな」「壊れると可哀想」という気持ちから「大事にする」につながるといいでしょう。おもちゃや人形、絵本などを大事に扱うようになってほしいと大人は思います。

そのためには、まず「ものは壊れる」という事実を子どもが知ることが必要なのです。実は子どもはそこがわからないことが多いのです。大事にしよう、とか大切に扱おう、と伝えても「大事に」や「大切に」という言葉は抽象的すぎて、子どもにはわかりません。子どもは興味があると、それを触りますが、結構、手荒に扱います。本人はそれが「乱暴」であるとは思っていません。大好きはぬいぐるみを振りまわし、ちぎれてしまうこともあります。

ですから、壊れては困るようなものを子どもに与えておいて、壊されてしまって子どもを怒るようなことはしないようにしましょう。子どもは壊してしまうものだとまず思っておきましょう。

それでもある時期から、大事にする、大切にするという意味がわかるようになっていくのですが、その秘訣は子どもに「物の立場になってもらう」のです。ものへのケアです。子どもが物へ心を寄せるようなことができる中から、大切にしようという気持ちが育っていくでしょう。

もう1つの「事」への決まりやルールですが、これの秘訣は、それを守ることで「いいことがある」という期待が持てるといいでしょう。こんな話を満3歳ぐらいの子どもたちは理解できます。

「みんなは乗り物が好きだよね。自動車に乗るとね、いろんなところへ自由にいくことができるんだよ。いいでしょう。でもね、1つ守らないといけないことがあるんだよ。なんだと思う? それはね、信号を守るってことなんだ。信号を守らないと乗り物がぶつかって怪我をしてしまうんだ。みんな怪我するのはイヤでしょう。だから、車で自由にいろんなところにいくことができるように、信号を守るんだよ」

決まりを守ると、いいことがある。そういう体験をこの時期にはたくさんできるといいでしょう。決まりを守れば、手を洗って気持ち良くなる、食事の配膳をしてもらえる、外へ遊びへいくことができる、いろいろなルールは「楽しいこと」「嬉しいこと」につながっているんだ、と感じることです。

そして「人」への決まりは、相手が喜ぶということです。ルールを守ると相手が嬉しい感じ、それが自分も嬉しいと感じることができるといいのです。相手が困ることは自分もイヤだなという気持ちを育てることです。自分が良ければ他人のことはどうでもいいという心で止まってしまうと、決まりは生きたものになりません。

たとえば心がこもらない言葉は、ルールから心を奪ってしまいます。「ごめんね」を形だけで「言わせる」と、それを言えさえすれば、許してもらえる「魔法の言葉」になってしまいます。何か相手に悪いことをしたとします。条件反射的に「ごめん」と言います。それでは言われた方は、「いいよ」と許してあげたくなりません。するとまた「ごめんね」と言います。何度もごめんを繰り返すかもしれません。でも心のこもっていない「ごめん」は、「いいよ」になりにくいのです。

口ですぐに「ごめん」と言えることよりも「ああ、悪かったなあ」と思える心が先です。それがあれば、謝られた方も「いいよ」と許せるようになるのです。ここに心を通わせるという大切なものがあります。それがない社会的なルールは形だけのものになってしまうのです。

社会的な規範が成り立つのは、このように物、事、人との関係の中に、ケアリングと呼ばれる「心を配ること」ができる心の育ちが必要なのです。それがない社会の決まりは、形骸化したものでしかないでしょう。

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